2021年4月25日「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」 磯部理一郎 牧師

2021.4.25 小金井西ノ台教会 復活第4主日

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答125

「主の祈り」(4)

 

 

問125 (司式者)

「第四の祈願は何か。」

答え  (会衆)

「『われらの日用の糧を今日も与えたまえ』です。

それは、身体に必要なものはすべて、私たちにお与えください、ということです。

すなわち、私たちが、それによって、あなたこそ善きものすべての唯一の源であり、

あなたの祝福がなければ、私たちの気遣いや労苦もあなたの賜物さえも、

私たちに繁栄をもたすことはない、ということを知り、

私たちが、あらゆる被造物から私たちの信頼を取り除き、

ただあなただけに、私たちの信頼を置くようにしてください(という祈願です)。」

 

2021.4.25 小金井西ノ台教会 復活第4主日

『ハイデルベルク信仰問答』問答125

ハイデルベルク信仰問答講解説教64

説教 「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」

聖書 詩編145編1~21節

マタイによる福音書4章1~4節

ヨハネによる福音書6章22~59節

 

はじめに. 「人のこと」と「神のこと」

「主の祈り」は、本日より「神のこと」を祈り求める祈りから世にある「人間のこと」に、即ち「パン」のこと、「負債」のこと、そして「誘惑」についてと、祈りの主題は変わります。「主の祈り」の形式は、確かに外見上は前半の三つが「神のこと」、後半の三つが「人間のこと」と分類されますが、決して誤解しないようにしていただきたいのは、「人間のこと」の祈りだからと言って「神のこと」を中心に祈るのではなく、人間のことを中心に祈る、というわけでは決してない、ということです。人間やこの世のことを深く覚え、思いを深くすればするほど、私たちの祈りは、益々「神のこと」に集中してゆくからです。本当の意味で、人のことをより確かにそして豊かに覚える、ということは、実は、いよいよ神をより深く覚えることにかかっているのです。神を確かに知ることにより、人の本当の幸いも確かとなるのです。

ハイデルベルク信仰問答125は、本日の第四の祈り即ち「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」について、「第四の祈願は何か。」と問いまして、答えで「『われらの日用の糧を今日も与えたまえ』です。それは、身体に必要なものはすべて、私たちにお与えください、ということです。すなわち、私たちが、それによって、あなたこそ善きものすべての唯一の源であり、あなたの祝福がなければ、私たちの気遣いや労苦もあなたの賜物さえも、

私たちに繁栄をもたすことはない、ということを知り、私たちが、あらゆる被造物から私たちの信頼を取り除き、

ただあなただけに私たちの信頼を置くようにしてください(という祈願です)」と答えます。ここで、是非しっかり注目しておきたい点は、はっきりと、地上のものにではなく、ただ神お独りに信頼を向ける、ということに私たちの心と祈りの焦点を絞り込んでいます。最初に、善きものすべての唯一の源は神である、次いで、どんな大きな労苦も恵みも、神の祝福のない所では決して繁栄をもたらすことはない、したがって、あらゆる被造物から信頼を取り除き、ただあなただけに私たちの信頼をおくようにしてください、と嘆願しています。つまり、日々の糧を人々が祈り求めることは、ただ神だけを信じて、神のことだけを覚える、ということをなる、というのです。つまり、日々の糧は、ただ神のみから与えられ、しかも繁栄成長に至る賜物はただ神のみによるものである、ということになります。

冒頭で誤解をしないようにと申しましたが、その意図は、多くの場合、肉体やこの世の生活に必要なものは皆、この世から、この世の人々から与えられ得られるものであって、いわば「人」からでないと得ることができない、と多くの方々が考えているからです。仕事がなければ生活できない、仕事を得るには何をしなければならないか、どこに行って誰に頼めばよいか、そのためには・・・と、そう考えますと、学歴や職業であったり、お金や権力であったりと、私たちの思いは益々この世の力に心を奪われてゆきます。今のこどもたちに学校で、何が一番必要か、と尋ねると、多くのこどもたちが、即座に「お金」と声高々に答えます。人はどんどん神から離れ、益々この世の虜となってしまいます。「肉体に必要なもの」となると、やはり医療や介護であり、まずはその蓄えを求めることになります。人間が造り、人間が与え、人間が守ってくれる、生活に必要なものはすべてこの世に求めるしかない、と考えてしまうのです。そこで実生活の本音では、神は幻想であり、絵空事でおとぎ話になってしまうのです。現実の世界に、神はいないのです。ただこの世に行き詰まるや否や、途端に宗教や占いへと走り出す、というわけであります。

