2021年2月7日「神の義にあずかる」 磯部理一郎 牧師

2021.2.7 小金井西ノ台教会 公現後第5主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答113~115

十戒について(11)

第十戒「隣人の家を欲してはならない」

 

 

問113 (司式者)

「第十戒(『隣人の家を欲してはならない』)は、何を言い表しているか。」

答え  (会衆)

「神の掟に背く、どれほど些細な欲望もまた思いも、

もはや二度と私たちの心のうちには起こることはありません

それどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、

あらゆる罪を憎みあらゆる義に至ることを願い求めるべきです。」

 

 

問114 (司式者)

「だが、そのように神に回心した人々は、この戒めを完全に守ることができるか。」

答え  (会衆)

「いいえ。この生涯にある限り、最も聖なる者たちでも、

ただほんの僅かな従順を始めるにすぎません。

しかし聖なる者たちは、掟にただほんの僅かに従うだけではなく、

真剣な意図をもって、すべての神の戒めに従う生涯を生き始めています。」

 

 

問115 (司式者)

「この生涯では誰も守れないのに、なにゆえ神は、それほど厳しく十戒を説教させるのか。」

答え  (会衆)

「第一に、私たちは、自分の全生涯を通して、

自分の罪に汚れた本性を、いよいよ深く認識すればするほど、

いよいよ熱心にキリストにおける罪の赦しと義を、求めるようになるためです。

次いで、私たちは、絶えず努力を重ねて、聖霊の恵みを賜るよう神に請い求め、

時と共に益々もって神の生き写しとして、新しく造り変えられて、

そしてついには、この生涯の後、完全なる完成を達成するためです。」

 

2021.2.7 小金井西ノ台教会 公現後第5主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教53(問答113~115)

説教「神の義にあずかる」

聖書 箴言21章1~31節

フィリピの信徒への手紙3章12~4章1節

 

本日は、いよいよ第十戒に入ります。十戒「隣人の家を欲してはならない」について、ハイデルベルク信仰問答113は「第十戒(『隣人の家を欲してはならない』)は、何を言い表しているか。」と問いまして、「神の掟に背く、どれほど些細な欲望もまた思いも、もはや二度と、私たちの心のうちには起こることはありませんそれどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、あらゆる罪を憎みあらゆる義に至ることを願い求めるべきです。」と答えます。「神の掟に背く、どれほど些細な欲望もまた思いも、もはや二度と私たちの心のうちには起こることはありません。」とありますように、非常に強い確信と覚悟に満ちた信仰告白をもって、神に対して力強く応答しています。罪とはきっぱりと決別する決断から、さらには「それどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、あらゆる罪を憎みあらゆる義に至ることを願い求めるべきです」と告白して、新たに生きる覚悟に漲り溢れた、大きな「方向転換の表明」を表白します。「あらゆる罪を憎み、あらゆる義に至る」という表現は、非常に希望と信念の力に漲り溢れ、とても新鮮で新しい精神の息吹を感じます。意欲的に神の戒めに向かおうとする、強い覚悟、同時にまた、豊かな希望と確信に満ちた信仰告白になっています。一言で言えば、希望と確認の告白です。

 

