2021年6月6日「水をよい葡萄酒に変える」 磯部理一郎 牧師

2021.6. 6 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第1主日

ヨハネによる福音書講解説教1

説教「水をよい葡萄酒に変える」

聖書 イザヤ書62章1~5節

ヨハネによる福音書2章1~12節

 

「2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。

2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。

2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。

2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。

2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。

2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした

2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。

2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで

2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現されたそれで、弟子たちはイエスを信じた

2:12 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。」

 

 

初めに. 「奇跡」とは神の啓示の場であり、そこで神は私たちに語りかけられる

本日よりヨハネによる福音書の講解説教になります。本来ならば、一章から始める所ですが、教会暦を斟酌しまして、一章は12月に譲り、本日は2章から、読み始めたいと思います。主イエスが「カナの婚礼」において、水をよい葡萄酒に変えられた、という最初の「奇跡」の話です。聖書にはたくさんの奇跡の話が登場します。「奇跡」ということをめぐり、教会の内外には多くの議論があります。奇跡がよく分かる、奇跡は理解できる、という人は余りいないのではないかと思います。奇跡を信じて認める、ということには、正直に申し上げて、人間としての立場には大きな限界があります。奇跡について空想するありましても、実際問題としてはよく分からない、というのが現実でありましょう。

ただ、これはあくまでも私たち「人間の現実」或いは「限界」でありますが、しかしそうした人間の立場とは異なって、人間の側の事情と全くかけ離れた所から、つまり神からの働きかけという点から申しますと、「奇跡」とは、この世の「時」と「場」を選び、その選びの時と場の中に、神がご自身の働きかけを現わされるのであります。聖書は、証言者を通して、神が「神の啓示」を伝える神の言葉であり、人間には隠されている神の秘められたご計画を伝える、文字通り神が語りかける「神のことば」である、と教会は考えます。言い換えれば、教会とは、神のことばである聖書のことばを通して、呼びかけられ、集められ、立てられた、神のことばによって召し集められた神の民の共同体である、ということになります。聖書は、神の御子であり人類の救世主であるキリストを啓示する書物ですが、特にその「奇跡」としてしか考えようのない不思議な出来事は、人間の能力を遥かに超えていて、いつも理解できないまま、問いはは残りますが、それでも神は、人間を救いに導くために、聖書を通して語りかけ、その語りかけから、私たちの人生の新しい扉を開き、神なき暗闇と滅びの世界から神による新しい命溢れる世界へと招こうと語りかけるのです。この世の常識ではとても説明できないのですが、聖書という神の啓示の言葉を通して、また不思議な奇跡を通して、神は私たち人類に常に語りかけ、新しい希望や真理に導こうとなさるのです。実際に「みことば」に導かれた私たちの生活の本質は、地上を超えて、文字通り「天を生きる」かのように、大きく変えられてゆくのです。それはまさに「神の奇跡」によって引き起こされ、神の奇跡の中で生きる現実であります。不思議な表現ですが、キリストの十字架と復活の信仰に生きる、ということは、まさにそれ自体が、大きな神の奇跡の中に生かされていることになります。世界万物は、明らかに、キリストという神のみわざに包まれ、飲み込まれ、そして復活の栄光勝利をめざしていると言い切ってよいのではないでしょうか。

使徒パウロはこうしたキリストによる万物救済を神の隠されたご計画と呼びました。「Eph 3:9 すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています(kai. fwti,sai Îpa,ntajÐ ti,j h` oivkonomi,a tou/ musthri,ou tou/ avpokekrumme,nou avpo. tw/n aivw,nwn evn tw/| qew/| tw/| ta. pa,nta kti,santi)。」(エフェソ3:9)と述べていますように、そうした神の隠され秘められていた神秘のご計画を「ミュステリオン」と呼んだのです。口語聖書は「奥義」、新共同訳聖書は「隠された神のご計画」と訳しています。英語聖書で皆はそのままmysteryとしていま す。世にある私たちには隠され秘められてはいますが、明らかに神ご自身から示された神のみわざであり、人類救済のご計画があるのです。大切なことは、この神の啓示である聖書の言葉に、心を開くことができるようになる、そして聖書の言葉の中に、神の臨在と神の主権を認めることができるようになる、ということにあります。聖礼典と訳される洗礼や聖餐のサクラメントのギリシャ語源もまた「ミュステリオン」です。東方ギリシャ正教会は「機密」と呼びます。まさに神の秘められた救いのご計画そのものが、私たちのための力強い現実となって、実現する時であり場、それが洗礼であり聖餐であります。

