- 8. 1 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第11主日礼拝
よはねによる福音書講解説教9
説教「起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい」
聖書 イザヤ書43章1~7節
ヨハネによる福音書5章1~9節
5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。5:3 (†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
その日は安息日であった。5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
はじめに
本日の聖書、ヨハネによる福音書5章Ⅰ~18節は、前後二つの段落から構成されています。前半は、ベトザタ(別の写本では「ベテスダ」:憐み)の池で、38年間も病気に苦しんでいた人が、安息日に主イエスによって癒される、という奇跡(癒し)の出来事の記述です。後半は、そのイエスによる癒しが安息日に行われたことで、ユダヤ人たちは安息日規定の違反であるとして、イエスを糾弾したため、非常に激しい神学論争となって展開し、主イエスはついに、「父なる神」と共に働く「子なる神」であることを自ら告げる、という展開です。
1.背景
本日の説教の中核となるメッセージに入る前に、この癒しの出来事の背景、または周辺の状況につきまして、事前に簡潔に確認をしておきたいと存じます。
先ず、事件の発端となる背景ですが、季節は「ユダヤ人の祭り」の最中で、ユダヤ人の成人男性は皆、年に3回、3~4月過越の祭り、5~6月五旬祭、そして9~10月仮庵の祭りと、それぞれにエルサレム神殿に詣でることになっていました。この時は「五旬祭」(ペンテコステ)にあたり、労働をしないで、聖なる神の前に出る(レビ23:21)ために、エルサレム神殿は多くの人々でごった返していたようです。その途中、主イエスは、羊の門の傍らにあるベトザタの池で、38年も病気で苦しんでいる人を見て、お癒しになったのですが、その日は、安息日であったため、ユダヤ人たちと大論争になり、ついにユダヤ人は主イエスを殺そうとまで考えるようになる、という話です。
さて、今日のお話の舞台となる「ベトザタ」と呼ばれる池ですが、直訳すると「流れの家」で、複数形での表現になっています。考古学的発掘調査から、これは縦が約120メール、横が50メートルと60メールの二つの池に仕切られており、四隅と中央に、合わせて5つの回廊があったことが確認されています。複数形の表記は、二つの流れの池ということになります。当時一般民衆からは「あわれみ(ベテスダ)の家」とも呼ばれていたようです。後の記述によれば、この水の流れは、赤みを帯びた湧水の鉱泉で、一定の治癒力が期待されていたようです。近くにはローマ軍の駐屯地があり、傷病兵も療養ためにこの池に通っていたようです。聖書の記述通り、癒しを求める多くの人々であふれかえっていたことは想像に難くないところです。
その池で水が動き波立つ時を、傷病者たちはみな、固唾をのんで待ち構えていました。主の使いがときどき池に降りて来ると水が動き、その時、真っ先に池に入った者はどんな病気でも癒される、と信じられていたからです。今日のお話の中心となる人物は「38年も病気に苦しんでいる人」で、この人もまた、天使が水に舞い降りるその時を、38年の生涯を尽くして待ち続けていました。記述からすれば、おそらく生まれながらの脳障害のためか、全身が完全に麻痺していた、と推測されます。ただ、注意したいのは、この38年という数字をそのまま文字通り38年と読むこともできますが、実は、3、8、12という数字は、ユダヤでは完全数とか絶対数と呼ばれる象徴的な数字で、数値以上の意味を持ちます。つまり病気のこの人物の現実は完全な絶望状態にある、ということを暗示しています。もはや治癒する見込みは全くなく、人生そのものの意味も希望も完全に失われていたことになります。加えて具体的な名前や出身地などの記述がありませんので、その人「個人」として読むこともできますが、同時にある「一定の集団」を暗示しており、この集団とは、完全にユダヤ社会から排除され捨てられてしまった、絶望的境遇にある集団とも解釈できます。聖書の記述はそれに次いで「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」(5:2)とありますように、ユダヤ社会から排除され捨てられて、「絶望」の中に、放置され捨てられた集団と密接に関連付けられて、この癒しの出来事は、描かれたようです。つまり「38年も病気で苦しんでいる人」とは、絶望の中で、苦悩する「ひとり」「ひとり」の人格を指すと共に、社会から排除され捨てられた、いわゆる「罪人」の集団全体を象徴的に代表する集合的人格でもあった、と考えられます。こうした集団が、のちに主イエスに従ってゆく弟子たちの群れ、教会となる背景にあった、と考える学者も少なくありません。あるいは、五つの回廊で犇めき合う絶望的な傷病者たちとは、「モーセ五書」という律法のもとに、苦悩し続けるユダヤ民族全体を暗示する、とも考えられます。癒しは、単に病気を治したという奇跡ではなく、ユダヤの民を律法の苦悩から解放する、また捨てられた人々の回復をも意味する出来事でありました。
