2022年3月27日「神の栄光が見られるとき」 磯部理一郎 牧師

 

2011.3.27 小金井西ノ台教会 受難節第4主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教43

説教 「神の栄光が見られるとき」

聖書 ヨブ記2章11節~3章10節

ヨハネによる福音書11章28~44節

 

 

聖書

11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。

 

11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え興奮して、11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。11:35 イエスは涙を流された。11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 

11:38 イエスは再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で石でふさがれていた。11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よわたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」11:43 こう言ってから、「ラザロ出て来なさい」と大声で叫ばれた。11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 

 

説教

はじめに.

先週は主に主イエスを迎えに出たマルタと主イエスの問答について聖書を読みました。この主イエスとマルタとの間で交わされた問答の中心となったみことばは「わたしは復活であり命であるわたしを信じる者は死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはないこのことを信じるか。」(ヨハネ11:25~26)という復活の告知にありました。「わたしは復活であり、命である」と啓示されたイエスさまのみことばには、二重の意味がある、と前回お話いたしました。「神」ご自身が自己啓示する神の名前「わたしはある(ハーヤー、エゴー・エイミ)」というみことばですが、これは、その唯一真の「神」が主イエスにおいて到来し現臨していることを啓示する言葉でした。単刀直入に言えば、父と子は一体の「神」として、主イエスにおいて現臨し、今ここに到来し、その結果、神の完全なご支配である神の国は、主イエスにおいて到来したことを告げるみことばす。そして二つ目は、父と子と聖霊の一体の「神」は、主イエスにおいて到来し現臨しているのであるから、したがって、主イエスにおける「神」は、父子霊一体であり一致して、万物の造り主であり、永遠の命を与える命と創造との根源であります。ここでとても大事なことは、主イエスにおいて「神」は到来し民の前に現臨している、という出来事が起こっていることです。この神の事実を、即ち主イエスにおいて「神」は到来し現臨し神の支配をもたらしている、ということを認めて、受け入れいる「信仰」が求められることです。主イエスにおいて神の新しい創造が行われ、永遠の命が与えられることを信じて受け入れ、この信仰において、その永遠の命に与るのです。人間の側からすれば、まさに主イエスを信じて受け入れる信仰を通して神のご支配に入れられる中で、新しい創造と永遠の命に与り生かされるという現実が始まったのです。神さまの側から言えば、主イエスにおける「神」は、永遠無限で全知全能であり創造と命の根源である神として、主イエスを通して、わたしたちのもとに来られ、地上のすべてのもの、すべての被造物のうちに力強く救いの介入しておられる、ということになります。完全なる「永遠」が、主イエスにおいて、未完成の「時」の中に、奥深く介入するのです。ですから、現在・過去・未来という時の流れの全てが、主イエスにおいて、神の永遠性のもとに包まれ支配され、しかも主イエスにおいて現在化されることになります。「命」が死と滅びのただ中に入り込み、万物に介入したのですから、死は永遠の命によって包まれ飲み込まれてしまったのです。そうした主イエスにおける神の決定的な介入が、ついに私たちの中に、始められたのです。この主イエスにおける「神」の完全な介入の中心は、御子の受肉を通して、マリアより受け取られた人間性において、しかも十字架の死に至る罪の償いと従順を貫くことにより、神の義は回復され、命の祝福をもたらし、永遠の命の復活となって結実します。これが、主イエスにおける「神」の到来の中心です。

そういう意味で、主イエスにおける「神」において、永遠の命が与えられる、という神の国が到来したという出来事を前にして、主イエスはマルタに「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と告げました。もう主イエスにおいて「神」は栄光のみわざを行われておられるのですから、当然ながら、それを受け入れるかどうか、厳粛に信仰的決断を迫られたのです。主の命の告知と信仰問いかけを、残念ながら、マルタはまだ正しく理解できなかったようです。それは、ある意味では、仕方のないことだと思います。人間が神さまのみわざを理解するのは、とても難しいことです。常に驚きと戸惑いの中で、神さまのみわざは受け止めざるを得ないからです。イエスさまも、そうした人間が神の啓示をそう容易く理解できないことはよくご存じだったはずであります。だからこそ、主イエスは意図的に、ラザロの訪問を遅らせラザロの死を待って、確実に臭うほど腐敗した死を迎えたラザロの墓を訪れることにしたのではないでしょうか。そうなのです。その人間の曖昧な不信仰を確かな希望に溢れた信仰に招くために、主イエスはラザロを復活させます。

