2021年5月2日「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」 磯部理一郎 牧師

2021.5.2 小金井西ノ台教会 復活第5主日

「ハイデルベルク信仰問答」問答126

主の祈り(5)

 

 

問答126 (司式者)

「第五の祈願は何か。」

答え   (会衆)

「『我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ』です。それは、

どうか、キリストの御血潮ゆえに、私たち貧しい罪びとのために、

私たちのあらゆる罪業を、そしてなおもまた付きまとう邪悪な悪行を、数え挙げないでください。

このあなたの恵みの証しとして、私たちは、自分自身のうちに、

自分の隣人を心から赦そうとする断固たる決意が与えられていることを、

発見するからです(という祈願です)。」

 

2021.5.2 小金井西ノ台教会 復活第5主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教64

説教「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」

聖書 詩編51篇1~21節

マタイによる福音書6章5~15節

 

はじめに. 罪を犯し、自分の犯した罪を自覚し、自分の罪を償うには、

本日は「主の祈り」の第五の祈り「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」について学びます。「罪の赦し」を神に嘆願する祈りです。神に罪の赦しを願い求めるのは、言うまでもなく、私たちが罪を犯しているからであり、同時にまた、罪を犯していると自覚し認識しているからであります。そればかりか、自分が罪を犯していることを知ってる以上に、罪にいつも苦しんでいるからであります。罪を犯し、自分の罪を知り、自分の罪に苦しむ者でなければ、罪の赦しを願い求めることはないはずです。私たちが、罪の赦しを求めて祈るのは、実際に、自分が罪を犯しており、自分の犯した罪を知っており、そのために深く罪に苦しんでいるからであり、よって罪の支配から解放されることを深刻に求めているから、であります。

 

1.罪の判定基準である「神の律法」、そして「罪の裁き」と「罪の償い」が求められるが・・・

そこで、罪を犯すと申しますが、いったい私たちはどんな罪を犯したのでしょうか。ユダヤの民は、ほかのどの民族よりも、自分たちの罪の犯した罪をよく知っていたと思います。なぜなら、ユダヤの共同体には、とても厳しい神と民との「掟」があって、自分の言動一つ一つの善悪を厳密に測る基準があったからです。人間は皆、自分の都合や自分中心の考えや判断に基づいて善悪を決めます。その点、自分の思いが善悪を決定する判定基準にしているので、そこでは自分を正当化してしまい、善悪の基準は常に自分中心に揺らぎ、基準は失われます。しかしユダヤでは詳細かつ厳密な律法規定があって、律法を基準として全ての言動は判定されていましたので、罪も善悪も一目瞭然でした。言うまでもなく、ユダヤの民にその律法規定を与えたのは、彼らの「神」でありました。神が律法を与え、その神の律法が罪の判定基準となって、民はその罪を測られ、或いは数えられて、裁きを受けたのです。この神の律法について、主イエスはこう教えておられます。マルコ12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。12:30 心を尽くし精神を尽くし思いを尽くし力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。』 12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:28~31)。つまり、神に対する掟と隣人に対する掟です。言い換えれば、神に対する罪と隣人に対する罪が生じることになります。ここで、私たち人間が根本から問われることは、罪を犯さないこと、言い換えれば、完全に掟を守る責任を果たすことです。責任を完全に果たす、それを怠った場合は、その借りを完全に支払い罪を償い尽くすことになります。

そこで、へりくだって自分のことを謙遜に考えてみますと、神に対しても自分は常に完全であり、隣人に対しても自分は完全であり続けることができる、と言い切れる人は誰もいないのではないか、と思います。すると、明らかに、神に対しても隣人に対しても、私たちには掟を完全に貫徹する責任能力はない、ということに気付きます。であれば、罪を償うほかに道はないのですが、その償いも、償うことができない、という「無力」を知るばかりです。パウロは、罪についてこう告白しています。「ローマ7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:21 それで、善をなそうと思う自分にはいつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」(ローマ7:18~21)。このように、パウロは、明らかに、神の律法において破綻した人間本性を告白しています。つまり、私たち人間は、自分が罪を犯したこと、自分の罪を認識できること、そればかりか、ただ単に罪を犯さないという責任能力だけではなくて、その罪を償うことすらできない、という現実を背負っていることになります。したがって、二度と罪を犯しません、ということではなくて、罪を犯さないどころか、犯した罪を償うことさえできないので、どうか、犯した罪を赦し、どうかその償いも償い、どうかこのような負債をあなたが代わって支払ってください、と嘆願するほかに、罪を解決する道はないのであります。

