2021年5月30日「聖なる公同のキリスト教会と聖徒の交わり」 磯部理一郎 牧師

 

2021.5.30.小金井西ノ台教会 聖霊降臨第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答53~56

「第二部 人間の救いについて ―使徒信条―

聖霊なる神について⑵ ―公同教会の信仰― 」

(修正版)

 

問53 (司式者)

「『聖霊』について、あなたは何を信じるか。」

答え (会衆)

「先ず、聖霊は、御父と御子と共に、永遠の同一本質なる神です。

次に、聖霊はまた、私たちのために与えられており、

わたしのために、真(まこと)の信仰を通して、キリストにあずからせ、

キリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださり、

わたしを慰め、わたしの傍らに永遠(とこしえ)までも共にいてくださるのです。」

 

問54 (司式者)

「『聖なる公同のキリスト教会』について、あなたは何を信じるか。」

答え (会衆)

「神の御子は、全人類からご自身のために選び抜かれた民の共同体を、永遠の生命に向けて、

御子のみ霊とみ言葉を通して、真の信仰の一致において、世の初めから終わりに至るまで、

召し集め、創設し、そして守り抜かれます。

しかも、わたしは、その生命(いのち)あふれる共同体の一肢体(ひとえだ)であり、

永遠に(その肢体として)生き続けます。」

 

2021.5. 30 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第2主日礼拝

『ハイデルベルク信仰問答』問答54~56 聖霊なる神について(2)

ハイデルベルク信仰問答講解説教69

説教 「聖なる公同のキリスト教会と聖徒の交わり」

聖書 コリントの信徒への手紙一12章1~31節

エフェソの信徒への手紙4章1~16節

 

はじめに. 三位一体の神のホモウシオス信仰から、ホモウシオスの聖霊に与る

本日をもちまして、ハイデルベルク信仰問答の解き明かしは終了いたします。問答の取り扱いの配置が「教会暦」を考慮した配置となりましたので、「聖霊なる神」についての項目は「ペンテコステ」礼拝に当てられておりました。ハイデルベルク信仰問答の神学的特徴は、父と子と聖霊という三位一体の神を「使徒信条」に基づいて告白する、という構成になっています。しかもその使徒信条による三位一体の神をニケア信条によって解釈して解き明かす、という神学方法を用います。いわば、使徒信条をニケア信条によって補完し解釈するという方法で、ハイデルベルク信仰問答は「三位一体の神」を確保し継承しようとしている、ということになるのではないか、と考えられます。本日は、その聖霊の働きについて、最後の解き明かしとなります。先週の問答53に引き続きまして、本日は問答54~56の告白により、「聖霊なる神」について学びます。問答53では、まず「聖霊の本質」について、「聖霊は御父と御子と共に永遠の同一本質なる神です」と告白して、ニケア信条にの「ホモウシオス」に基づいて、使徒信条の「聖霊なる神」が解き明かされていたことを確認したところです。教会が「聖霊」を語るとき、否、「神」そのものを語るとき、どうしても教会が前提にすべき教理は、ニケア信条の「ホモウシオス」、すなわち父・子・聖霊の3位格(ペルソナまたプロソーポン)が共に同一本質である(ホモウシオス)、という教理です。なぜならキリスト教は教理的な意味で、まさにこの一点に、そのすべての存立がかかっているからです。それなのに、日本の教会ではまだ十分に成熟した信仰認識に至らないまま、教理については未成熟のままに、いまだに情緒的で感傷的な人情を基盤にしており、教会は神の教会という次元から人間集団ものとして誤解されてしまうのです。教会について、決定的に大事なのは、この三位一体の神にしっかり立つ信仰にあって、そこで、教会ははじめて教会として立つことができるのです。そして聖霊なる神は、この三位一体の神として、まさに三一体の神を背負って、私たちのもとに降臨し私たちのうちに宿り、私たちを神の教会として造り変えてくださるのであります。