2.主イエスのまなざし
着目したい最初の大切な点は、「主イエスの眼差しと向けられる御心」です。主の眼差しは、「どこ」に向かって、注がれていたのでしょうか。殆どすべての福音書の記事に共通するこの描き方は、主イエスのまなざしは、最初から先行して、何かに注がれていた、ということです。本日登場する人物のように、社会から排除され捨てられて、絶望の中で苦悩する人々の群れに、集中的に注がれます。「5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って」とありますように、主イエスは、偶然この人と出会ったのではなく、またこの人に呼び止められたわけでもなく、主イエスのまなざしは、最初からずっと、他の誰よりも先行して、「絶望」の中に、捨てられた惨めな人々の思いに注がれており、そればかりか、この人物の痛み苦しみを見通しておられ、その苦悩のすべてを知っておられた、と言えます。原典の「見た」という動詞にはとても広い意味があり、「どのような事情なのかがわかる」「どうなるかその行く末を見守る」という意味で、用いられます。また「知った」とは、ヘブライ語まで遡るますと、「肉体的に知る」ことを意味しますので、その苦悩を心と身体の両面で感じ取る、という意味になります。まさに痛みと苦悩を、主イエスは、キリストの心と身体において、共に感じ共に体験し、知り、理解していた、ということを意味します。つまりイエスさまの方から、既に先に先行して、ご自身の心と身体において、すなわち人間としての根源から、この人の痛みを心身共に共有しておられた、ということになります。その意味からすれば、正しい99匹を残して、迷い出たたった一匹の羊を必死で探し求める、あの主イエスのまなざしと全く同一同質のまなざしだ、と言ってもよいかもしれません。神さまのまなざしは最初から、徹頭徹尾、一匹の捨てられた羊に向けられていました。捨てられたて一人ぽっちの苦悩を嘆くその前に、既に神さまは先行して共有共感しておられたのです。神はすべての痛みと苦悩を心身共に共感し共有されるのです。
少し極論になりますが、キリスト教の意味深い所とは実は、捨てられてしまった自分を苦悩し知る所から、始まるのではないでしょうか。ああ、社会からみんなから捨てられてしまった、誰も自分のことを理解してくれない、誰も目を向けてくれない、独りぼっちだ、この一匹という孤独と孤立から、福音の第一歩は始まります。積極的に言えば、徹底して捨てられた一匹という場に放置された時、その時初めて、神と向き合う一歩が始まります。正しい99匹の集団の中に身をおいたままでは、もしかしたら、本当の福音に出会えないかも知れません。反対に、38年間も孤立する孤独の中で、この人は、その捨てられた苦悩を、いつも神さまに見つめられ見守られ、ついに創造的で新しい人生と出会う場となったのです。私たちも、人生の躓きの中で捨てられた一匹の意味を深く知り、そこで初めて神のご人格と愛に触れることができるのです。
3.「問いかけ」
そこで、いよいよ出会い、対話がはじまります。ふたりの人格と尊厳を尽くした対話です。まず、イエスさまの方から「良くなりたいか」と尋ねると、この人は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と、呻くようにその苦悩を主イエスに訴えます。ユダヤ3大祭りに賑わう中でさえも、だれひとりとして、彼のもとに来て手を差し伸べる者はいなかったのです。ことばさえかけてくれる者もいませんでした。主が見て知り、ことばをかけて下さる所から、この二人の対話は始まりました。初めて自分に、主イエスの方から、おことばをかけてくれた、それも「よくなりたいか」と、一番問題にして欲しかった思いの中心に問いかけます。とても嬉しかった、と思います。「よくなる」とは、単に身体的な病気が治る、ということだけでなく、この人を病気にして人格そのものを傷つけ苦しめて来た、さまざまな邪悪と支配から解放されることを意味します。根源的には、人類を存在の根本から蝕む悪霊支配からの解放であり、罪の堕落によって生じた深い病いの解決です。人間社会のもつ冷酷で偽善的な権力支配からの解放でもあります。したがって、さまざまに人間の霊的尊厳を傷つけ痛め続ける構造的な罪の支配から、人格が完全に解放されることを意味します。池に天使が舞い降りると水が動き癒される、それはまさに、神の平安と解放に導かれることでした。しかしこの人には、自分を導いてくれる人はひとりもいないのです。主イエスは、捨てられ放置され絶望と呻きにあるこの人を、暖かな眼差しで包み込むと、この人の魂の中心に向かってことばをかけ、単刀直入に「よくなりたいのか」と問題の本質を問いかけます。
4.「魂の究明」
