2021年2月14日「神の導きに従い、正しく生きる喜び」 磯部理一郎 牧師

2021.2.14 小金井西ノ台教会 公現後第6主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答113~115

十戒について(11)

第十戒「隣人の家を欲してはならない」

 

 

問113 (司式者)

「第十戒(『隣人の家を欲してはならない』)は、何を言い表しているか。」

答え  (会衆)

「神の掟に背く、どれほど些細な欲望もまた思いも、

もはや二度と私たちの心のうちには起こることはありません

それどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、

あらゆる罪を憎みあらゆる義に至ることを願い求めるべきです。」

 

 

問114 (司式者)

「だが、そのように神に回心した人々は、この戒めを完全に守ることができるか。」

答え  (会衆)

「いいえ。この生涯にある限り、最も聖なる者たちでも、

ただほんの僅かな従順を始めるにすぎません。

しかし聖なる者たちは、掟にただほんの僅かに従うだけではなく、

真剣な意図をもって、すべての神の戒めに従う生涯を生き始めています。」

 

 

問115 (司式者)

「この生涯では誰も守れないのに、なにゆえ神は、それほど厳しく十戒を説教させるのか。」

答え  (会衆)

「第一に、私たちは、自分の全生涯を通して、

自分の罪に汚れた本性を、いよいよ深く認識すればするほど、

いよいよ熱心にキリストにおける罪の赦しと義を、求めるようになるためです。

次いで、私たちは、絶えず努力を重ねて、聖霊の恵みを賜るよう神に請い求め、

時と共に益々もって神の生き写しとして、新しく造り変えられて、

そしてついには、この生涯の後、完全なる完成を達成するためです。」

 

2021.2.14 小金井西ノ台教会 公現後第6主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教54(問答113~115 ②)

説教 「神の導きに従い、正しく生きる喜び」

聖書 マタイによる福音書5章1~12節

ガラテヤの信徒への手紙3章21~29節

 

キリストの十字架での贖罪そしてキリストの復活により、神の愛と救いの恵みのもとで、私たちは新しく造り変えられています。神の愛と恵みによって実現した、キリストの十字架における贖罪と復活によって、永遠の命の祝福は、まさに「福音」と呼ぶべき人類全体の喜びとなったのであります。人類の罪は、完全に神の御子によって償われ、罪と死の滅びから私たちは完全に解放され、神の完全な「贖罪」によって、新しい命の祝福のもとに招かれて、「復活」という希望に導かれています。すでに、私たちはキリストの十字架と復活により、罪は償われ、死と滅びから永遠の命へと贖われています。そして聖霊の恵みと導きにより、復活と万物創造の完成へと、今まさに導かれようとする、そのただ中を生きています。ただし、その完全な完成には、まだ至っていません。したがって、私たちは世々の聖徒と共に、キリストの再臨する終末を待ち望んでいます。このように、永遠の命と万物の創造完成に向かって、確かに力強く聖霊に導かれる中で、私たちはこの「今の時」を生きているのです。

 

神の御子キリストにより、罪と死と滅びから解放されて、聖霊なる神により、永遠の命の完成に達するという「救い」の完成は、言うまでもなく確実で信頼することができますが、それは、最初から最後まで、私たち人間に力やこの世の成り行きによるものではななく、あくまでもこの世を超えた神のご計画とその絶大な力によるものであります。決して、私たち人間の力や努力によるものではありません。厳密な意味で言えば、私たち人間の力は、「救い」においては、完全に無力なのです。ですから、徹頭徹尾「神の恵み」にすがるより外に、道ははないのです。私たち人間の力と努力は、まさに大きな神の恵みと力によって包まれているのです。ちょうど、太平洋という大海原を越えて新大陸をめざすとき、自分の力で泳いで辿り着くことはできないように、どんな嵐や波にも負けない巨大な船に乗って新大陸を目指します。私たちは、そうした巨大でびくともしない船に乗り、安心して新大陸をめざすのです。そして私たちがなすべき努力とは、新大陸へと向かう船の中で、すなわち大きな神の導きの中で、共に船旅の無事到着を共に祈り、互いに日々助け合い、互いに愛し労り合って、その航海を続けることであり、また新大陸到着後の新しいの生活の備えをなす、ということではないでしょうか。私たちは、教会という大きな船に乗って、船長である聖霊とそのみことばに導かれながら、終末という新大陸をめざしています。そしてその教会という船の中で私たちが為すべきことと言えば、ただひたすらに皆が無事に神のみ国に入ること、そしてそれまでの生活が平和に守られることを祈りことであります。今まさに、私たちは確実に神の国に向かう大きな教会という船の中にあって、日々の生活が平和であることそして安全無事の航海を祈るばかりであります。時には、船が沈んでしまうのではないか、と心配する試練の嵐もありますが、祈りを尽くし信仰を尽くして、天国への航海の無事を願い求めるばかりであります。

 

