church@admin のすべての投稿

2020年11月22日「われは、その独り子、われらの主イエス・キリストを信ず」 磯部理一郎 牧師

2020.11.22, 29  小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第26主日礼拝、待降第1主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答29~30

子なる神について(1)

 

 

問29 (司式者)

「なぜ、神の御子は『イエス』すなわち『救い主』と呼ばれるのか。」

答え (会衆)

「救い主イエスは、私たちを私たちの罪から永遠に救い出してくださるからです。

唯一の永遠の救いは、ただ主イエスお独りだけに、求められまた見出すことができるからです。」

 

 

問30 (司式者)

「では、聖人自分自身に、或いは何か別の所に救いと平安を求める人々は、

唯一永遠の救い主イエスを信じている(と言える)のか。」

答え 「いいえ。そうした人々は、救い主イエスを同じように賞賛しても、

その行為によって、唯一永遠の救い主、救世主イエスを否定しています。

結局、イエスは唯一完全な救世主でないのか、

それとも、この永遠の救い主を真の信仰をもって受け入れ

自分の救いに必要な全てをイエスにおいて間違いなく獲得するか、

そのどちらかです。」

 

2020.11.22 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第26主日

ハイデルベルク信仰問答講解説教42(問答29~30)

説教 「われは、その独り子、われらの主イエス・キリストを信ず」

聖書 イザヤ書11章1~10節

マタイによる福音書1章18~24節

 

神を神とする、それが礼拝の本質であります。しかし私たち人間は、自分の自我欲求から悪魔の誘惑に負けて、神に背き、神から離反してしまいました。この神への背きと堕落の罪により、人間の本性そのものにおいて、人間の本質から、本来の神による創造の恵みと秩序を失い、神との基本的な関係性を破壊してしまったのです。所謂「義」の関係と存在を失い、「不義」の関係と形に転落して、神との正常な関係性が壊れてしまったのです。その結果、人間は、根源的に、神を正しく神とすることができなくなってしまいました。したがって、たとえ人間が神の御名を呼んだとしても、根本から義の関係が破壊されて、神に背き神を憎む方向に傾いていますので、自分の欲求により神を歪め、人間の都合に合わせて、人間中心に礼拝を形づくろうとします。正しく神を神とする本来の礼拝は根本において成立しないのです。結局、外見上は、神の名を呼んでいるのに、本質は、偶像崇拝となります。罪ゆえに、罪人は罪を通してしか、神を拝めないのです。したがって、神を神とする正しい、真実な礼拝ができるようになるには、この罪の問題を根源的に解決する必要があります。

 

では、どうすれば、神の名を正しく唱え、神を正しく神とすることができるのでしょうか。破綻した人間の力ではなく、神の力による外に道はないようです。問答102は「神は御心からただ独り人の心を知る神として真理に証明を与えわたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます。」と告白します。人間は、本来、神なしに、また正しい意味で神の御名を呼び求めることなく、生きることはできません。なぜなら、神の愛と恵みのある限りにおいて、初めて存在し生きることができる「被造物」だからです。それを一番よく知るのは、人間をお造りになった神ご自身です。人間が、本当の意味で人間らしく生きるには、神が必要であることを神は一番よくご存じなので、神なしには生きることができない被造物の惨めさを、神は最も深くご存じなので、神ご自身から神ご自身の意志によって、人間と向き合おうとされるのです。それを問答102は「神は御心からただ独り人の心を知る神として真理に証明を与える」と宣言告白したのです。真理とは、人間が失った神の真理であり、その神の真理を神が証明するのです。神が永遠完全なる愛の神であり、人が霊と魂により人格として生きる人間であるための命の源であり、人間は神から造られた神の「複写」であり「似像」です。創造主である神と、被造物である人間とが、互いに正しく向き合い、共に生きるための、創造の秩序であります。神は全てを知っており、人間の心の深みを極めます。人の病と痛みを知り、人の狂気と残虐も知り、人の破れと滅びも知るお方であります。そして神は、愛と憐れみ、豊かな慈しみのうちに、人間をはじめ、万物、世界を創造されたのです。しかし信仰問答は、そのような大きな真理全体の中で、その真理の中心を指し示そうとしているのではないかと思います。神の真理全体の中心にある真理、それが、まさにキリストの出来事であり、キリストによる人類の救済であり、万物の完成であります。真理とは、無限に大きくて深い、有限な被造物である人間には、到底包み込むことはできず、殆ど全てが隠されていて知ることのできない、そうした深い奥義のような神のご意志、神のご計画のすべてであります。こうした神の御心を、使徒パウロは「キリストの秘められた計画(ミュステリオン)」(コロサイ4:3)と呼んでいます。問答102はそれを「真理」と総称しているように思われます。

 

神は、ヨブ記38章において、ヨブに語りかけます。「38:16 お前は海の湧き出るところまで行き着き/深淵の底を行き巡ったことがあるか。38:17 死の門がお前に姿を見せ/死の闇の門を見たことがあるか。38:18 お前はまた、大地の広がりを/隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。38:19 光が住んでいるのはどの方向か。暗黒の住みかはどこか。38:20 光をその境にまで連れていけるか。暗黒の住みかに至る道を知っているか。(中略)38:31 すばるの鎖を引き締め/オリオンの綱を緩めることがお前にできるか。38:32 時がくれば銀河を繰り出し/大熊を子熊と共に導き出すことができるか。38:33 天の法則を知り/その支配を地上に及ぼす者はお前か。」こうした宇宙万物の存在と営みすべての中心におられるお方、それが、神のロゴスであり、キリストであり、受肉して十字架に死に三日目に復活したイエス・キリストであります。ヨハネは福音書の冒頭で、神と万物の真理について、こう告げます。「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と証言する、神の言であり、キリストであります。つまり「神が真理に証明を与える」とは、単刀直入に言えば、神は、人間の救いのために、真理を与え、真理を神自ら担い証明する。それが、イエス・キリストであります。キリストがイエスとして、十字架と復活において、神の隠されたご計画を担い実現して、人間に神の義と真理を与え、人間を罪から救済して、新しい命と存在を与えるのであります。

 

そこで本日より説教の主題は、イエス・キリストとなります。十戒の第三戒まで学びましたが、来週から待降節にはいりますが、本日よりクリスマスまで教会暦に合わせて、ハイデルベルク信仰問答より問答29から神の子について、解き明かしの説教となります。問答29は「なぜ、神の御子は『イエス』すなわち『救い主』と呼ばれるのか。」と問い、キリストがこの世に生まれて、なぜ「イエス」と命名されたかを尋ねています。そして答えでは「救い主イエスは、私たちを私たちの罪から永遠に救い出してくださるからです。唯一の永遠の救いはただ主イエスお独りだけに、求められまた見出すことができるからです。」と告白します。最も大切なこととして覚えたいことは、なぜ「イエス」という名をつけるように、神は、天使を通して、ヨセフやマリアに求めたのか、ということにあります。

 

「イエス」という名前は、ギリシャ語読みで「イエスース」ですが、元々はヘブライ語で「ヨシュア(イェーシューアまたはイェホーシューア)」(神ヤハウェーは救い給う)という名前です。マタイによる福音書1章では、1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさいこの子は自分の民を罪から救うからである。」と、神からの使いである天使の命令により「イエス」と命名されます。神がその名を命名せよと命じる理由は、「この子は自分の民を罪から救うからである」とはっきりと宣言され、「神が民を罪からの救う」という神の使命を言い表した名前であることが告げられています。イエスという名、すなわちヨシュアという名前はユダヤの民であればだれもが知るユダヤの歴史を担う伝統的な名前です。モーセはエジプトからイスラエルの民を解放する務めを担いましたが、途中荒れ野を彷徨い、死を迎えます。そのモーセの使命を受け継いで、見事、イスラエルの民を乳と蜜の流れる地に導き、出エジプトの完全解放を実現した人物こそ「ヨシュア」でした。ヨシュアにおいて、神ヤハウェーは民の救いを実現したのでした。そしてイスラエルは神の民の国として建国されるのです。同じように、神は「イエス」において人類を罪から救うのです。

神さまと、実際の歴史における人類との関わりは、すべてが神の救いのみわざを通しての関わりでした。創造それ自体が救いと言ってもよいのですが、ノアが登場したり、アブラハムが登場したり、そしてモーセやヨシュア(イエス)が登場したりと、こうした人々は、神が人類との不義と背きの関係から、愛と信頼の関係へと回復するための働きでありました。そうした神は救いと導きを通して人類とその歴史に深く介入して、人類との関係回復を行われて来ました。聖書は、特にイエス・キリストが遣わされるまでの、そうした神の救いの歴史を記録し証言したことばが旧約聖書と言えます。聖書は、神の人類救済の記録であり、神の救済史は聖書の中に証言されるのであります。

 

しかしながら、アブラハムにおける救済の約束も、モーセと律法における救済も、そしてダビデやソロモンにおける救済も人類の歴史の中で、とても大きな神のメッセージとして認識されたのですが、罪に堕落した人間には、そのメッセージを受け入れて、神との義なる関係、愛と信頼の関係、そして永遠の命に溢れる創造の秩序を回復するには至りませんでした。パウロはローマの信徒への手紙の7章で、「7:8 ところが、罪は掟によって機会を得あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。7:9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき罪が生き返って、 7:10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が死に導くものであることが分かりました。 7:11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」と罪に苦しみ悶えつつ、告白します。律法は、人類を救いに導くことはできず、それどころか、益々、罪の実態を現し突き付けたのです。どんなに素晴らしい理想や律法が与えられても、その志の根源から人間は破綻していたのです。罪とは、そのように、人間の本性を根源から虚偽に変質させ、腐らせていたのです。したがって、救いの根本問題は、単に愛を示し救済の手を差し伸べることではないのです。所謂「慈善」では、一時は助けとなりますが、人間をその本性から救済することはできないのであります。問題は、ひとりひとりの人間本性の根源に宿り吹き出し続ける罪の解決にあります。したがって、どうしても、罪の完全解決を目指した救済でなければならないのです。当然ながら、旧約は新約へと展開するのであります。まことの救い主、すなわちまことの「イエス」(ヨシュア)とは、罪を完全解決できるまことの「キリスト」でなければならないのです。

 

ルカによる福音書は2章では、2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と天使がイエス誕生の真相を告知し、その後で「2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」と記しています。この証言でとても意味深い点は、最初から「救い主」が「主メシア」であると宣言し告知していることです。つまり、本当に民を救うお方、すなわち罪から救う救い主は、「メシア」(キリスト)である、と宣言するのであります。神の独り子は、ついに「キリスト」として、処女マリアの胎内より受肉して地上に生まれ落ち、人間「イエス」という名が付けられて成長し、「救い主」となられるのです。

 

問答29の答えで「救い主イエスは、私たちを私たちの罪から永遠に救い出してくださるからです。唯一の永遠の救いは、ただ主イエスお独りだけに求められまた見出すことができるからです。」と告白していますが、パウロのように自分の罪を深く知り、ついに永遠に救済してくださる救い主こそ、罪を根源から滅ぼして神との和解を実現する仲保者「キリスト」として見出すことになります。「7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体からだれがわたしを救ってくれるでしょうか。7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたしますca,rij de. tw/| qew/| dia. VIhsou/ Cristou/ tou/ kuri,ou h`mw/n))。」(ローマ7:24~25)と告白する通りです。このとても短い文の中に、真理の全てが集中しています。特に「イエス・キリストを通して」という表現にご注目ください。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのか、それは、ただ独り「イエス・キリストを通して」救われるのであり、したがって、神に感謝することができるのは、ただ独り「イエス・キリストを通して」である、ということになります。罪を根源から解決するのも、神を神として礼拝することができるのも、実は常に「イエス・キリストを通して」のみ、可能なのです。したがって問答29は「唯一の永遠の救いは、ただ主イエスお独りだけに、求められまた見出すことができる」と告白します。

 

そこで問30「では、聖人や自分自身に、或いは何か別の所に、救いと平安を求める人々は、

唯一永遠の救い主イエスを信じている(と言える)のか。」と問い、イエス・キリストのほかに、またイエス・キリストと並んで、救いを求める過ちと不従順を問題にします。言い換えれば、本当の意味で、救いと平安はだれを通して、何を通して与えられるか、ということを徹底しています。そしてきっぱりと、答えで「いいえ。そうした人々は、救い主イエスを同じように賞賛しても、その行為によって、唯一永遠の救い主、救世主イエスを否定しています。結局、イエスは唯一完全な救世主でないのか、それとも、この永遠の救い主を真の信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要な全てをイエスにおいて間違いなく獲得するか、そのどちらかです。」と告白します。問題は、どのようにして、或いはどうすれば、罪を根源から解決できるか、という点です。罪を完全に償い尽くして、つまり神との正しい関係性を回復して、創造の豊かな恵みと秩序を取り戻すのか、ということになります。つまり、贖罪者としてのイエス・キリストであり、贖罪という十字架のみわざにおいて、初めて罪は滅ぼされ、人間は罪から解放されるのであります。そうでなければ、何を与えられても、どんな高価な愛と恵みを与えられたとして、罪が残れば、結局は、神に背き、神の祝福を自ら捨てて、欲望の奴隷となり、死と滅びに転落するほかに道はなくなるからです。先週の問答102で「神は御心から、ただ独り人の心を知る神として、真理に証明を与え、わたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます。」と告白しています。真理に証明を与えるとは、まさに、それは、罪を徹底的に罰して裁くことではないでしょうか。神の愛が真理として証明されるには、人間を死と滅びの悲惨へと引きずり込んでしまう罪を罰し裁くのでなければ、本当の愛にはならないのです。天より遣わされた神の御子は、イエス・キリストとして地上に生まれ、十字架の死へとただひたすらに直行されます。まさにこの十字架への道こそ贖罪の道であり、神は、イエス・キリストの十字架において、罪に膿んで虚偽となった人間本性を根源から罰して滅ぼし、イエス・キリストの復活において、永遠の命を回復されるのであります。

 

2020年11月15日「神の御名によって、御心を祈り求める」 磯部理一郎 牧師

2020.11.15 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第25主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答101~102

律法について(4)

 

 

問101 (司式者)

神の御名のもとで、人が信仰に基づいて誓うことは認められるか。」

答え  (会衆)

「はい。政府がその行政官に宣誓を求めるとき、

或いは、神の栄光と隣人の祝福のために

宣誓を通して、忠誠と真実が得られ、またいよいよ必要となるときです。

こうした宣誓は、神のみことばに基づいており、

それゆえ聖徒たちによってまた旧約聖書と新約聖書において、適切に用いられています。」

 

 

問102 (司式者)

聖人やその他の被造物のもとで、誓うことは認められるか。」

答え  (会衆)

「いいえ。掟に適う誓いとは、神に依り頼む呼び求めです。

すなわち、神は御心から、ただ独り人の心を知る神として、真理に証明を与え

わたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます。

それゆえ、当然ながら、如何なる被造物にもこうした栄誉は値しません。」

2020.11.15 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第25主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教41(問答101~102)

律法について(4)

 

説教「神の聖名によって御心を祈り求める」

聖書 申命記10章12~21節

マタイによる福音書5章33~37節

 

「十戒」における第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」について、ハイデルベルク信仰問答から学びました。そこで少々疑問として残る点は、「主の御名を唱える」ことは、被造物を神として偶像崇拝するのではなく、唯一真の神の御名を唱えることなのに、それがどうしていけないのか、という点です。私たち日本人の宗教感情からすれば、「南無妙法蓮華経」とか「南無阿弥陀仏」或いは「南無八幡」など、数えきれないほど、いろいろな名前で偶像の神々を呼び求め、熱心に繰り返して祈願します。また、結婚式をキリスト教式で上げ、クリスマスを家族で祝い、その一週間後には親戚一同で神社仏閣に初詣をして新年を祝い、死ぬとお寺でお葬式をあげる。まさに神も仏も偶像も余り厳格な区別はなく、さまざまにしかも頻繁に神々の名を呼び求める宗教文化の中に、私たち日本人の日常生活があります。わたくし自身も鎌倉の仏教の学校で教育を受けました。多くの知識人は、唯一真の神を知らず神から離れた所で、傍観者のように諸宗教を眺めて、日本人の「寛容」と評価するかも知れません。これを宗教の寛容というか、無分別というか、大きく分かれる所であります。こうした日本人の宗教感情からすれば、聖書は実に厳格で、およそ寛容とは言えません。十戒は、第二戒で「あなたは、きざんだ像を造って、それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない」と厳格に偶像崇拝を禁じ、次いで第三戒で「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と、「唯一真の神」であっても、その画像化することすら禁じますし、それどころか、「神」の名を呼ぶことすら「みだりに唱えてはならない」と考えられないほど厳格に禁じます。ただ単に被造物を「画像」にして、偶像として伏し拝むだけではなくて、唯一真の神の「名」を呼ぶことすら禁止するのです。それは、なぜなのでしょうか。この厳格さはいったいどこから来るのでしょうか。

