2022.5.9 小金井西ノ台教会 復活第4主日
ヨハネによる福音書講解説教49
説教「わが主よ、わが神よ」
聖書 詩編22編25~32節
ヨハネによる福音書20章24~31節
聖書
20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
説教
はじめに. 主イエスとは誰か、どのようなお方なのか?
主イエスのご復活を、ヨハネとその教会は、どのように受け止めたのか、という視点から、主イエスのご復活について、お話をして来ました。前回は、ただ単に「肉体が生き返った」という不思議な奇跡を丸のみするように信じた、決してそれがヨハネの言う復活の「信仰」ではなかった、という話をいたしました。肉体が生き返る奇跡以上に、大事なこととしてヨハネが注目していたことは、「イエス」というおお方のご人格そのものでした。イエスさまのご人格全体と人格的に出会い交わることにありました。イエスさまは、いつも神さまがモーセに啓示した「わたしはある(エゴー・エイミ)」というそのままのお名前で、ご自身の本質をお示しになっておられました。しかも、ある時には、ご自身のうちに一体の交わりにある「神」さまを「父」と呼び、自らを「子」と呼ばれました。むずかしくて理解しがたい意味深長な表現ですが、ヨハネはそうしたイエスさまの中に、「子」を世に遣わす「父」なる神と、「父」に遣わされた「子」なる神が本質的に一つであり一致した交わりから、ご自身を見て、ご自身を啓示しお示しになれいました。つまり、ヨハネにとって、肉体が生き返ったかどうか、ということより、イエスさまとはどのようなお方であったか、そしてイエスさまとは、御子が人として受肉した「神」であった、その御子が受肉して人間性を背負い、世に栄光の勝利をした、それが「復活」というお姿であった、ということなのです。ヨハネは、福音書の冒頭で、使徒時代の古い讃美歌を引用して、イエスさまにおける「神(わたしはある)」について、「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と讃美告白して、主イエスとはだれであるか、イエスとは神のロゴスであり、永遠の神そのものであったことを讃美告白して、福音書を書き始めています。復活とは何か、というその真相と真実、実は主イエスとは誰であったか、ということの中に、全ての意味も根拠もある、とヨハネは気づいたのです。十字架の死も、復活も、そしてクリスマスの処女懐胎による受肉も、全てのことはどれもこれも、主イエスとはどのようなお方なのか、という主イエスのご人格の中から現れた出来事であります。そしてヨハネは、その主イエスとはいったい誰なのか、どのようなお方なのか、という根本問題において、永遠から神と共に存在し、万物の造り主である「神の言」(ロゴス)であり、と讃美告白して、福音書を書き始め、それから「1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と総括し、主イエスにおいて受肉した神であると言い表しました。神の栄光は全て、この主イエスという神の受肉者に現れ、それは完全な恵みとして人々に与えられ、万物を照らす真理の光である、という信仰告白です。ヨハネは、この主イエスご自身から、ご自身の真相を自ら語るみことばとして、「わたしはある」(ハーヤー、ヤハウェ、エゴー・エイミ)という神の名を用い、ご自身の本質を啓示し表しました。主イエスのうちに「わたしはある」と啓示した「神」は、まさに父と同一本質であり一体の交わりのうちにある子であり、神のロゴスであり、神の栄光と人類救済のために父より世に遣わされ子であり、父は子の派遣において栄光を受け、子は天から降り受肉したお身体において、十字架の死を遂げ、人類の罪を償い、神の義を貫き、そしてその受肉のお身体において、復活を果たし、人類の救済と万物の創造的回復と完成を成し遂げて、栄光を受けるのです。この受肉した神の子のお身体においてこそ、被造物全体は創造の回復と完成は貫かれるのです。これを神の栄光としてヨハネは証ししました。したがって、復活を信じるということは、主イエスをどのようなお方として信じ受け入れるか、という信仰の本質から初めて見えて来る神の真理なのです。