2021.8. 15 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第13主日礼拝
ヨハネによる福音書講解説教11
説教 「聖書は、わたしについて、証しする」
聖書 申命記18章31~47
ヨハネによる福音書5章31~47節
5:31 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。5:32 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。5:33 あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。5:34 わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。5:35 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。5:37 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。5:38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。5:41 わたしは、人からの誉れは受けない。5:42 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。5:43 わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。5:44 互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。5:45 わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。5:46 あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。5:47 しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」
はじめに. イエスとは誰か
主イエスは、安息日における癒しの業を通して、いよいよご自身についての真相を明らかにされます。その引き金となったのは、言うまでもなく、ユダヤの宗教的権力者たちとの激しい対立でした。前回の説教で、お話しましたように、ユダヤの律法主義との対決です。元々ユダヤの父祖であるアブラハムは「律法」を知りませんでした。神は、バビロンのウルに暮らす人物を選び、「みことば」をもって、語りかけます。「12:1あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」という、この驚くべき主のみことばを聴き、それを信じて、「12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った」のです。そこにあったのは、ただ神の選びと祝福だけです。その選びと祝福に、感謝と喜びをもって、アブラハムは従ったに過ぎませんでした。これが、みことばを通して語りかえ、ご自身をお示しになった聖書の神です。そこには、律法の陰も形も、全く存在してはいません。聖書の中核はすべて、このように、神の選びと祝福によって、貫かれています。
ところが、アブラハムやモーセによる神の憐れみを受け継いで、イスラエルという国が与えられたのに、ユダヤの民は、自分の欲望を求めて彷徨い、偶像崇拝を引き起こして、神に背き、深刻な罪に支配されるようになります。その結果、民は神の祝福から離反し、ついに紀元前586にエルサレムはネブカドネザルによって滅ぼされ、バビロン捕囚となり、亡国の民となりました。しかし神は、彼らを再び憐れんで、捕囚から解放し、エルサレムに帰還する機会を与えました。エズラやネヘミヤはその恵みに応えて、エルサレム神殿を再建し、律法を中核とする旧約聖書を再編纂しました。彼らは律法を重んじて、二度と罪を犯すまい、と堅く決意する共に、罪を犯した場合は、神殿祭儀において贖罪の献げものをすることで、徹底的に罪を償う決意をしたのです。その結果、どう律法を守ればよいのか、という日常生活の指導を担う熱心な律法学者たちがユダヤ社会を導くことになり、また贖罪のために神殿祭儀を担う祭司職が大きな宗教的権威を持つことになりました。こうして律法と神殿祭儀を中核とする祭司たちや律法学者たちが、ユダヤの民の魂と生活のすべてを支配することになったのです。しかし律法を完全に守り抜く能力は、罪人である人間には最初からありませんので、結局は「偽善と虚偽」の宗教生活となり、魂の底には「絶望と背き」が深く広がっていました。それでも宗教権力者たちは、その利権や権限を守るために、常に厳格に、外見上形式的に、次々と罪人を造り出しては裁きを加え、排除し続けたのです。こうしてユダヤの神殿祭儀と律法主義とは相互に結び付いて、ユダヤ社会を支配したのです。そこには、罪人として断罪され続ける貧しい人々、特に病を得た弱者は、希望も救いも生きる場も、与えられなかったようです。そうした人々を象徴的に代表した人物が、38年間ベトザタの池で絶望しつつも癒しを待ち続ける人物でありました。