礼拝で聖書が朗読される際に、聖書の解き明かしに「聖霊の働き」を求める「イルミネーション」と呼ばれる祈りがささげられます。信仰の心が開かれて、聖霊が真理へと導いてくださるように、と祈る祈りです。皆さんもよくご存知の通り、長老教会の礼拝ではとても大切な祈りです。聖書の啓示を正しく信じ受け入れて、しかも忠実に聞き従うには、どうしても人間の力だけでは限界があって、不可能なので、教会では直接「聖霊の助け」を求めるのです。そうでなければ、みことばはいくら聞いても理解することができないのです。それを一番よく知っているのが、教会であります。聖書はそのままでは分からない読み物であることは、教会が一番よく知っているのです。だからこそ、分かるように、聖霊がお助けくださいと祈るのです。みことばを信仰により正しく知るようになる、ということは、とても大事なことですが、神さまのご計画や御心を知ることは、容易いことではありません。なぜなら、神さまの愛や御心は、私たち人間が予想する以上に、遥かに大きく豊かで永遠を包んでいるからです。カルヴァンが言う通り、有限は無限を包むことはできないのです。言わば、神は、無限大の大きさをもって、力ある恵みのみわざによって私たちに臨んでおられますが、有限で狭い私たちの知恵からすれば、どれもこれも理解しがたい「奇跡」のように見えてくるはずです。「神の啓示」という意味で、聖書のみことばに私たちが向き合うとき、最も重要なことは、神がわたしに愛と慈しみをもって語りかけておられる、という神への信頼です。神は、わたしのために、愛と憐れみからご自身のみわざをお示しになろうとしておられるのです。

 

1.「わたしの時はまだ来ていません」―十字架の栄光の時はまだ早い―

早速、そうした思いでヨハネによる福音書に入ります。「2:1 三日目に、ガリラヤのカナ婚礼があって、イエスの母がそこにいた。」と記されています。場所は「ガリラヤのカナ」となっていますが、今となっては、この場所を厳密に特定することは不可能のようです。ガリラヤ湖の西側湖畔から地中海側のある高地で、ナザレの町の北にあったようです。主イエスの母マリアがその婚礼の祝宴の手伝いをすることになっており、主イエスも弟子たちと共に招かれていたようです。おそらく弟子のヨハネもそこに同伴したと思われます。「2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った」。困ったことに、婚宴の最中に祝いの葡萄酒がなくなってしまったようです。ユダヤの婚礼は、花婿と花嫁は宴席の中央に座して祝いを受け、祝いの酒をもって客をもてなします。一説によると、婚儀は一日中続くどころか、さらに新居に新婚夫婦が帰り着いてから七日間も続く、と言われます。結婚の祝宴は人生最大の喜びのイヴェントでありました。ところが、その祝宴の絶頂を迎える前に、婚宴の肝心要の葡萄酒がない、というわけです。そこで世話するマリアは、わが子でありまた力あるわざを行えるはずの主イエスに援助を求めて、「ぶどう酒がなくなりました」と言って、主イエスに葡萄酒の補いを命じます。こうした慌てず動じないマリアの態度は頼もしい限りです。マリア自身も葡萄酒は必ず満たされると確信に満ちており、主イエスに対する強い信頼に溢れています。花婿花嫁をはじめ婚宴を司る責任者は、どれほどマリアを頼もしく覚えたか、想像に難くない場面です。