 

2.「どうか、キリストの御血潮ゆえに、数えないでください」

ハイデルベルク信仰問答126は「第五の祈願は何か。」と問い、「『我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ』です。すなわちそれは、どうか、キリストの御血潮ゆえに、私たち貧しい罪びとのために、私たちのあらゆる罪業を、そしてなおもまた付きまとう邪悪な悪行を、数え挙げないでください、このあなたの恵みに対する証しとして、私たち自身のうちに、心を尽くして自分の隣人を赦そうとする断固たる決意があることを、私たちは確かに覚えていますので(という祈願です)。」来週の先取りになってしまいますが、問答127では、はっきりと「私たちは、自分では一時(いっとき)でさえ保ち得ないほど脆く弱い存在です。」と告白します。神に対して「どうか、キリストの御血潮ゆえに、数えないでください」と嘆願しています。ここで、とても大切なことは、自分の「破れ」を知る、罪を犯さないことにおいて、自分は無力である、と深く自覚している、この問答の出発点は、そうした罪びととしての自覚にあります。

福音書の中で、神の律法について「みな、こども時から守って来ました」と答える人物が登場します。この金持ちの青年は「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。そしてわたしに従いなさい。」と主イエスに命じられますが、しかし「悲しみながら立ち去った」のです。まさにパウロと同じように、律法の前で、涙ながらに、完全に破綻してしまったのです。まさに「破れ果てた自分」と向き合った瞬間でした。律法に破綻した私たちが、すなわち罪を犯し自分の罪を知って、しかも自分の犯した罪さえも償わねばならない自分と向かい合う場で、私たちのできることとはたった一つ、「罪の赦しを乞う」だけであります。問答126の文言で言えば「どうか、キリストの御血潮ゆえに、私たち貧しい罪びとのために、私たちのあらゆる罪業を、そしてなおもまた付きまとう邪悪な悪行を、数え挙げないでください」とありますように、すなわち罪を罪と判定しないで、そしてその裁きを行わないようにしてください、と嘆願することになります。この祈りでさらに重要な点は、果たして自分の罪を「誰が赦し誰が償ってくれるのか」ということです。罪が赦されず、罪が償われなければ、自分は永遠に人でなしで終わり、人格としての尊厳ある本質は、その場で失われます。まさに人でなしです。したがって、神と会衆の前で、ただひたすらに「邪悪な罪をも、どうか、キリストの御血潮ゆえに数えないでください。」と嘆願する外に道はありません。

ただ、この嘆願の祈りにおいて、最も大事なことは「キリストの御血潮」において、「罪の償い」とその償いを成し遂げられた「主キリスト」による神の恵みを知っている、ということです。「数えないでください」と敢えて直訳しましたのは、どれほど多くの罪業と悪行とを私たちが積り積もって堆積しているか、神は全知全能であって、その罪業の一つ一つを克明に数え挙げられる、ということをよく知っているからであります。反対に、この祈りは、キリストの十字架の死においては、その裂かれた肉と流された血によって、私たちの罪業の一つ一つ、そのすべてが完全に償いが行われた、ということを知っていて、心からその恵みを受け入れ、感謝をもって認め、そして全幅の信頼をもって信じいるのです。すでに罪の償いがすべて完全に、キリストの十字架において、すっかり完了したのです。だから「罪業や悪行を数える」必要がなくなったのであり、したがって「キリストの御血潮」ゆえに、罪は既に赦されてしまった、のであります。つまりキリストの十字架における贖罪を信仰によって受け入れ認めることで、罪の赦しは深く認識され、人格としての尊厳は罪とその償いから解放されていることになります。そこで新たに生まれる真実な思いは、御子イエス・キリストと御子を私たちの贖罪のためにお与えくださった神への感謝と讃美であります。それゆえ、私たちの精一杯できること、それは、ただひたすらに神に感謝と讃美を捧げることの外になす術は、何一つとして、ありません。罪を犯して深い悔い改めに至ったダヴィデは「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩51:19)と告白しています。この告白は、明らかに、贖罪者であるキリストを待望する預言として、解釈することも可能ではないでしょうか。