ヨハネとその教会は、まさに主イエスにおける「神」こそ、即ち神として同一本質を共有する父と子と聖霊こそが、神としての栄光のみわざを世に啓示し、世において実現し成就するのですが、主イエスこそ、そうした三位一体の「神」の栄光を人となって露わに啓示する「神」ご自身であり、神の啓示者ご本人なのです。そうした栄光のみわざのうちに、御子の受肉も十字架の死もそして復活もまた、すべてのすくいのみわざを統合的に基礎づけた、それがヨハネの福音書です。したがってただ単に霊ではなく肉の身体が生き返る、という不思議な奇跡を主張するような、そんな単純なことではなかったのです。ヨハネの根本問題は、イエスさまのうちに力強くする神の栄光のみわざであり、神の本質が現される場こそ、主イエスの復活のお身体でありました。
1.「わたしたちは主を見た」(25節)
弟子たちは、トマスに「わたしたちは主を見た」と証言しました。ここで言う「見た」とは、単純な意味で、生き返った死体を見た、という物理的な目撃証言ではなかったようです。前回もお話しましたように、弟子たちは、「あなたがたに平和があるように」という神による平和と和解の宣言を受けました。そして神の平和と和解の宣言のもとで、つまり主イエスの十字架の贖罪によって齎された神の平和のもとで、改めて弟子たちは「使徒」として世に遣わされ、その使徒としての派遣には、人々の罪を完全に赦す「赦罪の全権委託」が与えられていたからです。したがって、正確に言えば「主を見た」という経験の中には、ただ単に主が生き返ったことを見たという物理的な狭い意味だけではなく、復活した主イエスとの全人格的な出会いを経験し、その交わりの中で、神の平和と和解のうちに入れられ、そこから新たに「使徒」としての使命を受け、さらには神の平和と和解へと人々を導くために、罪を赦す全権を与えられ、さらには、その保証として「聖霊」を吹きかけれられて、世に遣わされています。復活の主イエスを見た、という体験の中で、もっと意味深いことは、イエスさまは決して十字架の死において世に敗北し滅ぼされたのではない、という主の栄光と勝利を確認したことです。敗北どころか、かえって反対に、イエスさまの本質は、人として受肉した「神」であって、その人として受肉した「神」の栄光は、「人」として受肉したご自身の人間性において、十字架の死に至るまで神の義と栄光は貫き、罪と死と滅びとに打ち勝って、永遠の命をもって栄光の勝利を成し遂げられたことにあります。その栄光と勝利の現れこそ、復活のお身体において現わされ、明らかに示された、と言えましょう。「わたしたちは主を見た」とは、それを知った、それを信じ受け入れた、その真理を認識することが出来た、ということになります。主イエスの栄光と勝利において、主イエスにおける「神」は、十字架の死に至るまで従順に神の義を貫き、死と死者となって罪を償い尽くしたその人間性を義と認め、祝福と栄光のもとに甦らせたのです。復活の主を見たとは、主イエスの人間の身体のうちに現わされた神の栄光と救いのみわざを、しっかりと見届け体験したことに他ならないのです。こうして、主イエスの受肉した身体において、その生死(いきしに)を通して、神の愛と憐れみは完全に現わされ、全人類の罪は主イエスの背負う人間性において償われ赦され、復活のお身体をもって新しい永遠の命が吹き入れられたのであります。この絶大な神の栄光のわざのもとで、即ちまさに神による平和と和解のもとで、罪と死と滅びの恐れから解放されて、しかも神の完全な赦しと和解の宣言のもとで、弟子たちは主イエスと出会い、主イエスを見て、主イエスから「罪を赦す」全権を与えられ、世に「平和の使徒」として世に遣わされたのです。
しかし、こうした「主を見た」という喜びと祝福溢れる新しい創造世界の体験について、弟子たちはトマスに告げたのですが、トマスはそうした他の弟子たちの「体験」を理解できませんでした。言わば、弟子たちが「主を見た」という体験は、ただ単に復活証言者としての体験を遥かに超えて、それは「使徒」として「召命と派遣」を受けた体験であり、そして何よりも、主イエスによって与えられた永遠完全なる平和の和解の体験であり、罪と死と滅びからの解放という貴い体験だったのですが、残念ながら、トマスはその体験の場から外れていたのです。なぜトマスはこの弟子たちの共同体験から外れてしまったのでしょうか。