宗教改革者たちは、特にハイデルベルク信仰問答は、カトリック教会に対して教会改革を進める中で、まず、徹底的に立つべき場として、ニケア信条の上に立って教会改革を断行した、と言えます。これは、宗教改革のもう一つの重大な特徴として、とても大切なことであります。宗教改革が「聖書」に基づいて断行されたことは、よく言われることですが、しかしそれに勝るとも劣らず、東西分裂前の古カトリック教会の生み出した基本信条に基づいて進められていることは、忘れてはならない、とても重要な意味を持っています。ローマで成立し長い時間をかけて西方教会で熟成された使徒信条さえも、ニケア信条によって補完解釈されてこそ、いよいよその真価を発揮することが可能となるのです。それを見事に実証したのが、宗教改革時代に生み出された数多くの信仰告白です。宗教改革は、必ずしも形式的な使徒の継承制度をもちませんが、東西を超えて分裂以前の古カトリック教会に堅く立つことを通して、教会信仰の普遍性を担保している、と見なすこともできるのではないでしょうか。その意味で、ハイデルベルク信仰問答は、聖霊の本質的な賜物とは何かを問い直しつつ、改めて教会の公同性または普遍性を確保している、と言ってもよいのではないでしょうか。

ローマ教会は、ローマ教皇制度に基づいて、わざわざ自分たちの教会を「ローマ・カトリック」という用語を用いて、その本質を言い表しています。聖公会も、その名の示す通り「アングロ・カトリック」と自ら呼んで、教会としての本質を表しました。ニケア信条や使徒信条は「教会」を「唯一の、聖なる、公同普遍なる、使徒による(una, sancta, catholica, apostolica)」教会と呼び、定義しています。ニケア信条は、まず「三位一体の神」を「ホモウシオス」(父子霊は同一本質である)において、教会の「普遍性または公同性」(catholicity)を確保します。第二に「ホモウシオス」(神と同一本質である)において、三位一体の神としての「聖霊の神」を確保しつつ、その聖霊なる神の降臨において、使徒たちが福音の証言者として立てられ、世界宣教へと遣わされたことを言い表します。つまりホモウシオスの聖霊の神に基づて「使徒の」(apostoica)教会は、その普遍性と公同性(catholica)を確保することができるのであります。この三位一体の神の教理と使徒的教会はさらに徹底して、三位一体の神の名による「洗礼執行」の普遍性にまで及びます。なぜなら使徒に与えられた世界宣教の中心は、三位一体の神の名における「洗礼」執行を通してホモウシオスの「聖霊」に与らせる、という使命にあるからです。「使徒による」「使徒の」とは、その本質において、ホモウシオスの聖霊に共に与る、という聖霊のもとに、教会の普遍性は確保されていることになります。使徒による教会の継承という点で、本質的にさらに重要な点は、「聖霊」の賜物を教会の本質として継承する、という点にあります。ローマ教会や聖公会を批判するために、形式と本質を分離分解してその歴史的継承の意義を否定する、というのは、決してよいやり方ではないと思いますが、ただ「ホモウシオスの聖霊に与る」という本質を失えば、教会の全ては空洞化してしまいます。その意味で、私たちひとりひとりが教会の普遍的価値を受け継ぐには、聖霊の賜物を本質的に受け継ぐのでなければならないと思うのです。洗礼を通してホモウシオスの聖霊に与ることは、ホモウシオスの御子に与ることであり、ついにはホモウシオスの三位一体の神に与ることを意味するからです。

 

1.キリストにあずかる

少々前後しますが、問答54は後に譲り、まずは問答55について、先に触れておきたいと思います。問答55は「『聖徒の交わり』について、あなたは何と理解するか。」と問いまして、「まず、信徒は、その誰もが皆、主キリストの肢体(えだ)としてキリストにあずかり、そのあらゆる富と共同体の恵みにあずかります。次に、いかなる者も、その賜物を、ほかの肢体(えだ)の救いや利益に役立てるように、自から進み喜びをもって心がけるべきであり、自分にはその責任があることを弁え知るべきです。」と告白します。そこでまず第一に、聖霊の決定的な恵みの働きとして、聖霊は、主キリストご自身にあずからせ、キリストの身体の肢体として、私たちを造り変えてくださるのだ、と告白します。前回学びました問答53では、冒頭で申しましたように、聖霊をホモウシオスの神として明記した上で、次いで聖霊の働きについて「わたしのために、真の信仰を通して、キリストにあずからせキリストのあらゆる恩恵を受けさせてくださり、わたしの傍らに永遠に共にいてくださいます」と告白していました。先週の問答53の聖霊の本質と働きを受けて、本日の問答55でも「まず、信徒は、その誰もが皆主キリストの肢体(えだ)としてキリストにあずかりそのあらゆる富と共同体の恵みにあずかります。」と告白しています。つまり聖霊の働きの中核は何か、という点で言えば、問答53では「わたしのために、真の信仰を通して、キリストにあずからせる」こと、そして問答55では「信徒は、その誰もが皆、主キリストの肢体(えだ)としてキリストにあずかる」ことであります。

