2022年7月3日「神の憐れみは裁きではなく、悔い改めに導く」 磯部理一郎 牧師

 

2022.7.3.小金井西ノ台教会 聖霊降臨第5主日礼拝

ローマの信徒への手紙講解説教3

説教「神の憐れみは裁きではなく、悔い改めに導く」

聖書 出エジプト記34章1~14節

ローマの信徒への手紙2章1~16節

 

 

聖書

2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。

 

2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。

2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。2:7 すなわち、忍耐強く善を行い栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、2:8 反抗心にかられ真理ではなく不義に従う者には怒りと憤りをお示しになります。2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。

2:11 神は人を分け隔てなさいません。2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

 

 

説教

はじめに.「弁解の余地はない」(1章20節、2章1節)

本日は2章1~16節の段落を読みますが、この段落に新共同訳聖書は「神の正しい裁き」という小見出しを付けています。つまりパウロは「神のさばき」を告知します。パウロは1章で自分を「奴隷」と言って紹介し挨拶したのち、最初に「人類の罪」を明らかにしました。そして2章に入りますと、今度は「神のさばき」を直ちに宣告するのです。「裁く」という字が、この1~16節の段落の中だけでも10回以上も使われています。しかもパウロは「神の怒り」に対して「弁解の余地がない」(avnapolo,ghtoj avnapologh,touj)と断じます。1章20節に続いて2章1節でも、二度に渡り、人類の罪に対する神の怒りと裁きを徹底的に宣告します。「神の怒りに」対して、人類は弁明弁解も言い訳言い逃れする余地は、一切合切が認められない、と言い切ります。これは、明らかに、神の前で人類は完全否定され、まさに「神の否!」(カール・バルト)の前に立たされていることを意味します。その理由は、人類は皆、確かに神の存在を知りながら、それにもかかわらず、神に背き、神を否認する道を自ら選び取ったからです。パウロは「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」(19,20節)と述べて、創造の時点で既に人類は自明のことと神を知っていたはずだ、と告げます。しかし、それなのに、人類は「神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり(mataio,w evmataiw,qhsan)、心が鈍く暗くなった」(21節)ので、「従って、彼らには弁解の余地がありません。」(20節)と神の怒りを容赦なく宣告し突きつけます。

この容赦ない「神の怒り」は、いったいどこの誰に対して向けられ啓示されているのでしょうか。この裁きの宣告は誰に対する宣告なのでしょうか。また、この神による「否!」の宣告を、どう自覚し、どうすれば認識することができるのでしょうか。よく私たちは「あの人」はきっと神の裁きを受ける、と心ひそかに思うことがあります。他者の裁きは思い至るのですが、「自分自身」に対して、神の裁きが怒りとなって向けられていることは、余り考えようとはしないのです。しかし、パウロは、神が怒りは「あなた」に対してくだされているのです、とはっきり言って、其々のうちに「神の怒り」が天から啓示され降っている、ということを自覚して欲しいのです。しかもパウロは、自分を含めて同胞のユダヤ人たちに、神の怒りは「あなた」に対して啓示されている、と告げます。だから、今こそ、あたな自身の上に深刻な危機と脅威が迫っていることを、しかも弁解の余地のない、決して逃れられない神の怒りを知るべきです、と告げます。

このいったい誰に向けられた神の怒りか、という問題は、パウロにとっては、同時にまた、だからこそ、神の怒りから救いとなって働く福音を宣べ伝えたい、という宣教の責任となって、迫ります。「1:13 兄弟たちぜひ知ってもらいたいほかの異邦人のところと同じくあなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも知恵のある人にもない人にも果たすべき責任があります。1:15 それで、ローマにいるあなたがたにもぜひ福音を告げ知らせたいのです。」(ローマ1:13~15)と記している通り、パウロは最初から、人種や身分、生まれや境遇を超えて、全人類に宣教すべき神の福音の使徒である、と言っています。また「福音はユダヤ人をはじめギリシア人にも信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(1:16)とも言っています。さらに今日の2章9節でも「2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。2:11 神は人を分け隔てなさいません。」(2:9~11)とも書いています。パウロは、全人類に対して、そのひとりひとりに「神の怒り」は裁きとなって、今現在形で「あなた」に天から啓示されている、と告げます。だから今こそ、悔い改めて福音を信じなさい、と宣教します。

