2021年10月31日「イエスはだれなのか?」 磯部理一郎 牧師

 

2021.10.31 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第24主日

ヨハネによる福音書講解説教22

説教「イエスはだれなのか?」

聖書 ミカ書5章1~5節

ヨハネによる福音書7章40~53節

 

 

聖書

7:40 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、7:41 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。7:42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。7:44 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。

7:45 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。7:46 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。7:47 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。7:48 議員やファリサイ派の人々の中にあの男を信じた者がいるだろうか。7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。7:51 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」7:53 人々はおのおの家へ帰って行った。

 

 

説教

はじめに. 「イエスとは誰か」をめぐる問いと論争の中で

本日の説教題は「イエスはだれなのか?」という疑問符付きの題になっています。「イエスとは誰なのか?」という深刻な問いをめぐりまして、ユダヤの人々は、抜き差しならない民族全体の運命にかかわる論争の渦に巻き込まれていました。ユダヤの誰もが皆、同じように「メシア」を待望していたからです。しかし誰にも、果たしてメシアは、いつ・どこに・そしてどのようにして到来するか、全く知らないままでした。逆に、いつ、どこに、どのようにして来られるか、全く分からないということこそメシアのしるしである、とされていたようです。ただ一つだけ、メシアはダビデの末裔として到来する、ということだけは、預言を通して、人々には知らされていました。言わば、莫大な埋蔵金が眼の前にあっても、その金庫を開ける「鍵」は、人々には与えられていなかったのです。それは、その真実の鍵を開ける決定的なことは、ただ一つ、聖書の正しい解き明かしのもとに、ひとりひとりが正しく聖書のみことばの意味を聴き分けて、明確な信仰に立ち、決断する、ということでありました。主イエスは、祭りの間中ずっと、毎日ように神殿に通い、神殿の回廊で聖書を解き明かしておられました。人々は皆、確かに主イエスの説教を聞いたのですが、しかしそれを受け入れ信じるという「信仰」において、イエスにおいてメシアが到来していると認める所までには至らなかったようです。7章40節以下には「7:40 この言葉を聞いて、群衆の中には、『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者や、7:41 『この人はメシアだ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。7:42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。』7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。」と記されていますように、ユダヤの人々は、主イエスの解き明かしが、神秘を解くカギになるどころか、増々混乱してしまったのです。要するに、主イエスの解き明かしをしっかり聞いて、それを真実として信じ受け入れることができないために、つまり不信仰のゆえに、真実な教えを聞けば聞く程、一層人々の混乱と動揺は大きくなってしまったようです。言い換えますと、人々は主イエスご自身が語る聖書の解き明かしの説教に躓いたのです。固く信仰を持ち信仰に立つということが、どれほど人間の言動を、また人間としての本質的な在り方を決定づけ運命づけててしまうのか、こうしたことからも、非常によく分かるのではないでしょうか。信仰を持てず、信仰に立てないということは、こうして人間としての本質的な尊厳までも危機に曝してしまい、本来の人間らしい在り方を失うことになるのです。そしてついに、ユダヤ民族全体が大きく苦難と滅びへと転落してしまうことになります。

 

