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2022年7月24日「正しい者は一人もいない」 磯部理一郎 牧師

 

  1. 7. 24 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第8主日礼拝

ローマの信徒への手紙講解説教6

説教 「正しい者は一人もいない」

聖書 詩編53編1~7節

ローマの信徒への手紙3章9~20節

 

 

聖書

3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も罪の下にあるのです。

3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない一人もいない。3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。3:12 皆迷いだれもかれも役に立たない者となった善を行う者はいないただの一人もいない。3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。3:14 口は、呪いと苦味で満ち、3:15 足は血を流すのに速く、3:16 その道には破壊と悲惨がある。3:17 彼らは平和の道を知らない。3:18 彼らの目には神への畏れがない。」

3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。3:20 なぜなら、律法を実行することによってはだれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 

 

説教

はじめに.「わたしたちには優れた点があるのでしょうか」(9節)

ユダヤ人には、神の啓示の言葉として「律法」と「割礼」とが与えられました。その時点では、確かに彼らは神と特別な関係にあり神の前に特権を得た、と言えましょう。異邦人も、創造時において「良心」という心に記された律法が与えられました。その時点で、異邦人でさえも同じように神を知りうる、と言えましょう。したがって、その意味では確かに「わたしたちには優れた点がある」と言えるかもしれません。ただし、ユダヤ人と異邦人は、一層厳密な意味で、全く同じように神を知ることが出来ると言えるのか、と言えば、やはり「律法」や「割礼」を通して、神を知るユダヤ人と全く同じレベルで、律法を持たない異邦人も、「良心」を通して、神の啓示を理解することができるのでしょうか。やはり厳密な意味で、神の啓示の言葉を知るには、律法による外に、神を知る術はない、と言わざるを得ません。したがってそのような比較においても、割礼と律法を与えられたという点で、明らかに、ユダヤ人は神を知るうえで最も神の近くおり優れている、と考えられます。

神をどこまで正しく認識できるかという点で、さらに論じますと、アダムとエバが、神に背き「罪」を犯して「楽園」を失ってしまった段階で、全人類は本性的に堕落しており、正しく神を認識して神に向き合うことは出来ない状態になっていたと考えられます。聖書は、創世記3章で人間の「堕罪」を記すと、直ちに4章で「兄弟殺し」を証言します。アダムとエバの最初の子カインは、神の前に「自分の誇り」を押し通して、その自我欲求を制御できず、弟アベルを殺害してしまいました。こうした聖書の「堕罪」とそれによる「兄弟殺人」の記述に従えば、明らかに、人類は、根源的に神の御心を写し神の言葉を聞き分けるべき創造時の「良心」を完全な形では残存することは出来なかったようです。聖書は、最初から一貫して、人間の堕罪と殺人の記事を通して、人間は罪により神による創造の恵みと秩序を本性的に破壊され喪失していたことを警告しています。それは、宗教改革者たちが主張するように、人類全体の「全的堕落」を前提に、堕罪について聖書を解釈すれば、やはり必ずしもユダヤ人と異邦人における神の啓示は同一レベルであったか、疑問が残ります。同時にまた、だからと言って、割礼と律法が与えられたからと言って、果たして堕落し創造の恵みと秩序を喪失した人間は、本性的に自らの力で、「神に対する背き」から自己を完全に解放することができるのだろうか、という疑問も残ります。

そこで、前にも触れましたが、ここで触れられる「異邦人」とは、全的堕落によって破綻した罪の現実を認めて受け入れた上で、キリストの福音によって「信仰」に導かれて、その賜物として新しい良心と新しい人間性が与えられて、信仰の戦いの内にある人々、すなわち異邦人キリスト者ではないか、と解釈することも出来そうです。異邦人は、完全破綻を前提とする「罪人」として、律法によらず、ただキリストの恵みにより信仰の光のもとで、新しい信仰に基づく良心の戦いが語られているのではないか、とも言えるかも知れません。

ここで、パウロが「優れている点は何か」と問うていますが、その根本問題は、神を正しく知るという点で、人間を本性的に破壊してしまった「罪」を認められるかどうか、その一点に尽きます。罪によって堕落し、神を神とせず自分を神に取替えて拝み仕えるという倒錯錯誤において、いったいどこに「優れた点」を認めることができるのだろうか、という問いです。異邦人の場合も「良心」が心の律法として与えられたと言っても、神の啓示を明瞭に理解することは出来ず、その意味で神を知ることは出来ませんので、罪を認めざるを得ない、ということになるのは当然です。やはり異邦人は神を正しく知らず、それゆえに偶像崇拝を犯し神に背く「罪人」であります。ただユダヤ人は、異邦人と違って、確かに「割礼と律法」が特別に与えられ、そればかりか、モーセやダビデなど数々の指導者たちや、エリヤを初めとする数多の預言者たちが、ユダヤの歴史を貫くように次々と登場し神の啓示の言葉を語り、預言者たちによって神は絶えず御心を告げ知らせて来ました。ですからユダヤの全歴史は「神の啓示」によって貫かれており、ユダヤ共同体はいつも「神の啓示」によって神の民として神の恩恵に満たされていた、と言えましょう。それは旧約聖書全体が口を揃えて明らかに証しする通りであります。だからこそ、ユダヤの民の責任は非常に重大とも言えましょう。本日のみことばの主題は、まさに神が徹底的に神の啓示のみことばをもって語り、神の御心を啓示したのですが、この神の御心とその啓示である律法や預言に対して、ユダヤの民はどのように向き合い対峙してきたのでしょうか。民の根本的な在り方が、深く根源から問われることになります。

パウロは、既に、この問題は長い間ずっと預言されており、鋭く預言者によって指摘されていたはずではないか、と改めて旧約聖書の言葉を引用して問います。それが詩編14編や53編のみことばであります。新共同訳聖書の巻末括弧付き(44頁)に「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」が掲載されています。そのローマの信徒への手紙3章10―12節の項をご覧いただきますと、詩14編1-3節(=詩53編2-4節)とあります。これは詩編14編1~3節または詩編53編2~4節から引用されたテキストであることを示唆しています。ご参考にしていただけるとよいと思います。また「LXX」と明記される引用個所は、明らかにギリシャ語の七十人訳聖書から引用されたテキストであることを示しています。本題に戻りまして、つまり古くからユダヤの人々は皆、神が民の「罪」を厳しく問題にしておれることを知っていたはずなのです。詩編14編1節以下で「14:1 指揮者によって。ダビデの詩。神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする善を行う者はいない。14:2 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。14:3 だれもかれも背き去った皆ともに汚れている善を行う者はいないひとりもいない。」とあり、詩編53編2節以下では「53:2 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。53:3 神は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。53:4 だれもかれも背き去った皆ともに汚れている善を行う者はいないひとりもいない。」とあります。ですから、旧約聖書全体を根本から学び、その本質をよく知っていたパウロは「2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」と語ったのでありましょう。いわば、これがパウロの旧約神学です。ここに「神を知らぬ者」とありますが、さらに真意を汲んで言えば、神を神として崇めず認めないで、神を蔑ろにし神を捨てて、自分や自分の思いを神のように取替えて偶像化して仕え、ついに自己を神のように絶対化する者のことです。律法を知る人であれば、すなわち律法に表された神の御心を知り、信仰心をもって旧約聖書を日々朗読し、懺悔と憐れみを乞い求める祈りをもって暮らすユダヤ人であれば、旧約聖書全体が常に罪を悔い改めることを求めており、神の憐れみと赦しを乞い求め、救い主を待ち望むということは、誰も知り得る所でありました。それなのに、ユダヤ人たちは、律法と割礼を自分の誇る道具に取替え、権力支配のための格好の材料としたのです。神が求められた最も単純で最も重要なことは「自分の罪を認める」ことであり、「悔い改め」にありました。そういう意味で、パウロは律法を悔い改めに導く「養育係」と呼んで、旧約聖書全体の意義と役割を位置づけたのではないでしょうか。律法全体が悔い改めに導くための、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐の啓示であり、神の憐れみのあらわれとなっていたのです。それを無視して侮り、自我欲求に取替えて偶像化し神を冒瀆したのです。律法と割礼という神の恵み、ユダヤ人の罪ゆえに、重大かつ深刻な仇となってしまったと言えましょう。

 

1.「彼らの目には神への畏れがない」(18節)

「神を知る」と申しましても、いろいろな「知り方」があります。単なる知識としてただ文字の上で「神」というものを知っているということもあれば、神を生きて現存するご人格として自分のうちに認め、いわば相互の深い人格的な交わりとその生きた体験を通して神を知るということもあります。或いは、自分自身の全存在と生死がかかった所に神は厳然とおられる、言い換えれば、自分の命そのものの「生殺与奪」の審判者としておられる神を恐れる(畏れる)という知り方もあります。聖書は「彼らの目には神への畏れがない」(3章18節)と指摘します。神の「畏れ(fo,boj fo,boj)」という字は、元々は恐れ慄く恐怖することを意味します。そこから、さらに畏怖、畏敬、崇敬を意味するようになったようです。人間や生物が最も恐れることは「死滅」して自己を失うことです。存在と生死に関わる「危機」の中で、死の恐怖の感情が生まれ、同時に奇跡的に生命は与えられたという驚きをもって生を体験する、そこから畏怖する感情が生じます。つまり生死を司る根源に、超越の「神」がおられ働かれているという認識が「神の畏れ」であります。しかし人間は、生死の根源に神がおられ、神の憐れみと恵みが命に働いていることを無視して、反対に「自分」が神となって、自分の生きることも死ぬことも自己決定可能であるかのように思い上がり、生死は自己完結できると勘違いし、その結果、命と存在の支配と根拠を神から自己に取替え転倒倒錯させてしまいました。「人工中絶」は人間の自由な基本的権利であるという問題が、アメリカで再燃し国民を二分する大問題となっています。まさに胎内に生きる「胎児の人権」をどう考えるか、果たしてその命を奪う権利を容認できるのか、という命の尊厳をめぐる議論であります。近代現代の人権思想の根幹には、明らかに「人間中心の自我欲求」を大前提とする社会思想が貫かれているのではないか、という風に見えることもあります。確かに自分の命の管理者、主権者は自分自身であることは否定できませんが、ここで深く問われる課題は、そこに自らの命の中に何らかの「神」の恵みや力を認めることができるか、或いは、人間はあくまでも「神を畏れる」信仰の秩序のもとで、初めて自分の命と存在の管理と判断に関わることが可能となる、ということになるのではないでしょうか。人間の尊厳はいつも「神をおそれる」ことと背中合わせにあるのです。

創世記3章で女は「3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない触れてもいけない死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と蛇に答えます。神は万物の造り主として被造物全体を無から創造されました。したがって命と存在の根拠を神の創造の憐れみに依存している被造物が、どうして造り主である神に取って代わることができるでしょうか。しかし「蛇の誘惑」に心を奪われた人間は大きな勘違いを犯します。自分の欲望欲求の誘惑に負けて、自分も神のように命と存在の支配者なれる、生殺与奪の審判者になれる、自分はそれほど善悪を決する知恵があるはずだ、と考え違いをしてしまったのです。存在と命における神の主権を根本から掠め取って食べ、自分のものにしてしまう、それは、「被造物」である人間にとっては、いかにも不可能で愚かな考えである、と神が警告し語った言葉でした。「神を畏れる」ことの基本は、先ず唯一神だけが万物の造り主であり、したがって神のみが万物の存在と命の生殺与奪の審判者であることを、絶えず「おそれ」をもって知り、覚え、褒め讃えることにあります。警告注意の言葉として語られた「死んではいけないから」という神の言葉は、実に意味深い表現であって、表面的には「死んではいけない」と死の警告を言い表していますが、その奥にある真意は、神に背き神の言葉を無視して、造り主から賦与された「創造の恩恵」を失う、という重大な創造主と被造物との決定的な関係性を教えているように思われます。みことばにおける約束を破る、即ち神に背くことの問題の大きさは、ただ背くというのではなくて、命と存在に根源的に深く関わる神の創造的恩恵そのものを斥けることであり、命と存在の根拠と根源を直ちに失う楽園喪失を余儀なくされ、したがって死んで滅びることになりますよ、という致命的な警告のように聞こえます。ここには、明らかに、永遠無限の絶対者であり創造主である神と、有限であり滅びの危機を背負う被造物である人間と、したがって創造主の恵みに与らなければ生きることも存在することも出来ない被造物との間にある、絶対的「隔絶」と本質における決定的「相違」が、明らかに宣言され警告されています。ところが、蛇は女を誘惑して「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると目が開け神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言って唆します。、蛇は巧みな誘惑の言葉により、女の良心から「神をおそれる」意識を奪い去り、その造り主と被造物との間にある絶対的に隔絶した「障壁」を否定し、本質的な神と人とを識別する障壁を破壊し、神と人とを混同させてしまうのです。本当は、ただ「神」だけが神なのでなく、実は「あなた」も神になれるのだ、と言って唆したのです。すると、女は「わたしも神になれるのか」と思い、「神」から離れ、「神」とは別に、「自己」を神に祀り上げてしまいました。先ほどの詩編の引用で言えば、「神への畏れがない」とは、まさに人に命と存在の与えた創造主と、存在と生死を神に依存する被造物と、その間にある本質的に違いや決定的な依存関係を、人間の側から一方的に破棄して神から離反したのです。つまり人は、創造主なる神の恩恵において生き存在している、という根源的な関係性を根本から廃棄してしまったのです。それが堕罪であり楽園喪失であります。この命と存在の基本原理である神に対する関係を罪によって放棄し破壊してしまった人間は、神でない自己を神のよう取替えて限定的には生きることができても、結局は根源的に死に滅びに堕ちるばかりです。そして人類史全体が現代にあっても未だに何一つ変わっていないのです。カラスがクジャクの羽をつけるように、人類はいつまで神にはなれないカラスを演じ続けるのでしょうか。このように、既に旧約聖書の冒頭が示す通り、また詩18節で引用された詩編が証する通り、創造の最初から、人類は罪に堕落して、神の創造の恩恵を放棄してしまったことは明らかなようです。こう見ますと、10節に戻りまして、パウロが説くように「正しい者はいない。一人もいない」(10節)ということが、段々とはっきりして来るのではないでしょうか。「3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。3:14 口は、呪いと苦味で満ち、3:15 足は血を流すのに速く、3:16 その道には破壊と悲惨がある。3:17 彼らは平和の道を知らない。3:18 彼らの目には神への畏れがない。」という詩編の言葉は、現代史を生きる人類にもそのまま当て嵌まる深刻な課題でもあります。

 

2. 「すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになる」(19節)

こうして9節で「ユダヤ人もギリシア人も罪の下にある」と断じたパウロは、ついに律法の担う役割について決定的な結論を述べます。「3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と結論づけました。簡単に言えば、全人類は皆、最初から、律法に啓示された神の御心を行なうことは出来ないので、それゆえ神にからその責任と課題が問われ、誰一人として弁解も言い訳もする余地はなく、結局、怒りの審判を受けざるを得ないのです。この19節を、リビングバイブルは「神様のおきてを守る責任があるのに、守らず、こうした悪事にふけっているからです。 彼らのうち一人として申し開きのできる者はいません。 事実、全世界が全能の神様の前に沈黙して立ち有罪の宣告を受けているのです。」と訳しています。とても分かり易い、意味のはっきりとした訳となっています。

このパウロの結論をめぐり、先ず注意したい点は「すべての人の口がふさがれて」という言い方です。そのあとでも「全世界が神の裁きに服する」と言っています。さらに言えば「だれ一人神の前で義とされない」とまで言い切っています。「すべての人」「全世界」そして「だれ一人」と言って、パウロは人類全体を完全否定します。否、人類のみならず「全世界が神の裁きに服する(u`po,dikoj ge,nhtai pa/j o` ko,smoj tw/| qew/|)」と言い、被造物全体をも含めて完全否定します。欽定訳は、“all the world may become guilty before God” 即ち「全世界は神の前に有罪となる」と訳しています。つまり人類万物皆全てが、神のみ前で有罪であると断罪します。何もかも、神に対して、神を知り神を畏れるという点では、弁解の余地は全くないということになります。

パウロは、どうしてこれほどまでに全世界を完全否定するに至ったのでしょうか。それは、もう少し聖書の先を読みながら詳しく述べますが、余りにも「神の福音」が絶大であることを知ったからではないかと思います。本当の意味で「神」の大きさを知ったからではないか、と思います。別な言い方をすれば、それほど「神の福音」における恵みには、分け隔てや偏りがなく、まことに公正と公平に徹底しており、完全に万物を満たしてしまっていることが分かったから、でありましょう。神の福音には、差別や偏りがなく、完全に全ての存在に対して平等であり完全であり、開かれているからです。あなたに対しても、わたしに対しても、どんな人にも、どんなものにも、「神の福音」は完全に開かれており、すべてを完全無限に満たして余りある絶大な恵であることに気付いたのであります。キリストの十字架の死と復活は、それほど大きな創造的な爆発力を持っているのです。「神の力」それも神のダイナマイトのような爆発力で世界宇宙を吹き飛ばしてしまうかのように、万物の隅々に神の新しい創造と命の力を浸透させてしまったことを知ったからです。いわば、律法を完全実行して神の義に至るという観点から言えば、人類は、堕罪ゆえに、死と滅びの中に閉じ込められたまま死と滅びの運命を辿るばかりであります。自らの力によって自己を解放することも出来ず破れ果て絶望の中で、自分自身においても死と滅びの転落を辿りつつ、その後に待っている決定的な運命は、神のみ前で有罪の宣告を受けて神の完全否定を余儀なくされるばかりであります。しかし反対に、キリストの福音の恵みにただ信仰によって与りいただく、という「恵み」の観点から言えば、神の御子が十字架の死に至るまでご自身の内にわたしたちを丸ごと徹底的に背負い、どんな罪であろうと人類の罪を完全に償い、しかも神への従順を貫き通して神の義に勝利してくださいました。神の義は「御子の十字架における恵み」として与えられ、御子の十字架の死による従順と贖罪の恵みにより、万物は神の義という完全肯定に包まれ新たな祝福を与えられ、「復活」という新しい創造の秩序のもとで「永遠の命」によって新生したのであります。十字架の死における贖罪の力は無限であり、罪の大小の違いや人種は元より身分や学歴など一切合切の全てを超えて、一切関係なしに、万物を贖い包む爆発的な力であり、万物を完全に創造して回復する神の創造の恵みであります。そういう贖罪の恵みの大きさから言えば、罪の大小の差別区別を超えてしまっているのです。皆罪人であるが、しかし同時に皆罪赦された義人となる、ということになります。

しかし案外このキリストの福音の大きさを、わたしたちはまだ十分に知らないのではないでしょうか。人間はどんな人も、罪という神の審判のもとでは皆平等であり、神の前で有罪の宣告を受け完全に否定されています。しかしわたしたち人間の気持ちから言えば、どうしても「自分」を中心に考えたいのです。自分を言いたいのです。神を仰ぎ見る垂直的な態度ではなく、人間同士の比較に基づいて物事を見ようとすれば、罪にも大きい小さいの違いがある、或いは救いの信仰にも、大小の違いがある、と誰もが思うのです。それは、神に対して罪を犯している、という罪の決定的な意味がまだ十分に分からないからであります。時には、あの人は神に裁かれたのだ、と言って、自分が神に認められたかのように思い込むことすらあります。自分が審判者のようになっていることを自覚しないまま、他者を神が審判したかのように思うのです。しかし本当は、神に対して罪人であり、有罪宣告を受けている点では、自分も他者も全く同じはずです。したがって当然ながら、神から罪を赦されたという救いの恵みもまた正しく理解できないのです。すべては人間の中だけでしか見えていないからです。自分はあそこまでは酷くはないぞ、あれは論外だなどと言いたくなるのが人情ですが、人間は皆だれもが、自分の世界の中に閉じこもり自分だけを特別扱いにしたいのです。少しは自分を認めて欲しい、自分にも言い分や事情がある、それは違う、と思うのです。しかしそれはあくまでも人間同士の話であって、神に対する根源的な罪と堕落の話とは全く異質であり、神に対して罪赦されて新たに生きるという神の恵みの話では全くないことです。神に対することと人間同士のことでは、質でも量でも、全く違う話であります。先ほど創世記3章を紹介したように、神の創造の恩恵を放棄してしまった人間の堕罪によって、その創造の恵みの放棄と破壊は、神のみ前では、人間だけに止まらず、被造物全体にまで及び世界を巻き込んでしまいました。まさに神に対して、被造物全体を巻き込んですべてを破壊し汚してしまった、それが自分の本質なのだ、ということがよく分からないのです。神に対するおそれを知らないとは、そういうことであります。それは同時に、神に対して永遠の命をもって新たに生きるという新しい創造的な人間性の可能性も、その絶大な恵みの力もまた思いつかないのではないでしょうか。全地全能の創造主である神が、完全絶対の愛と憐れみを尽くして創造した世界であり、被造物世界であります。その神の無限の恩恵の秩序を放棄し破壊したのです。これは、人間一人一人の個人差をどうこう言い分けるようなレベルの問題ではないのです。同じように、神の福音の前には、救いの大きい小さいは全くなく、神の御子による十字架の救いは永遠完全であります。

ではなぜ神は、それなのに、敢えてユダヤ人に文字の律法を与え、異邦人には心を律法を与えたのでしょうか。改めて律法の役割に議論が戻ります。「それは、すべての人の口がふさがれて全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。」とパウロは述べてその真相を明らかにします。文字や心の律法が与えられた意味を整理しますと、第一に、神の背きの事実に対しては全く弁解の余地なく、したがって有罪の宣告を受けていることを認めることです。つまり「神の前に有罪宣告を受ける」のために、神の律法は民を断罪する審判者として働いている、ということになります。第二は、創造の恩恵を放棄して楽園を失った人類は、その堕落ゆえに律法に啓示された神の御心を実行することができないので、自分の力では問題解決ができず、破綻して絶望し、自分の「破れ」を知り認めるようになるための道程として働いています。第三に、律法を行えず、有罪宣告を受けることで、初めて人類は心のうちに「神」に対する「罪の自覚」が生じるのです。つまり「罪の自覚」に導くために律法は与えられた、ということになります。言い換えれば、自己中心の心を捨てて、神に対して心を開き神の啓示の言葉を待つ準備が与えられるのです。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです(dia. ga.r no,mou evpi,gnwsij a`marti,aj)。」と記されていますが、この罪の「自覚(evpi,gnwsij evpi,gnwsij)」という字は、「厳密で正確な認識」を意味します。動詞では「しかと見届ける、識別する、知り尽くす、深く洞察する、承認する」という意味です。つまり「罪の自覚」とは、厳密で正確な罪の認識に基づいて神に対する罪を承認することを意味します。新共同訳と口語訳は「罪の自覚」と訳し、新改訳は「罪の意識」と訳しています。重要なのは、「罪の自覚」とは、神に対してどのような罪を犯しているか、正確かつ厳密に認識し、神に対する自分の罪を承認して受け入れるのでなければならない、という点です。この神に対する正確かつ厳密な自分の罪の承認に導くことこそ、まさに文字と心の律法の担う役割であったのではないでしょうか。そしてこの厳密かつ正確な罪の認識の根幹を中心から担う自覚は、自分の力に依り頼むことの放棄であり、自分を特別扱いしてほしいという自我欲求の断念であり、その空しさ無意味さの承認であります。しかしこれは同時にまた、余りある神の福音の大きさ豊かさ、神の恵みとはどのようなものか、その本質を知り、本当の意味で神を神として認めほめたたえる道となります。全くこの世のもの、人間的なものは一切通用しない世界である、ということです。極論すれば、神の義を得るという点では、自己の全てに破綻し絶望する罪の自覚であり、そして自己中心から神の恵み目が開くことで獲得される新しい認識の出発点であり、その承認是認であります。律法を通しては、人は神に対する罪を厳格厳正に認識し承認し、御子の十字架の死と復活においては、本当の神の恵みを「恵み」として正しく認識して受け入れ、そして神を本当の意味で神と崇める出発点となります。大事なのは、神の福音を福音とする、神の恵みを恵みとする原点が、罪の承認というこの完全な自己破綻を受け入れて承認する罪の自覚にあり、救いは人間のうちにはなく、ただ神の恵みによることを知るのです。罪の自覚は、キリストの十字架における死を知れば知るほど、一層はっきりと、罪は厳密に正しく認識され自覚されるようになります。反対に、いつまでも自分を認めて欲しいと拘泥すればするほど、恵みを知る原点と場を失うことになります。ですから、神が有罪を宣告するのも、それによって罪の自覚が生じるのも、根本は、神の恵みを恵みとして受け入れる道をわたくしたちの心のうちに開いてくださるためであります。どこかまだ自分を認めて欲しい、どこかまだ自分の見どころがあるのではないか、自信や自分の誇りが残存すれば、それは堕落した人間の世界に堕ちたまま、しかも神なき人間世界の中で彷徨い続けるのであり、神の福音を恵みとして見上げる原点には至らないからです。「信仰」に至らず、人間だけの世界にとどまる、ということになります。

 

3.「聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」(1章2~3節)

「神のおそれを知る」ということには、恐怖と畏敬という二重の意味があることはお話した通りです。一方で、律法を実行するという観点から言えば、人類の神に対する背きの罪に有罪宣告し全人類に審判を下し完全否定する「怒り」の神として恐怖を覚えます。そこには、底なしの死と滅びの恐怖が拡がります。しかし他方で、神の御子が十字架の死に至るまで、ご自身の全身全霊において全人類を丸ごと背負い、神への従順を尽くし全人類の罪を償い、その肉体の復活において全人類に永遠の命を齎します。そこには、完全無限なる「罪の赦し」と爆発的な創造回復の力が漲り溢れます。それはまさに神を畏怖畏敬する畏れであります。パウロは冒頭の自己紹介で、「1:2 この福音は神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」と告げています。改めて読み返してみますと、明らかに、律法の担う役割は「聖書の中で預言者を通して約束されたもの」であり、「御子に関するもの」を啓示する働きを担っていたと言えましょう。ある意味で、人類史やユダヤ人にとっては、とても長い旅路であったと言えるでありましょう。人類はその歴史を通じて常にわが内なる「良心」と格闘しては破れ、未だに問題解決に至ってはいないのです。ユダヤ人とて律法や割礼を与えられながら、やはり律法に破れ、結局はそこに啓示された神の御心を生きることは出来ずにいます。神は、長い間、ご自身を否定し自我を偶像化し拝み仕えてきた人類の「罪の自覚」を寛容をもって忍耐し、求め待ち続けておられたのではないでしょうか。そうした人類が罪との長い格闘と破れを繰り返す中で、神は「キリストの時」を準備されたのではないでしょうか。そしてついに今や、律法とは別に、キリストの十字架と復活において、無限に働く爆発的な創造の力によって、死者が甦るという新しい創造の力を現わすのであります。

 

2022年7月17日「神の言葉を委ねられた者の責務」 磯部理一郎 牧師

 

2022. 7.17 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第7主日

ローマの信徒への手紙講解説教5

説教 「神の言葉を委ねられた者の責務」

聖書 詩編116編1~9節

ローマの信徒への手紙3章1~8節

 

 

聖書

3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。3:8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。

 

 

説教

はじめに. 「神は天から怒りを現されます」(1章18節)

パウロは「1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。1:20 世界が造られたときから目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせずかえってむなしい思いにふけり心が鈍く暗くなったからです。1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、1:23 滅びることのない神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(1章18~23節)と言って、人類の全ての倒錯錯誤を告発し、神の怒りが現されていることを告知しました。神の怒りは、同じように、ユダヤ人にもギリシャ人にも、そしてわたしたちのようなアジアの日本人に対しても、現わされています。文字の律法を持つユダヤ人も、或いは、心の律法を持つ異邦人に対しても、神は真理に従って正しくお裁きになるのです。

特にわたしども日本人には、神の怒りや神の裁きが現されている、と言われても、余りピンと来ない話のようです。余り厳密に、神を知る、ということを、特に神の啓示ということを正しく考え直すことのなかった土壌ですから、ある意味で仕方ないことかも知れません。神のことばを聞いて、そこから、強い緊張や危機を感じることは出来ないようです。その一番の原因は、偶像宗教や偶像文化の中に余りにもとっぷりと漬かり過ぎてしまって、自然のものを神々として偶像化して拝み、偶像礼拝の生活は日常生活に浸透しており、日常的な偶像生活の中で、「神」という存在を根本から鋭く意識することは出来なくなっているのかも知れません。日常的に偶像化されたこの世の欲望欲求にとっぷり漬かって暮らす偶像生活の中で、いきなり「天」からしかも「神の怒り」が現されている、と言われても、よく分からないのです。所謂「偶像」を神々とする諸宗教は、神々や仏も皆すべて、この世の自然の営みの中に生起する宗教現象と捉えて来たからでありましょう。仏も神々もこの世や自然界から「隔絶した超自然」という概念を明確に持っていないせいかも知れません。その結果、自分たちや自然界を超える「超自然の世界」を余り厳密に意識して考えることはなかったのではないかと思います。自然の大きな力に神々を見出して来たと言えましょう。その結果、「超・自然」と言いましても、それは自然そのものの内に還元してしまうのではないでしょうか。どちらかと言えば、出来るだけ神々は、仏さまも含めて、日常生活の中に同化し混在するようにこの世の日常生活のすぐ近くに暮らしており、自分の欲求や願いは、そのまま、日常的に偶像の神々と化して肯定され、絶対化されてゆきます。いわば、世俗の中に生活する私たち自身と、聖なる超越の神との「区別」やその「異質性」を本当の意味で知らず認められない、と言うべきかも知れません。

