2022年1月16日「あなたは神の子です」 磯部理一郎 牧師

 

2022.1.16.小金井西ノ台教会 公現第2主日

ヨハネによる福音書講解説教33

説教 「あなたは神の子です」

聖書 エゼキエル書34章1~51節

ヨハネによる福音書1章43~51節

 

 

聖書

1:43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。1:44 フィリポは、アンデレとペトロの町ベトサイダの出身であった。1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちはモーセが律法に記し預言者たちも書いている方に出会ったそれはナザレの人でヨセフの子イエスだ。」1:46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。

1:47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」1:48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。1:49 ナタナエルは答えた。「ラビあなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」1:50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

 

説教

はじめに 弟子の召命におけるメシア証言

前回は、アンデレとペトロの召命を読みましたが、本日はフィリポとナタナエルの召命の記事を読みます。段落としては、35~51節まで一息で読み通したい所ですが、本日は「弟子の召命のその二」という形で読むことにいたします。改めて段落を区切り読み直しますと、35~42節のアンデレとペトロの召命でも、その中心となる出来事は洗礼者ヨハネの告白証言で、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29, 36)に基づくメシア証言が貫かれています。アンデレたちは「それを聞いてイエスに従った」(ヨハネ1:37)と明記されておりますように、「見よ、神の小羊だ」と叫ぶ洗礼者ヨハネの証言を聞いて、主イエスの弟子となります。そしてついに「わたしたちはメシアにであった」というメシアの体験と証言に至ります。

本日の43節以下に紹介されるフィリポとナタナエルの召命では、先ずフィリポは「モーセが律法に記し預言者たちも書いている方それはナザレの人でヨセフの子イエスだ」(ヨハネ1:45)と告白しておりますように、旧約聖書において約束され預言されたメシアをナザレのイエスのうちに発見する、というメシア体験を告白しています。そしてナタナエルは、主イエスのうちに力強く働く」全知全能の神」の力に驚き圧倒されてしまったと考えられます。そこで、主イエスのうちに現臨する「神」を認め、「あなたは神の子ですあなたはイスラエルの王です」(ヨハネ1:49)と、メシアの証言に至ったと思われます。このように、弟子の召命の記事において、ヨハネによる福音書は「メシアの告白証言」に集中します。つまり、ヨハネによる福音書では、「弟子の召命」をどのように受け継ぎ振り返っているか、或いはイエスの弟子となるとはどういうことなのか、そしてその中心で何が起こったのか、受け止め直して伝えようとしているのではないでしょうか。明らかに、それは、メシアとの出会いであり、その出会いの体験から生まれたメシア告白と証言にあります。言い換えれば、弟子になるとは、まさにメシアを体験した者であり、メシアの告白証言者となることを意味します。このように、ヨハネ福音書における弟子の召命の記事は、メシアの告白証言としてメシアを告知するために、用いられ、組み立てられているのではないかと思います。

 

1.弟子の召命の記事をシノプシス(対観比較)する

そこで本日は、聖書の筋が分かり易く見通せるように対観表を用意しました。ご参考にしながらお聞きいただければ、と存じます。対観表は、左からヨハネの記述、右側にマルコ福音書、マタイ、ルカの記事が併記されていますので、四つの福音書を比較対照して違いや共通点を確認することができます。マタイは、ほぼそのままマルコの伝承を用いております。「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)という主イエスの召命が先ずあり、その呼びかけに応答するように「すぐに網を捨てて従った」(マルコ1:18)と記述されています。ルカによる福音書では、舟を漕ぎだして網を打て、と命ずる主イエスのみことば通りに、弟子たちが従って行動する中で、主のみことば通り、実際に大量の魚が網にかかるという出来事の中で、弟子の召命が遂行されます。そしてヨハネでは、メシア証言を言い表すという信仰告白を中核に、弟子の召命が行われます。アンデレやペトロなど、ここに登場する弟子たちの出身地が、其々カファルナウムとベトサイダと異なっており、少々複雑な思いは禁じ得ませんが、伝承される過程で違ってしまったようです。その意図は不明です。このように対観比較することで、マタイとマルコ、ルカ、ヨハネと、其々の持つ特徴が見えて来るのではないでしょうか。

