2022.5.1 小金井西ノ台教会 復活3主日礼拝
ヨハネによる福音書講解説教48
説教「あなたがたに平和があるように」
聖書 創世記2章1~9節
ヨハネによる福音書20章19~23節
聖書
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
説教
はじめに
主イエスは、マグダラのマリアに、復活したご自身のお姿を現して、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」、そう命じました。主の仰せに従って、「20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(ヨハネ20:18)のです。しかし、主の復活を知らされた弟子たちは、それがどういうことか、どうも腑に落ちなかったようです。いったい何が起こっているのか、よく理解できなかったのです。マルコによる福音書も、同じように、「16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。〕」と明記していますので、弟子たちが主の復活を受け入れず、認めなかったことは明らかであります。
先週の説教で触れましたように、ヨハネも、「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハネ20:8~9)と、晩年に至るまでいよいよ洞察を深める中で、突然、振り返るかのようにここにあらわれて、理解が不充分であったと自らも回想する言葉のように思われます。弟子たちは、最初は、全くと言ってよい程、主イエスのご復活を受け入れることは出来なかったようです。が、しかし後になってから、主イエスの復活とはどういうことだったのか、振り返り、「入って来た、見た、信じた」(ヨハネ20:8)という三重の人格的な行為を経て、初めて主の復活という出来事を認識できるようになった、と思われます。そこに、ヨハネが言わんとする復活の伝承が、ここに、現れて来るのです。それは、「来て、見た」だけで復活が分かったのではなくて、復活したお方の存在を、生きた人格として、自分の心の中心に認めて受け入れるのでなければ、復活の主とはであうことは出来なかった、ということではないかと思います。そのお方が、自分の心の中心に存在することを受け入れ認めて、初めて人間として、愛し信じお仕えできるのです。それが、人間らしい人格的な交わりのあり方であり、生きた人を人として認める認め方です。復活したご人格として、主イエスを自分の最も人らしい中心で信じる、そういう霊と魂の働きが中心にあって、初めて復活の主と出会うことが出来た、という経験です。どんな人物でも、その方の人格を心の中心で受け止められた時、初めてその方に私たちは信頼を置き、共に生きることができるようになります。肉体を見ただけで、人としての出会いは生まれないのです。しかもここで言う、復活されたイエスさまのご人格を、自分の心の中心で受け入れて認める「信仰」とは、ただ単に肉体ではなくて、人の子のうちに受肉した「神」(エゴー・エイミ、わたしはある)と自ら啓示したお方なのです。主イエスというお方のうちに確かに「神」(「わたしはある」)の現存を認めて、主イエスにおいてこそ「神」の存在を認めて受け入れることが出来て、その「信仰」において、初めて主イエスの復活の本当の意味内容が、復活という出来事の真相が分かって来るのです。ただ「見た」だけでは分からいことなのです。ここで重要な点は、主イエスの復活を、ただ死んで動かなくなった肉体がもう一度動き出した、という単純な「肉の再起・再現」として「見た」ことにあるのではないのです。それ以上に根源的で奥深い「人格」即ち「受肉の神」として、私たちの心の中枢において、「信仰」として受容されることに、ヨハネの復活証言の意義があります。言い換えれば、私たちの最も人間らしい尊厳を担う魂の中心で、このお方をそのまま「受肉の神」として受け入れのです。ファリサイ派の人々も、復活はある、と信じていました。しかしファリサイ派のように、ただ人が生き返る、というのではなく、ヨハネは、主イエスの復活とは、その決定的で本質的な意味において、主イエスにおける「神」の現存とそのわざによる出来事である、としたのです。先取りして言えば、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神という三位一体の神による力あるわざとその栄光の現れであり、しかも復活の大前提として、神の御子が人の子イエスとして受肉し、その御子の背負う人間性における十字架の死であり復活である、としたのです。復活はあくまでも、主イエスにおける「神」による力あるみわざであり、主イエスにおける「神」である御子、主イエスにおける先在のロゴスが、常に同じ一つの神である父と共にあり、また聖霊と共にあって、同一本質の神として、主イエスにおいて働き栄光あるわざをその背負われた人間性のうえに現わした、と言えましょう。