カール・バルトの所謂「ローマ書講解」を読みますと、この「天」と地、「永遠」と時間、「彼岸」と此岸という質的に異なる二世界が強調され、神の絶対的な「超・自然性」が、非常に強く印象づけられます。そしてこの天と地の関係について、その本質的異なる関係を強調する基本概念は、創造主なる神と被造物なる自然という信仰です。したがってわたくしたち日本人の宗教意識を顧みますと、「障壁が障壁たることを承認されず、そのためにいつまでも障壁たることをやめない」(『カール・バルト著作集14』吉村義夫訳, 1974, 67頁)ということになりそうです。いわば、万物の創造主である絶対的な神と、被造物である相対的な世界との間には、決して超えることの出来ない決定的な「障壁」があり、私たち人類は先ずその本質的な「障壁」を容認するよう訴えています。神の福音の啓示が、キリスト教というこの世の宗教の形をって、人間の思想や欲求の内に深く飲み込まれ支配されてしまい、いわば人間の欲望と支配の内に、人間の手で別の神を造り上げてしまい、キリスト教を人間中心のものに変えてしまい、その結果、人間を根源から打ち砕く絶対者なる神不在の道を選び続ける、その「危機」を痛烈に指摘します。ニーチェは「神は死んだ」と悲痛な叫びをあげましたが、「神は死んだ」のではなくて、「神を殺した」のだ、と言うべきでありましょう。近代精神による神は、啓示の神ではなく、人間の手で造られた理想と感情の中に閉じ込めてしまったキリストに取替えられたのです。その結果は、誠に悲惨でありました。キリスト教国同士が大量殺戮を繰り返す世界大戦に突入してしまいました。そして21世紀の今も、その道は変わらないようです。それどころか、戦争の最終的抑止兵器と見なされていた核兵器は、今まさに世界規模で地球を破壊壊滅させてしまう可能性の危機を迎えています。超越の神の怒りと裁きの危機の前に瀕して、人間が打ち砕かれて悔い改め、謙遜に神の啓示の言葉を改めて聴き入れ、絶対者なる神を認めて受け入れることが期待されます。神の啓示に基づく福音を回復するのです。それには、人間中心の近代主義が打ち砕かれて、唯一真の絶対者である神の啓示の言葉に耳を傾け、謙遜に聞き従うのでなければなりません。バルトは「人間が自己自身の神となるなら、次には必ず偶像神が現れる。そして偶像神が崇められると、次には必ず人間がみずら真の神、すなわち神のこの創造物の創造者であると感じる。」(前掲書56頁)と断言します。今人類に一番求められること、それは限界を認め受け入れて、神の啓示である神のことばに謙遜に心を向けることでありましょう。

自己自身の欲求欲望をそのまま偶像化して拝みそれに仕える、という偶像生活を日常的に享受する日本社会の中にあっては、残念ながら、改めて神の怒りの前で審判の危機を迎え、打ち砕かれて目を覚まし、謙遜に神の言葉の真実を認め受け入れる、ということは容易なことではないように思われます。クリスチャンであると申しましても、またキリスト教会であると申しましても、宗教構造としての基本的な枠組みは、外見上は十字架が立つキリスト教に見せても本質は偶像教そのものにすぎない、という宗教構造の本質は余り変わらず、今も現実にそれはいくらでもあります。ある方が、かつて、日本のキリスト教のことを「日本教キリスト派」と呼んだことがありましたが、まさにそれが実態でありましょう。そうした現状を覚えますと、やはり、バルトの教えるように、徹底的に超越絶対の神とこの世との隔絶性、しかも神の造り主としての絶対的主権という視点を常に見つめ続けることは大きな意義があります。そこから、神のみことばを啓示の言葉として聞き直すのであります。

 

1.「彼らは神の言葉をゆだねられたのです」(2節)

パウロは、いよいよ福音の中核に触れます。福音の中核とは、言うまでもなく神の啓示の言葉です。「3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられた(evpisteu,qhsan ta. lo,gia tou/ qeou/))のです。3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。」(1~4節)と告げ、「神の言葉」について解き明かします。おそらくパウロは、割礼や律法には、神の啓示の言葉が託されており、神の啓示こそ律法と割礼の本質ではないか、と言いたいのではないかと思います。単に文字や外見上のしるしではなくて、その中心に、その本質には「神の御心」が託され言い表されている。しかも律法や割礼の中心に、神の福音の約束が啓示されていたのではないか、と説きます。先回りして言えば、御子の十字架と復活による救いのご計画が啓示され約束されていたのではなかったのか、というのです。それなのに、あなたはなぜ、神の真実とその救いの約束を証しせずに、自分の誇りを証しする道具に利用してしまうのですか、そのためにあなたをお選びなられた神に対して、それは余りにも不誠実なことではないか、と問うのです。特に意味深い点は、パウロが「神の言葉をゆだねられた」という表現に敢えて言い換えています。「神の言葉がゆだねられた」という言い方には、二重の深い意味があるように思われます。一つは、律法や割礼をその本質において「神の言葉」と言い換えたことです。人間の宗教儀礼ではなくで、神の啓示の言葉が、神の福音の約束がその中には誠実に生きて働いている、ということになります。もう一つは、その神の福音の約束の言葉に対して「ゆだねられた」と言い換えます。この「ゆだねられた(pisteu,w evpisteu,qhsan)」という字には、「信頼をもって与える、或いは信仰をもって受け入れる」という字が用いられています。敢えてその意味を丁寧に申しますと、「本人の主体的で自由な意志にしっかり基づいて、人格の限りを尽くして信頼し委ねて託す」という意味になります。前回、ドイツ語の「責務」(Aufgabe)という字は、「賜物や恵みの上にある、賜物や恵みに基づく」という字で出来ていることをお話しましたが、それは、恵みに与ること、その賜物自体の中に背負うべき責任責務が生じていることを意味します。神の言葉をゆだねられた、ということは、神との深い交わりと信頼において神の言葉を委ねられたのですから、神の信頼とその意図をよく汲み取って、自ら主体的な意志と確信をもって忠実かつ従順に、神の御心と福音のご計画を証しして伝える責務を負うことになります。したがって、本来、誠実に応えるべき課題(Aufgabe)を怠れば、それは神に対する不誠実であり、侮りであり、裏切りとなるのではないでしょうか。

それだけはありません。もっと重要なことは、しかもそこに託された課題が「神の言葉」であるということです。パウロは「律法」と「割礼」をその本質を担う性質から、わざわざ「神の言葉をゆだねられた」と言い換えて表現していました。律法や割礼が与えられたのは、神の言葉を委ねられたことに外ならないのです。神の言葉ですから、それは神の啓示そのものです。人類に対する神の御心が表明されており、神のご計画や約束のすべてが、そこに込められ、宣言されているはずです。したがって、神の言葉には、神の救いのご計画を約束して実現する神ご自身の啓示が言い表されています。神ご自身とそのご決断とご計画に対して、神の恵みとして感謝して受け入れ、信仰をもってその恵みに基づく奉仕と実践が求められます。だから「委ねる」即ち「信じて受け入れる」という字でパウロは言い表したのです。このように、誠実にそして従順に信仰をもって応答する中に、そうした神と民とが信仰と信頼で結ばれゆだねられるという実質こそが、神との特別な関係の基礎となるはずです。律法や預言とは、そのように、神がユダヤの民に委ねられた神の福音の約束でありました。ユダヤの民は、律法に込められた神の隠されたご計画とその御心を自らの肉体に刻まれた割礼をもって証しするよう求められたのです。しかし割礼や律法を換骨奪胎して、神のご計画である福音の約束を捨てて、自我欲求の偶像と取替え、ただ自分を誇るためだけの道具となし、神の名を自分の権力支配を担保する道具に悪用してしまいました。その事例は。既に前回ご紹介しましたように、政治的支配者のヘロデや宗教的支配者のカイアファに見られる通りであります。そしてわたくしたちのキリスト教会も、絶えず誘惑と堕落の中で、そうした危うさを禁じ得ません。

 

2.「不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」(3節)

悲しいかな、宗教としての現実は、人類の不誠実により、神の言葉は侮られ、汚されてしまったわけであります。しかしパウロは、さらに大事な点を明らかにします。それは「神の誠実」とその確かさであります。彼は3節で宣言します。「彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ(ti, ga.r* eiv hvpi,sthsa,n tinej)、その不誠実(h` avpisti,a auvtw/n)のせいで、神の誠実(th.n pi,stin tou/ qeou)が無にされるkatargh,sei)とでもいうのですか。3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても神は真実な方であるとすべきです。『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。』」と議論を進め、本筋である神の真実と神の言葉の意義に、改めて立ち戻ります。新共同訳は「不誠実」と訳し、口語訳や新改訳は「不真実」、リビングバイブルは「不忠実」と其々訳が異なりますが、原典は「彼らが信じなかった」(avpiste,w hvpi,sthsa,n)(とすれば、どるなるのか)というアオリスト形動詞や「不信仰」(avpisti,a avpisti,a)という名詞で書かれています。用語法から言えば、明らかに、先ほどの「神の言葉を委ねられた」という言葉と同じ字を用いることで、神が人間に福音を託したその信頼の確かさに対して、神に対する人間の不信仰とが対比されています。まさに「信頼と信仰」における決定的かつ絶対的な「障壁」が対照されています。神による不動不変の誠実と、人間による絶望的な裏切りと不誠実が強調されます。邦訳聖書はいろいろな用語で訳していますが、ここでの中心となる用語は「信仰」であり、一方で神においては「信実」(吉村義夫氏の訳語に倣って)が徹底して貫かれ、他方で人間において「信仰」は失われ、偽善化され、腐ってしまったのです。神は徹底して深く民を信頼し「信実」を貫くのですが、民は神に対して「信仰」を捨てて、神の名を語り自分を偶像化し、神を侮ったのです。先ほど申しましたように、神は神の啓示の言葉をユダヤ人に深い信頼をもって負託し委ねられたのですが、しかるに、ユダヤ人たちは神の信頼に背き、神を神とせず、自分の支配欲求を満たすために自分自身を自ら誇るべき偶像の神と取替え、割礼や律法を自分のための都合のよい道具に利用したのです。神の御心を汚す背きと偽りの中で、果たして、神の福音のご計画と約束はどうなるのでしょうか。それが、最も肝心なことで、パウロは、民の不信仰から、更に深く踏み込んで、今度は「神の信実」を問題にいたします。

神の言葉を担うべき役職にある人がどれほど不義不誠実であろうと、神の誠実や真実は決して不動不変であって「信実」を尽くすものであり、断じて「無」にされず、実を結ばずに根絶されてしまうものではない、とパウロは断言します。人を見る、人の「不誠実」を見るのではなく、神を見る、神の「信実」とその確かさを見るのです。確かに、教会の中に不誠実や不正が起こると、わたくしたちは心の底から、教会が汚され神や信仰が冒瀆され傷つけられた、と思い激しく憤ります。教会が汚され傷つけられ壊されてしまった、だからもう行く教会は失われてしまった、と思うのです。こうした切実な思いから、教会から離れて去った人々は数多くあります。もしかしたら教会に残る人よりも博rかに多くの人々が教会に絶望して去ったのではないか、とても深刻に想像します。実際の経験から言えば、その通りで、信仰生活とは、そうした期待外れの連続であり、それどころか、失望や絶望の繰り返しではないでしょうか。しかしパウロは反対に、それこそ、そこでこそ、いよいよ「神の真実」と「神の確かさ」に、心を向ける好機である、と教えるのです。皮肉な言い方に聞こえるかも知れませんが、教会に躓く所こそ、神に対する信仰の始まりと言えるかも知れないのです。私たちの心を信仰心に導く出発点は、地上の教会から天上の教会へと貫く、或いは天上から地上を貫通する神の真実に心の目を向け直す方向転換にあるからです。船乗りが航海中に北極星から目を離せば、航海不能となり難破してしまいます。ですから、教会生活や信仰生活という長い航海を進めるためには、その最も力となることとは、それは「神の確かさ」だけに信仰心を向けて続けて、神の真実から目を逸らさずに神に集中させることであります。反対に、人間やこの地上の教会に躓き続ける中に、天上の教会と神の誠実は明らかにその姿を顕すからであります。したがってパウロは「あらゆる人を偽り者(yeu,sthj yeu,sthj)としても、神を真実なもの(o` qeo.j avlhqh,j)とすべきである」(4節)と説いています。これは、大きな慰めであり励ましであります。

さらにパウロは「わたしたちの不義(h` avdiki,a h`mw/n)が神の義(qeou/ dikaiosu,nhn)を明らかにする(suni,sthmi suni,sthsin」と説きます。「明らかにする」という字は「一緒に並んで示す」という字です。人間の不義が、神の義と一緒に並んで、神の真実を指さし照らし出するように、一層「神の義」が明らかにされ示されてゆく、という意味です。間髪を入れずにパウロは「3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。」と言い切ります。何と力強い「義」の教えでしょうか。外側の教会事情だけを見て動揺するような不信仰は、吹き飛んでしまって、ここにはありません。本当の「神」の信仰に立ち直して、「神の確かさ」と向き合える場がここにあります。人間の不誠実に絶望する一方で、神の真実は、この世の支配の内にはなく、ましてや人間の手の内などに置かれることは絶対にないのです。神の真実は、確かであればあるほど、人間の側の不正と不義を貫き、かえって、対照的に相並ぶようにして、人の不義を暴き、神の真実を明らかに示します。しかもただ単に、理念として神の真実が現れるというのではなく、「怒りを発する神は正しく(中略)世をお裁きになる」という具体的な神の霊的な行為行動となって、その姿を露わに顕わされます。不義は全て徹底的に神の怒りのもとに裁きを受け罰を受けるのです。神は義なるお方ゆえに義を貫きますが、義を貫くのであれば、不義と不正に対しては、正しく真理に基づいて怒りを発することとなり、世をお裁きになるのです。正義と信仰に立つ者は、神の裁きの前に立ちつつ謙遜に悔い改めをもって、神の真実を信頼し、確信をもって全てをおゆだねすればよいのです。不義と不正の嵐の中でこそ、神の義と真実は、神が神であることの全てを尽くして、かえって発揮され、神は真実に基づいて正しく審判をくだされるでありましょう。前の2章7節でパウロは「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになる」とも断言しています。ここで一つ、誤解しないように、是非注意すべきことがあります。それは、不誠実と言うべき人たちと、誠実というべき人々を真二つに分けて余りにも単純化してしまう誤解です。実は、多くの場合、ひとりの人の心の内に、不誠実も誠実も同時に並んで立つことの方がふつうだからです。そこは、絶えず、古き人は死んで新しき人に新生する場となり、危機の場でもあり好機の場ともなります。自ら不誠実を認めて、神の赦しを乞い、み言葉を聞き分ける場となるのです。信仰の航海士が「北極星」を取り戻す場となるのです。

 

3.「罰を受けるのは当然です」(8節)

7、8節で、おかしな屁理屈を言って言い逃れをしようとする人々に対して、パウロは「罰を受けるのは当然です」とはっきり言って、断罪宣告します。福音には「神の義」が貫かれているがゆえに、神が怒りをもって正しく裁く「神の裁き」も同時に啓示されています。言い逃れは許されないのです。「3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。3:8 それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受ける(kri,ma kri,ma)のは当然です。」と断じます。つまり、結果として「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば」、それは即ち「善が生じるために悪をする」のであるから、よかったではないか、という話です。おかしな屁理屈であり言い逃れであります。「こういう者たちが罰を受ける(kri,ma kri,ma)のは当然です」と言って、パウロはきっぱりと審判を宣言します。

邦訳聖書の殆どが「罰を受ける」と訳していますが、新改訳聖書は「罪に定められる」と訳しています。原典の言葉から言えば、受けた審判の「内容結果」を意味する言葉ですが、その受けた審判の内容が、結果として罪と断定され、罰を受けることになります。このことは、大変重要な意味を持ちます。それは「律法」や「割礼」は、厳然として、神の啓示の言葉として、審判者となって生きて働き機能していることを示しているからです。彼ら、ユダヤ人たちが、というよりも、人類全体に対して、今も後も変わることなく、「律法」と「割礼」において刻印された神の啓示とそのみことばは、永遠に普遍不動であり、決して撤回されることはないからです。したがって律法を担う者はその律法を担ったその場が、そのまま裁きの法廷となるのではないでしょうか。ユダヤ人は文字の律法を担うその場で、異邦人は心の律法を担うその場において、神は裁き主として怒りをもって裁きを断行されるのです。神の言葉の告知を委ねられた者は、その自ら語る言葉において、神の法廷に立ち、神の真実に基づいて審問され審判を受けることになります。一方で罪と断罪され罰を受けます。他方で死の宣告を受け入れたその場で、神の福音の真実は貫かれ啓示せられ、十字架の福音を聞く場となります。選ばれて、みことばを担う者が、神の啓示とその真実を覆い隠してしまうのは、自我欲求に支配され、神の啓示を捨てて、自己追求に溺れるがゆえであります。それこそ、担うみことばそのものに基づいて、その虚偽と偽善は審判され、罰を受けることになります。なぜなら、神は、ご自身が真の神であることも、そしてその真実も正義も永遠不変であって、決して揺るぐことはないからです。わたくした人類の歴史そしてこの世界の歴史が、たとえどれほど神に背き、神に対立して逆らおうとも、神は世界の裁き主として永遠の義をもっていまし給います。文字と心の律法において、神は啓示者として自ら語り、また神は審判者として自ら裁きを断行されるのであります。

2022年7月10日「霊による内面の律法と割礼」 磯部理一郎 牧師

 

2022.7.10 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第5主日礼拝

ローマの信徒への手紙講解説教4

説教 「霊による内面の律法と割礼」

聖書 イザヤ書52章1~15節

ローマの信徒への手紙2章17~29節

 

 

聖書

2:17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り神を誇りとし、2:18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。2:19 -20また、律法の中に知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。

2:21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。2:22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。2:23 あなたは律法を誇りとしながら律法を破って神を侮っている。2:24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。

2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。2:27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく”霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

 

 

説教

はじめに「神は天から怒りを現わされます」(1章18節)

使徒パウロは「わたしは福音を恥としない」(ローマ1:16)と言って、なぜなら神の福音は信じる者すべてに救いをもたらす「神の力」(ローマ1:16)であるからだ、と証言します。しかも、神の福音には「神の義が啓示されている」(1:17)と告げ、「神は正しくお裁きになる」(2:2)お方として、「あなた」即ち私たちひとりひとりの前に現在形で立ち給い、神の義をお示しになります。そうであれば、正しい者にとっては、大きな励ましであり「喜びの福音」となります。しかし反対に、正しくない者にとっては、大きな恐怖となり「死の審判の危機」となります。不義と不信仰の者には、正しい裁きは福音どころか、最も恐るべき死と滅びの宣告となるのであります。預言者たちが証言した「メシアの到来」の出来事は、民にとって光と喜びであり、しかしその一方ではまた、闇であり死の審判も齎します。

「メシアの到来」の出来事をめぐり、聖書は多くの人々の思いや反応をさまざまな形で描いています。その典型は、この世の政治的権力者を象徴するヘロデです。メシア(キリスト)が生まれたと聞いたヘロデは、「学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた」(マタイ2:16)のです。ヘロデはユダヤの政治的権力者として君臨し続けるため、最も厄介な難問がメシア到来であり、メシアの抹殺を謀るのです。その結果、無差別に同世代の男児を皆ことごとく虐殺したのです。神の御子を殺すという明らかなそして確信的な神の背きです。しかし、主の天使が夢でヨセフに現れ「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(マタイ2:13)と告げたので、難を逃れました。同じように、ユダヤの宗教的権力者として頂点に立つ大祭司カイアファは、主イエスがメシアであると明らかになると、直ちに、最高法院で主イエスの殺害を決議します。ヨハネは「11:47祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』(中略)11:53 この日から彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」(ヨハネ11:47~53)と証言しています。ここで、非常に深刻で悩ましいことは、主イエスこそメシアであることが明らかになったので、つまり神の厳然たる啓示を前にして、宗教的権力者自身が、その権威の中枢である最高法院において、しかも明確な意図と意志に基づいて、神のメシアを計画的に殺す決議したことです。このように、ユダヤの政治的及び宗教的権力者たちは、明白な意図と確信のもとに、神を拒み、メシアを抹殺した、という事実を告げています。そして主イエスの十字架刑はその通りに世界史の事実として実行されたのです。若き日の律法主義者パウロ自身も、こうした陰謀の中枢に場を占めていたと考えられます。

パウロは「1:21 なぜなら、神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせずかえってむなしい思いにふけり心が鈍く暗くなったからです。1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、1:23 滅びることのない神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(1:21~22)と告げます。ユダヤ教を根幹から担うユダヤの中枢で、大祭司カイアファはその権威の最高法院で、イエス殺しを雄弁に論じ、殺害は確定しました。この言動は、まさに自分では知恵があると吹聴しながら、かえって愚かになり、滅びることのない神の栄光を滅び去る人間と取り替えたことを象徴的に物語っているのではないでしょうか。パウロ自身が実際に関わっていたことですから、これがユダヤ人の否定できない現実であり、弁解の余地はありません。したがって、当然ながら、神の義は「神の怒り」となって啓示されます。神の怒りの裁きに対して「弁解の余地はない」のであります。このように、福音は、信ずる信仰のもとでは「救い」を齎す「神の力」となりますが、反対に、不義と不信仰のもとでは、明らかに「神の怒り」となって啓示され、死と滅びの裁きを受けることになります。ただし、これは、ただユダヤ人だけのことではありません。パウロは、神は分け隔てなく正しくお裁きになる(2:2)お方ですから、「2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされる。」(2:13)と説いて、ユダヤ人の律法不履行の責任を問います。次いで、律法を持たないギリシャ人を初めとする異邦人に対しても、「律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」と述べて、異邦人もまた心の律法にしたがって正しく裁きを受ける、と告げるのであります。いずれにしても、神はすべての民を偏りも分け隔てなく正しくお裁きになるのであります。こうして、主イエス・キリストの十字架の死という神の福音において、神は全人類に神の力と神の義を啓示し、神の正しい審判を下すのであります。

 

1.「自分には教えない」(2章21節)

私たちには皆、誕生以来、心のうちにある良心であれ文字の律法であれ、神からの律法を実行しなければなりません。その実行による義をもってこそ、人は人であります。人類は皆すべて神に似せて造られた「神の像(Imago Dei)」であります。その創造の恵みによって、人は根源的に神を知ることができます。ただ、プロテスタント教会は、人は罪を犯し堕落した結果、創造の恵みとして受け継いだはずの「神の似像」とその効力は完全に失われたとする全的堕落を表明する立場もあります。人間に神を記憶し神を知る力がどの程度残存するか、その理解は教会の立場によって異なります。確かに神の創造において、人類には心に記された律法が「良心」として与えられており、それによって神をある程度は知ることができる、と考えられます。しかし全的堕落の立場からすれば、神を完全に忘れ喪失しているのですから、ギリシャ人を初めとする異邦人は、多少は神のようなものを想像し、善悪をある程度は判断できても、正しく神を知る力は最早ない、ということになります。このように、全的堕落ゆえに人には神を知る力は全くあり得ないと解釈すれば、ここでパウロが言うギリシャ人とは、今はキリスト者となって神を知ったギリシャ人を指すのではないか、という解釈もできそうです。アウグスティヌスやカール・バルトはそう解釈したようです。

罪に堕落して神から離反した人類に対して、神は、先ずユダヤ人を選び、人類全体にやがては及ぶ「祝福の基」としてアブラハムを立て、「割礼」や「律法」をお与えになりました。確かに、神は偏りや分け隔てなく、文字と心の律法に基づいて正しくお裁きになるのですが、もう少し厳密に言えば、律法による「神の啓示」を抜きにしては、自然の啓示だけでは、それも堕落し倒錯した自然では、本当の神を正しく知ることはできないはずです。したがって異邦人は、ある程度は、神らしき存在を意識し想像できても、ユダヤ人の律法に啓示されるような「確かさ」のもとに、神の啓示を認識することは不可能であります。創造の恩寵のもとにある自然の効力として「良心」の働きをどれほど評価できるかは、先ほど触れましたように教会の教理的立場によって解釈の違いがあります。人間の側から、神の審判について完全にその全てを詳細に知ることは不可能であります。しかし、いずれにせよ、パウロが問題にするように、神さまの側から見れば、神は「正しく(kata. avlh,qeian)」お裁きになる(ローマ2:2)ことは間違いのないことであります。正しくお裁きになられるのは、全能の神お独りであります。

前回、律法の意味と目的は「律法の実行では義とされない」ことを知り、キリストの十字架における福音に導くための「養育係」であることをお話しました。それが、律法学者であったパウロの結論であります。その結論に至る前に、パウロはユダヤ人の担い果たすべき「責任」について問います。パウロは、2章17節以下で、ユダヤ人の選ばれた特権とその責任を、二人称単数の主語(su,)と現在形の動詞の形で、「あなた」が実行して果たすべき責任として、ユダヤ人のひとりひとりに対し非常に厳しく徹底して問います。「2:17 ところで、あなたは(su,)ユダヤ人と名乗り(evponoma,zw evponoma,zh|)、律法に頼り(evpanapau,omai evpanapau,h|)、神を誇りとし(kauca,omai kauca/sai)、2:18 その御心を知り(ginw,skw ginw,skeij)、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています(dokima,zw dokima,zeij)。2:19 -20また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。」(ローマ2:17~20)と、パウロは先ずユダヤ人の担っている特別な役割を敬意をもって認めます。こうした神の特別な選びは、大きな神の「賜物」と言えましょう。しかし「賜物」には、当然ながら「責務」が付いて来ます。ドイツ語で「責務(Aufgabe)」という字は「恵みの上に、恵みに基づく」という字です。そのように、選びと賜物という特権の裏には、その賜物に基づく責務が生じます。しかも「律法」は、何よりも「神の御心」を公に言い表わした神の啓示の言葉であります。であれば、神の御心を先ずそのまま行い実行するという実践生活が求められます。それが律法を与えられた者の責務であります。「割礼」は、男子だけですが、ひとりひとりの肉体に、直に、しかもその象徴的な部分に刻印して、神が「神の民」として聖別されたことを表す神の賜物です。であれば、その肉体そのものをもって、神の選びの恵みを証しする責務が生じます。つまり選びと恵みの特権の裏側には、ちゃんと負託の責務があり、果たすべき課題があります。職務を本質的に全うする責任を担うのです。したがってパウロは、「2:21 それならばあなたは他人には教えながら自分には教えないのですか(o` ou=n dida,skwn e[teron seauto.n ouv dida,skeij)。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。2:22 『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。2:23 あなたは律法を誇りとしながら律法を破って神を侮っている。2:24 『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』と告げます。律法を持ち、知り、誇り、しかも他人に教えていながら、自分自身には教えていないのは、どうしたことか、と問うのです。それは、明らかに、神の律法を侮り神を冒涜し、神に従わず神に背くのではないか、と詰め寄るのです。自己を空っぽに空しくして、律法を通して神の恵を受け入れ、神を崇め、日々神の御心を実践するのであればよいのです。ところが、その反対に、律法をもって「自分の誇り」にしてしまう、という外側の律法という名目だけを切り取り、内容となる神の御心を捨て去り、自分の誇りのために利用したのです。律法の内容を空っぽに捨てて空洞化し、外側の律法という名だけを神から掠め取って、自分の利益のために利用して、自分たちは神に選ばれ、神と特別な関係にあり、特権を有すると主張したのです。ここは、わたくしたちキリスト者も十分注意すべきところです。牧師もガウンやカラーをつければ牧師らしくなれる、と大きな勘違いをする人もありそうです。教会も儀式や礼拝堂を形式化すれば教会らしくなる、と考える人も少なくないようです。いろいろな神の名目のもとに、選挙運動をして役職に就けば、それで教会ができる、と勘違いするのです。しかし問題は、外見ではなく内実です。内容をより深く知り内容を本質から生きることです。カラスがクジャクの羽をいくらつけてもクジャクにはなれず、カラスにすぎないのです。それが透けて見えるようです。ユダヤ人の根本問題は、内容をしっかり生きることは放棄して、ただ外面形式や名を利用して、自己を誇ろう、自分を認めさせよう、自分を高くあげようとしたことです。「ユダヤ人と名乗り(evponoma,zw evponoma,zh|)」という字の意味は、どちらかと言えば、中身のない名ばかりのことを意味します。これはすべて、「神に対して」ではなく、なぜなら既に神の御心や恵みは捨てて空っぽにしてしまっているので、ただ「人に対して」自分の支配権や権勢を誇り、認めさせたいがための悪用です。外見上は律法を守り信仰を守っているかのように、巧みに見せかけるのですが、実態は信仰の従順も献身もな、自我の欲求を満たし合う集団にすぎないのです。「他人の同じ行為をも是認している」(1:32)とありましたように、互いに神の名を語り自分を立てお互いの利害を求め合うのですが、それはまさに「死に値するという神の定め」にある、とパウロが断じた通りであります。あるのはただ、自我とその欲求ばかりであります。神から負託された責務を、神に対して果たすべき律法や割礼の本質を捨ててしまって、律法における神の名と教理的お題目だけを語り、自己目的化して利用したにすぎないではないか、とパウロは厳しく指摘し糾弾します。

 

2.「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。」(28節)

そしてついに、パウロは25節以下で「2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。2:27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく”霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」と告げます。問題は、一つは、神の御心である内容本質を放棄し空洞化させてしまい、結局は「神」の恵みそのものを汚すことで神を侮るのです。そしてもう一つは、外形や名目だけを神から掠め取って、自分の誇りや資格に見せかける虚偽偽善であります。驚いたことに、それを生ける神のみ前で行っているのですから、神は怒りとなって裁きを行われることは、まさに弁解の余地のないことです。本来は何一つ誇ることが出来ない罪人なのに、ただ神の愛と憐れみと恵みをいただいたおかげで、律法と割礼により聖別されて生きる民となれたのですが、どこで勘違いをしたのか、律法と割礼という外形が、自分の力のように思い込み、驚く程の自信となって他人を裁き差別するようになるのです。大祭司という役職を利用し主イエスを殺害する決議をしたカイアファはその典型であります。ユダヤ人は、律法と割礼により、異邦人は身分や資産や役職によって、大きな勘違いをするのではないでしょうか。律法や割礼という形式や身分や持ち物が人々に誇りを与えるのではなくて、救いは外見的形式や名目から来るのではなく、真実な意味で「生きて働く神」ご自身とその愛と恵みにおいて人は救われるのであります。その救いの恵みに与り生きて、初めて人々は正しく神を崇められるようになって導かれるのです。