 

1.「墓に泣きに行く」(31節)

本日の聖書は、ついに主イエスがラザロの墓を訪れ、ラザロを死の墓の中から甦らせる、という場面です。主イエスはまだ村には入らず、マルタは出迎えた所で死者の復活をめぐり主と問答を交わした後、戸惑い動揺しつつ、主イエスの問いに応えました。28節に「11:28 マルタは、こう言ってから」とは、そうした主イエスとの信仰問答を背景に、戸惑い困惑して、主の問いから逃れるように、「家に帰って」しまいます。マルタは「姉妹のマリアを呼び」とありますから、自分は主から逃れ、「これを信じるか」とする主の真剣な告知に対する応答については、マリアに委ねてしまうように見えます。わたくしたちもそうですが、いよいよ信仰問題の中心となる話題は避けがちです。こうした信仰問題の回避は、親兄弟夫婦と関係が近くなればなるほど、遠慮しがちとなることがあります。しかし主イエスは、いつものように、愛する人々の永遠の命の救いをかかっていますので、常に誠実にまっすぐに神の真理を告げ知らせるのです。伝道や牧会の難しさもここにありそうです。真剣に福音を伝えようとして、信仰問題を回避してしまう人々にどう語ればよいか、心痛める所でもあります。主イエスは、そんなマルタの信仰のためにも、やはりラザロを復活させて見せる必要をお感じになられたのではないかと思います。

さて、マルタが「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちすると、「11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。」と描かれています。マルタは、主イエスを出迎るようマリアを呼びに家に戻り、マリアは、村の人々と共に、主イエスをお迎えしたのです。主イエスに対する態度で、マルタとマリアの違うようです。主イエスにおける「神」としての真実な告知については、マルタは回避的で迎えてもてなすという人間的な対応に終始しますが、マリアはどちらかと言えば、主イエスにおける「神」と正面から向き合い、語られる真理を聞き分けようと集中してゆきます。

ついにマリアたちは、ラザロの埋葬された墓へと向かいます。31節に「11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った」とありますように、明らかに「死」を悼み悲しむ人々の感情が露わにされ、永遠の別れを嘆き悲しむ悲痛な場面が描かれます。私事で恐縮ですが、思春期の頃、母を癌で亡くし亡骸を荼毘にふす火葬場で、力が抜けて倒れてしまいました。初めて人には「死」あること、「死」の支配の恐ろしさを経験し、その深い絶望と空しさから、立つ力も生きる力も失ってしまいました。「死」と向き合うとは、喪失と絶望、その深く恐ろしい暗い淵に転落して二度と這い上がれず、死の滅びの呪いに完全に飲み込まれてしまいました。問題は、この世にある人間には「死」を乗り越えるどころか、真実な意味で死と向き合うすら出来ない、それほど「死」は人間の全てを根本から喪失させ空虚にしてしまうのです。ですから、「死」は、単に死者が死ぬだけではなく、周囲の人々の生きようとする命までも、生きる尊厳や希望までも奪い去って、絶望と敗北に飲み込んでしまうのです。ある意味で、死とは、死者本人以上に、周囲に生きる人の人格的尊厳や希望そのものまでも、根こそぎ奪い去ってゆきます。「墓に泣きに行く」マリアの姿は、そうした死による余りにも暴力的な掠奪であり、人格そのもの尊厳も希望も生きる力さえも奪い去っていたのです。

 

2.「泣き、憤り、興奮し、涙を流す」(33,34,35節)