話をヨハネの記事に戻しますと、弟子の召命で、アンデレとペトロの召命については「神の小羊だ」と叫び証言する洗礼者ヨハネの告白証言を聞いて、二人の弟子は主イエスに従います。二人のうち、一人は誰であるか分かりませんが、もう一人の弟子のアンデレは、兄弟のペトロに「わたしたちはメシアに会った」とメシアの告白して、ペトロを主イエスのもとに導きます。「わたしたちはメシアに出会った」(ヨハネ1:41)というアンデレの告白証言と、またそれに従って応答したペトロに対して、「ペトロ(岩)」という名を彼に与えます。「ペトロ(岩)」、即ち彼らのメシア告白を、主イエスは、固くて、揺れ動かず、浮沈の真理であるとして、承認して保証したということになります。これは単に、聖書に登場するアンデレとペトロだけの信仰告白に限られず、福音書を記すヨハネとヨハネの教会も含めて、そしてある意味で、そのさらに先にあるキリストを信仰告白する現代に至るまでの全ての教会に対する主イエスによる承認であり、保証であると言えるかも知れません。

 

2.「わたしたちはメシアと出会った」

そしてさらに弟子の召命の記事は続きまして、アンデレとペトロに続き、フィリポとナタナエルの召命です。前半35節以下の召命記事と後半43節の召命記事を比較しますと、両者の共通点が非常にはっきりしてきます。どちらも「メシアと出会った」とするメシア体験を象徴する動詞を中軸にし、そのメシアの体験は主イエスとの問答という形を通していよいよ鮮明に徹底され自覚されて、弟子の召命は実現します。主イエスの対話を経て、1章38節以下で、アンデレは「わたしたちはメシアに出会った」という体験的告白に導かれていますし、またペトロも、アンデレの「わたしはメシアに出会った」というメシア体験とその告白に基づいて、主イエスのもとに導かれ、ついに主イエスと対面する中で、「ペトロ」という名が与えらる、という決定的な承認体験に至ります。1章43節以下でも、フィリポは主イエスと出会う中で「わたしに従いなさい」という召命を受け、さらにナタナエルはフィリポと出会い、「わたしたちはモーセが律法に記し預言者たちも書いている方に出会ったそれはナザレお人でヨセフの子イエスだ。」という、やはりメシアとの生きた出会いと体験からメシアの告白証言に導かれ、さらに主イエスとの対話を通して、ついに「あなたは神の子ですあなたはイスラエルの王です」というより鮮明で自覚的な信仰告白に至ります。「出会った」という体験の中で、しかもより深い主イエスとの対話を通して、「メシア」を体験し、「モーセが律法に記し、預言者たちが書いている方」と出会い、「神の子」である「イスラエルの王」が、主イエスにおいて到来した、というメシア証言に導かれて、弟子の召命は完了します。

 

3.律法と預言に約束されたメシア、それはナザレのイエスである

フィリポは、主イエスと出会い、主イエスから「わたしに従いなさい」という直接の招きを受けます。その時、そこで、主イエスとの間で何がどのように起こったか、その詳細は記されておりません。しかし、おそらくは、このフィリポと主イエスの出会いの中にも、きっと意味あるメシアをめぐる本質的な対話があった、と推測することができるのではないでしょうか。ちょうど、最初にアンデレと主イエスとの間に、「どこに泊まっておられるのですか」「何を求めているのか」というメシアをめぐる本質的な対話がなされていたように、フィリポとの間にも同じように、特に「律法や預言」との関わりの中でメシアをめぐる問答がなされたのではないかと思います。だからこそ、その結果として「わたしたちは、モーセが律法に記し預言者たちも書いている方出会った」という非常に具体的な体験とその告白証言がなされているのではないでしょうか。フィリポの告白は、「旧約聖書」にしっかり基づくメシア告白として証言されています。こうして律法と預言に約束されていたメシアと実際に出会った、しかもそのメシアは、ナザレのイエスであった、という告白証言となって、ここに収斂されます。