この人格と尊厳をつくした、ふたりの魂の対話は、問いかけと応答によって、さらに新しい次元へと展開します。主イエスの「よくなりたいか」と問う問いかけは、とても重要です。なぜなら、この人の「応答」を引き起こしたからです。「よくなりたいか」という問いかけは、この人の魂の奥深くを駆け巡り、さまざまな作用を引き起こし始めます。みことばによる魂の究明です。この人の魂は38年間ずっと毎日のように裏切られ続けてきたため、よくなりたいという期待よりも「疑い」や「不信」が、望みよりも「失望」と「絶望」が、そして何よりも、捨てられたという「憎悪」と「復讐心」が支配していたはずです。虐げられた魂が、希望と信頼を失うと、憎悪と復讐心に変質し、そうした闇によって支配されてしまうのです。人々に対する絶望と憎悪の思いが、「わたしを池の中に入れてくれる人がいない」と訴える、彼のことばに表れています。真っ直ぐで純粋な答えというよりは、深く病んだ魂の現実が見え隠れします。しかし、主イエスの「問いかけ」は、その霊的な力によって、この人の魂の奥深くを駆け巡り、死んでいた人格と命の尊厳を覚醒させます。この人は、主の問いかけと共に、病んだ思いの一つ一つについて、丁寧に検証し、対話し、確認し始めたのです。これが神のみことばの持つ力であり、魂の真実を極める究明のみわざです。まさに、わたくしどもが、祈るという行為の中で、魂の深みにおいて行う神との対話そのものです。聖書研究祈祷会と言って、日本の教会では古くから大切にされて来た集会の本質と同じです。聖書を研究して、神のみことばを戴き、その神のみことばの光に照らされて、病んだ罪の心と癒された霊の心の真実を見極めていく作業です。
5.「命令」と「応答」
この尊厳をつくした問答は、いよいよ厳粛かつ神聖な対話となって深められます。主イエスはついに「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と、愛と創造力にあふれたみことばを発します。その時ついに、神はこの地上で、そしてこの人の魂のただ中で、現実に生き生きと力強く動き始めたのです。するとこの人は、主の力あるみことばに全幅の信頼をおいて、応答します。聖書は「5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」と記しています。聖書が語るように「すると」ですが、つまり主イエスに問いかけられているその過程で、魂の検証が進められた結果、この人にある大きな「方向転換」が引き起こされていた、と考えられます。「悔い改め」です。主イエスの創造的で力あるみことばは、この人の魂を揺り動かして、その奥深くで力強く動きはじめ、彼の魂に決定的な方向転換を引き起こしていました。この人は、主の問いかけの力により、死んでいた人格と尊厳に目覚め、魂の根底で諦めから期待へ、絶望から希望へ、疑いから信頼へ、と自らの意志で求め始めていました。ある意味で、罪から解放され、自立し自決する魂を得た、とも言えましょう。その方向転換を果たした魂に対して、主イエスは間髪を入れずに「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と、お命じになります。そしてついにこの人の魂の応答は、ここから開始されます。このお方の、力あるみことばと共に、諦めではなく未来に期待をしてみよう、主が働かれていることを信じ、主のみ力と共にわたしも働きたい、世の人にすがり求めるのではなく、神と共に自分の意志で力強く立ち上がるのだ、という魂の応答です。そうです、このみことばと共に、今働く神と共に自分も起き上がるのだ、であります。病んだ絶望的な魂が蘇生した瞬間でした。こうしてついに、死んでいた者が根源的に新生して復活したように、良くなって、床を担ぎ歩き出したのです。この人の新しい人生の始まりでした。
6.その時、神は地上に降り動いた
この二人の尊厳を尽くした対話から、神はついにこの地上で、全能の力を尽くして動き始めます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」(出エジプト記3章7節以下)とありますように、神は地上に力強く介入し、行動する神でありました。その時、神は降り動き始めたのです。ついに、神は地上の神として、この人と共動き、この人の中で働き始めたのです。同時にこの人もまた、人格の尊厳を尽くして、神と共に動き、働き始めたのです。主イエスは自ら宣言されます。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(5:17)。ついに、神は地上で痛み苦しむ者のもとに降り、動き出したのです。しかも新しい神の啓示という誰も想定しなかった形で、父と共に働く子なる神キリストとして、地上に降り、動き始めたのです。
結語
今日の話は決して特別な話ではありません。と申しますのは、私たち自身こそ、この38年も病気に苦しんできた者そのものだからです。なぜなら、どのような苦悩の中にあっても、私たちは日々人格と尊厳を尽くして、神さまと力あるみことばによって、魂の対話を経験しているからです。その力ある神のみことばによって、この地上で動き働く神と一つになって、永遠の命の希望へと解放され、今まさに命の尊厳を尽くして永遠の命に生きようとしている者だからです。私たちは、神を知らずに、神なしには、生きる者ではありません。私たちは、常に神の力あるみことばと共に、日々動き働く神と共に、今日を生きる者だからです。