2021年11月14日「わたしは世の光である」 磯部理一郎 牧師

 

  1. 11. 14 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第26主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教24

説教「わたしは世の光である」

聖書 申命記17章8~13節

ヨハネによる福音書8章12~30節

 

聖書

8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光であるわたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」8:13 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」8:14 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。8:15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。8:16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。8:17 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。8:18 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」8:19 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」8:20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

 

8:21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所にあなたたちは来ることができない。」8:22 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。8:24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」8:25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。8:26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」8:27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」8:30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

 

 

説教

はじめに. 主イエスにおける「神」の本質を告知する

本日の説教は、ヨハネによる福音書8章12~30節の解き明かしとなります。新共同聖書では、12節から20節の段落と、21節から30節の段落は段落が区切られ、前者には「イエスは世の光」、後者には「わたしの行く所にはあなたたちは来ることができない」というように、其々に小見出しが付けられております。今日はこの二つの段落を一気に読むことになります。と申しますのは、今日のこの二つの段落は共に、主イエスご自身から、主イエスとはいったい誰なのか、という主イエスの「神」としての本質を明らかに証ししている所であります。そう申しますと、実は、ヨハネによる福音書は全体がその何処を取っても、主イエスにおける「神」の本質を語り啓示していますので、特別にこの二つだけを取りあげる、ということではないかもしれません。しかし、前に、主イエスご自身の本当のお姿について触れましたように、いよいよ本格的に主イエスにおける「神」の本質を告知してゆくことにからであります。併せて、私たち人間の「本質」と罪についても言及されることになります。

 

1.「自分について証しをする」

本日の聖書テキストは13節で「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」とユダヤ人たちは非難します。ユダヤ人たちの嘘だとする非難に対して、主イエスは14節で「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。」と応答します。つまり、イエスとはいったい誰なのか、という主イエスの本質をめぐり、ユダヤ人との間で論争になってしまったのです。主イエスは、確かにご自身がヨセフという大工の子であり人の子として世に生まれましたが、しかし主イエスのもう一つの隠された本性本質は「神」の子であり、その真相は、ご自身のうちに「人」と「神」との二つの本性が一体になった受肉の「神」であります。神である父がわたしを遣わされたのである、と主イエスは自ら語り、ご自身について証しをなさいました。しかしそれはユダヤ人には到底信じ難い理解できない話でした。前にもお話したように、人々は主イエスにおける「神」に躓いたのです。したがって人々は唯一真の神の啓示に躓いたことになります。主イエスが自分について証しをすればするほど、即ち主イエスにおいて真の神の姿が啓示されればされるほど、人々はその神に躓き、その結果いよいよ激しい憎悪を増幅させてしまい、深刻な論争となって展開してしまったのです。13節でユダヤ人たちは、イエスが「神」であり「神の子」であって、神はイエスを遣わした、というのは真実だとは到底認められることではなく、主イエスを断罪し裁こうとします。

それに対して、主イエスは自分から語っているのではなく、「神」ご自身が自分について証言しているのであるから、わたしについての証言は真実である、と主張します。先ほども申しましたように、本日のみことばの決定的な問題は、イエスの本質本性は何か、という根本的な神の啓示を人間は理解することができない、ということです。ユダヤ人たちは、イエスの本性は「神」であるはずない、「大工ヨセフの子」にすぎないではないかと決め付け、イエスは神を語り神を冒涜する者だ、と断罪し裁こうとします。さらに主イエスは、ご自身が「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」と反論します。主イエスはこう説いて、ご自身の本質がどこから来てどこにあるか、即ちこの地上の世界を超越した「神」にある、というご自身の「神性」をより明白にお示しになられます。