 

4.あなたを常に見守る「神」がおられ、あなたは今その「神」の前に立ち、「神」と向き合っている

次に、アンデレは教会ペトロを主イエスのもとに導きましたが、同じように、フィリポも「モーセが律法に記し、預言者たちが書いている方に出会った」と告白証言して、ナタナエルを主イエスのもとに導きます。ところが、ナタナエルはペトロとは異なり、この誘いを拒絶しています。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言って、旧約聖書から教えられて来た、所謂律法学者たちの定説をもって、フィリポのメシア証言を否定してします。ナタナエルは、フィリポのメシア証言を頑なに否定して、拒み続けます。しかしフィリポはそれでも「来て、見なさい」と訴えます。ナタナエルは、フィリポと共に主イエスのもとに訪れ、主イエスと出会い、予想を超える迫真迫るメシア問答を通して、究極の体験と自覚に至ります。両者の対話の様子から推測しますと、やはり、このナタナエルと主イエスとの対話の背景には、律法や預言の意味をどう解釈するかという問題があったことを窺い知ることができます。先ず主イエスの方から「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」(1:48)という発言が先行して、対話は始められます。この主イエスの「まことのイスラエル人」という言葉から、また「偽りがない」という表現から、明らかに、ナタナエルとはどのような人物か、想像することができそうです。ナタナエルは、ガリラヤのカナの生れ(ヨハネ21:2)とされ、その名「ナタナエル」はギリシャ語で「神の賜物」という意味ですが、共観福音書では、十二弟子の名簿に「フィリポとバルトロマイ」としてピリポの次にあげられています(マタイ10:3,マルコ3:18,ルカ6:14)。ナタナエルは「バルトロマイ」という名で呼ばれていた人物と同一人物ではないか、と考えられます。問題は、主イエスご自身の言葉で「まことのイスラエル人」或いは「偽りがない」という彼の人となりを評価されている点です。またこの対話の終わりで、怪訝に思ったナタナエルは「どうしてわたしを知っておられるのですか」と対抗しますが、主イエスはそのナタナエルのことをさらに「いちじくの木の下にいるのを見た」と言って、その素性を一層明瞭に明らかにします。一般論として、暑い日差しの中でも熱心に律法を学ぶ人々は、いちじくの木陰を利用して学びの場としたようです。つまりナタナエルは、そしてフィリポもまた、もしかしたら熱心な律法の学徒として、また忠実誠実な律法の遵守者として、主イエスは彼らを高く評価したのではないでしょうか。その上で、主イエスはご自身のうちに溢れる「神の力」を発揮されます。二人の対話が深まるうちに、自然と主イエスのうちに漲り溢れている「全知全能」の力が彼に働いたのではないかと考えられます。ナタナエルを知らないはずの主イエスが、既にナタナエルを知っていた、それもずっと前から、言わば全能の神がじっと自分を見守るように見ておられた、という神と自分との関係性が明らかにされてゆきます。ナタナエルの本当の姿を見つめておられる方、おられた、否、今ここに、今自分の前に立っておられる、というのです。これはとても力強く頼もしい事実の発見であり、出会いであります。この出会いと事実の発見は、ナタナエルの人生の深くに大きな慰めを与えたのではないでしょうか。皆さんのことを、それこそずっと自分見守り、見ておられる方がいる、しかもそれが神であったとしたら、どうでしょうか。皆さんひとりひとりを「神」が、公正にしかも愛と慈しみをもって、いつも見守り、見つめておられたのです。その神と今出会い、厳然と向き合っている、という体験であります。あなたの全生涯をつぶさに見つめ見守るお方がおられ、それは正に「神」であり、今その「神」の前にあなたは立って向き合っているのです。あなたは間違いなく神と共に神の前に生きているのです。ナタナエルは、幼い頃から、いつもどんな思いで、或いはどんな苦悩の中で、律法を誠実に学び続けて律法に忠実に従い、そしてメシアはいつどこにお出でになるのか、探し求めて来たことを、主イエスは見ておられたのです。そして深い愛と慈しみに溢れて、今自分の前に立って、弟子として「わたしに従いなさい」とお招きくださっているのです。ナタナエルは、ついに驚きをもって隠された真相に気づき始めたのです。「神」は生きて働いてここに現臨しておられるのです。ここに登場しているのは、確かにナタナエルという個人ですが、ある意味からすれば、このナタナエルの生活はあらゆるユダヤ人を代表しているのではないかと思います。ユダヤの人々は皆、律法を学び律法に忠実に守って生きたいと願い、祈りの日々を過ごして来たはずです。しかし、一方で律法に忠実に生きようとしつつも律法に日々破れてゆくという自己矛盾の中で、どうすれば神の祝福のもとに救われるのか、捨てられた羊のように途方に暮れ苦しみ迷いづけた来たはずです。必死の思いでメシアの到来を待ち望んでいたはずであります。そういうナタナエルを初めとするすべてのユダヤ人たちの深い思いと生活と共に、「神」はずっと寄り添い、見守り続け、共に歩んでおられたのです。そしてついに今、このナザレのイエスにおいて、この「神」にしかも生ける神のメシアとして自分を招いて下さっておられるのであります。こうしてナタナエルは、主イエスとの深い魂を尽くした対話の中で「あなたは神の子です」「あなたはイスラエルの王です」という神のメシアを発見して出会うという「神」体験に至った思われます。