 

それには、本当の意味で、私たち人間が、どうすれば、神を神とすることができるか、という課題があるからです。神なしに、神を抜きにして、人間を中心にして、礼拝や宗教を形づくろうとする、人間の原罪を根源とする神への背き」があるからす。ハイデルベルク信仰問答は問答5で「わたしには生まれつき神と隣人を憎む傾向があるからです。」と告白します。つまり人間本性はその本質において「神を憎み、隣人を憎む傾向にある」と深く人間の本性を見つます。ドイツ語原典はGeneigt(neigen)「下向きに傾く」という字を用いて、人間の本性は神を憎み人を憎む方向に傾いていると表現します。もう二度と神を神とすることができなくなってしまった人間の根源的な「神への背き」と「転落」を表白します。前回の説教に関連づけて申しますと、信仰告白において正しく神を神とする(プロスクネオー proskune,w)ことも、礼拝典礼において正しく神に仕え務めを果たす(レイトゥルゲオー leitourge,w)ことにおいても、そして日常の生活習慣において神を神とする(ラトリューオー latreu,w)ことにおいても、本当の意味で、神を神とすることができないのです。あくまでも神を正しく神とするのですが、それをどこまで徹底して神さまを中心にして、神を神とするのか、それとも反対に、自分や人間の都合に偏らせて、人間を中心にして、神を造り神の名を呼ぶのか、という問題に尽きるようです。礼拝とは、神を神とする場であります。神の栄光のもとに「神を神とする」場において、初めて真実な意味で礼拝は成り立つものです。人間の欲望欲求のもとに、神を都合よく造り変えて拝むと、唯一の真の神を拝んでいるはずなのに、人間の欲望が造り出す偶像の神を拝むことになるのではないでしょうか。それは「神」を、人間の欲望や欲求に造り変えることを意味します。「画像」化することでも、また「神の名」唱えることでさえも、結局は人間の欲求にしたがって人間中心に神を造り変えて礼拝するのであれば、それは「偶像崇拝」の危機となります。どんなに、神の御名をよんでも、キリストの名をよんでも、自分の欲求支配のために、人間中心に、神を勝手に都合よく造り変えて、神の御名を唱えるのであれば、それは本質的には偶像崇拝となってしまうのです。まさに、自我欲求の支配に傾き、神を憎む傾きの中で、いくら唯一真の神の御名を呼び求め、結局、その呼び求めは、根源的に「神を憎む傾き」に支配されてしまうのです。こうした「神を憎む傾き」が、人間本性の根源から、正常な向きと関係に修復されない限り、本当の意味での礼拝は成立しないのです。神を唯一真の神として正しく知り拝む、という造り主なる神と被造物との根本的な関係の在り方、そしてそれは礼拝という形で表現されるのですが、その神と人間との根本的な関係とその在り方が問われる場が、まさに礼拝の仕方に現れるのです。言い換えますと、具体的な礼拝の形や態度一つ一つに、礼拝者の本当の心と姿一つ一つが現れ、映し出されます。そうした人間存在の根源から噴き出す、人間の欲求に従う人間中心主義に対して、戒めは、神中心に神を神とする礼拝を求めます。なぜなら神は、万物の造り主であり、万物を根底から支え保つ、全知全能の神だからです。永遠無限に全てを保証できるのは、有限な人間ではなく、永遠無限の神です。私たち人間は、あくまでも被造物として、造り主なる神に依存する存在です。

 

「十戒」で第三戒は「神の御名を唱える」行為を重く受け止め、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と厳格に戒めます。しかし、先ほどの問答5は問いで「あなたは、神の律法が要求するこれら全てのことを完全に遵守(じゅんしゅ)できるか。」と問い、「いいえできません。なぜなら、わたしには生まれつき神と隣人を憎む傾向があるからです。」と答えます。つまり人間は律法を遵守できない、という本質的な傾きと背きがある、と最初から問答5は認めます。神々や仏の名を繰り返し唱える、そうした習慣にある私たち日本人の宗教感情からすれば、その常識や想像を超えて、この戒めを理解するのはとても難しいように思われます。しかも「神の聖なる御名を唱える」ことは、一般社会における誓いや誓約という行為にまで及びます。所謂、神の名にかけて誓うという社会一般を支える契約行為にまで及びます。前回は「神の名をみだりに唱えてはならない」という戒めから、単に神の御名をよぶことから、神の御名をよんで誓う行為へと問題は広げられますが、前回に続き、今回も「一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。」(マタイによる福音書5章34節)とする主イエスのみことばを聴きました。誓いの絶対禁止です。誓うことが許されない理由は、主イエスのみことば通りで「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」からです。被造物全体は、どれもこれも、皆、例外なく、造り主なる神と神の憐れみに依存する限りにおいて、存在が許されるものです。私たちがどれほど誓いを立てても、それを完全に保証する根拠は、私たちにも、世界にもないのです。だとすれば、神の御心において、神がお認めくださる場においてのみ、神の御名は用いられるべきでありましょう。このように、神を正しく神とすることを困難にしている背景に、有限な被造物の本性としての限界であり、また悪魔に唆されて自我欲求を利用され、神と神のみことばに背き、堕落した人間の本性における堕罪が大きく影響しているようです。

 

ところが、本日のハイデルベルク信仰問答101では、一転して、「神の御名のもとで信仰に基づいて誓うことは認められるか」と問い、信仰に基づく誓いは冒涜や御名を汚すことにならない、と容認するのです。問答はここで「御名を唱える」という意味を、さらに深く問い直し、掘り下げます。問答101は「はい。政府がその行政官に宣誓を求めるとき、或いは、神の栄光と隣人の祝福のために、宣誓を通して、忠誠と真実が得られ、またいよいよ必要となるときです。こうした宣誓は、神のみことばに基づいており、それゆえ聖徒たちによってまた旧約聖書と新約聖書において、適切に用いられています。」と答えます。キリスト教国家で「政府」が神の名による宣誓を求める場合を認め、また「神の栄光をあらわすために」「隣人の救いのために」という目的であれば、御名を唱えて誓うことは、聖書の中で認められており神はお認めくださる、と一転して容認しています。

 

この違い、即ち禁止の「いいえ」と容認の「はい」との違いは、いったいどこからくるのでしょうか。両者を比べますと、問答101は「神の御名のもとで信仰に基づいて誓う」となっています。問答101も「神の栄光と隣人の祝福のために」は容認されますが、反対に、問答102は「聖人やその他の被造物のもとで誓うことは認められるか」と問い、「いいえ」と禁止されます。つまり神の御名のもとで信仰に基づく誓いと、被造物でのもとで(信仰に基づかない)誓いとは、実は本質的に異なるということになります。その理由は、聖人や被造物の名のもつ不完全性と有限性にあり、神への背きと神を憎み隣人を憎むという人間本性の傾きにある。したがって誓えば誓うほど、その誓いは「終わり」と「消滅」が予測されます。問答102の答えには意味深い示唆があります。「掟に適う誓いとは、神に依り頼む呼び求めです。すなわち、神は御心から、ただ独り人の心を知る神として、真理に証明を与え、わたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます。それゆえ、当然ながら、如何なる被造物にもこうした栄誉は値しません。」と答えます。「神の御名のもとで信仰に基づく誓い」は認められ、反対に「聖人やその他の被造物のもと」で誓うことは認められず、否定されます。そしてその理由は、原理的に言えば、誓いそれ自体を成立させる根拠が、或いは誓いを保証する能力が被造物にはない、ということでした。これまでお話した通り、誓いは有限である被造物では担保されず保証されないからです。「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」からです。人間社会は「誓い」に基づき成り立っていますが、同時にまたこの人間社会での誓いは、本質的に甚だ危ういものであり、その担保と保証は常に限られるのです。破綻に傾く誓いであり、それゆえ虚偽の本質を背負っています。

 

「神の御名のもとで信仰に基づく誓い」が認められるのは、単刀直入に申しますと、その誓いのもとに、神がおられ、神がお認めになる、神の強いご意志が想定されなければなりません。反対に「被造物のもと」での誓いには、神がおられないので、神の担保も保証も失われます。以前、「律法と福音」に対して「福音と律法」という考え方についてお話をしました。律法に破れて人間本性の破れを自覚し人間に絶望する中で、キリストの愛と憐れみに目覚め、その新しい恵み溢れる救いのもとに、すなわち福音のもとに新たに生かされる、そういう律法から福音への道を「律法と福音」とルターは呼びました。その恵みの福音から、今度は、その完全な愛と恵みによる救いの感謝と喜びに溢れて、感謝の応答として、新しく神の愛に生きる、そういう福音から新しい律法へという道を「福音と律法」と改革派は呼んだ、というお話でした。ハイデルベルク信仰問答は、まさに「十戒」という神の戒め全体を、古い律法の形においてではなく、新しい福音の中で新しく捉え直すのです。つまり福音から、感謝に溢れて、神の恵みにお応えする新しい律法の道として、すなわち「福音と律法」において捉え直します。キリストを知り、キリストを受け入れ、キリストが共におられる中で、罪が完全に償われ、新しい命の復活のもとにある中で、キリストを通して神の御名を呼び、キリストを通して神を喜び、キリストを通して神の感謝に溢れ、キリストを通して神を讃美し礼拝するのです。そうしたキリストにおける神の啓示の福音の中で、神を神とするのであり、神の御名を呼びまつるのであり、誓いを立て合うのです。私たちは、神なき世界を神なしに生きるのではなく、「キリストの身体」として、神のみことばのもとで、神と共に神の国を生きようとしています。私たちは、一方で背きと堕落の傾きに運命づけられた被造物ですが、しかし今は、信仰によってキリストを受け入れ、「キリストの身体」として生きる私たちであります。神の御名をよび、御名において誓う、その本体は、実は、キリストの身体であり、私たちに代わって、キリストご自身が償い、キリストご自身が保証し、キリストご自身が完成されるのであります。キリストを通して神を神とし、キリストを通して祈りは祈りとなり、キリストを通して神を呼び求めることができるようになったのです。

キリスト者とは、頭であるキリストに属する者であり、キリストの身体であります。その誓う誓いは、すなわち神に依り頼んでの呼び求めは、「キリストの身体」における「福音」として、無限に貫かれます。言い換えれば、主イエスの十字架と復活のみわざの中で、神の愛と憐れみの新しい律法のもとで、行われる行為となります。教会は、キリストの身体である限りにおいて、教会です。キリスト者も、キリストの身体である限りにおいて、キリスト者です。世界も、キリストの身体である限りにおいて、万物の贖いも再生も真実となります。たとえ天変地異が起こり、想定外のどんな災害が起ころうと、教会においてまたキリスト者によって、神の栄光と隣人のために祈られ誓われる誓いには、絶えず神の保証がなければ、当然、そこには限界と危うさが絶えず付きまといます。神の全面協力と支援のない所で誓う誓いは、甚だしく無力であり、ついには絶望と虚偽に終わってしまいます。私たちキリスト者も教会も、この世に存在する以上、完全に全てがこの世のものです。したがって常にこの世における四苦八苦の痛みを背負い続けます。キリスト者も教会も、この世に本質的に身を置きながら、しかし同時にまた、この世から本質的に超えるもう一つの本質を「キリストの身体」として、与えられています。その「キリストの身体」として、御名を唱え神の御名のもとで祈り誓うのです。

問答102の答えで「掟に適う誓いとは、神に依り頼む呼び求めです。すなわち、神は御心から、ただ独り人の心を知る神として、真理に証明を与え、わたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます。それゆえ、当然ながら、如何なる被造物にもこうした栄誉は値しません。」と告白しています。「掟に適う誓いとは、神に依り頼む呼び求めです」と言っています。「神に依り頼む呼び求め」と少々くどい訳をつけましたが、元の字はAnrufung「依願、嘆願」という字です。神に依り頼んで願い求めるという字です。誓うとは、神に依り頼んで訴え願い求めることができる、そのように神の憐れみを知って、神の憐れに依り頼む中で、神の御名を呼び求めるのです。そうでなければ、神の御名を正しく呼び求めることはできないからです。この世に神が啓示された神の御名とは、言うまでもなく、私たちの贖罪のために十字架で死に、私たちの永遠の命のために復活したイエス・キリストだけであります。唯一真の神を知っている、その唯一知る神に依り頼むことができる、そして神がお聞き届けくださり、完全に実現してくださることを既に確信しているのです。私たち人間の側からいえば、それこそ、唯一真の神を神とすることのできる唯一の道ではないでしょうか。言い換えれば、神の仲保者としてのキリストを通して、私たちは神を呼び求めることができるのです。

反対に、それを神の側からの恵みとして言えば、「神は御心からただ独り人の心を知る神として、真理に証明を与え、わたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます。」という告白になります。ここで「神は御心から」とわざわざ「御心から」という言葉を加えて訳しましたのは、wolle gebenという形で、神を主語として神の意志や願望を非常にはっきり言い表す表現だからです。人の心を知る神が、何を望み、何を意図しておられるか、神の「神の意志」を非常にはっきりと信じて理解しているように思われるからす。だからこそ、続いて神は必ず「真理に証明を与える」と言い切ることができるのです。英語版では、to bear witness to the truthと、とても意味深い訳が施されています。神ご自身から、神自らのご意志で、自ら真理の証言者となって、ご自身においてその証言と証明を背負う、ということでしょうか。つまり証言と証拠を担うのは、神がそのご意志において担うのです。それこそが、神のロゴスの受肉であり、イエス・キリストとして神がその証言を担われたのであります。わたしは決して独りで孤独な「罰」を受けるのではないのです。自ら真理に証明を与え、自ら証言者として真理を担うキリストがおられるのです。わたしたちはまさに、キリストなき律法に生きるのではなく、人間の心を知るキリストの深い愛と憐れみの中で、その十字架と復活の身体として豊かに養われつつ、豊かな慰めと希望に溢れて、新しい律法に生きるのです。

キリスト者と教会の本質は、神のみことばが語られ、神のみことばが聞かれている、という点にあります。みことばにおいて、神が現臨し神が共におられ、共に世界の痛みを担い背負われることを知っています。私たちはそのキリストの「身体」の肢体であり、キリストの血による新しい契約共同体です。この告白で、さらに意味深い所は、「ただ独り人の心を知る神」である、という所です。私たちばかりか、この世界の本当の痛み悲しみを知っておられるのです。そしてさらに意味深長な点は、「人の心を知る神は、わたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます」という所です。神はどのように人を知っているか、といえば、虚偽に膿んでいる、ということになるでしょうか。「膿む」と訳した字は、辞書によれば、schwöre:schwärte (schären接続法Ⅱの古形)という字で「(傷が)膿んで化膿する」という意味です。つまり、神は、自分の奥深く潜む罪という傷が、いよいよ深く膿んで化膿し、全身全霊に至るまで腐らせてしまい、虚偽の状態に変質していることをよく知っておられるのです。わたしが内側から膿んで化膿し虚偽に腐り果てているのを、神はご存じなので、全身を腐らせてしまう膿みを罰して、滅ぼしてくださる、というわけです。神を正しく呼び求めることができないほど、悲惨に膿み痛み果てていることを一番知るお方が、神なのです。「誓う」どころか、誓うわたしの本質は、その中身は完全に膿んで腐り果て、虚偽でいっぱいに満ちている、そこにどうすることもできない惨めと悲しみが溢れている、というわけであります。わたしをこの世と置き換えますと、この世は、膿んで化膿して、虚偽の苦しみの中にある、だから、その「膿み」と「虚偽」を滅ぼしてくださる、というのであります。そのような、神と人間との本質的な関係から、しかもキリストの十字架と復活において背負われている、という福音の光の中で、ハイデルベルク信仰問答は「誓う」という行為を考え、見つめるのです。神の御名のもとで信仰に基づいて誓うとは、神に罰せられつつも、それ以上に、神のみことばにおいて、日々新たに造り変えられ養われる命の喜びの中で、新しい律法に日々希望に溢れて新しい完成へとチャレンジするのです。私たちは、まさにキリストの身体として、新たな挑戦者として律法の前に立つのです。