こうした議論を振り返りますと、主イエスは同じように3章5節以下でもニコデモにこう教えていました。「3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」と教えていました。救いや真の命は、ただ「神」によるのでなれば、人は決して得ることのできないことであります。そんな単純なことなのに、人は「神」を認めることはできないのです。自分の世界から神を排除して考えようとするので、結局、理解できなくなり、躓くことになります。自分の生まれと存在の根元が「霊」から生まれ「霊の本質」によるのか、それとも「肉」から生まれ「肉の本質」だけに終わる本質なのか、ニコデモにもう一度考え直すように「問い」を与えつつ、彼の心を「肉」にではなく「霊」に向け直して考えるように勧めました。決して肉や物質の意義を否定しているわけではないのです。ただ、肉を創造し肉を活かすのは「神」であり、神の「霊」である、という基本原理に立つのでなければ、結局は肉に終始して、物だけに埋没してしまい、本当の真実に至ることはできなくなってしまうからです。肉はもとより、あらゆる物質の全てが、「霊」の働きによって、生まれ存在し活かされている、というのが万物の真相だからです。神(造り主)は、霊(聖霊)の働きと言(御子)の知恵と力によって、「光あれ」と言われ、万物の創造を開始されたことを思い起こします。存在の根源となる本質を「肉」に属するものとするのか、それとも「霊」に属するものとするのか、それによって、「どこから来てどこへ行くのか」、全ての運命は完全に違って来るからです。人生は、肉か霊かの所属によって、完全に決定します。考え方も、何が喜びであり悲しみであるのかその評価も、そして何が希望となり何が絶望となるのか、最終的には「人格」として人生を生きる上で、その本当の質「クオリティ・オブ・ライフ」において、お金や物などの肉に頼るのか、それとも根本においては「神」に求めようとするのか、この根本的な選択と決断によって、人生の本質が大きく変わって来ます。主イエスは、ニコデモに、水と霊とによって新しく生まれて生きる選択を求めたわけですが、残念なことに、その時のニコデモにはその教えの意味が理解出来ませんでした。「律法」の文字に従って生きることは知っていましたが、に本当の意味において、自分の前に現臨して生きて働く「神」において生きる、ということをまだ知らなかったからです。

 

2.「わたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいる」

主イエスは、ご自身について、さらに別の表現でこうも証ししています。「8:16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなくわたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」と仰せになり、「裁く」ということと「父と共にいる」という二つのことを結び合わせて、ご自身の証しを立てておられます。言い換えれば、「父」と「子」とが、主イエスにおいて、「一体の神」となって民を裁くのである、という意味になります。共観福音書は、主として父なる神が裁く、という表現で貫かれているように思われますが、ヨハネ福音書では、父と子が一体の神として裁き主となる、否、父は子に裁きの全権を委託した、と証言します。したがって主イエスによる神としての裁きは真実であり、真の権威がある、と示されたのです。当たり前のことですが、父と子であれば、同じ「神」であり、同じ「神」が人を審判し裁くのであります。祭司長や律法学者たちが、どれほど律法を知っていても、律法は律法にすぎません。あくまでも律法に基づいて人を裁くことができるのは、人ではなくて「神」であります。ユダヤ人たちは、余りにおあたり前で基本的な考え違いですが、余りにも大きな見当違いをしていたのです。あたかも律法を拠り所にすれば、自分たちが人を審判して裁くことが出来るかのように、思い上がっていたようです。しかし本当に裁く権威と力がある裁き主は「神」ただ独りしかおられないはずです。その裁きを行いうる唯一の神として、今ここに「わたしがある」と宣言したのです。しかも「父」も「子」と共に「神」として主イエスにおいて現臨しておられるのである、と告知されるのです。

キリスト教会の中でも、こうしたユダヤ律法主義者たちと酷似するような思い上がり、思い違いをすることがしばしばあるようです。恰も自分たちが他者を審判して裁くことができるかのように誤解して、他者をいとも簡単に選別したり、排除したり、裁いてしまうのです。教会や宗教団体の中で人事権や一定の役職のもとに影響力を行使できる立場に就くと、すぐにそういう勘違いをし始めるのです。大変愚しいことです。しかしその一方で、真の裁き主であられる「神」は、それでもそこに確かにそして厳かに現臨し、生きて働いておられるのです。それなのにそこで、真の神を押しのけてしまい、自分が裁き主のように振る舞い、教会や兄弟姉妹を右左しようとすれば、その愚行は結局は破綻に尽きることになります。それどころか、自分に裁きを招くことになるのではないでしょうか。どのような立場であれ、だれであれ、すべての人々の前に、神は審判者として現臨しておられるのです。教会の混乱や破壊、衰退は、そうした深刻な思い上がりと思い違いから生じているように思われます。結果として、教会は偽善や利害によって支配されてしまうのです。それはまさにユダヤ人たちの前に、「わたしはある」という名の神が主イエスにおいて現臨して、みことばを語り続けておられるのに、自分たちが律法を用いる審判者となって「神」を押しのけて、多くの同胞たちを愛によらず利害や欲求によって罪人にしてしまい、裁き続けるようなものでありましょう。ユダヤの社会構造も、教会の社会構造も、人の肉によるものなのか、それとも神のご主権に基づく霊の支配によるものなのか、ここはしっかり見抜き、見極めてゆく霊的な信仰がいよいよ求められる所ではないでしょうか。あくまで真の裁き主は、「主イエス・キリスト」お独りだけ、であります。「人」ではないのです。「8:15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。8:16 しかし、もしわたしが裁くとすればわたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」と仰せの通り、肉に従って裁くのではなく、裁きはあくまでも「神」が裁くのであります。