まずここでしっかり押さえておきたいことは、この問答54の「キリストにあずかる」という意味です。ドイツ語原典では、前置詞anと動詞habenで表されています。単純に言えば、キリストと隙間なく密着結合している、という意味になります。英訳ではtake a part inという表現で、キリストの一部となって参与している、ということになります。問答53では、聖霊はただキリストに密着結合させるだけではなく、常にそして永遠に「わたしの傍らに共にいてくださる」と告白して、聖霊もまたキリストと共に、私たちと永遠に密着結合している、と告白しています。先ほど、神のホモウシオス、つまり父と子と聖霊の三位格は常にそして永遠に同一本質であり一体である、というニケア信条の原点について触れましたが、ここでもまた同じように、ただ単にキリストとの密着結合を言うのではなくて、聖霊も私たちと共に一体になって、しかも常に永遠に密着結合して、しかも聖霊は永遠に私たちをキリストに密着結合させている、ということになります。言い換えれば、聖霊みずからが私たちと密着結合することで、私たちを聖霊と同一本質であるキリストもまた密着結合させてくださる、ということになるのではないでしょうか。そうでなければ、すなわち聖霊が宿り、私たちに与えられて、永遠に私たちと密着結合することで、聖霊と同一本質であるキリストご自身に密着結合させてくださる、そういうことではないでしょうか。そうでなければ、キリストと私たちとは一体になることはできないのです。この聖霊の密着結合の働きにより、キリストの身体としても一体の身体として密着結合することが可能となったのです。つまり私たちに宿り内住する聖霊の働きにより、私たちはキリストの身体と一体に成り切った存在として、このわたしはあり続けるのであります。それが、キリストに与らせる、ということではないでしょうか。しかもその上で、生命体としてのキリストの身体をさらに生命にあふれる命の共同体の一員として、このわたしは有り続けると捉えます。

 

2.神の民の共同体としての教会

キリストの身体である「教会」と、またそれを共有する「信徒」を意味する用語として、ドイツ語ではKircheとGemeinde, 英語ではChurchとCommunityなどがあるようです。問答54のドイツ語原典ではein auserwählte Gemeine (神によって選び抜かれた一つの共同体の民)と表現されています。Gemeineは、Gemeindeを意味する古い方言です。また問答55でもGemeinschaft(家族体、共同社会)という字が用いらます。こうした用語の背景には、ルターの新しい教会論が反映されているようにも思われます。特にルターの「万民祭司」という考え方を意識した表現になっているのかも知れません。ここで問題になるのは、形式的な意味から制度的に教会全体を取り扱おうとする立場と、もう一つの新しい立場、即ち教会を共有し共に教会を構成する「神の民」としての信仰共同体の一員である「信徒」や「教会員」の立場から見る教会観です。宗教改革以前には、この教会を構成する信徒という概念はまだ確立していなかったからです。教会を担い構成する主体は信徒ではなくて、監督を中心とする聖職者たちのものだったからです。ホモウシオスの神である聖霊に与る人々は、教会の構成員として定義されていなかったからです。同じ神の本質を信仰において共有するキリストの共同体として、そして生けるキリストの身体の肢体として、改めてひとりひとりのレベルで「信徒」とは何か、そのひとりひとりの「信徒の本質」を、神の恵みの光のもとで、見直して、確保するのです。その時、聖霊の力ある働きとして決定的な意味を持つ働きが、「主キリストに与らせる」ということです。問答は、わざわざ「主キリストに」an dem Herrn Chiristoと表記して、キリストを「主」とするキリストの共同体を構成する一員、ということになります。それは、聖霊の恵み豊かな働きのもとで、説教を聞き、洗礼を受け、聖餐に与る、というキリストの制定された神の力あるみことばを通して、信仰において、実現します。誰もが皆、キリストの身体の肢体とされているのです。そこではさらに、そのキリストの身体の一肢体となった、その民ひとりひとりの本質やその在り方が根源から見直されるのです。皆それぞれが、例外なく、ホモウシオスの聖霊を宿すことにより、キリストの身体と永遠に結合された完全な一生命体であって、その命を永遠に共有し続けている。それが教会共同体の根源的本質なのだ、と言っているわけです。言い換えれば、聖霊の恵みにおいて、神の御子と「同一の血肉」に与り、その同じ身体を共有する神の家族であります。したがって、その兄弟姉妹に当たる教会員同士については「いかなる者も、その賜物をほかの肢体(えだ)の救いや利益に役立てるように、自から進み喜びをもって心がけるべきであり、自分にはその責任があることを弁え知るべきです。」という新しい愛の掟が、その互いに役立つよう仕え合う、という信仰的自覚に基づいて、新しい教会における倫理が生じて来きます。これを可能にし、また実現してくださるお方こそ、「聖霊なる神」であり、聖霊による力ある働きとみことばによるのであります。