2020年11月8日「誤った誓いを捨て、まことの神を拝む」 磯部理一郎 牧師

2020.11.8 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第24主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答99~100

律法について(3)

 

 

問99  (司式者)

「第三戒(『あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない』)は、何を言い表すのか。」

答え  (会衆)

「ただ呪いや偽りだけでなく不必要な宣誓により、神の御名を冒涜し乱用してはならない、

また、私たちの黙認と傍観により、この恐ろしい罪にかかわってはならない、ということです。

すなわち、神が、私たちの前で、正しく信仰告白され呼び求められるために、

そして神が、あらゆる私たちの言葉と行いにおいて、ほめたたえられるために、

畏敬と恭順をもって(唱える)外に、神の聖なる御名を決して用いてはならないのです。」

 

 

問100 (司式者)

「では、呪文や宣誓による神の御名の冒涜は、神がお怒りになるほど重大な罪となり、

また人々に対して自ら進んで防ぎ禁じるよう働きかけない人々も、神はお怒りになるのか。」

答え  (会衆)

「勿論、そうです。

神の御名を冒涜するほど、より重くそして神がなお激しくお怒りになる罪は、ほかにはないからです。

それゆえ神は、この罪に対して、死をもって重く罰せよ、と命じられました。」

2020.11.8 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第24主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教40(問答99~100)

十戒について(3)

 

説教「誤った誓いと偽りの誓約を捨て、唯一真の神に仕える」

聖書 レビ記19章1~18節

マタイによる福音書5章33~37節

 

10月より「十戒」について、ハイデルベルク信仰問答より学んでいます。週報4頁に記載されるように、その第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、第二戒「あなたはきざんだ像を造ってそれらに向かってひれ伏したりそれらに仕えたりしてはならない」という戒めです。神や神以外のものを画像として造り、それらを拝むこと、即ち偶像礼拝の禁止です。ハイデルベルク信仰問答は、問答97で「神は画像としてあらわされることを禁じており、決して望んでおられません」と、唯一真の神に対して画像化することをたいへん厳格に禁じております。神は「永遠・無限」ですから、人の手で有限な画像として模造し、それを神に代えて拝むことはできないのです。こうした神は永遠無限であり全知全能であるというご性質について、問答98は「私たちには、神を超えてさらに賢くなることなど、本来、あり得ないことです」と逆説的に語っています。有限である被造物が、無限である創造主の神を包む、そして神を超えるのは絶対に不可能であるのに、その神を超えて、神を捕らえられるとすること、それを「神を超えてさらに賢くなる」という考え違いをしている、というわけです。神の画像を造り神を画像化する問題性は、こうした神のご性質に対する誤りから生まれます。誤った神認識から、同時また人間自身の思い上がりから、つまり誤った自己認識から起こるのです。それを逆説的に「神を超えてさらに賢くなる」と少々皮肉も見える言い回しで表現しています。私たち人間には限界があって、神を完全に知り尽くす力ないのです。したがって、神ご自身からご自身を現してお示しくださる限りにおいて、つまり神ご自身がみことばにおいてご自身を啓示される限りにおいて、初めて人間は神を知ることが許されるのであります。問答98で「神は、誰でもご自身のものであるキリスト者に対しては、もの言わぬ偶像によるのではなく、神のご自身による命溢れる説教を通してお教えになる」と解き明かしています。したがって、私たちには「唯一真の神のほかに、神があってはならない」(第一戒)のですが、その唯一真の神を、私たちが正しく知り相応しく拝むためには、自分の手で造る画像に頼るのではなく、ただ神の啓示のみことばによって、すなわち神の啓示の言葉である聖書のみ言葉を通して、また聖書に基づく説教を通して、初めて神を正しく知り神を礼拝することができる、というのが、神礼拝の基本であります。

神以外の被造物については、問答97で「被造物が画像としてあらわされることは、確かに認められています」と、被造物の画像化は容認されており、有限である被造物が正しく理解され、相応しく扱われることは、私たちには可能なので、それを認めています。ただし「人が被造物の画像を崇拝するために、或いはそれらに仕えるために、画像を造り所有することを厳しく禁じておられます」と宣言し、拝むという礼拝目的で、被造物を画像化し、所有し、偶像としてそれに仕えることは、厳しく禁じています。偶像を造りそれらを拝むという偶像崇拝の背景には人間の根源的な罪と堕落があります。人間は、神の御心よりも自分の欲求欲望を慕い求めるように、悪魔から誘惑され、その結果、神よりも自分を選び取り、ついには神に背き、神を喜び喜ばせることよりも、自分を喜び喜ばせる本性へと転落して、本来、人間は被造物ですから、神なしには絶対に生きれないのに、神なしに神を抜きにした所で生きようとして、いよいよ神を捨てて、自分の欲求を実現しようといたします。しかし人間の本質は、神ではないので、被造物なので、永遠性はなく有限でありますから、倒錯錯誤の矛盾を生きることになります。結果として、別な形で神を求めるようになります。それが偶像であります。偶像を造り上げて、それにひれ伏して仕えるようになります。そうして自分の欲求欲望の実現を図ろうとするのです。偶像はまさに人間の欲求の投影そのものであります。こうした人間の罪と堕落による魂の倒錯から、偶像崇拝は生じるのであります。

 

では、どうしすれば、唯一真の神を神として、正しく礼拝することができるのでしょうか。問答96は「神がご自身のみことばで命じた以外の方法で神を拝んではならない」と命じたうえで、問答98で「もの言わぬ偶像によるのでなく、神ご自身のみことばによる命溢れる説教を通してお教えになる」と告白されていました。神のみことばにおいて神は現臨し、その神のみことばにおいて私たちは神のご自身と出会い、神のご人格に触れるのであります。言い換えれば、「聖書」に基づく福音の説教を通して、神は語りかけてくださるのです。

「人格と言葉」との関係にはとても重要な意味があります。人間本性や人格をあらわす英語にpersonalityという言葉があります。personである人間はpersonalityによって成立する、ということでしょうか。人間が本来の人間であるための本質、それが「人格」です。私たち人間同士でも、本当に人間らしく心から出会い触れ合う所にこそ、その人の真実な姿が、外形からは見えなかった「人格」として、鮮明に現れます。その人格の根源で出会う所では、いつも、真実な言葉が求められます。人格としての根源的な出会いは、全身全霊を込めた「ことば」において出会い交わるのです。だからこそ「嘘をつく」ことは、人格を根源から傷つけ破壊へと導くので、悪魔的なのです。元来、人間の人格は「ことば」における真実と誠実において現れ、保たれ、生かされます。こうした意味から、人間の本質である「人格」は、実は「ことば」から生まれるのです。

宗教改革者ルターは、みことばにおいて、神は現臨しご自身を啓示し、そして力ある救いのみわざを行われる、という真理を聖書から発見しました。みことばの根源は、神のロゴス(ことば)であり、ロゴス・キリストです。ヨハネが福音書において「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。」と証言する通りであります。福音の説教は聖書の証言に基づき、聖書の証言は歴史に介入してご自身を啓示する神の啓示に基づき、そして神の啓示は、まさに「言は神であった」と証言される通り、神であり神の言(ロゴス)であるキリスト自身が、受肉を通して、神を世に啓示されたのであります。こうして唯一真の神は、キリストご自身の受肉とそのみことばにおいて、私たちの前に現存し、罪を償い、罪の赦し、ご自身の御身体である教会を通して、神のことばである福音の説教と聖礼典を通して私たちをキリストの身体の肢体(えだ)として、新しい復活の命へと導かれるのであります。このみことばにおいて、このみことばを通して、私たちは、唯一真の神を知り出会い、そしてその豊かで力強い神のご人格に触れて、神を礼拝するのであります。

 

本日は十戒の第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」について、問答の99~100から、その解き明かしを分かち合います。「主の名をみだりに唱える」とは、どういうことを意味するのでしょうか。問答99は「ただ呪いや偽りだけではなく、不必要な宣誓によっても、神の御名を冒涜し乱用してはならない」と示されています。こうした神の御名を汚す冒涜と御名の乱用に加え、そうした冒涜行為に対して、傍観し黙認することについても「黙認と傍観によって、この恐ろしい罪にかかわってはならない」と厳しく戒めています。つまり御名の乱用ばかりか、その傍観もまた同罪である、ということになります。イエスさまは弟子たちにマタイによる福音書で「5:33また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ』と命じられている。5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すらあなたは白くも黒くもできないからである。5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは悪い者から出るのである。」と教えられました。「誓ってはならない」という言葉が徹底して繰り返されます。誓うのであれば、完全に誓いは果たさねばなりません。果たさなければ、それは「嘘」になります。嘘は人格を根源から傷つけ腐らせます。イエスさまの教えを注意して聞き直しますと、明らかに見えてきますのは、「神」と「人(被造物)」との本質的な違いを知る、というです。全知全能で万物の創造主であり神の前に立つとき、私たちはただ神のご恩寵にすがって存在する被造物に過ぎません。神の憐れみのある限りにおいて、初めて存在し生きるのです。その被造物がどんなに力強く誓おうとも、神のみ前では無力で、空しいものにすぎないのです。無に等しい者が誓いを果たすとは、いったいどういうことでしょうか。イエスさまは「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」と、私たち人間の本質を鋭く突きます。無力な者が誓いを立てる、それは明らかな矛盾であり偽りであります。どこまでも無限で正しい、誠実かつ純粋な神のみ前で、虚偽をもって立つことは、神の名を汚すことになります。

では、私たち人間にとって、虚偽とならない真実とは何でしょうか。それは単純明解です。それはまず自分の無力を心から認め、自分の罪と破れを心から悔いることです。そして神の全能を心からほめたたえ、神に憐れみを乞うことです。それ以外の、ほかに何があるでしょうか。問答99は「神の聖なる御名は、畏敬と恭順をもって(唱える)外に、用いてはならない」と教えます。その理由は、「神が、私たちの前で、正しく信仰告白され呼び求められるために、また神が、あらゆる私たちの言葉と行いにおいて、ほめたたえられるため」である、と告白します。極論すれば、自分自身の罪の告白と、神に対する信仰告白祈りと讃美においてのみ、つまり神を礼拝するためだけに神の聖なる御名は用いられるべきであって、それ以外は用いてならない。そうでないと、冒涜となり乱用となる、という信仰意識です。神の聖なる御名を唱える基本条件は、ただ「神を礼拝する」というときにのみ、原則、限定される、ということになります。私たちのすべての生活行為は、あらゆる点で「神を礼拝する」という根本形態によって貫かれ、成り立っている。そうでなければ、それは冒涜となり乱用となる、というのであります。ハイデルベルク信仰問答は、私たちの生活や存在の全てを丸ごと、「礼拝」という概念を基軸にして、捕らえようとしているのです。神の聖なる御名については、否、神に対しては全て、「礼拝」として成立するのでなければ、その全てがそのまま冒涜となる、御名の乱用となる、というのです。神と被造物との本来の関係、或いはあり方とは、そういうものなのだ、と言うのです。何をするのでも、どんな存在でも、すべては、は、神を拝むという「礼拝」を基軸に成り立っていることに、改めて気づくべきです。つまり被造物全体は、「礼拝」という形でしか、その存在においてまたその在り方において、成り立つことはできないのです。

 

「礼拝」という用語を聖書神学してみますと、主に聖書には三つの「礼拝」という言葉があるようです。この三つの「礼拝」は、一つは信仰告白に基づく教理、二つ目は礼拝の務めに仕える礼拝典礼、そして最後に、日常生活での言葉と行いの基本となる礼拝生活という三つの視点から「礼拝」を捕らえています。一つは、聖書では「レカピチュラチオー」という字で、新共同訳聖書では「ひれ伏す」と訳されます。正しい神認識をもって、相応しい信仰理解に基づいて、正しく神を唯一真の神とする、信仰告白やみことばに即して神を礼拝する、という意味です。どちらかといえば、教理的側面から「神を正しく礼拝する」ことを意味します。マタイによる福音書28章に「28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」という、驚くべき記述があります。「疑う」(躊躇する)とは、どういうことでしょうか。ユダを除き11人の弟子たちは、既に40日に渡り復活の主と寝食を共にしていました。どうも「主の復活」を訝る疑いではないようです。わたしは、問題は「ひれ伏した」にあるように、推測しています。と申しますのは、イエスさまを、教理的に「唯一真の神」として礼拝すること、復活の「イエス」を唯一真の神の礼拝が適用されたからではないでしょうか。つまり「唯一真の神」を、父と子と聖霊の三位一体の神として礼拝する、という躊躇であり疑義でははなかったか、と推測することが可能ではないでしょうか。ひっとしたら原始教会の中にも、特にユダヤ人キリスト者の中でさえも、ユダヤ教の教理のもとで、主イエスの復活を認めることはできても、主イエスが唯一真の神として礼拝する、という点には、また複雑な躊躇があったのかも知れません。だからこそ、主イエスは、マタイによる福音書において、その最後の言葉として「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。」と宣言されたのではないでしょうか。パウロもまた、コリントの信徒への手紙一14章で、礼拝の中で、異言と預言(説教)の役割を区別して、「14:23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。14:24 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、14:25 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」と述べています。いわば、教理的に語られる福音の説教において、神が現臨することに気付くことの大切さについて、また教理によって導かれる信仰認識や信仰の告白に基づいて真の礼拝は実現する、ということを教えているように思われます。

二つ目の「神を礼拝する」という言葉は「レイトゥールゲオー」という字で一般的には「奉仕する、仕える」と訳されます。英語のliturgyです。神殿において礼拝典礼での定められた言葉や祈り、あるいは祈祷書によって神に仕える奉仕を意味するようです。いわば、典礼的側面から正しく神を礼拝する、という意味です。ヘブライ人への手紙で「10:11 すべての祭司は毎日礼拝を献げるために立ち(口語訳:すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、新改訳:すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし)、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。」とありますように、礼拝儀式で定められた司祭が正しく規定の務めに仕えて礼拝する、という意味になります。

三つ目の「神を礼拝する」は「ラトリュウオー」という字で、これも「礼拝に仕える」と訳されるようです。ヘブライ人への手紙やローマの信徒への手紙に用いられています。どちらかといえば、へブル書では、礼拝儀式の意味から使用されますが、ローマ書ではパウロは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と述べ、キリスト者としての生活や倫理について、そのあるべき生活を言い表してように思われます。キリストの救いの恵みにより新生し、新たに造り変えられるキリスト者としての生活です。つまり、どちらかといえば、神を正しく礼拝するという礼拝神学から、キリスト者の生活倫理へと発展させ敷衍しているようにも思われます。つまり存在や生活そのものが、実は礼拝後そのものなのだ、ということになるのではないかと思います。

 