 

3.過去と現在を貫く終末論的な祈り

マタイでは「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように(avfh,kamen)」(マタイ6:12)と、アオリストの過去形が用いられています。ただしルカでは「わたしたちも自分に追い目のある人を皆赦します(avfi,omen)から」と、現在形になっています。「過去に赦さのだから、赦してください」と、或いは「今現在、赦しますから、赦してください」と、一見、読むことができます。今この時の中でしかも地上で祈る祈りである、と同時に、時を超えて祈る祈りでもある、という過去・現在・未来という時を超えて、いつの時にも天地を往来しつつ祈る祈りではないかと思います。昨日であろうと、今日であろうと、そして明日という未来であろうと、罪を赦していただき、互いに罪を赦し合うのです。いわば時空を超えて祈る普遍の祈りと言えましょう。その意味から、まさに主の祈りは公同の祈りなのです。

 

4.キリストの十字架の御血潮ゆえに

ここで、とても深刻な問題が生じます。先ほど、問答126で「私たちもまた、心を尽くして自分の隣人を赦しますから」と告白されていましたが、本当にそんなことができるのでしょうか。片時さえも自分で自分を保ち得ない自分なのに、罪を犯さず、悪を行わず、ましてや、正しい意味で、罪の問題を放棄することなく隣人を赦す、などということが果たして人間にできるのでしょうか。特に、ここで大きな問題となるは、人間の「罪の本質」を諦めて空洞化させてしまうことなく「罪の本質」を受け止めつつ、しかも同時に「自分の隣人を赦す」ということです。その点、「主の祈り」では、また隣人の罪を赦すと宣言するハイデルベルク信仰問答126でも、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」とありますように、私たちが、自分に罪を犯した者たちを赦す、とはっきり言い切って、宣言しています。難解な点は、果たして私たちに本当に他者の罪を赦すことができるだろうか、という点です。否、根源的に罪を犯した罪びとに、他人の罪を赦すとか赦さないとか、そんな資格が本当にあるのでしょうか。罪びとが罪びとを云々する資格などないのではないか、と思うのです。それなのに、ここでははっきりと「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と口に出して祈り、また問答126では「心を尽くして自分の隣人を赦しますから」と言い切っています。どういうことなのでしょうか。

ここでは、正直申し上げて、わたくしも自分で十分に理解できていませんので、説教として語り尽くすことはできない難所でもあります。しかし、ただ一つだけ、申し上げることができるのは、この祈りにおいて、徹頭徹尾「キリストの御血潮ゆえに」という決定的な信仰の前提がある、ということです。私たちの前には「キリストの血」が流されている、という現実の前に集められた者の祈りである、ということです。しかもこの主の祈りを祈る者たちは皆、主のながされた血潮の前で、深く悔いくずおれる者たちである、ということです。

先ほどご紹介しましたように、ダヴィデは「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩編51編19節)と祈りました。祈る者の心は「打ち砕かれ悔いる心」です。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と、祈る者たちの心を支配する思いは、つまりこの祈りの大前提は「打ち砕かれ悔いる心」であり、その心の中では大きな心の転換が生じており、それは神の御前で革命的に、いわば奇跡のように引き起こされた出来事であります。罪びととして、神の御前でひれ伏し「沈黙する」ばかりであり、ただただ涙をもって胸を打ちたたいて、自己の罪ゆえに打ち砕かれた「破れ」であり、神に対する「痛悔懺悔」です。しかしその悔い頽れる罪びとの眼前に、まさに「十字架の御血潮ゆえに」新しい出来事が引き起こされるのです。そこでは、神の御子であるキリストが血を流して、私たちのありとあらゆる罪業や悪行のすべてを背負って償い、負債を支払っておられるのです。詩編51編の詩人は「51:3 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。」と祈り、「51:21 そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときにはあなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。」と、この祈りを結びます。背きの罪を脱ぐ去られるそのときを、心から悔い頽れて待ち望んでいます。この「そのとき」を、今ここに、この祈りにおいて、このように私たちはあなたの恵みとして受けている、という決定的な出来事を経験しているのです。

