- 1. 30 小金井西ノ台教会 公現第4主日礼拝
ヨハネによる福音書講解説教35
説教「神のわざがこの人に現れるために」
聖書 エゼキエル書18章14~20節
ヨハネによる福音書9章1~12節
聖書
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
9:8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
説教
はじめに.「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」
ヨハネによる福音書9章に入りまして、生まれつき眼の見えない盲人が登場します。「9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」とその様子を聖書は告げます。すると、いきなり弟子の一人が、極めて深刻な難問を主に問います。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と、人間の宿命的と言える重篤な病いや障害の原因は、その人の「罪」に原因するものなのか、という問いであります。さらに率直に言えば、病いも障害も、その人の罪に原因するゆえに、それは自業自得なのか、という問いにもなりましょう。弟子の問いの本質は、「生まれつき目が見えないという「障害」と「罪」との「因果関係」を問う、とても深刻で重い問いです。しかも障害は、不治の障害であり「生まれつき」定められた障害ですから、その障害は、生まれる前に「犯した罪」に起因する、ということになり、「それとも「目が見えない」という障害の因果関係は、その親の罪、場合によっては一族郎党という親族共同体全体に起因しているのではないか、と問うています。場合によっては、母の胎内にいた胎児の時に既に罪を犯していたのか、「それとも、両親ですか。」という問いになります。子ではなく親の犯した罪の因果が子に報いた結果なのか、障害の「原因」には「罪」があった、と想定する問いです。
しかし仮に「罪」がなかったとすれば、その障害や災禍は、きわめて理不尽かつ不条理であり、そうした理不尽な障害を負わせるのは、いったい誰なのか、と障害の原因をさらに問うことになります。特に聖書の信仰では、神は全知全能であり、聖にして義なる神であり、自由にして愛の神のであると信じられて来ました。世界万物は神によって無から創造されたとする「無からの創造」(creatio ex nihilo)をアウグスティヌスが説きましたように、災禍の原因と想定される「悪」の根源的な実在性については、キリスト教では消極的か、むしろ否定的です。善と悪の二元的対立を想定するのではなくて、限りなく「無」または「混沌」の闇からの創造です。それは創世記が「1:1 初めに、神は天地を創造された。1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。1:3 神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」と告げる通りです。では、このように神の全知全能と神の正義のもとに、どうして障害や災禍は生じるのでしょうか。災禍を引き起こす根源として、多くの人々は「悪魔」や「悪」の存在を想定しました。ヨブ記や詩編73編にも、そうした思想が背後に見え隠れします。こうした問いは、根源的には、罪を初め諸悪の存在は、全能な神の善性と決して矛盾するものでない、ということを明らかにしようとしたライプニッツなどの「弁神論」(théodicée)、或いは「神義論」と深くかかわる問いでもあります。いずれにしても、どうようにして悪や罪は存在したのか、しかもその悪の存在と神はどのように関わられるのか、という悪の根源を問う問いにもなります。無からの創造者である神が、お造りにならなければ、存在できなかったはずではないか、という神の義と悪とは矛盾しないのか、という非常に難しい難問いであります。「悪霊」もしくは「悪魔」の存在もとても気になる所です。
