2021年11月7日「誰もあなたを罪に定めなかったのか?」 磯部理一郎 牧師

 

2021.11. 7 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第25主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教23

説教「誰もあなたを罪に定めなかったのか?」

聖書 レビ記20章10節

ヨハネによる福音書8章1~11節

 

 

聖書

8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。

8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。

イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

 

 

説教

はじめに. 「姦淫の女」の話は、どこから、なにゆえに、ここに持ち込まれたのか

本日のみことばは、皆さまもよくご存じの、姦淫の女の罪を赦すイエスさまのお話です。ただ、この箇所は、シュラッターのような保守的な学者でも、元々『ヨハネによる福音書』の最初の原典の基礎となる写本にはなかった部分であり、後から「ここに付け加えられた部分であることがはっきり分かっている」(シュラッター著 蓮見訳『新約聖書講解4ヨハネによる福音書』1978, 154頁)と指摘されるお話です。同じように、シュルツも出所不明としながらも「共観福音書(ルカ5:29以下、15:1以下、19:1以下)の系統の話に入る」(シュルツ著 松田訳『NTD新約聖書註解 ヨハネによる福音書』1975, 232頁)と想定しています。したがって、この話は後代の人々による挿入で、ヨハネ自身にはあずかり知らない箇所となります。なにゆえ、ここに、この姦淫の女の話が挿入されることになったか、ということについても、その意図も多くの学者は不明としています。

ただ、一つだけ、挿入された意図について、気になる表現があります。それは「8:6 イエスを試して訴える口実を得るために、こう言ったのである。」という言葉です。ここには「試みる」(peira,zw peira,zontej)「告訴する」(kathgore,w kathgorei/n)という字が用いられており、これによって、ユダヤの権力者たちの謀略が、組織的かつ合法的にイエスを抹殺し排除しようと、いよいよ巧妙かつ現実的に着々と進められていたことが分かります。これまでヨハネが伝えるように、主イエスは誠実かつ純粋に神殿で説教し、ご自身における「神」を自ら啓示し、メシアの到来を告知なさいました。しかしユダヤの人々からすれば、その主イエスご自身の啓示それ自体が、主イエスにおける神のメシアの到来それ自体が、ユダヤの人々を躓かせることであり、ついにその躓きも極まり、単に主イエスにおけるメシアを拒否するばかりではなくて、主イエスの排除抹殺を公に合法的に民族共同体全体の決断として実行する所に至っていたことが推察できます。そうした深刻かつ激しく主イエスにおける「神」に躓く人々の、深い「罪」の姿を、ここで改めて想い起し見つめ直したいと考えたのではないか、と考えられます。つまり、もう一度、ユダヤの民衆の心に立ち直して、人々の思いから「自分」たちの犯す罪を見つめ直し、自分たちの罪とはどのような形で現れるのか、省察の時をここに設けたのではないでしょうか。そうした省察の時を提供することで、もう一度、主イエスにおける「罪の赦し」の真実を明らかにし、理解を深める場にしようとしたのではないか、と推測します。言い換えれば、聖書である読者に対して、それぞれの罪について思いを深くし、さらに深められた罪の自覚の中で、主イエスにおける罪の赦しを、自分たち聖書を囲む共同体全体もまた共に深く覚える、という教会的な背景の中からここに持ち込まれたのではないか、と推測できないでしょうか。したがいまして、本日は私たちも皆でそれぞれの罪を深く覚えつつ、もう一つの聖書を共に囲む信仰共同体として主によって罪赦されてゆければと願う次第であります。姦淫の女の姿やその場を去って行かざるを得なかったユダヤ人たちの姿に、私たち自身の姿も重ね合わせながら、主イエスにおける罪の赦しの恵みを共に覚えることが出来ればと思います。

 

1.「姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」

ヨハネによる福音書8章4節で、人々は「この女は姦通をしているときに捕まりました。8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。」と公言して、女を主イエスの前に引き出します。所謂「現行犯逮捕」ですから、弁明の余地はありません。したがって律法に基づき、その場で石打ちの処刑となります。レビ記20章10節によれば「20:10 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」と明記されています。どういう訳か、姦淫した男の方はここには連れてこられず、姦淫した女だけが見せしめにされ、引き回されるように、主イエスの前に連れ出されたのです。ユダヤの首謀者たちの意図は、明らかで、主イエスは決して女を罰することは出来ないという確信のもとに、主イエスはここで必ず律法規定に反逆すると想定して、そこで直ちに主イエスを公に断罪することが出来ると予測していたはずです。主イエスは、日頃いつも、民衆に「わたしは罪人を救うために世に来た」と公言しておられ、そればかりか、いつも罪人たちと共に食卓を囲んでおられました。したがって主イエスが罪人を処刑することは、主イエスの教えと矛盾することになります。律法学者たちからすれば、明らかに、主イエスは罪びとの友であるばかりではなく、律法違反の共犯者であり、律法の破壊者でありました。処刑は、律法学者にとって自分たちの権威や権限を行使する決定的に重要な場となっていましたので、律法に基づく処刑が無視され破壊されることは、詰まる所、神の冒涜者となります。処刑は律法主義者の権威権限を公に顕示する重要な機会でした。そして処刑妨害となれば、その場で主イエスさえも処刑できると考えていたはずであります。これは皆、計画通りのことでした。