これまで、第七戒「姦淫してはならない」、第八戒「盗んではならない」、そして第九戒の「偽証してはならない」について、ハイデルベルク信仰問答から解き明かしを受けて来ました。これらに共通する、とても意味深い、そしてまた注意を惹く表現は、前回の問答112で申しますますと、「さまざまな嘘偽りと裏切りのすべては、悪魔の固有な働きとして、激しい神の怒りを拠り所にして、避けて斥ける」という表明です。即ち「激しい神の怒りを拠り所にして、避け斥ける」という表現です。また問答108の答えでは「淫らなことはすべて、神によって弾劾されます。それゆえ、私たちは不貞不倫を心から憎悪します」という告白です。「神によって弾劾されます」と訳しましたが、竹森先生は「神によって呪われる」とお訳しになっておられます。原典の古い用語に忠実に従えば「神によって呪われる」と訳すべき所でした。英語版でも同じです。現代風に訳しますと、「弾劾告発される」或いは「断罪される」となります。つまり、この大きな「方向転換」あるいは「回心」の背景には、「激しい神の怒り」があり、その心は「神の呪い」に向けられています。いわば、神に対する「恐れ(畏れ)」が、告白者の魂のうちに強く生じており、その恐れ(畏れ)から、この回心は生じた、と推測することができます。問答112では、敢えて意図的に「激しい神の怒りを拠り所にして、(罪を)避けて斥ける」と告白しています。どちらかと言えば、神の怒りや呪いをその恐怖心ゆえに消極的にとらえずに、むしろより積極的な信仰心による決断として解釈して、訳しています。神の怒りや呪いを「恐れ」から逃れるために忌み嫌うという意味で、罪を「避ける」のではなくて、反対に、神の怒りや呪いを畏れて、畏怖して、言い換えれば心の底から「尊い」こととして、むしろ正面から積極的に受け入れるという意味で、罪を避ける、罪を回避する。したがって罪を「斥ける」と意訳したわけです。なぜなら、激しい神の怒りを、罪を避ける「拠り所」にしているからです。神の怒りや呪いが、罪を避けて斥ける「拠り所」となっているからです。実は原典には「拠り所」という単語はありません。ただ、激しい神の怒り「に基づいて」(bei)という前置詞があるだけです。しかし、この前置詞には、空間や場所を示すほかに、「認識の根拠」を示す字であります。特に誓いを立てるときに、「~にかけて誓う」と表現して、誓いの根拠を示す字として用いられます。つまり「神の激しい怒りにかけて誓う」と誓いを立てているのです。明らかに、この信仰告白は、神の激しい怒りや呪いを十分認識したうえで、明確な覚悟のもとに、罪を回避し斥ける、とはっきりと言い切り、誓いを立てているのです。つまり「罪を斥ける道筋」となる明白な根拠と確信を秘めて言い表している、と考えられます。しがって、神の呪いや怒りを恐れて逃げ隠れするのではなくて、むしろ反対に、神の呪いや怒りをしっかり正面に見据えて、その呪いをそのまま罪を避ける根拠として、神を畏れ、神を畏怖して、行動決定をしているのです。それどころか、その神の怒りや呪いを拠り所や根拠にして、新しい決断と勇気を得て、方向転換を実現しているのであります。

 

そこで、神は「何」に対して、怒り・呪われるのでしょうか。神の怒りと呪いの対象は、「どこ」に向けられているか、改めて確認したいと思います。その正しい認識をもつことこそ、この回心と方向転換を決定づけているからです。どのような認識に至ったのでしょうか。「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉があります。これは、たとえどれほど「罪」を激しく憎悪し怒りを向けたとしても、かえって「人」を憎まず、愛と憐れみと同情を注ぐ、という意味のようです。言うまでもなく、神の怒りと呪いは、「罪」に対する怒りと呪いであります。「人」に対する怒りや呪いではないはずです。したがって問題の本質は「罪」にあります。罪は、どのようにして、この世に引き起こされたのでしょうか。問答113では「神の掟に背く、どれほど些細な欲望もまた思いも、もはや二度と私たちの心のうちには起こることはありません。」と告白していました。それはただ人間の決意だけを言い表しているだけではないように思われます。神の掟への背きが、どのようにして、私たちのうちに引き起こされるのか、それに対するある確固たる「認識」を持ったのではないでしょうか。その一つが先週触れました問答112の「さまざまな嘘偽りと裏切りのすべては、悪魔の固有な働きである」とする見解です。言い換えれば、神の怒りと呪いは、「悪魔の固有な働き」に向けられていることがよく分かります。人類最初に生まれて来た子カインは、弟アベルへの嫉妬に怒り狂って、弟アベルを殺害しようと企てます。すると、神はカインにこう諭します。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せておりお前を求めるお前はそれを支配せねばならない。」(創世記4章6節)。これはとても意味深い諭しの言葉です。人間はその霊と魂を尽くして、悪と向き合い、善を選択する尊厳をもっているのです。神は人間の霊と魂を信頼して、その魂に向かって、理解を求めます。残念ながら、カインは、「原罪」をアダムとエバから受け継いだままで克服できず、つまり「罪」を支配し治めることはできないまま、怒りと嫉妬に狂い、結局は弟アベルを殺害してしまいます。恐らく私たちも自分のうちに起こる罪を、カインのように、自分の力では支配して治めることはできない、と思います。その結果、神の呪いと怒りを受けることになります。そしてカインのように「4:11 お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる」ことになります。私たち人間の最も深刻で大きな課題は、まさにこの神のみことばに示される通り、「罪は戸口で待ち伏せておりお前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。この神のみことばを聴く、という課題にあります。家庭内で生じる傷害事件から、国家的或いは世界的な戦争に至るまで、結局は罪を根元から支配して治めることができるか、というこの一点にかかって来ます。教理的に申しますと、カトリック教会は、どちらかと言えば、「神の像」はまだ完全に壊れたわけではないので、善を選択しうる、したがって善行は可能である、と教えます。だからこそ、キリストに倣うことで、完成と回復を目指すことができるのだ、と考えます。ところが、私どもプロテスタント教会では、特に宗教改革者たちは、「全的堕落」と言って、アダムとエバの「堕罪」によって、「神の像」は完全に失われてしまったので、善行は不可能である、と考えます。だからこそ、キリストによる愛と恵みが必要であり、その信仰だけが人を救いへと導く、と考えます。いずれにしても、人類は、堕罪によって、人間性の本質が傷つき病んでしまい、罪ゆえに、神の怒りと呪いの中にあります。