神は、なぜ、わたしたちに対して、それほど怒り、憤り、裁きをもって臨まれるのでしょうか。それは明らかで、「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」(21節)ので、「従って、彼らには弁解の余地がありません。」(20節)と言って、パウロは神の怒りを容赦なく宣告します。人類は、「神」を「神」としない、そればかりか、神を死んだ、神などは存在しないと言って、神を殺し抹殺したからです。ということであります。神を神とするとは、神お独りだけが「正しいお方」であり、善悪と真偽の全ての基準と決定は「審判者」としての神にのみにあり、「造り主」として万物の「主権者」であり、したがって「神」として万物より礼拝され崇められるべきいお方であります。問題は、それなのに、神が神であることを知りながら、神を神と認めず、神を「無きもの」として否定抹殺して、「神でないもの」を、即ち自分たちの欲望や支配欲を偶像化して取替えてしまい、偶像をわが主わが神として拝み、神の真理を偽りに替え、造り主の代わって造られたこの世のものに仕えているからありまです。自分の思いや欲望を神のように絶対化すれば、その結果は明らかで、絶えず争いは生まれ殺し合いとなり、殺戮を防ぐことは出来ません。

誰もが皆、其々に何かに依り頼み、自分の平和と安心を守ろうとします。自分は住む家があり家族がいて生活の営みがある。科学技術や芸術文化を謳歌する優れた進歩がある。知恵や力もありお金や資産もあり、宗教に魂が養われ国家の法に守られている。そうやって安心を守ろうとするのです。しかしそこに突如天が裂け、神の怒りが二人称単数のあなたの上に、しかも不変の現在形で、啓示されます。天災や戦争のように全ての営みの停止や終焉に襲われ、限界と破綻に瀕し、底なしの死と滅びに転落するのです。あなたに、そして人類のひとりとりに、その神の怒りと裁きは、如何なる拠り所も失われてゆき、弁明の余地もなく、啓示され迫る、とパウロは告げます。天災も戦争も神が引き起こすのではなく、それが、本質的に、「神」ではない「被造物」の世界であるからです。この本質的な差異において、私たち人類の心の目は錯覚してしまったのです。自分の力を、神のように縋る拠り所にしたのです。この営みを守るためには、先に勝ち自分のものにする、先に勝とうとすればより強力な力が求めて彷徨います。国家で言えば、より強力な殺戮兵器をもって他国を威嚇し、その挙句の果てにそして余りにも皮肉なことに、自分がより強力な破壊兵器を持てば持つほど、相手はさらにより大量破壊と殺戮を始め、結果は無差別殺戮により、地球規模の悲劇と悲惨を経て、破壊に破壊を尽くします。人類はそれを幾度も繰り返して来たではありませんか。しかし今もなお、何一つ変わりません。大量殺戮兵器による防衛は、同時に、より強力な殺戮兵器を引き出し、結局は悪質残虐を極めて皆殺しとなって滅びるのです。核兵器は、現代人の力の象徴であり拠り所です。しかしそれは最早、既に空しく暗い倒錯錯誤の幻想に過ぎないのであります。余りにも単純なことですが、破壊の力は、永遠に防衛と命の力にはなれないのです。破壊をもって防衛に代えることはできないのであります。行きつけば行きつく程、破壊は破壊に終わり、命と平和とは完全異質なものであります。

人類は、「神の創造」のみわざに与る、という神の絶対恩恵の中で、存在と営みの根源と原理が与えられ、しかもその存在と営みのうちに満ち溢れる神の恵みを享受することで、自明の真理として「神を知ることができる」とパウロは論じます。神の創造の恩恵とその力に与り浴す、そこに万物は自己存在の根拠を得ています。だからこそ、反対に、造り主としての神の恩恵と御力を拒んで、それを放棄すれば、当然ながら、途端に生きる根拠そのものを失い空しく崩壊します。こうした自明で当然な帰結を、パウロは「その迷った行いの当然の報いを身に受けています」(27節)と言っています。人間は「神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され」(28節)、「死に値するという神の定めを知っていながら自分でそれを行っただけでなく他人の同じ行為をも是認しています」(32節)と述べて、人類の罪を白日のもとに晒し、神の怒りと裁きを受けるべき実態を明らかにしています。何もかも知って分かっているのに、本来は神として神を崇めるべき対神関係の在り方を逆転倒錯させてしまい、敢えて自分から空しい思いとなり、空しいものを神に代えて拝みそれらに仕えてしまったのです。それどころか、神の名を語り、神を利用して、自分が神のようになろうとするのです。したがって、何を言おうと「弁解の余地はない」のです。