こうした女の処刑を訴える律法学者たちに対して、主イエスは不思議な行動を取られます。8章6節で「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」と記されています。これは明らかに、わたしとあなたがたとは何の関わりもない、わたしの福音の世界とあなたがたの律法による処刑の世界とは本質的に異なる、無言のしぐさで表明しているように見えます。つまり、主イエスにおける神の国とは、あなたがたのような律法主義の国ではなく、わたしは決してそうした世界とは組しない、と公にお示しになったのです。こうした主の表明は、無言の行為であるがゆえに、律法規定に基づく処刑を否定した訳でもなく、また肯定したとも断定できません。神の国とは、律法違反を押し付けて死の処刑を行うための国ではなく、却って罪人を憐れみ、罪を犯した破れにある魂をいとおしんで、罪から解放したいのだ、それが、わたしの思いである、とする主イエスのメッセージを人々は理解できませんでした。

 

2.もう一つの罪の世界へ

そこで、主イエスは、さらに踏み込んで、メッセージを送ります。ユダヤ人たちは、現行犯逮捕した姦淫の女を律法規定通り処刑しようとします。彼らが問題にしているのは、まさしく律法であり、行為として外側に現れた罪sinsです。しかし主イエスは人々の心の眼差しを、外見上の罪sinsからさらに人間本質の奥深くに潜む罪(Sin, The Original Si, The Fallと教理的に言われる次元の罪の本質)という根源的な罪の問題へと誘うのです。主イエスは、何一つ激しく非難がましい言動によらず、不思議にも、彼らが気付かないままに自然に、心の内面に深く眼を向け始め、自分の内面を支配してきた根源的な罪に彼らの思いを導いていったのです。いわば、罪の外側から今度は罪の奥深くに、根のように張り尽くした内面の罪へと彼らの魂を導いたのです。8章7節以下はこう記します。「8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げなさい。』8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」とありますように、主イエスは、率直にストレートに、ひとりひとりの心の奥底に、文字通り深く飛び込んでゆくかのように、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と仰せになりました。こうした主イエスの態度には、一見、非常に温和で争いを見事に回避しつつ、しかしその本質は、極めて厳しいみことばをもって、彼ら自身に内在する「罪」を糾弾しているように見受けられます。主イエスが直接的に彼らに判決を下して処罰するわけではなく、彼ら自らの意識や記憶からは決して自分の罪を抹消することができないのです。そればかりか、自分で自分の罪を裁くこともできず、ましてや他人の罪までとても裁くことができない、という決定的な罪の自己矛盾に陥っていることに気付き始めたのです。人々は、この時点で判断も思考も行動もすべてを完全停止する外に道はない、と悟ります。完全な機能停止状態です。それどころか、逃げるようにその場から立ち去って消えて無くなる外に、為す術はなかったようです。しかも興味深い所は「8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」とありますように、長く生きて来た年長者ほど、歴然と、これまでの犯し続けて来た多くの罪が自分の前に鮮明に蘇ります。どうしてもそれを否定できず、逃げ出す外はなかったようです。極論すれば、他の誰よりも、年長の者から始まって、次々に、自分自身の内に深く宿る罪を認めざるを得なかったようです。律法の遵守とは、即ち罪を犯し続けた自分を裁くことを意味するのではないか、ならば神はそれをどうご覧になるのだろう、と気づいたのです。

