2021. 6.20.小金井西ノ台教会 聖霊降臨第4主日礼拝
ヨハネによる福音書講解説教3
説教 「水と霊によって新しく生まれなければ、神の国に入れない」
聖書 ヨハネによる福音書3章1~21節
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
はじめに. ラビ、ニコデモによる夜の訪問
本日、分かち合うみことばは、ヨハネによる福音書3章1~21節「ニコデモと主イエスの問答」です。実は説教を準備する段階で、このテキストを一纏めにして一気呵成に説教すべきか、或いはいくつかの段落に区切りながら取り扱うべきか、迷いました。と申しますのは、この世に支配されたわたくしども人間に、果たしてどこまで、天の神の御心をと理解することができるだろうかか、ましてや語り解き明かすことは、余りにも難しいことが多くて、天上の奥深い「啓示の真理」を伝え切ることは不可能なこと、と戸惑うのです。最初は、限界を前提に、テキスト全体を鷲掴みにして一気に福音の本質に迫るメッセージを模索する方がよいのではないかと考えましたが、後になって、重要な要点を割愛してしまうことになってはいけないと思い直して、本日を迎えました。そこでやはり重要と思われる要点を段落ごとに整理しながら、解き明かしを順次進めてゆくことにしました。第一の区切りは1~9節で「水と霊によって新しく生まれる」ことについて、第二段落は10~15節で「天から降られた人の子」の真相について、そして最後は16~21節で「天の父による救いと裁き」について、という三つのテーマに分割した形で講解を進めようと思います。したがって本日は第一の「水と霊によって新しく生まれる」ことに集中し、来週は「人の子の秘儀」と「神の愛」の啓示についてお話したいと思います。
ニコデモと主イエスとの対話の主題は「水と霊とによって新しく生まれる」ということです。「新たに生まれる」とは、いったいどういうことか、何を意味するのか。これを論ずる上で、事前に一つ、決定的なお断りをしておく必要があります。それは、単に「精神」や「思想」上での転向を意味するものではない、ということです。近代現代の精神は、何もかも合理化して解釈してしまうおうとするのですが、ここでも「新しく生まれる」ということを合理化して、精神的思想的に自分の立場を変えること、として軽く解釈してしまうのです。しかし、ここでの主イエスとニコデモとの対話は、決して単に精神や思想上の転向にとどまるものではなくて、遥かに超自然的な超越次元での新生を問題にしています。真実な意味で「人類救済とは何か」という神による真理を真摯に求めているからです。そういう意味で、主イエスもニコデモも、とても真剣に、神と神による救いを問題にしています。残念ながら、結果として、ニコデモの思いは「受肉のキリストによる救い」という福音に到達することは出来ずに終わってしまいますが、しかしそれでも、ニコデモが人類救済の真理を探り求めていたことは否めない事実であって、わたしは尊敬に値する行動であると思います。したがって皆さんが説教をお聞きいただく上で、新しく生まれるとは、単に思想上の転向を意味する、というような合理主義的解釈にとどまらないでいただきたいのです。確かに、理解することに困難がありますが、それでも、真摯な探求心をもって、さらに奥深く踏み込みながら、主イエスのお語りになる「啓示の真理」に迫っていただきたいと願います。
さて、ヨハネはここに、ファリサイ派でサンヘドリンの議員でもある、言わばユダヤ社会で非常に権威あるニコデモという人物を登場させて、主イエスとの問答形式を取りながら、まさに「救いの真理」を集中的に解き明かそうとしています。3章1節では、まず問答の相手となるニコデモについて、こう紹介して、登場させます。「3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。」とあります。
ニコデモという人物は、ヨハネによる福音書の中にだけ僅か3回登場します。一度目はここで、人目を忍ぶ夜の訪問者として、二度目は7章50節以下で「7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。7:51 『我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』」と主張して、主イエス本人に確認を得る前に罪に定められない、と抗議します。そして三度目は19章38節以下で「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。19:39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。19:40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」と記されており、人目を恐れるどころか、アリマタヤのヨセフに進んで協力し、敢えて危険を冒しながらも、主イエスの葬りのために共に働く姿が描かれています。こうした記述から、ニコデモは非常に良心的な教師であり、主イエスの教えを正しく理解することができないという破れと苦悩を背負いながらも、しかし主イエスを心から慕い、神から遣わされたお方として、尊敬を保持し続けた人物であると考えられます。ニコデモが主イエスを尊敬するに至った動機にについては、ニコデモ自ら、主イエスを「ラビ」(先生)と呼んで、こう語っています「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」つまり主イエスが奇跡を行う現場を彼は目撃していたのです。