2021.1.31 小金井西ノ台教会 公現後第4主日礼拝
信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答112
十戒について(10)
問112 (司式者)
「第九戒(『隣人に関して偽証してはならない』)は、何を言い表しているか。」
答え (会衆)
「わたしが、誰に対しても、虚偽の証言をせず、
誰に対しても、その証言を翻さず、
誰に対しても、誹謗中傷する者とならず、
誰に対しても、審問なしに軽率に弾劾に加担せず、
むしろ反対に、さまざまな嘘偽りと裏切りはすべて、悪魔の固有な働きとして、
激しい神の怒りを拠り所にして、避けて斥け、
法廷においても、またその他のあらゆる振る舞いにおいても、真実を愛し、
正直に語りかつ告白し、
わたしの力に応じて、さらにわたしの隣人の栄誉と安寧をいよいよ守り、かつ助けることです。」
2021.1.31 小金井西ノ台教会 公現後第4主日礼拝
ハイデルベルク信仰問答講解説教55 (問答112)
説教「偽証してはならない」
聖書 申命記5章17~21節
エフェソの信徒への手紙4章17~24節
前回は、第八戒「盗んではならない」について、近代現代の世界は「主観化の原理」に基づいて、大きな「盗み」の中にあるのではないか、というお話を致しました。「神の創造の恵み」或いは「神の賜物」という大きな枠の中でこそ、「隣人」がいて、「私たち」もいます。神の創造のみわざの中で、「あなた」もいれば「彼」も「彼女」もいて、「あれやこれ」もあります。「わたし」は、そうした中の一部にすぎません。このような、神・人間・世界という大きな秩序の枠の中で、其々の「関わり」が与えられ、其々の働きが、創造の大きな営みを支えているのであります。
しかし、一部に過ぎない人間が、自己中心となって、世界を「私物化」する、または道具として「自己目的化」することが、「自我欲求」の展開として、引き起こされるとき、そこには違法合法の違いを超えて、大きな盗み合いが生じることになります。それによって、本来の「創造の秩序」すなわち「神の義」が、深刻に傷つけられ病んでしまい、愛は失われ、自己中心的に略奪が始まるのです。そうして争奪戦ともいえる社会や国家の間で、しかもグローバルな形での、世界戦略的な争奪時代の中にあって、どのように私たちは、隣人への愛を実践すればよいのでしょうか。ましてや「自己否定媒介」による他者愛の実現はどうなってしまうのでしょうか。大きな壁、有り体にそしてシリアスに言えば、絶望の淵に立つ思いです。信仰は空想もしくは幻想なのか、という深刻な現実に立ち尽くすことになります。果たして、事実として、私たちはここで希望に溢れることができるのか、それとも絶望するのか、或いは、偽善と空想に生きるか、という選択が迫られるのです。
本日の説教の主題は「嘘をつくな」です。第九の戒めは「隣人に関して偽証してはならない」ですが、詰まる所、「嘘をつくな」ということです。嘘をつかないで生きる人生を、どうすれば、正しく整え直すことができるのでしょうか。言い換えれば、虚偽に生きず、真実に生きる、ということになります。嘘をつかずに、真実に生きるとは、どういうことなのでしょうか。しかも世界の大きな「盗み」の中で、どうすれば、真実に嘘をつかずに、盗みもすることなく、私たちは生きることができるのでしょうか。
そこで私たちはハイデルベルク信仰問答にその示唆を求めたいと思います。問答112は、こう宣言告白します。「第九戒(『隣人に関して偽証してはならない』)は、何を言い表しているか。」と問い、答えとしては「わたしが、誰に対しても、虚偽の証言をせず、誰に対しても、その証言を翻さず、誰に対しても、誹謗中傷する者とならず、誰に対しても、審問なしに軽率に弾劾に加担せず、むしろ反対に、悪魔の固有な働きとして、激しい神の怒りを拠り所にして、避けて斥け、法廷においても、またその他のあらゆる振る舞いにおいても、真実を愛し、正直に語りかつ告白し、わたしの力に応じて、さらにわたしの隣人の栄誉と安寧をいよいよ守り、かつ助けることです。」と、非常に明解に答えています。「十戒」全体は、まさに禁止命令によって、貫かれていますが、この問答の文章表現も「誰に対しても~しない」という否定構文が特徴です。
内容に入りますと、「嘘をつく、偽証する」という言動を考える場合に、ただ単に国家社会の法廷での偽証だけではなく、「誹謗中傷」などの悪口もまた「偽りの証言」と見なされており、言うなれば、法的偽証から倫理的偽証へと、その意味の視野は広げられています。その真意は「さまざまな嘘偽りと裏切りはすべて、悪魔の固有な働き」であると断定しているところによく現われているように思われます。そこでまず、ここで言う「悪魔の固有な働き」とは、どのような働きなのでしょうか。