 

1.「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない」(2章1節)

パウロは1章20節に続いて2章の冒頭でもまた「だから、すべて人を裁く者(o` kri,nwn)よ、弁解の余地はない(avnapolo,ghtoj avnapolo,ghtoj)。あなたは、他人を裁きながら(kri,nw kri,nwn)、実は自分自身を罪に定めている(katakri,nw katakri,neij)。」と告げます。神の裁きを一層徹底して告知します。「裁く者」(告訴し断罪する)として現れる人類の罪の「実態」を断罪します。「他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」と言って、神の怒りが天から啓示されている、差し迫る危機の現実を二人称単数現在形で告知し、突きつけ、迫ります。これは、とても皮肉な逆説的な言い方ですが、裁く者こそ裁かれる者となるからです。そして二人称単数現在の示す文法的意味から言えば、「裁く者」は「あなた」自身のことであり、その「あなた」が「あなた自身」「今」「罪に定めている」というのです。この「罪に定めている」という字は「遂行する、断行する」という意味で、意図のある計画や習慣のもとに遂行してゆく、ということを表します。また「裁く」(kri,nw kri,nwn)という字は、法廷で審判を下す、という言葉です。古くから統治して支配するという意味にも用いられた字です。

そこで、「さばく」或いは「罪に定める」と言う場合、どんな基準や原理でその裁きや統治が行われたか、その裁きの判断の基準が問題になります。支配や裁き或いは審判を根本から支える「基準」或いは「ルール」が重要になります。パウロは「2:2 神はこのようなことを行う者を正しく(kata. avlh,qeian)お裁きになる」(2節)と言っています。新改訳聖書は「そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しい」と訳しています。神が統治し支配し審判を下すというのであれば、その判断は「真理に基づく(kata. avlh,qeian)」のでなければなりません。真理に基づいて遂行される審判とは、言い換えれば、公正公平な正義と真実に貫かれているはずであります。「神の義」がはっきりと現される行為であるはずです。正しいお方が公正公平に裁く、それがお出来になられるお方は、無論、全知全能なる「神」お独りであります。不完全で不正義な者に他者を裁く資格はありません。それでは裁きの根本から虚偽偽善となり、審判に偏りや誤りが常に生じて、虚偽偽善、不正不義となり、審判を受けます。「裁き主」として公正かつ厳正に裁き、完全に義と真理を有するお方は「神」お独りです。それなのに神を神として崇めず抹殺してしまい、今度は自分が神に成り代わって「人を裁く者」となって、他人の悪口を言い、他人を罵るのであります。本来裁く資格のない者が、偽って裁き主支配者となって、その場を仕切り支配するのです。それゆえ「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」と告げるのです。これはあくまでも人間の側の倒錯錯誤ですが、問題はこの倒錯錯誤を人間のうちに成立を可能にした根拠にあります。

パウロは「裁く者」と書いたとき、心に浮かべていたのは、ユダヤ人とギリシャ人であります。ユダヤ人は、自分を神に選ばれた「神の選民」だと自負し、他民族から自己を差別化して他民族を見下していました。アフラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの血筋で、神から「割礼」を身に受け、しかも「神の契約律法」によって特別な関係に生きる「神の民」である、と確信していました。自分は、神との特別な関係にあり特権に与り、神の民として特別な身分であるゆえ、よって、自分たちは本質的に異邦人と区別されると考えたのです。割礼と律法、即ちユダヤ教という宗教が、他民族から自分を区別差別し、結果的として、他者に審判を下す裁きの基準と根拠となったいたのです。割礼と律法があるがゆえに、他人を裁く権利もあり根拠もある、というわけです。

しかしこうしたユダヤ人の常識に対して、パウロははっきりと「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」(1節)と宣告します。「あなたはあなた自身を(seautou/ seauto.n)罪に定めている(katakri,nw katakri,neij)」と語り、例外の一切見逃すことなく、二人称単数形で「あなた」と名指しして、「ユダヤ人」たち、あなたがたのひとりひとりに対して、神の怒りは天から啓示されている、とはっきりと告げるのです。17節でも「あなたはユダヤ人と名乗り律法に頼り、神を誇りとし」とも書いていますので、ユダヤ人のひとりひとりの意識に深刻に語りかけるように、問題の所在を明らかにしようとしていることが分かります。神を誇りとすることが出来るのは、まさにユダヤ人と名乗る根拠に「割礼」があり「律法」が存在したからであります。