このように、聖書において、「神を礼拝する」ということは、教理神学に基づく信仰告白、礼拝神学に基づく典礼、そして生活倫理への展開という三つの視点から、記述されているように思われます。唯一真の神を正しく神とする信仰告白による礼拝であり、また礼拝儀式に基づいて正しく礼拝の務めを果たすのであり、そしてキリスト者としての全生活を尽くして、神に誠実を尽くして、正しい神礼拝となるような生活を生きる、そのような意味で、神を仰ぎ、神に仕え、神を礼拝する、ということになります。ハイデルベルク信仰問答は、神の御名を呼ぶ礼拝について、確かにこうした聖書の証言に基づいて忠実に告白しています。「神が、私たちの前で、正しく信仰告白され呼び求められるために、また神が、あらゆる私たちの言葉と行いにおいてほめたたえられるために」と礼拝の本質を明記したうえで、「神の聖なる御名は、畏敬と恭順をもって(唱える)外に、用いてはならない」と戒めます。しかも問答100は「神の御名を冒涜することより重く、なお激しく神がお怒りになる罪は、ほかにない」と、神の御名をみだりに唱えることの重罪を確認したうえで、答えでも「それゆえ、神は、この罪に対しては死をもって重く罰せよ、と命じられました。」と厳しく、主の名をみだりに唱えることを戒めます。御名をみだりに唱えることの戒めのき厳しさは、「沈黙と傍観をもって」しかも「自ら進んで(冒涜を)防ぎ禁じる働きをしない人々も、同じように、神はお怒りになる」と言い切って、傍観者も同罪としています。厳しすぎると感じるほど、厳格に「神の御名を唱える」こと、すなわち「礼拝」の在り方が、改めて根源から、問われています。もう一度、私どもひとりひとりの祈りの在り方、礼拝の在り方について反省が求められています。

2020年11月1日 「あらゆる偶像崇拝を捨て、まことの神を拝む」 磯部理一郎 牧師

2020.11.1 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第23主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答96~98

十戒について(2)

 

 

問96 (司式者)

「第二戒において、神は何を望まれるのか。」

答え (会衆)

「私たちは、如何なる形においても、神を画像として模造してはならないこと、

すなわち、私たちは、如何なる方法においても、神がご自身のみことばで命じた以外の方法で

神を拝んではならない、ということです。」

 

 

問97 (司式者)

「では人は、如何なる画像も、造ってはならないのか。」

答え (会衆)

神は画像としてあらわされることを禁じておられ、決して望んでいません。

被造物が画像としてあらわされることは、確かに認められています。

しかし神は、人がそれらの画像を崇拝するために、或いはそれらに仕えるために、

画像を造り所有することを厳しく禁じておられます。」

 

 

問98 (司式者)

「だが、教会の信徒教育のために、画像は認められてもよいのではないか。」

答え (会衆)

「いいえ。私たちには、神を超えてさらに賢くなることなど、本来、あり得ないことです。

それゆえ、神は、誰でもご自身のものであるキリスト者に対しては、

もの言わぬ偶像によるのでなく、神ご自身のみことばによる命溢れる説教を通して

お教えになるのです。」

2020.11.1.小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第23主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解39(問答96~98)

十戒について(2)

 

説教「あらゆる偶像崇拝を捨て、まことの神を拝む」

聖書 イザヤ書45章18~25節

ヨハネによる福音書4章21~26節

 

本日の説教は、「偶像崇拝の禁止」をめぐる戒めの続きになります。前回は、偶像を造り、偶像を所有し、偶像を拝む、そうした「偶像崇拝」が生まれる根源的な原因について、偶像崇拝を生み出す人間の魂の倒錯と錯誤について、お話いたしました。創世記3章によれば、悪魔の化身である蛇は、非常に狡猾に、人間の奥深くに潜む欲望を利用して唆し、人間を誘惑しました。悪魔に誘導された人間は自ら、自分の欲望の虜となり、その結果、神と神のみことばとに背き、神の慈しみと祝福に溢れる恵み豊かな「創造の秩序」から、すなわち「エデンの園」から転落して、神と離反して、神なしに生きる選択をしてしまいます。こうして人間は、一方で神の愛と憐れみにより神のもとに創造された被造物でありながら、他方で神に背き、神なき所で、自分自身が神に成り代わって、生きようとします。神に向かう自由ではなく、罪の堕落に支配される死と滅びの世界に向かう自由を選択したのです。人間にとってとても悲劇的でまた皮肉なことは、神なしには生きれない者が、神なしに生きようとする倒錯と錯誤を魂の根源に抱えたまま、この世を彷徨い続けるのであります。こうした神なしには生きれないのに、それでもなお、神なしに生きようとする魂の倒錯と矛盾は、結局、自分の思うように、自分の欲望を満たしてくれる別の神々を偶像として自ら造り出すことになります。虚構の神を自分の手で造り上げて、自分を慰める、ということでしょうか。人間の管理下におかれた他の被造物までも、人間の自我欲求による抑圧と支配のために、「偶像崇拝」に巻き込み、神の創造秩序から奪い取り、人間支配のもとに歪め傷つけてしまうのです。言い換えますと、偶像崇拝の生まれる根源には、造り主である「唯一真の神」に背き、神から遠く離れて、神の義に生きるのではなく不義に転落して生きようとする錯誤と彷徨いがあって、偶像崇拝はそうした魂の堕落から生み出されるのであります。地球温暖化問題や環境問題、或いは生体系の破壊も皆、そうした人間の倒錯と錯誤から引き起こされる被造物全体のうめきであり、痛みではないでしょうか。

そうじた現状について、ハイデルベルク信仰問答94では「わわたしは、自分自身の魂が永遠の救いと祝福を失う危機に瀕している」と告白しています。原典の直訳では、「救いと祝福の喪失のただ中にある」と告白していました。単に自分だけの魂における救いと祝福を失うだけではなくて、被造物全体をも巻き込み、深く痛め傷つけているのです。だからこそ、一刻も早く「偶像崇拝」を捨て去り、「唯一真(まこと)なる神を正しく知りただ神にのみ依り頼み、あらゆる謙遜と忍耐のうちに、良きことはすべてただ神より待ち望み、全身全霊を尽くして神を愛し畏れ敬うのでなければならない」のであります。しかも「わたしは、どんな些細なことにおいても、神のみ心に背く行いをしないうちに、それに先立って、被造物はすべて(神に)委ねて明け渡す」ことで、人間自身を含めて被造物全体を、完全に造り主である神の秩序のもとにお返しする、という本来の魂と存在の在り方を神の義が貫かれた創造の秩序に、立ち帰り、明け渡す、という悔い改めが求められるのです。

 

このように魂の根源に錯誤と倒錯を抱え込んだ人間から生じる偶像崇拝に対して、神は十戒の第一戒で「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と命じ、次いで第二戒で「あなたは、きざんだ像を造ってそれらに向かってひれ伏したりそれらに仕えたりしてはならない」と命じます。これを受けて、ハイデルベルク信仰問答96は「第二戒において、神は何を望まれるのか。」と問い、「私たちは、如何なる形においても、神を画像として模造してはならないこと、すなわち、私たちは、如何なる方法においても、神がご自身のみことばで命じた以外の方法で神を拝んではならない」と先天告白します。神から遠く離れ、神に背く人類に対して、神は、モーセとその十戒を通して、神ご自身から「唯一真の神」であると啓示して告知なさったのであります。神以外に神はなく、神以外の神は存在しないこと教えたのです。次いで第二の戒として、「偶像崇拝の禁止」を命じます。この第二戒の「像にひれ伏し仕える」という偶像礼拝の禁止について、問答96の答えは、とても意味深い信仰認識を示します。それは「偶像崇拝を生み出す根源は、人間の魂における悲劇的な倒錯錯誤であり、神なしに生きれない者が、偶像を神に代えてまでも、神なしに生きようとする背きでした。ではその反対に、「唯一の真の神の礼拝を成立される根拠は、何であり、どこにあるのか、という礼拝本来の根拠について、この問答は示唆しています。それは、すなわち「神がご自身のみことばで命じた」礼拝である、と宣言します。真実の神を、まさに「唯一真の神」として、正しく知り、相応しく礼拝することができる、真の礼拝を成立させる場、その根拠とは、問答96によれば、ただ神ご自身が語るみことばにある、というのであります。神ご自身がそこにおられ、神がご自身のみことばをもって語る、その生きた神のみことばにおいて、初めて私たちは「唯一真の神」を知り、神のみ言葉において礼拝することができるのです。すなわち、神がみことばを通して現臨しみことばを語ることを通して神は救いのみわざを宣言し保証されるのです。まさに神の語る福音のみことばにおいて、真の神を礼拝する場が生まれ、そこに礼拝が成立する根拠が与えられるのです。神ご自身がおられ神ご自身がお語りくださる、その活ける神ご自身のみことばがそこになければ、人は神を拝むことができないのです。そうした神の現存現臨と活ける神のみことばを失った所で、すなわち神を喪失した所で、神を拝もうとすれば、それは直ちに「偶像」を拝むことになるのであります。

こうした現象は、決して「異教」の中だけで、起こることではありません。私たち教会の中でも、実は始終引き起こされることでもあります。教会や礼拝の場において、正しい意味で「神のみことば」を喪失した所では、或いは、信仰において「神のみことば」が正しく貫かれず曖昧になる所では、常に人間の手によって神以外のものを「偶像」として崇拝することになります。教会の中にこそ常に「偶像崇拝」はあり続けることになります。問題は二つ喪失にあります。一つは、生ける神のみことばそのものの喪失であり、もう一つは、神のみことばを聞く者の信仰における正しい神認識の喪失です。神のみことばが語られず、人間の言葉が語られることであり、神のみことばが語られているのに、神のみことばを聴き分けることができなくなることであります。神のみことばの喪失という視点から言えば、「如何なる方法においても、神がご自身のみことばで命じた以外の方法で神を拝んではならない」ということになるでありましょうし、信仰の喪失という視点から言えば、「唯一真(まこと)なる神を正しく知りただ神にのみ依り頼み、あらゆる謙遜と忍耐のうちに、良きことはすべてただ神より待ち望み、全身全霊を尽くして神を愛し畏れ敬う」ということになります。唯一真の神を正しく認識しないまま、教会生活や礼拝をすれば、当然ながら、神を喪失した状況で神を拝むことになりますから、真理を照らす光のない暗闇の中で、いわば空虚で偽りの中に、神を拝むことになりますから、本質的に神を正しく礼拝することはできず、結果として教会の中で神ではないものを拝み始めることになります。聖書のみことばが正しく語られ、また福音として相応しく聞き分けられる信仰は、真の神を礼拝することで、決定的な意味を持ちます。礼拝の成り立つ根拠は、「神」ご自身の現臨であり、ご自身の「みことば」であり、そしてみことばを通して実現する「神のみわざ」にあります。だからこそ、「神がご自身のみことばで命じる方法以外の方法では」神を正しく礼拝することはできないのであります。教会は、キリストを頭とするキリストの身体である、という重大な出来事の中心で、教会の頭であるキリストは、天地を貫いて現臨し、ご自身の命溢れるみことばを語り、人々の罪を赦し、永遠の命を約束し保証して、私たちを所謂神の国へと導くのです。

 

もう一つ、さらに意味深い示唆が今日の問答にあります。それは、問答97で「神は画像としてあらわされることを禁じておられ、決して望んでいません。被造物が画像としてあらわされることは、確かに認められています。しかし神は、人がそれらの画像を崇拝するために、或いはそれらに仕えるために、画像を造り所有することを厳しく禁じておられます。」と改めて偶像崇拝の禁止を確認したうえで、それに続いて、問答98では「だが、教会の信徒教育のために、画像は認められてもよいのではないか。」と問い、「いいえ。私たちには、神を超えてさらに賢くなることなど、本来、あり得ないことです。それゆえ、神は、誰でもご自身のものであるキリスト者に対しては、もの言わぬ偶像によるのでなく、神ご自身のみことばによる命溢れる説教を通してお教えになるのです。」と告白します。

皆さんも周知の通り、世界中のキリスト教会には、数えきれない程の画像で溢れています。キリスト教会は、伝統的に原則として「画像禁止」はしていないからです。一時期ビザンチン帝国の皇帝のもとで、突如、東方正教会は「画像禁止令」が発布し、多くの画像が破壊したことがありました。その背景にはイスラム教の影響があったと言われています。こうした画像禁止に対して西方教会は強く反対し、東方正教会と絶縁して対抗しました。それほど、キリスト教会において画像が担う意義は大きかったのです。それには、二つの理由と背景があります。一つは、キリスト教の福音の本質から生じる理由であり、もう一つは、宣教活動の実践から生じる理由からです。画像が用いられる、福音の本質から来る根拠と理由は、キリストの「受肉」です。見えない神は、人間として処女マリアから肉体をもって生まれて、イエスと名付けられ、実際に多くの人々と寝食を共にして、十字架において肉を裂き血を流して死に、三日目には同じ肉体をもって復活されました。その肉体をもったキリストの十字架と復活に、人類救済の福音の本質があるからです。神は、キリストという肉体とお姿のただ中に、ご自身を啓示されたのです。そのキリストの十字架と復活のお姿を鮮やかに伝えたのです。もう一つの、伝道するための実践的理由とは、言語だけによる宣教の限界性です。何と言っても、「聖書」は非常に貴重で、物理的にもその存在は限られていたからです。一般に「聖書を読む」ことは有りえなことでした。ましてや貧しい民衆が聖書を読むことなど、考えられませんでした。畢竟「画像」を用いて、福音の喜びを伝えることが、最も有効で有益な方法だったのです。聖書はギリシャ語であり、ラテン語です。旧約聖書の原典は不確定のままでした。そうした中で、キリストとその福音を、世界に広がる多種多様な言語と民族に宣べ伝えることは非常に困難であったと思われます。当然ながら、同じ言葉でも、言い伝えが混同され、そこには迷信や誤解まで生じかねなかったはずです。反対に、目に見える画像は、どんな民衆に対しても、多種多様な言語や文化を超えて、鮮明かつ雄弁にそして分かり易く、主イエスの十字架と復活を物語ることができたはずです。そうした事情を、問答98の問いは、「だが、教会の信徒教育のために、画像は認められてもよいのではないか。」という表現により、たいへんよく表しているのではないでしょうか。

ところが、ルターやカルヴァンの時代になると、グーテンベルクにより活版印刷機が発明され、「聖書」をどこでも手に取って読めるようになります。それどころか、英語やドイツ語、或いはフランス語のように、それぞれの地域や民族の言葉である、「母語」や「国語」に翻訳されるようになります。言い伝えや画像に頼らずに、神が語られた神ご自身のみことばそのものを「聖書」から聞くことができるようになったのです。こうして民衆は、まことの神の言葉である聖書を右手にそして国語を左手に、生きた活力ある神の言葉を直接手に入れたのです。昨日は宗教改革記念日でしたが、宗教改革の背景には、こうした「聖書」による神の言葉の回復がありました。「聖書」からそのまま神の言葉が、其々の心に染み入る国語で説教さるようになったのです。生きたみ言葉を聞く、また聖書を共に囲んで学び合い、信仰について語り合うことができるようになりました。そうした中で、宗教改革は始められ、推し進められたわけです。宗教改革者ルターは死ぬまで聖書の講義を続け、時には居酒屋でも聖書のみことばを大いに語ったそうです。「宗教」改革は、何と言っても「礼拝」改革にその本質がありますが、まさに言い伝えや迷信そして画像を頼り、唯一まことの神を礼拝する時代はついに終わり、生ける神が「聖書」を通して直接に語りかける、神ご自身のみことばによって、真の神を礼拝するときがついに到来したのであります。

 

問答98は「神ご自身のみことばによる命溢れる説教を通してお教えになる」と宣言します。これには、三つのキーワードがあります。一つは「神ご自身のみ言葉による」、二つ目は「命溢れる」、そして三つ目は「説教」です。ルターを宗教改革へと押し出した最も力強い源泉が、実はここに受け継がれています。それは、みことばにおける、啓示の神ご自身の現存であり、そしてそこに働く力あるみわざです。まさに、生ける神のみことばによる命溢れる説教によって、福音は告げ知らされ、人々の罪の赦しは実現するからであります。万物を無から創造する神は、永遠に今もここに力強く生きて働いておられる。その神が息吹をもって神の言葉を発するのです。そうです。あの創世記一章一節の「『光あれ。』こうして光があった」。この無から創造を引き起こす神の言葉であります。この神の息吹あふれるみことばに出会う場所が礼拝であります。そして実際に、みことばにおいて、私たちは、神と出会うのです。神の言葉は神の語りかけであり、神と共に永遠であります。その神の言葉の中に立ち、神のみわざに与り、神と出会うのです。神の創造の力がその中枢において現れ出す場所、それがみ言葉における神の語りかけであります。この神の息吹と語りかける言葉のもとに、神の救いは現実に引き起こされ実現します。「あなたの罪は赦された」と神ご自身がみことばにおいて宣言されるのです。この神ご自身が語られたみことばは、福音の説教を通して、命溢れる救いの宣言のことばとなって、天地を貫いて響き渡ります。そこに礼拝の根拠があり、そこに救いが生まれ、そこに感謝と喜びが生まれます。ルターにとっては、そのすべてが「神のことば」であり、そうした神の言葉は、神のわざそのものであり、具体的な神の行動そのものを意味したのではないでしょうか。そうしたルターの神のことばを、ハイデルベルク信仰問答はここで力強く受け継いでいるように思うのです。やがて、カルヴァンもそして現代ではカール・バルトも、この神の言葉の神学に、それぞれの神学的根源を見出したのではないかと思います。