創世記3章に蛇が登場します。「3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」とありますように、悪魔(サタン)と解釈される蛇が登場します。神さまが決してしてはいけない、と禁じた命令を、人類と原型となるアダムとエバ、特に女エバが神の掟を破った瞬間です。この時に、悪魔である蛇が、非常に巧妙に、まさに「悪魔の固有な働き」をもって、エバを誘惑する場面です。聖書は、悪魔である蛇を「最も賢い」と表現しても、決して「最も悪い」とは言いません。善悪が決定するのは、人間自身による自由な決断においてです。それは、人間の決断の瞬間に、全と悪が生まれるようでもあります。次に、蛇は「蛇は女に言った」とありますように、エバに「ことば」をもって語りかけます。神と人間の根源的な関係性は「ことば」によって結ばれており、所謂「契約」(約束)における一体性は「ことば」によって担保されます。その「ことば」を、どのように用いるか、という一点に、この誘惑事件はかかっています。ハイデルベルク信仰問答も同じです。「虚偽の証言をせず・・・その証言を翻さず」と告白する通りです。
ところが、悪魔は「ことば」を巧みに用いながら、エバを誘惑し始めます。「どの木からも食べていけない」と神は言われたのかと尋ねます。エバは「園の中央に生えている木の果実」だけはいけないと言った、と答えます。この問答により、エバの心は「園の中央の木の果実」に向けられます。蛇はことばを用いて、中央の果実に、エバの心を誘導したのです。そしてついにトドメを刺します。3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」こうして、蛇の虚偽虚言に誘導され、エバの心の中には、新しい意識が呼び起こされます。その新しい意識とは、死ぬことはない、という虚構虚偽の世界が生まれ、さらには虚偽に生きる目が開け、神のように善悪を知る、という今まで考えたこともなかった偽りの自己世界が広がるのです。そしてそこでは、神を主として主なる神のみことばに従う存在から、自分の虚構と虚偽に基づいた判断を、行動決定の基準とするように、新しい意識はエバを動かし、誘導するのです。エバはこの虚偽におる意識誘導によって次第に支配されてゆきます。その中心が「3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」と聖書は言い表しています。意味深長な表現です。中央の木の果実が、恰も唆しているように描写されていますが、エバの意識の中で、明らかに、被造物であり人であり、神との約束関係の中に命を得ている人間であるのに、自分は今や「神のように善悪を知るものとなる」と思い込み、神でないものが神になる幻想と虚偽の世界に堕ちてしまうのです。そう誘惑したのは確かに蛇ですが、その幻想と虚偽を選択したのは人間でした。「おいしそう」「目に引き付ける」「賢くなる」という言葉を明示するように、決定的な点は、神の創造秩序の原理を捨てて、言い換えれば、神に従い万物に仕える他者愛から、主観化の原理に基づく自我欲求によって貫かれる意識へと、180度大転換してしまった所にあります。しかもその転換は巧みなことばによる虚偽によって誘惑され誘導されたのです。まさに「嘘をつく」「嘘に騙される」そしてその両者の中心に、自我欲求を通して実現してしまうのです。その結果、罪が生じ、悪が露呈します。悪魔の固有な働き、すなわち巧みに嘘をつくことで、心は虚偽の世界に堕ち光を失い、暗闇の中での狂乱を余儀なくされるのです。
言うまでもなく、ここで最も大切なことは、問答112で「むしろ反対に、悪魔の固有な働きとして、激しい神の怒りを拠り所にして、避けて斥け、法廷においても、またその他のあらゆる振る舞いにおいても、真実を愛し、正直に語りかつ告白する」ということに尽きるのではないでしょうか。人が「人格」の根底から救われるには、まず「虚偽のことば」から解放されて、「真実なことば」に生きることです。確かに地上の言葉、人間が造り出した言語は、決して完全でも万能でもありません。したがって、言葉による齟齬や誤解を完全に避けることは不可能です。ましてや多種多様な言語と文化の中で、人々は語り告白するのですから、相互において「真実」となる言葉を見出すためには、賢明な努力と忍耐が求められます。そしてまた「人間のことば」の限界性もよく分かるのではないでしょうか。
しかしその真実のことばを、「神のことば」から、学ぶことができます。人々が神のことばに耳を傾け、神のことばの真理そのものである主イエス・キリストに心を向ける中で、語り合い告白し合う「ことば」です。私たちの間に、仲保者キリストが現臨しておられ、その現臨する「キリストのことば」を共に分かち合う中で、たどたどしいながらも、キリストからいただいた「神のことば」によって、お互い間に「真理」が光照らされて、互いに真実を語り真実を尽くし合う、という方向性がうまれて来るのではないでしょうか。悪魔は、ことばを通して、エバに神から離反した所での「自我」を目覚めさせ、自我のための「欲望」として「自我欲求」に光を当てました。すると、エバの心は、自我の欲望に支配される自我欲求奴隷となりました。そして殺しや盗みが始まります。反対に、キリストのことばを通して、私たちの心は「罪」「赦し」「愛」「命」そして「神」へと向けられるのです。虚偽のことばを捨てて、キリストのことばによって、語るのであります。キリスト者が語る語り方、それは、キリストのことばによって、隣人に語りかける「愛のことば」であり「赦しのことば」であります。