 

3.「わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」

このように、主イエスのご自分についての証しとその自己啓示によれば、「わたし」をお遣わしになった「神」は、わたし」と共におられる。つまり「神」はわたしを遣わしわたしと共におり、しかもわたしと共におられるその「神ご自身の現臨」それ自体によって、「わたし」の本質を証してくださっている、というのです。すべては「わたし」における「神」が行っておられることなのす。言わば、びっくり箱のように、あたかも主イエスご自身の中から「神」ご自身が飛び出して来るように、主イエスのすべてを「神」が証ししてお示しくださるのです。しかも「神」は、決して主イエスから離れることなくイエスにおいて一体であり、主イエスにおいて「神」そのものを証ししている、というのであります。

実は、この段落の冒頭の8章12節で、主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と仰せになりました。本日の説教題はこのみことばによるものでありますが、このみことばには、二つの決定的な「救いの道筋」がはっきりと宣言されています。一つは、前半のみことばで「わたしは世の光である。」という主イエスご自身についての証です。救いの真理は、ただ主イエス・キリストお独りにおいてのみ、明らか啓示されしかも実現する、という救い主をめぐる証しです。もう一つは、後半のみことばで「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言われていますように、イエスさまお独りが救い主であるから、したがってイエスさまを信じて受け入れ、そのみことばに聴き従う信仰者たちだけが救われる、という救いの道筋です。

先ず「わたしは世の光である」とは、イエス・キリストおいて「神」ご自身が共におられ、主イエスにおける「神」ご自身が、主イエスだれであるかを証しされ、世に対しては主イエスにおいて隠された神の真理を明かにされる啓示の光となって、世の人々の魂を照らすのです。もう少し聖書原典の用語に忠実に申しますと、「わたしはある 世の光(VEgw, eivmi to. fw/j tou/ ko,smou)」と書かれています。つまり「わたしはある(エゴーエイミ)」という言葉と、「世の光」という二つの言葉とが結合されて成立した表現になっています。「わたしはある」とは、前の説教で触れました出エジプト記3章で、<3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」3:14 神はモーセに、「わたしはあるわたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはあるという方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。>とありますように、神がモーセにご自身を啓示されたときに、神ご自身が名のり、神ご自身を表された神のお名前です。この「わたしはある」という言葉を、ヘブライ語の「ハイヤー」という字を、ギリシャ語の七十人訳旧約聖書では「エゴー・エイミ」という字で訳し、ヨハネによれば、主イエスはその神の名「わたしはある」をそのままご自身に用いられたのです。ですから、このヨハネ8章12節の「わたしはある、世の光」という言葉には、二重の意味が表されています。一つは、主イエスは「神」である、ということと、もう一つは、その主イエスにおける「神」が真の命と真理を照らす「世の光」としてこの世に遣わされた、ということを意味します。したがって「わたしは世の光である」とは、実は主イエスにおける「神」ご自身が、父なる神と一体となって、生きて働く「神」を啓示し、かつ主イエスについて証しするという意味であり、同じ主イエスご自身の真相を明らかにする啓示の言葉と言えます。そしてその主と主の啓示を認めて、信じて受け入れることにより、私たち世の者もまた、真理をうちに持つことができる、ということになります。

主イエスは、も―セに「わたしはある(エゴー・エイミ)」という名でご自身を啓示した「神」と同じ神であり、「わたしはある(エゴー・エイミ)」とモーセにご自身を啓示した「神」は、今度は、主イエスご自身において世の人々に「神」を啓示しているのです。

 