「悪魔」は、確かに、神に敵対する霊的存在として実在する、と聖書において考えられているようです。悪魔、或いは、悪魔の別名として用いられている「サタン」は、ヘブライ語では元々「敵対者」を意味していたようです(マタイ4:10‐11,黙示録12:9)。本来は、神の御使いでありましたが、その虚栄と傲慢ゆえに神から離反して堕落し(イザヤ14:12‐15)、そして悪魔は、エバの虚栄心や欲望を餌に、神の言葉に背くよう誘惑し、人類の始祖の原罪を誘発させ(創3:1‐7)、さらにヨブに対しては、神を呪うよう誘導し(ヨブ1:6‐19,2:1‐7)、神の御子である主イエスに対しても、聖書の言葉をもって誘惑し試みています(マタイ4:1‐11)。そして現在も、信仰者の堕落を誘い(Ⅰペトロ5:8)、その働きは執拗で(ルカ4:13)かつ狡猾(Ⅱコリント11:3,14)であると言われています。
しかし悪魔は、神の創造の秩序と恩寵からの堕落ですから、決して神にまさるものではありません。キリストはこの堕落した悪魔に勝利します(ルカ10:18,黙20:7‐10)。それゆえ信仰者も、主イエスの十字架の勝利のもと、主イエスに背負われ担われた新しい命の身体ゆえに、即ち教会の恵みゆえに、勝利は確かであります(ヤコブ4:7)。決定的に意味する点として、聖書の語る真理は、主イエス・キリストの十字架の栄光における完全な勝利と完成です。荒れ野における誘惑でも、また十字架を回避しようとする誘惑において、主イエスは人間性の全てを背負い、十字架の死に至るまで神への従順を貫き、死をもって人間の罪を償い尽くして贖いを成し遂げ、神の義のもとに永遠の命の勝利と栄光を勝ちとられたのです。どんな秩序からの堕落も、どんな存在の堕落も、キリストの十字架の死に至る贖罪という栄光において、全ては神の愛と祝福溢れる赦しのもとに招き入れられたのです。
1.「神の業がこの人に現れるため」
この弟子の深刻な問いに対して、主イエスは即座にきっぱりと答えます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と断言されます。最も注目すべき点は、答えの結語で「神の業がこの人に現れるため(i[na fanerwqh/| ta. e;rga tou/ qeou/ evn auvtw])」とお答えになり、神の創造のみわざを現わす(fanero,w( fanerwqh/|)ために、生まれつき目の見えない人が神に選ばれ、立てられ、用いられるためである、と神の御心と新しい創造のご計画を明らかにされました。弟子の問いは、「生まれつき目が見えない」という障害の原因は、「罪を犯した」(h[marten 動a`marta,nw直アオ能3単)からだ、という罪責にあるのではないか、神のその罪責を問われ、罰をお与えになったのか、と問うていましたが、主イエスは、障害の原因が罪を犯したからではない、とはっきりと否定しました。「生まれつき目が見えない」という彼の障害の場は、最初からそして根源的には、神の栄光のみわざが現われる場となる、と告知しました。意味深い点は、神の栄光の場とするために、その障害の場が用いられ選ばれているという点に、啓示の光が鋭く射し込んでいます。この世の価値や人間の主観的な考えからすれば、確かにそれは宿命的な欠けであり痛みです。しかし主はその場を敢えて選び、用いるのであります。しかもそれを「神の栄光」の場とするのです。まさらにそれこそ「神の国の到来」を告知する場となるのです。永遠の神の栄光のみわざが現れる場として、障害という人間からすれば完全に見捨てられた暗闇の世界は、神の栄光の光に照らされる場として「福音」そのものの場となるのです。主イエスが「わたしは世の光である」と仰せになられた、正に「世の光」の到来したのです。神の栄光が光り輝く場が、この世にあるとすれば、まさにその場所は「理不尽」かつ「不条理」と言うべき場ではないかと思います。弟子を初めわたくしども信仰者にとって最も大切なことは、心の目を神の栄光のみわざに向け直して、神のみわざを認めて受け入れることにあります。すると、人間中心の闇の世界は、神の栄光の光の世界が心の目に見え始め、神の栄光のもとにある「新しさ」を生きるべき場に転換するのです。それは、新たに生きるべき「希望」となります。絶望は希望の光照らす場となるのです。障害の「原因」を問うことから、障害の「目的」へと目覚め、「後ろ向き」から「前向き」へと方向転換をして、「絶望と苦悩」から「希望と喜び」へと生きる場は変わるのです。神の栄光のみわざが実在することを知ると、世界の全ては神のもとにあって、栄光に満ち溢れる場でなるのです。信仰には、そうした全ての意味を転換させる力があるのではないかと思います。シュラッターは、この欠けた姿からはるかに豊かなものを受け取り、重荷によって、神の恵みと栄光を受け取る、と解き明かしています(『ヨハネ福音書註解』178頁)。
