2020年11月1日 「あらゆる偶像崇拝を捨て、まことの神を拝む」 磯部理一郎 牧師

2020.11.1 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第23主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答96~98

十戒について(2)

 

 

問96 (司式者)

「第二戒において、神は何を望まれるのか。」

答え (会衆)

「私たちは、如何なる形においても、神を画像として模造してはならないこと、

すなわち、私たちは、如何なる方法においても、神がご自身のみことばで命じた以外の方法で

神を拝んではならない、ということです。」

 

 

問97 (司式者)

「では人は、如何なる画像も、造ってはならないのか。」

答え (会衆)

神は画像としてあらわされることを禁じておられ、決して望んでいません。

被造物が画像としてあらわされることは、確かに認められています。

しかし神は、人がそれらの画像を崇拝するために、或いはそれらに仕えるために、

画像を造り所有することを厳しく禁じておられます。」

 

 

問98 (司式者)

「だが、教会の信徒教育のために、画像は認められてもよいのではないか。」

答え (会衆)

「いいえ。私たちには、神を超えてさらに賢くなることなど、本来、あり得ないことです。

それゆえ、神は、誰でもご自身のものであるキリスト者に対しては、

もの言わぬ偶像によるのでなく、神ご自身のみことばによる命溢れる説教を通して

お教えになるのです。」

2020.11.1.小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第23主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解39(問答96~98)

十戒について(2)

 

説教「あらゆる偶像崇拝を捨て、まことの神を拝む」

聖書 イザヤ書45章18~25節

ヨハネによる福音書4章21~26節

 

本日の説教は、「偶像崇拝の禁止」をめぐる戒めの続きになります。前回は、偶像を造り、偶像を所有し、偶像を拝む、そうした「偶像崇拝」が生まれる根源的な原因について、偶像崇拝を生み出す人間の魂の倒錯と錯誤について、お話いたしました。創世記3章によれば、悪魔の化身である蛇は、非常に狡猾に、人間の奥深くに潜む欲望を利用して唆し、人間を誘惑しました。悪魔に誘導された人間は自ら、自分の欲望の虜となり、その結果、神と神のみことばとに背き、神の慈しみと祝福に溢れる恵み豊かな「創造の秩序」から、すなわち「エデンの園」から転落して、神と離反して、神なしに生きる選択をしてしまいます。こうして人間は、一方で神の愛と憐れみにより神のもとに創造された被造物でありながら、他方で神に背き、神なき所で、自分自身が神に成り代わって、生きようとします。神に向かう自由ではなく、罪の堕落に支配される死と滅びの世界に向かう自由を選択したのです。人間にとってとても悲劇的でまた皮肉なことは、神なしには生きれない者が、神なしに生きようとする倒錯と錯誤を魂の根源に抱えたまま、この世を彷徨い続けるのであります。こうした神なしには生きれないのに、それでもなお、神なしに生きようとする魂の倒錯と矛盾は、結局、自分の思うように、自分の欲望を満たしてくれる別の神々を偶像として自ら造り出すことになります。虚構の神を自分の手で造り上げて、自分を慰める、ということでしょうか。人間の管理下におかれた他の被造物までも、人間の自我欲求による抑圧と支配のために、「偶像崇拝」に巻き込み、神の創造秩序から奪い取り、人間支配のもとに歪め傷つけてしまうのです。言い換えますと、偶像崇拝の生まれる根源には、造り主である「唯一真の神」に背き、神から遠く離れて、神の義に生きるのではなく不義に転落して生きようとする錯誤と彷徨いがあって、偶像崇拝はそうした魂の堕落から生み出されるのであります。地球温暖化問題や環境問題、或いは生体系の破壊も皆、そうした人間の倒錯と錯誤から引き起こされる被造物全体のうめきであり、痛みではないでしょうか。

そうじた現状について、ハイデルベルク信仰問答94では「わわたしは、自分自身の魂が永遠の救いと祝福を失う危機に瀕している」と告白しています。原典の直訳では、「救いと祝福の喪失のただ中にある」と告白していました。単に自分だけの魂における救いと祝福を失うだけではなくて、被造物全体をも巻き込み、深く痛め傷つけているのです。だからこそ、一刻も早く「偶像崇拝」を捨て去り、「唯一真(まこと)なる神を正しく知りただ神にのみ依り頼み、あらゆる謙遜と忍耐のうちに、良きことはすべてただ神より待ち望み、全身全霊を尽くして神を愛し畏れ敬うのでなければならない」のであります。しかも「わたしは、どんな些細なことにおいても、神のみ心に背く行いをしないうちに、それに先立って、被造物はすべて(神に)委ねて明け渡す」ことで、人間自身を含めて被造物全体を、完全に造り主である神の秩序のもとにお返しする、という本来の魂と存在の在り方を神の義が貫かれた創造の秩序に、立ち帰り、明け渡す、という悔い改めが求められるのです。