外見だけ形式化することで、「心」は深く問われなくなります。その結果、心はいよいよ神から離反して、自我欲求に向かい始めます。「律法を実行する」ということは、頭も手も足も肉体の全てを挙げて、全人格において、心から律法の実行に取り組むことであり、律法によって絶えず全身全霊が拘束されることを意味します。それは、まさに「律法の奴隷」であります。パウロは生涯尽くしてこの律法と格闘したと思われます。闘って戦い抜いて、破れ、破綻しました。そして、破綻したと同時に「罪の奴隷」であることを自覚しました。2章2節にありましたように、パウロが最も伝えたいことは「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」(4節)ことを知ってほしいのです。律法の実行を通して完全に自己が破れ果て破綻し、死と滅びと絶望の宣告を受ける、そのどん底で、十字架における神の憐れみに触れ、悔い改めという神の恵に与り生かされ、初めて神の裁きと怒りの中に、救いをもたらす福音の力に触れて欲しいのです。パウロは、その神の憐れみ、神から来る福音の憐れみを告げ知らせたいのです。人を救うのは、人の力づくで律法を実行するからではなく、律法に破れ破綻するただ中で、神の本当の御心に触れ、神の憐れみに与ることに依ります。神は、心から神に救いと助けを求める従順を、深く憐れまれるのです。ある意味で敗れて悶え苦しみながらも、そのどん底と絶望の心のうちに、神の霊は神の憐れみと力となって奥深くに働き、「選び」という割礼の刻印をしるすのです。パウロは「2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」と解き明かします。

ただ、律法を実行することを放棄して、律法による拘束から自我を解放し、挙句の果てに、律法に宿る神の恵みを放棄して、外見形式の名目だけを切り取って利用し始めると、恵みの通路は完全に断ち切られて、あとはただ権力支配欲を初めとするあらゆる欲望の奴隷となるばかりであります。ヘロデもカイアファも、神の名を生ける神から切り離して、都合のよい名目として利用し、自我欲求を満たす道具としていたのです。宗教は皆、キリスト教も含めて、どんな宗教でもこうした側面を否定し切れないのではないでしょうか。神の名を利用することで、したい放題に自分を立てて誇り自分の欲望を満たすのです。その結果「あなたはかたくなで悔い改めようとせず、神の怒りを自分の上に蓄える」(5節)ことになります。

 

3.「その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(29節)

人は皆「誉れ(e;painoj e;painoj)」を求めて生きています。「誉れ」とは、称賛や喝采を意味します。言い換えますと、認めてもらうために生きている、と言えましょう。認めてもらえなければ、耐えられず、生きてはいけないのです。キルケゴールは、死に至る病は「絶望」である、申しましたが、その絶望の原因は、誉れを失うことにあり、認められない現実に耐えられず、絶望する、と考えることもできましょう。ユダヤ人の誉れは、「神」を律法と割礼ゆえに持ったことでした。本来神は全能なる神ですから、人間が所有することはできないはずですが、ユダヤ社会は、共同体全体を神の選びの民であり律法共同体とすることで、恰も自分たちの集団だけが「神」を知りしたがって神を持っているかのように思い込んでしまったようです。ましてや割礼は、自分の肉体に直接しるしをつけることで、いよいよ自分自身が「神の力」を持つて生まれた特別な存在であるような自負してしまったようです。ユダヤの権力者たちは、自分の誉れを得るために、それはユダヤ社会を権力支配するという自分の欲望に従ったのです。自分の誉れと自分の欲求を満たすために、自分を認めてもらうために、神の名を語り、神の律法を利用し、神を崇めるべき神の礼拝を神を無き者にして空洞化させ、自分の欲求を偶像化して拝む、自分のための礼拝に変質させてしまいました。自分の誉れのために宗教活動をするとはそういうことでありましょう。したがってそれはいつでもどこでも、そしてこのキリスト教会においてさえ日常としてありうることなのです。

ある方から、とても興味深い話を聞きました。「神から」栄誉を受ける生活を知ると、自分はとても孤独になります、と言うのです。まだ洗礼を受けて間もない頃でしたので、それを聞いて、胸が詰まる思いでした。しかし同時に不思議な、ある平安と安堵を心に覚えました。「洗礼」を受けたばかりで、「洗礼」の喜びを親友たちと共有したくてもできず、ある種の疎外感を覚えていました。人生で最善の選択をしたはずなのに、親戚からも見放され、誰もそれを認めてくれませんでした。場合によっては、夫婦や親子兄弟でも、その時からそこから、本当の孤独が生まれ、神からの孤独を知るようになるのではないでしょうか。神からの栄誉を受け、神の恵みに与り生きようとするとき、そのとき、人は深い神からの孤独を生きることになります。場合によっては、クリスチャン家庭ですら、教会の中ですら、そしてそれが名目上の外見の上のクリスチャンであればあるほど、本当のことは言えず、当然、理解してはもらえない、認め合えないこととなって表面化することもあるかも知れません。

パウロは、はっきり「その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(29節)と言っておりますように、本当の誉れは「人から」ではないからです。人から離れた所にこそ、離れたというよりは完全に「質」的に異なる所から、神からの栄誉は与えられるのです。神からの誉れは、人から人のもとにではなく、神から神と共に神のもとにあります。人との関わりに心を奪われますと、見失います。ただ「神」との関わりに集中する中からだけ、与えられる栄誉です。ですから、神とだけ共にある、神からだけの栄誉と言わざるを得ないのです。神さまだけと共にある神と自分だけの栄誉ですから、人との関係においてはとても孤独であります。人と話し人と交わる中からではなく、したがって孤独の中で、ただ神から与えられる栄誉に生きることになります。それは、生きる心の支えは神だけに頼ることでもあります。日々の喜びも楽しみもそして生きる日々の目的も神だけにあります。どんな時にも生きる心の支えは、神の外、十字架に死んでくださった主キリスト以外にはない、そこに、本当の人生の誉れがあります。老後を迎えますと、とても寂しくなるものです。人がとても恋しくなります。食事をするにしても独り、テレビを見るのも独り、寝るのも独りです。しかし、ただ神さまとだけ共に暮らす孤独を誇りとすることも、とても大切なことだと痛感しています。

あなたは、あなたの信仰を通して、神から誉れをいただくのですから、当然ながら、神は、あなたご自身のすべてをご存知のはずです。あなたは神に完全に知られているはずです。人はそれほどに自分を理解し分かってくれるでしょうか。そのありのままのあなたを、神はいつもご覧になって、そればかりか、いつも共に暮らして、あなたに「神からの誉れ」をお与えくださるのです。人生の根本問題とは、自分自身の死と滅びに至る罪であり、自分の弱さや醜さです。神は自分の罪の全てを知り、弱さを知り、御子の十字架の死における贖罪の恵みを惜しみなく差し出されます。罪に悶え苦しむ者に、十字架の贖罪を救いとして差し出しされ、罪と死から贖い出す神の力をこの肉体の隅々に注ぎ満たしてくださいます。十字架の死による贖罪を通して、神の義という本当の割礼をこの身に刻んでくださるのです。御子による十字架の死における贖罪の恵みを通して、神は神の義を現わされましたが、もう神の義に飢え乾く必要はないのです。十字架と復活における神の恵みに与り受けるとき、初めて神は正しくわたしのうちで神として崇められるのです。この愛と憐れみに満ちた、同時にまた神の義を貫かれた御子の十字架の死による贖罪、それによって罪赦され、新しい命のもとに新生する、その恵みを通して、初めて私たちは神を知り、正しく神を礼拝することができるようになります。神の正しさは、わたしたちを押し潰し滅ぼしてしまう力ではなく、人類を罪と死と滅びからご自身の命の代価を支払って贖うという救いとして、御子の十字架の死における贖罪に現わされ啓示されます。これが、神からの誉れです。人からは絶対に受けることが出来ない神からの誉れであります。

自分は何のために生きているのか。何のために教会に通い、信仰生活をするのか。それは、ただ外見上の洗礼を受けて、ただ名目上のクリスチャン、教会員である、というのではないはずです。生きた心の洗礼と生きた命の名が永遠に魂のうちに刻印されているはずです。生きた内面の洗礼は、キリストの十字架という神の力が漲り溢れ、神の憐れみと慰めに満ちています。確かに、洗礼という場は、「罪」に痛み苦しみ死の宣告を受けて「死」を迎える場ですが、その死の場において、主が自分のために十字架の死をもって罪と死から自分を救い出し、永遠の命へと贖い出してくださった聖なる場でもあります。御子の十字架の死と復活おいて、あなたは神さまから、十字架のもとに招かれ、キリストの身体として知られ、守られ、愛されているのです。

律法の本来の意義と目的は、その徹底した実行実践を通して、生ける真の神を崇め、その力ある恵みに与ることにありました。したがって律法は、徹底してどこまでも誠実を尽くし日々の生活として実行する、という不断の生活実践の中で、生ける神と出会うのです。信仰生活も同じではないでしょうか。律法の生活実践も信仰生活も、詰まる所、そこで、私たちは正しく裁き給う審判者としての神であり、神の義を貫く神であります。したがって不義なる者には、そして不信仰なる者にも、神の義は神の怒りの裁きとなって現れます。それは当然のことであります。これが律法の基本と言えましょう。パウロは、律法学者として、誠実に神の律法を実行しようとするのですが、残念ながら破綻してしまいました。パウロは、魂の中枢を支配する巨大な罪と悪の支配に敗れ果てたのです。ユダヤ人の律法主義者は、反対に律法の権威とその名を真実な実践から切り離して、自我欲求や権力支配のために神の名や宗教制度を利用して、私物化していました。律法を通して見えて来るはずの罪の支配と滅びの運命とは向き合わず、自分を誇りとして、恰も神のようになって支配したのであります。「かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄える」こととなりました。パウロは律法を通して破れを知り、律法は神の憐れみと恵みを求める場であることを自覚します。そして十字架の死と復活に現れ啓示された唯一真の「神」を知ったのであります。パウロの言葉で言えば、「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くその豊かな慈愛と寛容と忍耐」を知り、感謝と讃美をもって受け入れたのです。

 

2022年7月3日「神の憐れみは裁きではなく、悔い改めに導く」 磯部理一郎 牧師

 

2022.7.3.小金井西ノ台教会 聖霊降臨第5主日礼拝

ローマの信徒への手紙講解説教3

説教「神の憐れみは裁きではなく、悔い改めに導く」

聖書 出エジプト記34章1~14節

ローマの信徒への手紙2章1~16節

 

 

聖書

2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。

 

2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。

2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。2:7 すなわち、忍耐強く善を行い栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、2:8 反抗心にかられ真理ではなく不義に従う者には怒りと憤りをお示しになります。2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。

2:11 神は人を分け隔てなさいません。2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

 

 

説教

はじめに.「弁解の余地はない」(1章20節、2章1節)

本日は2章1~16節の段落を読みますが、この段落に新共同訳聖書は「神の正しい裁き」という小見出しを付けています。つまりパウロは「神のさばき」を告知します。パウロは1章で自分を「奴隷」と言って紹介し挨拶したのち、最初に「人類の罪」を明らかにしました。そして2章に入りますと、今度は「神のさばき」を直ちに宣告するのです。「裁く」という字が、この1~16節の段落の中だけでも10回以上も使われています。しかもパウロは「神の怒り」に対して「弁解の余地がない」(avnapolo,ghtoj avnapologh,touj)と断じます。1章20節に続いて2章1節でも、二度に渡り、人類の罪に対する神の怒りと裁きを徹底的に宣告します。「神の怒りに」対して、人類は弁明弁解も言い訳言い逃れする余地は、一切合切が認められない、と言い切ります。これは、明らかに、神の前で人類は完全否定され、まさに「神の否!」(カール・バルト)の前に立たされていることを意味します。その理由は、人類は皆、確かに神の存在を知りながら、それにもかかわらず、神に背き、神を否認する道を自ら選び取ったからです。パウロは「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」(19,20節)と述べて、創造の時点で既に人類は自明のことと神を知っていたはずだ、と告げます。しかし、それなのに、人類は「神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり(mataio,w evmataiw,qhsan)、心が鈍く暗くなった」(21節)ので、「従って、彼らには弁解の余地がありません。」(20節)と神の怒りを容赦なく宣告し突きつけます。

この容赦ない「神の怒り」は、いったいどこの誰に対して向けられ啓示されているのでしょうか。この裁きの宣告は誰に対する宣告なのでしょうか。また、この神による「否!」の宣告を、どう自覚し、どうすれば認識することができるのでしょうか。よく私たちは「あの人」はきっと神の裁きを受ける、と心ひそかに思うことがあります。他者の裁きは思い至るのですが、「自分自身」に対して、神の裁きが怒りとなって向けられていることは、余り考えようとはしないのです。しかし、パウロは、神が怒りは「あなた」に対してくだされているのです、とはっきり言って、其々のうちに「神の怒り」が天から啓示され降っている、ということを自覚して欲しいのです。しかもパウロは、自分を含めて同胞のユダヤ人たちに、神の怒りは「あなた」に対して啓示されている、と告げます。だから、今こそ、あたな自身の上に深刻な危機と脅威が迫っていることを、しかも弁解の余地のない、決して逃れられない神の怒りを知るべきです、と告げます。

このいったい誰に向けられた神の怒りか、という問題は、パウロにとっては、同時にまた、だからこそ、神の怒りから救いとなって働く福音を宣べ伝えたい、という宣教の責任となって、迫ります。「1:13 兄弟たちぜひ知ってもらいたいほかの異邦人のところと同じくあなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも知恵のある人にもない人にも果たすべき責任があります。1:15 それで、ローマにいるあなたがたにもぜひ福音を告げ知らせたいのです。」(ローマ1:13~15)と記している通り、パウロは最初から、人種や身分、生まれや境遇を超えて、全人類に宣教すべき神の福音の使徒である、と言っています。また「福音はユダヤ人をはじめギリシア人にも信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(1:16)とも言っています。さらに今日の2章9節でも「2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。2:11 神は人を分け隔てなさいません。」(2:9~11)とも書いています。パウロは、全人類に対して、そのひとりひとりに「神の怒り」は裁きとなって、今現在形で「あなた」に天から啓示されている、と告げます。だから今こそ、悔い改めて福音を信じなさい、と宣教します。

神は、なぜ、わたしたちに対して、それほど怒り、憤り、裁きをもって臨まれるのでしょうか。それは明らかで、「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」(21節)ので、「従って、彼らには弁解の余地がありません。」(20節)と言って、パウロは神の怒りを容赦なく宣告します。人類は、「神」を「神」としない、そればかりか、神を死んだ、神などは存在しないと言って、神を殺し抹殺したからです。ということであります。神を神とするとは、神お独りだけが「正しいお方」であり、善悪と真偽の全ての基準と決定は「審判者」としての神にのみにあり、「造り主」として万物の「主権者」であり、したがって「神」として万物より礼拝され崇められるべきいお方であります。問題は、それなのに、神が神であることを知りながら、神を神と認めず、神を「無きもの」として否定抹殺して、「神でないもの」を、即ち自分たちの欲望や支配欲を偶像化して取替えてしまい、偶像をわが主わが神として拝み、神の真理を偽りに替え、造り主の代わって造られたこの世のものに仕えているからありまです。自分の思いや欲望を神のように絶対化すれば、その結果は明らかで、絶えず争いは生まれ殺し合いとなり、殺戮を防ぐことは出来ません。

誰もが皆、其々に何かに依り頼み、自分の平和と安心を守ろうとします。自分は住む家があり家族がいて生活の営みがある。科学技術や芸術文化を謳歌する優れた進歩がある。知恵や力もありお金や資産もあり、宗教に魂が養われ国家の法に守られている。そうやって安心を守ろうとするのです。しかしそこに突如天が裂け、神の怒りが二人称単数のあなたの上に、しかも不変の現在形で、啓示されます。天災や戦争のように全ての営みの停止や終焉に襲われ、限界と破綻に瀕し、底なしの死と滅びに転落するのです。あなたに、そして人類のひとりとりに、その神の怒りと裁きは、如何なる拠り所も失われてゆき、弁明の余地もなく、啓示され迫る、とパウロは告げます。天災も戦争も神が引き起こすのではなく、それが、本質的に、「神」ではない「被造物」の世界であるからです。この本質的な差異において、私たち人類の心の目は錯覚してしまったのです。自分の力を、神のように縋る拠り所にしたのです。この営みを守るためには、先に勝ち自分のものにする、先に勝とうとすればより強力な力が求めて彷徨います。国家で言えば、より強力な殺戮兵器をもって他国を威嚇し、その挙句の果てにそして余りにも皮肉なことに、自分がより強力な破壊兵器を持てば持つほど、相手はさらにより大量破壊と殺戮を始め、結果は無差別殺戮により、地球規模の悲劇と悲惨を経て、破壊に破壊を尽くします。人類はそれを幾度も繰り返して来たではありませんか。しかし今もなお、何一つ変わりません。大量殺戮兵器による防衛は、同時に、より強力な殺戮兵器を引き出し、結局は悪質残虐を極めて皆殺しとなって滅びるのです。核兵器は、現代人の力の象徴であり拠り所です。しかしそれは最早、既に空しく暗い倒錯錯誤の幻想に過ぎないのであります。余りにも単純なことですが、破壊の力は、永遠に防衛と命の力にはなれないのです。破壊をもって防衛に代えることはできないのであります。行きつけば行きつく程、破壊は破壊に終わり、命と平和とは完全異質なものであります。

人類は、「神の創造」のみわざに与る、という神の絶対恩恵の中で、存在と営みの根源と原理が与えられ、しかもその存在と営みのうちに満ち溢れる神の恵みを享受することで、自明の真理として「神を知ることができる」とパウロは論じます。神の創造の恩恵とその力に与り浴す、そこに万物は自己存在の根拠を得ています。だからこそ、反対に、造り主としての神の恩恵と御力を拒んで、それを放棄すれば、当然ながら、途端に生きる根拠そのものを失い空しく崩壊します。こうした自明で当然な帰結を、パウロは「その迷った行いの当然の報いを身に受けています」(27節)と言っています。人間は「神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され」(28節)、「死に値するという神の定めを知っていながら自分でそれを行っただけでなく他人の同じ行為をも是認しています」(32節)と述べて、人類の罪を白日のもとに晒し、神の怒りと裁きを受けるべき実態を明らかにしています。何もかも知って分かっているのに、本来は神として神を崇めるべき対神関係の在り方を逆転倒錯させてしまい、敢えて自分から空しい思いとなり、空しいものを神に代えて拝みそれらに仕えてしまったのです。それどころか、神の名を語り、神を利用して、自分が神のようになろうとするのです。したがって、何を言おうと「弁解の余地はない」のです。

 

1.「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない」(2章1節)

パウロは1章20節に続いて2章の冒頭でもまた「だから、すべて人を裁く者(o` kri,nwn)よ、弁解の余地はない(avnapolo,ghtoj avnapolo,ghtoj)。あなたは、他人を裁きながら(kri,nw kri,nwn)、実は自分自身を罪に定めている(katakri,nw katakri,neij)。」と告げます。神の裁きを一層徹底して告知します。「裁く者」(告訴し断罪する)として現れる人類の罪の「実態」を断罪します。「他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」と言って、神の怒りが天から啓示されている、差し迫る危機の現実を二人称単数現在形で告知し、突きつけ、迫ります。これは、とても皮肉な逆説的な言い方ですが、裁く者こそ裁かれる者となるからです。そして二人称単数現在の示す文法的意味から言えば、「裁く者」は「あなた」自身のことであり、その「あなた」が「あなた自身」「今」「罪に定めている」というのです。この「罪に定めている」という字は「遂行する、断行する」という意味で、意図のある計画や習慣のもとに遂行してゆく、ということを表します。また「裁く」(kri,nw kri,nwn)という字は、法廷で審判を下す、という言葉です。古くから統治して支配するという意味にも用いられた字です。

そこで、「さばく」或いは「罪に定める」と言う場合、どんな基準や原理でその裁きや統治が行われたか、その裁きの判断の基準が問題になります。支配や裁き或いは審判を根本から支える「基準」或いは「ルール」が重要になります。パウロは「2:2 神はこのようなことを行う者を正しく(kata. avlh,qeian)お裁きになる」(2節)と言っています。新改訳聖書は「そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しい」と訳しています。神が統治し支配し審判を下すというのであれば、その判断は「真理に基づく(kata. avlh,qeian)」のでなければなりません。真理に基づいて遂行される審判とは、言い換えれば、公正公平な正義と真実に貫かれているはずであります。「神の義」がはっきりと現される行為であるはずです。正しいお方が公正公平に裁く、それがお出来になられるお方は、無論、全知全能なる「神」お独りであります。不完全で不正義な者に他者を裁く資格はありません。それでは裁きの根本から虚偽偽善となり、審判に偏りや誤りが常に生じて、虚偽偽善、不正不義となり、審判を受けます。「裁き主」として公正かつ厳正に裁き、完全に義と真理を有するお方は「神」お独りです。それなのに神を神として崇めず抹殺してしまい、今度は自分が神に成り代わって「人を裁く者」となって、他人の悪口を言い、他人を罵るのであります。本来裁く資格のない者が、偽って裁き主支配者となって、その場を仕切り支配するのです。それゆえ「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」と告げるのです。これはあくまでも人間の側の倒錯錯誤ですが、問題はこの倒錯錯誤を人間のうちに成立を可能にした根拠にあります。

パウロは「裁く者」と書いたとき、心に浮かべていたのは、ユダヤ人とギリシャ人であります。ユダヤ人は、自分を神に選ばれた「神の選民」だと自負し、他民族から自己を差別化して他民族を見下していました。アフラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの血筋で、神から「割礼」を身に受け、しかも「神の契約律法」によって特別な関係に生きる「神の民」である、と確信していました。自分は、神との特別な関係にあり特権に与り、神の民として特別な身分であるゆえ、よって、自分たちは本質的に異邦人と区別されると考えたのです。割礼と律法、即ちユダヤ教という宗教が、他民族から自分を区別差別し、結果的として、他者に審判を下す裁きの基準と根拠となったいたのです。割礼と律法があるがゆえに、他人を裁く権利もあり根拠もある、というわけです。

しかしこうしたユダヤ人の常識に対して、パウロははっきりと「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」(1節)と宣告します。「あなたはあなた自身を(seautou/ seauto.n)罪に定めている(katakri,nw katakri,neij)」と語り、例外の一切見逃すことなく、二人称単数形で「あなた」と名指しして、「ユダヤ人」たち、あなたがたのひとりひとりに対して、神の怒りは天から啓示されている、とはっきりと告げるのです。17節でも「あなたはユダヤ人と名乗り律法に頼り、神を誇りとし」とも書いていますので、ユダヤ人のひとりひとりの意識に深刻に語りかけるように、問題の所在を明らかにしようとしていることが分かります。神を誇りとすることが出来るのは、まさにユダヤ人と名乗る根拠に「割礼」があり「律法」が存在したからであります。

ユダヤ人は、自分が神からの「割礼」を身に受け、神を誇りとする神の民として身に刻まれた神の民であり、神の律法を有する契約の民である、と確信します。自分は違う、神の前に特別なのです。自分は正しい、神の律法を知っているからです。神の憐れみと恵みゆえの「割礼と律法」がユダヤ人を「人を裁く者」にしていたのです。根本原因は、この割礼と律法そのものの存在に、ありました。否、問題は、神の憐れみと恵みに溢れる割礼や律法にあるのではなく、それを取り違えてたユダヤ人自身にあります。本来は神からの賜物であるはずの割礼と律法が、自分の犯した錯誤ゆえに皮肉な逆説にもなって働き、その結果、思い上がって自己を絶対化し、律法を利用して異邦人を裁くのです。しかしそうした取り違えは、ブーメランのような報いとなって自分に返って来て、「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない(avnapolo,ghtoj avnapolo,ghtoj)。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」とパウロは指摘します。

 

2.「神は正しくお裁きになる」(2節)

パウロは「2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになる」と解き明かします。「正しくお裁きになる」とは、どういうことでしょうか。先ほど触れましたように、真理と基準に基づいて遂行する、ということです。相応しい真理、基準とは、ユダヤ人に対しては「律法」が真理であり裁きの基準になります。パウロによれば「2:11 神は人を分け隔てなさいません。2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆律法によって裁かれます。2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなくこれを実行する者が義とされるからです。」とあります。正しく裁くということで、急所となる点は、律法を「持っている」こと、或いは律法を「聞いて知っている」ということではなくて、律法を「実行する」者が義とされる、と説く所にあります。確かに、律法は裁きを遂行する基準ですが、さらに厳密に言えば、律法は「実行する」ために民に与えられ、民は律法を「実行する」ことで「義とされる」と断言しています。律法とは、行う・実行する・生きるべき神の掟であります。ここには、律法学者としてのパウロの見識を窺うことが出来ます。義の資格を得る根拠は、ユダヤ人には「律法を実行する」という一点にかかって来ます。

さらにパウロは「2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」とも言い切って、神の正しい裁きとは何か、定義します。ユダヤ人に対して、ギリシャ人は即ち律法を知らない人々はどうなるのでしょうか。ギリシャ人には「律法」がなく、生まれながらの自然のうちに、心に記された律法が真理となり、心の記された真理こと裁きの基準となります。異邦人について「2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており(summarturou,shj auvtw/n th/j suneidh,sewj)、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」と述べています。つまり異邦人は、<文字の律法>は持たなくても、<良心>という心の律法を持っており、その良心の証しが裁きの基準となる、と説明します。ユダヤ人は文字の律法によって、異邦人は良心という心の律法によって、其々に対して神は正しく裁かれるので、偏りや分け隔てはなさらない、ということです。「良心(sunei,dhsij suneidh,sewj)」が「証言する(summarture,w summarturou,shj)」と明記し、いわば文字の律法に対して心の律法が与えられており、其々文字と心の律法によって審判が下るのです。それゆえ神の裁きには分け隔ても偏りもなく正しく審判されるのです。少々先になりますが、2章28節で「2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく”霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」とパウロは言い切って、いよいよ神の怒りの本質である福音に迫ります。詳細は来週の説教で改めて触れますが、是非ここで記憶にとどめておいていただきたいのは「人からではなく、神から来るのです」という言い方です。その違いは、その正しさは、本質的に、最初から最後まで、あなた自身から出たことではなく、神ご自身から出たことかどうか、という根本を見据えたうえの違いであり、正しさの根拠でもあります。真理に従うとは、律法や割礼を「外見」から言うのではなく、「内面の霊」において、言えるかどうか、によるのです。

 

3.「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」(4節)

それなら、なぜ神はユダヤ人に律法を与えたのでしょうか。そもそも律法とは何っだのでしょうか。何の目的をもって、どのような意味と役割を担うものであったのでしょうか。律法の本来の意味と目的を根源から解明のために、パウロは律法学者としてその生涯を尽くして取り組んだ末、ついにある明確な結論に到達します。それが2章4節の言葉で「2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。2:5 あなたはかたくなで心を改めようとせず神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」と説いて、律法の担う意義について解き明かします。是非、注目したい点ははっきりと「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」と言って、律法の本質は「神の憐れみ」にあり、律法の目的は「悔い改めに導く」ことにある、と説いています。しかも「その豊かな慈愛と寛容と忍耐」と書いて、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐が、律法を遵守する人々に現れていたことを明らかにしています。神は愛情深く民を信頼し忍耐強く待ち続けていたのです。それは「2:7忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」という表現にも、律法と誠実に取り組みながら、苦悩する人々の思いを深く慮っておられます。律法を持たない異邦人に対しても、心の律法である「良心」を通して「彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」と述べて、文字と心の律法を「実行する」ために苦闘しつつ深刻な苦悩を背負う人々の思いを言い表しています。

しかし、それにしても、なぜ、神は人類にこうした「文字や心の律法」を与えたのでしょうか。この律法賦与の意味と目的こそ重要問題です。そしてその答えこそ、それは律法を通して「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」ためであります。これが、律法の根源的な意義について、パウロが出した結論でありました。パウロは、非常にはっきりと、律法の担う役割について、ガラテヤの信徒への手紙で論じます。先ず2章16節以下で「2:16 けれども、人は律法の実行ではなくただイエス・キリストへの信仰によって義とされる知ってわたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなくキリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によってはだれ一人として義とされないからです。」(ガラテヤ2:16)と記しています。律法は、義とされない実行においてではなく、キリストの信仰よって義とされる「神の恵み」として働き、福音の救いに導くために与えられたことを明らかにしています。パウロは同書3章に進み「3:10 律法の実行に頼る者はだれでも呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。3:11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。」と述べ、続けて22節以下に入ると「3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束がイエス・キリストへの信仰によって信じる人々に与えられるようになるためでした。3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。3:24 こうして律法はわたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。3:26 あなたがたは皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」と記しています。「律法」の本来の目的と役割は、律法を実行することを通して自己の不義を認め、キリストを信じる信仰による救いの道に導くことでした。自己責任だと言って裁くのではなく、キリストの信仰を通して、憐れみと恵みによって満たして義と認めることでありました。「律法」による力の実行から、「信仰」による神の恵みの救いに至る道であります。ですから主イエスは「14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり真理であり命であるわたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われ、また「11:25 イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネ11:25~26)と言われる通りです。キリストを信じ結ばれて、神の子とされるのです。律法とは、人々を信仰に向けて導く「養育係」だったのです。

ここで明らかになる、律法の決定的な意義は、先ず<絶対の否定>として働きます。「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」という律法遵守の破綻の自覚と認識に人々を導くことにあります。神に対して、人間自身が自己の根源的破綻を認め、そこで自己の死と滅びを承認し受け入れることです。注意すべき点は、律法を実行する根拠と拠り所は、徹頭徹尾、人間の側の「自己」自身の力に依り頼む、という頑迷で根強い人間(自己)中心主義にあります。この人間主義に完全破綻敗北して、死と滅びを承認し受け入れるのです。「神の否!」を受け入れるのであります。人間中心から破綻と死を受け入れるとき、そこに、神中心に向かう「信仰」への契機となる一点が生まれます。パウロ自身の告白によれば「7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。… 7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。7:22 『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」と告白していますように、文字と心の律法は共に一致して戦おうとするのですが、「罪の法則のとりこ」とされ、罪と死の奴隷となって、破綻敗北してしまうのです。ここで重要な点は、滅びの裁きとして「死」がはっきりと自覚されていることです。神から離反して罪に支配された魂や肉体は決定的な滅びである死に直面しているのです。まさに瀕死の恐怖であり危機です。この死と滅びの報いを自覚することで、パウロは律法の実行を断念します。律法の実行を断念するというよりも、人間である自分の力に頼り頼む人間中心を断念したのです。自己破綻と敗北を心から承認する絶望と嘆きこそ「7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」という叫びとなって表白されます。いわばどん底に行き着いた、そのどん底で、自分や人からではなく、神に目を向け始めるのです。正確に言えば、律法遵守を求める裁きの神ではなくて、慈愛と忍耐のうちに待ちわび、神が天から「恵み」の啓示として御子を十字架に渡された神の「福音」に、心を向け直すのであります。この絶望と破綻のどん底で、神の裁きは「福音」となって、魂の根源に向かって轟き響き始めます。その結果、パウロは、悲嘆の叫びから、コペルニクス的大転換をもって「7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と狂喜の讃美をあげます。