ところが、主イエスは意外な対応を示します。「2:4 イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのですわたしの時はまだ来ていません』」。一見、違和感を覚える対応です。気まずい場面です。主イエスが背負っておいでのお立場を考えますと、この対応の真実な意味が見えて来そうです。主イエスのお立場には、二つの立場があります。一つは、処女マリアから肉を受け継いだ「肉の子」として、まさにヨセフとマリアの家族としての主イエスです。まさにマリアは主の母であり、主は真理あの息子です。しかし主イエスのもう一つの本質は、「神の御子」であり、「神のメシア」として天から地上に遣わされたお方です。一方では母マリアのために従順に働き仕えるべき長男であり、他方では神の子メシアとして十字架に向かう神の生贄です。先ほどの4節のみことばはで、主イエスご自身の語られたみことばには、この主イエスにおける永遠の神の御子である「神の本性」と、そしてマリアの肉を受けた真の「人間の本性」という神と人との二重の本性を予測させる所です。主イエスは、どちらかと言えば、その神のメシアであること、そして十字架の犠牲における「栄光の時」について仰せになられたと思われます。神の御子という性質からすれば、「何のかかわりがあるか」と言われますように、罪人であるマリアと主イエスは、本性上本質的に無縁であり異質す。しかも「わたしの時はまだ来ていません」と言われた通り、父なる神によるご命令の時、すなわち十字架と復活の栄光の時をまだ迎えてはいないのです。まだ、完全な意味で神の栄光が実現する決定的な時を迎えてはいないのです。そういうキリストの十字架と復活による栄光の時という点から見れば、この婚礼での奇跡は、直接の救いのみわざではない、つまり本質的なキリストの時を示す奇跡ではなく、どちらかと言えば、メシアの到来の予兆を示す「しるし」であり「象徴」として理解することができるでありましょう。しかしそれでも実に興味深いのは、主イエスのそうした対応にも関わらず、母マリアの不動の確信です。全く動じることなく、2:5 しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」と聖書は記しています。まさに主イエスの力を信頼して、自分の責務を果たそうと働き続けます。

 

2.「水がめに水をいっぱい入れなさい」―律法の成就とキリストの恵み―

確かに、まだ、主イエスの本当の意味での「時」ではないのですが、しかし、主イエスは、ついに、母マリアの要請に応えるように、動き出します。「2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。2:7 イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。2:8 イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。」と記される通りです。これらの聖書の表現にはいくつかの象徴的な表現が含まれています。まず「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」とは、ユダヤの律法に規定されたことで、食事の前後最中も常に、肘下から指先まで水をかけて手を洗い浄めますので、多くの人々が集う宴会となると、とても大量の水が必要でした。その必要とした水の量については、聖書では「メトレテス」という単位で表記されていますが、聖書巻末の度量衡表にもありますように、1メトレテスは約39リットルとありますから、合わせますと、100リットル前後になります。50人いれば2リットルになり大きなペットボトル一本に相当します。これだけの水をさらに用意するとなると、とても大きな労働となります。そのため大きな「水がめ」が「六つ」用意されていました。数字の「6」は、7や8のように完全数ではなくて、未完であり不完全で完了できないことを意味する数字です。それは、どれほど大きな水がめに水を用意しても、また律法に忠実に洗い清めても、永遠に「聖」とされることはない、結局は律法の定めを満たすことはできないことを暗示します。つまり、人々がどれほど律法に忠実にしたがい、自らを洗い清めようとしたとしても、永遠に清められることのない汚れが残るのであります。「水がめに水をいっぱい入れなさい」と仰せになられた主イエスの指示は、律法を完全に満たし、律法を今ここで成就してみせよう、という宣言ではなかったか、とさえ思えます。主イエスは、清めても清めて律法を完全に満たすことができず、破れ果てているユダヤの民のために、ここで律法を完全に満たし成就してみせる、そうした象徴的な預言をなさっておられるのではないでしょうか。数多くの動物が贖罪の犠牲となって毎日のように屠られ、尽きることなくその血が神殿に流され続けています。いつもでそんなことを続けるのでしょうか。永遠に動物の血を流し続けても、決して律法を満たすことはできないのに、であります。完全に召使たちは、主イエスのご指示にしたがって、かめの縁までいっぱいになるように大量の水を入れました。