 

5.

しかしそこで二人の対話は終わりませんでした。より一層鮮明で地上を越えた神の真理へと肉薄する対話となってさらに展開してゆきます。主イエスは最後にこう切り出します。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」と告げます。主イエスは、先ず、ナタナエルが主イエスをメシアであると信じ受け入れるようになった動因を告げます。ナタナエルが主イエスをメシアであると信じた理由は、いちじくの木の下にいた自分を見ておられた、という神の全知全能の力に圧倒されたからです。言わば、主イエスの中に全知全能の神の力を見出し、それを認めたからです。それは、ただ単に全知全能というだけではなくて、主イエスの中に自分を常に暖かく見守り続け、慈しみに満ちて見つめてくださっておられた「神」が現存しており、今そのお方が自分の前に立ち、自分を招いて下さっている、と直感したからであります。まさしくこのお方を通して「神」がわたしを愛し憐れみ、お認めくださっておられるのだ、という深い感動と感謝が溢れたことでありましょう。

しかし主イエスは、そこにとどまらずに、ナタナエルにさらにメシアの本質を指し示され、より深く真実な信仰を求められたのです。それが「もっと偉大なことをあなたは見る」という主のみことばのうちに明確に示されています。ではも「っと偉大のこと」とは、どういうことでしょうか。ナタナエルは後にガリラヤ湖で復活の主に出会っています(ヨハネ21:2)。しかも弟子たちと共に、復活の主と共に、漁をして働き、寝食を共にして暮らします。復活栄光の主と出会い、ガリラヤ湖で漁をなし寝食を共にしています。こうした弟子たちの共同の体験は、復活栄光の主と共に働き寝食を分かち合う共同の生活でありました。しかしさらに大事なことは、ただ第三者として目撃した、ということを遥かに超えて、その偉大なことをナタナエルを初めて弟子たちは自分の生の出来事として、即ち当事者として体験したからではないでしょうか。言わば、証言者にとどまらす、自らのうちに生起することとして体験して告白する証言者となったのであります。具体的には、主イエスとの交わりにおいて、罪は完全に償い尽くされ、新しい従順な人間本性が生まれ、いよいよ新生から新生を重ねてゆき、永遠の霊と命に溢れる復活者として成熟成長する自分と自分の共同体を生きることができたからではないでしょうか。いよいよ深い主イエスとの霊的な対話を通して、いよいよ鮮明にされ明らかにされる偉大な体験であり、イエスにおける神の力を益々深く見て、触れて、体験して、生きる、という実際の信仰者としての体験であります。