 

このように魂の根源に錯誤と倒錯を抱え込んだ人間から生じる偶像崇拝に対して、神は十戒の第一戒で「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と命じ、次いで第二戒で「あなたは、きざんだ像を造ってそれらに向かってひれ伏したりそれらに仕えたりしてはならない」と命じます。これを受けて、ハイデルベルク信仰問答96は「第二戒において、神は何を望まれるのか。」と問い、「私たちは、如何なる形においても、神を画像として模造してはならないこと、すなわち、私たちは、如何なる方法においても、神がご自身のみことばで命じた以外の方法で神を拝んではならない」と先天告白します。神から遠く離れ、神に背く人類に対して、神は、モーセとその十戒を通して、神ご自身から「唯一真の神」であると啓示して告知なさったのであります。神以外に神はなく、神以外の神は存在しないこと教えたのです。次いで第二の戒として、「偶像崇拝の禁止」を命じます。この第二戒の「像にひれ伏し仕える」という偶像礼拝の禁止について、問答96の答えは、とても意味深い信仰認識を示します。それは「偶像崇拝を生み出す根源は、人間の魂における悲劇的な倒錯錯誤であり、神なしに生きれない者が、偶像を神に代えてまでも、神なしに生きようとする背きでした。ではその反対に、「唯一の真の神の礼拝を成立される根拠は、何であり、どこにあるのか、という礼拝本来の根拠について、この問答は示唆しています。それは、すなわち「神がご自身のみことばで命じた」礼拝である、と宣言します。真実の神を、まさに「唯一真の神」として、正しく知り、相応しく礼拝することができる、真の礼拝を成立させる場、その根拠とは、問答96によれば、ただ神ご自身が語るみことばにある、というのであります。神ご自身がそこにおられ、神がご自身のみことばをもって語る、その生きた神のみことばにおいて、初めて私たちは「唯一真の神」を知り、神のみ言葉において礼拝することができるのです。すなわち、神がみことばを通して現臨しみことばを語ることを通して神は救いのみわざを宣言し保証されるのです。まさに神の語る福音のみことばにおいて、真の神を礼拝する場が生まれ、そこに礼拝が成立する根拠が与えられるのです。神ご自身がおられ神ご自身がお語りくださる、その活ける神ご自身のみことばがそこになければ、人は神を拝むことができないのです。そうした神の現存現臨と活ける神のみことばを失った所で、すなわち神を喪失した所で、神を拝もうとすれば、それは直ちに「偶像」を拝むことになるのであります。

こうした現象は、決して「異教」の中だけで、起こることではありません。私たち教会の中でも、実は始終引き起こされることでもあります。教会や礼拝の場において、正しい意味で「神のみことば」を喪失した所では、或いは、信仰において「神のみことば」が正しく貫かれず曖昧になる所では、常に人間の手によって神以外のものを「偶像」として崇拝することになります。教会の中にこそ常に「偶像崇拝」はあり続けることになります。問題は二つ喪失にあります。一つは、生ける神のみことばそのものの喪失であり、もう一つは、神のみことばを聞く者の信仰における正しい神認識の喪失です。神のみことばが語られず、人間の言葉が語られることであり、神のみことばが語られているのに、神のみことばを聴き分けることができなくなることであります。神のみことばの喪失という視点から言えば、「如何なる方法においても、神がご自身のみことばで命じた以外の方法で神を拝んではならない」ということになるでありましょうし、信仰の喪失という視点から言えば、「唯一真(まこと)なる神を正しく知りただ神にのみ依り頼み、あらゆる謙遜と忍耐のうちに、良きことはすべてただ神より待ち望み、全身全霊を尽くして神を愛し畏れ敬う」ということになります。唯一真の神を正しく認識しないまま、教会生活や礼拝をすれば、当然ながら、神を喪失した状況で神を拝むことになりますから、真理を照らす光のない暗闇の中で、いわば空虚で偽りの中に、神を拝むことになりますから、本質的に神を正しく礼拝することはできず、結果として教会の中で神ではないものを拝み始めることになります。聖書のみことばが正しく語られ、また福音として相応しく聞き分けられる信仰は、真の神を礼拝することで、決定的な意味を持ちます。礼拝の成り立つ根拠は、「神」ご自身の現臨であり、ご自身の「みことば」であり、そしてみことばを通して実現する「神のみわざ」にあります。だからこそ、「神がご自身のみことばで命じる方法以外の方法では」神を正しく礼拝することはできないのであります。教会は、キリストを頭とするキリストの身体である、という重大な出来事の中心で、教会の頭であるキリストは、天地を貫いて現臨し、ご自身の命溢れるみことばを語り、人々の罪を赦し、永遠の命を約束し保証して、私たちを所謂神の国へと導くのです。