主イエスは、安息日に、すなわち神の創造の恵みが完全に完成する日に、「安息日の主」として、この人物をお癒しになりました。まさに主イエスは、造り主である父なる神の御心において、愛と憐れみをもってこの人物を選び、語りかけ、癒しを行われたのであります。それは、アブラハムにおける祝福も、モーセによる出エジプトの解放も、そしてダビデの建国も、皆同じことであり、ただただ神の選びによる愛と恵みの賜物であります。律法主義や神殿による支配を遥かに超える、まさに地上ではなく、天からの新しい恵みでありました。しかしながら、こうした主イエスを通して遂行される神の愛のみわざを、律法学者や神殿の権力者たちは受け入れようとはしません。彼らが、民に求めたのは神による上から恵みではなく、自分たちの宗教的支配を受け入れることでありました。そうした神の恵みによる救いと解放なのか、それとも宗教的権力への恭順なのか、深刻な対立の中で、果たして、安息日に癒しを行う主イエスとはいったい誰なのか、それはどんな権限と権威に基づいてなされているのか、非常に深刻な問いとなってゆきます。3章で、ニコデモが夜に主イエスを訪ねた理由も、そうした深刻な問いが彼を支配していたからでした。聖書によれば「3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と、宗教的権威者であるニコデモ自身が告白している通りであります。まさに、ユダヤ全土において、主イエスとは誰なのか、預言者を遥かに超える神の使者であることは間違いないのですが、それはエリアなのかそれども別な神の使者なのか、決定的かつ非常に深刻な問いにあったことは間違いないことであります(マタイ16:13~20、マルコ6:14~16等参照)。
1.主イエスの自己啓示
本日の聖書の段落は、長い主イエスの説教を中核としています。ヨハネの特徴ある福音書の構成です。ヨハネによる福音書において、主イエスはまずしるしのみわざを行われます。そして主イエスのしるしのみわざをめぐりユダヤ人たちとの論争や攻撃が引き起こされます。こうした状況の中で、主イエスは長い説教をして、ご自身が神のメシアであり、人の子として十字架の栄光に挙げられることを弟子や民に告げ知らせます。このように、ヨハネは、しるしのみわざ、論争と攻撃、そして主イエスの説教という展開形式で、福音書を書き上げています。そして、その長い主イエスの説教の中に、主イエスご自身が直接語られたみことばを中心にしつつも、さらにヨハネとヨハネの教会の信仰告白を重ね合わせるようにして、主イエスとは誰なのか、を明確に証ししてゆきます。本日の聖書箇所は、そうした主イエスの説教が、初めて登場する場面でもあります。そしてこの主イエスの説教において、神の愛による救いと裁きが、明らかにされます。
2.神と同質同等にして、万民の裁き主として降り現臨する子
そこで本日は、これまで主イエスご自身が語られたみことばを振り返り、先ず「イエスとは誰であるか」について確認してまります。5章17節に戻りますが、「5:17わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。 5:18イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされた(i;son e`auto.n poiw/n tw/| qew/|)。」と語っておられます。万物の造り主でありモーセにご自身を啓示した神は、主イエスの「父」であると呼び、その「父」は今まさに休まず働いておられるのであるから、「子」も共に同じように働くのであって、この安息日の癒しは、その父と一体となって働き活動する神のみわざの現れであって、神のみわざそのものであることを明らかにしています。しかも、さらに重要な点は、父と子が同じ神として共に今このように働いている、ということで、神とご自身とを等しい者とされた、と明記されています。「等しい」(i;soj i;son 形「等しい、等しく」)とは、同質同等の存在である、と言う意味です。つまりエリアのような,いわゆる預言者でもなければ、モーセやダヴィデのような指導者でもないのです。神と同質同等であるということは、全く本質的に、人間ではなく神である、ということになります。これが、イエスとは誰なのかという、最も重要な点です。イエスは人間であるが、神でもある、と言ったことになります。これこそ、主イエスご自身による決定的な自己啓示であります。しかも、この啓示のことばと内容を、すなわち主イエスを、人間でありながら「神」として、受け入れることができるか、というより複雑な真理問題へと展開してゆきます。したがって、神と同質同等であるので、父と子との間には、父も働けば子も働く、父が語れば子も語るというように、一切の違いは存在しないことになります。5章19節では「5:19子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」と、主イエスがお語りになっておられる通りであります。父と子とは、同質同等の神として、存在においても行動においても、本質的に全く同一同等である、ということになります。