ついに主イエスは、マリアたちと共に、ラザロの墓を訪れます。32節以下に「11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、11:34 言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。11:35 イエスは涙を流された。11:36 ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。11:37 しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。」と記されています。

このくだりで、特徴となる表現が二つあります。ヨハネは先ずここで死に支配されてしまった人々の絶望を描きます。マリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えます。複雑なマリアの感情がよく現われています。複雑な思いとは、一方で、主イエスが早く来て下されば、もしかしたら死なずに済んだかも知れない、という主に対する信頼と期待です。しかしその一方で、ラザロは死んでしまった、という死の現実は最早変えることは決してできない、という変更不能な死に対する無力と絶望が滲み出ており、残念無念という恨み辛みが表白されています。そうした悲痛な「死の現実」、それは死の支配に飲み尽くされた絶望であり無気力とも言えますが、それを共有するマリア、マルタ、そして弔問客も、絶望の涙に訴えています。ラザロの死の事実は、すなわち「死」は、こうした死に敗北し支配された悲惨悲痛な感情により、周囲の人々や或いは人間そのものを人格の根底から尊厳を奪い絶望させ、虚無の奴隷に貶めてしまうことです。「死」ゆえの悲痛な思いは、人々を「絶望と虚無」に転落させ、そして怒りや憎悪そして無限の恐怖となって支配してしまうのです。しかしさらに深刻な点は、死ゆえに絶望が人々を支配することは、その結果、最終的には、死に支配されたゆえの絶望は、主イエスに対する失望と不信に変わるのです。つまり日本の言葉で言えば、神も仏もあるものか、という決定な虚無となって現れます。36節以下に「11:36 ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。11:37 しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。」とありますように、一方で確かに主イエスの深い愛情を好感をもって受け入れながら、しかし他方では、それほど深い愛も、死に対しては無力である、と口々にしているように読むことが出来ます。死に対する人間存在の完全な敗北と喪失がはっきりと確認されています。

もう一つ、ヨハネは、死に支配された人々の感情を描いたうえで、今度は「死」に対する主イエスご自身の感情を描いています。これはとても意味深いことではないでしょうか。「11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」と表記しています。死に支配された絶望と悲痛な涙に訴える人々を見て、主イエスも同じように「死」の支配に対して、「心に憤りを覚え興奮して」「涙を流された」と明記されています。「11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。」と繰り返しており、ヨハネは徹底して主イエスの悲痛な思いを伝えています。

ここには、とても深い主イエスの「人間性」が表われ出ています。他の誰よりも、主イエスは、先ず「人の子」として、人間の生と尊厳そして深い感情の中で、生きておられたことがよく分かります。御子がマリアより人間性を受け取り受肉した、その「受肉」という出来事それ自体のうちに、人間に対する神の大きな愛と憐れみが込められているように思われます。この受肉した神が人を愛し人を慰め人に希望と力を与えるのです。教理的に言いますと、神人両性におけるキリストの「人間性」の意義と力を物語っています。言わば、人間の痛み悲しみ、特に希望や尊厳が死と滅びの恐怖の中に失われてゆくことに、「人」としての強い同感共感そして強い憤りを深く覚えています。主イエスはご自身の「人間性」の全てを尽くして、丸ごとご自身に背負い、共有し、共に生きておられるがとてもよく分かります。絶望して死の滅びに堕ちてゆく人間の悲惨は、そのまま、主イエスの人間性のうちに、そのお心とお身体全身のうちに、全て余す所なく引き受けられており、共有され、担われて

います。大事な点は、ただ単に神が人を救う、という話ではないのです。そうではなくて、神が「人間」として苦しみ捨てられ絶望して死んでゆく、その十字架の死に至るまで人間として人を救うのであります。主イエスにおける真の「神」は、主イエスにおいて真の「人間」として受肉した神であり、その神の受肉において人間は人間として慰めを受け、希望に勝利するのであります。

 

3.「その石を取りのけなさい」(39節)