 

4.「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています」(5節)

4節で「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」(4節)と語ったパウロは、直ちに「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています」(5節)と逆に神の裁きを同時に宣告します。一方で神の憐れみを告知し、他方で神の怒りを宣告しています。これはとても意味深い言い方ではないでしょうか。なぜなら、一方で神の福音は神の裁きの中に、他方で神の裁きは神の福音の中に、同時にいつも常に「現在」形でしかも二人称単数形の「あなた」自身に対して、啓示されます。福音において、神は、愛と裁きを同時に逆説的に啓示しておられ、神に心を向けて福音を信仰において認め受け入れるか、反対に、自分の力に依り頼み悔い改めを拒否するのか、その信仰的決断のもとに立たされます。「悔い改める」という決断と選択に導く神の恵みにおいて、「神の否定」という形で、重要な意味と役割を担うのが、文字と心の律法ではないでしょうか。律法の実行を通して、人間の力の完全破綻と敗北を承認して受け入れ、今度は神に対して、心を向け直す信仰が準備されるのです。パウロは、意味深い表現で、この事実を告白します。ガラテヤ書2章19節で「2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」と告白しています。ここでは、「神に対して生きるために」と言って、「神の絶対肯定」として働く「新生」の喜びを告白します。しかし同時に「律法に対しては律法によって死んだ」と言って人間としての「死」の体験を告白さします。パウロのうちに、神における新しい「生」と人間における「死」とを同時に啓示したお方こそ、主イエス・キリストであり、その十字架における死と復活における永遠の命であります。「2:20 生きているのは、もはやわたしではありませんキリストがわたしの内に生きておられるのです。」と告白する通りであります。このように、人類は、文字と心の律法的実践を通して、人間の力に依り頼む人間中心主義の破綻を自覚し死を認識することになります。その破綻して絶望し死ぬという裁きの中で、初めて神に対して生きるという新しい目覚めが与えられ、神の福音の中に「神の否定と肯定」とが同時にかつ逆説的に現在形かつ二人称単数の「あなたに」啓示されていたことを知ったのであります。悔い改めは、既にお分かりのように、自分自身の破綻ですから、決して自我意識の力を根拠にして、悔い改めを実現することが出来ません。「わたし」が悔い改めるのではなく、「キリスト」がわたしのうちに生きてくださる恵みの賜物であります。そこでは、既に自分は消滅して死んでしまって、キリストが生きておられるのですから、キリストが無限の恵みによって、神に対して生きる悔い改めに導くのです。これをパウロは「信仰」と呼んだのではないでしょうか。バルトは「空洞」と言いましたが、パウロは「キリストがわたしのうちに生きている」啓示の出来事そのものが、そのまま「信仰」でありました。自分の力で神に向かって方向を転換することは有りえません。死んだ者がどうして方向転換できるでしょうか。そうではなくて、神の天からの啓示であり、神のみことばが語りかけ、キリストがわたしの内に現臨し、死の贖罪と命の復活として働いてくださり、「神に対して生きる」のであり「キリストがわたしのうちに生きている」のであります。キリストの霊が、キリストのみことばを通して、ご自身の十字架と復活のお身体に結び合わせてくださり、このキリストのお身体において、はじめて私たちは、悔い改めという方向転換は可能となり実現していただくのであります。福音をいよいよ正しく聴き分けるように導き、キリストの十字架における贖罪と赦しの恵みをいよいよ豊かに受けられるように、愛と憐れみによって、導いていただくのであります。「3:26 あなたがたは皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれ神の子なのです。 3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」とパウロは説いておりますが、「キリを着ている」それ自体が、信仰そのものであり、この恵みそのものと信仰に基づいて、具体的には、洗礼を通してキリストの身体に結び合わされて一体となるのです。これらには一切の断絶も分裂もなく、串刺し一にされた一体の神の啓示そのものであり、それこそパウロの信仰の実態ではないでしょうか。

 

5.「この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」

「神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れる」とパウロは告知するように、その怒りと裁きは、パウロ自身が、神の福音の啓示において体験した神の事実であります。主イエスの十字架において、パウロは律法の奴隷であり罪の奴隷であり、そして死と滅びの奴隷であることを自覚するだけではなく、その怒りと裁きは、直ちに神の憐れみと恵みとして働き、神に対して生きる悔い改めへと導いたのです。

2022年6月26日「福音の力と人間の罪」 磯部理一郎 牧師

 

2022.6.26 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第4主日礼拝

ローマの信徒への手紙講解説教2

説教「福音の力と人間の罪」

聖書 ハバクク書2章1~4節

ローマの信徒への手紙1章16~32節

 

 

聖書

 

1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 

1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。1:21 なぜなら、神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり心が鈍く暗くなったからです。

 

1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、1:23 滅びることのない神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せ像と取り替えたのです。1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。1:25 神の真理を偽りに替え造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。

 

造り主こそ永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。1:26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、1:27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。1:28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡されそのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、1:30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、1:31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。1:32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。

 

 

説教

はじめに. 「神の福音のために選び出し、召された使徒となった」

パウロは、文字通り、徹底した「キリスト・イエスの奴隷(僕)」として、キリスト・イエスを「主人」とし、「神の福音」のために、仕える奴隷である自己を示し、この壮大な福音の説教を書き始めました。自分は惨めな罪による死と滅びの奴隷である。神の義に導くはずの「律法」さえも、一生懸命に守ろうとすればするほど、守り切れない自分が見えて来て、自分は罪に支配された「罪の奴隷」であることが分かるのです。律法の奴隷から罪の奴隷であることが分かり、その結果、自分は「死と滅びの奴隷」にすぎない、と宣告されてしまうのです。「律法の奴隷」として懸命に仕えれば仕えるほど、「死と滅びの奴隷」である実態が、明らかにされてゆくのであります。そうした死と滅びの宣告と絶望の中にあって、罪と死の奴隷であったパウロのために、主イエス・キリストは、十字架の死というご自身の命の代価を支払って、死と滅びから復活による永遠の命のもとに、パウロを買い戻してくださったのです。すなわち、パウロは、キリストの支払った十字架の死と復活という犠牲の代価によって、罪による死と滅びから、新しい永遠の命に贖われ、買い戻されて、主イエスを主人とする奴隷となって、神の福音に仕える使徒として召され、選び分かたれてたのです。律法の奴隷でもなく、罪の奴隷でもない、神の福音のためにキリスト・イエスを主人として仕える僕として聖別されたのです。しかもそれは、生まれるずっと前から、神によって選びだされ、召され、初めから聖別されて取り分けられていた、と知ったのです。こうして、パウロは、自分がだれであるか、自分の本当の姿を、はっきりと認識したのです。それが、「パウロ即ち奴隷」という自己紹介から、この手紙を書き始めなければならなかった理由です。「奴隷」という自己紹介は、まさにパウロの根源的な原点であり、同時にまた生まれる前から永遠に選ばれていた在り方でした。「死の奴隷」が、「神の福音の奴隷」として生まれ変わり、神が主人となってくださり、力ある福音のみわざを行われる恵みの原点ともなったのでありました。

パウロは、早くから、世界の宗教文化や文明の中心であったローマに訪れたい、そしてこの絶大な神の力である福音を告げ知らせたい、と切望していましたが、エルサレム教会のために献金を届ける責任を優先させたため、ローマ行きは断念して、エルサレムへ向かう途中、ガイオ宅で、この壮大なる福音の説教を、手紙の形で、口実筆記させ、テルティオに託しました。前回は、その手紙の冒頭一章1~7節の自己紹介、そして8~17節の挨拶を読んだ所でありました。本日は、その続きで、いよいよ本題である神の福音に入ります。

 

1.「わたしは福音を恥じとしない」(16節)

パウロは、自己紹介と挨拶を書き終えて、いよいよ「神の福音」という本題に入ります。その第一声が「わたしは福音を恥としない(Ouv ga.r evpaiscu,nomai to. euvagge,lion)」という言葉です。恥じとしないのは、なぜなら「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。1:17 福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」と書いています。「福音を恥としない」その第一の理由は、「福音」には、「神の力」が漲り溢れているからだ、と言うのです。では、福音は「神の力」であるというのは、どういうことでしょうか。原典をそのまま紹介しますと、「力だ、神の」(du,namij ga.r qeou/ evstin)となっています。何よりも先ず福音とは絶大な「力だ!」というのです。わたしは福音を恥としない、なぜならそれは、福音にこそ唯一真の神の力が完全に現わされているからだ、というのです。「力」(デュナミスdu,namij)という言葉の意味を非常によく表しているのが、あの爆薬のダイナマイトという言葉です。第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして現在も同じですが、地球を破壊する爆発力です。どんなものでも一瞬で世界万物を吹き飛ばしてしまう絶大な「力」を持っている、と言うのです。この「力」は、どんな爆発力なのでしょうか。

人類は皆、ローマ皇帝でさえも、悪や罪そして死と滅びに対しては、完全に無抵抗であり、奴隷となって支配を任せるしかありません。この死と滅びを一瞬で吹き飛ばして消滅させてしまう、絶大な爆発力ををもって、神は福音の中に現れたのです。その死と滅びの全てを一瞬にして完全に吹き飛ばして消滅させるだけではなく、何と、また一瞬にして全く新しい永遠の命の世界をそこに造り出して、人類を命と希望のもとに解放したのです。

しかも続いて言われますように、この福音における爆発的な力は、即ち「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ」と、パウロは告げ知らせます。ここで決定的に意味深いことは、「救いをもたらす神の力」であり、それは「信じる者すべてに」と言っていることです。つまり「信じる者すべてに救いをもたらす」という偏りのない、公正と正義に満ちた神の力です。ここで是非注目すべき言葉で「信じる者すべてに」救いをもたらせる力である、という点です。神の力は、救いにあって、その救いは信じる者すべてに齎されるのです。「信じる」ということを、端的に言えば、ただ信じて「受け入れる」だけで、ということです。「受け入れる」というのであれば、こちら側は空っぽでよいのです。何もいりません。条件もなければ、前提もないので、ただで「恵み」として無償に与えられる神の力である、ということになります。しかも「受け入れる」のであれば、かえって、「空っぽ」であればあるほど、たくさんのものを受け入れられるので、空っぽの方がよいのです。なぜなら、空っぽで空洞が大きければ大きいほど、神の恵と力は、大きく豊かに働くからです。無限のゼロで、よいのです。こちら側に神の働きを邪魔するような余計なものは何もない方が、かえってよいのです。カール・バルトは、信仰を「空洞」(Vakuum)と表現しましたが、福音という絶大な神の力をいただくには、こちら側に用意すべきものは何一ついらない、ということなのです。

ただ「空っぽ」で信じ受け入れればよい、と言うのであれば、それを言い換えれば、神は、福音においては、無償で無条件で或いは無前提に、ただの「恵み」として一方的に与える「力」となって働く、ということになるのではないでしょうか。「信じれば」何もいらない、と言うのは、神の力は、いつも「恵み」として一方的に、無条件で働くからです。パウロが「力」と言ったのは、神としての本当の「力」は、何の条件もいらない空洞の信仰に、無限のゼロにおいて、死を命に変える無限の「恵み」として、爆発的に発揮されるのです。無からすべてを創造する恵みの力であります。逆にこちら側で、あれこれと用意がありますなどと言い、いろいろと余計なことをすれば、それは、神の恵みとして働く絶大な力を、人間の力で拒むことになり、結果として神の力を排除し拒絶することになり、神からの救いは与えられないまま、自分の力を依り頼むことになるのではないでしょうか。したがって「力」とは、無条件かつ無償で、神さまからの一方的な恵みとして誰にもどんな差別区別なく、ただ空っぽになって受け入れるだけで、その無限の恵みは全て与えられるのです。「神の力」は、このように、無条件の「恵み」として、働き現れることであり、その恵みの力は、死も滅びも一瞬で吹き飛ばしてしまい、永遠に命溢れる世界に一変させる無限の創造力なのです。神の力とは、無条件の神の恵みであり、無限の神の創造力である、とも言えましょう。だから、福音の恵みは、ユダヤ人もギリシャ人も日本人も全く関係なく、無条件で絶大な恵みとして与えられるのです。なぜなら、その「力」は、「神の」まさに万物と命を無から創造する無限の力であって、神以外のものは皆、被造物として、その恵みをただいただく以外に方法はないからです。だから、信じて、すなわち空っぽになって受け入れされすれば、それで充分であり、空っぽであればあるほど、神の無限の恵みとして働くこの力を、本来の力として、よく知ることができます。自分で何か用意しようとすれば、自分に目が行ってしまい、神本来の恵みを見失ってしまいます。無為自然とは、まさにこの空っぽの信仰のことに用いられて然るべきであり、それは神がないのではなくて、神が爆発的な恵みの力によってお救いくださるのであるから、そのお力を信頼してお任せすればよいのであります。だからこそ、即ち無前提・無償・無条件に「恵み」として働く神の力であり、そこには、すべての差別や区別は既に完全に撤廃されているのです。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも信じる者すべてに救いをもたらす神の力」と言い表した通りです。

「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす」ということは、人種やそれに基づく宗教は何ら意味を持たないということであり、もう少し広く解釈すれば、どんな人種、文化、宗教、言語であろうと、人間の側に対しては一切のことを問わない、ただ空っぽになってただ信じ受け入れるだけでよいのです。なぜなら全ては神ご自身がご用意くだったからです。神は全ての代価を支払って私たちを回復し、爆発的な力をもって新たな命を創造してくださるからです。墓の中に入れられようと、土の塵に帰ろうと、一瞬にして死と滅びの世界は吹き飛ばして復活という永遠の命に造り変えてくださるのです。しかもその力はただ「信じる者すべてに(panti. tw/| pisteu,onti)」に与えられたのです。この「全てに(pa/j panti.)」という形容詞は、あらゆる、あらんかぎりの、一つの例外もなくまた欠けも無いという意味で、差別区別は一切なく、「全て」に与えられる普遍的な救いの力である、という意味です。福音とは、神が「恵み」の主として、また「新しい創造」の主として、しかも一切の差別区別のない普遍的救いの力として、お姿を顕現してお働きなられた出来事を言います。

パウロは「力(du,namij)神の(qeo,j qeou/)」について「救いをもたらす(eivj swthri,an)」力であると定義していました。「もたらす」と訳されている元の字は、前置詞(eivj)で、非常の幅広い意味があります。たとえば、ものやことの変質・変化・転換・移動など、或いは状況・状態や場所・空間における変容・移動・変動など、動的でダイナミックな変化を表現する字です。ですから「救い(swthri,a)」という全く異なる新しい変容の中に、直ちに招き入れる、変化に至らしめることを意味します。死という実態から、全く異なる命という新しい創造に瞬く間に大転換してしまうのです。神が「光あれ」と言われると「光はあった」というあの驚異的な創造力です。パウロは、そうした福音という神の絶大な力を、ローマの皆さんと分かち合いたい、というのです。福音を恥としない、とはそういう福音の「力」を知っていたからでありましょう。

 

2.「福音には、神の義が啓示されています」(17節)

そればかりか、パウロは、「福音」という「神の力」について、その力が発揮され現わされる仕方について、さらに「1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」と告げます。パウロはここで、「神の力」を根源から支える原理がある、即ち神は、その力において「神の義」を貫き実現しようとされる、という言うのです。「神の義がなぜなら啓示されているから(dikaiosu,nh ga.r qeou/ evn auvtw/| avpokalu,ptetai)」だと解き明かしています。「福音」は、絶大な神の「力」となって働くのは、その根底に、「神の義が啓示されている」からであり、特に「神の義」が明らかになって現わされているからであるからです。神の力が神の力となって働く根源に、「神の義」が啓示されて、明らかになるからです。

こうした「神の義」(dikaiosu,nh qeou)が「啓示されている」(avpokalu,ptetai)という表現、その意味について、是非ともさらに注意深く読む必要があります。「啓示する、啓示されている」(avpokalu,ptw avpokalu,ptetai)という言葉は、「聖書」とは何か、それをそのまま言い表す重要用語だと言えます。よく聖書は「神のことば」であると言われます。それは、聖書という書物のうちに、「神」という存在を覆い隠している覆いが取り除かれて、その性質やお姿が露に現わされ、神のことばを神ご自身が語り、それをそのまま神のことばとして証言されているからです。ここで決定的な意義をもつのは、主語であり、即ち啓示する啓示者ご自身が「神」である、ということです。神の啓示は、基本原理として、地上に根拠を持たず超越した「天」から、現わされるのであり、人ではなく「神」ご自身によって、啓示されることです。極論すれば、啓示行為は、一方的に神のみによる、天からの極めて排他的で超越的な行為です。したがって「聖書」が「啓示のことば」であるとするならば、語るお方は神が天からお語りになってご自身を現わすのであり、人間が書いた書物として読むことは出来なくなります。神ご自身が語られお書きになった「神のことば」すなわち「聖なる書」として読むべき神の書物となります。人間や地上から読みまたは聞くのではなくて、徹底的に神の方から、神ご自身が天から語られる、神のことばとして、福音は啓示されているのです。したがって、神を基準として読み聞くのでなければ読み解くことはできません。人間や自分の欲求、自分の聴きたいことを基準にして読み聞きすればするほど、理解は遠退いてゆくばかりです。神が神の啓示のことばとしてお語りになり、私たちはそれを神の天からの真理のことばとして聞き入れ聴き直すこと、すなわち聖書に対して信頼と従順をもって読み聞きすることが求められます。それゆえ、人間である私たちには空っぽの信仰によってのみ、聖書のことばを聞き入れてゆく謙遜な態度が求められます。神の啓示であるから、それを神の啓示のことばとして、信じて受け入れるのです。

そこで重要な問題は、果たして神は天から、いったい何を、啓示したのか、ということになります。それが「神の義」であります。神が「力」あるお方として働き、ご自身のお姿を現す場は、「神の義」において、であります。神の義が、神の力となって、福音の中に現わされた、と言えます。「神の義」が主語で、しかも「啓示されている」という動詞は、現在形受動態で書かれています。したがって「神の義」とは、「今」ここに啓示されて現在ある、ということになります。聖書のことばを読みまた聞く人に対して、現在の出来事として、あなたの前に今ここに明らかにされてある事実として、強く迫る現実があるのです。それが「神の義」です。天を裂いて地上に現れて、今ここて聞く私たちに、神の義が顕現され、神は義なるお方として、私たちに迫るのです。パウロは、そういう現在の出来事として、今ここにわたしたちに迫る神の啓示として、書いています。では、この神の義とは、何でしょうか、神が義なるお方としてご自身を現わされ、啓示するとは、どういうことなのでしょうか。

パウロは、奴隷でありました。律法学者の中でも最も優秀と言われる律法主義者でした。先週「律法の奴隷」であったという話をしましたが、まさに律法を完全に守り通すことで、神の義を実現しようとした人であり、それゆえ生涯が律法によって規定され拘束されていた「律法の奴隷」でありました。義という正義、神の義という神から完全承認を受けるべき神の義を実現できず、パウロは苦悩したことは前回もお話した通りです。したがって、パウロは、自分のうちに義はないこと、ましてやこの世の人類のうちに神の義はなく、人は決して自分の手にすることはできない、それが神の義であり、それゆえ、パウロは律法に対する敗北者であり、不義の奴隷でありました。神を主語とする「啓示する」という字から、考えますと、まさに「神の義」とは、神が力あるお方として、神の恵みにおいて爆発的にその力を発揮してご自身を露にお示しになるのですが、そこに明らかにされこととは「神の義」であり、神の義が絶大な神の力としてまた恵みとして与えられることであります。パウロが「罪と死の奴隷」から「キリストの奴隷」へと移されたのは、この爆発的な神の力によってであり、その神の力とは、無条件にただ受け入れるだけの「恵み」として働く神の「力」でありました。その恵みとして無条件に働く力において明らかにされたこと、それが「神の義」であります。すなわち「神の義」とは、十字架に死に至るまで従順に死の代価を支払い罪を償われた、また復活という新しい永遠の命のもとにパウロを買い戻した、十字架と復活において啓示された「神の義」であります。神がキリストという主人となって代価を支払い買い戻してくださったという事実が、今のパウロの本当の姿を指し示しています。だからこそ、パウロは自分を「キリスト・イエスの奴隷(僕)」と言って自己紹介し、この壮大な福音の物語を書き始めたのであります。そして今もなお、永遠に変わらない、二度と色あせたり朽ち果てたりしない、永遠の現在として「啓示されている」のであります。

その神の義を、パウロは、今のいつもそのまま、ただ只管に感謝と喜びにあふれて、空っぽの信仰をもって、信じて受け入れるばかりでした。「生きる」とはこの天から啓示された「神の義」を源泉として始まるのであり、また同じように「生きる」とは、まさにこの天からの啓示である「神の義」を源泉として終わるのです。終始一貫全ては「神の義」を源泉として生まれ「神の義」において終わるのです。パウロは「1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」と書きました。ここで、パウロは、神の義について解き明かして、それは信仰による、と語り、「信仰による」ことを強調しています。

実は、先ほどバルトの「空洞」としての信仰について触れましたが、確かにそれは神学的理念として理解できても、実際に信仰実践の問題として捉えますと、果たして私たちはどこまで、神の恵みとして働く神の力に対して、即ち神の義の啓示に対して「空っぽ」しなることができるのでしょうか。鎌倉で思春期に学んだ臨済宗の禅でも「無」をもって悟りとすることを教えられましたが、「無」になることは出来ませんでした。無になっても、そこには「力」も「義」も見えず、孤独でありました。庭の石を見て石になるのですが、やはり分別が起こり、石と自分とが争い始めるのです。やはり、私たちは素直に、神の啓示として神の義を、神の恩恵や憐れみをただで空っぽになって受け入れる、ということが難しい、できないことのようにも思われます。やっぱり「自分」を貫き押し通すのです。反対に、心から「主人」を認めて、自分を空っぽにしてただ神を信頼し、主人の憐れみを受け入れることができないのです。神の義を源泉として、それを空っぽの信仰によって信じ受け入れ、ただ神の義とその憐れみだけにすがり、空っぽな信仰から信仰へと終始一貫することができないのです。教会の説教でさえ、神のことばを純粋に聞く、というのではなく、つまり信仰によって神の福音を聴こうとするのではなく、自分の聴きたい言葉を求めていつも都合の良いように求めて聴きたいのです。時には、自分の求めるものがないと、福音がない、と心の中で罵り説教を斥け、いつの間にか、「自分」が福音を定める決定者なって、極論すれば、神ではない自分が審判者となって礼拝席に座ってしまうようになるのです。神からの啓示のみことばを聴くのではなく、自分という人間から自分の欲求が神の啓示することばとなって聞いてしまうのです。

この問題はさらに深刻です。なぜなら「啓示されています」と現在形で書かれていましたように、常にいつも今迫る神の義に対して、常に心を明け渡すことができない、という現実が問われることになるからです。なぜ、なのでしょうか。その理由は、二つあります。一つは、本質的な問題として、この不信仰と不義の問題は、わたしたち人間が決して「自分の力」では解決できる問題ではない、ということを知らねばなりません。矛盾のように聞こえますが、一方で自分の力に頼れず、神の力による、と言いながら、他方で、その神の力にも頼ろうとしないで自分の力を求めるのです。さあ、そこでどうすればよいのでしょうか。これは根本的な矛盾であり、絶対絶命の聴きです。神なのに、人を中心とするのであれば、信仰によって神の義は得られず、死と滅びを自ら選び取ることになり、自滅します。しかも、では自分から空っぽになって信仰に生きようとするのですが、常に自分を支配するのは、ただ神への背きであり、自我欲求の支配であります。いったいどうすればよいのでしょうか。ただ一つ、それは、自分の力から神の恵を受け入れる「悔い改め」です。ここで徹底的に問題となること、それが、あなたの神に向かう「悔い改め」です。パウロは徹底的に神を主人としたいので「奴隷」という言い方をいたしました。それは、自分の意志や力で方向転換したというよりも、一方的に神が主人となって代価を支払って、死と滅びから自分を買い戻された、という完全な事実の前に立ったからです。言い換えれば、神お独りだけが初めてその主人となってそのご計画と選びに基づいて、人間の背きと罪の問題を解決してくださることだからです。したがって神のご意志とご計画によるのです。この意味からすれば、人間を超える神の問題でもあります。極論すれば、神は恵みの神として力をもって、パウロは屈服させ敗北させ死の奴隷にした、その結果、パウロはそのままの恵みのもとに、奴隷を受け入れたと言えるかも知れません。

もう一つ、さらに大事なことは、「愛と憐れみ」に触れて、心から愛されたことを本当に知ることです。これも本質的には人間を超える神の問題と言えますが、それでも、どんな罪と背きに支配された人間を「神は憐れみをもって赦す」という無制限に働く神の力こそ、解決の突破口であり、贖罪の力によるものです。よく神学では、特にルターの義認論を問題する際に、義認と聖化ということが問題に出されますが、義と認めて赦すと同時に聖化へと導く「恵み」として働く神の力を言います。その力の源は、別の助け主として働く聖霊であり、聖書のことばであり、説教であり、洗礼と聖餐を通して働く神の恵と力です。「神の義」の中枢で、いわば十字架の死に至る主イエスにおいて、神の小羊として完全にそして無限に罪を償う贖罪の力が働いていることが、そうした不信仰と不義をいよいよ明らかにします。しかし一方で不義と不信仰をあらかにしつつ、不断の悔い改めに導き、新たに向かうべき方向も明らかにされます。上手く表現しきれませんが、わたしたちの不信仰と不義が深まれば深まり、自分に絶望すればするほど、神の恵みと憐れみとして働く「力」は絶大となり、明らかに啓示されることになるのではないでしょうか。だからある意味で、裁きの前に立ち裁かれる経験もありうることでありましょう。裁かれ裁きを知ることで、愛と赦しの意義は深めることもありうるからです。汲めども汲めども汲み尽くすことのできない、神の愛と憐れみは、「神の義」として常に現在形で啓示されており、いつも私たちの不義と不信仰は悔い改めに向かって裁かれ続けますが、同時にそこでこそ初めて、だからこそ今ここで絶望にあって渇くがゆえに「さあ、飲みなさい」と言ってご自身を差し出すみことばが聞けるようになるのです。そしてその裁きの席で、泉のように湧き溢れて神の愛と恵みよる命をすすり飲むことも許されているはずです。「信仰による義人は生きる」とは、そういうことでありましょう。義人は、信仰によって生きるのですが、それ以上に、その前に「義人」とは、「神の義」のおかげで、その恩恵を信仰によって受け入れられるように愛と憐れみの力によって導かれ、そして信仰によって義の恵を知る義人であります。神の義を受け入れる信仰のない所に、神の義が与えられ実現する場もないのであり、したがって最初から義人など一人もいないはずであります。人はただ神の恵みのもとで、その愛と憐れみに恵みとして導かれ支えられてこそ、神と共に歩むことができるのであります。

 

3.「神は天から怒りを現されます」(18節)

パウロは「福音」の本質に更に深く踏み入って語ります。これまで「神の福音」を「救いをもたらす神の力」と言い、その「神の力」の根源において「神の義が啓示されている」と語りました。そして今度は18節で「神は天から怒りを現されます」と告げます。つまり「神の義」ゆえに、福音は神の力であり恵みである、と言えるのですが、しかし今度は「神の義」は同時に「神の怒り」でもあるのだ、と指摘します。この18節の翻訳で、口語訳聖書は非常に特徴ある訳をしています。「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。」と訳して、最初に「神の怒り」という言葉が出るように、とても苦心して訳しています。原典は「啓示されたからだ、なぜなら怒りが、神の」(VApokalu,ptetai ga.r ovrgh. qeou/)と書かれているからです。聖書を邦訳にする場合、何を大事にするか、それによって訳し方が大きく変わります。文法なのか、意味なのか、それとも日本語らしい訳なのか、さまざまな論点がありますが、口語訳は、原典の「啓示のことば」としての意味と力とを重んじたようです。原典の特徴は「なぜなら怒りが」という点にあります。パウロは、ここではっきりと、人間の不義と不信仰に対して「神の義は、なぜなら神の怒りとなって神の怒りを天からから現わされる」と説いています。パウロは、信仰による義人は生きると言って、信仰について語ってきたのですが、その信仰は、自分を無にして従順に神を信じ受け入れる空っぽの信仰をもって、神の福音の「力」を認め、自分の全てを神の福音に向かって自己を完全に明け渡します。しかし反対に、その信仰が、人間の側による不義と不信仰が働くゆえに、絶えず神の真理はいつも阻まれてしまいます。神の義は、本来の神の義と正しさは、完全な正しさゆえに、不義と不信仰に対しては当然ながら「怒り」或いは「裁き」となって現れます。パウロが「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」(口語訳)と記したように、神は、福音において、義と恵みとして働き、救いの力となって働く、と説いて、神の力と神の義について語りましたが、その一方で、反対に、不義と不信仰に対しては「怒り」となる、と語ります。新改訳聖書では、神の義が神の怒りとなって現れる理由について、「というのは」と訳して、「というのは不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して神の怒りが天から啓示されているからです」(新改訳)と訳しています。つまり、神の義は「神の怒り」となる。それは、なぜなら神の怒りが、不義と不信仰に対しては、神の義は、完全に正しいがゆえに、神の怒り、神の審判となって、露にあらわにされている、というわけです。奴隷のために十字架の死至るまで代価を支払って命のもとに買い戻す、という主人の喜ばしい働きは、感謝と喜びをもって受け入れる信仰のもとでは、信仰によって生きる、新たに生かされる祝福となり新生の道を開くのですが、反対に「不義によって人間のあらゆる不信心と不義に対して」は、真理を妨げ阻むがゆえに、その結果として「不信仰」のままに閉じ込められてしまうのです。不義と不信仰ゆえに真理を阻んだ結果、神の正義は「神の怒り」となって天から啓示されるのです。