2.「わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」
「神の業がこの人に現れる」と主イエスが断言できる根拠はどこにあるのでしょうか。それを主イエスは、名によって証明なさるのでしょうか。主イエスは、何よりも先ず、ご自身のうちに現れる栄光のみわざにおいて、証明し保証しその根拠となさるのであります。結論から言えば、ご自身の十字架の死における栄光によって、であります。主イエスは9章4節で「わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と仰せになり、主のみわざをお急ぎになります。「わたしをお遣わしになった方の業(ta. e;rga tou/ pe,myanto,j me)」とは、何でしょうか。「まだ日のあるうち」にとは、いつのことでしょうか。「わたしをわたしをお遣わしになった方」とありますように、この言葉は「わたし」とそして「お遣わしになった方」との関係性を示しています。言わば「父」が「子」を遣わすという神の内在的な関係性に言及しています。父・子・聖霊という神のみわざの特徴から申しますと、父は創造し、子は贖罪と和解を果たし、霊は救贖を完成に導く、と考えられます。したがって「まだ日のあるうちに行う」とは、そうした父と子との関係性において担うべき「子としての救済のわざ」を急ぐことを意味します。それは、「人の子」として受肉して、喜びも悲しみも人間性の全てを受肉のキリストとして背負い、十字架の死において贖いを果たすことであります。父は子をメシアとして遣わし、子はメシアとして贖罪のわざを果たすとき、即ち「十字架の栄光」の時を急ぐのです。ご存知の通り、主イエスの十字架の死ほど、不条理理不尽なことはなかったのではないでしょうか。神であるのに人として貶められ裏切れ、陰謀と偽証の末に極刑を受け、屈辱に満ちた罵りの中で絶命してゆく十字架の死です。しかしその十字架の死こそ、人類の全ての罪を償い新しい永遠の命を与える贖罪の死であります。まさに十字架の死という絶望の場は、永遠の勝利と命に溢れる栄光の場となっているではありませんか。これこそ、生まれつき目が見えない人のうちに働く、神の栄光のみわざではないでしょうか。
だれも働くことのできない夜とは、主イエスが去り、主イエス不在となる夜であり、終わりの裁きを迎える時でもあります。そうなれば、誰も代わって罪から贖えるメシアはおられないのです。ただ裁きを受けるばかりで、もはや何もなす術はありません。ここでヨハネは、主の十字架の死の栄光を証言しつつも、もう一つの重要な主題を語ろうとしているのではないかと思います。それは、十字架の栄光に対する応答としての「信仰」の告白であり、告白証言であります。ここで既にお気づきかと存じますが、前回触れたあの「わたし」と「わたしたち」の重なり合いがこの箇所でも生じています。「9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」とありますように、9章4節冒頭の「わたしたち」と4節と5節の「わたし」です。「わたし」は、受肉キリストとして贖罪のわざを完了してしまう十字架の栄光と、それを信じ受け入れられるようにと、いよいよみことばを語りさまざまな啓示のみわざを行って、人々から「信仰」という収穫を得るのでなければならない、と行動を急がれる主イエスのみことばに、「わたし」に「わたしたち」を重ねて合わせるように、今度はヨハネとその教会が、主の十字架の死の栄光を告白証言するのです。「わたしたち」も、即ちヨハネとその教会も信仰の収穫を今急がねばならないのです。「世の光」である主イエスのおられるうちに主イエスの救いに、主がお導きくださる主のみことばに今こそあずかるのです。主イエスにも定められた「みわざの時」がありますが、実は私たちにも、定められた「信仰の時」があるのではないでしょうか。主イエスには栄光の十字架の時に至るまでが、そして私たちには、みことばが語られ聞かれているうちに、今こそ「信仰の決断」が迫られるのです。どんな迫害や逆境の中に痛み傷つこうとも、その痛み傷づく苦悩こそ、十字架における神の栄光のわざが鮮やかに現れ出る場となるのです。