 

1.日毎の糧を「今日も」「明日も」そして「毎日」お与えください

マタイとルカとの比較表をご参照いただきますと、マタイは「必要な糧を今日与えてください」(6:11)となっています。ほかの邦訳聖書を比較しますと、「口語訳:わたしたちの日ごとの食物をきょうもお与えください。新改訳改訂3:私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」という訳になります。原典ではルカは「必要な糧を毎日与えてください」(11:3)となっています。ほかの邦訳聖書は「口語訳:わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。新改訳改訂3:私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」と訳しています。マタイの「今日」(sh,meron:sh,meron)と、ルカの「毎日」(kata, kaqV 毎に+ h`me,ra h`me,ran 日、昼、時)とでは、少々意味が異なります。私たちの主の祈りでは、「今日も」与えたまえ、と祈っていますので、マタイのものになります。ハイデルベルク信仰問答も「今日 heute」となっています。興味深い訳には「わたしたちに今日明日のためにわたしたちのパンを与えて下さい」(E・シュヴァイツァー(佐竹明訳)『NTD新約聖書註解マタイによる福音書』1978, 178頁)という訳もあります。つまり、生きるために、日々必要となる食卓を「今日も」そして明日も、「日々毎日」私たちにお与えください、と神に求める祈りです。こうした些細な用語からも、私たち人類が生存するためには、どれほど日々のパンと食卓が重要であり必要なのか、それを主イエスはとても深く理解しておられたことがよく分かります。決して主イエスは、世にある私たちの日毎のパンを軽んじることはなかった、とむしろ強く言わなければなりません。

 

2.命の主権者は神である「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」

人類は、生存するために、命のために、パンを食べ続けることを余儀なくされました。パンは、人類の繁栄ところか、生存そのものを決定づけたのです。そして人類は、食べるために狩猟活動を行い農耕を生み出し、それによって、人類には社会や文化が生まれ、ついに文明社会が歴史に登場します。文明社会とは人類の総力を挙げて作り上げた「パン」を得るための大仕掛けな仕組みである、と言えましょう。今もその基本は全く変わりありません。人類はパンを求め、パンのために文明社会を築いて来たのです。パンを得るための文明社会は、まさに価値ある意義ある偉業でありました。しかし人類はパンのために文明を築くと同時に、またパンのためにその文明を激しく破壊し続けて来たことも事実です。パンのために戦争と掠奪が繰り返され、大量殺戮が行われ、科学文明の総力を尽くして殺し合って来たことも否めない事実であります。「原子爆弾」は正にその象徴です。パンを得るための文明という仕掛けは、常にその背後で、殺戮の道具でもありました。これは、命とパンのために、築かれた文明社会の致命的な大矛盾であり、ここに人類の根源的な悲惨と罪とを見出すことができます。

最近、年を取るにつれて、近づく「死」について、よく考えるようになりました。すると、いつも決まって主イエスのみことばを想い起します。それはルカ福音書の譬えの説教です。ルカ12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建てそこに穀物や財産をみなしまい、12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 12:20 しかし神は、『愚かな者よ今夜お前の命は取り上げられるお前が用意した物はいったいだれのものになるのか』と言われた。」(ルカ12:16~20)という譬え話です。このイエスさまの説教により、私たちはある重大で決定的な事実に、目を覚まさせられるのです。パンを日々得るために、そうした悲惨を背負い続ける人類に対して、主イエスは、ついに譬え話をもって、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と語りかけます。命のパンを得るための文明であるはずなのに、文明は大量殺戮の装置に豹変するのです。そうした文明の矛盾を鋭く突く、とても辛辣な皮肉にも聞こえる譬えではないでしょうか。この譬え話は、「死」という深刻な譬えをもって私たち人類の限界を揶揄するためではなくて、パンは本来「命」のためにあるのであって、パンを得るための仕掛けよりも遥かに大切であることを、私たちに警告して気付かせてくれます。主イエスはこの譬えから、「命」と「死」を決定する命の主権者は、神であって、私たちではない、ということを教えています。ただ単に、パンを得る仕掛けをつくること以上に、「命」そのものこそ大事であり、かつまたその「命の主権者」はただ神お独りである、ということです。それは、私たちに命も身体も、何もかもがすべて、神さまのものであり、すべてが神さまの御心による、という絶対的な事実です。死の訪れによって、私たちは初めて「自分のもの」など、この世には何一つ存在しない、ということに気付き、神は幻想ではなくて、この世の生こそが幻想であることを初めて知ることになります。