パウロはここで、さらに、己を無にして空っぽな信仰をもって、主人とその福音を喜びをもって受け入れることが出来ない人間の「不信心と不義」について、しかも「不義によって真理の働きを妨げる(阻む)罪深い邪悪な人間」について、より深く見つめようとします。ヨハネによる福音書は3章で「3:18 御子を信じる者は裁かれない信じない者は既に裁かれている神の独り子の名を信じていないからである。3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだそれがもう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆、光を憎みその行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:18~19)と記しています。信じないのは、闇の方を好み、悪を行うことになり、光を憎んで神に増々背き、その信じないことは、かみの裁きと怒りとなって明らかにされる、というのです。パウロは、人間には(神の)真理の働きを妨げ阻んでいる不義がある、と言っています。神は信仰には恵みと力を、不信仰には怒りを発揮されるのです。

教会の伝道と牧会の難しさはここにあります。信仰による救いは、自分が信仰して自分の信仰で作り上げる救いなど、聖書にはありません。また、神に義とされるとは、信仰によって自分が認められるようになることでもないのです。むしろ、信仰によって、自分は神の前に絶対に認められないことを受け入れ承認することです。近代現代社会で最も価値あるものは人権であると考えます。その通り、それは間違いのないことです。しかしそれ以上のことは余り考えようとはしないのではないでしょうか。自分を守るために、自分の国を守るために、武器をもって戦いますが、その次は、戦争と殺戮のディレンマに陥ることになり、結局は相手を殺し滅びし尽くすまでは、自分を守ることができなくなってしまうのです。近代現代ほど、残酷な大量殺戮と破壊を繰り返した、世界規模の世界大戦の奴隷になった時代は、歴史に例を見ることはできません。人間は最も優れた解決者であると自負しますが、人類史上、たった一つの殺人さえ解決できないでいるのです。問題は、人間以上の存在と力を認めないからです。自分が最高の知恵であり判断者であり裁き主であると、恰も神のように自分を絶対化して、自分以上の神を心から認めようとしないのです。人間には知恵があり、人間は愛と優しい心がある、と言いますが、その最先端の時代で、殺し合いはいよいよ残虐さを増し虐殺へと進んで、次は更に巨大殺戮兵器を求め、絶滅を求めて進んでゆきます。それが人間を絶対化して神は死んだと言って神を殺してしまった近代現代の本質であります。大事なことは、人間以上に力をもって働き、人間以上に愛と憐れみをもって共に歩もうとする神を、心から、先ず自分自身の心のうちに、受け入れ認めることであります。人間の傲慢を悔い改めて、自分を主とする生活から、神を主とする生活に方向転換するのです。時間も物事もお金も、自分のために用いる生活から、神のために用いる生活への方向転換が求められています。しかしその本当の意義が分からないのです。その結果、教会生活や信仰は軽蔑され、いつの間にか、教会生活や信仰の内容が人間中心のヒューマニズムに変質してしまうのです。神の名のもとに、自分を認めてもらい、自我欲求を満たす場へと、信仰の本質も教会の在り方さえも、大きく変質されてしまうのです。その結果、神の怒りは露に示されるのです。すでにその行いは裁きとなって露呈するのであります。教会に生じるさまざまな問題は、全てはこうした神の真理を阻み妨げようとする人間の傲慢によるものであります。早急な悔い改めが求められますが、神の怒りの中で、裁かれ滅びるのでしょうか。人を本当の人として尊厳豊かに救えるのは、神の力であり神の義であり、神の恵みであります。

 

4.「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず」(21節)

「神の義」は、一方で、信仰に対しては「救いをもたらす神の力」として現されますが、他方、不義と不信仰に対しては「神の怒り」として現されます。神の義は救いでありつつ同時にまた裁きとなります。神の義そのものは全く同じ一つの神の義ですが、つまり、神はご自身を完全に正しいお方として啓示なさるのですが、それを受ける信仰と不信仰とによって啓示されて現れる結果は一方で「救い」他方で「怒り」となって分岐します。ヨハネによる福音書3章18節で証言される通りです。人間の考える順序から言いますと、不義があるから神の怒りが現されるはずだと考えますが、パウロは単純にそうは言いません。実は「神の義」そのものの中に、既に「神の怒り」も「神の救い」も同時に啓示され現れているのではないでしょうか。或いはこうも言えるかも知れません。即ち「神の義」の前には、「不義と不信心」も「救いと怒り」も、非常にダイナミックにしかも逆説的に啓示され現わされている、と考えられないでしょうか。信仰と救いや不信仰と怒りを、固定的にかつ形式的に捉えるよりも、信仰と不信仰は常に同時に危機的な状態におかれている、と考えてよいのではないでしょうか。啓示とは、場合によっては両者は常に入れ替わり、否定と肯定とは逆説的に働き現れる、と理解できそうです。なぜなら、信仰とは、最初から不動の信仰なのでしょうか。義人が最初から義人であったのではなく、義人は信仰によって義とされて、信仰によって生きることができのと同じように、信仰もまた不信仰から悔い改めという恵みを必要とするからです。信仰は、不信仰という自己承認を経て、神の赦しと救いの恵みを乞いもとめつつ、神の愛と力により、しかも神の正しさにおいて赦しの承認を受けて、はじめて信仰に立つことが許されるからです。信仰は自己承認からではなく、神からの赦しの受け入れ認め、人間における承認から神の憐れみと力溢れる赦しの承認において全てに意義を方向転換させる悔い改めに基づくからです。逆に「信仰」を人間が自己承認すれば、皮肉にも逆説的に、自己義認となり、結果として神の怒りと裁きを受けることになるのではないでしょうか。

パウロは非常に意味伸長な用語を用いて、その神の怒りを解き明かそうとしています。先になりますが、先ず21節で「1:21 なぜなら、神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせずかえってむなしい思いにふけり心が鈍く暗くなったからです。」と明記します。その上で改めて、24節で「そこで神は、彼らが心の望によって不潔なことをするようにまかせられそのため、彼らは互いにその体を辱めました」という表現の仕方をしています。同じように、26節「神は彼らを恥ずべき浴場にまかせられたました」と言い、28節「神は彼らを無価値な思いに渡されそのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」と記し、そしてパウロはさらに、ストア派の哲学では不道徳の極みとされた不道徳項目の一覧を並び立て、31節で「死に値するという神の定め」であると断罪しています。神は、神の怒りの現れとして、「神の定め」として死に値する行為に彼らを任せられ、渡され、定められた、ということになります。このように「神の怒り」が啓示される根本原因には、言うまでもなく「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず」「むなしい思いにふけり、心が鈍くなったから」(21節)であり、「滅びることのない神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替え」(23節)、しかも「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えた」(25節)からです。人は、神を知りながら、神を神としてあがめることをせず、神の栄光を像と取替え、造られた物を拝んで仕えた、それゆえにその結果として、人は、むなしい思いにふけり心が鈍くなり、欲望によって不潔なことをするにまかせ、互いに体を辱めた、と非常に理路整然と順序立てて、不義と不信心が描かれています。端的に言い換えますと、人間は神から離反し背いたために、本性的に堕落した、ということでありましょう。1章は、人類を根源的な「罪人」として、また人間本性を「罪の奴隷」として、明らかに示して終わります。パウロがこれから壮大な福音の物語を語ってゆくのですが、神の福音を、何よりも先ず、神が正しく公正にそして「恵み」豊かに働く場として、つまり十字架の福音においてこそ、神の真実のすべてが啓示されていることを証言し語ります。それには、どうしても、罪という人間の悲惨について目を向け向き合うことから始めなければならなかったと思われます。しかもこの深刻な罪の実態は、死に値する神の定めとして、語る必要があったと考えらえます。なぜなら、十字架において、神ご自身がこの死に値する神の定めを背負い、ご自身の命の代価を支払って引き受けられたからであります。

パウロは、不義と不信心をめぐり、痛みを一層深く覚えながら語っています。その深刻な背きは「神を知りながら神としてあがめない、という点です。「神を知りながら」というのは、「1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」(20節)と言っています。つまり神の創造のみわざのうちに、そして「神に造れた」被造物であるがゆえに、神の永遠の力と見えない性質は、既に人間には、弁解の余地がないほど、明らかに現わされているからです。だから言い訳できない、弁解の余地がない、言い逃れすることは絶対にできない、と言うのです。したがって、この時点で、人類は既に神に背き、不義となり、不信仰であり、神の怒りを受けて然るべきであります。これが、神さまの側から見た人間観であり、人類に対するの根本的な認識であります。「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節)とありますように、「神に従う」とは、「信仰」によって初めて成立するのであり、「信仰」において「神に従う」生活は導かれ実現します。それゆえ、人間による罪の背きは、神による怒りによって、徹底的に裁かれています。これには弁解の余地はありません。人類は皆、例外なく、既にこの恐るべき怒りと裁きの危機の中に立たされているのです。しかも更に重大なことは、この人類の滅びの危機から救うために、神は既に公正かつ義なるお方として、受肉した主イエス・キリストにおいて人間本性の全てを引き受けて背負い、その人間本性において十字架の死に至るまで神への従順を尽くして、命の代価を支払って罪を償い、神の義を得て、栄光の復活を遂げられたのであります。「啓示されています」という現在形動詞は、今もいつも常に、この十字架の事実をもって人類に迫るのであります。ここで神は真の神としてご自身の真実を啓示されたのであります。この啓示を、ただただ空っぽの信仰をもって、ただただ無限に働く恵みとして、受け入れるのであります。その時、一瞬にして、人類と自分自身の死と滅びは吹き飛ばされて、新しい命の創造の恵みと力のもとに新生するのです。罪人であり死と滅びの危機にありつつ、主の十字架の信仰において、永遠の命の恵みに生かされるのです。

2022年6月19日「あなたがたに福音を告げしらせたい」 磯部理一郎 牧師

 

2022.6.19 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第3主日礼拝

ローマの信徒への手紙講解説教1

説教「あなたがたに福音を告げしらせたい」

聖書 イザヤ書7章10~16節

ローマの信徒への手紙1章1~15節

 

 

聖書

1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。1:6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 

1:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、1:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、”霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。1:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。1:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

 

 

説教

はじめに. 「ローマの信徒への手紙」の誕生

本日より「ローマの信徒への手紙」より、神の啓示、福音のみことばをお聞きすることになります。今日はその1章15節までお読みしますが、皆さんの「新共同訳聖書」には、ペリコーペに従って小見出しが一つ一つ付けられておりますが、1~7節が「挨拶」、8~15節が「ローマ訪問の願い」となっています。聖書原典にはそうした小見出しや標題は一切ございませんので、表題の意味に余り影響されずに、聖書の文面から直接に本来の意味を聞き分けてゆければ、と願っております。

ローマの信徒への手紙の講解説教は、西ノ台教会では初めてのことのようですので、先ずこの手紙が、だれが、いつ、どこで、またどういう事情から書かれた手紙なのか、という所からお話しいたしますと、著書は言うまでもなく「使徒パウロ」です。パウロは、主イエスが十字架に死に三日目に復活した直後、その年代決定は学者によって異なりますが、おおよそ35年前後に、復活のキリストの声を聞き、キリスト教に回心し、バルナバと共に、異邦人伝道のために「使徒」としてエルサレム教会から遣わされ、3度に渡る宣教旅行を繰り返し、最後はローマ市民として正当な裁判を受けるためにローマに赴き、65年前後に処刑され殉教を遂げました。そうしたパウロの宣教活動の足跡は、聖書巻末の「パウロの宣教旅行」という地図になって掲載されておりますので、ご参考にされますと、役立つと思います。ローマとエルサレムとの交流は、ディアスポラのユダヤ人を初め、ユダヤ教改宗者など、エルサレム神殿を中心に、早くから活発に行き来されており、すでに四万人前後のユダヤ人たちがローマで暮らしていたようです。紀元50年前後になると、エルサレム教会との交流からキリスト教会が生まれ、大勢のユダヤ人クリスチャンがおりました。しかし皇帝クラウディウスの勅令により、ユダヤ人キリスト者はローマから追放されてしまいます。

この「ローマの信徒への手紙」は、パウロが、晩年にまだ見ぬローマの教会のために、福音を教理的説教として解き明かした手紙です。ペトロとパウロは共にローマで殉教しましたが、今のヴァチカンの聖ペトロ教会の、その基礎となった地下に、かつてペトロとパウロが埋葬された墓があった、と発掘調査から報告されています。パウロは、ローマという世界の宗教と文化の中心にあって、キリスト教の福音を体系的に説く使命を強く覚えて、本書を書いた、と考えられます。いきさつとしては、その頃パウロは、エルサレム教会の貧しい兄弟姉妹らのために、マケドニヤやアカヤの異邦人教会に対して「愛の献金」を訴えて集め、その献金をエルサレムに持参する責任を覚えていました。それはまたエルサレム教会のユダヤ主義者たちと和解するためでもあったようです。パウロは、ローマに赴きローマ宣教を果たしたいと切望していましたが、自分の願いよりもエルサレム教会の責任を果たすことを優先しエルサレムに向かいますが、途中ローマに赴く者があると聞き、詳細は不明ですが、おそらく第3回コリント訪問の際、ガイオ宅に滞在し、この手紙を口述筆記させて(ローマ16:22, 23)、ローマに送ることにしたようです。パウロ自身が「この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。」(ローマ16:22,23)と記している通りです。56年頃と推定されます。このように、「ローマの信徒への手紙」は、使徒パウロが、56年頃に、コリント人ガイオ宅で、テルティオに口述筆記させて、テルティオによってローマ教会の信徒のもとに伝えられ、次第に礼拝の中でも或いはさまざまな公の集会で回し読みされるようになりました。したがって最初はパウロの私的な福音理解を纏めた「手紙」でしたが、やがて教会という公の場で共有され、いわば「教会公式書簡」として用いられるようになり、最後は教会の正典とされるようになりました。

 

1.「パウロ奴隷」(Pau/loj dou/loj)

私たちは、自分が誰かから卑しめられたり馬鹿にされたりすると、当然ながら、とても傷つきます。怒りが生じ、心が痛み、辛くなります。それはなぜでしょうか。自分は、卑しめられたり馬鹿にされるような人間ではない、と思っているからではないでしょうか。或いは、自分はもっと認められ、正当に評価されて然るべきである、と考えているからではないでしょうか。一般社会でも、不当な誹謗中傷に対しては、人権侵害や名誉棄損などで、告訴することができます。わたしたちは、それが当然の、人としての「権利」である、と考えています。

ところが、パウロは、驚いたことに、このローマの信徒への手紙を書き始めるにあたり、真っ先に「パウロという奴隷から」という自己紹介をもって挨拶して、「神の福音」を解き明かそうと、この荘厳長大な教理体系を手紙に書き始めたのです。第一声である書き始めの言葉は、原典をそのまま引用しますと「パウロ奴隷」(Pau/loj dou/loj)という字で始まります。「僕」と邦訳されていますが、正確に言えば、直接の意味は「奴隷」という字です。つまりパウロは真っ先に「奴隷のパウロ」から、と言って手紙を始めたのです。なぜ「奴隷」という身分から、パウロは自己紹介を始めなければならなかったのでしょうか。余りきれいな表現ではありませんが、お前はいったい何様だと思っているんだ、などという表現がありますが、文字通り、パウロは「奴隷のパウロから」と言って、自分を自己紹介して、このローマ書を開始したのです。実は、パウロは「奴隷」から始めて、それを福音を語る出発点、つまり「福音の原点」として、神の福音を教理的に体系づけた、と言ってよいでありましょう。「神の福音」を語るということは、自分が「奴隷」であることを深く知る所から始まるのであり、福音を語り終えるのも自分が「奴隷」であることに徹底して終わる、と考えたからではないでしょうか。「奴隷」という字は、新約聖書には126回用いられていますが、その大半はパウロの手紙に登場します。

では、なぜ、パウロは、自分は「奴隷」であると明記して、この手紙を書き始めなければならなかったのでしょうか。それには重大なパウロの思いがあったからに違いありません。既に皆さんもご存じの通り、パウロはローマの市民権を持っていたので、ローマ皇帝の座で市民として正当な裁判を受ける権利を有していました。所謂「奴隷」の身分ではなく「市民」です。しかしやはりパウロは、自分の本質は「奴隷」に過ぎない、と考えていたので「パウロという奴隷から」と書いたのです。どうして、パウロは自分のことを「奴隷」と言って、自己紹介する必要があったのでしょうか。

これは推測ですが、いくつかの理由から、パウロは「主人」にはなれない、したがって常にだれかの支配を受ける「奴隷」に終わってしまっている、と深く苦悩していたのではないでしょうか。自分が自分の本当の意味で自分自身に対して「主人」となって生きることは出来ない、と思いを深くしていたと考えられます。自分自身に対して本当の意味で「主人」にはなれない、という痛みと破れがあったのです。自分で自分をどうすることも出来ない、したがって自分には自由はなく、常に何かによって支配され、拘束された、非常に無力で哀れな「奴隷」に過ぎない、と思い知らされていたのです。人間は皆、人から尊敬される立派な人間になろうとします。立身出世して認められ称賛されたいと願い、一生懸命に努力します。だから、人に褒められ認められると、とてもうれしいのです。しかしその反対に、認められないと、激しい屈辱と怒りを覚え、心は傷つき、生きる力を失います。パウロは、自分で自分を立派にすることも、自分で自分を慰めて平安を保つことも出来なかったのかも知れません。この手紙の7章を読み進んでゆきますと、パウロはこう告白します。「7:8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。7:9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき罪が生き返って、7:10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が死に導くものであることが分かりました。7:11 罪は掟によって機会を得わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」そして「7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう死に定められたこの体からだれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と自分の絶望的な悲惨を表白します。文字通り、自分で自分を救うことは出来なかったのです。つまり自立した自由を持った「主人」にはなれず、罪と死に支配された「奴隷」にすぎない、と心底から思い詰めていたのです。聖書の言葉で言えば、一方では、立派な人間であろうとする「律法」に拘束され束縛された「律法の奴隷」であり、しかし他方では、律法は本来幸福と自由な人格の完成に導くはずなのに、残酷かつ皮肉にも、立派になれない自分を訴え続けて断罪するのです。そしてついに、あなたは「罪の奴隷」である、と裁定宣告したのです。こうしてパウロは、破綻と破れの奴隷、敗北の奴隷でしかない、喪失と絶望そして死と滅びの奴隷である、という深い自覚と認識に至り、叫ぶように、この深刻な嘆きを訴えたのであります。人間の心の心理は不思議です。本当は「できない」のに、それでも「できる」と言われたい、と渇くように求めるのです。そうでないと耐えられないのです。深刻に飢え渇きながら、あなたは「できる」という承認を求め続けるのですが、しかし実際は常に「できない」という矛盾と分裂を心の奥深くに背負うのです。パウロは、自分に対して、どうしても「主人」にはなれませんでした。ましてや他人に対しても、或いは律法や死に対しても、自分は勝利者である「主人」となって生きるなど、とてもできない、と知りました。罪に敗れた罪の奴隷であることを思い知らされたのです。しかも立派になろうと、どれ程に律法を重んじて律法の主人になろうとしても、やはり律法においても破れ果て、律法の奴隷にすぎない、と観念したのです。初めは律法を学ぶことで、前途有望なる理想と可能性に憧れ、自己の前途を期待するのですが、律法といよいよ真剣かつ誠実に向き合えば向き合うほど、自分の敗北を否定することができなくなったのです。ついに完全敗北を認め、律法の奴隷から罪の奴隷という自己認識に至った、と思われます。絶望を嘆く悲嘆の奴隷でもありました。人は皆、その人間である本質において、律法の奴隷として学びますが、結果は罪の奴隷であることを自覚し、死と滅びに敗北する奴隷となる、とパウロは深く認識したのです。

 

2.「キリスト・イエスの僕(奴隷)」

もう一つ「奴隷」ということで、これが最も重要な点なのですが、パウロは「キリスト・イエスの僕」と書いています。「僕」と訳された元の字は「奴隷」ですが、同じ「奴隷」という字を、邦訳聖書は、敢えて「僕」と訳し変えています。訳し変えた理由は不明ですが、私見によれば、奴隷という「身分」から、さらに転じて奴隷の「働き」に視点を移しますと、それは「主人に仕える」或いは奴隷には「仕えるべき主人」がおられるのだ、という意味になります。つまり奴隷という身分から、仕えるべき主人に目を向けて、奴隷の使命を考え直すのです。そして奴隷は主人に仕えるのであるから、それは「僕」である、と訳したのではないかと思います。

これまでパウロは、自分に対しても他人に対しても「罪の奴隷」「律法の奴隷」「死の奴隷」でしたが、それがパウロの身分と境遇を決定づけ支配していたのです。しかし、ここで今度は一変して「キリスト・イエスの僕(奴隷)」と言ったのです。奴隷という身分を明らかにすると、今度はすぐさまに、奴隷の働きに目を向けて、自分の僕として仕えるべきご「主人」の存在を明らかにし始めたのです。なぜでしょか。

古代の「奴隷」は、奴隷市場で売り買いがなされており、奴隷商人に高額な金銭が支払われて買い取りされていたようです。したがって、代価を支払って自分を買い取った人が、奴隷の唯一人の「主人」となりました。パウロが、自分は「奴隷」である、と言うからには、それには、自分のために高額な代価を支払って、自分を買い取られたご「主人」がいたからです。自分には代価を支払って買い取った「主人」がいるので、それゆえに、自分は「奴隷」である、と言うわけです。

パウロは、律法と罪の奴隷からそして死と滅びの奴隷から、キリスト・イエスというご主人が自分のために十字架という代価を支払って、復活した永遠の命のもとに買い戻され、新たに死と滅びの裁きから解放されて、主人であるキリスト・イエスに仕える奴隷となりました。大事なことは、代価を支払って罪よる死と滅びから買い取り買い戻してくださった「主人」が自分にはおられることです。それが「キリスト・イエス」です。罪と死に対する代価が、この主人ご自身の命の犠牲によって支払われ、この主人の新しい命の祝福のもとに買い戻されたことです。いわば自分のために「無限の代価を支払う」お方がおられるのだ、ということです。実は、聖書の言葉で「贖う(贖い)」(lutro,w)とは、奴隷のために代価を支払って買い戻す、という意味を語源とする字です。ですから、罪から代価を支払って義へと買い戻すことを「贖罪」と言います。キリスト・イエスは、罪と死の奴隷であったパウロのために、十字架の死という命の代価を支払って贖罪し、ご自身の復活の命のもとに買い戻したのです。したがって、パウロは、「主人」とは、罪と死から代価を支払って、自分を命へと買い戻してくださった「キリスト・イエス」というお方である、と自己紹介したのです。しかし、パウロはここで「奴隷」と自己紹介しながら、そう言えることが、とてもうれしいのです。「キリスト・イエスの奴隷」と自ら自己紹介できることが、パウロにはとても大きな喜びであり誇りであり、希望なのです。なぜなら、自分のために、主人の尊い命の代価が支払われたことを知ったからであります。主人による無限の愛と恵みが自分のために注がれていることを知ったからです。

次いでパウロはさらに言及し、罪と死の奴隷から死の代価を支払って自分を永遠の命のもとに買い戻してくださったキリスト・イエスというご主人について、その詳しい本質を言い表します。すなわち、罪と死から、十字架の死の代価を支払って、復活という永遠の命のもとに買い戻してくださった、キリスト・イエスという主人とは、どのようなお方なのか、さらに深く語り始めます。その主人とは「1:3 御子に関するものです。御子は肉によればダビデの子孫から生まれ、1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方がわたしたちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:3, 4)と書いて、主人の本当のお姿を紹介します。罪と死から命へと贖ってくださったキリスト・イエスとは、「肉」という人間としての性質から言えば、ダビデの子孫で大工の子イエスとして生まれた、私たち全く同じ「人間」そのものであり、「聖なる霊」という神としての本質から言えば、「力ある神の子とさだめられた」「御子」である、と証言したのです。教理的に言えば「キリスト論」を告白しているのですが、そのキリスト・イエスにおける「人間性」について言い表したのです。これは、後のカルケドン信条で、御子であるイエス・キリストは罪を除く外は私たちと同じ「完全な人間」であり、同時にまた父と同一本質なる「完全な神」であって、この「人」としての本質と「神」としての二つの本質は、互いに混同せずまた分離もしない、という「キリスト両性論」になります。さらに「聖なる霊」という神としての本質から言えば、「力ある神の子」である、と永遠の昔から定められていた、ということになります。これは、後のニケア信条で言えば、キリストは父と同質本質である神であり「神の子」である、という三位一体の神の告白となります。「神の御子」は、天より地に降り、処女マリアの胎内から人間本性の全てを受け取り受肉して、わたしたち人間のために十字架の死に至るまで神の従順を貫き、しかも十字架の死に至るまで死の代価を支払って人間として罪を完全に償い、この十字架上における贖罪をもって、神の義を実現して栄光のうちに死人のうちより永遠の命に復活して天に昇られたのであります。この御子こそ、パウロのために十字架の死の代価を支払い、復活の命のうちに買い戻された、パウロの「主人」の本当のお姿であります。

 

3.「神の福音のために選び出され、召されて」

人間的な思いから短絡的に想像しますと、奴隷の気持ちからすれば、自分を買うために、主人が「いくら」支払ったのかということは、大きな意味を持ちます。奴隷の側にも、何等かの支払いを受けるべき「値打ち」があったからではないか、と考えがちであります。しかし、それはどんでもない勘違いであります。先ほど申しましたように、パウロは「律法の奴隷」から「罪の奴隷」となり、ついには「死と滅びを嘆く奴隷」として、完全破綻してしまった、そういう自分の回復不可能な破れを痛感していたからです。そのような地獄から自分を買い取ることの出来る人は、この地上には誰もいないはずです。親の血筋や愛情をもってしても、子を生き返らせることは出来ないのです。絶大な財力と権力を握るローマ皇帝でさえ「死と滅びの奴隷」として終生終わるのです。それはパウロ自身が「わたしは死にました」(ローマ7:10)と絶叫するほど、また「7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体からだれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24)と絶望を表白するほど、自分が全てにおいて完全破綻してしまったことを一番よく知る者でありました。自分自身に代価を支払うような価値などは全くない、ということを彼は痛いほど認識していました。であるとすれば、これは、神の内側から、いわば神の愛によって、無前提にそして無条件に起された「贖い」(買い取り)であります。この奴隷には、代価を支払う値打ちなどないのですから、まして死の代価を支払われる必要はないのですから、贖うお方のご意志のうちにおいてのみ、その理由も意味も見出されるはずです。パウロはこれを「ミステリー(奥義)」即ち「(神の)秘められた計画(musth,rion)」(ローマ11:25、新約聖書中28回のうちパウロ書簡25回)という言葉で表現しています。またヨハネによる福音書は「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16)と神の奥義を言い表しています。自分が最低で無価値であり、死と滅びの絶望の中にあった、その時そこに、突然一方的に「主人」が現れて犠牲の代価を支払い、自分を死の絶望から買い戻し始めたのです。これは驚きであり、予想と思いを超えた、いわば全くの「外」から突入した異質で衝撃的な出来事でありました。突然の「外」から一方的に「主人」目の前に現れて、自分のために死の代価を支払い、罪と死の世界から神の義という冠を与えてくださり、永遠の命のうちに買い戻されたのです。パウロが「15:9 わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」(コリント一15:9)と告白している通り、パウロは、反キリストであり、ステパノを死に追いやった迫害者であった、その自分のために、十字架の死の代価と復活という命を恵み与えてくださったのです。それをパウロは「神の福音」と呼びます。この衝撃的な「神の福音」が自分のために引き起こされ、自分は買い戻されて、主人に仕える奴隷となったのです。言うまでもなく、福音とは「喜ばしい音信」という意味ですが、神は、独り子キリスト・イエスの十字架の死において、その死の代価を支払って罪と死の滅びから、復活という永遠の命のもとに、自分を買い戻してくださった、という突然の出来事が、余りにも衝撃的に自分の前で、しかも無前提で無条件に引き起こされ、自分に向かって迫って来たのです。その衝撃的で驚きに満ちた「神の福音」が、まさに外から自分の内に啓示され、神の福音として、自分のうちに引き起こされたのであります。完全に罪を償い、死と滅びの支配の奴隷であった自分を罪と律法の奴隷から解放してくださって、喜びと希望に満ちた福音のもとに、お招きくださった主人で出会ったのです。いわば闇と絶望の奴隷から光と希望に支配される奴隷へと根源から移され変えてくださる主人がおられ、そのお方のもとでそのお方の福音のために仕える奴隷、すなわちキリスト・イエスの僕として生まれ変わったのです。

もう一つ、衝撃的で決定的な出来事が天から降って来たように突入し、パウロのうちに引き起こされます。それは、復活のキリストからのみことばでありました。使徒言行録9章によれば「9:1 さて、サウロ(パウロ)はなおも主の弟子たちを脅迫し殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然天からの光が彼の周りを照らした。9:4 サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。9:5 『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしはあなたが迫害しているイエスである。9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』」(使徒言行録9:1~6)と記されております。復活の主イエスは、パウロに、ご自身からの直接のみことばをもって、自己啓示したのです。復活のキリストによる突然のお召しであり、僕としての召命でありました。こうして新たに、パウロは復活の主によって永遠の命の福音のもとに買い戻され、キリスト・イエスの奴隷として生きること、それは、パウロの人生にとって決定的な出来事であり、パウロという存在の全てを根底から規定し直す出来事でありました。そしてこの出来事は、外の天から突然に神から与えられた「恵み」としての出来事でありました。「神の恵み」として、突然神から与えられた出来事でした。