1.主の「この言葉を聞いて」躓いた人々

40節に「この言葉を聞いて」とありました。人々はまさに「この言葉を聞いて」運命的な決断が深刻に問われることになりました。前にもお話しましたように、一方で深い問いとして、主イエスの聖書の解き明かしとその教えのみことばは、人々の心の奥底まで広がって深刻かつ重要な問題として残りました。ただしそれは、受け入れられず信じることができないがゆえに、常に未解決の大難問として残されたままでした。その結果、ユダヤの権力者たちの中には、イエスを排除抹殺する覚悟を固める者たちも現れて、多くの民衆はいよいよ戸惑うばかりでありました。おそらくニコデモもその渦中の一人であったと思われます。そうした人々の動揺が40節以下にはよく示されています。ここで改めて、いったい人々の心を動揺させているのは何なのか、と立ち止まって考えてみますと、主イエスのみことばの何がそれほどまでに人々を戸惑わせ、躓かせていたのでありましょうか。「この言葉を聞いて」とありましたが、何をどのように聞いたのでしょう。それを指す直近の聖書の言葉は7章37節以下の「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」というみことばがあります。ここで注目すべきことは、主イエスは、主イエスご自身からはっきりと「わたしのところに来て飲む」また「わたしを信じる」と仰せになられ、主イエスご自身に対して信仰を求めおられます。神の永遠の命に与るには、「わたし」即ち主イエスをメシアとして信じ受け入れる「信仰」が強く求められています。まさにここに、主イエスを神のメシアとして認め受け入れるという信仰に、人々は動揺し躓いていたことになります。つまり人々の躓きの原因は、主イエスご自身の説教にあった、説教そのものが人々を躓かせた、ということになります。つまりメシアをめぐる問題で主イエスを信じるということに、人々は躓いたのです。もっと率直に言えば、人々は「イエス」ご自身に躓き、その結果、大きく動揺し混乱した、ということが分かりす。人々は「イエス」に躓き、動揺していたのです。

 

2.なぜ、ユダヤ人は「イエス」に躓いたのか

「躓く」には、言うまでもなく、人を躓かせる「原因」がありますが、なぜ人々は「イエス」に躓いたのでしょうか。信仰の問題を考えますと、結局、多くの人々は主イエスに躓き続けている、というふうに言えるかも知れません。もっとはっきり言えば、人は「神」に躓き続けているのではないでしょうか。それは、主イエスだけではなく、私たちが「神」に躓くのは、なぜなのでしょうか。大抵の場合、私たちは、躓きの原因が何でも「他人」にあるとして、他人のせいにして問題解決を図ろうとします。全て他人が悪い。人や物のせいにできなくなると、最後は「運」が悪い、と言うのです。そしてついに天を呪い神を恨むことになります。ところが私たちは、案外「自分」の問題に気づかないのです。実は躓く原因はいつも「自分」にあることに気付けないのです。躓かせるものが悪い、と誰もが考えてしまうのです。聖書にもそう書いてあるではないか、と言う方もあるかも知れません。確かに躓かせるものが全て悪い、と言って言えないわけではありませんが、しかしそれでもやっぱり「躓く」のは、本当はいつも「自分」なのであります。自分がなければ、躓く者はいないのです。それなのに、あろうことか、人は「神」に躓き「救い主」に躓き、神の愛と真理とそのご計画に躓くです。まさか、これを全て躓かせた「神」が悪い、と言ってしまうのでしょうか。問題は、躓きを引き起こしている原因は「神」ではなく、自分自身にある、ということが自覚できないだけなのです。最近は加齢のせいか、道を歩いていてよく躓きます。躓いて後ろを振り帰り足元を見ますと、決して躓くとは思えないほどの、とても段差とは言えない、ほんの僅か数ミリ程度のことで躓いていたのです。足の爪先が殆ど上がらなくなっているのです。こうして「躓く」のは「自分」の衰えゆえのことであり、あくまでも歩く道が悪いわけではないと悟りました。すると、過信せずに自分が注意すべきで自分の責任であると痛感するようになります。