そこで主イエスは動き出します。「11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。11:39 イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。」とあります。「再び憤りを覚えて」とありますので、主イエスの御心は激しい憤りとなって死の墓に向けられていることがよく伝わってきます。そこでまず主イエスは、墓の前に立ち、墓を塞ぐ巨大な石を取り除けるよう命じます。ヨハネ福音書の描き方で意味深いのは、「死の墓」に強い憤りを向ける主イエスのお姿を具体的に、言わば生々しく伝えていることです。マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」とまで言っています。腐敗し始めたラザロの死体から、腐敗臭に満ちた死臭が臭って来てあたりを包んでいます。それでも主イエスはそうした死による腐敗という現実の奥深くに入り込んでゆきます。死の本質は、人間の犯した罪の結果であり、罪の代償であります。自我欲求や欲望を餌に誘惑に負けて、神に背き神の義と恵みを投げ捨ててしまった結果、自ら招いた罪の報酬です。主イエスは、ご自身は罪を犯しておられませんが、この堕落して死と滅びに支配された悲惨な人間性全てを、ご自身のお身体の隅々において背負われ、ご自身の全身全霊において神への従順を貫き、全人類の罪を償い、神の義と命の祝福を復活のお身体において回復したのです。残虐な殺戮も醜い呪いや憎しみもその全てをご自身の人間性に引き受けて担い、十字架の死に至るまで人間であることを貫き通しました。使徒信条で「陰府にくだり」と告白しますが、死による腐敗も火で焼かれる悲痛さも、何もかも、全てご自身を開いてご自身の人間性において直かに向き合い、共に引き受け、担われるのです。このように死の腐敗臭がする死体の現実の奥深くにまで入り込んでゆくことは親兄弟でさえもできないことであり、人間には無力なことです。それでも主イエスは、死に対する激しい憤りと共に、そして何よりもラザロを思う深い愛と共感をもって、ご自身の全身全霊において、その現実を受け止め担い尽くします。

そして墓の扉を取り除けます。これはとても象徴的な表現です。主イエスは、ご自身のお身体において、固く閉ざされ何人も立ち入ることを許さない死の扉を取り除けます。言い換えれば、主イエスにおいて、固く閉ざす死の扉は解放されたことを象徴しているようにも見えます。バチカンの聖ペトロ寺院は、コンスタンティヌス帝によってペトロの遺骸の上に立てられた、と言われています。その上にミケランジェロが再建の設計をしたと言われます。墓とは、死の扉によって固く閉ざされた場から、主イエス自らが扉を取り除けて、その奥深く這いこんで、主のお身体のもとに深く扉は開かれ、主が深く介入され共におられる場となったのです。そういう意味で、墓は主の介入する場であり、主の体である教会の場となったと言えましょう。

 

4.「信じるなら、神の栄光が見られる」(40節)

主イエスは、墓の扉を取り除け、死の扉を開いた、ということにとどまりませんでした。「11:40 イエスは、『もし信じるなら神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よわたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』11:43 こう言ってから、『ラザロ出て来なさい』と大声で叫ばれた。11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって行かせなさい』と言われた。」と記して、ついに、主イエスはラザロを復活させたことを証言します。

この段落で、注目すべき所は、先ず何と言っても、「信じるなら、神の栄光が見られる」という宣言です。このみことばは二つのことを約束しています。先ず「死」は、「神の栄光の現わされる」ための場となり、呪いと絶望の場ではなくなった、ということを宣言し約束しています。しかも「神の栄光」のみわざは、信じて受け入れる「信仰」を通して、初めて人々に与えられ共有される「神の恵み」であることです。「信じる」とは、わたくしたち人間の側の主体的な決断行為でもありますが、大事な点は、信じる内容にあります。何を信じて受け入れるか、です。信じるのは、主イエスのおいて「神」が現臨し「神の国」の到来したことです。その「神の栄光」のみわざが、今ここに、主イエスにおいて現され展開していることです。神の永遠のご支配は、過去と現在と未来の全ての時を貫いて、時の中心として主イエスにおいて万物も時も支配し包み込まれるようになったのです。その主イエスにおける「神」と「神のみわざ」と「神の永遠の命」を認め受け入れ、共に「神の栄光」に即ち永遠の命の祝福に与るのです。信じるとは、そういうことです。すると、既に神の永遠の命のみわざは、今ここでこのわたしの内に、力強く実現していることが明らかにとなるのです。終末と完成回復の完全な先取りです。「神の栄光が見られる」とはそういうことでありましょう。