ユダヤ人は、自分が神からの「割礼」を身に受け、神を誇りとする神の民として身に刻まれた神の民であり、神の律法を有する契約の民である、と確信します。自分は違う、神の前に特別なのです。自分は正しい、神の律法を知っているからです。神の憐れみと恵みゆえの「割礼と律法」がユダヤ人を「人を裁く者」にしていたのです。根本原因は、この割礼と律法そのものの存在に、ありました。否、問題は、神の憐れみと恵みに溢れる割礼や律法にあるのではなく、それを取り違えてたユダヤ人自身にあります。本来は神からの賜物であるはずの割礼と律法が、自分の犯した錯誤ゆえに皮肉な逆説にもなって働き、その結果、思い上がって自己を絶対化し、律法を利用して異邦人を裁くのです。しかしそうした取り違えは、ブーメランのような報いとなって自分に返って来て、「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない(avnapolo,ghtoj avnapolo,ghtoj)。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」とパウロは指摘します。

 

2.「神は正しくお裁きになる」(2節)

パウロは「2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになる」と解き明かします。「正しくお裁きになる」とは、どういうことでしょうか。先ほど触れましたように、真理と基準に基づいて遂行する、ということです。相応しい真理、基準とは、ユダヤ人に対しては「律法」が真理であり裁きの基準になります。パウロによれば「2:11 神は人を分け隔てなさいません。2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆律法によって裁かれます。2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなくこれを実行する者が義とされるからです。」とあります。正しく裁くということで、急所となる点は、律法を「持っている」こと、或いは律法を「聞いて知っている」ということではなくて、律法を「実行する」者が義とされる、と説く所にあります。確かに、律法は裁きを遂行する基準ですが、さらに厳密に言えば、律法は「実行する」ために民に与えられ、民は律法を「実行する」ことで「義とされる」と断言しています。律法とは、行う・実行する・生きるべき神の掟であります。ここには、律法学者としてのパウロの見識を窺うことが出来ます。義の資格を得る根拠は、ユダヤ人には「律法を実行する」という一点にかかって来ます。

さらにパウロは「2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」とも言い切って、神の正しい裁きとは何か、定義します。ユダヤ人に対して、ギリシャ人は即ち律法を知らない人々はどうなるのでしょうか。ギリシャ人には「律法」がなく、生まれながらの自然のうちに、心に記された律法が真理となり、心の記された真理こと裁きの基準となります。異邦人について「2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており(summarturou,shj auvtw/n th/j suneidh,sewj)、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」と述べています。つまり異邦人は、<文字の律法>は持たなくても、<良心>という心の律法を持っており、その良心の証しが裁きの基準となる、と説明します。ユダヤ人は文字の律法によって、異邦人は良心という心の律法によって、其々に対して神は正しく裁かれるので、偏りや分け隔てはなさらない、ということです。「良心(sunei,dhsij suneidh,sewj)」が「証言する(summarture,w summarturou,shj)」と明記し、いわば文字の律法に対して心の律法が与えられており、其々文字と心の律法によって審判が下るのです。それゆえ神の裁きには分け隔ても偏りもなく正しく審判されるのです。少々先になりますが、2章28節で「2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく”霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」とパウロは言い切って、いよいよ神の怒りの本質である福音に迫ります。詳細は来週の説教で改めて触れますが、是非ここで記憶にとどめておいていただきたいのは「人からではなく、神から来るのです」という言い方です。その違いは、その正しさは、本質的に、最初から最後まで、あなた自身から出たことではなく、神ご自身から出たことかどうか、という根本を見据えたうえの違いであり、正しさの根拠でもあります。真理に従うとは、律法や割礼を「外見」から言うのではなく、「内面の霊」において、言えるかどうか、によるのです。

 

3.「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」(4節)