鎌倉の学校で禅の学びがあり、「脚下照顧せよ」と学びました。自分の足元から躓きは生じるゆえに、先ず足元を照らして顧みよ、という教えのようです。また「他人も自分もない」とも教えられ、そんな「分別」はすべて捨てよ、と教えられました。般若信経に「色即是空」という言葉がありますが、色がある、というのは、色がない、と言うのと全く同じ本質である、という教えでしょうか。自分の中で、色があることもないことも同じ本質であるとして、認識における分別や区別は全て無くしていく訓練のように思い、参禅しておりました。もし仮に躓きが生じるとすれば、それは禅風に言えば、躓く「足」や「自分」があるからであり、自分の足元から生じたものであり、躓く足ならば、そんなものは切って捨ててしまえ、というのです。自分が躓きの素であれば、そんなものは消し去ってしまえ、というわけです。実は「自分がある、自分がない」といのは、それは無用な分別が生み出す迷いであって、自分があるもないも、本質的には「何も無い」ことで同じである、という境涯に立てば、躓くという実態も消滅してしまうように思えました。その後、母の死を契機に参禅は止めておりましたが、20歳を迎え、不思議にもキリスト教に出会い洗礼を受けてからは、お師家さんにはつかず独自で参禅するようになりました。その目的は、自分が少しずつ死んで消滅する心境を覚えたからでした。鎌倉時代に聴いた話ですが、白隠禅師?という方でしょうか、高名な禅僧がおられ、病弱で床に臥すことが多かったようです。しかし白隠禅師は病いで床に臥しながら病それ自体を禅にしておられた、と聴かされました。病気の中でこそ死に逝く中でこそ、本当の参禅なのだ、と教えられました。今になり、その通りだ、と思うようになりました。禅の世界では、そのまま「無」となって、何もなくなってしまうのですが、キリスト教信仰に恵まれてからは、神さまは現臨し永遠無限に生きて働いてておられ、万物を愛と慈しみのうちに守り、無限の祝福をもってお支えくださっておれることがよく分かりました。周りや自分がどうであれ、また境遇が何であれ、そのまま全てをただ神さまにお委ねしてお任せすればよい、と全身で体験することができるからです。その神に向かって、神さまの懐奥深くに自分は静かに消えて無くなってよいのです。実はそこにこそ本当の無限なる平安と安息が生まれるからです。そんな意味から申しますと、もうそれは仏教の禅ではなくて、キリスト教の祈りの禅であり、イグナチオス・ロヨラの霊操にも似て来るようでもあります。祈りには「声」と「ことば」を出して祈る祈りもありますが、「身体」で祈る「全身全霊の祈り」もあることが分かります。そして神の現臨もとに、キリストのお身体のもとに、世の自分は完全に滅び消滅して、キリストの霊と身体に結ばれて一体される、そういう新しいキリストの身体としてある、という身体による祈りの体験を知りました。聖餐において、或いは説教を通して、「取りて食らえ、これはわが身体なり」とは、そういう身体による全身全霊の体験のことではないか、と思うのです。まさに「古き人」は死に、「新しき人」に生まれ生きるのであります。

ユダヤの人々が「神」に躓き「イエス」に躓くのは、ある意味で、どうしようもないこと、であったかも知れません。なぜなら「神」は、人間の能力や本質を遥かに超える「超越の神」であるからです。したがって捕らえようがないのです。理解しようも、認めよと言われて認めようもなく、確かめる術もありません。したがって、先ず主イエスのみことばを受け入れて「聴く」のです。そしてみことばにおいて語る主ご自身の解き明かしに照らされつつ少しずつ真実を認識してゆく、それ以外に方法はないように思います。それのためには、脚下照顧して自分の破れと限界をよくよく知り、「罪の奴隷」にある悲惨を知り認めることであります。そうした「罪」という人間の宿命的な根本問題に気づくことで、死の意味や真の命の恵みも、本来の人間の尊厳や喜びも、それらは皆決して「自分」にはないこと分かり、初めてそれを「神」のうちに求めることができるようになります。神の愛と祝福と恵みにある、という真実が見えて来るようになるはずです。そして新たに、みことばのうちにいよいよ神を求めるという「求道」の道が開かれ、主イエスご自身の内にまたみことばの照らしのもとに現臨する「神」に触れることができるようになります。残念ながら、ユダヤの人々は「律法」を持っていて「律法」に生きているという強烈な自負、過信や傲慢があったのではないでしょうか。みことばである聖書に深く聴き直す前に、既に自分で分かっている、自分がそうしたい欲求から、主イエスとみことばにおいて啓示される「神」を拒否し否定してしまっていたと思われます。そのため、傲慢による権威主義や自己絶対という底なし罪によって、瀕死のように蝕まれている自分の足元を見ようとはせず、そうして自分のもとに到来し現臨する、生きて働く「神」を求めず、ましてや認めて信じ受け入れることなど、到底できないまま躓いていたのではないでしょうか。