 

5.「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」(41節)

「11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』」と主は祈っておられます。この祈りで、少々不自然と思われるのは、元々は「願う」祈りなのに、「かなえられた」結果が表明され、同時に「感謝」がささげてられていることです。かなったのであれば願う必要はないし、願うなら感謝するの矛盾しています。実は、この祈りの「不自然さ」にこそ、主イエスのご自身の秘密が隠され、表白されています。私たち人間からすれば、「願う」、「かなう」、そして「感謝する」は、それぞれ異なる場面です。通常は「今」願い、それから「未来に」かなえられ、かなえられた結果、最後に感謝するものです。主イエスの祈りは、願うことも、かなうことも、そして感謝することも、皆一つのこととして、同時に実現しています。現在も未来もそして過去も全ての時間は、主イエスにおいて、一つに纏められ包括されており、それぞれの時の一つ一つは皆主イエスの現在において貫通されており、全ての時を主イエスは同時に支配するのです。言わば「神の栄光」のみわざは、主イエスを通して、万物の隅々にそしてあらゆる時の隅々に、染渡るように及んでいます。願いはなされ、かなえられ、感謝がささげられます。「神」は、即ち父と子と聖霊は、一体の「神」として、永遠に同一本質として、常に一致して、永遠に普遍的に万物に及んでいます。「神」は、その一致の全てを、主イエスにおいて、栄光のみわざとして現し啓示したのです。したがって時間を超越した永遠の神として、子が父に願うことは、すなわち父が子にかなえることであり、したがって子が父に感謝することでもあります。もし父と子に分裂があれば、子がいくら願っても、かなうこともあれば、かなわないこともありうることです。それゆえ感謝になるか、呪いになるか、その関係性も不安定です。しかし完全一致であれば、願っても一致ゆえにかなうのであり、感謝でもあります。

明らかに、「ラザロは復活する」という出来事は、これから実現する未来の復活ですが、この「よ、わたしの願い聞き入れてくださって感謝します」とみことばの意味の背景には、主イエスが三位一体の「神」における父と子であることを前提にしたみことばであり、祈りであります。しかしこの「神」の本質的な一致は、人々の目に見えない神の永遠の事実であり、それを主イエスにおいて「見せる」のです。主イエスにおける祈りの力とは、不思議で神秘的な魔術の力ではなくて、「神」の本質から生じる出来事であると言えましょう。それが、聖書は主イエスの奇跡として「見える」形で現わされたのです。ただ、人間の側には、表層で目に見える現象は認めることは可能でも、その本質や根源となる真相はやはり見ることも、理解することもできないのです。したがって「信仰」による外に道はありません。イエスさまが仰せになるように、やはり「信仰」を通して、触れ、出会い、体験する超越の世界なのです。「しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」と説明されていますように、見せて、しかもその目的はあくまでも「信じさせる」ためであります。そうしてついにラザロを復活させるのであります。

 

6.「ラザロ、出て来なさい」(43節)

主イエスは「11:43 こう言ってから、『ラザロ出て来なさい』と大声で叫ばれた。11:44 すると死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」とヨハネは証言して、主がラザロを復活させた瞬間を描いています。とても興味深い点は、主イエスがラザロを復活させるとき、「ラザロ、出て来なさい」と主が大声で叫ばれたことです。主イエスは、大声でしっかりと「ラザロ」と彼の名を呼んで、「出て来なさい」と命じています。この響き渡る大きなみことばの声を、死んで腐敗してしまったラザロは、不思議にも「ラザロ」と自分の名を呼ぶその声を聞き分けて、しっかり応答するかのように、死の墓の中から出て来たのです。前に10章で、羊飼いが羊の名を呼んで連れ出す、と言われた話を想い起します。稚拙な話になりますが、洗礼を受ける前にここを読んで不思議に思いました。死んで既に腐敗して動けないラザロは、どうして主イエスの声を聞くことができたのか、否、声を聞くどころか、自ら死の墓から出て来たのか、理解に苦しんだことを想い起します。