 

ヨハネによる福音書4章で、主イエスはサマリアの女に「4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と語りかけます。イエスさまは、このご自身のみ言葉を通して、彼女を真の礼拝へと招きます。そうしてついに女は「4:25 女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』4:26 イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである。』」と、真の神を礼拝する礼拝者となります。女は、実際にみことばをもって自分に語りかけるキリストの中に、真の神を発見したのであります。もの言わぬ偶像ではなく、福音にあふれたみことばをもって語りかける神とついに出会ったのであります。

 

これから聖餐に与りますが、聖餐の根拠となる重要要素は、聖餐の「制定語」です。キリストが聖霊を通して現臨して語りかける、キリストご自身のみことばです。それは子なる神が、命の息吹を尽くして、しかもご自身の身体と存在を尽くして、語りかける新しい創造のための神の言葉であります。パウロの聖餐制定語で、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これはあなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」と、キリストご自身が弟子たちを招いて語りかけます。是非ご注目いただきたい言葉は「これは、あなたがたのためのわたしの体である」という11章24節の言葉と、「主の死を告げ知らせる」という11章26節の言葉です。パンとぶどう酒に与る人々は皆、主の死に与るのです。主の死は十字架の犠牲であり罪を完全に償うキリストの犠牲の恵みであります。そしてその死に与ることで、贖罪が実現して私たちの罪は完全に赦され新しい命へと復活します。この出来事の中心に、天地を貫いて響き渡る、神のみことばがあり、そのみ言葉の背後には、受肉の神であり、ロゴスであるキリストが現存しておられるのです。エゼキエルの預言の通り、主のみことばは、枯れた骨に息吹と命を与え、死からの復活を引き起こすのです。

2020年10月25日 説教「十戒、恵みの掟に新たに生きる」 磯部理一郎 牧師

 

2020.10.25 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第22主日礼拝

信仰告白 『ハイデルベルク信仰問答』問答93~95

十戒について(1)

 

 

問93 (司式者)

「これらの戒めは、どのように分割されるのか。」

答え (会衆)

「二つの石の板に。

一つは、四つの戒めにおいて、

神に対してどのような在り方で、私たちは自らを保つべきか。

もう一つは、六つの戒めにおいて、

自分の隣人に対してどのような義務が私たちにはあるのか(ということに分けられます)。」

 

 

問94 (司式者)

「第一戒において、主は何を求めておられるのか。」

答え (会衆)

「(主が求めておられることとは)

わたしは、自分自身の魂が永遠の救いと祝福を失う危機に瀕しており、

それゆえ、あらゆる偶像崇拝、魔術呪術、迷信祈祷、諸聖人やその他の被造物の祈願のすべてを避けて、

逃れるべきであり、

唯一真(まこと)なる神を正しく知りただ神にのみ依り頼み

あらゆる謙遜と忍耐のうちに、良きことはすべてただ神より待ち望み

全身全霊を尽くして神を愛し畏れ敬うのでなければならない、ということ、

そしてまた、わたしは、どんな些細なことにおいても、神のみ心に背く行いをしないうちに、

それに先立って、被造物はすべて(神に)委ねて明け渡す、ということです。」

 

 

問95 (司式者)

「偶像崇拝とは何か。」

答え (会衆)

「神のみことばにおいてご自分を啓示された、唯一真の神に代わり、または神の隣りに並べて

何であれ、神以外のものを造って所有しそれに信頼をおくことです。」

 

10.25 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第21主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教37(問答93~95)

説教「十戒、恵みの掟に新しく生きる」

聖書 イザヤ書42章1~9節

マタイによる福音書4章1~11節

 

先週の説教では、問答の88~92について学び、問答88の「人間の真実(まこと)の悔い改めと回心は、いくつのことにおいて現れるか。」という問いで、悔い改めと回心から、いったいどんなことが起こるのか、その具体的な結果を確認しました。「古き人の死滅」そして「新しき人の復活」という形で現れる、というのが、その答えでした。確実に、キリストの愛と恵みを通して、罪を知り、罪と闘うことができるようになる。つまりキリストの十字架と復活の恵みを知ることで、罪の問題を解決できるようになったのです。もう一つは、確実に、キリストの十字架と復活の恵みを通して、新しく造り変えられており、新しい生活に生きている、ということであります。問答は「キリストと生き写しの姿に造り変えられる」と宣言告白しています。この「新しき人の復活」は、その大きな現れは、先ず「信仰」において、現れます。信仰とは、聖霊による恵みの賜物ですが、福音のみ言葉によって救いの真理が光照らされて、神の救いの事実をより正しくより深く認識できるようになります。救いのみわざがより明るく光照らされると、それによって、より深く見つめれば見つめるほど、救いの道筋がきちんと分かるようになります。神が何を求め、何を喜ばれるのか、少しずつ考えられるようになります。つまり信仰がはっきりしてくると、神さまのみ心に集中して自分の心を神に向けて正確に向け直すようになるのです。

このように信仰の内容がはっきりしてくると、二つのことがよく見えて分かるようになります。その一つは「罪」の真相です。自分の罪の実態がより正確にはっきりと見えるようになります。ですから、信仰を持つと、罪の意識はいよいよ深まり鮮明になります。自分を「罪人」としてより深くそしてより厳しく、見つめる心ができるのです。その結果、これまで以上に、いよいよ自分の罪に苦しむことになります。神のお求めになるみ心が分かるようになると、これまで考えることもなかった自分の本当の罪の本質が見え始めて来るからです。恐ろしいほど、罪の深さと深刻さが見えて来ます。最早、問題解決など在りえないほど深い罪の現実と向き合うことになります。そこには、何一つ、人間の可能性や希望の光は見えず、無限の絶望を知るようになります。こうして人間中心主義は敗北し絶望に至るのです。そこで初めて、人間を超越する神へと心が向けられるのです。そこに、神の御子キリストの十字架と復活のお姿が示され、そのお姿は鮮やかに自分に向かって現れて来るのです。

もう一つは、信仰が与えられたことで、信仰と魂が神に向けられ、神のもとに導く神のみわざがより鮮明に見えてきます。自分の中で働く神の愛と恵みが、はっきりして来るのです。信仰は、一方で罪を正しく認識させると共に、今度は、神を正しく認識できるように、神の真理を照らす光として働くのです。本当に神はおられる、キリストの十字架に唯一真の神が啓示されている、というように、神の存在や神の愛と力が見えて来て、よく分かるようになります。神の存在と愛が認められるようになると、人間における絶望から神による希望へと、甦るのです。真実は、人間における絶望を一方で受け入れつつ、今度は、神の愛と恵みに包まれて、新しい希望の世界の中に生かされている、と気づくのです。これが信仰の力です。極論すれば、神は、自分を初め、万物と世界を愛し救うために、全てを担い全てをお支えくださっている。だから、自分の思うようにではなく、すべて神にお委ねしよう、それこそが希望であり、平安であり、間違いない、と思えるようになります。自分よりも神が、本当の意味での自分を知り、導き、世界を造ってくださることが本当によく分かるのです。すると、神に感謝する、神を賛美する、神に祈る、神を拝むことに、どれほど大きな意味があるか、分かるようになります。自分中心から神の恵みとその働きを中心に生きるようになります。そこで初めて、本当の礼拝に生きる意味や、教会の一員であることの意味もはっきりしてくるのです。物やお金も皆、神の愛と恵みのためにあり、献金や献身の意味も、或いは教会での働きの意味も正しく理解できるようになります。

さらに、神は愛と恵みにより、自分を新しく生まれ変わらせ、造り変えてくださっていることが分かって来ますと、当然ながら、その神のみ心にお応えするように、心底、生きたいと考えます。現実の生活は、弱い人間としての自分のわざであるよりも、むしろ常に神に導かれており、神の愛と恵みの中を歩んでいる、神によってこそ本当の生を生きることができる、と実感するのです。そうした愛と恵みの中で生きる喜びと誇りと希望が生まれ、神の御心にしたがって生きようと思うようになります。その神の御心を最も鮮明に映し出したものが、神の律法であり「十戒」です。神の愛と恵みにより救われている感謝に溢れて、神の御心を映す律法にしたが

 

本日の主題は「偶像崇拝」です。問93は「これらの戒めは、どのように分割されるのか。」と問い、「二つの石の板に。一つは、四つの戒めにおいて、神に対してどのような在り方で、私たちは自らを保つべきか。もう一つは、六つの戒めにおいて、自分の隣人に対してどのような義務が私たちにはあるのか(ということに分けられます)。」と答えています。「十戒」は、本来「愛」の教えであるはずです。一つは、神に対する愛の教えであり、もう一つは、人間に対する愛の教えであります。問答94は「第一戒において、主は何を求めておられるのか。」と問い、「わたしは、自分自身の魂が永遠の救いと祝福を失う危機に瀕しており、それゆえ、あらゆる偶像崇拝、魔術呪術、迷信祈祷、諸聖人やその他の被造物の祈願のすべてから、避けて逃れるべきであり、唯一真(まこと)なる神を正しく知りただ神にのみ依り頼み、あらゆる謙遜と忍耐のうちに、良きことはすべてただ神より待ち望み、全身全霊を尽くして神を愛し畏れ敬うのでなければならない、ということ、そしてわたしは、どんな些細なことにおいても、神のみ心に背く行いをする前に、それに先立って、すべての被造物を(神に)委ね明け渡す、ということです。」と告白します。問答95は「偶像崇拝とは何か。」と問い、「神のみことばにおいてご自分を啓示された、唯一真の神に代わり、または神の隣りに並べて、何であれ、神以外のものを造って所有しそれに信頼をおくことです。」と答え、神以外のものを、或いは神と並んで他のものを拝むことは、偶像崇拝となる、と教えています。

 

問題の所在は、その本質は非常に深刻です。なぜなら、それは、私たち人間が神の被造物でありながら神の存在を認めることができない、という根源的な倒錯と矛盾にあります。これこそが人類の「罪」の本質です。果たして、神の愛と恵みよって造られたものが、神を否定し拒絶した所が、まさに神なき所で、幸いと平安のうちに生きることができるでしょうか。神なしには生きれない者が神なしに生きようとする、決定的な錯誤と矛盾を抱えて、人類は世界を彷徨い続けています。一方で、神なしには生きれないのに、他方では、神なしに生きようとする、そうした錯誤と矛盾を映し出すようにして現れる宗教現象が、「偶像崇拝」であります。存在するものは全て、神によって創造された被造物ですから、全ては神のものであり、礼拝の主は神です。しかし、神なしに生きようとする人間は、全ては自分のものであると錯覚して、自分のものとして独占支配しようとします。そのために、自分のために自分の都合のいいように、神を捏造し始めるです。もっと長生きしたい、お金が欲しい、出世したい、と欲求すると、自分の手で、それを実現させる神々をいくつもでっちあげるのです。人間であれ、狐であり、蛇であれ、石までも、何であろうと、欲求を満たすためには、ありとあらゆる神々を造り出しては、拝み、祈り求めるのです。神なしには生きれない人間が神なしに生きようとする、錯誤し屈折した魂の現れです。こうした錯誤し屈折した人間の魂について、ハイデルベルク信仰問答94は「わたしは、自分自身の魂が永遠の救いと祝福を失う危機に瀕しており」と表白します。神の祝福なしに生きれない人間の本性を深く嘆き悔いる告白です。わたしの魂は、神の祝福から転落し堕落して、神に背く神から遠く離れてしまい、もはや戻ることはできず、神の永遠の救いと祝福を失ってしまった嘆きであり悔いであります。神の創造以来の恵みを失った危機的な人間本性について、問答は、真っ先に「喪失のただ中で」(bei Verlierung)と表白しています。一層深刻なのは、それでもなお人間は、今もなお神なしに生きようとするのです。その錯誤と屈折が、今度はとてもグロテスクに歪んだ形で「偶像崇拝」の形で現れます。

 

問答95で「偶像崇拝とは何か。」と問い、「神のみことばにおいてご自分を啓示された、唯一真の神に代わり、または神の隣りに並べて、何であれ、神以外のものを造って所有しそれに信頼をおくことです。」と答えます。真の神は、人格的で生きた全能者ですから、ご自身のご意志において、しかも同じ人格である人間に対しては、みことばをもってご自身を啓示されます。本来の人間と人間は皆、心と言葉をもって、交流するように、神も、みことばをもって、人間の霊と魂に訴えるのです。そのように神はみ言葉においてご自身を啓示されたる神であります。その神の啓示の記録が聖書であり、神の律法であります。しかし人間は神を否定して背き続けますので、その神の啓示のみ言葉を聞かず、自分の欲望の声に心を向け、その欲望に従って欲望を満たす形で偶像を造り、そこに信頼をおくのです。「唯一真の神に代わり、または神の隣りに並べて、何であれ、神以外のものを造って所有しそれに信頼をおく」と言っています。神から離反した所で、神なき世界で、「自分」が神に代わり、世界を支配し所有したいと欲求するのです。現実は神ではないので、それは不可能なのですが、それでも、そのために本当の神に成り代わって、自分の言うことを聞く偶像の神を造り出すのです。このように偶像崇拝の根源には、神を正しく認められなくなり本性的に神に背く、という人間の本質的な神喪失におる崩壊現象があります。そこで、問答94は「わたしは、自分自身の魂が永遠の救いと祝福を失う危機に瀕しており、それゆえ、あらゆる偶像崇拝、魔術呪術、迷信祈祷、諸聖人やその他の被造物の祈願のすべてを避け逃れなければならない」と告白しています。

 

一見、律法は神の強い要求事項だと考えがちですが、本来は、罪より倒錯して行き詰まった人間を深く思いやる神の配慮ある導きのみことばなのです。律法とは、人間を深く愛し慈しむ神の配慮の教えであります。元々神は、愛と恵みに溢れた「創造の秩序」のもとに、愛と義が隅々に至るまで貫かれた創造の秩序のもとに、万物を創造なさいました。人間は、その神による創造の恵み豊かな秩序を捨てて、神に背き、神になしに、自分が神となって生きようとしたのです。それは今も同じです。「創造の秩序」、すなわち神は愛により永遠普遍に万物の命と存在を担い続けるのですが、その神の愛と存在を否定した所では、当然ながら、いのちと存在の永遠性は担保されません。まさに死と滅びの転落の一途を辿るばかりです。そのような救いなき魂は、ただただ、幻想たる偶像に縋り、彷徨うばかりです。だからこそ偶像を捨てて、唯一真の神に立ち帰るほかに、道はないのです。それが、人間本来の生き方であり、在り方であります。問答94は「唯一真(まこと)なる神を正しく知りただ神にのみ依り頼み、あらゆる謙遜と忍耐のうちに、良きことはすべてただ神より待ち望み全身全霊を尽くして神を愛し畏れ敬うのでなければならない」と、はっきりと目覚めて生きるほかに人の道はないことを知るべきであると教えます。

 