 

もう一つ、さらに意味深い示唆が今日の問答にあります。それは、問答97で「神は画像としてあらわされることを禁じておられ、決して望んでいません。被造物が画像としてあらわされることは、確かに認められています。しかし神は、人がそれらの画像を崇拝するために、或いはそれらに仕えるために、画像を造り所有することを厳しく禁じておられます。」と改めて偶像崇拝の禁止を確認したうえで、それに続いて、問答98では「だが、教会の信徒教育のために、画像は認められてもよいのではないか。」と問い、「いいえ。私たちには、神を超えてさらに賢くなることなど、本来、あり得ないことです。それゆえ、神は、誰でもご自身のものであるキリスト者に対しては、もの言わぬ偶像によるのでなく、神ご自身のみことばによる命溢れる説教を通してお教えになるのです。」と告白します。

皆さんも周知の通り、世界中のキリスト教会には、数えきれない程の画像で溢れています。キリスト教会は、伝統的に原則として「画像禁止」はしていないからです。一時期ビザンチン帝国の皇帝のもとで、突如、東方正教会は「画像禁止令」が発布し、多くの画像が破壊したことがありました。その背景にはイスラム教の影響があったと言われています。こうした画像禁止に対して西方教会は強く反対し、東方正教会と絶縁して対抗しました。それほど、キリスト教会において画像が担う意義は大きかったのです。それには、二つの理由と背景があります。一つは、キリスト教の福音の本質から生じる理由であり、もう一つは、宣教活動の実践から生じる理由からです。画像が用いられる、福音の本質から来る根拠と理由は、キリストの「受肉」です。見えない神は、人間として処女マリアから肉体をもって生まれて、イエスと名付けられ、実際に多くの人々と寝食を共にして、十字架において肉を裂き血を流して死に、三日目には同じ肉体をもって復活されました。その肉体をもったキリストの十字架と復活に、人類救済の福音の本質があるからです。神は、キリストという肉体とお姿のただ中に、ご自身を啓示されたのです。そのキリストの十字架と復活のお姿を鮮やかに伝えたのです。もう一つの、伝道するための実践的理由とは、言語だけによる宣教の限界性です。何と言っても、「聖書」は非常に貴重で、物理的にもその存在は限られていたからです。一般に「聖書を読む」ことは有りえなことでした。ましてや貧しい民衆が聖書を読むことなど、考えられませんでした。畢竟「画像」を用いて、福音の喜びを伝えることが、最も有効で有益な方法だったのです。聖書はギリシャ語であり、ラテン語です。旧約聖書の原典は不確定のままでした。そうした中で、キリストとその福音を、世界に広がる多種多様な言語と民族に宣べ伝えることは非常に困難であったと思われます。当然ながら、同じ言葉でも、言い伝えが混同され、そこには迷信や誤解まで生じかねなかったはずです。反対に、目に見える画像は、どんな民衆に対しても、多種多様な言語や文化を超えて、鮮明かつ雄弁にそして分かり易く、主イエスの十字架と復活を物語ることができたはずです。そうした事情を、問答98の問いは、「だが、教会の信徒教育のために、画像は認められてもよいのではないか。」という表現により、たいへんよく表しているのではないでしょうか。