4.「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」

主イエスご自身についての証しのみことばは、21節以下になりますと、いよいよ究極の自己啓示のみことばとなって展開します。まず21節以下で繰り返しこう言われます。  8:21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになるわたしの行く所にあなたたちは来ることができない。」8:22 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している(~Umei/j evk tw/n ka,tw evste,( evgw. evk tw/n a;nw eivmi,)。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない(u`mei/j evk tou,tou tou/ ko,smou evste,( evgw. ouvk eivmi. evk tou/ ko,smou tou,tou)。8:24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。「下のものに属している」(~Umei/j evk tw/n ka,tw evste,)とは、下のものから生まれた存在であり、ニコデモの話と同じことで、肉に属することをと言い、そして「上のものに属している」(evgw. evk tw/n a;nw eivmi)とは、天上から生まれた者であり、神の霊に属することを意味します。本来はすべてが「霊」によって生まれ存在し生かされているはずなのに、霊から離反して、背きの罪に支配された肉は、霊からの根元的な恵みによる支えを失い、罪の支配により滅びと消滅の死を迎えるのであります。神から離反した所で、人は決して存在することも生きることもできないのです。人は神の霊のもとで、初めて安定した存在と平安と安息に満ちた魂に憩うことができるのです。文字通り霊の恵みにより、安心の命と存在を得ることができるのです。

ここでも主イエスは、「わたしはある(エゴ・エイミ)」という神の名をもって、ご自身についての証しとしています。24節で、<『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる(eva.n ga.r mh. pisteu,shte o[ti evgw, eivmi( avpoqanei/sqe evn tai/j a`marti,aij u`mw/n)。」8:25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。8:26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを世に向かって話している。」8:27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」8:30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。>と語り、主イエスは、十字架における生贄として贖罪の死を遂げて、栄光の満ちた復活をもって、神のみことへと栄光の帰還を果たされることを予告しています。しかし人々はまだこの意味は理解できませんでした。つまり主イエスにおける神の啓示を受け入れない限り、また主イエスにおける完全な審判を認めない限り、十字架の死による罪の赦しに与ることはできず、罪のうちに死ぬことになる、と主イエスは人々に言明しています。原典に即して言いますと、そうでないと、罪の中でこれからいよいよ死んでゆくのだ(avpoqnh,|skw avpoqanei/sqe)という意味になります。

ここには、私たち信仰者が信仰生活において意識的に覚えておくべき意義深い態度が、教えられています。それは、言い方は少々不敬ながら、主イエスにおいて現臨し生きて働く「神」と、十字架に苦しみ殺され復活した主イエスの「肉体」と、そして主が語られた「みことば」とは、「神」も「肉体」も「言葉」も、それらは皆全て「一体存在」のように「串刺し」になって、私たちの前に生きて現臨し力あるわざをもって働いておられる、ということです。つまり私たちは、決して空を打つような言葉の前に座っているわけではない、ということです。なぜなら「みことば」に直結して十字架と復活の「お身体」があり「神」が同時に現臨するからであります。聖書が朗読され、聖霊の光のもとに、聖書のみことばが解き明かされるとき、そこには十字架と復活の主のお身体も、しかも主イエスにおける「神」も、串刺しにするように一体存在となって、現臨し、臨んでおられる、というリアリティーを私たち信仰において日々深く覚えるべきであります。それはまさに聖霊の導きと信仰によるリアリティーでありますが、しかしこの上なき「神のリアリティー」であります。みことばと呼ばれる聖餐と説教の背後に主イエスは十字架と復活のお身体をもって現臨され、その主において「神」は審判者であり、罪を完全に赦す愛の神としていまし給うのであります。主イエス・キリストにおける「わたしはある」とはそういうことではないでしょうか。

さらに加えて申し上げますと、東方正教会の伝統神学に、「ペリコレーシス」という教理がありますが、それが西方教会に入ると、circumincessioという教理になりました。これは、父と子と聖霊という三位一体の神が、相互にかつ永遠に内在し交流し合うという教理です。ヨハネによれば、主イエスご自身における「神」は、常に同時に父においても子においてもそして聖霊においても、永遠にそして常に「神」として相互に内在しておられる、というのです。少々思弁的で難しく聞こえる教理かも知れませんが、そういう風に、神は聖書を通してまた教会の信仰や祈りの生活を通してご自身を啓示し、教会はまた、その神の啓示を伝統的な祈りの体験を通して理解し認識し、常に時を貫いて御前に現臨し生きて働く「神」との命の交わりに与り、永遠の命をいただいて来たのではないでしょうか。