単純に言えば、たまたまその場に居合わせていなかったのでありましょう。しかし深読みすれば、それだけではなく、トマスの考え方にその原因があったのではないか、とも憶測可能です。なぜなら、彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言っておりますように、非常に強烈な物理的実証を求めていたからです。人間の認識の尺度を遥かに超えた神の栄光のわざを、信仰という新しい恵みの尺度によってではなく、余りにも小さな人間の尺度から理解し納得しようとしていたからではないでしょうか。主イエスのご復活は、「神」のわざであり、しかも「神」の完全な「栄光」のみわざの現れであります。それは、人間の認識尺度を遥かに超える出来事です。神を「信じる」という新しい尺度のもとで、初めて正しく獲得できる神の出来事であります。
2.「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ」(25節)
しかし、このトマスの言葉には、示唆に富んだ重要な意味があります。いろいろな意味に解釈できそうですが、一つは、何と言っても、物理的実証という観点から、実際に甦った主イエスを「肉の身体」という形で見て触れる経験をもって、確認することを願ったことです。真実の基準は、肉体的な身体による判定を求めたのです。それは、実際に「人間」そのものとして、主イエスが復活したどうかを問題にしていたからではないか、と思われます。わたくしは、このトマスの願いは、徹底して肯定されるべきであって、決して否定的に非難されるべきではないと思います。なぜなら、事実、主イエスのご復活は、物理的に肉体をもった復活であり、主のお身体における永遠の命の発現であり復活であったからです。なぜなら「肉体」或いは「身体」こそ、キリスト教の人類救済の中核となって現れる場であるからです。キリスト教の救いは、肉体や身体を捨象して、単に精神や霊だけの救済ではないからです。大切なのは、復活とは、「身体」や「肉体」の救済であり、その栄光と勝利こそ復活の本質でもあるからであります。言い換えれば、それがそのまま失われた「人間性」の本質的回復となるからです。身体のない所に人間は絶対に存在できないのです。それが人間だからです。それでは、最早人間ではなくて幽霊や亡霊にすぎません。人間としての本当の健全さや生きている証しと喜びは、生き生きとした身体の営みを謳歌できること、そこに人としての人らしい在り方があります。だからこそ、生き返る、復活とは、身体の、即ち人間性そのものの復活であり、甦りであり、生き返りなのです。この意味で、トマスは正しい、と言わねばなりません。
もう一つ更に重要なことは、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」とありますように、あの方の「手に釘の跡」「そのわき腹」とはっきりと言っている点です。主イエスの両手の釘跡とは、十字架の上に掲げられた「ユダヤの王」という罪状書きのもとに、十字架に釘付けられた両手の釘跡であり、主イエスのわき腹とは、主の十字架における死を実現したトドメの槍による傷跡であります。つまり両手の釘跡と脇腹の槍の傷跡とは、主が確かに「死んだ」ことを証明する傷跡ですが、それ以上に大事な点は、それらの傷跡はただ単に「死んだ」証拠である以上に、十字架刑という主が「死んだ」意味と目的を指し示しています。主イエスの十字架の死とは、ユダヤの民を救う「ユダヤの王」として、即ち「神のメシア」として、民の救いのために死んだ「メシアとしての死」を表しており、ただ「死んだ」という事実に加えて、「メシアの死」を表しているからです。主イエスが死んだのは、自分たち罪人の「罪の償い」のための犠牲の死であり、民を罪から贖うのために贖罪の死の生贄であり、神の義のために献げされた「神の小羊」である、という神聖で厳粛な意味と目的をもった「メシアによる贖罪の死」であった、ということです。主イエスの十字架における贖罪の死こそ、神による平和と和解の根源となり、救いの証明となるはずの死でした。だからこそ、主イエスご自身も、死んでも生きる、と教えておられたはずです。したがって、トマスが自分の目で見ようとした主の手の釘跡は、そしてトマス自身がその手で触れようとした主イエスの槍の傷跡は、トマス自身の罪が御子を傷つけ死に至らしめた自分の傷跡そのものでした。その時、その傷跡のうちに、トマスは、主イエスが痛み苦しみ、死に至るまで、自分の罪の贖い、命を神に献げ尽くしてくださった主の愛を見ていたのではないでしょうか。しかもトドメの死ですから、最後の死の極致まで、人間として人間の罪を背負い贖罪と従順を尽くしたことを表します。