ハイデルベルク信仰問答113~115は、そうした終末に向かう旅路をどのように考えて過ごし、またどのように生きてゆけばよいのか、その覚悟をたいへんよく示している信仰告白ではないか、と思います。私たちは、キリストをかしらとする教会という船に乗り込んで、既にキリストの贖罪のもとで、復活という終末の完成をめざして、天国に向かっていますが、今、この時は、まだ向こう岸には着いていないので、その航海中のただ中にあります。そうした中間時代を生きる生き方として、しかもより清く正しく生きるために、特に神の戒めに対する態度として、問答113は「神の掟に背く、どれほど些細な欲望もまた思いも、もはや二度と、私たちの心のうちには起こることはありません。それどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、あらゆる罪を憎み、あらゆる義に至ることを願い求めるべきです」と告白しています。しかし同時にまた、私たち自身は完成に至っていませんので、問答114では「完全に守ることができるか」と問われますと、「いいえ。この生涯にある限り、最も聖なる者たちでも、ただ、ほんの僅かな従順を始めるにすぎません。しかし聖なる者たちは、掟にただほんの僅かに従うだけではなく、真剣な意図をもって、すべての神の戒めに従う生涯を生き始めています。」と答えます。こうした問答に、まだ未完成である神の国を前にして、終末論的中間時に生きる人々の信仰態度がよく表されているように思われます。先ほど、神の国の完成という向こう岸に向かって、教会というキリストの身体である船に乗って、私たちは今は航海のただ中にある、という話を致しましたが、まさにその旅路をどう生きるのか。船に乗って向こう岸をめざしているのですが、嵐や荒波に翻弄されながら、向こう岸に辿り着くことが不可能ではないか、と希望と確信が失われそうになるのです。無事安全に到着することを懸命にまた熱心に祈るのですが、眼前の大きな嵐に目を奪われてしまい、絶望し、祈りを捨ててしまいそうになるのです。問答115は、そうした現実を、さらに、とても鮮明に映し出しているように思われます。「この生涯では誰も守れないのに、なにゆえ神は、それほど厳しく十戒を説教させるのか。」と、実際は誰もできない現実が今ここにあるのに、どうしてそれでもなお、十戒の説教をするのか、と問うのです。まさに、完成されていない未完成の現実を前にして、その未完成という現実を前に、心が萎えてしまい、もはや、そんな厳しい説教を聞いても、何の意味があるのか。もっと別の、慰めになりそうな話はできないのか、と言わんばかりであります。そこで答えはこう応答します。「第一に、私たちは、自分の全生涯を通して、自分の罪に汚れた本性をいよいよ深く認識すればするほどいよいよ熱心にキリストにおける罪の赦しと義を求めるようになるためです。次いで、私たちは、絶えず努力を重ねて聖霊の恵みを賜るよう神に請い求め時と共に益々もって神の生き写しとして新しく造り変えられて、そしてついには、この生涯の後、完全なる完成を達成するためです。」と、信仰の確信をいよいよ強くして、冷静沈着に「今と向き合う」ように告白しています。

 

本文に「第一に」また「次いで」とありますように、二つの事柄が明記されています。一つは、「第一に、私たちは、自分の全生涯を通して、自分の罪に汚れた本性をいよいよ深く認識すればするほど、いよいよ熱心に、キリストにおける罪の赦しと義を求めるようになる」ということです。ここから私たちが学ぶべきこととして、未完成である今の中間時を、とても積極的に意義ある「時」として受け止め、向き合おうとしています。まさに終末論的信仰態度であります。どのように、この中間の時を「意味ある場」として生かすのか、その課題にしっかり。答えています。舟に乗っていますが、嵐に翻弄されて、世の荒波に敗北しかねない現実の中で、明確に希望をもって祈る、今はそういう時のであります。私たちは、舟の転覆や荒波に敗北しそうな中でこそ、自分の無力さを悟り、しかもそこからさらに認識を深めて、「自分の罪に汚れた本性を、いよいよ深く認識します」。どれほど自分が脆く弱いか、そして人間社会もどれほど病んで傷ついているか、人類全体の深い痛みと嘆き、そして絶望が聞こえて来ます。人類社会を愛し、信頼し、期待し、そして尊重するのですが、信頼すればするほど、この世界を愛すればこそ、この世を深く憐れみ、いよいよ愛おしく大事にするようになります。だからこそ心からこの世界のために深く祈ることができるのです。しかしながら、いよいよこの世の不確かさと人間本性の根源からの破れが深く理解できるようになり、完全なる完成と救いをそこに求めることはできない、と悟るのです。一方で、この世の限界と破れを認識して深くその痛みを知れば知るほど、私たちの祈りは、まことの神による救いを求めて、人間とこの世を背負うようにして「神の国」に向かうようになるのです。「いよいよ熱心に、キリストにおける罪の赦しと義を、求めるようになる」と告白する通りです。どうしても、私たちの関心はこの世にあって、神よりも、自分や周りの人々に、お金や物に、向かってしまいます。しかしそこで大事なのは、神を知ると共に、人は人として正当に評価できるようになり、物は物として正しく認識することができるようになるのです。お金や物は、神の義と栄光のために、そして隣人の人としての人格を尊重するために、正しく物本来の価値と使途を正しく認識して使用することが大切です。確かにお金や物が必要ですが、だからと言って、物やお金に心を奪われて、お金や物の奴隷になるのではないのです。人を人格として正しく敬愛して、お金や物を正しく正当に用いることができるようになるのでなければならないです。万物は、神の創造秩序の中にあり、神の愛と義のために、其々の存在と働きは、分に応じて相応しく定められています。それを人間の欲望により暴力的に支配して、私物化の道具にしたり、反対に、欲望の誘惑から物やお金によって、人格を貶められ、その奴隷となるようなことがあってはなりません。したがって、だからこそ、人間本来の、或いは物本来の存在の役割を正しく保つためにも、神の戒めを正しくそして深く聞き分けることがとても大切なのです。問答115の問いに「この生涯では誰も守れないのに、なにゆえ神は、それほど厳しく十戒を説教させるのか」とありましたが、この中間の時の中にあって、改めて今こそ、より正しくより深く福音を知り、また新しく救いを与えられた私たちであるからこそ「神の戒め」を聴き分けるのであります。日々、福音の恵みの中で、福音のみことばによって、慰めと励ましを受けながら、実現できなかった破れは心から悔い改め、改めて心と顔を天に向けて高く挙げ、新たなチャレンジに挑むのです。なぜなら、私たちは永遠の国、天国での完成をめざしているからです。