しかし直前の2章23節以下ではこうも記されています。「2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。2:24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」と、ヨハネは釘をさすかのように、前もって「イエスご自身は彼らを信用されなかった」と明記しています。おそらくニコデモも、こうした人々の一人であった、と考えられていたのだと思います。ヨハネは、ニコデモの人間性とその本質をある意味でよく示す編集句でこう纏めたのですが、たとえ奇跡を信じ、主イエスが神から遣わされた方と認めることが出来たとしても、人間性の「本質」そのものが、「生まれ変わる」のでなければ、人は救われないのだ、ということを、主イエスは見通していたことが分かります。そしてヨハネとその教会もそう考えたと思われます。そうした疑いと危うさの中に、ニコデモは夜人目を忍ぶようにして登場します。
1.「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは、はっきりと主イエスが神から遣わされた教師であることも、主イエスの行われた奇跡が神のみわざによるものであることを認めていました。再度確認しますが、「あなたが神のもとから来られた教師である」「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」とはっきりと告白しています。それなのに、先ほどのヨハネの編集句に先取りして明記されていたように「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。2:24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」のです。したがって主イエスはきっぱりとニコデモに告げます。即ち「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と宣告します。率直に言えば、あなたはまだ新たに生まれていないので、神の国に入ることはできない、という宣告になります。ここで重要な言葉は「新たに生まれる」という言葉です。「生まれる」(genna,w gennhqh/|)という元の字はアオリスト受動態で、「新しく」(a;nwqen a;nwqen)とは「上から」という意味を含む副詞です。つまり上から新しく生み出されることを意味します。自分で自分を産むのでもなく、自分から自分が生まれるのでもありません。「上から」即ち「天から」、地上とは質的に異なる仕方で、全く新しく命と存在を与えられて生み出されるのであり、しかもこの誕生が永遠不変の出来事として起こることを意味します。「神の国」とは、神がご主権をもってご支配することですが、敢えてその対立概念を想定すれば、悪魔の唆しによる罪の支配であり、死と滅びに運命づけられた世界です。問題は、どうすれば、そうした悪魔や罪の支配から、死と滅びに運命づけられた呪いの世界から解放されて、神のご支配のもとに、不変不動の新しい命と存在が与えられて新生することができるのか、ということです。「新しく」とは「上から」即ち意訳すれば「天から」であり、さらに主の教えに従えば、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」ということになります。
2.「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』
残念ながら、ニコデモには「新しく生まれる」という意味を理解することができませんでした。ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と言って、主イエスに反論します。ニコデモの反論をよく見ますと、ある重要な共通概念が彼を支配していることに気付きます。まずニコデモは「年をとった者」と表現しています。「年を取る」のは「時間」に束縛支配され、時間に敗北した結果として、引き起こされる「生の変質」であり、「命の腐敗」であり、最終的には完全喪失して消滅することを意味します。つまりニコデモは、時間を超える「永遠の存在」を知らない、否、認めていないのです。アウグスティヌスは「時間」も「被造物」であることを暗示していますが、言い換えれば、時間という世の造られた物の奴隷となって支配を受けていることが分かります。「永遠」を本当の意味で信じ求めていないので、本気で「永遠」の次元に心を向けることができないのです。ただ時間の制約と束縛の中で、可能な限りでの「救い」や「神の支配」を想定していたようです。つまり相対的な命や救いの範囲で「神の律法」を取り扱っていた彼の本音が見え隠れしています。そうなると、律法学者や教師として彼の律法解釈においても、そうした相対主義や諦観が混入することは免れないと思います。