「復活」とは何なのか、それを考えるヒントがここにありそうです。どうして声を聞き歩いて出て来ることができたのでしょう。既に死んで腐敗してしまったザロは、腐敗はどうなったのでしょうか。先ず主イエスは11節で、ラザロの復活について予め「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と言われていました。つまりラザロの「死」について「眠っている(koima,omai kekoi,mhtai)」(11節)と表現されています。しかしその直後に、弟子たちは「ただ眠りについて話されたものと思ったので」、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」(12節)と言って、主がラザロの死をどのようにお考えになっておいでか、その真意を理解することが出来ませんでした。そこで主イエスは、改めて「ラザロは死んだのだ(avpoqnh,|skw avpe,qanen)。」(14節)と言い換えています。主イエスは、既に死者となったラザロを「死から復活させる」という栄光のみわざを予告したのですが、弟子たちは「死から復活させる」主のみわざをよく理解出来なかったようです。弟子たちは「死」を「眠っている」と言われた主イエスの意図を正しく理解できなかったのです。

では、なぜ、二度と目覚めて起きることのない「死」を、わざわざ「眠っている」と言われたのでしょうか。主イエスは、既に「この病気は死で終わるものではない神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)と言われ、その上で「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く(evxupni,zw evxupni,sw 眠りから覚ます)。」(11節)と言い、さらに「あなたの兄弟は復活する(avni,sthmi VAnasth,setai)」(23節)と言い換えられています。つまり主イエスは、眠りから覚ます、倒れ横たわる者を起こして甦らせる、という「神の栄光」のみわざを行い、その復活のわざを通して、「御子の栄光」が現わされる、と予告しています。したがって、主イエスは、最初から「死」(死んだのだ:アオリスト形)を、これから示される「復活する」(未来形)という神の栄光のみわざを前提に、その光のもとで、ラザロの死を見ています。言わば、既に死んでしまったラザロの死を未来の復活から見て、今は「眠っている」と言われたようです。

復活をめぐる誤解がいくつかあります。その大きな誤解の一つは、霊魂不滅説から、死を考えようとする誤解です。魂は永遠不滅であって死んではいないが、ただ肉体だけが死んだのだ、という考え方です。教会の葬儀でも、時々こうした誤解を耳にすることもありますが、死んだら霊魂は天に昇る、という考えるのです。しかしこれは、キリスト教の復活とは似て非なる最悪の誤解です。復活は霊魂の不滅に依存するものでは全くない、ということをしっかり覚えておきたい所です。教理の伝統から言えば、「人は理性を有する霊魂と肉体から成る」(アタナシオス信条37)と規定されていますように、二元論的に霊魂と肉体を分離分割する考え方はありません。パウロは「15:44 自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです(evgei,retai sw/ma pneumatiko,n)。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(Ⅰコリント15:44)と説き、どんな場合でも「体」のもとに人は存在することを告げています。特に復活の体を「霊の体(sw/ma pneumatiko,n)」と表現して、「霊」は「体」と常に一体で分離分割不能あり、「身体」において働くのです。霊が身体において一体として働くとき、「命」となり、それは「復活」となり、永遠の命として生きる身体となるのです。エゼキエル書37章の預言でも、「霊」は「骨や肉」に深く染渡るように宿り一体となって命として働き、生きた大きな群れとなります。確かに霊と分離分割した所で、肉だけが独立して命の存在として立つことはできません。しかし「霊」は「身体」において一体となって、即ち「霊の体」として、永遠の命として復活し活性化するのです。またこの私たちの「霊の体」は、キリストとその復活の身体を根源として、与り獲得されて、与えられます。ちょうどキリストが聖霊によってマリアの胎内に宿って人間性を着たように、キリストは、聖霊の恵みと力のもとに、みことばを通して、ご自身の身体に私たちを与らせて、霊の身体となして、守り支え支配し、永遠の命の身体を「復活の身体」として与えるのです。このように、常に霊と身体(肉)との一体において、人格存在は理解されます。大事なことは、その身体が神の霊から離れてこの世に依存し支配されて朽ちるのか、神の霊に支配されて永遠の命を得て甦るか、ということでありましょう。