問答126を、もう一度、読み直してみますと、「どうか、キリストの御血潮ゆえに数え挙げないでください。」と祈り求めたうえで、さらに「このあなたの恵みの証しゆえに、私たちは、自分自身のうちに自分の隣人を心から赦そうとする断固たる決意が与えられていることを、見出しているからです」と告白しています。

一見、負い目のある人を赦すことを「交換条件」にして、自分も赦してください、と祈っているように読んでしまいそうですが、忘れてはならないのは、先ほどの「キリストの御血潮ゆえに」という問答126の大前提です。聖書では、マタイは過去形、ルカは現在形と異なりますが、重要なのは、過去であれ現在であれ、またたとえ未来であれ、そこには「キリストの血」が十字架において流されており、その血によって、私たちを背き罪から贖う出来事が既に引き起こされている、という大前提です。たとえどんな罪であれ、如何なる罪びとであろうとも、決してキリストが十字架で流された「贖罪の血潮」から離れたで祈る祈りではない、ということです。キリストの贖罪の血は、私たちの罪を赦すための血は、わたしのためにすでに流されましたが、それは、あなたのためにも、彼らのためにも、そしてすべての人々のためにも流された「贖罪の血」であります。

 

5.「このあなたの恵みの証しとして、隣人の罪を赦す」

ハイデルベルク信仰問答126の中で、意味深い点は、キリストの御血潮ゆえに数え挙げないでください。このあなたの恵みの証しとして、私たち自身のうちに隣人の罪を赦そうとする断固とした決意が与えられていることを私たちは発見するからです」という部分です。鍵語の一つは「このあなたの恵みの証しつまり、隣人の罪を赦すという断固たる決意の根源に、その源泉として、「このあなたの恵みの証し」を自分自身のうちに見出しているからであります。「この」という指示語は、自分に最も近くにあって、言わば手に届き手に触れる所にある、否それ以上に、近くの自分自身の内にある、という現実を指しています。しかもそれは「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と証言される「あなたの恵みの証」です。「あなたの恵みの証しとして」として流された「キリストの血」です。キリストの血が、今ここに、奇跡のように、このように私自身の内にも流れ出すのです。しかもそれが、ついにはわたしの中の証しとして、断固たる決意となって、今ここに溢れ出したのです。その内で起こる出来事を、今ここに、このわたしのうちに、見て感じて体験して、発見して、認めることができる、と告白します。問答126は、文字通り「私たちの内に、見て発見している(finden)」と告白しています。それは、自分の力や意志を超えて、神自らが「神の恵み」の証明として実現した出来事であります。この神の恵みの証明とは、キリストの血ゆえに、神は罪を数えあげなかったこと、罪を赦されたこと、そして復活という永遠の命を私たちのうちに注がれたことです。主の祈りをささげる中で、弟子たちは、正に自分のうちに流れる「キリストの血」を見つめていたのではないでしょうか。自分のうちに泉なって湧き出て溢れ出るキリストの十字架の血を、まさに自分の中に深く覚え、十字架の体験を益々深くしているのではないでしょうか。その結実として、隣人を赦そうとする断固たる決断が心のうちに引き起こされた起こされたことを、キリストの御血潮ゆえに、引き起こされた神の恵みを、自分のうちに発見して、このあなたの恵みの証明として、と告白したのではないでしょうか。

この体験について、この祈りの共同体のど真ん中に立って、パウロはこう告知します。「11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これはあなたがたのためのわたしの体であるわたしの記念としてこのようにこれを行いなさい』と言われました。11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である飲む度にわたしの記念としてこのようにこれを行いなさい』と言われました。11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに主が来られるときまで主の死を告げ知らせるのです。」という聖餐の制定語です。弟子たちとその共同体は皆、毎日家に集まると、この制定語に導かれ、キリストの十字架と復活の身体を分かち合っていました。集会の中心で、このキリストの身体を、特に十字架において贖罪の死を遂げられたキリストの身体を分かち合い、正にこの「主の祈り」は皆でささげられていたはずです。共同体の民は、キストの「飲む度に、このように(これを)記念(想起すること)として行え」とする命令に基づいて、共にパンとしてではなく「キリストの血」として自己のうちに深く覚え、十字架に流された主の血をいよいよ深くそして鮮やかに想起したのです。その「キリストの血」ゆえに、当然ながら、互いに罪を告白し合い、そして互いの罪を赦し合ったはずです。そして復活の身体の約束のもとに、新しい人間の希望のもとに、未来の復活と完全に赦しの祝福を期待したはずであります。ヨハネが証言するよういに、まさに「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と。