ここには、主イエスのみことばを聴いて、ユダヤ人たちの間に、二つの確かな認識と自覚が明らかに生じているように思われます。この新しい認識と自覚が、ユダヤ人たちの行動変容を引き起こしたのではないか、と考えられます。その自覚の一つは、律法主義者たちも群衆も皆が、何よりもまず、自分たちもまた同じ「罪人」ではないか、という「自分の罪」を内省する深い洞察に導かれたことです。ふつうは、自己絶対化しようとする罪は、さらに自己を正当化して自己を義とする罪を引き起こします。ところが、反対に、自己義認ではなく、驚いたことにまたとても不思議なことですが、あのユダヤの権力者たちまでもが、ここでは自己の内面を奥深く支配する「罪」を自覚し認識したのです。そして律法に基づいて処罰されるべき罪人とは、実は先ず自分自身のはずで、決して他人だけではない、という省察を得たと言えます。そうでなければ、その場を去らずに更なる論争や捕縛行為が行われたと考えられます。主イエスの沈黙の動作は、このように力ある霊的な現象となって、人々の魂に深く滲みるように影響したのではないか、と言えます。

もう一つの認識は、ユダヤと律法主義の「偽善」が鋭く暴かれたことです。律法主義の偽善構造とは、律法と罪との関係です。一方で、原罪という根源的な罪ゆえに、人間としての本質本性において本当は律法を遵守できず、根源から律法を完全破綻していることです。これは永遠に変わらない悲惨な宿命です。しかし他方では、律法主義のゆえに、どこまでも「律法」を遵守して貫こうとするあまり、律法違反者は容赦なく徹底的に処罰処刑されなければならないことです。こうしてここに罪と律法との矛盾が生じます。人間本性における本質からの罪ゆえに絶対に律法を「守れない」のに、しかし律法主義では「守り抜く」という致命的な矛盾が生じます。イエスさまが「7:19 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」と指摘した通りです。当然ながら、守れない律法なのに守っている振りをする、という辻褄合わせが始まりと結局は虚偽と偽善のほかに道はなく、律法主義という虚偽偽善が生じます。しかもその虚偽と偽善を覆い隠すために、いよいよ律法を厳格に守り抜いている振りをしなければならなくなり、今度は権威や権力を隠れ蓑にして悪用し、他者を徹底的に裁いて排除抹殺してゆくことになります。それが、ユダヤの律法主義者たちの姿でありました。しかしそうした偽善に、民衆は気づき始めたのです。すると益々律法主義者たちは、真実を覆い隠そうとして、ついには「神」までも抹殺しようとするのです。こうした二重三重に渡る罪の構造が権力という形式のもとに構築されてゆきます。そしてついに、宗教世界における権威主義は、こうした罪と偽善を隠蔽する道具と化するのです。神が人の罪を赦し認めて人を義とする信仰の世界は破壊されて、人が自ら自分を義とし権威と権力を用いて、いよいよ自分を義と認めさせ他者を支配しようとしたり、他者を排除抹殺しようとすることになります。これは宗教冒涜であり、神を冒涜する世界に変貌するのであります。ただ、こうした深刻な偽善構造は、どこの宗教団体でも起こりうることであり、実際にキリスト教会の中にもみられることです。私たちの中にもこうした病んだ宗教権力構造は認められることです。悲しいことに、こうした中に陥った人々は、自分を義とするために、宗教界に止まらず、この世の力による法廷闘争までも引き起こすことさえ起こります。冒頭でこの姦淫の女の話が、なぜここに挿入されたのか、その意図を推測しましたが、どこの教会においても、こうした宗教的な偽善構造が教会共同体の中にも残存することを警戒したはずです。教会共同体は、日々常に、自らの罪を深く覚え必要があり、神の御前に心から罪を徹底的に懺悔告白して、真の神による罪の赦しを乞い願うことがどれほど意味深く重要なことか、よく知っていたはずす。こうした自分自身の罪に対する深い省察を想起させる場面であります。果たして神の教会の中にあって、いったい何処の誰に、人をえり好みして人を排除し抹殺する資格があるのでしょうか。

 

3.主のみことばの力と光

しばらくして、あたりを見回すと、そこに残されていたのは、主イエスと姦淫の罪で連れて来られた女だけでした。人間の手にある律法ではなくて、神のもとに働く神の霊的な規律の勝利でありました。罪を知る人々は、皆、律法の前から、神の前から逃げて去るほかに道はなかったようです。すべての人々は、律法に固く立って女を処刑するという資格がない、と認めた場面です。ユダヤ人たちの確固たる陰謀では、主イエスは律法に従って女を石打ちの処刑を拒み女を庇うので、イエスも律法違反の同罪人としてその場で処刑できるはずだ、というものでありました。しかしその図り事は、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と語られた主イエスのみことばによって完全に吹き飛んでしまいました。主みことばの力を強く思わざるを得ません。あれほど激しい憎しみに燃えていた律法学者たちが、どういうわけか、不思議にも、主のみことばによる深い自己省察が与えられて、自分の罪に気づき、その場を立ち去らざるを得なくなったのです。こうして姦淫の女は、主のみことばによって、石打ちの処刑から免れ救われました。