それなら、なぜ神はユダヤ人に律法を与えたのでしょうか。そもそも律法とは何っだのでしょうか。何の目的をもって、どのような意味と役割を担うものであったのでしょうか。律法の本来の意味と目的を根源から解明のために、パウロは律法学者としてその生涯を尽くして取り組んだ末、ついにある明確な結論に到達します。それが2章4節の言葉で「2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。2:5 あなたはかたくなで心を改めようとせず神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」と説いて、律法の担う意義について解き明かします。是非、注目したい点ははっきりと「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」と言って、律法の本質は「神の憐れみ」にあり、律法の目的は「悔い改めに導く」ことにある、と説いています。しかも「その豊かな慈愛と寛容と忍耐」と書いて、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐が、律法を遵守する人々に現れていたことを明らかにしています。神は愛情深く民を信頼し忍耐強く待ち続けていたのです。それは「2:7忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」という表現にも、律法と誠実に取り組みながら、苦悩する人々の思いを深く慮っておられます。律法を持たない異邦人に対しても、心の律法である「良心」を通して「彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」と述べて、文字と心の律法を「実行する」ために苦闘しつつ深刻な苦悩を背負う人々の思いを言い表しています。

しかし、それにしても、なぜ、神は人類にこうした「文字や心の律法」を与えたのでしょうか。この律法賦与の意味と目的こそ重要問題です。そしてその答えこそ、それは律法を通して「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」ためであります。これが、律法の根源的な意義について、パウロが出した結論でありました。パウロは、非常にはっきりと、律法の担う役割について、ガラテヤの信徒への手紙で論じます。先ず2章16節以下で「2:16 けれども、人は律法の実行ではなくただイエス・キリストへの信仰によって義とされる知ってわたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなくキリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によってはだれ一人として義とされないからです。」(ガラテヤ2:16)と記しています。律法は、義とされない実行においてではなく、キリストの信仰よって義とされる「神の恵み」として働き、福音の救いに導くために与えられたことを明らかにしています。パウロは同書3章に進み「3:10 律法の実行に頼る者はだれでも呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。3:11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。」と述べ、続けて22節以下に入ると「3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束がイエス・キリストへの信仰によって信じる人々に与えられるようになるためでした。3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。3:24 こうして律法はわたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。3:26 あなたがたは皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」と記しています。「律法」の本来の目的と役割は、律法を実行することを通して自己の不義を認め、キリストを信じる信仰による救いの道に導くことでした。自己責任だと言って裁くのではなく、キリストの信仰を通して、憐れみと恵みによって満たして義と認めることでありました。「律法」による力の実行から、「信仰」による神の恵みの救いに至る道であります。ですから主イエスは「14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり真理であり命であるわたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われ、また「11:25 イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネ11:25~26)と言われる通りです。キリストを信じ結ばれて、神の子とされるのです。律法とは、人々を信仰に向けて導く「養育係」だったのです。

ここで明らかになる、律法の決定的な意義は、先ず<絶対の否定>として働きます。「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」という律法遵守の破綻の自覚と認識に人々を導くことにあります。神に対して、人間自身が自己の根源的破綻を認め、そこで自己の死と滅びを承認し受け入れることです。注意すべき点は、律法を実行する根拠と拠り所は、徹頭徹尾、人間の側の「自己」自身の力に依り頼む、という頑迷で根強い人間(自己)中心主義にあります。この人間主義に完全破綻敗北して、死と滅びを承認し受け入れるのです。「神の否!」を受け入れるのであります。人間中心から破綻と死を受け入れるとき、そこに、神中心に向かう「信仰」への契機となる一点が生まれます。パウロ自身の告白によれば「7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。… 7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。7:22 『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」と告白していますように、文字と心の律法は共に一致して戦おうとするのですが、「罪の法則のとりこ」とされ、罪と死の奴隷となって、破綻敗北してしまうのです。ここで重要な点は、滅びの裁きとして「死」がはっきりと自覚されていることです。神から離反して罪に支配された魂や肉体は決定的な滅びである死に直面しているのです。まさに瀕死の恐怖であり危機です。この死と滅びの報いを自覚することで、パウロは律法の実行を断念します。律法の実行を断念するというよりも、人間である自分の力に頼り頼む人間中心を断念したのです。自己破綻と敗北を心から承認する絶望と嘆きこそ「7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」という叫びとなって表白されます。いわばどん底に行き着いた、そのどん底で、自分や人からではなく、神に目を向け始めるのです。正確に言えば、律法遵守を求める裁きの神ではなくて、慈愛と忍耐のうちに待ちわび、神が天から「恵み」の啓示として御子を十字架に渡された神の「福音」に、心を向け直すのであります。この絶望と破綻のどん底で、神の裁きは「福音」となって、魂の根源に向かって轟き響き始めます。その結果、パウロは、悲嘆の叫びから、コペルニクス的大転換をもって「7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と狂喜の讃美をあげます。