もう一つ、非常に深刻な問題は、「母親の胎内に入って生まれる」と言っています。ニコデモにとって、「生まれる」という出来事は「母の胎内に入る」外に成立しない出来事のようです。人が誕生するのは、神の霊的な恵みのみわざによる、まさに「上から」新たに生まれるのではなくて、父と母との肉体的な生物の中で生起するわざでしかあり得ないことになります。単純に問えば、ニコデモにとって、神の存在も神の創造もいったいどう解釈されるのでしょうか。神は、霊とみことばに基づいて、万物を無から創造した「神の無からの創造」は、ニコデモにとって単なる空想物語であり、神話に過ぎなかったのでしょうか。ニコデモは、ファリサイ派の律法学者なのに、聖書をただ字面だけで律法にはこう書いてあると言って、律法学者として形式上はその職務を貫くことができても、彼の心を支配し続けていたのは「時間」の支配であり、全てが老いて消滅しゆく「滅びの支配」であり、母の胎を失えば誕生はありえないとする極めて単純な「生物」論的肉体主義であり物質主義である、と思わざるを得ない場面です。そうした彼の思想的限界と矛盾の中で、どうすれば「上」からの恵みとして新しい命に生まれるという問題は、受け入れられ了解されるでしょうか。「新しく生まれなければ」などということは、ニコデモには思いもつかないことででした。ここでいよいよ不思議に思うことがあります。実はファリサイ派の教えに「復活」があったはずですが、その確信も危うくなります。もしかしたら奇跡としてそういうこともありうるという程度で、本質的な救済論として人間の復活がある、というその意味づけも、また救済論的教理体系も、ファリサイ派の中では全く共有されてはいなかったのかも知れません。だからこそ、ニコデモはファリサイ派の人目を恐れつつも、その枠を超えて、イエスのもとを訪問する必要を感じていたのかも知れません。
3.「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
しかし主イエスは、それでも、誠実を尽くして、ニコデモに真正面から「新生」について改めて諭そうとなさいます。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5節)と繰り返し解きます。その際に、注目すべき点は、主イエスが「新しく」すなわち「上から」と仰せになられた言葉を、ここで改めて、より正確かつ具体的に「水と霊とによって」という言葉で、表現し直しておられることです。言わば、「新たに(上から、天から、或いは、神から)生まれる」という表現を、さらに具体的に地上にあっては「水と霊とによって」生まれると言い直して、諭そうと試みておられます。つまり「生まれる」という「命の本質」を決定づける根元は、時間の中にも肉体の中にもなく、「水と霊」の中から生じる出来事として、表現して救いの本質と根拠を具体的に暗示しています。主イエスは、さらに諭すように説明を加えます。「3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。3:7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と丁寧に説いて、地上を支配する時間や物質から見ようとせずに、永遠は永遠から、命は命の賦与者である全能の神の霊から、真の命や真理を見るのでなければ、理解することはできないのではないか、と諭されるのであります。主イエスのみことばで、とても意味深い表現は、神の霊による恵みを「風」に喩えて、「思いのままに吹く」と語ります。他方では「あなたはその音を聞く」とも語ります。つまりたとえ神の霊の働きはよく分からなくても、神の霊の働きの結果に生じた出来事は、聞くことも見ることも、そして与ることもできるはずだ、と教えています。ただし、霊それ自体の「思い」やその意図するご計画の全貌については、「どこから来て、どこへ行くかを知らない」、即ちそれを理解することはできない、というわけです。万物は、結果として生じる神の創造の恵みを最大限に豊かに享受することは出来ても、神の創造の神秘の中枢を、特に神が何をどのように意図し計画されるかは、知ることはできないのです。それは、ただ神のご主権に基づくからです。残念ながら、これに対してニコデモは、いよいよ主のみことばを理解できなくなってしまい、率直に「どうして、そんなことがありえましょうか」と言って、ただ反語否定を繰り返すばかりでした。
4.主イエスの説教とヨハネの教会の信仰
ところで、なぜヨハネは、この問答に、わざわざニコデモを登場させたのでしょうか。それには大きな意図があった、と思われます。律法学者でありユダヤ教の宗教的権威であるニコデモは、ユダヤ教の象徴的存在です。前回も申しましたように、ヨハネが福音書を著わす目的は、新しい「神の啓示」そのものである人の子としての「イエス・キリスト」を世界宣教することでした。大胆に言えば「キリストの到来」において、神の救いのご計画は旧約時代の預言から新約時代の成就へと移り、ユダヤ人たちだけの選びから全世界の人々の救いが実現する福音の啓示へと新たに転換しました。ユダヤ教をはじめローマ帝国との相克の中で、キリストにおける新しい啓示は、ヨハネとヨハネの教会がよって立つべき「信仰の中核」でした。「水と霊とによって新しく生まれる」という決定的な救いの開示は、主イエスご自身の決定的な福音のみ言葉でもありますが、同時にまた、ヨハネとヨハネの教会を根底から支える重要な信仰告白であり、命と希望の源泉であったと考えられます。