そしてここで最も重大となる問題は、主イエスの十字架よる「死」は、世の権力者たちによるメシア抹殺であり、神の御子の敗北として終わる死であったのか、という点です。復活はメシアの勝利であり、十字架の死の勝利であり、神による平和と和解の勝利ではないのか、という問題であります。トマスからすれば、主イエスにおける復活のお身体に、十字架の死のお姿を見て確認することで、十字架の死が意味ある救いとして、神によって認められ、神の祝福のうちに新しい世界創造の始まりとなるはずだ、と期待したかも知れません。そうしたユダヤの王として、神のメシアとして、贖罪の神の小羊として、ご自身に受肉した人間としての命のすべてを尽くして罪を償い、人類の全てを担い尽くして死んだ、そういう「十字架の死」の意味が、神において受け入れられ認められたのか、という問題です。主イエスは神のもとに罪と死と滅びに勝利したのではないのか。それとも、神のメシアは、罪状書きにあるように「ユダヤの王」として、政治的反逆者として、世の権力者たちによって処刑され、世から抹殺され、完全敗北に終わってしまったのか。主の敗北による絶望と恐怖の中で、自分たちもまた、最早生きる意味は完全に失われ、死ぬ外ない、とトマスを初め多くの弟子たちは思い詰めていた、とも考えることができるかも知れません。主の十字架の釘跡と槍の傷跡は、メシアの敗北を意味するしるしなのか、それとも、釘跡と槍跡を背負うお身体の復活は、贖罪のメシアの神における勝利と栄光なのか、という根本問題です。したがって、この点においても、トマスの主張は、まことに正しい問いであった、と言えるのではないでしょうか。
3.「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(27節)
そこに、主イエスはご自身の復活のお姿を弟子たちに再び現わします。「20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」と記されています。これは、明らかに他の弟子たちがした復活の主の共同体験そのものの再現です。トマスも、他の弟子たちと共に全く同じ共同体験に至ります。やはりその体験の中心は「あなたがたに平和があるように」というみことばを語り、神の平和と和解とを宣言する主イエスとの再会であります。それから、主イエスは、トマスに「20:27『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。』」と言われました。この主のみことばも、とても意味深い表現ですが、これもいくつかの意味に解釈できるのではないでしょうか。主イエスは、明らかにトマスのために、釘跡のあるご自身の手をトマスに差し出して、触れさせています。同じように、死の極致に至るトドメを刺された脇腹をトマスのために差し出して、ご自身自らトマスの手を取って誘うように、死のトドメとなった脇腹の傷跡に触れさせています。いわば、主イエスはトマスのためにご自身の手の傷跡をトマスにも与えて彼と共に共有しているのです。そして同じ死のトドメの傷跡のある脇腹もまた、同じようにトマスに共有させるのです。これはまさに、主イエスはトマスにご自身の十字架の死を与え共有させているかのように見えます。ただ生き返った身体を「見せた」だけではなく、トマスの手を通して、主のお身体の釘跡槍跡とそして主の十字架の死そのものを、同じ人間の「身体」において「共体験」させているのです。主イエスは、ここで主とトマスの同じ「人間の身体」において、主のご人格からトマスの人格の奥深くに至るまで、その全身全霊において、「十字架の死」を「共体験」として、写しているのではないでしょうか。まさにトマスは、自分の手で主の十字架のお身体に触れて、十字架で贖罪のために死んだお身体に今ここで与っているのです。そうした意味からすれば、これは、わたしたちが聖餐において差し出された主の十字架の死のお身体に与る、というまさにその原型ではないでしょうか。