ヨハネは、復活の主に対するマリアの信仰的覚醒について、こう告げています。「20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。20:15 イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは、園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』20:16 イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」(ヨハネ20:14~16)。ここで是非注目したい点は、マリアは復活の主から、自分の名前を呼ばれ、語りかけられます。この主イエスからマリアの魂の中枢に向かって呼びかける御声こそ、マリアが復活の主であると気付き、復活の主を認め、自分の心の中に深く受け入れて、そのお方に対して人格の全てを開いて明け渡す、という出会いの引き金となります。「マリア」と自分の名を呼ばれるその呼びかけで、そのみことばを通して、或いは、マリアの魂のうち深く響き渡るその呼びかけにおいて、二人は人格として深く出会い、認め合い、交わりに至るのです。そこで初めて今ここに「主イエスは生きておられる」ことが分かるようになり、そのお方の現存の認識を深め、さらに新しい生を共に生きてゆくことになりまます。このように、単なる肉や動く肉体の再現ではなくて、自分の罪と死のために犠牲となって下さったお方として、即ちそれによって主の最も深い愛と憐れみのうちにあり、その主が、今ここにそしていつも永遠に、わたしの救い主として目の前に立ち共にお導きくださるのだ、と分かったのです。復活の認知は、ただ単純に肉の眼だけ見る物理的な肉体によって理解できる、ということではなかったのです。そこには生きて現存する人格として、十字架によって自分の罪から命を贖われた救い主として、そして今は復活という永遠の命のもとにある救い主として、自分を深く愛し、自分の名を呼び語りかけてくださる受肉の神として、「イエスさま」は目の前に現存し、みことばを通して、語りかけておられるのです。このように、生きて働く主イエスにおける「神」と、みことばにおいて、深く人格的に出会い交わる中で、ヨハネは、確かに「入って来て、見た、信じた」と証言したのではないでしょうか。確かに、物理的な存在や肉体における主のご復活を前提にしつつ、しかしそれ以上に、みことばにおいて、生き生きとした人格の深みにおいて、魂の交わりに導かれていた、と言えます。主のご復活を理解して受け入れられるようになるには、このように、主はみことばにおいてご自身を現わしておられ、主のみことばによる呼びかけの中で、私たちは最も人間らしい魂の中心でそれを聞き、みことばを通して現臨するお方の存在に心を向け、ついにはそのお方の現存を、しかも魂の奥深い根源を刺し貫くように現存してくださる主と出会うのです。人格として相互に認め合い出会うとは、ある意味で、肉体的である以上に、人格の中枢にまで至る、肉体を超える人間としての言わば「霊」的な領域にまで及ぶ認識であります。したがって、先ず人格として現存することに気付き、その現存を認めて、受け入れられるようになること、こちら側の人格の全てを尽くして信頼と尊敬をもって、主からの呼びかけを聞き分けることで、初めて「生きておられる」という本当の意味が分かるのではないでしょうか。しかも、そうした復活の主と出会いとその気づきの根源は、主イエスにおける「神(わたしはある)」による啓示の力であり、名を呼んで呼びかけ語りかける御声の力であって、ただ生き返ったという肉体を根拠にするものではないのです。主イエスにおける「神」を信じ認め、そこで復活させられた主イエスにおける「人」とも出会い、気づかされるのではないでしょうか。主イエスにおける「神」は、死体をも生き返らせる、という奇跡的な現象を遥かに超えて、愛と力に満ちた「神」のみことばによる力が、私たちの魂のうちに、「信仰」の体験として引き起こし、甦ってここにおられる、という人格的な出会いとなって証言されていると言えましょう。
1.「あなたがたに平和があるように」(19節)
本日は、ついに主ご自身から、弟子たちのただ中に入り込んで来て、復活したご自身のお姿を現し、みことばを告げられます。「20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」とヨハネは証言しています。意味深いことがいくつかここでは伝えられています。それは、何と言っても、復活の顕現は、圧倒的に、主イエスご自身からの主導によることです。復活の主との出会いは、人間の側からは全く無力なことで完全に受け身です。主ご自身からご自身のお姿を現して、ご自身のみことばをもって語りかけ、弟子たちの人格の中枢に飛び込んで来られ、弟子たちの魂を平和と安息のうちに誘います。そうした主イエスから、人々の魂の奥深くへの突入によって、復活顕現は明らかな出来事として体験されます。ヨハネはそうした様子を「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち(h=lqen o` VIhsou/j kai. e;sth eivj to. me,son)、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(ヨハネ20:19~20)と証言します。