2021. 11. 28 小金井西ノ台教会 待降節第1主日
ヨハネによる福音書講解説教26
説教 「わたしは神のもとから来て、ここにいる」
聖書 イザヤ書64章1~11節
ヨハネによる福音書8章39~47節
聖書
8:39 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。8:40 ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。8:41 あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」
そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、8:42 イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。8:43 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。
8:44 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。8:45 しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。8:46 あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。8:47 神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」
説教
はじめに. アブラハムの子孫の担うべきつとめは、神の啓示の真理を証しすることではないか
先週の説教で、真理だけが、ただ一つ、あなたがたを自由にする、というイエスさまのみことばを聴きました。イエスさまのみことばにとどまり、イエスさまの弟子となり、みことばを信じて受け入れる。そうして真理を知る者だけが自由になることができる、という教えでした。そして「真理」とは何かと言えば、それこそただ一つ、神は神の独り子である主イエス・キリストをメシアとして世に遣わし、御子は処女マリアから受肉して生まれ、神の子でありながら「人の子」として、人々の罪を償うために十字架において贖罪の死を遂げる。それこそが、神の御心であり、救いのご計画であり、神の啓示の真理であります。この十字架の救いのみに、神の真理があり、この十字架にこそ、決して枯渇することのない真実なる神の愛と憐れみが溢れており、このように主の十字架における神の愛こそが、ただ一つの真理である、ということになります。
しかし、ユダヤの人々は、特にその宗教的権力者たちは、神の真理を担うイエスさまを殺そうと計画します。主イエスは反対に「わたしたちの父はアブラハムです」と主張するユダヤの権力者たちに対して、父であるアブラハムが受けた唯一の真理とは何であるかを考え直すように、なぜあなたがたはそのアブラハムが受けた啓示の真理を正しく理解できないのか、と反論しています。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。8:40 ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。」と反論して、主イエスは、改めてアブラハムの子であれば、同じように、神の真理を信じて受け入れて、真理に従うべきではないか、しかも神の真理を直接に語る主イエスを認められないはずはない、とユダヤ人たちの矛盾を指摘し、彼らの真意を問い糾してゆきます。神の真理を共に分かち合うべき所で一致できないのはなぜか、なぜその真理を否定して、真理を語るわたしを殺そうとするのか、と問い糾します。問題は、「アブラハムと同じ業をする」とは、アブラハムのように、行き先を知らなくても神のみことばを信じてみことばに従う、ということであり、そこに神の祝福の源がある、ということです。アブラハムは、そして子孫であるユダヤ人たちは、いったい何のために神に選ばれ、どうして神の祝福を担う民となったのか、神は何のためにユダヤ人たちをお立てになり、選ばれたのか、その意味と役割を問うのです。それは、ただ一つ、神の真理を証言して証しするため、ではなかったのか、というわけです。それなのに、神の真理を正しく担うことなく、ましてや神の真理そのものである神のメシアまでも抹殺してしまおうとするのは、なぜなのか、と問い糾します。
1.あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。
そしてついに主イエスは「8:41 あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」と言い切って、ユダヤ人の罪を指摘します。つまり神の真理に従ってアブラハムの信仰を受け継ぐのではなくて、神の真理に背いた肉の父であるアダムによる原罪の法則に従い、人の肉の欲によって神の霊的な真理を歪めて汚してしまい、完全に神の御心に背いている、と断定したのです。ユダヤ人たちは、神の選びと祝福の契約において、何一つ制約されることはなく神の前で自由であるというその自由と特権を、いつの間にか、「人間の欲」にすり替えて、背きと偽りに腐らせてしまったのです。「アブラハムの子である」という特別な身分を利用して、自分たちの支配欲を押し立てて正当化し、ついには自己の支配欲を絶対化してしまったのです。その結果、その最大の障壁として立ちはだかる主イエスが邪魔になり殺して排除する、という決断に至ったと考えられます。