さらに主イエスはこう教えられます。「マタイ6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父はこれらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。6:33 何よりもまず神の国と神の義を求めなさいそうすればこれらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:30~33)。このように、パンのこと、お金のこと、日常生活に必要なことで、私たちが思い悩み、心を奪われてしまう時に、主イエスは「愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と説いて、私たちの心を目覚ますのです。人は、死を投資手、人間は無限で永遠ではない、そして神ではなく、永遠の神がおられることを思い起こすのであります。したがって、命に直結するパンを、しかも日々の糧として、今日も、明日も、そして毎日、お与えくださいと神に祈り求めるのであります。

 

4.「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

「命の主権者」はただ神お独りである、という事実に、厳粛に思いを向けること、そこに主イエスの教えの中核、祈りの中心があるように思われます。心を神に向けて高く挙げるのです。心を神に向けるとは、ただ一つ、神のみことばに耳を傾けることであります。主イエスは、パンを得る仕掛けを作る煩いについて、こうも警告します。

マタイ4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある(マタイ4:1~4)。

本当に意味の深いみことばではないでしょうか。「断食」とは、「祈り」のための断食であり、「神」に心を向けるために行われます。心を神に向けようとするのですが、空腹のために、その心は神から離れて、神に背き「石ころ」に向かうのです。しかも恰も「石」が「パン」となるかのような幻想の虜となるのです。こうして人類は、パンを求めるとき、悪魔の誘惑に陥るのです。パンを生み出すはずの文明社会が、大仕掛けの殺人道具に豹変するのです。しかしその時こそ、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことを想い起さなければなりません。そうでないと、殺し合いが始まってしまうのです。確かに、人の命を生かし養うパンは大切ですが、そのパンのために、私たち人間はいつでも悪魔に変わることもできるのです。そうした文明社会の悲しいほどに矛盾した罪を、神は深く心を痛め、憐れみ、そして警告のみ言葉を告げられたのではないでしょうか。人類は、パン製造機として文明社会を築きましたが、ただパン製造だけでは生きることはできないのです。もう一度、神の啓示のことばを心深くに回復して、本当の命に直結する命のパンに心を向け直すのでなければならない、と思います。パン製造機として大きな矛盾を背負う文明の力から、真の命と直結するもう一つのパン、すなわち神の啓示のみことばへと心を向け直すのであります。

 

5.荒れ野に降る「マナ」から、永遠の命に至る「命のパン」を

ただ「パン」だけを求めるのではなく、神のことばを求める、ということでありました。キリストが、私たち人類としての人間性のすべてを担い背負う中で、サタンの誘惑を受けながら、パンと命のみことばをめぐり闘いました。パンは「命」に直結する食べ物であることを忘れてはなりませんが、パンは命のためのパンであって、パンのための命ではありません。つまり大切なことは、パンが神の恵みによって与えられるのは、「命」が養われるためです。「命」がいよいよ養われて「永遠の命に至る」ために、人はパンを食べ続け、神はパンを日々私たちにお与えくださるのです。もっとよく言えば、滅びるための命ではなく、「永遠の命」に養われて生きる、そのために与えられる「命のパン」を求める祈りです。私たちを永遠に命に養うパンとは何か、それをしっかり考えるのでなければなりません。