 

こうした罪に堕落した人間の前に、ゼカリヤはついに立ち上がり、預言します。「8:13 ユダの家よ、イスラエルの家よ/あなたたちは、かつて諸国の間で呪いとなったが今やわたしが救い出すので/あなたたちは祝福となる恐れてはならない勇気を出すがよい。」とイスラエルの民に預言します。まさに神は、罪に堕落した民を心から痛み、憐れみ、愛している。したがって、このままに放置することはせず、必ずや、わたしが救い出すので、あなたたちは祝福となるので、恐れずに、勇気を出しなさい、と告げたのです。人々は、この預言、この「神のみことば」をついに聴いたのです。

そしてパウロは、この預言をしっかりと受け取るように、ガラテヤの人々にこう告げます。「3:13 キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」(ガラテヤの信徒への手紙3章13節)。ゼカリヤの預言は、ついに「キリストの十字架」において成就し、神の呪いは「十字架の贖罪」において既に回避された、とパウロは説いています。「キリストは、わたしたちのため呪いなって」と記されるように、キリストが、私たちの罪のために、私たちに代わって、神の呪いをご自身に受け一身に担われたのであります。だから、私たちはキリストのおかげで、律法の呪いから既に贖い出された、とパウロは証言します。パウロは、同じガラテヤ書の4章5節でも、「贖い出す」(エクサゴラゾー:evxagora,zw 「買い戻す、贖い出す」)という同じ字を用いて、「4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出してわたしたちを神の子となさるためでした。」と書いています。この、キリストにおける神の呪いと怒りは、物語でも理念でもありません。或いはまた、それを信じる信じないという人間の観念を超えた、実際の出来事であり、まさにユダヤ人たちの眼前でしかもローマ帝国という実際の世界史の中で起こった「世界史的事実」であります。信仰や宗教の違いを超えた「人類史における史実」であります。ユダヤ人も異邦人も人類は皆、人類全体の歴史のただ中に、この「キリストにおける神の呪いと怒り」は既に受けており、人間自身のうちに引き起こされ、担われているのです。それが「キリストの十字架」という神自らが引き起こした贖罪の事件でありました。私たち人類は、神の呪いと怒りの前に、キリストの十字架を持ったのです。

 

つまり、ハイデルベルク信仰問答113の確固たる方向転換の確信となる根拠はここにあったのです。キリストの十字架において、人類は既に神の呪いから贖い出されていることを、いよいよ深く認識したのです。しかも、もはや、人類は、神に背き、神の怒りを受ける者としてではなく、主の十字架を通して、神の愛を受ける「神の子」として、新たにそして大きく導かれているのであります。そこには、神の御前に立つ新しい喜びと希望に満ち溢れています。だから、恐れずに、心から隣人を愛し、全力を尽くして隣人を喜んでよいのです。こうした所から言えば、キリスト教は本質的に楽観主義である、と言えます。