 

4.「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています」(5節)

4節で「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」(4節)と語ったパウロは、直ちに「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています」(5節)と逆に神の裁きを同時に宣告します。一方で神の憐れみを告知し、他方で神の怒りを宣告しています。これはとても意味深い言い方ではないでしょうか。なぜなら、一方で神の福音は神の裁きの中に、他方で神の裁きは神の福音の中に、同時にいつも常に「現在」形でしかも二人称単数形の「あなた」自身に対して、啓示されます。福音において、神は、愛と裁きを同時に逆説的に啓示しておられ、神に心を向けて福音を信仰において認め受け入れるか、反対に、自分の力に依り頼み悔い改めを拒否するのか、その信仰的決断のもとに立たされます。「悔い改める」という決断と選択に導く神の恵みにおいて、「神の否定」という形で、重要な意味と役割を担うのが、文字と心の律法ではないでしょうか。律法の実行を通して、人間の力の完全破綻と敗北を承認して受け入れ、今度は神に対して、心を向け直す信仰が準備されるのです。パウロは、意味深い表現で、この事実を告白します。ガラテヤ書2章19節で「2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」と告白しています。ここでは、「神に対して生きるために」と言って、「神の絶対肯定」として働く「新生」の喜びを告白します。しかし同時に「律法に対しては律法によって死んだ」と言って人間としての「死」の体験を告白さします。パウロのうちに、神における新しい「生」と人間における「死」とを同時に啓示したお方こそ、主イエス・キリストであり、その十字架における死と復活における永遠の命であります。「2:20 生きているのは、もはやわたしではありませんキリストがわたしの内に生きておられるのです。」と告白する通りであります。このように、人類は、文字と心の律法的実践を通して、人間の力に依り頼む人間中心主義の破綻を自覚し死を認識することになります。その破綻して絶望し死ぬという裁きの中で、初めて神に対して生きるという新しい目覚めが与えられ、神の福音の中に「神の否定と肯定」とが同時にかつ逆説的に現在形かつ二人称単数の「あなたに」啓示されていたことを知ったのであります。悔い改めは、既にお分かりのように、自分自身の破綻ですから、決して自我意識の力を根拠にして、悔い改めを実現することが出来ません。「わたし」が悔い改めるのではなく、「キリスト」がわたしのうちに生きてくださる恵みの賜物であります。そこでは、既に自分は消滅して死んでしまって、キリストが生きておられるのですから、キリストが無限の恵みによって、神に対して生きる悔い改めに導くのです。これをパウロは「信仰」と呼んだのではないでしょうか。バルトは「空洞」と言いましたが、パウロは「キリストがわたしのうちに生きている」啓示の出来事そのものが、そのまま「信仰」でありました。自分の力で神に向かって方向を転換することは有りえません。死んだ者がどうして方向転換できるでしょうか。そうではなくて、神の天からの啓示であり、神のみことばが語りかけ、キリストがわたしの内に現臨し、死の贖罪と命の復活として働いてくださり、「神に対して生きる」のであり「キリストがわたしのうちに生きている」のであります。キリストの霊が、キリストのみことばを通して、ご自身の十字架と復活のお身体に結び合わせてくださり、このキリストのお身体において、はじめて私たちは、悔い改めという方向転換は可能となり実現していただくのであります。福音をいよいよ正しく聴き分けるように導き、キリストの十字架における贖罪と赦しの恵みをいよいよ豊かに受けられるように、愛と憐れみによって、導いていただくのであります。「3:26 あなたがたは皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれ神の子なのです。 3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」とパウロは説いておりますが、「キリを着ている」それ自体が、信仰そのものであり、この恵みそのものと信仰に基づいて、具体的には、洗礼を通してキリストの身体に結び合わされて一体となるのです。これらには一切の断絶も分裂もなく、串刺し一にされた一体の神の啓示そのものであり、それこそパウロの信仰の実態ではないでしょうか。

 

5.「この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」

「神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れる」とパウロは告知するように、その怒りと裁きは、パウロ自身が、神の福音の啓示において体験した神の事実であります。主イエスの十字架において、パウロは律法の奴隷であり罪の奴隷であり、そして死と滅びの奴隷であることを自覚するだけではなく、その怒りと裁きは、直ちに神の憐れみと恵みとして働き、神に対して生きる悔い改めへと導いたのです。