問答94に少々気になる言及があります。それは「諸聖人」に対する崇敬や祈願を、偶像崇拝と断定している点です。つまりこの問答は、単に「異教」世界だけを問題にしているのではない、自分たちのキリスト教そのものにも、教会の中にも偶像崇拝が現実ある、と脚下照顧しています。私たち教会の中にも「偶像崇拝」となる、すなわち「唯一真の神に代わり、または神の隣りに並べて、何であれ、神以外のものを造って所有しそれに信頼をおく」ことが、実際にあるではないか、というのです。神を否定してはいないのですが、ある意味では信じてはいるのですが、その「神の隣に並べて」もう一つの別の意味ある神を、或いは神々を造って保持しており、そこに信頼を置くことは、全くないと言えるのでしょうか。聖人崇敬を行うカトリックだけを非難して終われないことではないかと思います。

神には神のための、被造物には被造物ための、相応しい「場」があります。そのあるべき場、其々の存在の関係と区別を明確に知り弁えることは、信仰や教会生活を正しくする、重要な決め手になります。カトリック教会では「崇拝」adoratioと「崇敬」veneratioとを本質的に異なる概念として使い分けているようです。神は「拝む」という場があり、聖人は「敬う」という其々異なる場があって、そうした異なる秩序において人々の心は言い表さされる、というわけです。ハイデルベルク信仰問答は、そうしたローマ教会の秩序とはきっぱりと決別しています。しかし別の意味で、場合によってはもっと深刻な形で、私たちプロテスタント教会の中でも、神のみを神とする厳格な「秩序づけ」を意識する必要があるように思われます。信仰から神に集中する意識が薄れ、人間やこの世との関係が曖昧になり、その境目が混濁してしまう中で、いつの間にか、神よりも人間の方が、神よりもこの世の方が、そして神よりも自分の欲望の方が、優先され大事になってしまうことはないでしょうか。気が付いてみると、特定の座にある人が、神の名や教会を利用して、自分の欲求を実現しようとしているのではないか。教会紛争の中枢にはそうした本質が往々にして見え隠れします。どこまで正確かつ厳密に、神のみを神とする秩序が信仰心の中に確立されいるか、丁寧に検証すべきでありましょう。

被造物の其々が存在する全体の秩序の中で、それぞれに相応しい場がある、と申しました。これは家族と神との関係においても同じです。或いは自分自身と神との関係においても同じことが言えるのではないでしょうか。自分の子供だから、自分の妻や夫だから、自分が全てを担う、場合によっては判断する、ということになるのでしょうか。確かに自分のできる場で責任を背負いつつも、しかし他方では、神を絶対のお方として信頼して、すべてを神にお委ねするのです。親兄弟であろうと、本質から言えば「神のもの」として、神のもとに明け渡すのであります。まことの神を正しく信じ礼拝するということとは、すべてを造り主である神のもとにお委ねして、神に明け渡すことではないかと思います。そこには「自分のもの」として少しも残しておかない、ということです。聖書の物語で、とても恐ろしくなるほど、厳格かつ厳密な事例として、アブラハムのイサク奉献の物語を想い起します。神は、突如アブラハムに「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(創世記22章2節)と命じます。子孫繁栄という大きな希望の中で、全てを神に委ね神に明け渡すのか、それとも実子イサクに未来を託すのか、アブラハムは深く苦悩した末、神への信頼を選びます。イサクを譲り渡せば、夢や希望はおろか、これまでの長い旅を重ねて来た人生も全ては失われ、何一つ彼にが残らないのです。アブラハムは、深刻にも、この神の命令と向き合い、苦悩の中で、イサクを屠って神に献げようとします。すると御使いが現れて「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記22章12節)と告げられます。アブラハムは、わが子イサクを神と並べて置くことはせずに、そしてイサクに信頼を向けることを断念して、全てを神のみに委ね神にイサクを含めて人生のすべてを明け渡したのです。イサクを献げるアブラハムには、神への信頼を除いて、ほかに何も残ってはいなかったのです。

改めて問答94で「そしてわたしは、どんな些細なことにおいて、神のみ心に背く行いをしないうちに、それに先立って、すべての被造物を(神に)委ねて明け渡す」という宣言告白に、ご注目いただきたいのです。ここは翻訳の際にとても迷った部分の一つです。それは「すべて被造物を(神に)委ねて明け渡す」という部分です。ドイツ語原典ではübergebenという字が用いられており。辞書によれば「正当な受け取り人に手渡す、しかるべき人や筋に委託委任する、譲渡する、委ねる、明け渡す」という意味です。英語版ではrenounce(捨てる、放棄する、縁を切って否認するの意)が充てられています。この用語から、神と、わたしと、わたし以外の人々や被造物との関係が示唆されます。被造物全体の中での関係と秩序であります。其々の根本的にあるべき場であり、その在り方の秩序です。つまり「神の創造の秩序」の中で、「神」と「わたし」と「被造物全体」との関係で言えば、本来の相応しい形で「神にわたしは全被造物をお委ねする」ことになります。人間が欲望のために、被造物を都合よく独占的に所有して支配し、時にはそれを偶像として神々に代えて、手で造り所有し、偶像として利用し支配します。そうした偶像崇拝により、被造物世界全体が、人間の倒錯した支配によって歪められ、傷つけられていることになります。したがって被造物全体は、人間の欲望支配に服するのではなくて、本来は、造り主である神と神の秩序のもとにお返しするべきであります。大切な点は、被造物を、本来神さまが働かれる場に正しく相応しくお返して戻すということではないでしょうか。そうした意味でハイデルベルク信仰問答は「すべての被造物のを(神に)委ねて明け渡します」と告白したのではないかと思います。偶像崇拝は、人間による支配欲から生まれるものです。しかもそこでは、神なしに、自分の欲望を満たすために、被造物を偶像化しているのです。そのように倒錯した人間の欲望と罪の中で、被造物は著しく疎外され、本来の場を失い、呻き苦しんでいるのであります。そうした偶像崇拝の現実を完全放棄する共に、本来あるべき創造の秩序の中に、創造主なる神のもとに被造物をお返し、お委ねするのであります。自己支配のもとに、環境を著しく傷つけ、病んだ状態に引きずり込んだ人間は、本来の神礼拝においてこそ、神のもとに被造物を解放するのであります。環境問題もこうした「偶像崇拝」の構造との関わりから、改めて見直し検証し直すこともまた意味があるのではないでしょうか。

2020年10月18日 説教「真の悔い改め、古き罪人の死と新しき人の復活」 磯部理一郎 牧師

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第21主日礼拝

信仰告白「ハイデルベルク信仰問答」問答88~92

感謝について(感謝の生活2)

 

問88 (司式者)

「人間の真実(まこと)の悔い改めと回心は、いくつのことにおいて現れるか。」

答え (会衆)

「二つのことにおいて(現れます)。古き人の死滅において、そして新しき人の復活においてです。」

 

 

問89 (司式者)

「古き人の死滅とは、どういうことか。」

答え (会衆)

「心から罪を断ち切り、いよいよ罪を嫌悪し罪から離れ去ることです。」

 

 

問90 (司式者)

「新しき人の復活とは、どういうことか。」

答え (会衆)

「キリストを通しての神の内にある喜びであり、

神のみ心にしたがってあらゆる善きわざに生きる歓喜と熱望です。」

 

 

問91 (司式者)

「だが、善きわざとは何か。」

答え (会衆)

「ただ真実(まこと)の信仰から神の律法にしたがって神の栄誉のために行われるわざです。

自分の判断や人間の定めに基づく行為ではありません。」

 

 

問92 (司式者)

「主の律法はどのように告げているか。」

答え (会衆)

「神はこれらすべての言葉を告げられた。

第一戒『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

あなたにはわたしをおいてほかに神があってはならない。』

第二戒『あなたはいかなる像も造ってはならない

上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、

いかなるものの形も造ってはならない。

あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。

わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、

わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。』

第三戒『あなたの神主の名をみだりに唱えてはならない

みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。』

第四戒『安息日を心に留めこれを聖別せよ

六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、

主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、

男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、

主は安息日を祝福して聖別されたのである。』

第五戒『あなたの父母を敬え

そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。』

第六戒『殺してはならない。』

第七戒『姦淫してはならない。』

第八戒『盗んではならない。』

第九戒『隣人に関して偽証してはならない。』

第十戒『隣人の家を欲してはならない

隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。』」

 

 

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第21主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教37(問答88~92)

説教「真の悔い改め、古き人の死と新しき人の復活」

聖書 詩編119編129~136節

ローマの信徒への手紙6章15~23節

 

これまで学びましたハイデルベルク信仰問答の聖礼典と天国の鍵をめぐり、もう一度、簡潔に振り返り、整理しますと、聖霊なる神は、先ず福音の説教を通して働き、私たちの心の内に信仰を芽生えさせてくださいます。聖霊なる神は、キリストの霊として、次いで洗礼と聖餐の聖礼典を通して働き、私たちの心の内に、救いの確信と確証を与えてくださいます。聖礼典に与ることで、私たちの救いは、ただ自分が信じるだけの救いではなくて、神の保証による客観的で確かな神の救いとなります。この救いの客観的な「確かさ」は、徹頭徹尾、神のみ言葉による神の約束そのものに根拠をおく確かさです。私たち人間の側による行いや信仰の量的な強さ弱さに、救いの根拠は一切ないのです。

すなわち、神のみ言葉である説教と聖礼典において、キリストご自身が、キリストの霊である聖霊の働きを通してそこに現臨してみ言葉を語り、キリストが聖礼典においてご自身の肉と血とに与らせる、という徹底した神のみわざそのものによって、神の救いは神が保証するのです。洗礼においては、キリストご自身が聖礼典を制定され、しかも聖霊を通してそこに現臨し、水とことばを用いて、実際にご自身の十字架の血の恵みにより、私たちの罪を根源から洗い清めて、神の契約共同体の一員として加えてくださいます。聖餐においても、キリストご自身が聖餐を制定され、聖霊を通してそこに現臨して、実際にキリストの身体と血に私たちを与せ、キリストの身体と一体に結び合わせご自身の身体の肢体となされ、また復活のご自身の身体と血をもって永遠の命である復活の身体に私たちを養ってくださるのです。神が先ず聖霊を通して、「福音の説教」による恵みの賜物として、信仰を芽生えさせ、次いで、「洗礼と聖餐」に与ることを通して、キリストの身体としての救いを完全保証するのであります。こうした救いの確かさと神による保証の場でありしるしとしたのが、ハイデルベルク信仰問答によれば、聖礼典にあずかる、ということです。しかもその確かさや保証の根拠として、聖礼典に与ることを通して、実際にキリストの身体と血に与ることを徹底して貫いています。ただ単に、人間の主観的な信仰に依存する象徴論とは決別しています。

このように教会は、キリストを頭とするキリストの身体であり、福音の説教と聖礼典を媒介にして、天地を貫き、過去・現在・未来を貫通して、終末を超えて永遠に、神の民の共同体として構築されます。ここに教会の本質があります。この教会を「公同の教会」として、私たち日本基督教団は、使徒信条や信仰告白を通して、信じ告白しています。したがって「教会」を抜きにした所に、神のみ言葉である「説教と聖礼典」を抜きにした所には、救いの根拠や救いの確かさは、失われてしまい、存在しないのです。神自らが、キリストを通して、聖霊において、キリストを頭とするキリストの身体である教会を導かれるのですが、そのキリストの身体である神の教会は、天地を貫いて、「唯一」のuna, 「聖」なるsancta, 「公同普遍」のcatholica, そして「使徒」のapostolica 「教会」ecclesiaとして地上に受け継がれ、その本質的な使命として「福音の説教と聖礼典」による神のみことばが告知され、私たちは聖霊を通してそれらに招かれ導かれ与ることで、キリストによる罪の赦しと復活による救いは実現します。こうしたキリストの身体である神の教会を否定し排除した所に、或いは聖礼典を拒否する所で、いくら救いの理想を豊かに語り合ったとしても、そこには「神」によるキリストの身体としての「教会」(ecclesia神が名を呼び、召し集め神の民の共同体)の救いはなく、単なる「人間」の主観的な思想集団に終始します。

私たち罪人が罪赦され永遠の命に救われたことの確かさは、福音として聞き分ける神のみ言葉にあり、キリストの身体と血に与る聖礼典に込められた神の保証にあります。そしてその確かな救いに対する真実な応答として、救われた事実を受け入れ認めて、その事実を信仰として言い表し、そして救いの神に心から感謝し、神に厳粛な賛美をささげ、神の栄光をたたえます。こうした救いの根拠となる神の言葉、すなわち「福音の説教」と「聖礼典」を、その神の啓示の言葉としての本質を歪めることなく、相応しい信仰をもって、神の愛と恵みにお応えすることが求められます。み言葉の教えにしたがって、キリストの十字架と復活による恵みを心から信頼して、信仰を言い表すのです。そしてその信仰とは、救いの現実に対する正しい認識であり、神への感謝であり、讃美となります。そのために教会は責任を持って、キリストの愛と配慮のもとに、説教と戒規という鍵の働きを通して、人々に仕えるのであります。

 

本日の主題は「感謝」です。先週の問答86~87の続きとなります。問答86の答えで、「すでにキリストは、ご自身の血をもって犠牲を払い私たちを贖ってくださったのですから、次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通してご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます。このキリストの恩恵に対して、私たちは自らの全生涯を尽くして神に感謝を言い表し、そうして、神は私たちを通して褒め讃えられるのです。私たちは自分の信仰が確かであることをその実りから自分で確信し、神を畏れる敬虔な生活態度をもって、私たちの隣人たちをキリストのもとに勝ち取るのです。」と宣言しています。8月初めに学びました問答70でも「『キリストの血と霊とによって、洗い清められる』とは、どういうことか。」とする問いに対して、答えで「十字架での犠牲奉献で、私たちのために代わって流された、キリストの血のゆえに、その恵みにより、神のみ前に罪の赦しが与えられている、ということです。犠牲奉献によりまた聖霊を通して、新しくされ、キリストの肢体(えだ)として聖別され、いよいよ罪に対して死に、信仰心に溢れて責められることのない生涯に造り変えられます。」と告白されていました。ここでも、罪の赦しが与えられて、キリストの身体の肢体として聖別されて、さらには責められることのない生涯に造り変えられます、と新しい人としての創造が告白されています。

 

ここで再確認すべき点は、問答86の原典では、時制を完了形と現在形とを使い分けて、先ず完了形で「すでにキリストは、ご自身の血をもって、犠牲を払い私たち贖ってくださった」のであるから、と告白します。私たちは、キリストの恵みによって、無償で、既に完全に罪赦されてしまっているのです。神の恵みが先に働いて、私たちを既に救いの座へとお招きくださったのです。これは、明らかに、キリストによる恵みの先行であり、無償の恵みによる「宣義」であり「義認」であります。それを問答86では「完了形」で示されています。しかし問答は、そこで完了してしまって、完結しはしないのです。

つまり、問答の86は、それでは、既に罪赦され救われた私たちは、今これからどうすればよいのか、という先行された神の恵み対して、後から起こる私たち自身の応答が問われるのです。そこで問答は、既に罪の償いは完全に完了してしまったので、その先行して実現した救いの恵みに対して神にどう応えるのか、その答えとして、今度は、私たちが今ここで「自らの全生涯を尽くして神に感謝を言い表わす」のだ、と告白します。神に感謝を言い表すのです。では、神に対する相応しい感謝とは何でしょうか。どうすれば、最も相応しい感謝となるのでしょうか。それは、何よりも先ず、キリストの救いが確かである真実であるとする信仰をいよいよ堅固にすることです。救いが事実である、しかもその信仰が堅固になれば、その感謝はいよいよ相応しく、また厚く深くなります。そしてささげる礼拝や讃美も、それに応じて、いよいよ献身的で豊かになります。そのように、敬虔で信仰に満ちた生活態度が内側から生まれて、やがては内から外に溢れ出て来るはずです。キリストによって罪赦され・死から解放され・復活の新しい命に生まれ変わることが、日々リアルによく分かるようになると、実際にその様子を自らの人生で味わい体験できるようになると、いよいよ神への感謝と喜びは深まり、その恵みに対する応答は明瞭になり強くなり、生きる人生には新しい希望が溢れ、未来に向かう新たな目標が生まれます。そしてついに死さえも貫いて、永遠の命を意識して、天国に至る、という人生と生涯の在り方が、根本から本質的に変えられてゆくはずです。そうした神の恵みによる新しい人生の新生と再創造について、信仰問答86の後半で「次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通してご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます。」と告白します。どんなに遅遅とした歩みであろうと、躓き躓きの繰り返しであろうと、確実に、神は聖霊の働きを通して、福音の説教と聖礼典により、私たちをキリストの身体として、「生き写し」のように、造り変えてくださるのです。キリストの無償の救い、恵みによる「義認」に続いて、救われた者の「キリストの身体」としての、新しいいのちの道である「聖化」の道が、神によって聖霊を通して開かれます。神による救いの確信は、神への感謝と喜びの深まりを経て、聖霊による聖化という新しいの命の道へと展開してゆくのです。