末期癌におかされた友人が、かつて私にこう申しました。「信仰を持つと、とても楽よ!」と、とても平安に満ちた笑顔で語ったのを、私は今でも忘れられません。本当は、神の呪いに発狂するくらい、恐ろしいはずなのに、「ものすごく楽よ!」と言って、笑いながら、自分の死と向き合っている彼女は驚くほど輝いていました。それは、私たち人間が方向転換をしたというよりも、実は、神がキリストの十字架という大きな愛のみわざによって、世界を全く新しくしてくださった、人類は新しくされたのであります。悪魔の誘惑に支配され、罪による死と滅びによる定めを、大きく造り変えてくださったのです。私たちが、「自分の力」で、神の呪いを回避するのではなくて、キリストが「愛と憐れみ」によって神の呪いをご自身にお受けくださった、そのおかげで、神の呪いや怒りを私たちは回避することができた、というのが、正しい言い方かも知れません。キリストご自身が、ご自身の命を代価として支払い、肉を裂き血を流して、神の呪いと怒りを一身に引き受けて下さり、その犠牲により、私たちに向けられるべき神の怒りと呪いは回避され、私たちは、新たに「神の子」として、神のもとに買い戻されたのであります。したがって、神の呪い、或いは神の怒りと言う場合は、そこではいつも、キリストが眼前に現存し、キリストの十字架のお姿が鮮やかに見えているのであります。神の呪いや怒り、それは自分に向けられたものですが、しかしそこにキリストが血を流し肉を裂いて、私たちのために償い、贖ってくださっておられるのです。そのキリストを告白者たちは皆、息をのむようにしてじっと見つめている、のではないでしょうか。十字架につき、血を流しながらも十字架から決して十字架から降りようとはせず、苦しみに耐え抜き、私たちのために執り成しの祈りをささげ続ける、そのキリストの眼差しが、しかも自分に向けられたその眼差しが見えて来ます。そうしたキリストの十字架のお姿を見つめ、私たちの罪に対する神の怒りと呪いとがどれほど激しいものか、いよいよ強く感じられるようになります。しかし告白者たちには、その神の怒りや呪いと共に、キリストのお痛みが、わが身に迫って来るのではないでしょうか。先ほど、末期癌の友人の話をしましたが、キリストの復活も同じです。私たちは、キリストの復活において、復活の新しい人間性のもとに、永遠の命をもって新たに生まれたのです。死と直面しながらも、永遠の命を生きていることを知っているのです。しかもそれを「自分の力」で知るのでもなければ、自分で融通するのでもない。ただ神の恵みにより、すべてを神にお委ねさえすればよいのです。ただキリストの愛と恵みを認めて、信じて受け入れ、主に委ねれば、それでよいのであります。何の心配もなく、明るく元気に、キリストの十字架と復活において、よりよき道をただ前に向かって、感謝と喜びと希望をもって、進めばよいのであります。このように神の恵みを知り、神を信頼して生きることこそ、私たちの罪を斥ける方法であり、結果として「神の呪いを回避する」仕方であり、生き方であります。問答113の「それどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、あらゆる罪を憎みあらゆる義に至ることを願い求めるべきです。」という告白は、そうした希望を率直に言い表しているよう思います。そして迷うことなく、確実に、信仰の道を選択しています。

 