教会内での生活には、「この世の言葉」は無用です。教会の中に、この世の言葉が入り込み、教会の人々が、この世の言葉を語り出せば、結局は「蛇の言葉」のように、虚偽の誘惑となって、人々の心を自我欲求を中心にした語り合いへと変質するのではないでしょうか。したがって、教会生活の中で語り合うべき言葉とは、「キリストのことば」だけでよいはずです。それが通じないとすれば、そこには信仰が生きていないから、ではないかと思います。其々の間に、キリストが現臨して生きて働き、キリストのことばが語られていないから、ではないかと思います。絶えず鮮明にキリストのことばが語られているところでは、必ず虚偽の言葉は廃れ、新しい愛と命の言葉が勝利するはずです。本当の愛と希望に生きようとするのであれば、「愛のことば」すなわち「キリストのことば」が語り尽くされねばなりません。
しかし同時にまた、私たちの語る現実のことばは、愛のことばでもなければ、真実なことばでもなく、「偽りのことば」となります。なぜなら私たちは、先ほどの蛇のように「、どうしても自我欲求」と主「観化の原理」に基づいてことばを語る「罪の本性」に支配されているからです。であれば、仮にわたしたちが何らかの形で、真実なことばを語ることができるとすれば、「罪を告白する」ことばであり、「罪の赦しを願い求める」ことばから語り始めなければならない、のではないでしょうか。私たちの語るべき究極のことばとは、「贖罪のことば」であります。贖罪の言葉を語ることで、私たちは初めて自分自身の真実なことばをもつのであります。私たちは罪と虚偽によって支配されており、そのままでは死と滅びに至るばかりですが、キリストの十字架によって罪を認め、罪を告白し、キリストの贖罪によって罪赦され、感謝と喜びのことばを語り、キリストの復活によって新しい希望と未来のことばを語るのであります。だからこそ、問答112は、「わたしの力に応じて、さらにわたしの隣人の栄誉と安寧をいよいよ守り、かつ助ける」という新しい覚悟と誇りに達するのではないかと思います。隣人愛は、人類にとって大きな壁です。不可能で絶望的と思えるほど大きな壁です。しかし信仰問答が立っている立場の、決定的な特徴は、その他と異なる分岐点は、虚偽のことばを語る空しさ悲しさを本当の意味で深く知っている、だから、もはや虚言に生きることはできない、という鮮明な自覚にあります。自我欲求の自我哲学でもなく、他者を自己展開の道具とする主観化の原理でもなく、そうではなく、やはり自分に可能な限り、力を尽くして、神を愛し隣人を愛する道をゆく、という自己の存在を尽くした決心であり、方向転換であります。
では、その「方向転換の道」を生きるには、どうすればよいのか。問答は遠慮せずに、正直率直に「わたしの力に応じて」と告白しています。この「わたしの力に応じて」という言葉は、とても大事な言葉だと、わたくしは考えています。原典は「わたしの力に即して」、「わたしの力に従って」、「わたしの力に沿って」などと訳すことができます。大事な点は、「わたしの力」とは何を意味するか、であります。「わたし」とはだれか、そして「わたしの力」とは何か、その実態を深く見つめ、かつまた「わたしの力」の本質とは何であり、どのように「わたしの力」は成り立っているのか、と徹底して脚下照顧し、「わたしの力」の真相を吟味しなければなりません。私たちは、いったい何をもって、また何処まで、どのように「わたしの力」としているのでしょうか。「わたし」の本当の姿とは何か、と言い換えてもよいでありましょう。
前に、「キリスト者」(Christ, Christian, Christianos「所有格から生じたキリストのもの」の意)ということを学びました。そうです。ここでしっかりと立つべき所は、私たちは「キリストのもの」とされたキリスト者である、という自覚です。この「わたしの力」とは、キリストのものとされたキリスト者としての自覚からのみ、生じる力であります。つまり、神の御子であるイエス・キリストの受肉を通して、その十字架と復活によって、そして昇天において実現されている新しい「わたしの力」であります。そのキリストを身にまとい、キリストを着た「わたしの力」です。キリストのみざわを通して、初めてわたしのうちに働き実現する力です。わたしのうちに注がれる神の恵みと力であります。神さまの恵みを知れば知るほど、その恵みの力は増します。反対に、余り神を信頼せずに、自分の力に頼ろうとすれば、その力は失われ、結局は破綻と偽善に陥るのではないでしょうか。