 

その感謝を根源とする「聖化」の道をハイデルベルク信仰問答はいよいよ明確に展開します。それが、問答88~92の項目です。先ず問答88では、生まれ変わり新生した新しい生活について、「古き人の死滅において、そして新しき人の復活において」その姿は現れると教えています。古き人の死滅とは、問答89によれば「心から罪を断ち切り、いよいよ罪を嫌悪し罪から離れ去ること」であり、新しき人の復活とは、問答90によれば「キリストを通して神の内にあることの喜びであり、神のみ心にしたがってあらゆる善きわざに生きることの歓喜と熱望です」と答えています。その新しき人の復活は、問答91以降によれば、神の御心に従って生きる善きわざの生活、すなわち神の律法に生きる生活として語られてゆきます。

古き人の死滅とは、単刀直入に言えば、自分の罪を知った、自分の罪を認めることができる、日々自分の罪と正しく向き合うことができる、ということではないでしょうか。だから自分の罪と戦うことができるのです。それどころか、自分の罪ばかりか、世の罪の全体と本質が見えるようになるのです。しかもその大きな罪との闘いには、常にキリストが共におられ、十字架での償いをもって絶えず罪を償ってくださる神の愛と憐れみに満ち溢れた闘いであります。そればかりか、聖霊なる神は、常に心のうちに働き、内住してくだって、私たちの心身を根源からいつもキリストの身体として新しくしてくださり、確かな希望と豊かな励ましに満ちた日々の戦いとしてくださるのです。罪と滅びから目を逸らすのではなく、罪と死と滅びの中枢を貫いて、闘い抜き、勝利する。そういう罪との闘いを自分の生涯の内に持った、ということであります。

そして新しき人の復活とは、これはとても意味深いことですが、「キリストを通しての神の内にあることの喜び」のうちに生かされる、ということにあります。とても意味深いと申しましたのは、私たちは神の内にある、神の内に生きている、という現実です。しかもそれは、愛と慈しみ溢れる十字架と復活のキリストというお方を通して、いよいよ豊かに実現しているのです。神の外にいて、神と対抗しているのではないのです。神の内にあって、聖霊がうちに住んでくdさり、キリストと共に生き、神の内に養われているのです。しかもその神の内に生きるという実感は、無限の喜びに満ち溢れます。だから、この神の御心にしたがって常にありたい、生きたい、と願い求めようになります。つまり「神のみ心にしたがってあらゆる善きわざに生きる」ことを拒否するどころか、かえって喜びと誇りをもって、歓喜し熱望して、神が求めておられることをより深く正しく知り、神の御心を喜べるようになります。これが「感謝と喜び」の道であり、「応答と聖化」の道であります。そしてついに、問答91では「だが、善きわざとは何か。」と問い、答えで「ただ真実(まこと)の信仰から神の律法にしたがって神の栄誉のために行われるわざです。自分の判断や人間の定めに基づく行為ではありません。」という告白に至ります。これはまさに、神による救いに対する心から感謝と讃美から、ただ真実で純粋な信仰から、今度は、神の律法にしたがって生きるという新しい人生の旅立ちを迎えるのであります。

前回の説教で、ルター派の教理では「律法と福音」という言い方をするのに対して、カルヴァンの改革長老派では「福音と律法」という言い方をする、というお話をいたしましたが、ついに、その「福音と律法」の宣言がここに明記されています。つまり、救いが真実であり確かであることがいよいよ分かり、確信できるようになれば、すなわち信仰の内容がはっきりしてくると、その福音の豊かな「信仰の実り」として、信仰による新しい応答の生活が言い表されるようになるのです。後で改めて、ハイデルベルク信仰問答は問答92~115において「十戒」のすべてを、新しい福音と救いの視点から、感謝と喜びの中で受け入れ直すことになりますが、ハイデルベルク信仰問答の構成全体から申しますと、大きく区分すれば、律法の要であった「十戒」も「主の祈り」も、実はキリストの恵みに対する「感謝」を根源として生まれる「新しい生活」の主要素です。「感謝」という項目の内に、皆其々組み込まれています。「福音と律法」として、その福音と律法を根源から一体に結合している「と」の部分に、溢れるような「感謝」がある、と言ってもよいのではないかと思います。問答64は「キリストに真(まこと)の信仰を通して接ぎ木され結ばれた者は、必ず感謝の実を結びます。」と、こう確信し告白しています。「必ず感謝の実を結びます」と言うのです。まさにその「感謝の実り」となって、新しい生活が結実してゆくことになります。それが、感謝としての新しい律法の生活です。救いの条件のための破れと苦痛のための律法から、感謝と讃美のための律法へと、その本質は大きく変わります。したがって日々、感謝と喜びに溢れる中から希望もって、戒めの一つ一つに対して、大事に真摯にそして謙遜に向き合い、取り組むことになります。

 

ただし、こうした感謝としての律法に取り組むうえで、注意すべき、心得ておくべきことが、一つあります。それは、信仰をもち教会生活を歩みながら、キリスト者でありながら、また聖化という新しい恵みの道を進みながら、数々犯してしまう罪の問題であります。所謂、受洗後の罪の問題です。

ローマ・カトリック教会では、そうした受洗後に犯す罪を想定して、罪を告白し罪を悔い改めるための「告解」が重要なサクラメントとして、日常的に執行されています。さらに大切な点は、そこで必ず「罪の赦し」が司祭によって宣言されることです。その上で、ミサ聖祭に与ることが許されます。つまり意味深い点は、受洗後に犯した罪を確実に悔い改めて、確実に罪赦されるための場が、教会の制度の中にきちんとある、という点です。犯した罪は、神さまによって、或いは権威ある司祭によって、教会の制度の中でサクラメントとして赦される、という場が公にあるのです。しかしこれも、余りにも典礼の形式や教会の制度ばかりに偏りますと、罪を犯す本人の「魂の現実」は実際には放置されてしまうのではないか、と危惧します。

ところが、プロテスタント教会では、この「告解」の秘跡は、サクラメントから除外されてしまい、いわば教会の救いの制度、そのメカニズムの中からは失われています。畢竟、信徒其々による心の中で、個人の主観感情において孤独で曖昧な処理をすることになります。処理と申しましたのは、そこには本質的な、或いは根源的な、そして神ご自身による解決の道が用意されていないからです。つまり公の教会の中で、教会の制度としては、犯した罪を解決できずに、牧会相談という極めて不透明で曖昧な人間的状況の中に、問題は未解決のまま、そこに置かれ残されてしまうことも多々あるからです。しかもその解決は、牧師や信徒の個人的な人間性や宗教観によって大きく影響されます。神に罪赦され神に救われるのか、人間的なかかわりで同情され慰められるのか、非常に混濁してしまうのです。かつて、デートリッヒ・ボンヘッファーは、キリスト教共同体の中に、互いに罪を告白し祈り合う「交わりの生活」が重要な意味を持つ、と主張しましたが、まさにその通りです。したがって、今後の教会の祈祷会の果たす役割は、とても重要であり、大きな教会的課題でもあります。どのように、受洗後に犯し続ける罪を「教会」として解決してゆくか。各自其々が自分の中で処理しなさい、ということでは済まない、牧会の本質的な問題と言えましょう。

そこで、改革長老派の教会では、隠れた密室においてではなく、公の礼拝の中で、しかも其々が教会共同体の一員として、神の御前に出る最初に、会衆全体が一つになって、罪を告白します。罪を心から神の御前で告白して悔い改めを示します。礼拝のプログラムで言えば「十戒」の項目です。律法の実行により自分では神の義を獲得し救いを得ることはできない、したがってキリストの愛と憐れみによらなければ、まさに十字架の犠牲によらなければ、神の赦しを得ることはできません、と心から悔い改めつつ、深く噛みしめながら十戒の一つ一つを唱和します。その上で「信仰告白」という項目で、会衆一同一つとなって、キリストの救いを信仰として言い表します。そして聖書のみ言葉が朗読されて福音の説教がなされ、キリストによる罪の赦しが公に宣言されるのです。私たちは罪を重ねてしまうことがとても多いのですが、犯した一つ一つの罪の真相をみ言葉の光のもとで、その罪をお赦しくさかる神の福音としてより深くより正しく知り、認識できるようになると、次は犯さないで済む罪もまた一つ一つ増えて来るはずです。私たちが罪を犯す原因は、大抵の場合、それがどういうことなのか、気づけない、知らない、分からない、所謂「無知」による場合が多いようです。ですから、正しく知る、より深く厳密に、しかも筋を通して確かに知ることで、多くは乗り越えられるようです。どんな些細に見える罪でも、その一つ一つの真相を、み言葉のもとで照らし出してもらえるならば、説教や教会での学びは、天国へと導く力強い鍵の役割を果たすことになります。私たちには、分からないこと、知らないことが余りにも沢山あります。ましてや、神さまの御心のもとで、分かることは非常に限られますので、善かれと思ってすることでも、罪になってしまいます。謙遜に聞き分けて学ぶ、ということは、私たちが罪と闘う上で、とても大切なことです。これまで、天国の鍵の務めを担う「福音の説教」と「戒規」の意義について学びましたが、まさに、み言葉を聞き分ける訓練により、次第に少しずつですが、しかし確実に、本当の意味で罪の真相は何か、気付いて分かるようになります。そして福音がその罪に対してどれほど豊かな愛と慈しみに溢れて、罪の赦しを宣言しているか、聞き分けられるようになるのです。「戒規」を英語版ではdiscipline(弟子を訓練し教えること)と訳したことは、とても意味深いことです。み言葉の説教をより深くより正しく聞き分ける、そして教会の交わりの中で、み言葉を聞き分けた会衆同士が共に学び導き合い、互いに良き牧会者として重要な意味を担うことになります。こうして少しずつではありますが、私たちは新しく造り変えられてゆきます。一人ひとりの信仰が新しくされると共に、教会の在り方も新しくされてゆきます。

2020年7月12日~26日 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第7~9主日

 

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』65~68 ③

聖礼典について(1) ―信仰と恵みの源泉である「説教と聖礼典」―

 

問65 (司式者)

ただ信仰だけが、私たちを、キリストとそのあらゆる善きわざの恩恵にあずからせるのであれば、

そのような信仰はどこから来るのか。」

答え (会衆)

聖霊は聖なる福音の説教を通して信仰を私たちの心のうちに引き起こしてくださり、

(聖霊は)また、聖礼典の慣行を通して信仰に確証を与えてくださいます。」

 

 

問66 (司式者)

「聖礼典とは何か。」

答え (会衆)

「聖礼典とは、目に見える聖なるしるしと証印であり、神によって制定されました。

神は、聖礼典の慣行を通して、私たちのために、

福音の約束が最も良きものであることを、いよいよ確かに理解させてくださり、

また福音の約束を保証するしるしとなさるのです。

こうして神は(福音の約束の通り)私たちのために、

十字架において完全に成し遂げられたキリストの唯一つの犠牲奉献ゆえに、

その恵みから、罪の赦しと永遠の生命をお授けくださるのです。」

 

 

問67 (司式者)

「では、みことばと聖礼典の二つは、私たちの信仰をイエス・キリストの十字架の犠牲に向け

唯一つの私たちの救いの根拠を指し示すのか。」

答え (会衆)

「勿論、そうです。聖霊が、福音において教え、聖礼典を通して保証しています。

私たちの祝福はすべて、私たちのために十字架でお献げくださった、

キリストの唯一つの犠牲奉献にあります。」

 

問68 (司式者)

「キリストは、いくつの聖礼典を新約聖書で定めたか。」

答え (会衆)

「二つです。聖なる洗礼と聖晩餐です。」

説教:2020年8月2日 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第10主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』69~71

洗礼について(1)

 

問69 (司式者)

「どうしてあなたは、聖なる洗礼において、唯一つ、キリストによる十字架での犠牲奉献だけが、

あなたの恩恵となる、と確信し断言するのか。」

答え (会衆)

「このように(確信し断言します)。

キリストは洗礼において、外側から水による洗い清めを制定され、

その洗い清めをもって、約束されたのです。

わたしは、どのような肉体の汚れからも、日常的にいつも、外側から水によって洗い清められます。

それほど確かに、わたしは、キリストの血と霊とによって

霊魂の不純な汚れから、まさにありとあらゆる罪から洗い清められます。」

 

 

問70 (司式者)

「『キリストの血と霊とによって、洗い清められる』とは、どういうことか。」

答え (会衆)

「十字架での犠牲奉献で、私たちのために代わって流された、キリストの血のゆえに

その恵みにより、神のみ前に罪の赦しが与えられている、ということです。

犠牲奉献によりまた聖霊を通して、新しくされ、キリストの身体の肢体(えだ)として聖別され

いよいよ罪に対して死に、信仰心に溢れて責められることのない生涯に造り変えられます。」

 

 

問71 (司式者)

「『キリストの血と霊とをもって』と同じように、確かなこととして『水による洗礼をもって』

私たちは洗い清められます。では、それをキリストは、どこで、約束されているのか。」

答え (会衆)

「洗礼の制定においてです。

すなわち、『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け』

『信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける』

と告げています。

この約束は、繰り返し告げられており、

聖書は、水による洗礼を甦りの洗い(『聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗い』)、また罪の洗い清め(『その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』)と記しています。」

 

 

説教:2020年7月5日 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第6主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答62~64

「第二部 人間の救いについて 使徒信条―聖霊なる神について⑸―恵みによる義―」

 

問62 (司式者)

「なにゆえ、私たちの良い行いは、その一欠片(ひとかけら)さえも、神のみ前で義と認められないのか。」

答え (会衆)

「神の法廷で存立する義とは、神の律法に対して完全かつ完璧に一致しなければなりません。

しかし、この世の私たちの行いは、

どんなに最善最良の行いであっても、どれも皆、不完全で罪に汚れています。」

 

 

問63 (司式者)

「神は、この世でも来るべき世でも、それにお報いくださるはずです。

それなのに、なにゆえ、私たちの良い行いは、報酬を受けるに値しないのか。」

答え (会衆)

「この報酬は、働きによる功績からではなく、(神の)慈愛による恵みから、生じるからです。」

 

 

問64 (司式者)

「だが、こうした教えは、人を無分別で卑劣な者にしてしまわないか。」

答え (会衆)

「いいえ。キリストに真実(まこと)の信仰を通して接ぎ木され結ばれた者は、

必ず感謝の実を結びます。」

7月b

説教:2020年10月11日 動画 「神の愛と恵みへの感謝」 磯部理一郎 牧師

 

マタイによる福音書:6章19節~24節

コリントの信徒への手紙一:6章12~20節

ハイデルベルグ信仰問答:86~87

ハイデルベルク信仰問答講解説教:36

 

 

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第20主日礼拝

信仰告白「ハイデルベルク信仰問答」問答86~87

感謝について(感謝の生活1)

問86 (司式者)

「私たちは、自分のどんな悲惨からも、自分の一切の功績によらず、キリストの恵みによって、

救い出されているのであれば、なぜ、私たちはなおも善き行いをなすべきなのか。」

答え (会衆)

「それについて(はこうです)。すでにキリストは、ご自身の血をもって

犠牲を払い私たちを贖ってくださったのですから、

次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通して

ご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます

このキリストの恩恵に対して、私たちは自らの全生涯を尽くして神に感謝を言い表し

そうして、神は私たちを通して褒め讃えられるのです。

私たちは自分の信仰が確かであることをその実りから自分で確信し、

神を畏れる敬虔な生活態度をもって、私たちの隣人たちをキリストのもとに勝ち取るのです。」

 