問答114は、こうした方向転換を「神に回心した人々」と呼んでいます。「だが、そのように神に回心した人々は、この戒めを完全に守ることができるか。」とまたしても問い直します。そして、「いいえ。この生涯にある限り、最も聖なる者たちでも、ただほんの僅かな従順を始めるにすぎません。しかし聖なる者たちは、掟にただほんの僅かに従うだけではなく、真剣な意図をもって、すべての神の戒めに従う生涯を生き始めています。」と答えています。この問答で、特にその答え方に、是非、注目していただきたいと思います。問答は、神に回心した人々は、この戒めを完全に守ることができるか、と敢えて踏み込んで、念を押すように、問い直しています。そして、とても正直に、あっけらかんと「いいえ」できません、と答えます。問答113で「もはや二度と私たちの心のうちには起こることはありませんそれどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、あらゆる罪を憎み、あらゆる義に至る」と、さっきは言い切っていたのに、問答114でまた「完全に守ることができるのか」と問われると、「いいえ」できません、といとも簡単に答えてしまっています。これをどう説明すればよいのでしょうか。私たちの、今ある姿を、どのように理解すればよいのか、ということになります。今はまだ、終末論的な意味で、まだ完成の終末時に至っていないので、まだ完全な救いは完成できていない、とよく言われます。しかし、同時にまた、既に世界は新しい完成へと向かって益々進んでいます。既に新しくされたが、まだ完成は完了していない、未完成と完成との「中間」の中に、私たちも万物もあるのです。キリストが再臨する、世の終わりと完成を待ち望む中間時にある、ということになります。したがって、互いに希望のもとに励まし合う交わりが、そして互いの罪を告白懺悔して、共に主に赦し請い求める祈りの交わりが、大きな意味を持つのです。そして、「主の祈り」において教えられているように、「われらに罪をおかす者をわれらが赦すごとく、われらの罪をもお赦しください」と祈るのです。だからこそ、新約聖書の人々は、特に、パウロの宣教した教会の人々は、日々「マラナ・タ、Marana-tha」(mara,na qa)と祈り続けていたようです。そうです。もう一つの大切なこと、そしてキリスト教信仰の特徴の一つは、「待ち望む」という信仰態度にあります。この世における自分の矛盾や偽善に見える現実によく耐え忍んで、神の恵みに依り頼んで、「完成の時を待つ」ことも、信仰による態度として、とても大切なことではないでしょうか。希望のもとに、確信をもって、忍耐強く、完成の恵みを待ち望むのです。パウロは「16:20 すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。16:21 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。16:22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。16:23 主イエスの恵みがあなたがたと共にあるように。16:24 わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。」(Ⅰコリント16:22~23)と挨拶を交わしています。この「マラナ・タ」とは、当時流通していたアラム語で「私たちの主は来られた」とも「私たちの主は来られる」とも訳すことができる言葉です。口語訳聖書は「われらの主よ、きたりませ」、新改訳聖書も新共同訳聖書も「主よ、来てください」と其々訳しています。つまり、新しい完成である神の国は既に到来し、その建設は始められている。しかし完全な完成には、まだ至っていないので、早く主が再臨して、完成させてください、という終末論的な祈りであります。パウロの手紙には、再臨を待ち望む祈りと共に、愛による励まし合いの交わりの豊かさが、よく示されています。未完成をどのように耐え忍び、終末をどのように待ち望むのか。未完成だからこそ、互いに心痛め合い、慰め合い、支え合い、励まし合うのです。こうして未完成だからこそ、うめきの中で、予期せぬ「愛の交わり」という恵みも、神はこの世においてお与えくださるのであります。問答114は、こうした「すでに」と「いまだに」という中間に生きる現実を、とても意味深長に言い表し告白しています。「この生涯にある限り最も聖なる者たちでも、ただほんの僅かな従順を始めるにすぎません。」と言い表し、同時にまた「しかし聖なる者たちは、掟にただほんの僅かに従うだけではなく、真剣な意図をもって、すべての神の戒めに従う生涯を生き始めています。」とも告白しています。「ただほんの僅か」であり、しかし同時にまた「すべての神の戒め」を生き始めてもいる、という微妙な表現となっています。この微妙な表現は、信仰経験の実態を示すものであり、聖化体験の実態を言い表すものでもあります。

 

この「マラナ・タ」についてよく話題になることですが、実は聖餐に与るときに、祈られた祈りであります。原始教会の祈りの中核は、キリストの再臨を求める祈りであり、しかもその共同の祈りの場は、聖餐に与る場であった、というのです。つまり信者は皆、口々に「主よ、来たりませ」と祈りながら、主の聖餐に与ったのです。それはただ単に終末論的な時間の問題ではなくて、主の身体、贖罪と復活の身体である聖餐に与ることで、いまだ完成に至らず、というこの「中間の時」を一気に、「永遠の時」へと超え行こうとしたのではないでしょうか。「マラナ・タ(主よ、来たりませ)」と祈りつつ、聖餐に与ることで、一気に地上から「天上の現実」へ、一気に死から「復活」へ、そして一気に「永遠の命」に移ることを祈りの本質としていた、そう祈り求めたのではないかと思います。キリストの十字架による贖罪と、キリストの復活による永遠の命を、私たちに完全に保証してくれる体験の場こそ、聖餐に与る場であったからです。そこで人々は皆、口々に「マラナ・タ(主よ、来たりませ)」祈り続けたのであります。

激しい神の呪いや怒りを前にしつつも、ほんの僅かな一歩ではあるが、すべてを大きく変えてしまう大転換の中で希望と確信に溢れ、そして未完成であっても明るく前を向いて進む、そうした信仰問答における「明るさ」或いは「楽観」主義は、まさにキリストの身体として生きる者の信仰体験から生まれる明るさであり、希望であります。完全ではないにしても、明るく元気に、全身全霊を尽くして、神の戒めと向き合うことができるのです。福音のみことばを聴き、主の十字架と復活のお身体に与る体験の中で、確実に私たちは完成へと導かれる道を歩んでいます。