さて、ここで、改めて考えてみますと、水がめに用意されていた水と比べると、余りにも清めに用いる水の量は大量なのに、婚宴のための祝い酒である葡萄酒は、余りにも早くなくなっていました。祝宴が始まったかと思うと、「2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」と聖書は記していました。これはどういうことなのでしょうか。用意された清めの水100リットルの割には、祝いの酒は余りに少なすぎるのではないでしょうか。これは想像ですが、もしかしたら、最初から葡萄酒は非常に限られていたのかも知れません。とすれば、この婚宴は決して豊かな結婚ではなかったと考えられます。一生に一度の婚宴に葡萄酒さえ用意できない、貧しい家庭であったのではないか、と予想されます。律法にしたがって清めのための水は用意できても、本当の婚宴の祝うための、本当の葡萄酒は用意することはできなかったのです。一生涯の婚宴も、祝いたくても祝い切れなかった花婿と花嫁であったのかも知れません。律法を完全に満たしその義務と責任を完全に果たし、ユダヤの民の本当の祝福となる葡萄酒はなかったのです。

ユダヤの結婚式は、神のご支配もとに厳粛な祈りと誓いをもって、行われます。神によって選ばれた民として、神の契約共同体における一家となり、家庭をつくることになるからです。言わば、家族は特にその当主は神の契約全体を背負う家族なのです。そこには律法の遵守があり、神の選びの祝福に相応しい清き聖なる民であることは徹底されなければなりませんでした。しかしその中核をなす神の祝福を共に喜ぶための祝い酒は、この家庭には残っておらず、なかったのです。重要な点は、ただ人間同士が喜び祝う酒である以上に、葡萄酒は神の祝福そのものを意味したことです。そこに、キリストが現れ、清めの水がめを縁までいっぱいに満たして、ついに最もよい葡萄酒に変えるのです。

 

3.「このぶどう主がどこから来たのか」―みことばを聴き従い、みことばに仕える者―

主イエスに命じられた召使たちは、世話役のもとに、その水がめの水をもって行きました。「2:9 世話役はぶどう酒に変わった水味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、2:10 言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』」と言って、婚宴の主役である神の祝福を象徴するよい葡萄酒を味わいました。ここにもいくつかの象徴表現を見ることができます。まず世話役とは、婚宴全体を取り仕切る長です。少々大げさに言えば、婚宴が婚宴として成立させる権威者でもあります。ここが崩れれば、婚宴それ自体は破壊解体します。その世話役が吟味した結果、よい葡萄酒であった、というわけです。ユダヤの民と神との豊かな契約である婚宴は、最高の祝福となり祝いとなったのです。さらに世話役は、このよい葡萄酒が、すなわち神の本当の恵み豊かな祝福は、果たしてどこから来たのか、知らないのです。知っていたのは、主のみ言葉の指示通りに、水を汲んで主のみことばに仕えた召使だけでした。

冒頭で、聖書は神の啓示のことばなので、聖書を読み解くことは非常に難しい、ということについて触れました。また「奇跡」をどう理解するか、それも難しいことです。婚宴全体を取り仕切る権威者であった世話役さえ、葡萄酒の出来(しゅったい)については、知ることができませんでした。しかし意味深いのは、その反対に、主イエスの指示された「みことば」一つ一つに労苦して、忠実に主のみことばに仕えて、100リットルを超える水を汲みにゆき、それを運んで来た召使たちは皆だれもが、主イエスによる奇跡のみわざによることを知っていました。その奇跡が誰に依る奇跡であり、どのようにして行われたのか、その誰もがその真相を知っていて、誰も疑うことはありませんでした。なぜなら最初から最後まで、水がめの首の縁いっぱいまで全て水にすぎないことは、召使の誰もが知ってることであり、それがよい葡萄酒に変わったことも、一部始終を見ていたのは、この人々であったからです。あたかも、清めのために水がめの縁までいっぱいに満たされた水が、完全に主イエスのご支配のもとにおかれ、主イエスによる新しい恵みのみわざとなって変えられていくように、よい葡萄酒に変わるのを体験したのです。律法に対する、そしていつまでも清められないまま破綻する罪に対して、主イエスはここで、完全に勝利するというもう一つの祝い酒、言わばユダヤの民の「救い」のための祝い酒となって展開します。