4. 「わたしの主、わたしの神よ」
このトマスの言葉は、決定的な意義を持ちます。それはただ単にトマスの信仰告白というだけではなくて、人類を初め世界万物の信仰告白であり、最も簡潔な応答讃美となる言葉です。主イエスの復活の身体のうちに、全ての神の真理とその勝利が明らかにされ啓示され、トマスは、今そこで、その復活のお身体を自分の目で実際に自分の手で実際に触れているのです。しかもその主の復活のお身体には、両手には痛ましい釘跡がくっきりと残され、わき腹には鋭く突き刺された槍の傷跡が残されており、十字架の死において完全なる贖罪を果たされ、人間性の全てを背負おわれた主の命溢れるお身体に、トマスはその血の通う暖かなお身体に今まさに触れているのです。まさしく主イエスは、神のメシアとして、栄光と勝利のうちに、命溢れて復活し、今ここに立っておられるのです。トマスが見て触れた主イエスの復活のお身体は、まさに神の平和と和解、人類を初めとする被造物全体の勝利であり、新しい創造そのものを指し示していたのです。
5.「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
主の復活のお身体、それはまさに十字架の死から復活した主のお身体に触れて、まったく新しい神の創造的な勝利と平和を実感したトマスに、主イエスはとても意味深いことを告げます。「『信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』20:28 トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。20:29 イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」と教えます。これは、とてもヨハネらしい証言の仕方ではないかと思います。最もヨハネ的で、したがってその意味を理解するには、とても難しい教えです。つまりヨハネとその教会が、主イエスのご復活から受け継いだ信仰と神学がここによく現わされているように思われるのです。その特徴は二つあるように思われます。一つは「見た」という物理的な認識と並んで「聴く」ということによる認識方法が考えられます。主イエスは度々弟子たちを羊に譬えて、「10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」・・・10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と教えておられました。「一つの群れ」とは、神の民であり、神の教会を指しています。その羊飼いである主イエスと、教会とを繋ぐ唯一の絆は、羊飼いは自分の羊の名を呼んで(羊を)連れ出し、羊はその声を知っているので、ついて行く」という結びつきにあります。具体的に言えば、みことばを語りみことばを聞くということになります。みことばにおいて神はご自身のみわざを示し、みことばにおいて教会の神のみわざに与る、ということになるでありましょう。
もう一つ重要なことを忘れてはなりません。それは、ヨハネは主イエスの復活を、父と子と聖霊の三位一体の神の栄光のわざとして証言していることです。共観福音書は、どちらかと言えば、復活昇天ののち、聖霊が降臨して、教会が誕生する、という仕方で、救いの展開を描きますが、ヨハネは、主イエスにおいて、父と子と聖霊なる神は一体の形で、救いの真理は啓示されます。ですから、復活の主がそのまま復活のお姿を示し、その復活のお姿のもとに、弟子たちに聖霊を授け、使徒として世に派遣します。そうした復活の主は、聖霊に満ち溢れており、聖霊そのものを弟子たちに与えられるお方として直に弟子たちに向き合っています。言い換えれば、復活した主イエスにおける聖霊の働きを認めることができます。もしかしたら、主イエスは、ご自身の復活のお身体を物理的に見せて示す以上に、聖霊の力によって復活の勝利をお示しになっておられたのではないでしょうか。だからこそ、先ず「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とトマスに告げて、釘跡や槍の傷跡をお示しになったのではないでしょうか。そして今度は、トマスだけではなく、トマスを超えて、言わば「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と仰せになられた教会を想定して、教会は物理的に見ることに神の救いの根拠を置かず、告知されるみことばに神の真理の根拠を置くことを教えておられるのではないでしょうか。つまり聖霊を与え、聖霊の恵みと力を通して、教会はみことばを聞き分け、主について行くのです。そうした聖霊に導かれる教会を祝福して言われたのではないかと思われます。