 

問答115は「次いで、私たちは、絶えず努力を重ねて聖霊の恵みを賜るよう神に請い求め、時と共に益々もって神の生き写しとして新しく造り変えられて、そしてついには、この生涯の後、完全なる完成を達成するためです」。私たちは、罪と破れを深く知り、いよいよ赦しとまた憐れみを祈り求めることを学びますが、さらに加えて、神よりの益々の憐れみと恵みを請い求めます。繰り返しこの中間時代の現実に「神に立ち帰り、向き合う」のです。未完成に不満の余り、短気を起こして苛立つのではなく、むしろ積極的に、中間にある今の時を豊かな恵みの時として、正しく認識して、神の戒めに従って誠実に取り組む覚悟が必要です。

パウロは、フィリピの信徒への手紙でこう説教しています。「3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召してお与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。3:20 しかし、わたしたちの本国は天にありますそこから主イエス・キリストが救い主として来られるのをわたしたちは待っています。3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」

ハイデルベルク信仰問答115は、パウロの「何とか捕らえようと努めている」(フィリピ3:12b)という言葉や「目標を目指してひたすら走る」(フィリピ3:14)という言葉を、「絶えず努力を重ねて」と言い表しています。またパウロの「3:20 しかし、わたしたちの本国は天にありますそこから主イエス・キリストが救い主として来られるのをわたしたちは待っています。3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」という教えを、「聖霊の恵みを賜るよう神に請い求め、時と共に益々もって神の生き写しとして新しく造り変えられて、そしてついには、この生涯の後、完全なる完成を達成する」と告白します。特に注目したい所は、「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」とパウロは教え、そして問答115は「聖霊の恵みを賜るよう神に請い求め、時と共に益々もって神の生き写しとして新しく造り変えらる」と告白している所にあります。徹底的にキリストの再臨を待ち望むのですが、ただ何もせずに待っているわけではないのです。「待ち望む」ということは、何もできずに、ただ消極的で受動的に待っているように見えますが、そうではないのです。パウロの言葉で言えば、「絶えず努力を重ねる」ことであり、「わたしたちの卑しい身体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」という実に豊かな体験を深めることを意味しています。問答115は「時と共に益々もって神の生き写しとして、新しく造り変えられる」と告白しています。信仰生活の醍醐味はここにあります。信仰生活は、ただ観念的に妄想し理屈を言うことではないのです。ただ形式的に儀礼を繰り返しているわけでもなくて、「卑しい身体を、キリストの栄光の身体と同じ形に造り変えられ」、「時と共に益々もって神の生き写しとして、新しく造り変えられる」という命の体験の中を、徹底的に生き抜くことを意味します。そうした、いよいよ完成に向かって生きる、という命の営みの中で、私たちは意味ある努力を重ねるのであります。そういう意味で、信仰生活とは、誠に楽しく、希望に溢れた、とても力強い内実を秘めています。以前、義認と聖化というお話をいたしましたが、まさにその「義認」と「聖化」を、私たちのこの身体のうちに、そして命のうえに刻むのであります。そういう日々こそ、今のこの時なのです。日々、聖化の体験を喜び楽しみながら、いよいよ天をめざすのであります。この確かな命の救いという生活の中で、私たちは今を全力を尽くして生きようとしているのであります。

 

この思いますと、未完成だから意味はないのではなく、未完成だからこそ、いよいよ信仰の恵みと力を発揮することができます。この世にあって信仰が深く問い直されて、私たちより深く確かな信仰へと導かれます。この世にあって、愛に破れるときも、人間本性に宿る罪を改めて悔い改めて、新しくされ、再び、愛に向き合うのであります。私たちはこの世にあって、未完成の嘆きではなく、救いの希望と喜びに溢れ、天国をめざして、永遠かつ不断なる「挑戦の場」に誇りをもって遣わされてゆくのであります。