 

3.「まず本人から事情を聴き、何をしたかを確かめたうえでなければ」

「イエスはメシアであるのか」をめぐり、果たして律法はどう教えるか、律法学者の間に論争が生じます。ヨハネは7章50節以下で、そうした深刻な躓きの中にあるユダヤ人たちについて、しかもその権力の中枢での、ある興味深いエピソードを伝えています。「7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。7:51 『我々の律法によればまず本人から事情を聞き何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』7:52 彼らは答えて言った。『あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。』」と記されていますように、議員であり律法学者でもあるニコデモは、「我々の律法によればまず本人から事情を聞き何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならない」と主張しています。彼は学者としてとても慎重な態度で真相を究明しようとしています。この背景には主イエスの安息日規定違反があったと考えられますが、それを判定する前に、旧約聖書である「律法」に基づいて、主イエスご本人からの証言を聞き直さなければならない、と発言しています。これは、私たちが信仰生活を健全に進めるうえで、とても意義ある大事な態度ではないか、と思います。

前回の説教でもお話したように、主イエスの本質的な問題の所在は、律法違反や安息日規定違反にはありません。問題の本質は、イエスさまにおける「神」を認め、受け入れることができるかどうか、それが問われており、主イエスはそれを信仰として求めおられるのです。主イエスは、律法学者であれば誰もが知っている、モーセの律法の肝心要を成す言葉「わたしはある」(エゴー・エイミ)という神のお名前を敢えて用いて、ご自身をお示しになられました。ニコデモには、まだそれが果たして真実であるか、理解できず認められないようです。場合によっては、このヨハネを初め12使徒でさえ、同じように理解できていなかった、と思われます。それは、やはり、主イエスの十字架と復活の「栄光」を目撃し、さらには主イエスに代わり「聖霊」が降るまでは実現しないことでありましょう。したがって、この無理解も不信仰も、ある意味ではやむを得ないことでありましょう。律法学者としてニコデモが出来る精一杯のことでありました。そういう意味で、人間は常に限界の中にあるのであって、そのためには常に「神の時」を待たなければなりません。

実は、私たちの信仰生活も全く同じです。常に限界の中にあり、すぐに信仰お全てが明らかになるわけではなくて、あらゆることに常に「時」があり、神さまのお定めになる時である「カイロス」において、初めて明らかになり実現することであり、その時に出会うことで、初めて私たちは理解して分かることが出来るのです。ニコデモがここでとった態度はとても意味深いと思います。「我々の律法に従えば先ず本人から聞いて確かめたうえでなければ、判決を下してはならない」と主張しました。自分たちが判断することは止めて、遅らせて、何よりも「まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければならない」、それが我々の律法に従うということではないか、とニコデモははっきりと言って、明らかに事柄に「優先」順位をつけています。これはとても大事なことです。彼は優先すべき順位を正しく認識していたのです。そしてその最優先すべき順序とは、先ず主イエスご本人のみことばを聴き直す、という聖書である律法の言葉に従おうとする選択していることです。どんなに差し迫り、どんなに緊急で深刻な問題であろうと、自分が先に判断してしまうのではなくて、先ず主イエスのみことばから神の啓示を聴き直そうとしたのです。「神」さまの御心をみことばのうちに求め直したのです。これは宗教改革の精神にも通じる態度ではないかと思います。また私たちの信仰生活の在り方としても、全く同じように、通ずるものであります。余りにも多くのことが理解できず分からない。その時、先ずはとことん神さまの言葉に耳を傾けて、神の啓示とその御心を待つべきではないでしょうか。それが、ニコデモの選んだ態度であり、私たちもまたこのニコデモの態度から学ぶ必要があります。口に出す前に、行動を起こす前に、先ず聖書のみことばに聴き直して、神の御心を待つのであります。