前にもお話しましたように、ヨハネはこの福音書の冒頭で彼の教会が受け継いだ讃美歌を引用しています。その「ロゴス賛歌」と呼ばれる讃美歌には「1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とあり、本来、父なる神によるわざである万物の創造が、御子であるロゴス(言)と共有されており、ロゴス(言)のみわざとして讃美されています。このように、「父」による創造のみわざは、同時に「子」と共に、場合によっては「聖霊」と共に、本質的に一致して共有する「神」のわざとして考えられます。ヨハネの「神」とは、そういう父と子と聖霊が相互に一致し共有し合う「神」であり、それが「三一体の神」としての本質である、と考えられているように思われます。であるとすれば、復活の主イエスにおいて、「神」としては父も子も一致して一体に働き、栄光のみわざは常に一致して共有されるのです。父と子と同じように、子と聖霊も、復活の主イエスにおいて、栄光のみわざとして一致して一体に働き、御子と御霊の一致において、使徒を派遣し教会をつくるわざとしても常に一致して働き、そのみわざは共有されているはずであります。
ツヴィングリは、ルターとの聖餐論争において、キリストの身体は「天」に昇られたゆえに、「地」には現存しない、と主張しましたが、確かに、主の復活と昇天を聖書証言に基づく神の経綸として救済史的に見れば、しかも三位格其々の救済史的役割から見れば、キリストの昇天の後、聖霊降臨を記述することはその通りですが、主イエスにおいて、神の内在論的な相互交流という点から見れば、父と子と聖霊が同質一体である神としての働きは一致し共有されているはずです。ヨハネは、聖霊の伝授や使徒の派遣のわざにおいても、働きにおいて一体に共有し合う父と子と聖霊という三位一体の「神」を見ていたように思われます。東方神学におけるペリコレーシス(三位格の相互内在性)という教理から見れば、まさにヨハネの神学と信仰は、そうしたダイナミックな「神」の栄光のわざとして、復活顕現された主を描き、復活の信仰を言い表そうとしているのではないでしょうか。
6.「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
主イエスは、トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言って、諭しています。このみことばの意味は、「入って来て、見て、信じた」というあの言葉にも通じるみことばのようにも思われます。肉体を「見た」ゆえに「信じる」ことができたという意味で、見たことが信じる根拠となっている、と解釈することもできます。或いは「見た」という次元だけにとどまらずに、さらにそこから「信じる」というより神に近づく次元に至らなければならない、という意味にも解釈できそうです。どうしても人間的な常識からすれば、信じるという次元は、見たという次元に比べると曖昧で不確かなことと考えがちですが、どうもヨハネは反対で、神の真理については、見たという次元よりも、信じるという次元の方がより確かでより包括的で深い認識に至る、と考えているように思われます。主イエスご自身がトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである。」と仰せになっておられるように、明らかに主イエスや聖書の観点からは、「信じる」ことの方が、より確かであり、より幸いなことだ、と教えます。どうして「見る」より「信じる」方が、より確かで、より幸いなのでしょうか。