パウロは、ここでついに「神の啓示」と「神の選び」とは、その本質は「恵み」として、突然に与えられる出来事である、と知ります。救いとは突然に神が「無条件の恵み」として一方的にご自身の代価を支払って買い取りお与え下さる神の恵みの賜物であった、と気づきます。だから「神の福音」としか言いようがないのです。神は、「救う主人」として即ち「救い主」として、自分のために「無条件の恵み」という仕方で現れ、「選びの恵み」と「啓示の恵み」をパウロにお与えになられ、そして「使徒」としての恵みをお与え下さったのです。恵みは、「物」ではありませんので、正確に言えば、神ご自身が、ご自分を買い取りの代価として支払う「恵みの主」として現れ、パウロを死と滅びから買い戻したのです。

パウロは「神の福音のために選び出され(avfwrisme,noj eivj euvagge,lion qeou)、召されて使徒(klhto.j avpo,stoloj)となった」と言い表しています。「召されて(klhto,j klhto.j)」とは、招待を受けた、と言う字です。自分は、キリストによって名を呼ばれて、恵みによって招かれご招待を戴いている、その恵みの上に、今の自分の存在がある、ということです。しかもさらに重要なことは「神の福音のために選び出され(avfwrisme,noj eivj euvagge,lion qeou)」とも言っていますが、それは、神の福音のために、自分は最初から神により分離分割されて取り分けられていた、という受け身の完了形で表現されています。既に神の福音のただ中に切り取られて入れられており、福音のただ中にあって救いに与るだけでなく、神の福音のために新しい命に生まれ変えられていたのです。それは、この世とは全く異質な神の福音の世界であり、そのただ中へにこの世から切り取られ分離されて、即ち選び分かたれて、取り分けられている(avfori,zw avfwrisme,noj)、それが、今の自分の生きる「生」である、ということがよく分かったのです。神の福音の中に生まれたのですから、福音のために福音と共に生きるのは当然であります。主人により、主の福音のもとに「買い戻された奴隷」は、そのまま直ちに主人の福音のために生まれ変わったのですから、福音のために仕える僕であります。わたしたちは皆、主イエスに代価を支払って福音のただ中へと買い戻され、福音のうちに所属するようになったのですから、キリストを主人とするキリストのもの、キリストの奴隷であり、即ちクリスティアーノス(クリスチャン)と呼ばれるのです。わたしたちを救う主人であり、救い主なる神は、ご自身を死と滅びの代価として支払う「恵みの主人」であります。死の奴隷を贖い買い取るために、御子の十字架の血はその代価として流され、死の奴隷を神の義の冠のもとに永遠の命に招くために、御子は復活して天に昇られたのです。パウロはその使徒として「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたい」と書いています。御子イエス・キリストにおいて、その十字架と復活という秘められた神のご計画において、生まれる前からパウロを召し選び出されていたのです。それが、パウロにとっては、全ての真実でありました。神が、御子において、無条件の恵みとして、御子の十字架と復活を通して、まさにご自身の全身全霊を代価としてお支払いになられた「霊の賜物」を、是非ともローマの皆さんと共に分かち合いたい、と伝えました。このように、パウロは、キリスト・イエスを「主人」として高く掲げ、主人に仕える「僕」(奴隷)として使徒とされ、この手紙を書き始めたのです。

こうしたパウロの「奴隷」(僕)としての自覚は、私たちの思いを改めて戒めます。自分を認めて欲しいという自我欲求から、人の集まる中でみんなに見えるように、自分の自慢したいものを教会に持って来るような言動がよくあります。奉仕についても、同じことが言えるかも知れません。これは、一見、とても無邪気で微笑ましいように見えますが、少し皮肉に考えますと、自分のものや行為は高く掲げて飾っても、案外、神の福音や説教を高く掲げて飾る人は教会でも余りいません。教会のことを名目に、結局、自己を顕示し自己を認めさせたい、という「奴隷」ではなく、自分が教会や信仰生活においてさえも「主人」になろうとするからです。主人である神の愛や福音よりも、自分の欲求を選ぶのです。ここに、本質的な人間の心の病が、罪と背きという病があるからです。これを非難して責めるつもりは毛頭ありませんが、是非、改めて脚下照顧していただきたいのです。反対にパウロのように、本当に神の福音を知る者は、心の底から喜び感謝できる「主人」を知る者は、主人の僕となって仕える「奴隷」の生活を理解し受け入れることができます。教会にいながらも、いつまでも自我欲求の奴隷でいる人は、もしかしたらまだ本当の「主人」を知らず、神の福音が分かっていないからのではないからではないでしょうか。神の愛も、恵みも、福音という喜びも、本当の意味で、まだ知らないのではないか、そして何よりも、自分が実際に今どんな奴隷として隷属と支配を受けているのか、自覚できていないのではないか、ということです。「奴隷」という意味が自覚できないこと、それが、どれほど悲しいことであるか、気付けないことほど痛ましいことはないのです。パウロは自分を「奴隷」と言って、全ての前から自分の一切を取り下げて、ただ「主人」に仕え、キリストの福音を高く掲げて讃美します。教会で信仰の生活をしていても、自分をどう自己認識するか、その自己理解は、そうした行動によってはっきりと表面化されるものであります。奉仕と言いながら、結局は、認めて欲しい、と願う自分が主人になってしまうのです。それとも「奴隷」であることに徹底して、神の福音を高く掲げるのか、そこには本質的な違いが生じて来るのです。改めて、パウロの通り、私たちは「キリスト・イエスの奴隷」なのです。なぜなら、キリストが「主人」となって、死の代価を支払ってご自身の命もとに私たちを買い戻してくださったからです。ですからキリストというご主人に喜んで仕える僕となったのです。そこに、徹頭徹尾「主人」である神に属するもの(クリスティアーノス)として、それゆえに神の栄光のうちに買い取られたものとして、私たち人間の本当の誇りと尊厳が与えらています。この尊厳を知る者だけが、「キリスト・イエスの奴隷」であることを心の底から生涯を尽くして喜ぶことができるのであります。それが教会生活の本質であります。そうでなければ、汚れた罪と自我欲求の奴隷のまま、死と滅びのただ中に、ただただ転落するばかりであります。

 

4.「使徒となったパウロ」

前述の通り、「神の福音のために選び出され(avfori,zw avfwrisme,noj)」とは、神の福音に向かってその中に切り取られ、そのために分離され、取り置かれた、という意味でした。また「召されて(klhto.j)使徒(avpo,stoloj)となった」とは、キリスト・イエスの「使徒(avpo,stoloj)」として、その務めにご招待をいただき、遣わされた、という意味でした。つまり使徒言行録から読み直しますと、「サウロ(サウル)」(使徒言行録9:4)は回心して、実際に使徒たちとエルサレム教会全体の決定に基づき公に「使徒」として立てられ、異邦人宣教に遣わされました。使徒言行録13章によれば「13:1 アンティオキアでは、そこの教会(evkklhsi,a evkklhsi,an)にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者(profh,thj profh/taiや教師たち(dida,skaloj dida,skaloi)がいた。13:2 彼らが主を礼拝し(leitourge,w leitourgou,ntwn)、断食していると、聖霊(to. pneu/ma to. a[gion)が告げた。『さあ、バルナバとサウロわたしのために選び出しなさい(口語訳・新改訳:聖別して、VAfori,sate dh, moi to.n Barnaba/n kai. Sau/lon)。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために(eivj to. e;rgon o] proske,klhmai auvtou,j))。』13:3 そこで、彼らは断食して祈り(proseu,comai proseuxa,menoi)、二人の上に手を置いて(evpiqe,ntej ta.j cei/raj auvtoi/j)出発させた。」と証言されています。パウロ自身が用いたのと同じ「選び出される」(VAfori,sate)という字がここでも用いられています。聖霊が命じたみことばに基づいて、教会の礼拝中にバルナバとパウロを「わたし(聖霊)のために選び出した」ということになります。教会は、聖霊の命じるみことばに応じて「断食して祈り、二人(バルナバとパウロ)の上に手を置いて」按手礼を執行しています。「上に手を置く」とは、人間の手ではなくて「聖霊」を象徴しており、神の御手である聖霊によって任職されたことを意味します。聖霊なる神自らが、二人の上に御手を置かれ、使徒として選び分かち、遣わすのです。さらにエルサレム教会の教会会議が行われ、使徒たちや長老たちが共に集い、バルナバとパウロを使徒として異邦人教会に派遣することを協議しています。そして全会一致をもって使徒として異邦人教会に派遣を決定します(使徒言行録15:1~21)。しかも「15:22そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。15:23 使徒たちは次の手紙を彼らに託した。『使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。15:24 聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。15:25 それで、人を選びわたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させてそちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。』」(使徒言行録15:22~25)とありますように、この教会決議に基づいて、そのための証人を選び、決議記録の正面添書として携えさせ、バルナバとパウロに随行させています。キリストが十字架につけられ復活昇天してから僅か数年足らずのことです。この使徒言行録の証言は非常に重要です。エルサレム教会の全会一致による教会的な決議に基づいて、パウロは「使徒」として認定され、異邦人教会に派遣されます。ウロの「使徒」職は、正統な教会的手続きを経て、使徒として公の根拠をもって、任職され、派遣されています。目に見えない神、聖霊なる神の御手によって「按手」を受けると同時に、実際の目に見える地上の教会的権威と正式な手続きを経て、公の権威ある教会的根拠のもとに、使徒としての派遣が行われたことはとても意味深いことです。現代の教会でよく問題になる根本問題として、教職や牧師の任職と派遣をめぐる正統な教会的根拠は何か、という問題です。神が選び出し任職したとする正統な根拠はどこにあるかを問うのです。その根拠として問われることは、先ず教会が果たして正統な歴史的教会であるかどうか、本当に神の教会であるかどうか、その根拠を問う、ということにかかって来ます。人間同士が自分たちで集まって決めた、或いは人間の考えで造り上げた教会ではなく、神によって立てられた教会であることの証明が求められます。神が召してお立てになる教会であることを証明する客観的な証拠と根拠が問われるのです。

その正統な歴史的根拠とは、主イエス・キリストによる直接の任命委託として、教会の宣教を委ねられた、それが12使徒であり、その使徒たちが一致した教会的権威に基づいて、パウロを使徒として任職して、異邦人宣教に遣わしたことです。このように直接に使徒から使徒へ、歴史的客観性をもつって按手によって任職されるという形で、使徒としての務めは確立されました。現代でも監督制度を堅持する教会においては、この按手は二度と修正できない決定的な力と意味を担います。いわば、「一つの、聖なる、公同の(カトリック)、使徒的教会」を地上に写す重要な根拠となっています。この正統な按手と任職を受けたのだから、真の教会がここに受け継がれている、と言うことになります。それは人間による哲学や倫理を超えた「神の客観的事実」となります。プロテスタントでも、この本質は非常に微妙ですが、監督制度を教会の根幹とする聖公会、メソジスト教会でも同じようです。こうした歴史的に直接に使徒から使徒に至る「使徒継承」の上に、歴史的教会としての客観的で実証的な根拠がある、と考えるようです。

これに対して、宗教改革者ルターは、教職や牧師の務めに、神のみことばの奉仕者(ministerium verbi divini)であることを徹底して求めました。主人は「神のことば」であり奴隷は「使徒」であって、その逆転を容認しませんでした。逆転とは、本来の奉仕者(奴隷)が主人に取って代わり、神のことばを意味を決定し、サクラメントの実質を変化させてサクラメントを成立させる力を独占してしまうことです。奴隷として主人に仕える使徒が、福音そのものの管理権を得て、奉仕する仕え人のはずが最高階級の身分に変質した、とローマ教会を批判したのです。福音の「主人」として働くのは、徹頭徹尾、主イエス・キリストお独りであります。長老派や会衆派の教会も使徒継承を教会の根拠とするのではなく、どちらかと言えば、神のことばでる聖書を規範とし、聖書から解釈される信仰に基づいて、教会を論じる傾向が強いと言えます。使徒から使徒への直接的な使徒継承という歴史的根拠から教会の根拠を語らず、教理的な信仰の継承によって、教会の根拠を見出そうとする立場です。その結果、聖書を規範とする規範とし、信仰告白を規範とされた規範と規定して、教会の根拠の明らかにしようとしました。但し、問題は、逐語霊感説を排除して、やはり聖書を人間が解釈するのですから、人間の側の主観的な「信仰」解釈に依存することとなり、解釈の多様化は教会の分裂を引き起こし、最終的には教会はその根拠を失いかねないという危機を内包しています。

熊野義孝先生は、この教会としての歴史的根拠を基礎に、教会に仕えるべき学びとして、神学をなさった神学教師でした。カトリックや聖公会、或いはメソジスト教会のように、監督制度による使徒継承を主張せずに、どちらかと言えば、長老教会のように信条や教理による信仰継承によって、「一つの、聖なる、公同の、使徒的な教会」を見出そうとされたのではないでしょうか。その中核となる信条は何と言っても「ニケア信条」であり「カルケドン信条」であります。信条の中から公同教会(カトリック教会)の本質を引き出し継承しようとなさったのではないかと思われます。しかもさらに重要なことは、この「一つの、聖なる、公同の、使徒的教会」としての歴史的根拠は、天と永遠から地上と歴史に降って来られた「受肉のキリスト」にあり、特にそのキリストの人性を担う「お身体」を歴史的教会の根拠とする神学を追求されました。地上の教会の本質は、キリストの受肉したお身体を根拠に、即ち十字架に死に復活の栄光勝利を遂げ、天に昇られた神人両性を一体として担うお身体にあります。地上の歴史的教会の根拠は、この天地を貫くキリストの受肉の身体にある、と考えたと言えましょう。このお方がわたしたちの主人となって教会を集め、ご自身である「キリストの身体」そのものに与らせるのです。原啓示である聖書に基づいて、みことばを語り聴き、聖礼典に与る、という地上の歴史的教会における行為は、天地を貫くキリストの身体を根拠とする教会として、キリストの身体そのものに与る道筋となったのです。ですから、洗礼や聖餐は、キリストの身体に直結する恵みの通路であるがゆえに、地上の教会においては、いわば天地を貫いてキリストの身体として現臨する主人ご自身が、地上の教会を通して、福音のみわざを行われるのです。熊野先生の神学の中核は、受肉のキリストによる贖罪と復活による新生の身体にありました。その天地を貫くキリストの身体こそ教会の根拠であり、その根拠と権威のもとで、神の福音のために選び出され、召されて使徒とされることを見出した、と言えましょう。パウロの自己紹介には、どちらかと言えば、直接使徒継承という考え方よりも、十字架と復活のキリストがそのまま「主人」として恵みのみわざを行い、その圧倒的な恩恵のもとで、召されて使徒として仕える自分があったのではないでしょうか。「1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方がわたしたちの主イエス・キリストです。1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」と述べています。いわば、パウロからすれば、神が、その御子である受肉のキリストにおいて、自分のために十字架の死の代価を支払い、その代価を支払われた主人のもとで、神の福音のために選び分かたれ、召されて使徒となった自分は、やはり主人に仕える奴隷でありました。

 

2022年6月12日「別の弁護者を遣わし、永遠にあなたがたと一緒にいる」 磯部理一郎 牧師

 

2022.6.12 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第2(三位一体)主日礼拝

ヨハネによる福音書講解54

説教「別の弁護者を遣わし、永遠にあなたがたと一緒にいる」

聖書 出エジプト記3章7~17節

ヨハネによる福音書14章15~31節

 

 

聖書

出エジプト記3章7~17節

3:7 主は言われた。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞きその痛みを知った。3:8 それゆえわたしは降って行きエジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声がわたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。

3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わすわが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神がわたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」3:14 神はモーセに、「わたしはあるわたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。3:16 さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。3:17 あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。

 

ヨハネによる福音書14章15~31節

14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。

14:16 わたしは父にお願いしよう父は別の弁護者を遣わして永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っているこの霊があなたがたと共におりこれからもあなたがたの内にいるからである。

14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。14:20 かの日には、わたしが父の内におりあなたがたがわたしの内におりわたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 

14:22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き一緒に住む。14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。

 

14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教えわたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。14:30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。14:31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

 

 

説教

はじめに.「わたしはある」(出エジプト記3章16節)

先ほど、旧約聖書出エジプト記3章7節以下を朗読いたしました。何度も繰り返しご紹介した個所です。これがヨハネによる福音書に登場する主イエスが誰であるか、その本質を証言しているからです。旧約聖書の神が、ご自身をモーセに自己啓示した場面です。7節以下は、アブラハム、イサク、ヤコブの神が「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞きその痛みを知った。3:8 それゆえわたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し(中略)彼らを導き上る」と自己啓示して、ユダヤの民の救済を宣言します。ここで意味深い表現は、神は「わたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」とありますように、人々の苦しみや痛みを知る神として自己啓示されています。だから、「それゆえ」に、天から地上に降って民を救い、しかも民を地上から天へと導き上る、と宣言します。神の救いの原点は、民の苦しみと痛みを知る神の愛にあります。その民の救いの使者として、神はモーセを選び、民を解放する指導者として、お立てになりました。

ところが、モーセは、突然、天上から地上に突入する神の啓示に、戸惑いと恐れと動揺の中で、いわば「あなたはいったい誰なのですか」と、まだ見ぬ神に問います。すると、<神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」>とお答えになりました。神は「わたしはある」という者である、とご自身のお名前をお示しになられました。「わたしはある」とは、ヘブライ語では「ハイヤー」という字で「ヤハウェ」の語源であり、七十人訳聖書のギリシャ語訳ではこれを「エゴー・エイミ」と訳しました。モーセは、この神の名のもとに、ユダヤの長老たちを招集して、「『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」と告げ、エジプト脱出を開始します。

まさに主イエスは、この神のお名前をそのまま「わたしはある」と名乗り、ご自身が神であることを自己啓示され、その「神」である力あるしるしとして、ラザロの復活を初めとする数々の奇跡を行い、多くの人々を癒しお救いになられました。しかし「わたしはある」とする「神」の本当の救いとは、受肉した「神」である主イエスご自身において、その受肉したお身体において人間本性の全てを背負い、「神の小羊」として、十字架の死において贖罪を果たして、復活をもって死と滅びに対する勝利の栄光を遂げることにありました。主イエスにおける「神」は、処女マリアより人間本性を受けて担い、十字架の死に至るまで人類の罪を完全に償い、神への従順を貫き、人間本性を罪に支配された死と滅びから解放し、復活という永遠の命のお身体をもって新しい人間本性をご自身に背負いつつ、栄光と勝利のうちに天に昇るのです。こうして人類の新しい人間性は、主イエスの十字架の死と復活による栄光のお身体のうちに、与えられ、担われています。それゆえ人類の本来の国籍は、栄光の十字架と復活のお身体のうちに担われ、天に昇られたので、キリストの身体として「天」にあるのです。主イエスにおける「神」の力のもとで、十字架と復活の栄光のみわざを貫徹した主イエスにおいて、全人類の人間性もまた、主イエスと一体の身体として、十字架の死から復活の栄光を遂げ、そこに民の完全な救いの導きを実現したのであります。

それゆえ、天上に昇られた主イエス・キリストの栄光とお身体は、天地を串刺しにするように貫き、地上に残されたわたしたちの身体を一つにするために、そしていつも主イエスとわたしたちとが一緒にいるようにするために、父から聖霊を遣わしてくだいました。聖霊は、主イエスによる天地を貫き神と人類とを一体に結び合わせるもう一つの助け主として地上に遣わされ、降臨したのであります。主イエスは、「14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」と弟子たちにお約束なさったのです。こうしてペンテコステの聖霊降臨を迎えたのです。このように、聖霊は、天上のキリストの人間性とそのお身体を、地上のわたしたちの人間と身体を一体に結び合わせる「別の助け主」として、天から地に降臨したのです。父と子のもとから天地を貫いて働くこの聖霊の働きとその恵みにおいて、地上のわたしたちは、天上の栄光あるキリストの身体と人間性に、人間性においてもその身体性においても、一体に結び合わされて、同じキリストの身体として永遠の命に招き入れられ、生きるのです。その天上のキリストの身体における救いを、地上のわたしたちの身体の救いとするために、聖霊は父から子の願いを通して降臨したのであります。主イエスご自身が「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におりわたしもあなたがたの内にいる」(14章20節)と言われた通りであります。ついに、ペンテコステを迎えて、わたしたちは聖霊の働きと恵みに満たされて、天地を貫いてキリストの身体と一体に結合され、「あなたがたがわたしの内におりわたしもあなたがたの内にいる」ことになります。聖霊の恵みに与ることで、このキリストの救いの恵みの意味と力は実現し、よく分かるように自覚され、実感することが出来るようになったのです。

 

1.「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」(15節)

主イエスは「14:15あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と言われ、真実な愛は、「わたしの掟を守る」という新しい形となって生まれる、とお教えになりました。愛も信仰も、そのままで終わらずに、その果実として、新し生命とそれに相応しい生の形を生み出す、ということでしょうか。「わたしを愛する」ことは「わたしの掟を守る」ことですが、具体的に、どのようなことなのでしょうか。主イエスは24節で反対に「14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」と言われていますので、明らかに「わたしを愛する、わたしの掟を守る」とは、「わたしの言葉を守る」ことであり、主のみことばに聴き従うということを意味すると考えられます。わたしたちの出来る主を愛する愛し方は、そしてわたしたちの最も優れた掟の守り方とは、ただ只管に、主を信頼して謙遜に、主のみことばを聞き続けることにある、ということになります。

主イエスご自身が弟子たちに語られた主のみことばは、実際に弟子たちにも聞き取ることができ、また理解できる具体的な音声言語として語られました。それはヘブライ語から派生したアラマイ語でありましたが、実際に弟子たちに語られた主のみことばは、さらにそれを聞いた弟子たちによって誰もが共有して読むことのできる「証言記録」としてさまざまな形で伝承され、いくつかの福音書が生まれ、ついに教会のために「聖書」正典として保存され、現代に伝えられています。したがって後代のわたしたちからすれば、「わたしの言葉を守る」とは、聖霊に導かれつつ、「聖書」から主イエスのみことばを聴いて、主イエスのお身体である「教会」の歴史を通して、正しく聞き分けてゆく、ということになります。

 

2.「その人にわたし自身を現わす」(21節)

さらに意味深い点は、「14:21 わたしの掟を受け入れそれを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛されるわたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」と主イエスは教え、主イエスのみことばを聴くことは、即ち「父」のみことばを聴くことに直結しており、そのまま「父」の愛を受けることになり、したがって主のみことばを聴くことは、「父」と「子」から愛を受けることになる、というのです。ここでしっかり覚えておきたいことは、みことばを聴くことは、そこで、直ちに「父に愛される」という神の根源的な愛のみわざのうちに入れられることである、と説かれていることです。聞き落としてはならない点は、みことばを聴く、ということの中に、父と子による神の一致した愛の行為が、しかも能動的で永遠なる神の行為が引き起こされ働いているという点です。

このみことばのうちに、神の方から力強く現臨して働き、永遠の愛のみわざを行われるのですが、それを主イエスは、さらに真実な意味で「その人わたし自身を現わす」と言われます。「その人」即ち主のみことばを聞き入れて守る人に「わたし自身を現わす」とは、神が主のみことばを通して永遠の愛のみわざを行うことですが、具体的にはどういうことを言っているのでしょうか。塚本訳によれば、(だからわたしを愛する者だけが、わたしを見ることができるのだ。)と加えています。17節では「わたしが父の内におりあなたがたがわたしの内におりわたしもあなたがたの内にいる」と言っています。先週の説教から言えば、まさに父と子は神として相互に内在し合う関係が明らかにされます。そうした父と子の相互内在性に加えて、主イエスはさらにご自身における主イエスと弟子たちとが相互に内在し合うようになる、と宣言します。つまりわたしたちが主イエスのうちにあり、主イエスがわたしたちの内にあることを可能にする、と言われるのです。

少し複雑で分かりにくいかも知れませんが、ここでは、二重に重なり合う相互内在性が告知されていることになります。一つは、「わたしが父の内にあり」と言われていますように、「神」として、即ち「三一論」として、父と子と聖霊が、愛の交わりのもとに、相互に認め合い受け入れあって、相互に内在し相互を共有し合う。それによって永遠に一体の神のとして現臨する、という「神」としての相互内在性です。ニケア信条では、父と子と聖霊が「同質本質」(ホモウシオス)として言い表しました。もう一つは、「あなたがたがわたしの内におり、っわたしもあなたがたの内にいる」と言われていますように、受肉したキリストのお身体において、つまり「キリスト論」として、御子である「神」の本性と、罪を除いてはわたしたち人間と全く同じ人間性を受けた主イエスにおける「人」の本性とが、神の永遠の愛のもとに「神」は人を愛し、「人」は神への従順と義を貫き、相互に認め合い相互に交流し相互に共有し合って、一体であることを示してします。カルケドン信条では、キリストにおいて、神性と人性とが「非分離かつ非混合」と言い表しました。言い換えれば、ヨハネはこのキリストのみことばを通して、明らかに三一論とキリスト論を同時に語っているのであります。「その人にわたし自身を現わす」とは、そうしたキリスト論を基とした三一論を展開しているように思えて仕方ありません。

さらに話を進めまして、9節では「しかし、あなたがたはわたしを見ますわたしが生きる(za,w zw/)のであなたがたも生きる(za,w zh,sete)」からです。この19節をリビングバイブルは「もうすぐ、わたしはこの世を去りますが、それでもなおいっしょにいるのです。わたしは再び生き返りあなたがたもいのちを受けるからです。」と訳しています。さらに塚本訳は「もう少しするとこの世(の人)はもはやわたしを見ることができなくなるが、あなた達は(間もなく)わたしを見ることができる。わたしは(死んでまた)生き(それによって)あなた達も生きるからである」と訳しています。19節の「わたしが生きる」ので「あなたがたも生きる」は、どちらも、確かに「未来形」が用いられています。これを語られた時点は、主イエスはまだ十字架につけられ死んではおらず、死の前のことであり、ましてや復活の前のことですので、未来形で語られるのは当然なことです。文法よりも、文の意味から申し上げますと、どちらかと言えば、ここからは時間の概念よりも、いわば時間を貫通する強い「意志未来」の形として、神の強いご意志を読み取ることができるのではないでしょうか。ここでは、神の強い意志においては、今という時そして後の未来の時という「時間」の概念を突き破り、永遠的な同時性として、現在と未来とが一つとなることが語られています。そればかりか、「時間」の概念を打ち破るだけでなく、また「天」と「この世」とを貫通して空間の限界をも打ち破るように、先取りされた「終末論的現実」が語られているように思われます。この時空を超えた打破を可能にしている中心こそ、受肉のキリストとして現臨する神人両性を担う主イエス・キリストのお身体であります。受肉した神である主イエス・キリストのお身体において、その一点で、天地は串刺しにされて貫かれ、永遠と時間の壁は打ち破られて交流し始めたのです。時間と空間を貫通する終末的現実です。

「その人にわたし自身を現わす(evmfani,zw evmfani,sw)」とは、狭義に言えば、これからすぐに起こるキリストの死と復活と世における復活顕現を未来形で告知しています。主イエスは、十字架に死んだ後に復活して、弟子たちに復活のお姿を現す、ということを先ずは意味します。しかしそれに続いてさらに、主イエスは「あなたがたも生きる」(リビングバイブル:あなたがたもいのちを受ける、塚本訳:わたしは死んで生きそれによってあなた達も生きる)と言われています。ただイエスさまだけが十字架の死から復活してお姿を現す、というだけの意味ではなく、わたしたち人間もまた主イエスと同じように復活して永遠の命に至る、という終末時に完成する救いの約束を宣言します。したがって「わたし自身を現わす」とは、さらに深い終末論的な意味を先取りしているように思われます

ですから、みことばを聴くということの中に、終末の出来事がそっくりそのまま先取りされ、豊かに現実のこととして包含されているのです。キリストのみことばを聴くことを通して、またみことばにおいてキリストは天地を貫き現臨して働いておられ、そして地上と時間の中にいるわたしたちは、みことばにおいて現臨するキリストのみわざにより、天上と永遠のうちへと招き入れられ、空間と時間を超越して、主イエスのお身体と一体とされ、復活のキリストの身体に造り変えられてゆくのです。主イエスは、ご自身が語られたみことばを通して、そのみことばのうちに現臨し、わたしたちにご自身を現わして差し出すのです。言い換えれば、神が人を愛する最も幸いな形は、その人に「わたし自身を現わす」ことである、と読むことも出来そうです。

 

3.「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(10、11節)

主イエスは、「その人に」即ち主のみことばを聞く人に、「わたし自身を現わす」と仰せになりました。しかしさらに踏み込んで、ここで言われる「わたし自身」とは、どういうお方を意味しているのでしょうか。さらに詳しくこの意味を聞き直す必要がありそうです。父と子との関係について、少し前のヨハネ証言に戻りますと、「父を見せてください」と言って、主イエスに迫る弟子フィリポに対して、主イエスは「14:10 わたしが父におり父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父がご自分のわざをしておられるのです。」と言って、答えます。主イエスにおいて「神」は働いており、主イエスの語る言葉はそのまま「神」である「父」の語る言葉なのです。主イエスにおいて、また主イエスの語るみことばにおいて、或いは主イエスの全ての行為は、そのまま直ちに「神である父」ご自身が行う神の行為そのものである、と表明されています。