 

6.主イエスとその告白証言に生きる中に、天は完全に開かれている

主イエスは、最後に、メシアと出会うことの意味について、さらに踏み込んでこう教えます。「はっきり言っておく。天が開け神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」と告げます。このみことばは、メシアの本質を告知する究極のみことばと言えます。急所となる言葉は「天が開ける」という宣言です。天は地に対して閉ざされていたが、主イエスにおいては完全に天は開かれている、とする神の宣言であります。主イエスに出会う、しかも信仰においてわたしたちはメシアと出会った、という無限の出会いの中に、天は完全に開かれている、という出来事が見えてくるのです。しかもその出会いの中で、そのメシアの信仰を通して天使が天地を貫いて上り降りしている、というのです。「天使」とは、中世では、特にトマス・アクィナスによれば「純粋形相」として定義されましたが、それは天のすべての原型となる形相が、すなわち神の知恵と祝福にあふれるさまざまな創造の原型を担う存在を象徴するものであります。神の知恵や神の意志を純粋に伝える霊的な媒体として天使は遣わされ現れます。天と地の全てにおける交わりであり交流によって、天地は一体となるのですが、その天地を貫く一体の交わりが、キリストのお身体において、実現している、という宣言であります。神のみわざとは、新しい創造のみわざを行うことであり、それは天地が相互に一体として祝福と喜びに溢れることを意味しないでしょうか。死んだ者が生き返り、永遠の命に溢れて神の栄光を讃えるのです。その典型的事例が、ラザロの復活であります。主イエスはラザロを復活させて、地上に新しい天の創造が到来したことをお示しなられました。地上は、罪と悪に滅びてゆく存在から、新しい天の命に満ち溢れようとしているのです。ナタナエルは、復活されられたラザロを初め、復活の主エスと寝食を共にするばかりか、弟子たちを初めとする主イエスの共同体全体が、メシアと共にあってメシアを告白証言する中で、天地は一体に結合されて、地上は天に飲まれてしまうかのように生まれ変わり、永遠の命の祝福に溢れようとしている現実を知ったのであります。

 

7.一人のナタナエルから、メシア告白を共有する共同体の告白へ

最後に、主イエスがナタナエルに対して語る呼びかけで、「あなたは」(1:48)という二人称単数から「あなたがたは」(1:51)という二人称複数に変わっていることにお気づきでしょうか。ナタナエル個人を指す単数形から、ナタナエルを代表とする新しいイスラエル共同体全体を指す複数形への転換です。そしてこの「あなたがた」の中に、わたしたちの教会も数えられていることを読み取ることができます。メシアを信じ告白するすべての信仰共同体に対して、主イエスと共にある人々に対して、既に天は完全に開かれている、と宣言してくださったのではないでしょうか。わたしたちは終末を前にするこの世の旅を続けています。しかし同時に、私たちが生きる場は、過ぎ去り滅びゆく世ではありません。私たちは、この世に到来した主イエスにおいて、肉となって、人の子として人間本性の全てを背う神のロゴス(言)を宿したのであります。教会の本質はここにあります。キリストの霊と身体において、地上にあっても天を生き、時の中にあっても永遠を生き、破れの中にあっても復活を生きる所に、私たちの生きる本質はあるからであります。