イエスさまの福音の教えの本当の意味は、そうだからこそ、かえってその罪を赦し罪から解放されて、初めて人は闇から光を得て真理を知り、罪の奴隷から自由となることができると教えるのです。だからこそ、そのあなたがたに代わって、わたしがあなたがたの罪を完全に償い尽くすために、今ここに贖罪の生贄として遣わされているのです、と主イエスは教え続けます。しかしながら、ユダヤの人々は結局、神の前でも、支配欲ゆえの律法主義的支配を正当化し、その言い訳に、だってわれわれはアブラハムの子だから、と主張したのです。言い換えますと、アブラハムにおける祝福を口実にして、しかもその約束の言葉じりだけで、自分たちの律法主義支配を正当化したのです。問題は、その律法主義的ユダヤ支配の背後に潜む「欲望」にあり、神の真理から離反して、支配欲や権力欲の奴隷に堕落してしまったことにあります。アブラハムはただ純粋に従順に、ただ神のみことばだけを信じて、行き先さえ知らぬままに、自分を捨てて、従順に神に従って旅立ちました。そこには、ただ神のご主権のみが立てられ、アブラハムは神のみことばにもとに空しく全てを神に明け渡して、神のみことばの示す祝福の国を信じて、旅立ったのでありました。ユダヤ人たちは、反対に、悪魔の誘惑に支配されて、自分の欲求と欲望の奴隷に堕落し、神との契約の言葉を自我欲求のために悪用して、自我欲求の実現に突き進んだのです。「アブラハムの子」という神の祝福のみことばが、権力者たちによる律法主義的ユダヤ支配に、巧みに利用され、その欲望や支配欲のために、神や宗教を利用し、民を支配し、資産を独占したのです。こうしたことは、この地上の世界では、たとえ宗教の世界であっても該当する事例であるかも知れません。そこは、宗教の世界でありながら、神の真理も愛も空しく失われゆく、人間としては甚だ醜く、悲しく哀れな現実であります。
2.自分で作り上げた神ではなく、真の絶対他者としての神を失うと・・・
いよいよ主イエスとユダヤ人との問答は、深刻な対立論争となり、単に見解の相違で終わることのできない事態に至ります。もはやイエスさまとユダヤ人との論争は、単なる見解の相違として処理できない、深刻な事態に発展して、ついに主イエスを殺す決断にまで至り、ユダヤ人たちの罪は非常に厳しく追い詰められてゆきます。主イエスを認めるか、殺すかの二者択一にまで追い詰められます。なぜなら、ちょうど徴税人のザアカイやレビのように、自分の権力や資産の全てを放棄し貧しい人々に施し、主イエスを受け入れ、主イエスと共に歩むか、それとも、主イエスを否定し抹殺してしまうか、いよいよ信仰的決断が迫られ、深刻に追い詰められてゆきます。今の権力支配をそのまま握りしめたまま、イエスさまに従う、ということはできないからです。根源から「あなたの真と偽」が鋭く問われるのです。
ヨハネによる福音書は8章41節以下で、そうした人間の魂の中枢で、何が起こっているか、こう描きます。ユダヤ人たちが「『わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です』と言うと、8:42 イエスは言われた。『神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。8:43 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。』」。このユダヤ人たちの発言から、彼らはユダヤを支配したいという欲求のために律法を利用しており、さらにそうした偽善を正当化するために、ついに自分たちの「神」を語り出したのです。ユダヤ人たちは、ここで神を「父」と呼んでいます。ここに致命的な「矛盾」が生じています。それは、一方で、神を父とする者が、同時にまた他方で、神を殺害しようと決断するのです。しかも民を救うために神がお遣わしになられたメシアである神の御子を殺すのです。神を殺すとは、神を殺すことで自己が神になることを意味します。神に成り上がってしまい、支配者となるのです。ここには誤った信仰の形がよく描かれているように思われます。悪魔は、人々の魂の最も奥深い所に潜んで、人々の魂を根源から操って誘惑します。悪魔の誘惑の虜の中で、人々は知らず知らずのうちに無自覚に欲望と欲求の餌につられて罠に嵌り、ついに人々の人格全体は欲望の罠に嵌り欲望の奴隷となります。その結果、支配欲などの自我欲求を餌に悪魔に誘惑され操られながら、結局は「神」を殺して、悪魔の乗り移った自我が神の座につくことになります。こうして人々は、自我欲求の意に沿うように自分の手で造り上げた捏造の神を語り出すのです。神とは、本当の意味からすれば、絶対の他者であって、入れ替わることはできないはずですが、「神」を殺して自我が神となり、本当の「神」を失うことになります。「神」を失えば、当然ながら、人々の心の中から真の審判者が失われ、その結果、謙遜の心は奪い去られて傲慢に代わり、自分は神を語り、律法主義の審判者となって他者を裁き始めるようになります。もうそこには「他者」を尊敬し認め合う余地はなく、ただ裁いて排除する排他主義と傲慢が残るのです。こうして、人々の心から謙遜も愛も失われ、傲慢と支配欲だけが支配するのです。他者を愛せない、他者を裁き始める、それは自己の謙遜を失った証拠であり、その本当の問題は、自分の魂のうちに生ける神を失ってしまった証拠でもあります。真実な意味で「愛」を失い、生ける「神」を失った世界で引き起こされる悲惨はすべてここにあると言えます。人は、人として、どこまでも絶対他者である、つまり決して取って代わることのできない絶対者である「神」の正義と憐れみを求め続けてこそ、初めて人であることができる、のではないでしょうか。「神」という真の審判者であり主権者を自分の中に認め、神の愛と憐れみに触れることで、人は初めて希望を知り、愛し合い助け合う尊さを知るものです。「良心」とはそういうものであります。それなのに、真の審判者である「神」を抹殺して、自分が神のようになって、神を語り、自己を絶対化することで、人は人でなくなるのです。私たちの心の中から愛の審判者である「神」が抹殺され失われると、良心は忽ち「悪魔の奴隷」「偽善者」に変貌してゆくのです。人殺しはそうした神殺しから生まれるものであります。ユダヤ人たちは、ここで「アブラハムの神」も殺し、「キリストにおける神」も殺し、ついに自分たちの支配欲を神に押し立てて、事実上、神なき世界を捏造してしまったのではないでしょうか。主イエスはさらに彼らに対して、峻厳極まる言葉をもって弾劾します。「8:44 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」と言って、彼らの人間の本質を抉るように厳しく糾弾しておられます。人殺しは神殺しから生まれるのですが、その神殺しは、悪魔の支配の誘惑から、自我欲求と自己絶対化によって生まれます。当然ながら、そこには絶対に「神の真理」はないのです。神のない所に真理もないからです。いつも、権力欲や奪い合いの中では常にこうした魂の腐敗と人格の死に至る病が進行しています。恐ろしいのは、それが、「神殿」を舞台にした宗教界の中枢で引き起こされていることであります。