人が救われるためには、三つのことが求められます。一つは、ニコデモのように、ただ律法を守り奇跡の力を期待するのではなくて、神の奇跡の本質であり、命と救いの根源となる「イエス・キリスト」ご自身について、正しく信じ受け入れることが、新たに求められます。ヨハネはこの直後に13節以下で「3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」という主イエスの説教を展開している通りです。二つ目は、このイエス・キリストの真理を信じ受け入れる「信仰」を通して、信じる者自身が「新たに生まれ変わる」のでなければならない、ということです。しかし、その信仰を純粋に受け入れて、信仰に正しく与り、新たに生まれ変わるためには、「聖霊」の働きとその恵みによらなければなりません。厳密に言えば、「聖霊」の働きを通して、主イエスのみことばの真理を深く悟る者となる必要があります。しかもみことばの真理を悟り、信仰を通してキリストの新しい人間性に与ることで、新たに生まれるのです。このこともまた、ヨハネは18節で「3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。」とさらに展開します。したがって、私たちが「新しく生まれる」とは、つまり「神から」新たに生まれるには、どうしても、悔い改めをもって「水による洗礼」に与り、「霊」の恵みに与り、キリストの信仰に堅く立つのでなければならないのです。
5.水と霊とによって生まれた新しい心身と人間性
水と霊による出来事は、言うまでもなく、「洗礼」の出来事以外にないように思います。マルコによる福音書によれば、主イエス・キリストは、「1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と証言した洗礼者ヨハネから、ご自分から洗礼をお受けになりました。主イエスの洗礼の出来事についてマルコは「1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」と記します。この記述によれば、洗礼をお受けになった主イエスは、明らかに、天から降って来た「聖霊」を受けます。つまり、主イエスにおいて、「水」による洗礼とは、直ちに天から降って来る「聖霊」を受けるしるしであったことが分かります。第二に、洗礼を受けられた主イエスに対して、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が響き渡ります。ここではまた、主イエスの水と霊とによる洗礼が、天から神によって決定的な承認宣言を受けるという出来事が続きます。
この記述は、当然ながら永遠の「神の御子」の受洗を伝えるものですが、しかし、ただ単に主イエスの洗礼を証言するだけではなく、さらに大切な点を厳密に言えば、単なる永遠の「神の御子」ではなくて、聖霊によって処女マリアから新たに創造された「人間の身体」を受肉したイエス・キリストの受洗である、という点を見逃してはならないと思います。御子が「受肉の身体」をもって水による洗礼をお受けになっているのです。つまり丁寧に言えば、単に「御子」がここで洗礼を受けたのではなくて、聖霊によってマリアから受肉して新たに創造された「人間の身体」をもった主イエスが、ここで洗礼をお受けになっておられるのだ、ということに注目すべきではないでしょうか。教理的に言えば、キリストの神人両性が一体となった「受肉のメシア」として、堕落したアダムに対する「新しい人間存在」の原型として、今まさにこの洗礼において、天の神によって聖別されているのであり、天はそれをまさにここで地に啓示した瞬間であった、ということではないでしょうか。主イエスにおける「新しい身体」であり、「新しい人間性」の誕生の宣言告知であります。この受肉のキリストにおける新しい人間の誕生に対して天から力強く表明された神の祝福宣言でありました。これこそが、文字通り「水と霊とによって生まれた」キリストにおける「身体」であり、キリストにおける「新しい人間」であります。このように、キリストにおける「新しい人間の身体」とは、まさに「天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来る」身体であり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天から義の宣告を受ける人間性であります。これはまさに、キリストにおいて、人間の新しい誕生の宣言に外ならないのではないか。そうしたキリストにおける新しい人間の誕生にこそ、父なる神の大きな人類救済の御心が貫かれており、神はそれを天からの声として啓示し宣言されたと思われます。
キリストは、そうした神の壮大なご計画に応え、ご自身の使命として、ご自身が受肉した身体において、洗礼者ヨハネから水による洗礼をお受けなりました。そしてヨハネは、明らかに、その受肉した神の御子における救いの中核となる秘儀を教会よって立つべき基盤としていたはずです。私たちも、洗礼を通して、この受肉のキリストにおける洗礼をそのまま受け継ぎ、そのままその恵み溢れる神の祝福に与るのであります。洗礼を通して、聖霊の働きに導かれ、信仰が与えられ、信仰を通してみことばの真理を深く悟り、いよいよ内側から「キリストの身体」として新たに創造されて、滅びから永遠の命へと祝福に溢れた新しい人間性に生まれ変わるのです。ちょうど処女マリアが聖霊によってキリストを宿したように、私たちも、聖霊の賜物である信仰を通して「キリストの身体」が内に成り、内側から新たに創造され、新しい人間性へと造り変えられるのです。水と霊とによって生まれるとは、こういうことではなかったかと思うのです。ヨハネは、ニコデモをわざわざ登場させつつ、そこで徹底的に「水と霊とによって生まれる」新しい人間性の本質を明らかに解き明かそうとしたのす。弟子たちは、キリストへの方向転換を表明するその悔い改めの水をかぶり、聖霊を受け、心身共にキリストにおける新しい人間性に生まれ変わり、キリストの身体と一体に結ばれたのです。水による洗礼を通して聖霊を受け、キリストにおける新し身体に与り、新しいキリストの身体の肢体とされる、そこに水と霊とによって生まれる新しい人間の誕生があります。