わたしのうちに本当に現してくださる恵みの力をどう認め受け入れるのか、そこでこの力は大きく変わって来るのではないでしょうか。自分の中で、自分がしようとするのではなく、主がなさろうとする恵みの力を数えるのであります。わたしのうちに力強く働いて、神がきっと造り変えてくださる神の創造の力であり、愛と恵みの力です。神がわたしの罪をお赦しくださったのであれば、わたしの中の神は、きっと同じように隣人を愛し、隣人の罪もお赦しになるはずです。わたしのうちに宿る神は、わたしを復活させてくださるのであれば、同じ神の力は、隣人をも復活させてくださるのではないでしょうか。この力を恵みとして、私たちは、わたしのうちにもっているのです。前に、わたしは、聖霊の宿る、神の宮(神殿)である、ということを問答で学びました。わたしの力とは何か、わたしの力の中に、どんな力を見て、どんな力に生かされているか、いよいよ深く知るのであります。そしてついには、わたしの中に働く、わたしのうちに宿る聖霊の力、キリストの愛、そして神の創造の力を知るのであります。そこから、初めて「わたしの力に応じて、さらにわたしの隣人の栄誉と安寧をいよいよ守り、かつ助ける」と告白する、決して「絶望的な不可能」ではない、本当の意味での「希望と力」が、わたしのうちに見えて来るのではないでしょうか。ここに、キリストの受肉の身体である教会の肢体としての、私たちの本当の姿と本質が、まさに、私たちの国籍は「天」にある、とする世にある教会とキリスト者の意味が見えて来るのではないでしょうか。言い換えますと、神の愛と憐れみを知り、その中に生まれ生かされる「わたし」であり、神の愛を認め、神の支えを信頼できるようななった、信仰に生きる「わたしの力」であります。そして何よりも、新しい命の創造のもとで造り変えられている「わたし」である、ということです。
エフェソの信徒への手紙は、「4:21 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。4:22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、4:23 心の底から新たにされて、4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」と教えています。
最後に、問答112で「むしろ反対に、さまざまな嘘偽りと裏切りはすべて、悪魔の固有な働きとして、
激しい神の怒りを拠り所にして、避けて斥ける」と告白している所に注目したいと思います。問答はただ単に「悪魔の固有な働きとして、避けて斥ける」と言わずに、「激しい神の怒りを拠り所にして」とわざわざ、悪魔の働きを回避して斥ける根拠を示しています。前に何度か「神の呪いを回避する」ということについてお話いたしましたが、同じ意味です。神の呪い、言い換えれば、私たちの罪を弾劾告発する神の法廷に、私たちひとりひとりは立たされている、という深刻な自覚です。その神の法廷で求められることは、ありったけの人格的尊厳と自由と誠実を尽くして、自分の罪を告白することです。けれども神の法廷はそれだけでは終わらないのです。そこに神の御子であるキリストが、仲保者として、神の前にお立ちくださるのです。ご自身の肉を裂き血を流して、神の御前で、わたしの罪を完全に償われるのです。そして神の法廷では、古き人の死と新しき人の誕生が宣告されて、新しい神の義に生まれ変えられるのです。その結果、神の法廷で神の激しい怒りは、悪魔の働きへと向かい、神の法廷において悪魔の働きによって生じた罪や悪、死や滅びに対して、キリストの憐れみのゆえに、私たちは徹底的に勝利するのです。「神の怒りを根拠として」とは、そういうことではないでしょうか。だからこそ、私たちは、悪魔の働きを回避し斥けることができる、のではないかと思います。
このように問答の解き明かしを受けますと、「大きな壁」が違って見えて来るのではないでしょうか。「大きな壁」とは、熊野先生の総括によれば、近代現代の「主観化の原理」であり「自我哲学」の支配でありました。言い換えれば、世界全体をまた世界の歴史すべてを私物化する「盗み」であり、アダムとエバ依頼の「罪」であります。この罪に勝利して愛と義を回復する、という大きな壁は、キリストの受肉の福音の光のもとでは、果たしてどのよう見えるのでしょうか。むしろ誇りをもって乗り越えゆくべき壁ではないでしょうか。むしろ、二度と盗みをしない、私物化はしない、罪と滅びの支配に逆戻りはしない、という新しい人間としての決断が生まれるのではないかと思います。同じ死ぬのであれば、絶望のもとで死ぬのではない、希望に溢れる中で死ぬのです。たとえ途中で倒れるのであれば、呪いと怨念の中で倒れるのではなくて、愛と赦しのために倒れるのであります。どんなに非力な私たちでも、まず一番最初に、この希望と誇りに生きることはできるのではないでしょうか。