かつてイスラエルの民は、エジプトの奴隷支配から解放されエジプトを脱出して、シンの荒野を彷徨ってしまい飢え渇きを覚えます。民はモーセとアロンに、パンを求めて、不平を言い出すのです。その時、神は「マナ」を降らせて、食物を与えて必要に答えられ、民を養われました。マナは「16:14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた」(出16:14)。それは「コエンドロの種に似て白く蜜の入ったウェファースのような味がした。」(出16:31.参照民11:7)が、彼らは「11:8 民は歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、こくのあるクリームのような味であった。」(民11:8)と聖書は伝えています。意味深長な所は「16:19 モーセは彼らに、『だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない』と言ったが、16:20 彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。16:21 そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。」と記されていることです。人間の思いからマナを取り置きして残そうとする者には、マナはすっかり溶けてしまい、失われてしまいました。これは何を意味するのでしょうか。神がお与えくださる範囲において食べる、神の与えられる範囲を超えて、自分の欲望に合わせて取り置いて残そうとすると消えてしまうのであります。ここには、どうしても、人間から神へと生きるべき方向転換が求められます。人間の思い、人間の力や文明の力に依り頼むことから、神の愛と憐れみにすべてを向け直して悔い改め、そして神と共に生きる命の道を探り求めるのであります。

そうした人類に対して、主イエスは人々にみことばを語り、こう啓示します。「6:48 わたしは命のパンである。6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。6:51 わたしは天から降って来た生きたパンであるこのパンを食べるならばその人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」6:52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければあなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は永遠の命を得わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネ6:48~54)。即ち毎日祈り求める「日毎のパン」とは、天からのパンである「キリストご自身」を意味していたのです。「わたし(キリスト)の肉」は、世を生かし、終わりの日に復活させるのです。このパンを日々祈り求めるのであります。

ここで、主イエスが啓示する真理とは、死と滅びに向かうパンではありません。命と復活を遂げるためのパンです。死と滅びは人類の罪の支配によるものであり、アダムとエヴァの原罪に由来します。この罪を完全に償い尽くして、神の義を回復して、神の祝福のもとで「永遠の命」に復活するのです。その罪に支配された人間性を背負い、キリストは十字架において罪を償い、神への従順を貫き、神の義を人間性の内に回復したのです。その十字架における贖罪により、死と滅びに定められた命は、死から復活するという永遠の命となって現れたのです。その復活の命を、私たち人間の内にもたらしてくださった、まさに「命のパン」こそ、主イエス・キリストであります。

人類は、命のためにパンを求めて、彷徨い続けて来ました。その旅路は、一方で巨大なパン製造機である文明社会を築くという英知の光の中を、しかし、その他方で破壊と殺戮の繰り返すという破れの暗闇の中を彷徨い続けています。文明の力はこの大矛盾の闇と悲惨を克服することはできませんでした。皮肉にも、文明はパンのために文明自身を破壊し続ける歴史でもありました。神は、そうした人類に、神のことばを啓示し、死と滅びの計画を発し、ついに神の御子ご自身が、この地上に降り、人間の肉を纏い、人間の救済を実現します。それが、キリストの受肉であり、キリストを共に分かち合うことで、人類の悲惨は愛と助け合いへと変えられるのです。この永遠の命へと養われる希望によって、人類は天国という新しい未来をめざすのであります。死と滅びのパンではなく、また文明と力づくで得るパンではなく、神の愛と憐れみのもとで「永遠の命」を養う命のパンのために生きる道がここに新たに与えられたのであります。

こうして主の祈りは、どこの家庭においても、必ず食卓の度に祈られるようになりました。それは肉体のためのパンであると同時に永遠の命の身体、復活の身体を養うパンでありました。こうした食卓の習慣は、明らかに、主イエスの時代から守られていたはずです。五千人の給食も、その大がかりな食卓事例でありましょう。また主イエスは、絶えず罪人と共に食卓を親しく囲んでいます。キリストを皆で囲み、キリストを共に分かち合う食卓の様子が彷彿とされます。キリストが昇天されたのちも、12使徒を中心とする食卓は続きました。使徒言行録が「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き喜びと真心をもって一緒に食事をし神を賛美していた」(使徒2:46、47)と記す通りです。まさに神の家族、教会としての家族の食卓であります。このことは、主の祈りが、集会の交わりの中核を成していたこと、そして主の祈りが、キリストを共に覚えるみ言葉や聖餐とは実質的に切り離されたものではないことを物語っています。こうして教会の交わりの生活の中心に、主の祈りと聖餐は一体の形で受け継がれたのです。