その一つは、やはり「人格」として相互に出会う、ということが背景にあるからではないかと思われます。単に物理的にしかも部分的に見たという次元を超えて、目には見えない、未来のことのように今の段階では何一つ検証できないこと、或いは時間を超えて向き合うべきこと、更には「人間の尺度」を超えた測り尽くせない領域に至るまで、より確かにより深くそしてより豊かに知り出会うことで、与えられる大きな幸いがあるのです。よく申し上げることですが、未来を見ることは誰にもできません。では未来はない、と言い切れるでしょうか。未来を信じて未来に向かって生きた者だけが、未来を現在に見た者となることができるのです。愛も同じです。自分は誰に愛されているか、最初から見えるわけではありません。その人の中に愛を信じてその人を愛した者だけが、愛を見て、愛を体験し、愛を生きることが出来るのです。しかもこうした未来や愛は、人間性における最も意義あることであり、人間性と命の「質」を決定づける事柄です。未来を見失った命も、愛を見失った命も、本当に生きている、という質の高い命と言えるでしょうか。肉も四肢もそれらは皆、このより意義のある「命の身体」のために仕え、構成し、形成する生命体の要素です。人間らしく生きる、いよいよ奥深い人間の存在や意味を考えますと、どうでしょうか。やはり見ることより信じることの方が遥かにその意味を知ることができるのではないでしょうか。ましてや、復活の主イエスは、単に肉体だけを見ることでは、その「生命体」全体を捉えることはできないのです。神として生きておられる無限性や永遠性、そして神の命や愛や自由に満ち満ちた全知全能の「神」を測る知ることは出来ないことです。したがって、信じて生きてみなければ、見ることも触れることもできないはずです。このように、見える世界が全てではなく、見えない所でこそ、本当の生きるべき世界もあり、無限の真理もあるのです。そうである以上、それに辿り着く唯一の道は「信じる」ことであります。無限の可能性は、「信じる」という一本の道にしか開かれてはいないのです。見えないと言って、信じることを捨ててしまえば、可能性の道は失われてしまいます。特に永遠の神を知り、出会い、共に生きることでは、信仰は決定的な意味を持つのです。
もう一つ、「信じる」ということを決定的に意味づけたこと、すなわち弟子たちの教会共同体として学び経験した「神の恵み」があります。「聖霊」の伝授です。「信じる」という幸い豊かな尺度は、実は「聖霊」による恵み豊かな賜物である、ということです。使徒たちは、そして信じた信仰共同体としての教会は、この復活の主より吹きかけられた「聖霊」を受けたのです。その「聖霊」による豊かな賜物として、信仰を引き起こして与え、信仰を助け信仰を導き、救いの真理に至らしめる、神の完成へと導く恵みであります。「見ないのに信じる人は、幸いである。」と告知された主の教えは、ヨハネとその教会において、全てを決定づける決定的な教えとなったのではないでしょうか。最早、トマスのように、生きた主イエスを「見る」よりも、「聖霊」の賜物として「信じる」共同体であることが、より大きな意味を持つのです。極論すれば、ヨハネとその共同体のように「信じる」共同体は、最早、主イエスを見る必要もないのです。なぜなら、既にこの福音の告知である主イエスのみことばそのものを信じることにおいてすべては完全に成就しているからであります。主のみことばの約束とその信仰において、教会は既に神の愛と永遠の命の内にあるからです。まさに神は、神のことばにおいて、最早、見ずとも、完全に現存し全てを差し出しお与えくださっているのです。そしてその元々の神の言葉である神の「言(ロゴス)」は、教会の宣教の言葉として、目に見える神の言葉であり目に見えない神の言葉として、現在しご自身を差し出して、共におられるのです。
このように、「見ないのに信じる人は、幸いである。」とは、そうした三一体の神としての一致し共有し合う神のみわざの中に展開する救いを、見えない聖霊の恵みのもとに、みことばによって導かれ、信仰によって形成される教会の幸いを示して、言われたことではないでしょうか。ヨハネはこの20章を「20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と締めくくり、福音書を記した主たる目的を明らかにしています。