迫害とそれによる死の恐れに支配され、堅く家の戸に鍵をかけて全てに対して閉ざす中、その扉をすり抜けて、徹底的に恐怖に飲み尽くされていた、そのただ中に、復活の主は突入して来られたのです。あたかも霊のように、そこへ、即ち恐怖に震える弟子たちひとりひとりの魂のただ中に突入するかのように入り込んで来て、部屋の真ん中に来てお立ちになって、ご自身の復活して生きておられるお姿をお見せになります。新共同訳聖書も「イエスが来て真ん中に立ち」と、とても勢いのある訳をつけていますが、リビングバイブルも「その時、突然、全く突然に、イエスが一同の中にお立ちになったのです。」と訳して、まさに弟子たちの真ん中に突入して来られお立ちになった復活の主イエスを描いています。意味深いのは、聖書ははっきりと「手とわき腹とをお見せになった」(20節)と証言しており、主イエスの復活を、決してただ単に「霊」や「風」のように顕現してはいないことです。しかし同時にその一方で、単に「生き返った肉体」だけを示そうとするものでもないのです。主は、弟子たちの真ん中に立ち、先ずご自身のみことばをもって語りかけ、弟子たちに平和の挨拶をします。しかしこの挨拶の言葉は通常の日常的な平和の挨拶にとどまらず、もっと本質的な意味があります。すなわち、神が、あなたがた生きた人間である魂の中心から、平和と安息のご支配がもたらせられるように、否、もう既にそのご支配は実現した、と宣言します。言い換えれば、人類に対する神からの和解と赦しの宣言であり、神の栄光勝利のもとに、人々は完全に罪赦され、死と滅びの呪いから解放された、という福音の宣言であります。主イエスは、ご自身の受肉を通して、「人間性」を受け取ることで、人類すべてにその人間性をご自身のうちに引き受けて背負い、担い続け、人間性をそのまま背負ったままで、十字架の死に至るまで神の義と従順を貫き、罪を償い、その結果、主イエスにおいて神との和解は果たされ、神の義は貫かれ、人類のための贖罪は完全に成し遂げられました。こうした主イエスの受肉を通して主イエスに背負われた「人間性」は、そのままの肉体と人間性において、「神」の力とその栄光のもとで、ついに罪と死に勝利して、永遠の命をもって死者から復活し、今ここに、神と人類との平和と和解を、そして永遠の命による復活勝利を祝福豊かに告げ知らせるに至ったのです。それが、復活顕現の福音的本質であります。「あなたがたに平和があるように」とは、まさにそうした救いの宣言でありました。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」という表現は、天と地を貫いて、神の国の到来と神のご支配を完全に分かち合う平和であり一致であり、それはまた、復活の主、栄光勝利の主による新しい契約共同体の誕生であり、それこそ、キリストの身体としての教会の本質を写すものであります。神による平和と和解は、先ずこうした「信仰」において、主イエスの復活勝利に気づくことから、その本質的な働きは始まったのであります。
2.「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)
「20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。意味深いのは、「弟子たちは、主を見て喜んだ(oi` maqhtai. ivdo,ntej to.n ku,rion)」と記しています。単に、手と脇腹を見て、喜んだ、のではないのです。大事なのは、「手とわき腹をお見せになった(e;deixen ta.j cei/raj kai. th.n pleura.n auvtoi/j)」、その結果、それからさらにもっと大事なこととして、「イエスさま」だ、ということが分かったのです。この気づきは弟子たちの方から気付いたのではなくて、主イエスの方から、ご自身の両手と脇腹を差し出し弟子たちにお見せになることで、ご復活の主の現存をお示しになったのです。言うまでもなく、これは、主イエスを十字架に打ちつけて罪人として処刑した痛みと屈辱の釘傷であり、主イエスの脇腹を刺し貫いて、トドメを刺して「死」に至らしめたあの槍の傷跡であります。この記述は、単に肉体としての存在を証明しようとしているのではないのです。肉体を示す以上に大事な意味は、自分たちの罪と死のために、十字架において贖罪の死を遂げて葬られたお方の傷であり、自分たちの贖いのために十字架の死において傷ついたお方のお身体がここにあり、しかもその十字架の死は敗北ではなくて、栄光勝利の復活体として、今ここに甦って立っておられるのです。主イエスは、今もなお、あの十字架で死んだ同じお身体をそのまま背負い担って、死に勝利して、復活体としてご自身の十字架のお身体を示しつつ、ここに立っておられる、ということであります。主の十字架が神によって勝利した、という喜びでもあります。