つまり、主イエスはご自身を「わたしはある」と名乗って、「神」そのものをご自身において現わし啓示したのですが、主イエスにおけるその「神」にさらに深く踏み込んで、「父」と「子」とは一体の「神」として、現臨し働いている、と告げます。11節でも「14:11 わたしが父の内におり父がわたしの内におられる」と繰り返して言われます。いわば、父と子と聖霊における天的な神としての一体性が、地上においても主イエスを通して現わさられている、と言ってもよいのでありましょう。受肉者イエスにおいて現臨し啓示された「神」は、まさに父と子と聖霊という三者が一体の神として地上において現わされて、働いているのであります。つまり、主イエスにおける「神」は、御子としての神であると同時に、父と子と聖霊よいう三者一体の神として、三位格が相互に内在共有し合う一つの神として、ここに啓示されているのであります。父は子の内に、子は父の内に内在するのです。これを、父から子は永遠に生まれ、聖霊は父から永遠に発出する、と古代の教理は定義しました。こうした神の視点から「わたし自身を現わす」という意味を考えますと、それは、ただ単に復活して栄光勝利のお身体を弟子たちに顕現されることは元より、弟子たちとその教会に対して、さらに深い奥義として、主イエスはご自身における「神」そのものを、父と子と聖霊が同一本質の「神」であるとして、即ち主イエスにおける三位一体の神を、より深い意味で自己啓示しようとしたのではないか、と言えましょう。主イエスの到来も、聖霊降臨も、このように、神の内側から見ることもできるのではないでしょうか。そしてその神の内在交流の本質から、ご自身を外化し啓示され、歴史という時間とこの世という空間の中に突入したのであります。「父を見せてください」と言ったトマスは、主イエスにおいて、既に完全に「神」を見ていたのに、それどころか、主イエスにおいて、父と子と聖霊が一体に働く神のご自身を既にで合っていたのに、その重大な神の現実を信じて受け入れることが出来ず、理解に至らないまま、終わってしまっていたようです。前に触れましたように、受肉したキリストである主イエスにおいて、三一の神が力強く現臨して働き、みことばを語り、愛のみわざを行われておられるのです。言い換えれば、主イエスにおいて生ける神そのものにフィリポは直面し見ていたのです。

 

4.「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(23節)

みことばを聴き守るとは、詰まる所、主イエスにおける「神」を信じ受け入れる「信仰」に至ることであり、しかもその「信仰」において、主イエスにおける「神」ご自身が働き神のみわざを行われるのです。みことばを聴いて信じる信仰こそが、地上にある私たちが天上の救いに至る唯一の道であります。主イエスは「わたしは道であり真理であり命であるわたしを通らなければだれも父のもとに行くことができないVEgw, eivmi h` o`do.j kai. h` avlh,qeia kai. h` zwh,\ ouvdei.j e;rcetai pro.j to.n pate,ra eiv mh. diV evmou)。」(ヨハネ14:6)と仰せになられました。「みことばを聞く」とは、ただ人間の側のことだけではないようです。主イエスが徹頭徹尾すべての主導権をもって、神の行為をわたしたちのうちに信仰を通して行われることであり、主ご自身が自ら「命」と「真理」そのものとしても、しかも同時にそれに至らしめる唯一の「道」となって、わたしたちの傍らに共におられ導かれる、ということを意味しています。

主イエスは、わざわざ「14:21 わたしの掟を受け入れそれを守る(thre,w thrw/n 保つ)」(21節)とか「わたしの言葉を守る(th,rhsij thrh,sei「遵守」)」(23節)という言い方をしておられます。それゆえ、みことばを聴くとは、聞く人が主の告知をアーメンと心に信じ認めて受け入れる「信仰」に至り、その信仰において、神ご自身が徹底して行使される命と真理のみわざに与らせていただだくことでもあります。「聞く」とは、人格全体とその中枢である魂と身体のうちに、みことばを受け入れ、「神」のみことばのご支配に対して自分自身の全てを完全に委ね明け渡すことであり、それによって、みことばを語る主ご自身が聞く人の内に宿り、永遠に共に住み、天における永遠の命の営みに「道」となって導き入れるのです。人間としてこちら側はただ信じて受け入れるだけですが、しか「神」は、みことばを通してみことばのうちに働き、信仰においてわたしたち人間の魂と身体のうちに深く宿り、永遠に住み着いて、神のみわざを行い、永遠の命の営みに迎え入れてくださるのです。

しかも、人間として受肉してみことば語られる主イエスにおいて、「神」は父と子と聖霊なる三位一体の神として共に一体の働きをもって神のみわざを行い続けます。それは、主イエスご自身が「わたしのうちにおられる父がご自分のわざをしておられるのです」と言い表された通りであります。主イエスのうちにおける父が、ご自身のわざと働きをしておられるのですから、当然ながら、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され父とわたしとはその人のところに行き一緒に住む。」という完全な祝福が実現することになります。聖霊は、もう一つの「弁護者」としてただ聖霊お独りで、キリストから離れて現臨する神ではなく、ヨハネによれば、主イエスご自身のお身体のうちに現臨する一体の神としても、父と子と共に相互に共有し合う神として共に働き、わたしたちのうち深くに共に宿り、共に住まわれるのではないでしょうか。そして、キリストにおける人間性とわたしたち人類すべての人間性を一つに結び合わせて、天地を貫く一体のキリストの身体と成すのです。主イエス・キリストの神人両性の豊かで生き生きとして永遠の相互交流において、しかも主イエスにおける神の三一論的一体性により、聖霊はいよいよ私たち人類を死と滅びから解放し永遠の命による復活を成し遂げられたキリストの身体のうちに招き入れ、豊かな永遠の命の営みのもとで新しいキリストの人間性に造り変え養い育ててくださるのです。ヨハネは、このようにキリストにおける父子聖霊の神を、即ちキリスト論的三一論を生き生きと展開しているように思われます。

 

2022年6月5日「足を洗う」 磯部理一郎 牧師

 

2022.6.5 小金井西ノ台教会 ペンテコステ礼拝

ヨハネによる福音書講解説教52

説教「足を洗う」

聖書 詩編41編1~14節

ヨハネによる福音書13章1~20節

 

 

聖書

13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て神のもとに帰ろうとしていることを悟り、13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

 

13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

 

13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたこと分かるか。13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。13:17 このことが分かりそのとおりに実行するなら、幸いである。13:18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。13:19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはあるということをあなたがたが信じるようになるためである。

 

 

説教

はじめに 主イエスは、十字架における栄光の時を迎え、弟子の足を洗う

本日の13章1~20節を三つの段落に区切り、お話を進めて参ります。先ず1~5節では、イエスの栄光のとき、即ちイスカリオテのユダの裏切りによって、ついに十字架における死の栄光の時を迎える時であり、御子を世にお遣わしになられた父なる神のみもとにお帰りになられる日を迎えたことを告げます。地上との別れを覚悟され、地上に残す弟子たちと別れを告げるのですが、その際に、主イエスは、弟子を深く愛する愛の奉仕者として、奴隷となって、弟子たちの足を洗い始めます。

第二段落の6~10節では、弟子の足を洗い始めた主イエスに対する弟子たちの反応です。特にペトロは、主イエスが、愛の奉仕者として弟子の足を洗う、その意味を理解することが出来ません。ペトロは、イエスさまに足を洗っていただくなど、決して有ってはならないことだ、と拒絶しますが、主イエスは、弟子の足を洗うという愛の奉仕の中に、メシアと人々との本質的な関わりがあることを教えます。

最後の段落11~20節では、イエスさまの十字架の死におけるユダの裏切りと弟子たちの躓きを予告し、改めて、互いに足を洗い合うことを模範とする奉仕の愛をもって、互いに仕え合うべきことこそ、弟子であることの本質であり証明である、と教えます。

 

1.「この世から父のもとへ移る御自分の時が来た」

そこで、主イエスの栄光のときについて、即ち十字架における死の栄光について、改めて振り返りますと、イエスさまは、ラザロを復活させるという誰もが否定できない決定的なメシアのしるしを行われ、ご自身が父なる神から遣わされた神のメシアであることを証明して見せました。12章17節以下に「12:17 イエスがラザロを墓から呼び出して死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。12:18 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。12:19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ世をあげてあの男について行ったではないか。」と証言されている通りであり、まさに、主イエスにおける「神」の力は決定的でありました。主イエスにおける「神」の力が証明されたことは、つまり神のメシアであることは、誰の目にも余りにも決定的で明らかになっていたようです。反対に、これはとても皮肉なことなのですが、それが明らかになればなるほど、それを恐れた大祭司を頂点とするユダヤの宗教的権威は、最高法院において、主イエスを殺害する最終決議を断行したのでした。言い換えれば、主イエスご自身が神の子であり、神のメシアであるがゆえに、それがいよいよ真実となったがゆえに、十字架における栄光の死は、イエスさまにとっては避け難い事態となっていたのです。ユダヤの権力者たちは、神の名のもとに、律法を利用して、自分たちの権力支配を保持するためには、確信をもって主イエスを抹殺しなければならないと決断したのです。しかも民族にために神が使われたメシアをローマに売り渡すことで、ローマに対してもユダヤの利権確保を謀ったのです。神に対する背きの中で、これほどの背きは、前例を見ることはできないでありましょう。いわば、最後に残された救いの希望を、最後の究極的な神の背きとして排除してしまったのです。しかも、その通りに、ユダヤの宗教権威は、メシアを「ユダヤの王」として処刑抹殺することを、確信をもって決断し実行したのであります。

こうしたユダヤの権力者たちによる究極の背きの前で、主イエスは、壮絶なご決意をもって、臨まれます。それが、背きの罪で最も汚れている者の足を奴隷の姿となって洗う拭う、という痛ましいほどの愛の奉仕者として、まさに彼らの背きの頂点を成す十字架刑において、ご自身を生贄の小羊として死の奉仕を貫くことを明らかにされるのです。この十字架上の死による愛の奉仕は、徹底的に主イエスが「神」であること、その愛も正義も真理も、全てが権力者たちの背きによって否定され汚され卑しめられているのですが、その全否定を自己否定的な愛の奉仕をもって仕え受け入れ、主イエスはその汚れた足を洗い拭うのであります。

ヨハネはこうした苦難について、詩編41編のダビデの詩によって、描こうとしています。41:2 いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。41:3 主よ、その人を守って命を得させ/この地で幸せにしてください。貪欲な敵に引き渡さないでください。41:4 主よ、その人が病の床にあるとき、支え/力を失って伏すとき、立ち直らせてください。41:5 わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」41:6 敵はわたしを苦しめようとして言います。「早く死んでその名も消えうせるがよい。」41:7 見舞いに来れば、むなしいことを言いますが/心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。41:8 わたしを憎む者は皆、集まってささやき/わたしに災いを謀っています。41:9 「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい。」41:10 わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。41:11 主よ、どうかわたしを憐れみ/再びわたしを起き上がらせてください。そうしてくだされば/彼らを見返すことができます。41:12 そしてわたしは知るでしょう/わたしはあなたの御旨にかなうのだと/敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。41:13 どうか、無垢なわたしを支え/とこしえに、御前に立たせてください。41:14 主をたたえよ、イスラエルの神を/世々とこしえに。アーメン、アーメン。

この詩編41編で預言される祈りは、明らかに愛の奉仕者としてささげられる「苦難の祈り」であり「執り成しの祈り」のように聞こえます。主イエスの十字架における死とは、まさに過越の祭りの前日の出来事として、ユダヤの背きの足を洗うのです。「神」が主イエスにおいて民の背きの罪を洗われたのであり、足を洗われる主イエスは愛のメシアによる奉仕の本質を示している、という強い確信のもとに、ヨハネとその教会の人々は証言したのではないか、と考えられます。しかも単に「愛の奉仕」を倫理的な教訓として語るのではなくて、神のメシアの本質を成す栄光のわざとして証言します。主イエスにおいて、したがってキリスト教全体において、愛とは、神の本質を構成するものであり、奉仕とは神の救いそのものの中核を成すのであります。前にもお話しましたように、絶対である、即ち異質なる他者を自己の内に認め得ない絶対者が、痛みをもって、他者を、しかも究極の背きをもって十字架の死を仕掛けて来るユダヤの民の足を、神ならぬ人類に仕える「奴隷」となって洗い清め、自己の死の犠牲を引き換えにして、自分に背く他者を受け入れて認めるのです。そうした「足を洗う」という愛の奉仕の源泉は、三一体の神の本質から、溢れ出ます。唯一絶対の神という神の本質の内に、父と子は相互に受け入れ合い仕え合う、父は子に全権を委ね全ての栄光を与え、子は父のもとに全存在を尽くして敬い従順に従う、という相互が自己否定的に容認し合い仕え合い献げ合う、こうした三位格の永遠の相互内在的な交わりのうちに、愛の源泉はあり、神の本質が明らかにされ、三位一体という神の本性を示されます。したがってキリスト教は一神教と言われますが、その一つの神は排他的で暴力的な独裁神ではないのです。反対に、他者のためにどこまでも自己を捨てて自ら奴隷となって、他者の足を洗う自己否定的な愛において、その豊かな愛の交わりにおいて、唯一真の神としての本質を明らかにするのです。そうした父と子と聖霊の愛の交わりが本質的な愛の源泉となって、被造物世界にも及び、ついに十字架の死の痛みをもって罪人を受け入れて認めてゆく、それがキリストの愛であり、愛の奉仕であり、汚れた足を洗う主イエスの本質であります。天国とはそういう神の交わりのうちに営まれる愛と命の泉であります。

ヨハネは、主イエスの十字架における死について「この世から父のもとに移る(metabh/| evk tou/ ko,smou tou,tou pro.j to.n pate,ra)」という言葉で言い表します。この「移る」「立ち去る」という動詞は、ヨハネからすれば、ただ単に地から天への物理的移動を意味するだけではなくて、むしろ啓示の本質を明らかにする啓示の意味で用いられています。つまり「移る」とは、神本来の本質を明らかに示して表す啓示用語として用いられています。したがって、神本来の本質を明らかに啓示するとは、まさに神の愛が背きと言う罪に汚れた足を洗うという愛の奉仕のわざとなって、しかも十字架の死に至るまで洗い清めるための自己犠牲として、従順に神に献げる贖罪の生贄奉献として明らかにされるのです。3節に「13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て神のもとに帰ろうとしていることを悟り」とありますように、主イエスにおいて、神の本質は二方向において働く神の啓示として示されています。一つは、父から見た神の働きとして、父がすべてをイエスさまの手に委ねられていること、そして子から見れば、父のもとから来て、父のもとへ帰ることとして啓示されます。さらに付け加えるならば、父と子との関係から、さらに聖霊が別の弁護者として、この世に遣わされるもう一つの派遣として展開します。教理用語で言えば、御子は「父から生まれ」、聖霊は「父から発出する」という表現を用いますが、父から子が主イエスにおいて遣わされて世に降り、そして今度は父から聖霊が主イエスを通して発出し遣わされるのです。このようにして「神」の本当のお姿が、神の本質である愛は、いよいよ愛の奉仕者という姿で世に露に現わされ、啓示されるのであります。イエスさまは、処女マリアから聖霊によって受肉して、イエスとして人間性の全てを背負い担われました。その主イエスにおいて、その人間性の奥深くにおいて、父と子と聖霊なる神はいつも相互に内在し合い愛し合いそして遣わして、神本来の本質を愛の奉仕者として、世に現わして明らかにします。父と子と聖霊とは、常に愛の奉仕者という本質に基づいて、相互に内在共有し合う関係を保ちながら、それぞれの役割を果たすのであります。三位一体の神は、受肉したイエス・キリストというお方において、内在し包まれつつ、外化し現れ、啓示されるのであります。したがって、人間のお身体を持つキリストから父なる神も聖霊も決して切り離されて存在することは有りえないのです。キリストを通して、父と子と聖霊なる神は、常に生き生きと現臨し働き、愛のみわざを行っておられるのではないでしょうか。つまり、イエスさまから、弟子たちが汚れた足を洗っていただいた、という愛の奉仕は、主イエスにおける神の永遠の本質から溢れ出る栄光のわざとして、終末を超えて永遠における天上のわざとして、先取りされて写し出されており、永遠に貫かれてゆくのです。

 

2.「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)

そしてついに主イエスは弟子たちの足を洗います。「13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、『主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか』と言った。13:7 イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが後で分かるようになる』と言われた。」と記されています。十字架の死に至るまで徹底される神の愛の奉仕を非常によく象徴する行為ではないでしょうか。単に足を洗うのではなく、赦されるべきでない罪人の罪を完全に償い、赦しを与え、そして死と滅びから永遠の命に復活させる、という栄光へと招き導く、という洗足行為であり、神の救済の本質となる贖罪行為であります。しかしペトロにはその意味が分かりません。ペトロの「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」(6節)「わたしの足など、決して洗わないでください」(8節)という言葉は、一見、イエスさまに対して厳かな敬意を表しているように聞こえますが、残念ながら、全くイエスさまを理解できていない、厳密に言えば、主イエスにおいて現臨する「神」をまだ知らず、受け入れることができていないのです。そうした無理解の弟子に対して、主イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる」と諭します。イエスさまとは、いったい誰なのか、正しく理解できていれば、汚れた足を洗ってくださる意味の深さ尊さはよく分かるはずなのですが、しかもそれはどうしてもなくてはならないことなのですが、ペトロを初め弟子たちには、まだイエスさまにおける「神」は見えてはいなかったのです。自分の足を洗われる受肉の「神」を知らないのであります。

本日は、教会暦で申しますと、ペンテコステの聖霊降臨日にあたります。聖霊が天から降り、教会の人々に注がれ、宿ります。とても不思議な出来事ですが、皆さんひとりひとりに、「神」である聖霊が天から降り宿ったということになります。ただ、聖霊派の方々のようにこの聖霊降臨だけを突出させて、イエスさまから切り離して、この断片だけで全てを語り尽くすことはできません。なぜなら、聖霊の降臨は、あくまでもイエスさまの十字架と復活そして昇天という「受肉した御子のお身体」の存在を大前提にしているからです。言い換えれば「教会」という「キリストの身受肉の身体」を前提にして、はじめて展開する神の出来事だからです。熱狂的に聖霊さま聖霊さまと叫び求めて祈る教会もありますが、そうした聖霊派の教会でも、その教会の根本は、イエスさまの十字架と復活と昇天のキリスト、即ち天地を貫いて現臨する主のお身体を前提にしているはずであります。処女マリアから聖霊によって受肉し、地上において人間性の全てを背負って担われ、十字架において死に三日目に復活して天に昇られた、いわば天地にまたがる主イエスの栄光のお身体との深い交わりの中で、引き起こされている神としての聖霊のみわざであります。教会は、そのイエスさまの身体である、ということを前提にして、つまり主イエスおける「神」、すなわち神の御子としての父と聖霊との根源的な交わりの中で、父は子の身体である教会に対して聖霊を遣わすのであります。聖霊降臨の源泉は、三一論的な父と子と聖霊における根源的な相互内在に的な交わりにあり、しかもその三一論的交わりは子において受肉した身体性を内包し、御子の受肉した身体性を写すキリストの身体である教会を用いて、自然万物の世界を大きく包みあげてゆくのです。言えば、聖霊降臨という救済史的出来事は、キリスト論的三一論の展開として生じているのではないでしょうか。世は神の愛と恵みにより、聖霊の賜物をいただき、聖霊に漲り溢れるのであります。父と子と聖霊の豊かな愛と交わりの本質から、当然ながら、生じる神の愛の奉仕であります。そうした神の本質的な愛の奉仕という命の営みのもとに、キリストの身体は天地を貫いて存在しており、そのお身体における豊かな命の交わりを源泉として溢れ出るかのように、聖霊は地上に降り、私たちに宿り、万物に沁みわたり万物を満たすのであります。

そう考えますと、聖霊を受けるとは、元々三一論的な神の大きな愛の本質から生まれたことであり、天地を貫くキリストのお身体全身に漲り溢れる力でもあります。したがって教会生活の全てがこの神の愛の奉仕によってすっぽりと大きく包み込まれていることが分かります。洗礼を受けることや、みことばを聞くこと、聖餐に与ること、日々祈り讃美すること、それは全てイエスさまのお身体において漲り溢れる「神」の力あるみわざそのものではないでしょうか。

イエスさまが、罪に汚れた足を洗うとは、神の愛の奉仕、神本来の愛のみわざ、救いのみわざの全てを象徴する行為であります。であるとすれば、主イエスが十字架の犠牲となって罪を償うことも、聖霊が降って私たちの弁護者となってくださることも、皆、神の愛の奉仕のみわざでもあります。主イエスが、奴隷となって、足を洗うのも、聖霊が天から降りわたしたちの弁護者となって仕えてくださることも、足を洗う神の愛の奉仕そのものでもあります。足を洗うという行為は、奴隷のする仕事でしたが、イエスさまがわたしたちの奴隷のようになって足を洗うという行為を、もう一度、深く、三一論的に読み直すことができるのではないでしょうか。主イエスの十字架の死における栄光のみわざを通して、父と子と聖霊なる神もまた相互に関係し合いながら、愛の本質を果たしておられるのではないでしょうか。「父がすべてを御自分の手にゆだねられた」とは、御子のみわざのうちに、父と子と聖霊なる神は一致して、主イエスにおいて神の愛の本質を現わされた、ということになります。そういう意味からすれば、とても自己犠牲的にご自身を差し出す主イエスのサクラメント的な行為にも見えて来ます。後にペトロが主に「主よ、足だけでなく、手も頭も。」(13:9)と言っていますが、まさに洗礼のようでもあり、しかもこの洗足の行為は、「13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」と記されていた通り、食卓場であり、イスカリオテのユダの裏切りが明らかにされる場でもありました。つまり、主イエスの十字架の死を中核にして、説教がなされ、洗礼と聖餐を包み込むように、奴隷となって汚れた足を洗う愛の奉仕のわざが行われています。ここに三位一体の神の相互内在の本質、神のメシアとしてご自身を啓示する愛の本質、そして神の福音を告知する使徒としての本質と模範の全てが込められ、明らかに現わされ、示されているように思われます。このように、弟子たちは元より、教会もわたくしたちも、いつも主イエスが奴隷となって、汚れた足を洗い拭い続けてくださる洗足のみわざの中に、確かに選ばれて招かれ、包まれて導かれているのではないでしょうか。主は、決して清くない者たちの足を洗って拭い続けられる、その洗足の主こそ、教会の根拠であります。わたしたちが清く正しく強くなることによって担保され保証される教会ではない、ということがよく分かるのではないでしょうか。

 

3.「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになる」

いつもお話しますように、神さまのこと、或いは信仰の世界は、ある意味で、私たち人間に納得のゆく世界ではないように思われます。なぜなら、人間の判断や思考の基準に適うない領域だからです。元々人間には分からないことだから、信じなさいと言われても、それは余りにも乱暴な話です。ですから、やはり分かるようになる、理解し認識できるようになる、そして納得する、ということは、人間としての尊厳においても、決して捨象することはできないのは同然のことであります。主イエスご自身も、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが後で分かるようになる」と教えられ、「模範を示したのである。13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」と仰せになり、弟子たちを諭しておられます。決して、分からなくてもよい、というのではなくて、いずれ、分かるようになる、のです。したがって、神の方から自ら啓示して神の真理を示す神の恵みと、そしてその啓示に心を向けて認識を深めてゆこうとする人間の理解という両方向から関わり合える「交わりの場」が確保されることが大事になります。結論から言えば、聖霊なる神からの助けを受けることのできる場です。聖霊の恵みをいただくことで、「あとで」分かるようになる、ということでもあります。この「後で」とは、明らかに、キリストが天に昇られて、聖霊が遣わされた後で、ということを意味しますが、同時にまた、使徒が立てられ遣わされて、目に見える歴史的な教会が地上に導かれ、その地上の教会を聖霊が助けてくださることを意味しています。であるとすれば、教会の中に、分かる根拠は既に与えられている、ということになるのではないでしょうか。教会に使徒が使われ、福音の宣教が行われ、聖礼典が執行され、その一つ一つのうちを貫くようにして、聖霊が語るように真理を明らかにしてくださるのではないでしょうか。みことばを語りみことばを聞くとはそういうことではないでしょうか。使徒によって伝えられた信条や信仰告白に基づき、一致して、聖書が忠実に解き明かされ、解き明かしが正しく聞き分けられ、聖礼典に与るという営みそのものの中に、全ての真理が貫かれ、啓示され、導かれているのです。こうした聖霊による共同的な教導を信頼し身を委ねる営み全体を通して、信仰的認識は深められます。人間は神になることはできませんが、神との交わりを知るようになり、神との交わりに生きることは出来るようになるのではないかと思います。そして、主イエスが、弟子の足を洗われたように、主の洗足を模範として、互いの足を洗い合うという新しい生に目覚め、新しい生に生きることもできるはずです。

2022年5月29日「世を裁くためではなく、世を救うために」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.29 小金井西ノ台教会 昇天第1主日

ヨハネによる福音書講解説教52

説教「世を裁くためにではなく、世を救うために」

聖書 申命記18章15~22節

ヨハネによる福音書12章36b~50節

 

 

聖書

 

12:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 

12:36 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。12:37 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。12:38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」12:39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。12:40 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず立ち帰らないわたしは彼らをいやさない。」12:41 イザヤはイエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。

12:42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。12:43 彼らは、神からの誉れよりも人間からの誉れの方を好んだのである。

 

12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が終わりの日にその者を裁く。12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父がわたしの言うべきこと語るべきことをお命じになったからである。12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

 

 

説教

はじめに. 「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた」(イザヤ6:10)

ヨハネによる福音書は、12章において、主イエスは神のメシアであることを認めようとはしない「ユダヤの不信仰」を問題にします。主イエスは、いつも「わたしはある/わたしは~である」(エゴー・エイミ)とご自身を名乗り、神ご自身がモーセに啓示されたお名前をそのまま用いて、ご自身をお示しになっておられました。主イエスは、世に遣わされた「神」として、民に永遠の命を与えるために、天から降って来た「命のパン」でありました。ところが、あろうことか、自分たちの救いのために、天から降られたはずの神のメシアである主イエスに対して、律法学者や祭司長などユダヤの宗教的権力者たちは、主イエスを安息日規定の違反者として、また神を名乗る神の冒涜者として、律法に基づいて処刑して抹殺してしまうことを決意したのです。彼らにそれほど激しい怒りと憎悪を齎した原因は、言うまでもなく、一つは「神」ご自身の超越性にあり、もう一つは「神」を測り取ることのできない人間の認識力の限界にありました。神と人との間には、どうしても超えることのできない本質的な違いがあるからです。元々、人間は有限ですから、無限なる神を捉えることは不可能です。したがって、だからこそ、神に対しては「信仰」をもって向かう以外に道はないのですが、人間は自分たちの知恵を神を測る基準として絶対化させたため、その結果として「不信仰」に陥り、「神」を認められず、結局は「神」を人間の世界から抹殺することになってしまったのです。不信仰か、すなわち人間の思いを全てを測る基準として絶対化するか、それとも、只管「信仰」において神を絶対化するか、いずれかの道を選択しなければなりません。

ヨハネは、そうした不信仰の背景について、イザヤの預言に従い「彼らはイエスを信じなかった。12:38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。『主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。』12:39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。12:40 『神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされたこうして彼らは目で見ることなく、/心で悟らず立ち帰らないわたしは彼らをいやさない。』12:41 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」と、民の不信仰を預言するイザヤの預言をそのように解き明かしています。不信仰の根本原因は、ある意味で、神と人との間にある本質的な問題であり、これはどうしようもないことですが、そもそも有限な被造物である人間に、無限であられる永遠の神を捉えることも、ましてよく分かるように理解することなど、とてもできないことなのです。それゆえ、神を知り、神と出会える唯一残された場は、ただ「神のみことばと啓示を信じる」という信仰において、神を認め受け入れる外にないのです。ですから「神」に対しては「信仰」のみが唯一の救いの道となるのです。それを、ヨハネは、ギリシャ語訳の七十人訳聖書からイザヤ書6章10節の預言を引用して「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」と解き明かしたのではないかと思われます。神の意図と意志で躓かせて不信仰に至らしめた、と神の悪意ゆえに不信仰は生じていると読めそうな表現でありますが、そうした神のご意志に基づいて不信仰は生じた、と考えるのではなくて、むしろ、被造物である人間の本質的な限界の中で、最初から人間が造られる時点から、人間には神に対する「信仰」が大前提とされていたと考えられます。人間とは根源的に神に対しては信仰をもって向き合うように、創造されたとも言えるかも知れません。その信仰に立つことが出来なくなった理由は、人間の罪と堕落による、と考えるべきでありましょう。蛇に誘惑される中で、神のみことばを聴き分けて神を信頼し神に従う選択を放棄してしまった、その結果、人間は自由を神を放棄する選択に用いたため、不信仰に支配され、神に頼らず有限なる自己を全てを測る基準として、自己絶対化してしまいました。このように、極論すれば、人類の根本問題とは、神からの啓示を信じて受け入れるか、それても信仰を拒絶して、自己絶対化の中で全てを測るのか、という点に集約されるのではないでしょうか。

 

1.「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」(43節)

ヨハネは、人間の不信仰の原因について、ヨハネ自身の見解もここで明らかにしています。「12:42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かったただ会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。12:43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」と記しています。恐れ、はばかって、と明記されておりますように、不信仰を生じさせた原因は、神を畏れることを選ばず、人の顔色を選んだことによります。しかもヨハネははっきりと「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」と言っ切っています。「天」に生きる誉れを求めるか、それとも「この世」での誉れを求めて生きるのか、それによって、光と闇の全ての真相は明らかにされるのです。この世での成功を求める以上に、天における成功を喜び求めることです。天における成功とは、人としての破れを知り、罪赦されて、神からの恵みによる祝福を与えられることです。なぜなら、私たちの国籍は天にあるからです。この世で勝利しても、それはこの世限りで終わるものです。天における勝利は、永遠の命に輝き続けます。これを信じ切れるか、ということになります。

ユダヤの宗教権力者たちは、神の掟である律法を用いまた宗教組織を利用して、民を支配し、自分たちの支配権を確立しました。最も悪質な点は、神の名を用いて律法の名のもとに、政治や世俗の物質的利権を独占したことです。彼らの独占と支配欲求は、律法の規定を口実にして、神殿税という名目で金銀を民からをかすめ取り、神殿で奉献される生贄の売り買いにより莫大な収益が得られるように、神の名のもとに宗教共同体として構造化されていたのです。実に悲しいことですが、こうした実態は、わたくしたちの教会も含めまして、いつの世でもまたどんな宗教においても、決して否定し難い現実のように思われます。この世の宗教団体においては、まさに例外なく、常に立身出世による名声や蓄財、そして独占と支配欲求が大きく宗教の本質を歪め汚してしまうのです。宗教団体内の権力闘争や、場合によって教理論争の背景にさえも、こうした私利私欲を隠して独占支配を求め合う争奪戦が見え隠れします。情けないことですが、そうしたほんの僅かな利害や場が欲しくて、驚くほどの勢いで、多くの人々がその奪い合いの群れに集まるのです。「人々を恐れ」「はばかる」のは、自分の小さなしかし手にした利害を失うことを恐れ、隷属したからでした。ヨハネは「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」と言い切って、この世の「宗教」の現実を断罪すると共に、ここで非常に厳しく糾弾しようとしたのではないでしょうか。