3.「シロアム(遣わされた者)」で洗う
ついに主イエスは、この盲人の目を開けます。「わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」と仰せになって、すぐにこの盲人の目を開けるのです。「9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に(eivj th.n kolumbh,qran tou/ Silwa,m @o] e`rmhneu,etai VApestalme,noj#)行って洗いなさい」と言わます。「そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」のです。この癒しのみわざ全体は、非常に意味深長で、かつ象徴的に描かれているように思われます。一つは、「遣わされた者」という類似表現を用いることで、「父による子の派遣」と啓示者イエスによる「使徒の派遣」を重ね合わせているようであり、しかもそこでは「神の栄光」が二重に共有されるかのように、主の十字架の栄光とこの盲人の癒しにおける栄光が、一体構造として暗示されているように読めるからです。また「洗って」という洗礼を象徴する表現のもとに、肉の眼よりも信仰の目が開かれて「使徒」として、キリストの告白証言者として新たに立てられ遣わされる、という象徴です。
先ず「『シロアムに行って 洗いなさい』と言われました」(11節)が、「シロアム」とは、旧約聖書の「シェラの池」としてネヘミヤ記3章15節に登場します。引用しますと「泉の門を補強したのはミツパ地区の区長コル・ホゼの子シャルンである。彼はそれを築き上げ、屋根を付け、扉と金具とかんぬきを付けた。また王の庭園にあるシェラの池の壁を、ダビデの町から下ってくる階段まで補強した。」とあります。ヨハネや福音書では「シロアム」は「遣わされた者」と解釈されます。元々は「送るもの」すなわち「水道溝」を意味していたようです。エルサレムの南東部の長方形の石造りの池で、長さ17.7メートル、幅5.5メートル、深さ6メートルで、ギホン(処女)の泉水がトンネル水路を通って、この池に注がれていたそうです。歴史背景はそういうことになりますが、「遣わされた者」(avposte,llw VApestalme,noj 遣わす・送り出す)とギリシャ語訳が付された所に、ある特別な意味が込められいます。この用語は、新約聖書では後に「使徒」の語源となる言葉です。神の完全な委託を意味し、その全権を委任されることを意味します。また主イエスご自身は常に「わたしをお遣わしになった方の業(ta. e;rga tou/ pe,myanto,j me)」を行うと仰せになっておられました。主イエスの場合(pe,mpw)とこのシロアムの場合(avposte,llw)とは使用される用語は異なりますので、両者を直結できませんが、主イエスご自身をメシアとして信じて受け入れて、主イエスのもとで癒しを受ける、ということを暗示するように読めそうです。しかし明らかに、シロアムの池に行き洗う、という生まれつき目の見えない人の行為は、神の栄光のわざが現われる場所として、この人が「遣わされた者」として用いられており、主イエスによりこの人物において、神の栄光のわざが全権をもって委託され完全に委任されて、「遣わされた者」としての行為であると言えます。だからこそ、「目が見えるようになって、帰って来た」(ヨハネ9:7)とありますように、この人は、主イエスのみことばに従い、「行って、帰って来た」のです。同様に、「20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:23)と、主イエスは宣言し、弟子たちに「罪の赦し」という福音の宣教を全権委託します。のちに教会史においてこの「使徒」職は「監督」職として受け継がれますが、大切なことは、神の栄光が現れる場として選ばれて用いられる、ということにあります。キリストの十字架における栄光のわざが、それを信じ受け入れた告白証言者に体験され、そのうちに投影されて一体かされて、使徒として立てられてゆくのです。神のみことばによって遣わされる者となるとは、そういうことです。この人物は、その通りに、生まれつき目の見えないという現実をそのまま背負いながら、しかし目が開けられて、主イエスのみことばに従い行動しましたが、まさにその行動こそ、遣わされた者の場となって、神の栄光が現わされたのです。