 

3.聖霊の働きと教会の形成とその生命の営み

しかし聖霊の働きについて、さらに重要な点は、どのようにして、わたしたちはキリストの身体にあずかり、キリストの身体の一肢体(えだ)となることができるのか、その聖霊の恵みとしての「実際の働き」が大事ではないでしょうか。それが問答54に告白されます。問答54はまず「『聖なる公同のキリスト教会』について、あなたは何を信じるか。」と、教会とは何か、その本質を問いまして、「神の御子は、全人類からご自身のために選び抜かれた民の共同体を永遠の生命に向けて御子のみ霊とみ言葉を通して真の信仰の一致において世の初めから終わりに至るまで召し集め創設し、そして守り抜かれます。しかも、わたしは、その生命(いのち)あふれる共同体の一肢体(ひとえだ)であり永遠に(その肢体として)生き続けます。」と答えます。本日の問答54の訳は、昨年お配りした訳を改めて直訳に近い形に修正しましたが、言い表わす意味は全く変わりません。

まず「聖徒の交わり」について一言申しますと、使徒信条では「(われは)聖霊を信ず、聖なる公同の教会を、聖徒の交わりを(Credo in Spiritum Sanctum, sanctam Ecclesiam catholicam, sanctorum communionem)。」となります。「聖徒」と呼ばれるのは、聖霊を信じ、その聖なる公同の教会を信じるゆえに、「聖」とされた者たちと考えられます。聖霊を信ずることも、聖霊によって導かれた聖なる公同教会を信ずることもなければ、そこには「聖徒」は存在しないのではないでしょうか。したがって人間同士の交わりを指すものではないようです。むしろ、キリストの身体に共に与り共有するというキリストの身体の肢体としての交わりであり、また聖霊を信じ聖霊を共に宿し聖霊を共有する交わりという意味であり、したがって、私たちが聖なのではなくて、共に与り共有する聖霊とキリストの身体である教会が「聖」なのであります。私たちは、あくまでも教会につながることで、「聖なる交わり」にあずかる者なのです。