次いで、主イエスは、ご自身の権威権能について、死者にも生者にも最終的な永遠の命の賦与する決定者として、特に最後の「審判者」としての権能について、明らかにしています。5章21節で「5:21 父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。5:26 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださった。」と仰せになって、主イエスは、命を賦与する決定権を有しておられることを明らかにされます。そして「5:22父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。5:27裁きを行う権能を子にお与えになった。」と宣言して、ご自身がただ単に神と同質同等にとどまらず、万民万物の前に「裁き主」として現臨しておられることを明言されています。
とても意味深い点は、この万物の「裁き主」として、今既にここに、ご自身のみことばにおいて現臨したもう、という宣言にあります。つまり主イエスは、今ここに、ユダヤの民を初め、私たちひとりひとりの前に「最後の審判者」として立ち給うて、このみことばを今ここで語っておられる、という点です。したがって今私たちは、主イエスが最後の審判者として語られるみことばの前に立たされていることになります。そこで、5章24節にありますように、主はこう言われます。「5:24わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。5:25死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
以上が、安息日の癒しというしるしが行われて、ユダヤ人との論争を引き起こし、ユダヤ人たちの攻撃を受ける中で、主イエスはついに、ご自身についての自己啓示の説教を行われる、という経緯であります。そしてその自己啓示とは、まさに父なる神と同質同等の神の子であり、しかもその神の子が、人の子として人間の姿をもって、人々の前に到来して、みわざを行っておれるのだ、と明らかにしたのです。
3.父がお遣わしになった者を、あなたがたは信じない
さて、このようにして、人々はついに、主イエスご自身による自己啓示のことばを前に、立たされることになったのです。それは「最後の審判者」としてのことばであり、「命の賦与者」としてことばであります。主イエスのみことばを心の内にとどめる、すなわち信じて受け入れる、ということが、人々にとっては、決断すべき次の大きな課題となります。そうした私たち人間に対して、主イエスははっきりと5章36節以下でこう言われます。「5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。5:37 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。5:38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」と、主イエスは仰せになり、人々が、主イエスのみことばを心にとどめて受け入れない、主イエスをすなわち神を拒否して排除しようとしている、と人々の不信仰を指摘します。神と同等同質の存在であり働きをしておられ、最後の審判者としてみことばを語り、自己啓示される主イエスを受け入れないで拒絶していることの不信仰と神の背きを厳しく訴えるのであります。
さらに深くかつ詳細に、その不信仰の問題を考えますと、「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。5:38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。」とありますように、主イエスは、まず人間には神を知る術が全くない、という人間の神を知ることの限界について教えます。したがって人間は、唯一、神がお遣わしになられた主イエスの言葉を通してのみ、初めて神に触れ、神と出会い、神と交わることが許されている、と主イエスは説いています。これは、わたしたちキリスト者の信仰生活にとりましては、とても重要なことです。特にプロテスタント教会で、神を信じて信仰生活をする、という点で、決定的な意味と役割をもつものが、「みことば」を聴いて受け入れる、という生活です。或いは、「みことば」を聴き分けることを通して、神は私たちの内に深く現臨して厳かに働き、救いのみわざを行われるのですが、その内なる体験を「みことば」を聴くことを通していよいよ深くかつリアルに重ねてゆく生活がここでは問われることになります。聖書を読むこと、調べることはできますが、それはまだ、神と出会うことにはなりません。神と人格的に出会うためには、みことばにおける主イエス・キリストを心から信頼し認め、受け入れることがその大前提となる、と仰せになっています。人格における命の交わりですから、先ず何と言っても、互いに愛し愛される魂の根源からの体験であり、心から尊敬をもって従う従順の喜びであり、命を尽くして誠実に共に生きることです。「聖書はわたしについて証しをする」と言われていますように、最も大切なことは、聖書から倫理や律法を引き出すことではなくて、主イエスと人格丸ごとを尽くして出会うことにあります。こうして私たちは、霊とことばにおいて、主イエスと共に人格的に生きることになります。