確かに、弟子たちは復活の主として再会したのですが、それは、自分の罪のために十字架で贖いの死を果たされたその贖罪と復活のお身体をもって、弟子たちにそのお姿を現し、弟子たちはそのお身体をもった「受肉の神」と再会したのです。しかもそれは、死と敗北のまま終わった死の身体、死に支配され呪われた人間性ではなくて、栄光の復活という勝利のお姿で、しかも十字架における贖罪の勝利した新しい人間性として神に受け入れら祝福されたのです。主イエスがお見せになられたのは、両手と脇腹ですが、ですから、わざわざヨハネは、「主」を見て喜んだ、と書くのであります。これはまさに十字架の勝利者としての主であり、主イエスにおける「神」の勝利をいよいよ確かに知って、そうだったんだ、と喜んだのではないでしょうか。復活とは、主イエスの復活であり、十字架の死からの復活であり、ですから、単に肉体が復帰したという不思議な幻想ではなくて、十字架に死んで葬られた主イエスにおける人類救済の勝利の凱旋であり、主イエスにおける「神」が、即ち神の御子が、その受肉したお身体と人間性を支配する罪に神の従順を尽くして勝利し、愛と憐れみをもって罪から贖い、永遠の命をもって復活という新しい人間性を実現してくださった、ということに他らなりません。その新しい復活の人間性のもとに、弟子たちは初めて本当の平和と安息を分かち与えられたのです。したがって、復活の主が最初に発したみことばは「あなたがたに平和があるように」という和解と平和のみことばでありました。
3.「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)
主イエスの十字架の死における贖罪の人類救済は、主イエスのお身体の復活という勝利と栄光の凱旋となって、弟子たちに顕現されました。主イエスは「あなたがたに平和があるように。」重ねて言われた(21a節)とありますように、人間を根源から支配していた罪と死と滅びの呪いに対して、主イエスの十字架と復活のお身体において、即ち主イエスの全身全霊を尽くした人間性において、完全の神のご支配と勝利を実現し、天地を貫く天地一体の和解と平和をもたらしました。主イエスによる神の平和は、新しい創造における存在の義として隅々に沁みわたり、人類は元より万物の隅々に至るまで神の和解と平和による命の支配は実現したのです。この福音が繰り返し平和の挨拶として宣言されています。このように、主の復活における万物の平和と和解の挨拶が、重ねて宣言されていることはとても意味深いことです。
主のご復活の挨拶のもとに、即ち、この神の和解と平和の勝利宣言のもとに、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と主は仰せになり、弟子たちを「使徒」として派遣します。弟子たちは皆、ここで改めて、「聖霊」によってと言うよりも、「復活勝利の主イエス」から直接に、「使徒」として、全地に遣わされます。「遣わす、送り出す(avposte,llw avpe,stalke,n)」という字は、「使徒」という字の動詞で、完了形と現在形で二度用いられます。父による子の派遣と、子である主イエスによる使徒の派遣は、同じ「遣わす」という動詞を用いることで、「使徒の派遣」というわざの本質は、父子一体の交わりにあるわざであることを暗示しているようです。受肉の神として天地を貫く主イエスの栄光勝利とそのご主権のもと、その栄光勝利とご支配をそのまま受けて、弟子たちは、天へと導神の平和と和解の「使徒」として、神から天地を貫く働きを担い遣わされたのです。
ヨハネによれば、この弟子の派遣は、復活顕現の主イエスにおいて、聖霊の伝授と共に、同時に統合的な一つのわざとして、行われています。ルカによる福音書は、明らかに時間による経過と段階を経て、主イエスの復活顕現から昇天、そして主の昇天を受けて、初めて聖霊が弟子たちに降り、その聖霊を受けて弟子たちは世に遣わされます。ルカによる福音書24章45節以下によれば、24:45イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と記されています。そして使徒言行録1章3節以下によれば、「1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と記しています。
しかしヨハネによる福音書20章19節以下によれば、「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった」という復活顕現の出来事も、そして「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」という弟子を使徒として世に派遣することも、さらには「20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とする聖霊の伝授も、同一の場で同時に与えられる一つの出来事として、行われています。それは、同じ場所で同じ時に行われただけではなく、さらに其々のみわざの内容が相互に深く関わり合う同じ一つの神の出来事として語られます。ちょうど、三位一体の父と子と聖霊の「三位格」が、其々「一体」に相互に内在するように、御子の復活顕現も、聖霊の伝授も、そして弟子の派遣と教会共同体の形成も、皆一つの統合された神の出来事として、明らかにされるのです。こうした一体の神による統合された出来事として福音を証言する、という点に、ヨハネとその教会の持つ神学的特徴があると言えます。こうしたヨハネの神学は、東方教会の神学の根幹を担っているようにも思われます。