もう一つ重要な点は「神によって選び抜かれた」auserwählteということです。問答の言葉で言えば「全人類から選び抜かれた」民の共同体である、ということが明記されます。つまり人間の意志や求めには全く基づいていないのです。私たちは自分で教会を選ぶ、と考えがちですが、それでは自分のことは見てはいても、神の恵みとして聖霊がどのように働いたか、「聖霊の働き」を見ていないことになってしまいます。聖霊なる神が、わたしのために働いてくださる聖霊の恵みは見失われます。聖霊が主導する働きの中でしっかりと聖霊の恵みを認めて受け入れる、ということを通して、私たちははじめて、神は今どのように自分をお選びになろうとしておれるのか、神の御心とその選びに、自分の心の目を向けることができます。そこで本当の神の愛と恵みと力を知るのです。生まれて来るときには、私たちは自分の親や国籍を選ぶことはできませんでした。それを認め受け入れる所から、生きるという旅立ちが始まるのです。教会に招かれ選ばれるのも、自分があれこれをしたいと求める自分の欲求の中で選ぶという意識を捨てて、今、神がどのような意味と目的でわたしをこの教会に招きお選びになられたのか、神さまのご意志とご計画を日々深く思い続け、その深い意義に気付き、そこに導かれる愛と力を認め受け入れられるようになる、ということこそ、信仰の生活です。自我欲求に隷従して、教会をえり好みして渡り歩くようでは、本当の意味で神の御心も信仰の本質も見えないまま一生過ぎ去ります。自分は自由に自覚的に選んで生きている、とうぬぼれてみても、結局は全く神から離れた所で、この世を生きているにすぎないのです。このことにできるだけ早く気付けることが大事です。まず神を知り、神の愛や恵みを知る。神の御心やご意志を知るには、どうしても、自我欲求から解放されて、こうした神のご主権に基づいた信仰に立つ必要があるのです。ルターの言うように、ただひたすらにキリストのみを主とする自由を得るのです。

問答54は「神の御子は、全人類からご自身のために選び抜かれた民の共同体を、永遠の生命に向けて御子のみ霊とみ言葉を通して真の信仰の一致において世の初めから終わりに至るまで、召し集め、創設し、そして守り抜かれます。」と告白します。意味深い点は、「御子のみ霊とみ言葉を通して真の信仰の一致において世の初めから終わりに至るまで」と告白して、三つの条件のもとにある「神の選び」を受け入れています。神から徹底的に招かれ選び抜かれる中で、教会員として「キリストにあずかる」ことを告白しています。

第一の限定は「御子の御霊とみ言葉を通して」です。自分の意志や欲求ではなくて、純粋に御子の御霊に導かれて、御子のみ言葉に聴き従うことが求められます。ここでは近代現代の言う「自我の原理」は通用しません。自分のうちに聖霊の主権を認め、さらに主イエスの教えに聴き従うのです。第二の制約は「真の信仰の一致において」初めてキリストに与ることができる、と宣言します。日本のプロテスタント教会の致命傷は、この真の信仰の継承と一致が曖昧になり失われて、信仰の内容が空洞化してしまう点にあります。しかもその空洞化した所に人間の欲求が入り込んで、信仰が神のものから人間のものにすり替わってしまうのです。一言で言えば、信仰告白や信条のもつ重要な意味と役割が認識できないまま、外見は教会に見えて、実態は教会とはおよそ似て非なるものです。そうした教会や牧師が余りにも多く、一見した所、どちらが真の信仰の上に立つ教会であるかどうか、よく分からないのです。神学や信条を自我欲求の道具に利用して、権力支配を求めることは歴史が示す通りであります。その結果、この世の問題や自我欲求に振り回されて、教会を貶めてしまうのです。牧師でさえも、きちんとした信仰をもたないと、生涯、教会をつまみ食いをして歩き回ることになります。これは、個人を責めるよりも、日本のプロテスタント教会の歴史的貧困によるものです。第三の決定的な制約は「世の初めから終わりまで」とありますように、教会の所属は「永遠の選びによる」ということです。言い換えれば、今ここから、そのまま「永遠の選び」に直結するのです。言い換えれば、神の選びは永遠不動である、という神の完全な恵みを表白しています。ここにしっかり立つのです。あちこちの教会をつまみ食いしえり好みして歩き回っているうちに、教会を通して行われる「神の永遠の選び」を失ってしまうことになりかねないのです。そして結局、自分の手元の残るはただ自我欲求の信仰破綻であります。日本のプロテスタント教会の「危うさ」は、常にここにあります。十分注意したい所でありましょう。聖霊を宿し、内に住む聖霊の導きに生き、みことばに聴き従いながら生きる、それが地上を彷徨う教会員の命の本質を決定づけるのです。

 