4.「聖書はわたしについて証しをする」
主イエスは「聖書はわたしについて証しをする(marture,w marturou/sai:現能主女複)」と言われましたが、その「証しをする」という字は、事実で間違いない証拠を上げて目撃者または経験者として真実を証言する、という意味の字です。後には、生涯命を尽くし死を通して証言を貫く、という意味でも用いられるようになりました。その具体例が「殉教する」或いは名詞では「殉教者」という意味に用いられるようになりました。この言葉の厳密な意味から大事な点を言いますと、そこには体験しつつ、命を尽くしてまた死を尽くして、真理を証明する「誰か」が目撃者として現存しており、その目撃体験した証言者がそこにいることで、真実であることの根拠となっている、という点です。したがって、主イエスは、聖書がただ単に文献や記録として、主イエスについて書かれている、と言っているのではないのです。極端に言えば、聖書の中に、或いは聖書の傍らに、或いは聖書を生み出した歴史の中心に、そこに神がおられ、神が実際に目撃し体験した事実を証言している、つまり神自らが働いておられるのだ、ということになるのではないでしょうか。神さまご自身が、聖書の歴史のただ中におられ、聖書の証言そのものを担い、証ししておられる、と理解してもよいのではないかと思います。信仰ゆえに殉教した殉教者たちも、同じように、ただ信仰を貫いて死んでいった、というだけではないはずです。信仰を貫いて死んでゆく殉教者の生涯の中心を貫いて、そこには証言者としての証人としてのキリストが共におられ、キリストと共に生きる命がそこに溢れていたのではないでしょうか。だからこそ、殉教は生まれたのではないか、と思います。聖書のことばを信じるとは、言語上の文言や意味を信じることを遥かに超えて、そのことばを自ら語り、自らの命と死を通して貫いて、みわざを行い、証言しておられるお方が、そこにおられる、ということであります。私たちは、みことばを聴くことで、まさにそのお方と出会い、交わり、そのお方にみわざの中に招かれ、引き入れられる体験を重ねてゆきます。こうして私たちは、みことばを通して、造り変えられるのです。みことばにおいて最後の審判者、みことばにおける永遠の命の賦与者のみわざと働きに招き入れられ、新しく創造され、生まれ変わり、永遠の命へと導かれ移されてゆくのです。
実はここに全てが、キリスト教の救いの全てがあるのではないでしょうか。プロテスタントの福音主義教会が宣べ伝える「福音の中核」の全てが言い表されているように思われます。宗教改革者たちは、「聖書のみによりて」という旗印のもとに、教会改革を断行しました。それは、聖書を、単なる歴史的記録文書にしてしまうのではなく、神の啓示そのものとして受け入れて、聴き従う、ということを意味しました。したがって聖書が朗読される、ということは、それは単に聖書の文書が朗読されているのではなく、聖書の朗読されるみことばを通して、私たちひとりひとりが、聖霊の働きの中に導き入れられて、最後の審判者であり、永遠の命の与え主であるキリストが現臨する前に立たされる、という神の出来事の中に招き入れられ、引き入れられることを意味します。律法学者を初めとするユダヤ人たちは、聖書のことばを自分の保身や利益のために利用して、つまり自分中心に読もうとしましたので、残念ながら、聖書の中で「生きて働く神」と出会うことはできませんでした。いくら聖書を読んでも、そこで出会うのは自分の欲望と罪と滅びでありました。なぜなら、聖書の中に、生きたキリストを認め、恐れをもって受け入れる、という信仰の出来事が伴っていなかったからです。福音書記者のヨハネは、この本質に、聖霊の導きのもとで深く思索することで気づかされたのではないでしょうか。「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と言われている通りです。元々、人間には神を自分の手で捕らえ、肉眼で見ることはできません。それほど神は有限な限られた存在ではないのです。まして自分が認められるような、自分が理解できるような、自分にしか通用しないような小さな枠に、神さまのお姿を閉じ込めたり押し込めることはできません。反対に、受け入れる私たち人間の側も、神の大きさに相応しく、受け入れる枠をより大きく、できれば無限に心を開く必要があるように思います。信じるとは、神さまの大きさに合わせるように、「5:17わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と主イエスが仰せになられたように、神さまは、常に働き、愛と救いのみわざを行い続けておられます。であれば、その働き続ける神の救いのみわざの中に、無限に働き愛のみわざの中に、包まれるように、私たち自身のすべてをお委ねすればよいのではないでしょうか。神さまの御心に合わせて、心を開くことであります。神に合わせて心を開くとは、神さまがなさろうとしておられる出来事の中に招かれ、引き入れられることであります。そこで神と出会い、神を知り、神と共に生きるのです。