ところが、ルターやカルヴァンの時代になると、グーテンベルクにより活版印刷機が発明され、「聖書」をどこでも手に取って読めるようになります。それどころか、英語やドイツ語、或いはフランス語のように、それぞれの地域や民族の言葉である、「母語」や「国語」に翻訳されるようになります。言い伝えや画像に頼らずに、神が語られた神ご自身のみことばそのものを「聖書」から聞くことができるようになったのです。こうして民衆は、まことの神の言葉である聖書を右手にそして国語を左手に、生きた活力ある神の言葉を直接手に入れたのです。昨日は宗教改革記念日でしたが、宗教改革の背景には、こうした「聖書」による神の言葉の回復がありました。「聖書」からそのまま神の言葉が、其々の心に染み入る国語で説教さるようになったのです。生きたみ言葉を聞く、また聖書を共に囲んで学び合い、信仰について語り合うことができるようになりました。そうした中で、宗教改革は始められ、推し進められたわけです。宗教改革者ルターは死ぬまで聖書の講義を続け、時には居酒屋でも聖書のみことばを大いに語ったそうです。「宗教」改革は、何と言っても「礼拝」改革にその本質がありますが、まさに言い伝えや迷信そして画像を頼り、唯一まことの神を礼拝する時代はついに終わり、生ける神が「聖書」を通して直接に語りかける、神ご自身のみことばによって、真の神を礼拝するときがついに到来したのであります。

 

問答98は「神ご自身のみことばによる命溢れる説教を通してお教えになる」と宣言します。これには、三つのキーワードがあります。一つは「神ご自身のみ言葉による」、二つ目は「命溢れる」、そして三つ目は「説教」です。ルターを宗教改革へと押し出した最も力強い源泉が、実はここに受け継がれています。それは、みことばにおける、啓示の神ご自身の現存であり、そしてそこに働く力あるみわざです。まさに、生ける神のみことばによる命溢れる説教によって、福音は告げ知らされ、人々の罪の赦しは実現するからであります。万物を無から創造する神は、永遠に今もここに力強く生きて働いておられる。その神が息吹をもって神の言葉を発するのです。そうです。あの創世記一章一節の「『光あれ。』こうして光があった」。この無から創造を引き起こす神の言葉であります。この神の息吹あふれるみことばに出会う場所が礼拝であります。そして実際に、みことばにおいて、私たちは、神と出会うのです。神の言葉は神の語りかけであり、神と共に永遠であります。その神の言葉の中に立ち、神のみわざに与り、神と出会うのです。神の創造の力がその中枢において現れ出す場所、それがみ言葉における神の語りかけであります。この神の息吹と語りかける言葉のもとに、神の救いは現実に引き起こされ実現します。「あなたの罪は赦された」と神ご自身がみことばにおいて宣言されるのです。この神ご自身が語られたみことばは、福音の説教を通して、命溢れる救いの宣言のことばとなって、天地を貫いて響き渡ります。そこに礼拝の根拠があり、そこに救いが生まれ、そこに感謝と喜びが生まれます。ルターにとっては、そのすべてが「神のことば」であり、そうした神の言葉は、神のわざそのものであり、具体的な神の行動そのものを意味したのではないでしょうか。そうしたルターの神のことばを、ハイデルベルク信仰問答はここで力強く受け継いでいるように思うのです。やがて、カルヴァンもそして現代ではカール・バルトも、この神の言葉の神学に、それぞれの神学的根源を見出したのではないかと思います。

 

ヨハネによる福音書4章で、主イエスはサマリアの女に「4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と語りかけます。イエスさまは、このご自身のみ言葉を通して、彼女を真の礼拝へと招きます。そうしてついに女は「4:25 女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』4:26 イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである。』」と、真の神を礼拝する礼拝者となります。女は、実際にみことばをもって自分に語りかけるキリストの中に、真の神を発見したのであります。もの言わぬ偶像ではなく、福音にあふれたみことばをもって語りかける神とついに出会ったのであります。

 

これから聖餐に与りますが、聖餐の根拠となる重要要素は、聖餐の「制定語」です。キリストが聖霊を通して現臨して語りかける、キリストご自身のみことばです。それは子なる神が、命の息吹を尽くして、しかもご自身の身体と存在を尽くして、語りかける新しい創造のための神の言葉であります。パウロの聖餐制定語で、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これはあなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」と、キリストご自身が弟子たちを招いて語りかけます。是非ご注目いただきたい言葉は「これは、あなたがたのためのわたしの体である」という11章24節の言葉と、「主の死を告げ知らせる」という11章26節の言葉です。パンとぶどう酒に与る人々は皆、主の死に与るのです。主の死は十字架の犠牲であり罪を完全に償うキリストの犠牲の恵みであります。そしてその死に与ることで、贖罪が実現して私たちの罪は完全に赦され新しい命へと復活します。この出来事の中心に、天地を貫いて響き渡る、神のみことばがあり、そのみ言葉の背後には、受肉の神であり、ロゴスであるキリストが現存しておられるのです。エゼキエルの預言の通り、主のみことばは、枯れた骨に息吹と命を与え、死からの復活を引き起こすのです。