問87 (司式者)

「ならば、自分から進んで感謝しない人々、

また神に向かって回心しようとしないで生活態度に悔い改めない人々は、

天国の祝福にあずかることはできないのか。」

答え (会衆)

「(天国の祝福にあずかることは)断じてできません。なぜなら、聖書が証言するからです。

すなわち『みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、

人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。』」

 

2020.10.11 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第20主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教36 (問答86~87)

説教「神の愛と恵みへの感謝」

聖書 マタイによる福音書6章19~24節

コリントの信徒への手紙一6章12~20節

 

神が救いをお示しくださる啓示のみことばに導かれ、その救いのみ言葉を聞き分けて正しく認識して、神を信じ受け入れる信仰が生まれます。つまり、神の選びと救いの恵みに対して、それを心から受け入れ、感謝と讃美をもって応えしたい、と願うようになると、そこに信仰は生まれます。そうした応答としての信仰は、まさに神とその恵みに対する心からの感謝と言えます。このように、私どもは、神の救いの恵みや選びに対して、確かな信頼と心から深い感謝をもって、今度は神さまに応えしようと、それにふさわしい生活が与えられます。それが、キリストの身体とされた者の生活であり、身も心も新しくされた教会における信仰生活です。そうした神の救いの恵みに対して、その信仰による応答の生活を通して、わたくしたちの救いは導かれています。

 

聖書のみ言葉で申しますと、前回ご紹介しましたが、ヨハネによる福音書10章のみ言葉から、「10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く羊はその声を知っているのでついて行く。10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」とありますように、キリストである羊飼いは、罪人の名である羊の名を、そのひとりひとりの名を呼んでくださり、みことばをもって、滅びの世から天国へと連れ出してくださるのであります。しかも、常にキリストはわたくしども罪人の先頭に立って、私たちを導かれます。そのキリストの救いの御声を羊たちは皆よく聞き分けて、キリストの導きをいよいよ深く豊かに知るようになります。罪人である羊は、キリストの声をいよいよ正しく聞き分けて、安心と信頼を深めて、ひたすらキリストについてしたがってゆきます。そういうキリストのみ声をいよいよ正しく聞き分ける心が養われ、自分からキリストに着いてゆき従うという新しい生活が養われます。そこに教会における信仰生活が生まれるのです。

使徒言行録2章で言えば、「使徒の教え」を守る教会の交わりの生活です。

 

このように、救いの福音の説教が語られると、説教をより正しくそして深く聞き分けて、豊かに受け入れる信仰が聖霊の賜物として与えられます。聖書のみ言葉をより深くそしてより正しく聞き分けられるようになると、しかも自分勝手に自己中心に聞くのではなく、聖霊の恵みとして聞き分けられるようになると、救いにふさわしい信仰と生活が内側から、心身共に新しく引き起こされ、生き方が大きく変えられるようになるのです。ここに、ハイデルベルク信仰問答の特徴とする「鍵」の役割があります。問答83によりますと、「鍵の務めとは何か。」と問い、「(鍵の務めとは)聖なる福音の説教キリストの戒規です。この一対にある両者(の鍵の務め)を通して、天国は、信仰のある者に開かれ、信仰のない者には鍵をかけて閉ざされます。」と宣言告白しています。つまり、神が、福音の説教を通して、救いの恵みを告知して、一匹一匹の羊の名を呼び、羊をキリストのもとにキリストの十字架と復活のもとに、教会として呼び集めるのです。そして天国に向かうための新しい生活の道が開かれるのです。以前に学びましたハイデルベルク信仰問答65では、「ただ信仰のみゆえに、私たちはキリストのあらゆる善きわざの恩恵にあずかります。そうであれば、そのような信仰はどこから来るのか。」と、信仰の由来を問い直して、さらに答えでは「聖霊は聖なる福音の説教を通して信仰を私たちの心のうちに引き起こしてくださり、(聖靈は)また聖礼典の慣行を通して信仰に確証を与えてくださる」と告白していました。キリストの霊である聖霊は、福音の説教を通して、私たちの心の内に働き、その賜物として信仰と信仰による新しい生活が与えられるのです。そしてそこに教会として呼び集められた羊たちの群れが生まれ、「福音の説教」と共に、今度は「洗礼」や「聖餐」という、もう一つの神の言葉を通して、罪と死のからだは心身共にいよいよ復活という新しい身体に造り変え、天の新しい命として養ってくださることになります。目に見えない神のことばである「福音の説教」と、そして目に見えるもう一つの神のことばである「聖礼典」(洗礼と聖餐)とが、神のことばとして一体となって、わたしたちの名を呼び続け、救いへと導き続けるのです。キリストの霊、神の霊である聖霊は、キリストをわたしたちの教会の頭とし、説教と聖餐というみ言葉を通して、徹底的に働いて、キリストの身体である私たちを永遠の命に養い育ててくださるのであります。こうして、天国の鍵は、み言葉によって完全に開かれるのです。

 

こうして羊は、其々各々で、主の御声を正しく聞き分けること、正しい信仰による認識をもって神とその救いを受け入れて知ること、そして神の愛と恵みに対してふさわしい生活態度を身に着けること、が求められます。つまり、神さまへの応答として、正しい信仰をもって、ふさわしい感謝と讃美をささげる、ということが、教会生活の根本命題、或いは中心課題となります。「戒規」は「福音の説教」と共に天国の鍵として働いて、羊たちを神の救いに相応しい生活に導く役割を担うものです。前回、既に説明しましたが、「戒規」とは、ドイツ語原典から言えばの用語で「悔い改めと贖罪に導くための規則」という意味の、特別な用語が用いられています。英語版ではdisciplineと訳され、「弟子を教え訓練するための規律」という意味の用語で訳されています。内容としては、教会が担う「牧会」を指しています。ハイデルベルク信仰問答は「天国へと導くための愛の規律」とその道筋を明確に規定した、と言えましょう。問答85では、この福音に対する信仰による応答としての、新しい教会生活について、すなわち「戒規」という鍵の務めについて、こう説明します。「どのようにして天国は、キリストの戒規によって、開かれまた閉ざされるのか。」と問い、「このように(です)。キリストの命令にしたがって、天国から閉め出されます。すなわち、キリスト者の名の下にありながら、キリストに反する教えや言動を行い、後に幾度か兄弟としての勧告を受けても、その過ちや悪から離れず、それに対して教会または然るべき職務にある者から戒告を受けても、なおも訓戒に心を留めず改めない人々です。こうした人々は、教会の職務による聖礼典の禁止をもって、キリスト共同体の交わりから閉め出され、また神ご自身によっても、キリストの御国から閉め出されます。しかし、ここで最も重要な点は、真実の改心を誓い表明するのであれば、キリストの身体の肢体(えだ)としてまた教会の一員として、再び受け入れられます。」と答えています。一言で言えば、戒規とは、迷い出てしまう羊のために設けられた、徹底した教会による「愛の配慮」であり、教導のための牧会である、と言ってもよいのです。この内容を正しく理解すれば、「鍵」とは、天国に鍵をかけて締め出す、ということが目的ではなく、反対に、天国へと羊を守り導くための、愛の鍵であります。一見、厳しい表現が用いられていますが、実は、罪と迷いの中にある羊を、教会は責任をもって、「戒規」を用いて、神さまのもとに連れ戻そうとする慈しみに満ちた配慮なのです。救いから零れ落ちないように、愛と責任をもって何とかしよう。そのためには、教会はどう責任をもって対処すべきか、その教会としての愛に基づく責任的配慮に溢れた牧会を、問答85は明確に示唆しています。どうすれば、正しい純粋な信仰による応答を導き出すことができるのか、ハイデルベルク信仰問答は大変真摯にこうした教会の牧会責任と向き合っているように思われます。そして神の愛と恵みに対して、いよいよ誠実にお応えする道は何か、正しく真実で純粋な信仰的応答とは何か、非常に真剣に探り求めるいるようにも思われます。

 

本日の説教の主題は、「感謝」です。「鍵」の務めとして一対には働く「説教と戒規」について、少し丁寧に振り返りながら、お話してまいりました。それには理由があります。実は「鍵の務め」、特に教会における「戒規」の中心に、神の愛と救いの恵みに対して、その最も真実で相応しい応答の形とはいかなる形なのか、という信仰の根本問題があるからであります。ある方は、社会や多くの人に役立つ働きをすることではないか、と考えるでありましょう。或いはまた、非力でも精一杯隣人を愛することだ、と密かに決意なさる方もおられるでありましょう。ひとりひとりの信仰による応答は、とても幅広く奥も深い、また多様であります。それほど神の恵みは豊かであって、その応答の形もまた、幾重にも広がって豊かとされている、ということではないかと思います。ましてや、新しい時代や多様な文化の営みそしてさまざまな社会形態の中で求められる、「福音の証し」は、信仰に基づいて多種多様に展開されて然るべきでありましょう。政治や経済の分野で、或いは医療や福祉の場で、そして教育や研究の働きの中で、多種多様な応答の形をいよいよ豊かに見ることができます。

 

しかしハイデルベルク信仰問答は、その応答の中核と本質を、扇の要として、明確に「神への感謝」である、と告白宣言します。先ず何よりも、どうであれ、真っ先に神の御前に立つこと、そして悔い改めの痛みと、罪の赦しの感謝と讃美を神にささげることに尽きる、というわけです。社会派か福音派か、あれかこれか、並列的な二者対立の図式ではなく、真の社会奉仕はいよいよ福音の本質によって根底から支持され導かれる、という同一本質の根源となる信仰を改めて深堀りにしています。これまで天国の鍵の役目について語ってきたのですが、より重要な問題は、鍵のもつ本来の任務であり、鍵のめざす目的にあります。繰り返し申しますが、権威主義による処分と締め出しが、「鍵」本来の目的ではありません。「鍵」本来の目的は、正しくそして力強く豊かに、わたしたちの心と生活を神に向け直すことにあります。救いに与っているのであれば、残された唯一つの応答は、心から神に感謝し讃美し、神の栄光をあらわすことになります。日々、常にキリストの十字架と復活の恵みを心から受け入れて、より真実でより深い悔い改めに導かれること、すなわち福音の認識をいよいよ確かにすることであります。そうすることで、改めて、神に対して心からより純粋に感謝とより豊かな讃美を献げることが可能となります。大切なのは、確かに救いに与っているという力強い体験と、そしてそれにふさわしく、神を正しく認識する確かな信仰に導かれるのであれば、当然ながら自然と、神の愛と恵みに相応しい成しうる限りの感謝をささげ、永遠に神を喜び讃美するほかにありません。まさに形式を遥かに超えて、本質的で真実な礼拝がそこに生まれます。

 

ハイデルベルク信仰問答86~91は「感謝」という表題のもとに信仰を言い表しています。もう少し丁寧に言い直しますと、救いの条件として善きわざが求められるのではなくて、善きわざは「感謝と讃美」の喜びから生まれ、自然と内側からその実践を求めるようになります。宗教改革で、ルータ派の教える福音の特徴として、「律法と福音」という言い方をします。つまり律法は福音に導く養育係で、律法から福音に至る道筋を示します。ところが、反対に、改革派の教える福音の特徴は、「福音と律法」という言い方をします。福音と律法の順番が逆なのです。つまり、律法から福音に至る、という救いの前提となる道筋は、変わらないのですが、福音には、その「結実」として、新しい命と生活の展開があるというのであります。神の義である救いは「善きわざの実践」や「律法の遵守」を通して自分で獲得することはできません。律法や行いによらず、ただ「キリストの犠牲」のゆえに罪は完全に償われ、その「キリストの恵み」を信仰として認めて受け入れることで救われます。これが、律法から福音への道です。しかし問題はそれで終わりません。さらに重要な問題は、そのキリストによる救いの恵みに対して、私たちはどう心を尽くしてお答えすればよいのか、という課題が残されています。それが、まさにハイデルベルク信仰問答が、信仰による応答において最も大切なこととして、「感謝」であり「讃美」です。感謝としてまた讃美として、神さまのみこころにしたがって生きれるようにしてください、という願いで祈りであります。新たに神のもとで生かされる新生の喜びをどう言い表して、神の栄光を表すかです。神の豊かな救いの中で感謝と喜びにあふれて生きる生き方は何か、それは、やはり福音に支えられて、感謝と喜びの中で、神の御心である律法に生きようとすることではないか、という点です。律法を守ることができないからと言って、神から罪人として裁かれ見捨てられてしまうのではない。なぜなら、私たちは既に、洗礼によって、キリストの血によって罪を清められ、救いの保証を戴いています。そして聖餐にあずかり、神から贖罪と復活の完全保証を戴いています。そこに求められるのは、真摯な悔い改めと救いの感謝であり、神への賛美です。そしてもう一度、神の御心に適う生き方を求める意欲と誠実な志ではないでしょうか。

問86で、「私たちは、自分のどんな悲惨からも、自分の一切の功績によらず、キリストの恵みによって、救い出されているのであれば、なぜ、私たちはなおも善き行いをなすべきなのか。」と問い、なぜ、なおも善きわざが求められるのか、すでに救いは完成したのであれば、もう他に何も必要ではなくなったはずではないか、と問うています。そして答えにおいて、「それについて(はこうです)。すでにキリストは、ご自身の血をもって犠牲を払い私たちを贖ってくださったのですから、次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通してご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます。このキリストの恩恵に対して、私たちは自らの全生涯を尽くして神に感謝を言い表し、そうして、神は私たちを通して褒め讃えられるのです。私たちは自分の信仰が確かであることをその実りから自分で確信し、神を畏れる敬虔な生活態度をもって、私たちの隣人たちをキリストのもとに勝ち取るのです。」と答えます。パウロは、コリントの信徒への手紙一6章19、20節で「6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」と教えていますが、まさに、私たちのためにキリストの血と言う代価が支払われて、キリストは、キリストの霊である聖霊を遣わして私たちの内に宿してくださり、神の神殿として新たに造り変えられるのです。

 

確かに、キリストの十字架の犠牲において、私たちは完全にキリストの血によって贖われました。この贖いは間違いのないことです。しかし神さまの愛と救いのみわざ、それで終わらずに、いよいよ続くというのです。それが、「すでにキリストは、ご自身の血をもって犠牲を払い私たちを贖ってくださった(完了形)のですから、次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通してご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます(現在形)。」という告白です。罪赦されただけではなく、私たちの人間性のすべてを、キリストと全く同じ人間性に造り変えてくださる、というのです。いわば、いよいよキリストの身体としてくださる、というのです。少々古くて堅い教理の言葉で申しますと、「聖化」と言われていたことになります。キリストによる贖いが「義認」であれば、今度はそれに次いで、聖霊による再創造として「聖化」が行われる、というのです。聖化と申しますと、少々神秘的な意味に誤解されてしまいそうですが、神の恵みをいよいよ深く知り、そしていよいよ相応しい感謝と讃美を献げる生活を通して、私たちの心も身体も神のもとにあって造り変えられてゆく、という教えです。何か、特別に儀式的で神秘的な行為を重ねるという意味ではなくて、ただ単純かつ純粋に、神が聖霊を通してくださる「恵み」をより深く知り、より豊かに数え上げて、神を喜び、相応しく感謝と讃美を神に献げるのです。こうして、わたしたちの信仰は堅固に強くされて、私たちは増々神に向けて造り変えられるのです。本当に神の恵みに与り、救われているのであれば、相応しい救いの認識が生まれ、当然ながら、感謝と讃美をささげざるを得なくなります。冒頭で申しましたように、キリストは羊の名を呼んで導くのですが、同時に羊はキリストの声と導きを聞き分け、ついてしたがってゆきます。常に心をより正確にキリストに向け直す、そうした日々の悔い改めと共に、説教と聖餐に与り、キリストの完全に償いと赦し、そして新しい復活の命の保証を戴くのであります。それを確かに受け入れ認めることができれば、そこには無限の感謝と喜びが生まれ、神を喜び、神を讃美する生活がどれほど愛おしくかけがえのないことであるか、実感として感じられるようになるはずです。しかも、そこにとどまらず、その溢れる神への感謝と讃美は、キリスト者としての新しい生活を築く、力強い原動力となるのです。