4.「聖霊を受けなさい」(22節)
復活した主イエスは、その場で、弟子たちを「使徒」として派遣し、同時に同じ場で弟子たちに「使徒」としての聖霊を伝授します。「20:21 イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい(evnefu,shsen kai. le,gei auvtoi/j( La,bete pneu/ma a[gion)。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」と言って、聖霊を弟子たちに聖霊を吹き入れて注がれています。先ほど申しましたように、ヨハネでは、復活の後に昇天があって、それからようやく聖霊が降るペンテコステを迎えるというのではないのです。聖霊の伝授は、復活と同時に同じ一つの統合された出来事として描かれます。しかも復活の主イエスから直接弟子たちに、しかも息を吹き入れるようにして、聖霊は吹き入れられています。「息を吹きかける」(evmfusa,w evnefu,shsen)という字は、創世記2章7節に「2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた(evnefu,shsen eivj to. pro,swpon auvtou/ pnoh.n zwh/j)。人はこうして生きる者となった(evge,neto o` a;nqrwpoj eivj yuch.n zw/san)。」とありますように、生きた人格としての神に依る人間創造の原点を表す場面ですが、七十人訳聖書のギリシャ語と全く同じ字です。ヨハネは、わざわざ「息を吹きかける」という旧約聖書の人間創造の字を用いて、聖霊の伝授を「創造」という視点から描きます。いわば、あたかも聖霊の伝授とは、人間の「再創造」である、と言わんばかりです。否、人間の創造の完全であり完成であると言っているように思われます。しかも、その聖霊を吹きかけて、人間の創造を完成させるのは、復活の主イエスであります。つまり、主イエスにおける「復活」の人間性をそのまま人間に分け与えているのです。聖霊を受けた使徒たちの新しい人間性とは、この主イエスにおける栄光の復活の霊と身体とによる新生であります。ここに、天地を貫いて実現するキリストの復活の身体としての弟子たちの共同体であり、即ち一つの、聖霊なる、公同普遍なる、使徒の教会の本質がここにあります。つまり、教会とはキリストの復活した十字架のお身体であり、贖いのために十字架に死んで復活した主のお身体であります。それを弟子たちとその共同体は、ご復活の主イエスから直接聖霊を受けるという形で与り、分け与えらたと言えましょう。
5.「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(23節)
復活の主イエスは「『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」と仰せになり、弟子たちを<使徒>として派遣しますが、その際に、「息を吹きかけて」聖霊を与えます。先ほど、聖霊の伝授は、人間の再創造と創造完成を意味している、と申しましたが、もう一つ重大な意味を持っています。それは「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と、主イエスご自身の権威において、「罪を赦す権限」を弟子たちに委ねておられることです。ここに、聖霊伝授によるもう一つの、弟子たちを「使徒」として立て、遣わされた意味が込められています。「聖霊」を主イエスは弁護者(パラクレートス)とお呼びになっておられます。パラクレートスとは、「傍らに絶えず寄り添い助ける者」という意味です。主ご自身の代わり聖霊を弟子たちの傍らに寄り添う助け主として与えたのです。その働きの目的は、「あなたがたが赦せば、その罪は赦される」が「あなたがたが赦さなければ、赦されない」という赦罪の権限の付与でした。「福音を宣べ伝える」という「宣教」の全権委任と、そして「罪を赦す」という赦罪の全権委任が「使徒たち」与えられたのです。これが復活の主から、直接に使徒たちに委ねられた使徒としての権限委託です。「聖霊」はそれを傍らで寄り添いつつ保証する弁護人であり助け手であります。この聖霊伝授に基づく宣教と赦罪の全権委託は、マタイによれば、「ペトロ」(マタイ16:19)を代表者としてつつも「18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ18:18)と言われていますように、「使徒」の其々に対して委ねられた権限委託であったと言えます。