実はここに「認識」における大きな質的な転換が生じているのではないでしょうか。召使も世話役も婚宴の客も皆、日常の常識という世界で生き暮らしています。しかしそこに、キリストが婚宴に現れることで、通常の常識的な生活の中に、大きな空洞のような穴が開いて、「奇跡」と言う以外に言いようのない「新しい神の世界」が突入したのです。キリストと出会い、キリストのことばを聞き、キリストの指示に従い、キリストのみことばに仕えることで、生きる場、暮らす場に変容が生じ、神のわざと生き生きと関わる世界が突入して、生活の次元は大きく変質します。ちょうど、「水」が「葡萄酒」に変わるように、生活の質と生きる世界の本質が大きく変わるのです。どれほど大量に清めの水を用いて洗い流しても、決して洗い清めることのできない罪と律法の限界の中で、つまり日常過ごす生活は水のように腐り果て渇き果てます。しかし婚宴にキリストが加わり、そこでみことばが語られ、主のみ言葉のもとで、召使のように忠実に仕える者たちが働き始めると、その腐り果てるばかりの水はすべて、余すところなく完全に贖われ、清められ、神の裁きは永遠の豊かな命の祝福へと変わり、祝福と勝利の祝いの酒と変わったのであります。まさに日常の、何も変わることのない常識的な婚宴は、キリストを迎えることで、神の新しい祝福に溢れた婚宴の場に変えられたのです。

 

4.信じて待ち望む信仰生活の意義と喜び

ただ一つ、やはり大きな問題がここには残されています。母マリアと主イエスとの対話の中に見られた、あのズレです。「2:4 イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのですわたしの時はまだ来ていません。』」という主イエスのみことばです。主イエスと母マリアとの間にある埋めがたい溝であり、違いであり、距離です。神と人間との間にある大きな隔たりと言うべきでありましょうか。この言葉の背景に、母マリアの「人間性」を読み取ることができます。厳密に言えば、「神の時」即ち「キリストの栄光の時」を正しくそして深く認識することにおける、人間の限界です。そこには、マリアの人間としての感情や、人間としての欠乏と暗闇が潜んでいます。完全回復に至らない人間性ゆえに、どうしても生じる神からの離反であり、距離であり、欠乏であり、陰であります。しかし神の御子である主イエス・キリストにおいては、そうした神と人との間に広がる「隔たり」は全く存在しません。キリストにおける神と人間との関係は、その両本性は完全に「一体」であります。しかし私たち人間と神との間には、いつも、未完成のまま残されてしまう「隔たり」があります。主イエスのみことばによれば、終末における主イエスの再臨を含めて「わたしの時」が来るまでは、本当の意味で世の一体の関係は完成しない、ということになるのでしょうか。「わたしの時はまだ来ていない」と仰せになった主のみことばは、そうしたことに含意するばかりか、またそれを暗示するみことばではないか、と考えられます。

こうした神と人との間にある隔たりと離反の中で、すなわち未完成の救いの中で、私たちに果たして何ができるのでしょうか。それは言うまでもなく、「わたしの時」を堅く信じて、心から待ち望む、ということに尽きるのではないでしょうか。「わたしの時」とは、キリストが十字架において栄光のわざを成し遂げて、父のもとにおかえりになる時であり、「14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら戻って来てあなたがたをわたしのもとに迎えるこうしてわたしのいる所にあなたがたもいることになる。」とお約束くださった、その時であります。神と主イエスを信じて、待ち望むのです。そしてその時を信じて、待ち望むために、主イエスは、別の助け主である「聖霊」を送り、「みことば」を与えられたのです。言い換えれば、聖霊の働きのもと、天国における完成まで説教と聖餐において守られ導かれる教会生活をお与えくださったのであります。

ここに改めて信仰生活を重ねることの意義を、信仰生活が与えられた恵みを見出すことができます。信じて、待ち望む生活の中で、確かに私たちの魂も肉体も、人間性のすべてが、キリストの身体へと造り変えられてゆく恵みを日々体験し生きる喜びがそこにはあるからです。耐え忍び待つことは、決して苦しく疎ましいことではないのです。それどころか、いよいよ神の愛をこの身にしみじみと感じる場であり、たとえ苦悩の中にあろうと、その苦悩するただ中で、キリストとその愛と命を分かち合い共に耐え忍び、慰められ、励まされるという極めて貴重なそして恵み豊かな「神と共に生きる」生活を生きるからです。この世にあって、今ここに残された人生を生きるうえで、日々、この信じて待ち望むという信仰による生活の意義を、いよいよ深くいたしてまいりたいと存じます