こうして自己絶対化して神になってゆく人々に対して、主イエスはさらにこう仰せになります。「8:43 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ」と。ここには非常に深い警告が込められているように思われます。一つは「分からない」という闇の現実の自覚です。欲望と傲慢の余り、真理の光を失い、真理が分からなくなってしまうのです。単に倫理的な善悪の認知機能を失うのではなくて、人間として本質を喪失しており、人間が人間ではなくなってしまって、野獣以下に転落するのです。こうして人殺しは生まれます。それを取り戻すには、どうしても真の人間性を根元から回復するしか方法はないのです。その破綻し尽くした喪失してしまった真の人間性を根元から回復するために、まさに主イエス・キリストは、処女マリアの胎の中から受肉して人となり、そのご自身の人間本性において新しく回復してくださるのであります。これが、人類を根元から救うメシアの救いです。しかしもう一つ、重要でさらに深刻なことは、その真の人間性を回復してくださるお方を「救い主」として正しく知り、受け入れ、実際に出会うことです。そのためには、そのお方のみことばを聴いて深く学び、「救い主」として正しく認識する必要があるのです。みことばにおけるメシアの啓示を信じる信仰が求められるのです。みことばを聴きいれない所で、救い主に決して出会うことはできないからです。救い主と出会うことがなければ、決して真の人間性の回復はあり得ないのです。
3.神に属する者は神の言葉を聞く
このように、主イエスはユダヤ人たちに対して「8:44 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」と、彼らの病んだ、罪に支配される魂の姿を鋭く、しかもはっきりと断罪した通りです。つまり、ユダヤ人たちの心は、完全に悪魔を父として、悪魔からその本性が生まれている、と言い切っています。これが、闇の構図であり罪の真相であります。その闇のただ中に、その闇を照らして、死と滅びを命に造り変えるために、神の御子である主イエスは、この世に遣わされ、お出でになられたのです。それなのに、その真理を認め、受け入れることは出来ない、という二重の罪と悲劇を、彼らは背負ってしまっているのであります。主イエスは、皮肉にも、彼らに対して改めて諭します。「8:45 しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。8:46 あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。8:47 神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」と教えて、決定的な方向転換を迫ります。
本日より、待降節を迎えました。クリスマス礼拝は、既に古くから公に太陽暦の12月25日と教会で定められており、ただし一日は日没の闇より始まるとする旧約聖書以来の伝統により、正確には24日の日没から25の明け方に至るまでクリスマスの礼拝は行われ、日没には先ず「永遠の御子」の誕生を覚え、次いで真夜中には処女マリアから「受肉のキリスト」として誕生した御子を拝み、そして明け方には「キリストを迎えた世界」の新しい誕生を三重に喜び祝います。待降節は、そのクリスマスを迎えるまでの4つの主の日を辿り、4本の蝋燭に一本ずつ火を灯しながら、キリストをお迎えする備えをなします。しっかり今日覚えておきたい大切なことは、なぜ「待降節」が「クリスマス」の前に設けられたのか、ということです。4週間にも渡る期間の意味は何のためにあるのでしょうか。本来ならば、ただクリスマスを祝い、キリストをお迎えすればそれでいいはずです。それなのに、教会はわざわざ、その前に待降節をおき、それを必要としたのは何のためでしょうか。神はキリストとして地上に、この世界史のただ中に到来したのです。これは変わりのないことです。しかし問題は、その福音の真理を受け入れることができない人間にあります。メシアを受け入れるように、人々の魂を大きく開いて、心の世界を天に向かって解放して、神の御子が到来する「心の場」を用意するのです。自分の人生の神であり主は、自分ではなくて、「神」を、「キリスト」を、わが主としてお迎えできるように、心の全てを、人生の全てを、そして生活の全てを、主権者であり救い主である神の御子に明け渡すのであります。アドベントの期間を通して、神の御子に明け渡すための備えであり、心を天に向けて開く祈りが教会に求められているのです。ユダヤの人々に対して、洗礼者ヨハネがメシアの到来のために準備の洗礼を授けたように、わたくしたちもまた、この4週間を尽くして、心を開いて、御子イエス・キリストのために、すべてを明け渡してお迎えしてゆくのであります。そこに、唯一、救いと命の光、暗闇と絶望を照らす唯一の心の光が燈るのです。4本の蝋燭は、私たちの闇の心を照らす真理の光です。一本、一本ごとに、心を開いて神に明け渡し、4本目に火が燈るとき、私たちの心は、神をお迎えする神の国となるのです。