「死から復活させる」という神の栄光のみわざは、「死」の滅びに対して「命」に勝利する、という栄光であります。ラザロの復活は、あくまでもキリストの十字架の死における贖罪と復活を先取りして、予め表わされた主イエスの十字架と復活の予兆であり、私たちの将来を象徴的に預言する役割を担っています。ですから、先ずキリストの十字架の死により人類の罪の代償を完全に支払い尽くして、贖われるのでなければなりません。主の十字架の血に与り、罪から贖われた者が義の冠に恵まれ、命の祝福に与ります。ここで重要なことは、キリストの十字架で流された同じ血と裂かれた同じお身体に与り一体とされることです。だから贖われ義と認められ、復活の栄冠に与ることができるのです。このみことば(説教と聖餐)によるキリストの十字架と復活を心から認め、感謝と喜びをもって、また讃美と栄光をもって与るのです。そうした主の十字架と復活の栄光を前提して、それを先取りした形で、それを示すために、主イエスはラザロを復活させたのです。それは、ちょうど聖餐式も同じです。最後の晩餐は、主イエスの十字架の最後を先取りして、主は主の十字架と復活のお身体を差し出して与らせたのえす。終末に迎える未来の復活も同じです。主のご復活と再臨を先取りして、主イエスはわたしたちのためにどんな不条理や絶望の現実に支配されようと、「復活」という永遠の命の喜びのうちに飲み込まれている復活の福音をお示しになられたのではないでしょうか。

キリストにおける福音を先取りして、その勝利の福音の光に照らし出されると、死はキリストにおいて「命」のうちに飲み込まれてしまったものに見えます。新たに永遠の命を与えられることを前提すれば、だから眠っていることと同じではないか、ということになるでしょうか。ラザロの現実は、「死」がすでに支配しているので、その肉体は腐敗臭がしています。しかし主イエスにおける「神」の支配の到来においては、神の栄光のみわざの光のもとでは、同時に永遠の命に溢れて起き上がる、という新しい生が今既に生起しているのです。復活のみわざを待ち望むとは、これから引き起こされる未来の復活を今ここで既に先取りして、「死」を「眠っている」と言われたのではないかと思います。

興味深い点は、それまでのラザロの肉体と人格が再生される形で、復活して、出て来たことです。ちょうど、復活されたイエスさまが、トマスに、ご自身の釘跡や槍跡をお見せになられたように、ラザロも自分の名前をしっかりと呼ばれて、「ラザロ」というたった一人の固有な人格が再生されて与えられる形で、復活したように思われます。しかもその新しく復活した「ラザロ」という名の人物は、その固有な人格を尽くして、起き上がり、歩いて墓から出て来たようです。そのラザロの様子を「11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」と記されています。ラザロは、人としての魂と肉体とをもって、しかもそれまでの個性豊かな人格として、復活しています。そこには、時間の経過も動作の経緯もその詳細は全く描かれてはいないのですが、それはまさに、主のみことばに応じて、しかも一瞬の出来事として、復活して死の墓の中から出て来たのです。主イエスは「ほどいてやって、行かせなさい」と言われますが、死と滅びの呪縛から肉体をほどいて解放し、人類が完全に「霊の体」として開放されて立ち上がる瞬間への応援であり、新しい旅路の始まりとして死の墓に勝利したせ宣言であります。