4.「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」(6節)
主イエスの癒しのみわざについて詳細に触れますと、安息日規定よれば、唾の利用は安息日禁止事項に抵触する、と解釈されそうです。一種の治療行為とみなされる恐れがあるからです。しかし理解し難いのは、なぜ唾で土を捏ねて、その泥をこの人の目に塗ったのでしょうか。この世の世界も神の真理も「見える」ようにする、というのであれば、清水(聖水)で洗うべきです。それなのに、主イエスは「泥」と「唾」を練り固めて「塗る」とは、いったい何を象徴する行為なのでしょうか。いくら註解書を調べてみても諸説紛々で定かではありません。そこで私見になりますが、第一に、「神の栄光のみわざを現す」とは、神は、人間の理性や論理を遥かに超えて手段を選ばず、あらゆる「もの」や「こと」をお用いになる、ということでしょうか。ですから、病であれ傷であれ、心の病であろうと、泥でも唾でも、神の栄光のみわざの「材料」として用いられ、活かし役立てる、そのような新しい創造のみわざを行われるのではないでしょうか。それは完全で新しい愛と恵みに満ちた創造の秩序となるのです。人間の常識を超える神の超越的創造秩序の体系です。第二、目を開ける行為は、単に肉体の目を開けるということ以上に、神に向かう魂の目を開けるという意味も考えられます。神に対して、生まれつき目をふさぐことも、目に泥を塗り固めていよいよ目を塞いでしまうことも、また反対に、人間とこの世に向けられた眼を塞き、新たに洗うことで神の真理に向かって目を開き、見えるようになることです。そうして神は、ご自身の愛と憐れみに招くのです。ここで描かれる「泥と唾の道」は、ある意味で信仰に至る試練の道であり、準備であるとも考えられます。少々教訓じみた解釈かもしれませんが、より鮮明に真実が見えるようになるには、時には目を塞がれることも、実は役立つこともあるのではないか思います。目の見えない盲人が、恰も見えているかのように、目の見える人よりずっと物事を正しく鋭敏に感じ取ってこともよくあります。塩と餡との関係のように、甘味を深くするには、塩も役立ちますし、苦労することが本当の幸せをより豊かに感じさせることもあります。第三に、土という自然を構成する下位要素、唾という人間の生命かを支える体液、つまり万物を構成する諸要素を根底から、神の栄光のみわざのうちに、御手のご支配のうちに包み込み、神の国、神の栄光をお示しになったのではないでしょうか。皆さんはどうお考えになるでしょうか。
5.栄光の神学の逆説的意味を想い起す
かつて神学校時代にユンゲル(Eberhard Jüngel)の三一論とキリスト論を学ぶゼミで、大木英夫先生がよく「逆説のダイナミズム」を深く学びなさい、とおっしゃっておられました。特に「十字架の神学」における神の逆説的栄光について教えてくださったことを記憶しています。またチャペルで、高く飛ぶことも大事だが、低く飛ぶことで、本当の高さを知ることができる、と説教されていたことも思い出されます。その時、何か、目が開かれたように感じたことを今でも覚えています。逆境や絶望にあるとき、その時こそ、神の栄光のわざが現れる恵みの時と考えるようになりました。逆境を喜ぶことは至難のわざで今も出来ませんが、僅かながらも、逆境の中で「神の栄光のみわざが現れる」希望に生きることは分かるようになりました。そのおかげで「遣わされた者」を放棄せずに導かれたと思います。逢坂元吉郎先生は、理不尽な暴力により生涯病いに苦しみましたが、その理不尽な暴力による病いを、キリスト体験の場として、生涯修道の道に励まれました。その痛みの場を、主が聖餐において差し出される十字架のお身体をいただく受領の場としてのです。まさに理不尽な宿命の場は、神の栄光に与る場となったのです。