そして最も罪深いと言える点は、彼らは、いつもこの独占支配の欲求から、神の名を利用することに止まらず、「神」とその真理を完全に抹殺する図り、実際にそれを断行してしまったことです。マタイ福音書によれば、ヘロデは、王としての支配権を守るために、神のメシアであるイエスさまを抹殺しようとしました。「2:16 ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた。」と証言しています。ヘロデばかりか、何と、大祭司がその先頭に立ち、主イエスを十字架刑に処する陰謀を断行してゆきます。宗教を守る第一人者が「神」を殺しているのです。宗教の本質から問われる点は、ここにあります。「神」の服従者の宗教権威は、絶えず、「神殺し」の当事者であり続けるのです。それは「世からの誉れを好んだ」からだ、とヨハネは糾弾したのです。こうした所から見ると、必ずしも目に見える宗教集団が「神」を誠実に信じて守る集団ではない、ということがよく分かりますし、それどころか、神の暗殺者そのものであったことが見えて来ます。まさに主イエスが十字架につけられた場所は、神殿があるエルサレムであり、日々聖書の言葉をもって祈り続けるユダヤ人の中で殺されました。言葉にできないほど、何と悲しく痛ましく、そして絶望的なことなのでしょうか。ここでヨハネの叫びが聞こえて来るようです。わたしたちが信じるのは宗教団体や宗教的権力者では決してない、わたしたちは、徹頭徹尾ただ「神」お独りとその啓示だけを信じるのだ、と叫んでいるようです。

 

2.「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(36節)

だからこそ、主イエスが人々に説いたメッセージは、ただ「信仰」に生きる道の意義でした。35節以下で「12:35 イエスは言われた。『光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。12:36 光の子となるために、光のあるうちに光を信じなさい。』」と教えています。光、即ち主イエスと主イエスの教えのみことばを信じることです。先ほど、宗教的権力者のお話をいたしました。神という名も、ユダヤ教という宗教的枠組み全体をも、全て皆、自分たちの独占と支配欲求を満たすために利用する道具として、ユダヤ教を構造化していたのです。それが、サンヘドリンという権威の仕組みでした。そして多くのユダヤの人々は、この宗教的利害を求めて群れをなし、律法支配のもとに隷属し集うたのです。

しかし、ユダヤの宗教は、そうした権力支配がすべてではありませんでした。決して忘れてはならない人々が聖書の主人公として登場します。それは「罪人」と呼ばれた人々の存在です。罪人とは、律法規定を根拠に、この宗教的利害の共同体から完全に排除され、社会生活や暮らしの場を奪われ、捨てられた人々です。そしてこの罪人と呼ばれる人たちの殆どは、病人であり、障害を余儀なくされた人々であって、強盗や政治犯は僅かであったと考えられます。ほんの僅かな命の隙間を求めて、地を這うように、荒れ野を彷徨う人々でありました。飢えと渇きの中で、罪人たちは、ほんの僅かながら共に助け合い慰め合い、定められたお互いの死を看取り合うばかりの人生でありました。権力欲や支配欲どころか、この時代はまだ生活保護制度も健康保険制度もなく、反対に共同体から排除抹殺されて、今日一日さえも生きることが許されない人々が多くいたようであります。マルコは、主イエスとファリサイ派との問答をこう記します。「2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。2:17 イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マルコ2:16~17)。このように、イエスさまが、みことばを語り福音を告げ、食卓を共に囲んだ人々とは、まさにこうした「罪人」と呼ばれる人々でありました。それでもなお、主イエスは食卓を共に囲み、天国の福音のみことばを語り、生きるべき「光」を彼らに与えられました。その光は、今、ここでから直ちに、罪赦され、神の愛と祝福のうちに永遠の命に生かされる道であります。それは、ただ主のみことばを信じて受け入れることで、今ここで共に与り与えられる希望の光であり、永遠の命であり、神のいつくしみ豊かな慰めでありました。世の誉から排除された人々には、その貴い意味と力が伝わったようです。なぜなら既に彼らは、この世に生きることを奪われていたからでした。

最近、わたくし自身も年を取るようになりまして、体力も気力も失われ、死を少しずつ考えるようになりました。問題は、定められた「死」とどのように向き合い、「終わり」を迎えるか、「人間の幸い」とは何であるのか、とよく考えます。やはり平和で穏やかに過ごす日々こそ幸いだとしみじみ思います。そして何よりも、神さまの愛と恵みに包まれてこの身をお委ねできる「平安」こそ、何と大きな慰めであり安息であろう、と思います。ただ、ここでお慰めの話をしようというのではないのです。そうではなくて、主イエスは、そのみことばを通して、「神」がおられることを知り、「神の法廷」に招かれて立つことの意義を知るのです。そこで、人格の本質となる「愛」を知り、「義」を知り、「命」を知るのです。そこに真実な意味で、本来の尊厳ある人格として立つ場があり、失うこともなく色あせることもない永遠の命に輝く場があるからです。こうした現実は、ただ「信仰」において得られる世界であり、しかし同時に確かに「信仰」において現実に生きる喜びを知ることもできるはずです。なぜなら、死んだら全てが終わる世界はこの世ですが、死んでからいよいよ始まり、永遠の命が実証される世界に生きることができるようになるからです。

 

3.「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」(44節)

12章44節を読みますと、誠にありがたいことですが、主イエスはさらにこう教えます。「12:44 イエスは叫んで、こう言われた。『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。12:45 わたしを見る者はわたしを遣わされた方を見るのである。12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。』」(ヨハネ21:44~47)。主イエスは「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」と言われており、単に人間イエスを信じる、或いは単に人間イエスの姿を見、言葉を聞いているのではなくて、それは即ち「わたしを遣わされた方」である父なる神を信じ、神を見、神の言葉を聞いている現実そのものであることを明らかにします。これは、神から遠く離反して、神を信じることに絶望したこの世の人々にとっては、最も意味深い教えです。なぜなら、このみことばにおいてそしてこの方ご自身において、わたくしたちは直接に「神」そのものによる神の審判の法廷に招かれ、立たされることになるからです。今、わたくしたちは、共に聖書に記された主イエスのみことばを聴き、それによって示された主の霊的なお姿を見ていますが、それが直ちにそのまま、ただ主観的に聞いて信じているという行為にとどまるのではなくて、それは信じる信仰を貫いて、「神」そのものに到達し直結している、という教えです。それが、主イエスにおいて、主イエスのみことばにおいて、引き起こされているのです。それを信じて受け入れることで、神の審判の法廷に直ちに引き出され立たされ、神と直面するのです。しかもその法廷は、裁きではなく、救いの法廷となって実現している、というのです。イエスさまは、ご自身のことを「わたしはある(エゴー・エイミ)」という神の名を用いてお示しになりましたが、それはまさに、ご自身において「神」が現臨して、神がご自身をお遣わしになっておられ、ご自身の言葉を通して、神が命の法廷にわたくしたちひとりひとりを立たせて、救いの裁定をなさる、ということになります。この神の法廷では、御子イエス・キリストが、人間の全ての罪を背負い、完全に罪を償い、十字架の死に至るまで従順を貫き、完全な神の義が果たされ、復活という勝利と祝福の命が明らかにされます。まさに神の贖罪の法廷です。その法廷に立ち、その贖罪という愛の裁きを向き合うのです。そしてそこに、神の愛による赦しと恵みを認めますか、感謝と讃美をもって受け入れますか、と問われるのです。そして「はい、主よ、信じます」と答えることで、神の法廷は結審します。大事な点は、信仰においてここまで徹底貫通することです。「12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」という神のご計画のもとに、人々罪は赦され、救いは実現します。

 

4.「わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(48節)

突き抜ける、直結する、という言葉を、わたくしはよく用います。それには、どうしてお伝えしたい信仰の意味があるからです。天国とは、この世を超越した、全く切り離された世界です。いわばこの世からは、決して届かないし、見ることもできないし、捉えることもできません。したがってこの世の人々は何とかして、天の世界に触れたい、思いを寄せようと、偶像を造り拝みます。こうした偶像崇拝は、人間の欲求の投影でもありますが、それ以上に、天への憧れや欲求が偶像を造り、さまざまな宗教が生まれます。神さまから造られた人間ですから、いわば、生まれた所を本能的に探し求めているからでしょうか。しかし罪ゆえに堕落し壊れた人間本性は、正しく生まれた場所を思い起せないので、結局は、自分の都合のよいような偶像によってしか、それを求めることはできなくなってしまいました。

ところが、主イエス・キリストは、天から「神」ご自身が人間という形態のもとに地上に降られて、人々にご自身のうちにある「神」を直に啓示しました。それゆえ、人々は主イエスにおいて「神」と出会うのです。そこには、最早、何一つとして媒介すべき偶像は必要としないのです。そしてわたしたちは、主イエスのみことばにおいて直接「神」に出会います。確かに、わたしたちは教会において、儀礼的媒体として、教会の礼拝やサクラメントを通して「神」に与ります。しかし、誤解してはならないのは、サクラメントの本質とは、聖書に記されたキリストの啓示の言葉そのものと同一の本質であり、生けるキリストご自身と連続直結しています。大事なのは、こうしたさまざまな媒体を突き抜けて、「神」と直結する体験に至ります。先ほど、主のみことばにおいて、神の法廷に立たされる、という言い方をいたしましたが、まさにそれこそ、既に現在において、終末の最後の審判を先取りする場なのです。今ここで今、世の息を引き取ろうとする罪人、世に捨てられ、律法によってユダヤ全体から裁かれて排除と罵りの中で、掛け替えのない生涯を終えようとする人々に、主イエスは、いつも彼らの傍らに寄り添い、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と語り、「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」と赦しを告知したのです。こうして、罪人は、神と共に死を迎え、しかし神と共に永遠の命に生かされるのです。反対に、宗教権力者たちは、神の名を自我欲求の道具に変質さえてしまったので、そこには真の神はおられず、神の啓示のことばもなく、ただ自らにおいて終わりの裁きを迎えるばかりであります。「12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」と仰せになられる通りであります。

主イエスご自身におけるみことばと信仰において、生ける「神」と直面させられ、神の審判の法廷に立たされ、そこで改めて主イエスの愛と贖罪のみことばが響くのです。「12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」と。

2022年5月22日「わたしを愛するか」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.22 小金井西ノ台教会 復活第6主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教51

説教「わたしを愛するか」

聖書 詩編23編1~6節

ヨハネによる福音書21章15~25節

 

 

聖書

 

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい

21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 

 

説教

はじめに. 使徒たちの任職と派遣からペトロの任職と派遣へ

イエスさまが、人類の全ての罪を償い永遠の命を齎すために、贖罪の生贄となって十字架につけられて死に、墓に葬られたのは、A.D.30年の4月7日金曜日午後3時頃だった、と言われています。そしてその三日目に、復活してそのお姿を弟子たちに現わされました。主イエスの復活顕現をめぐり、これまで聖書に即して、お話をしてまいりましたが、パウロがA.D.50年頃に第2回伝道旅行で訪れたコリントの教会宛に書かれた手紙によれば「15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、15:5 ケファに現れその後十二人に現れたことです。15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(コリントの信徒への手紙一15章3~7節)と、とても確かな伝承として伝えられています。パウロ自身も「15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」と自ら証言しています。こうした弟子たちによるキリストの証言は、「新約聖書」という形で、「旧約聖書」と共に、「聖書」正典として教会を支える証言として残され、今皆さんのお手元にまで届けられている通りです。キリストの復活を体験し証言した弟子たちの証言によって、キリスト教会は立てられ導かれており、この証言は、2000年の過去から現在を貫き、さらには終末に至るまで、宣べ伝えられます。

今日は、そのご復活なさったイエスさまが、弟子たちの前に現れて、宣教という全権を弟子たちに「使徒」として委ね、福音の宣教と牧会のために、世にお遣わしになる、という話です。そしてその弟子たちの中心に、今日の話に登場する人物こそ、ペトロでありヨハネであります。ヨハネによる福音書21章15節以下の記事は、「ペトロの宣誓と任職」が主題ですが、共観福音書で言えばは、マタイによる福音書16章17~19節の記事にあたります。「16:17 すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』」とありますように、イエスさまは、ペトロを祝福して、教会を担う岩礎として、お立てになります。ヨハネの20章では、復活の主イエス・キリストが、弟子たち全員にご自身の息を吹きかけて、「聖霊」を与え、弟子たちを「使徒」として聖別して、復活のキリストを証言する証人として世界にお遣わしになります。そしてヨハネの21章では、20章の使徒の任職に付け加えて、ペトロの誓約と任職が三度に渡って繰り返され、福音書の著者であるヨハネがその権威を受け継いだことを示唆され完結します。21章1節以下にありましたように、網の中の魚「153匹」が象徴しますように、教会は、全世界に渡る普公教会としてあらゆる民族や時代を超えて包み込み、拡がりましたが、その網いっぱいに満たした153匹の魚に象徴される全世界の教会を引き揚げる使徒こそ、このペトロであります。

 

1.「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)

ヨハネによる福音書21章15~25節は、18節で二つの段落に区切って読むことができます。17節までは、ヨハネとその教会が受け継いだ伝承であり、その内容はいわばマタイ福音書16章18、19節に対応しており、主イエスが教会の宣教と牧会の全権を使徒ペトロに委任し教会の岩礎とした、という伝承です。そして教会をペトロに委任したとする元々あった伝承につけ加えて、18節以降では使徒としての使命のためにペトロが殉教して死ぬという話が続けられ、ペトロの殉教の後に、福音書記者のヨハネがその宣教を担う使徒としてその生涯を全うし教会の責任を受け継いだことを示唆して終わります。

さて、21章15~17節ですが「1:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。21:16 二度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの羊の世話をしなさい』と言われた。21:17 三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『「わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。」という記事を記しまして、ヨハネは、ペトロの誓約と任職をめぐる伝承を紹介します。

この記事で、注目すべきことが三つあります。一つは、先ず主イエスご自身からペトロは直接に、「ヨハネの子、シモン」と名を呼ばれて「この人たち以上にわたしを愛しているか」と誓約を求められていることです。二つ目は、ペトロは、その応答として「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えることで、誓約を果たそうとしていることです。そして三つ目は、この「わたしを愛しているか」「はい、主よ、あなたがご存知です」という誓約と、「わたしの羊を飼いなさい」という任職が、完全絶対を意味する三度に渡って繰り返されていることです。

そこで、最初に「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。」(17節)という所からお話したいと思います。復活した主イエスが、ペトロに対して、直接「わたしを愛するか」と言って、ペトロに誓約をお求めになり、ペトロの誓約に基づいて「わたしの羊を飼いなさい」と言って、羊飼いとしての任職をします。この誓約と任職は三度に渡って繰り返されます。三度とは、所謂「完全絶対」を象徴する行為です。不変の誓約であり永遠の任職を意味します。この三度に渡る誓約でとても意味伸長と申しますか、ある意味でそれはトリッキーな問いに聞こえます。主イエスは「わたしを愛するか」とお尋ねになるのですが、その際に「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」とお尋ねになり、「この人たち以上に」と他の弟子たちとの比較において問われています。比較された「この人たち」とは、21章2節に「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエルゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」と名簿が紹介されています。言うなれば、イスカリオテのユダを除いた12使徒全員が想定できそうです。12使徒全体の誰よりも、あなたはわたしを愛するか、と主イエスは問うたのです。明らかに12使徒其々を比べ、その誰よりも、あなたはわたしを愛しているか、と言うのです。これに対して、ペトロははっきりとイエスさまに答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答え、ペトロは非常に明確に自分の愛を告白しています。このペトロの応答に、新たに生まれ変わったペトロの姿を見ることができるように思われます。新しいペトロの生まれ変わった人間性がそこには見て取ることができるのではないでしょうか。なぜなら、先ほど、主イエスは、他の弟子たちとの比較で「わたしを愛するか」と問われましたが、ペトロはその比較に対して、はっきりと「あなたがご存じです」と答えたからです。言い換えれば、それを判断する権限も能力も最早「わたし」にはありません。自分を判断評価する権限はすべて「あなた」にあるのですから、とペトロは言い切って、自分についての判断や評価はただただ主イエスご自身にお委ねしており、自分の能力や評価、幸不幸も全てを判断しお決めになられるお方は、ただお独り主イエスご自身の御心によります、と言って、主イエスに対する全幅の信頼に、全てを委ねした所に、自分の愛も喜びもあります、と答えたからです。ペトロは、明らかに、完全に自己自身を放棄して、全て主イエスにその判断評価を任せたのです。神の御子主イエスに、全ての評価判断はあり、この方こそ裁き主ではないか、と告白したのです。この態度は、後に主イエスが「21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と、ペトロについて言われたことにも通じることです。全ては御手の内にあり、全ては御手によることであり、それゆえ、全ては御手にお委ねするのです。御心の通りに成りますように、御心のままに生かしてください、と祈るばかりであります。

こうしたペトロの答えとイエスさまの問いには、あるいきさつがありました。それは、マタイによる福音書を読みますと、ペトロの言動をめぐり、こんなやり取りと経験があったからです。マタイの26章31~35節に(26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。26:32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいてもわたしは決してつまずきません」と言った。26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」26:35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなってもあなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。)という、こんな経緯(いきさつ)が紹介されています。ペトロは、かつて、明らかに、他の弟子たちとは違って自分は絶対につまずかない、イエスさまを裏切らない、と断言しましたが、その舌の根も乾かぬうちに、ペトロは三度に渡り、主イエスを知らないと言って、主との関係を否定した経験がありました。主イエスが、わざわざここで、ペトロに三度も度重なる誓約と任職を繰り返された背景には、ペトロ自身がかつて実際に主イエスを三度に渡って否定していたからではないでしょうか。ペトロは完全に自己に破れ果て、自分をより頼む虚しさを完全に知ったのです。そうした三度に渡る完全な自己破綻から、改めて主イエスに対する自己放棄を決断していたのではないでしょうか。自分においては、完全な自己の「放棄」と言うべきですが、主イエスに対しては、完全な自己の「委託」です。全てを主のご主権にお委ねしたのです。そして主イエスはこうしたペトロの全てを赦して、彼の全人格を受け入れ包み込んだのです。それが「わたしを愛するか」と問うて、ペトロを三度に渡り完全にペトロを赦す主イエスご自身の愛でありました。

 

2. 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15節)

こうしたイエスさまの深い愛と赦しに包まれる中で、ペトロは、ある意味深い新しい信仰認識に至っていたのではないか、と想像できます。それは、自分の力や人を頼りにしないで、全て神さまの御心お委ねしお任せする決意です。周りの人々との比較からは、何一つとして本当のことは分からない、という新しい認識です。ふつうは、周りの人々と比較して、どちらが有能なのか、或いは、どちらが幸せなのか、自分を評価します。しかしペトロは、そんな人間同士の比較からでは、本当の真理は見えてはこない、と気付いていたのです。人には、元々、生まれついた時からの個性があります。それはオンリーワンの、たった一つの命の輝きであり宝です。それを、周囲との比較から良し悪しを評価して、自分の尊厳を卑しめてしまう必要はないのです。ひとりひとりが皆、だれもが、地球よりも重く尊い、たった一つの神からの恵みであり贈りものだからです。あなたには、あなたしか生きることのできない幸せがあり、わたしにも同じようにわたしだから生きることのできる幸せがあるはずです。自分の本質を、自分の次元ではなく、神さまの恵みという次元で、見つめ直すことができるようになった、と言えましょう。

このように、自分の本質を神さまの恵みという次元から認めて受け入れられるようになると、不思議なことですが、比較の対象であった他者一人一人をも、排他的な意味での他者の次元から、神から与えられた恵みの他者として、今度は愛の対象として認めて受け入れることも可能になるのではないでしょうか。決して誤解してはならないのは、自己を絶対化して、独り善がりでよい、と言うのではありません。ある意味で、確かに周囲の人々と比較する中で、お互いの違いや特質をよく知る、ということはとても大切なことです。そしてそうした違いや、あるもの、ないものを認め合い、助け合うことの大切さを深く知ることはいよいよ貴いことです。そうした賢明な比較の中で互いの違いと多様性の豊かさを認め合い、評価し合い、助け合い、仕え合う、そうした人格的な交わりに入るのです。問題はその次です。そこで、改めて「自分」も「他者」も、其々の本質と尊厳は、神さまからそれぞれに与えられたオンリーワンの尊さに気付き、より深く知り、互いを感謝をもって喜び合うことです。

その時に、とても重要な鍵となることは、自分をお造りくださった神さまに対する全幅の信頼です。神さまを信頼する確信から、初めて自分のオンリーワンの意義も、他者の意味ある本質も、共に見えて来るからです。かつてペトロは、他の弟子たちと比較して、自分は特別で絶対的な存在であるのだから、そうでなければならない、と誤解していたからです。大事なのは、周りとの比較で自己を絶対化するのではなくて、神さまの信頼から、そして神さまからの愛と恵みを知る所から、自分の意味や価値を深く知ることが出来るようになることにあります。こうした自分の本質とその意味をいよいよ知る、自分探求の旅路は、神の御手の内深くに有って、神を信頼する信仰のもとに永遠に続けられるのです。おそらく、ペトロは、自分の本当の意味や真理は、神さまを信じる信頼を根拠にして、しかも神さまの愛や恵みを根拠にして、神の愛と恵みという次元に委ね、そこから、未知なる自分を推し量るという終末論的な自己理解を獲得したのではないでしょうか。

後から仲間に加わったパウロは、異邦人の宣教を担い、ギリシャやローマの異邦人に福音を宣べ伝え、多くの異邦人教会を立て、新約聖書の中核を構成するたくさんの牧会書簡を残しました。そして若いヨハネは、後に第四福音書を書き残しました。しかしペトロには、実際に教会を立てたという話もなければ、福音書を書き残したという話もなく、殉教してしまいました。しかし重要なことは、「イエスさまの羊を飼う」という羊飼いとしての使命が、イエスさまからペトロには与えられて、その使命に全生涯を献げて殉じたのです。それは世界の全ての歴史的教会の岩礎となる職務でした。ペトロは、神さまのご主権のもとに、神さまの愛と御心を信じる信頼のもとに、自分にしか与えられない恵みと喜びを知り、自分に生かされた生涯を生きることを知ったのです。その根拠は、自分の力に頼ることの虚しさを知り、この世の力に頼ることの不確かを経験したからでした。何よりもペトロは神を愛し神を信頼し神にお委ねすることの尊さを知ったからであります。比較と相対の中で生きる虚しさを知り、神と向き合う絶対の中で生まれ変わったのです。悔い改めとは、そういうことではないでしょうか。

 

3.「わたしの小羊を飼いなさい、わたしの羊の世話をしなさい」(15、16節)

主イエスはペトロに「わたしを愛しているか」とお尋ねになりました。なぜ「愛しているか」と尋ねたのでしょうか。「愛」について、改めてその根本原理から、振り返る必要がありそうです。言うまでもないことですが、「独り」という絶対の世界では「愛」は成立しません。愛の根源は「他者」にあります。他者があって愛という世界は成立するのが愛の根本原理です。愛は、独りでは決して実現するとのできない行為です。愛とは、他者との関係性の中から、生まれます。そのためには、唯我独尊の自分以外に、他者の存在と場を認め、自分の内に受け入れたとき、初めて愛は生まれます。そして新たな課題として、その存在と場を自分の内に受け入れて認めた他者存在と、果たして自分はどのようにかかわればよいのか、という問題が生じます。そこで、初めて「愛する」(反対は憎み妬むということになるでしょうか)という新しい課題が生まれます。相手のために、自分はどうかかわり、何をすればよいのか、相手のために役立ち喜んでもらうには何が必要なのか、「愛する」という関係形成の主題のもとで、自分の生き方が新しく造り変えられるようになります。他者を認め、受け入れた時、他者を愛するという課題と営みの中で、初めて他者と共に生きようとする、新しい他所と共同する人生が始まるのです。

ヨハネは手紙の中で「4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(ヨハネの手紙一4章16節)と教えました。そもそも愛とは、神そのものであり、神の内にある、と言っています。したがって愛は単なる倫理の範疇に属するものではなく、神そのものにその根源と本質を有しています。それは、三位一体の神そのものであります。父はご自身の内に子の存在を認めて栄光のうちに遣わし、子もご自身の内に父の存在を認めて従順をもって仕えます。聖霊も同じように、父と子と聖霊は、三位格其々のうちにかつ相互のうちに、其々の存在を認め合い栄光のうちに仕えておられます。古い東方ギリシャの神学で申しますと、三位格の相互内在性(ペリコレーシス)という三位一体の神の教義です。いわば三位一体の神ご自身の本質に、しかも唯一真の神であるとする神の本質に、父はご自身の内に子を他者として子を認め栄光のうちにお遣わしになり、子もご自身のうちに父に従順を尽くてお仕えする、そこに神の本質が示されます。自分の内に他者を受け入れること、それはある意味で、自己否定、自己譲渡を前提にしなければ実現できない行為です。極論すれば、神の本質は「自己否定」を媒介にして成立しているのです。それが「愛」の根源的な原理です。その父と子と聖霊における相互に自己否定を媒介にした神の本質を、主イエス・キリストを通して、今度は私たち人類に注がれた神の愛として、私たちは知るに至ったのです。ヨハネは、そのことを「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、神は愛です」と告白し、したがって「愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と教えることができたのではないでしょうか。

ここで一つ意味深い点は、イエスさまから「わたしの羊を飼いなさい」と、羊飼いとして、ペトロは任職されます。主イエスは「わたしの小羊」または「わたしの羊」と言っています。ご自身が命にかえて一番大事にしておられる「子羊」をペトロに分け与えられたのです。「わたしはよい羊飼い」である、と主イエスは教えておられました。つまり主イエス御ご自身だけの羊飼いという場を、ご自身から切り裂いて、ペトロに分け与えられています。神の国であり天国を支配する牧会の権限をペトロに分け与えたと言えましょう。そしてこれは、ペトロだけのことではありません。実は、わたくしたちひとりひとりに、その名を呼んで招き、神の内側に場を認め分け与えられたのです。「14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネによる福音書14章2~3節)と仰せになられた、あの主イエスのみことばを思い起します。これが、まさに神であり、神の愛であります。

こうして主イエスは、ペトロを選び、ペトロを羊飼いとして任職し、教会のためにお遣わしになられました。まさにそれは神が自己否定の愛を媒介にして、御ご自身をペトロのために差し出し分け与える天における生きる場でありました。ペトロは、生涯を尽くして生きる場を、神から与えられたのです。まさにルターの言う「天職」を与えられたのです。天に生きる使命を知り、使命を与えられ、使命に生かされたのです。自分の本当の生きるべき場と役割を与えられました。教会の中でも、家族の中でも、また職場の中でありましても、そして人生のすべてにおいて、本当の自分の生きるべき場所が天から与えられており、自分の果たすべき役割が与えられること、それほど意味深いことはないと思います。愛し合うという関係の中で、お互いがお互いのかけがえのない役割と場を認め合い、相互に分かち合い、喜び合うのです。

 

4.「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)

最後に、非常に重く深いこととして、ペトロは「殉教」を言い渡されます。「『21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』21:19 ペトロがどのような死に方で神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」と記されています。確かに、ペトロは「わたしの羊を飼いなさい」と命じられ、羊飼いとしての任職を受けたのですが、それに加えて、その務めを果たすべき責任と犠牲もまた求めらたのです。イエスさまは、神のメシアとしての務めを与えられ、その務めを十字架の死に至るまで従順を尽くしてお果たしになられました。同じようにペトロも羊飼いとしての職務を殉教という犠牲をもって貫くことになります。

このことは、わたくしたちが人生を生きる中で、ヒロイズムやナルシストとしてではなくて、心から謙遜かつ従順に、自分の犠牲を喜び誇りとすることができる、ということを意味してはいないでしょうか。人間にはどうしても周りを見るにつれば、納得できないことや、時には恨み辛みが生じるものです。なぜ、自分がここで、こんな役割を背負わされ、罵られ蔑められて、死ななければならないのか、と。多くの人々は、世の称賛を期待して立身出世は図り、極力貧乏くじは引かないようにしたがるものです。もしかしたら、牧師や教会の人々の中にも、そうした方々はたくさんいることでしょう。しかし、主イエスは、人々のために十字架の犠牲となられたのですが、その多くの人々から卑しめられ罵られて、極刑を受ける犯罪者として、死の淵へと落ちて行かれました。そればかりか、そうした人々のために「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:32)と執り成しの祈りをしながら、息を引き取られました。この十字架の主を仰ぎ見れば見るほど、主のもとに近くあることの意味を覚えます。愛ゆえに赦しゆえに犠牲を余儀なくされた主は、本当の意味での勝利を遂げ、栄光のうちに父と共にあり、永遠の命をうちに甦りました。そこに溢れるものは、愛であり赦しであり犠牲でありました。ペトロはそのただ中に招かれたのです。

 

5.「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」

ヨハネは、ペトロの任職を厳粛に伝えながら、少々興味深く、ペトロと自分との関係を描いています。ヨハネ自身が記したというよりも、ヨハネの後継者が記したことでしょうか。ペトロは殉教を受け入れましたが、やはり隣りのヨハネの行く末が気にかかったのでしょうか。21節以下に「21:21 ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。21:22 イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるかあなたはわたしに従いなさい。』と、そのエピソードが紹介されています。前にお話したペトロの覚悟と、少々矛盾するような話ですが、ペトロは、ヨハネのことが気がかりで、思わず、その人間感情を表白してしまったようです。その結果、主イエスに「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」と諭されます。ヨハネ側からすれば、少々自慢げで、ペトロ側からすれば、少々言い訳したい所でしょうか。しかしここで、やはり記者が強調したかったことは、いずれにせよ、どのような運命であり、「あなたは、わたしに従いなさい」という主のご命令です。其々が、其々の人生を尽くして、主を信頼する確信のもと、感謝と讃美をもって、オンリーワンとして、其々の使命を果たすことです。