4.聖霊を受ける

さらに聖霊の力ある働き、聖霊の人知を超えた働きとして、注目すべきことは、問答54にありましたように「御子のみ霊とみ言葉を通して」教会に選ばれることです。先ほどは「御霊に導かれて」、「み言葉に聴き従うことを通して選び抜かれる」という限定条件について触れました。それをさらに踏み込んで申しますと、聖霊に「導かれる」ということ、しかもみことばに「聞き従う」ことができる、ということの実態、実質を改めて考えてみます。信仰と教会における生活の主導権はすべて「聖霊」にあります。「自分」や「自分の考え」ではありません。聖霊を認め信じるとは、聖霊の働きを信じてよく知り受け入れ従う、ということです。聖書の学者になることと、真の信仰の継承と一致において永遠に教会に選ばれることとは、本質的に異なります。前者の本質は自分頼みであり、その主導権は人間にあります。後者の本質は神頼みでありその主導権は神にあります。つまり、御子のみことばのうちに、常に神のご主権を認めて聴き従う、ということになります。聖霊の働きの一番大きな恵みと力、私たちの魂のうちに、みことばにおいて神のご主権をお立てくださり、みことばに聴き従えるように造り変えてくださることにあります。

そうして次に見えて来る重要なこと、それが「真の信仰における一致」であります。問題は、真の信仰における「一致」をどのように考え、地上の教会において確保するか、ということです。この一致を教会として担保する仕組みが教会制度です。教理の決定的権限は、即ち鍵の権能は「教皇」にあり、その一致は教皇が保証する制度が教皇制度です。同じように監督が信仰の一致を保証する監督制度、段階的な会議に基づいて長老会議が信仰の一致を保証する長老制度、そして会衆ひとりひとりが合議により一致を保証する会衆制度、しかし会衆制度でも場合によっては一致した信仰告白を確保継承しないこともよくあるようです。会員ひとりひとりの自由に任せてしまうのです。そして信仰の一致を決定しない無制度の集まりもあります。どこまで「教会」という定義が可能なのか、判然としないのです。宗教改革以降、同じプロテスタント教会でも、聖公会やメソジスト教会などは監督制度を維持し、ルターは領邦教会制度を導入し、カルヴァンは長老制度を新たに導入しました。バプテスト教会や組合教会では会衆制度を導入しました。教会を厳密に定義する学者によっては、Kirche(教会),Gruppe(グループ), Sekte(派)と類別します。

ハイデルベルク信仰問答では「教会」Kircheという字の他に、「共同体」Gemeine (英訳ではa chosen communion)という字を使って、ルターの「万民祭司」の考え方を反映しようとしたのではないか、と申しました。ルターは教会を新たに「万民祭司」による共同体として神学的に説明し改革しようとしました。誤解を恐れつつも、それは短絡した意味で、教会制度による制度的一致を否定して、平等民主主義や個人の信仰の自由に任せることを求めたわけではありません。ましてや受洗の有無を超えて、信仰の有無の境を超えて平等民主主義を教会に取り込むことを教会の改革としたわけではありません。むしろその反対に、教会とその民を、よりその「本質」において捉え直し説明しようとした、と言えます。むしろ「信仰の本質」を厳粛に覚えてより徹底することで、教会とその民である信徒ひとりひとりの意義を明らかにした、というべきではないかと思います。父なる神から聖霊なる神が地上に降り、ひとりひとりのうちに宿り、信徒のうちに深く内住して、そうした内面の出来事に基づいて「キリストの福音」を、皆其々が、証言し自覚的に感謝と喜びをもって自分の救い主となられた主キリストを告白した、その結果、真の信仰の一致という形で信仰告白が生まれた。こうして聖霊に導かれた信仰の一致において、キリストの救いの証言告白は実現した、と思われます。本質的に人間の予想を超えた聖霊の神の働きにおける一致の結果として生じた「真の信仰の一致」でありました。