よく皆さんに、日々日常的に自分に起こる「神さまの恵み」をきちんと具体的に見つけ出して数え上げましょう、と申し上げてまいりました。自分の周囲に引き起こされた神の恵みをきちんと一つ一つ説明することができるということは、とても大事な信仰の恵みではないか、と思うからです。それと同じように、自分のうちに現れる罪もその一つ一つを具体的に数え上げて、それがどのような罪であるか、きちんと説明できる、そしてその一つ一つの罪がどれほど悲しいかを心から嘆き、悔いくずおれて、神に懺悔できる、ということも、信仰の恵みではないか、と思います。そしてそうした心の内に潜む罪を照らし出して罪の赦しの恵みに導く「神の光」こそ、「みことば」であります。みことばを聴くということは、恵みが鮮やかに見えるようになることであり、罪もまた鮮やかに映し出されることでもあります。主イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と、みことばを語ることで、彼らの力では到底不可能な心の省察に光を与え、人間本性の根元に渦巻く恐ろしい罪を映し出した、と思われます。しかし誠に残念なことに、彼らの内的省察には「限界」がありました。彼らの内省は、不信仰のゆえに、ここで止まっててしまい、立ち去るという選択に尽き果ててしまいました。実は、ここから本当の救いの段階へと導かれるのでなければ何の意味もないのです。自分の罪を知って絶望した、その絶望から信仰の光は差し込んで来るからです。そこから、心から神の憐れみと赦しを願い求められるように導かれ、「わたしもあなたを罪に定めない」と語りかける主イエスのみことばの意味を悟り、神による根源的な救いを体験することになるからです。そして、主イエスにおける「真の神」に目覚め、主イエスにおける真の神のメシアを発見したとき、初めて彼らの罪の気づきは、神の国に入る気づきとなるのでありましょう。主イエスのもとから立ち去ることの、決定的な喪失を彼らはまだ理解することができなかったようです。

 

4.赦しの宣言「わたしもあなたを罪に定めない」

すると、主イエスは、身を起こして女にこう言われます。「8:10『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』8:11 女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」という「罪の赦しの宣言」で、この段落は締めくくられて終わります。はっきりと主イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と赦しの宣言をなさいました。ここで、言外の言を聞き分けることが肝要ではないか、と思います。聖書を読むということの難しさはそこにあるのではないでしょうか。私たちが正しく福音のみことばを語り聴き分けることの難しさは、時に、まさにこうした言外の言を読み解くことにあります。直接は聖書の文字には書かれていなくとも、はっきりと言外の言として宣言されている啓示があります。教会の教理は、「聖霊」がそうした言外の言を鮮明に照らし出すことで、「聖霊の賜物」として生み出されて来たと言えましょう。ここで、主イエスが女に発せられた「赦しの宣言」即ち「わたしもあなたを罪に定めない」というみことばにも、実は言外の言を読み取ることができるように思われます。「わたしもあなたを罪にさだめない」というこの罪の赦しのことばの裏側にある、もう一つの主イエスのみことばを聞き分けることも大事ではないか、と思うのです。それは、わたしがあなたの罪を背負い、あなたの罪を償しますよ、という主の愛と憐れみに満ちた赦しの約束のことばです。しかもそれは、ただイエスというひとりの人間が、あなたを罪に定めない、と言っているのではありません。イエスにおける「神」が、わたしもあなたを罪に定めない、と永遠不変の赦しを宣言したのです。「神」があなたの前に現臨して、「あなた」の罪を赦す、と赦しの宣言を告げたす。もうこれは、神の宣言である以上、二度と誰も変えることはできないのです。そしてもう一つ、重要な点は、主イエスにおける「人間」が、あなたのためにあなたに代わって、「わたしはあなたの罪を背負い完全に償い尽くす」という贖罪の宣言であります。この「贖罪の宣言」を聞き分けるのです。神の御子は、「神」でありながら、マリアより受肉して人の子として、私たちとために私たちの全く同じ「人間本性」を身に纏うて、今ここに立ち語ります。まさにこのように、主イエスご自身における「神」がそして「人間」が共に「わたしもあなたを罪に定めない」と約束されたのです。主イエスにおける「人間」は私たち人間を背負い、「神」に対して十字架の死に至るほどに従順を尽くして、人間の罪を完全に償い尽くして、神への従順と義を貫き、罪と不従順に勝利する、という宣言であります。