実際に、弟子たちの共同体の中では、互いに隣人を赦し合っていたはずです。例えば、取税人マタイ(レビ)のような罪人との近しい交わりの中で、罪を告白し懺悔する交わりが日常的に行われて、マタイの教会の人々は、皆「赦しましたように、お赦しください」と祈ることができたのではないか、と思います。それは、その交わりの中心で、キリストの血が罪びとのために流されていたからであり、そのキリストの血を互いに分かち合っていたゆえの恵みから生まれたものでありました。キリストの血が流され、それに与ることで、確かに今神の御前で、あなたの罪の償いのために、キリストの贖罪の血が流されて、あなたの罪は赦されました、というその事実と現実を、人々は信仰と感謝をもって、互いに受け入れ、共有したはずであります。そのようにして弟子たちは本当に互いに「赦した」のではないでしょうか。マルコは、ガリラヤで徴税人レビの家でのことを伝えています。「2:14 アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいてイエスに従っていたのである。」(マルコ2:14~15)。元々、主イエスの共同体は、このように罪びと同士の共同体であり、「罪の赦し合い」を前提にして、主イエスは弟子たちを召し集めたことが手に取るようによく分かります。幾度もどんな罪びとであろうと、この共同体は罪を赦し合って来たのです。それが、キリストに従う前提でした。「キリストに従う」ということは、キリストの贖罪の血を受けて罪を赦していただくことに外ならないからです。

否、それ以上に、聖餐の制定というキリストの御心のもとで、すでに弟子たちもまた、キリストの身体としてキリストと共に十字架の死を追体験、共同体験しており、償いの中にあることを、自らのうちに深く覚えている、からであります。主語は「私たち」ですが、それは「キリストの血」のおかげで、「私たち」が主語になることができたのです。したがって意味上の主語、本当の主語は私たちである以上に、私たちを背負う「キリスト」の血であります。「キリスト」が、私たち全人類の罪のために、ご自身の血を流して代価を支払い、罪を償い、赦したのです。どうか、天にいます主なる神よ、私たちの罪をいよいよお赦しください、ということになるのではないかと思います。その中で、人間同士が罪を赦し合うという現実が生まれるのです。

 

6.新しい人間性に生きる希望の中で

十字架の血潮を受け、聖餐に与り、人々はひたすら「罪の赦し」の恵みの中で、互いに罪を告白し懺悔しつつ互いの罪を赦し合って来ました。お互いの間には「キリストの血」という無限の愛と贖罪の泉が溢れていたからです。キリストの血は、キリストの身体としての共同体全体を潤し養います。新しいキリストの身体として、メンバーひとりひとりに、キリストの血はひとりひとりの命と身体に深く隅々に滲み渡り、魂と身体を完全に贖罪し、新しい復活の霊と身体に養うのです。教理的に言えば、キリストによる義認と聖化の中で、新しい人間性が育まれ、復活という完成へと向かいます。その新しい人間性に生きる希望に包まれて、キリストの身体である共同体は、この歴史と時空を貫き、ついには超えて天に至るのです。そこには、過去も現在も未来をもすでに貫通した永遠の希望があります。マタイはアオリストの過去形で、ルカは現在形で「罪を赦す」と告白していました。それは、決して矛盾や混乱ではなく、時の中にしっかりと生き、同時にまた、時を超えて生きる、まさに終末論的な生の現実を物語るものであります。キリストの共同体、キリストの身体である教会は、まさに罪の赦しの恵みのもとに、永遠の完成に至るまで、日々新たにされているのであります。パウロは告白します。「わたしはキリストと共に十字架につけられています。2:20 生きているのはもはやわたしではありませんキリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19b~20)。