使徒言行録によれば、聖霊降臨の様子をこう伝えています。「2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ一人一人の上にとどまった。2:4 すると一同は聖霊に満たされ“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:1~4)と記したうえで、ペトロが12使徒を代表して説教を始めます。「2:14 するとペトロ十一人と共に立って声を張り上げ話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。』」(使徒2:14)と言って、一致した信仰証言として、メシア(キリスト)の十字架と復活を説教したことが記されます。聖書の中に、原始教会の「ケリュグマ」として、随所に信仰告白が残されています(その典型はパウロのケリュグマでⅠコリント15:3b~5)。こうした聖書証言からは、信仰告白を廃棄することも、教皇が信仰を決定をする仕組みも、どちらも決して出て来ないはずです。後の教会の形成発展の結果として「教皇」を中心とする制度の登場は、教会の教理発展としてニューマンは理解できたようですが、聖書証言からは、直接に教皇制度を主張することは不可能です。どちらかと言えば、聖書は「2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ一人一人の上にとどまった。2:4 すると一同聖霊に満たされ“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とありますように、聖霊は、ひとりひとりの上に降り、ひとりひとりに与えられ、そしてひとりひとりのうちにとどまり、その聖霊に満たされることにより、人々はその聖霊によって語り出した、と理解できます。であれば、教皇が垂直的に支配する一致というよりも、本質的に会衆における「聖霊による一致」ではないでしょうか。パウロは「4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、4:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、4:3 平和のきずなで結ばれて霊による一致を保つように努めなさい。4:4 体は一つ霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。4:5 主は一人信仰は一つ洗礼は一つ、4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働きすべてのものの内におられます。」(エフェソ4:1~5)と告げます。こうしたすべてのものの内に力強く働く神、言わばホモウシオス(同一本質)の三位一体の神が、ホモウシオスの聖霊において、「神の主権」をひとりひとりの内に打ち立て、そのご支配のもとで信仰と讃美の一致が生まれているのではないでしょうか。このホモウシオスの聖霊は、洗礼というサクラメントを通してキリストの身体である教会に結び合わせ、教会員ひとりひとりを「聖徒の交わり」の中へと招き入れ、同じ一つのキリストの身体その肢体(えだ)として一つの信仰における一致へと導くのです。そう考えると、聖霊は一つであるゆえに、聖霊を宿した万民における信仰の一致を生み出し、キリストの身体における一致として、キリストの共同体を地上に明らかにしているのではないでしょうか。ルターの万民祭司の根拠は、このように「御子のみ霊とみ言葉を通して」実現される交わりの普遍的一体性であり、その支配のもとで生まれた一致であり、こうして神の民として同じ本質を共有する、そこに信徒の普遍的一致を見出したはずです。ですからキリストの身体における霊と言葉によるご支配のもと、万民が皆、同じ聖霊によって福音の証言者として立てられ、聖霊によって福音証言を司る祭司として任じられることになります。したがってそれはあくまでも、一つの聖霊と一つのみ言葉を共有することで実現する、一つの身体となる働きです。聖霊に恵まれ聖霊を宿すのであれば、当然ながら信仰の一致は明らかであり、キリストの肢体としての自覚も生じるはずです。「いかなる者も、その賜物をほかの肢体(えだ)の救いや利益に役立てるように、自から進み喜びをもって心がけるべきであり、自分にはその責任があることを弁え知るべきです。」と告白される通りです。反対に、自分の自我欲求のために教会に心配をかけるようでは誠に残念です。

 

5.罪の赦し

最後に、問答56は「『罪の赦し』について、あなたは何を信じるか。」と問い、「キリストの贖罪のゆえにわたしの全罪過にも、またわたしが全生涯を尽くして苦闘すべき罪の本質にも神は二度と心に留めることはありません。それどころか、わたしに対して、神はキリストの義憐れみによりお与えくださり、二度と裁きを受けることのないようにしてくださるのです。」と告白します。最後に、聖霊の最も重要な働きは、罪を告げ知らせると同時に、御子のみ言葉を通して「罪の赦し」を宣言して与えることにあります。「罪の赦し」において最も重要な働きを担うのは、聖霊であり、しかもみことばによる「罪の赦し」の宣言です。福音の説教が「福音」である根拠は、まさに唯一「みことば」のみが、全世界と全会衆に向かって、あなたの罪は赦された、と宣言し、罪の赦しを明らかにすることができるからです。そういう意味で、赦しの体験は決して個人的で主観的な体験ではなく、聖霊による教会の交わりに基礎を置くものであります。御子のみ霊とみ言葉によって、共同体全体が一つとなって、世界に対して、あなたの罪は赦された、と宣言するからです。ルターは最後まで告解と罪の赦しの宣言に深くこだわり続けた意味も、ここにあったと思われます。いかに、聖霊による聖徒の交わりが豊かで力強い福音であったを知ることができます。