 

4.宗教改革の聖書原理

信仰の拠り所は聖書のみにある、と宣言して、ルターは1517年10月31日『95か条の論題』をもって教会改革を断行しました。ただ只管に聖書のみことばに聴き従うことから信仰は与えられ、それによって、はじめて真の教会は立てられる、ということを明らかにしました。先ほど、ユダヤ人たちが「聖書」を持っていたのに「神」に躓いていた、というお話しましたが、注意したいのは、ユダヤ人だけではなく、私たちキリスト者もまた「聖書」も「教会」も与えられていたのです。それなのに、残虐な宗教戦争に至るまで「神」に躓いたのです。主イエスは、毎日のように神殿に通い、神殿に集うユダヤ人たちのために、聖書の解き明かしをして説教しておられました。それを、おそらくヨハネは晩年になり、福音書を記すにあたり、若き日に体験した主イエスのみことばを振り返っていたのではないでしょうか。「『7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおりその人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」と仰せになられた主のみことばを想い起し、さらにこう振り返って述べています。「7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」。ヨハネは、主イエスの十字架と復活の栄光も、聖霊降臨によるみことばの照明も、まだ経験しておらず、神のご計画の意味を全く理解できなかったこと、その無理解を深く反省するかのように振り返っているように見えます。しかし死を目前にしてこの福音書を書き始めた今は、その意味とその力ある恵みが身に染みてよく分かったはずです。今は聖霊ご自身が、主イエスに代わってみことばにおいて語り、主の啓示の意味を一層鮮やかに示しているからです。あの時、神殿でキリストがお語りくださったみことばが、今は明らかに分かるのです。なぜなら、今は別の助け主である聖霊なる神が自分のうちに降り、力強く宿り、主のみことばを解き明かしてくださり、神の永遠の真理を照らし出してくださるからであります。聖霊の力ある恵みのもとに、イエスご自身も今ここに現臨して、みことばを語り、今まさにここで私たちの前で生き生きと働き一度限りの永遠の現在として、十字架の栄光を現在化し、その十字架と復活の栄光にお招きくださり与らせてくださるのです。こうして主イエスは、今は聖霊の恵みのもとに、主のみことばにおいて、ご自身の十字架における贖罪と永遠の命に漲り溢れる復活のお身体を「さあ、取って食べなさい」と差し出し命の食卓にお招きくださり、復活という永遠の栄光の命に与らせてくださるのです。パウロの証言する「主の死を告げ知らせる」とはそういう聖霊の恵みのもとに実現するキリストの共同の出来事であり、一つの命の身体とされる共同の体験でなかったのか、思う次第です。ルターの宗教改革の神学の中核は、神のことばの神学にある、とよく言われます。そしてその神のことばの神学とは、みことばにおいて、主イエスは現臨し生きて働いておられる、という「みことば」の力あるみわざにあります。ニコデモは、そうした所までには至らなかったにしても、分からないながらも、主イエスが語るみことばに「権威」を認め、そのみことばが語りまた啓示する「生きて働く神」と「照らし出される真理」に対して、誠実にそして謙遜に「待つ」ことが出来ました。みことばが真実を語り出すまでは、自分の判断を下そうとはしませんでした。私たち人間は、何もかも分かったうえで、ということはあり得ないことです。みことばにおいて聖霊がみことばの真理を照らし出し、真実に語り出すまで、私たちは常に待たなければなりません。ルターの宗教改革の本質も、何かが分かったからそれが絶対だから改革できるのだ、ということではなかったように思われます。むしろ不確かなことの方が多かったのではないでしょうか。ルターの宗教改革の本質は、自分たち人間の考えを拠り所にすることをきっぱり捨てて、ただ只管にみことばに聴き直すところから、或いはみことばが真理を語り出すまでは只管に謙遜かつ誠実に待ち望むことにあったのではないかと思います。