2022年2月6日「あの方は預言者です」 磯部理一郎 牧師

 

  1. 2. 6 小金井西ノ台教会 公現第5主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教36

説教「あの方は預言者です」

聖書 イザヤ書43章8~15節

ヨハネによる福音書9章13~23節

 

 

聖書

9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。9:14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった

9:15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」9:16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。

9:17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。9:18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、9:19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」9:20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。9:21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」

9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。9:23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

 

 

説教

はじめに. 大きな乖離の中で

主イエスはご自身から「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ8:58)と表明され、かつて神がモーセに啓示された「わたしはある」という神の名をそのまま名乗って、ご自身の真相を自己啓示をなさいました。「8:59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」と記されていましたように、明かに、ユダヤ人たちは、主イエスを神の冒涜として石打ちの刑をもって処刑しようとした、と考えられます。しかしニコデモのように、あくまでも律法を公正に適応すべきことを主張する慎重派もあったようです。言わば、ユダヤ人たち、とくに宗教的権力者たちの間が二分されていたのではないかと考えられます。そうした事情が、今日の9章13節以下から窺い知ることができます。先ず「9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。9:14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった」とありますように、律法学者たちは、安息日規定の違反行為と見なしています。一種の安息日における治療行為と判断したのではないでしょうか。ユダヤ人たちの関心は、あくまでも、自分の都合のよいように律法を利用して権力権限を顕示し、自分たちの特権を保持することです。真意は、決して「神」を誠実かつ謙遜に求めることではなく、自分が神の代理者となることでありました。しかしそうは申しましても、やはりユダヤ人の中にも、神を恐れる者もおり、慎重に真相を確かめてから、と考える人々もいたようです。そこで一番気がかりとなった点が、目を開けるというしるしの是非でありました。生まれつき目の見えなかった全盲の人が、本当に目を完全に開けられて目が見えるようになったのか、その真否が問われたのです。そこで、その真否を確認するために、かつて生まれつき盲人であった人物の両親までが呼び出されて尋問を受ける、という場面が、本日の話です。その真否によって、ある重大な問題を解決しなければならなかったからです。即ち、本当に主イエスは「メシア」であり、「神のもとから来た者」であるかどうか、主イエスとはだれなのか、という謎を解くことにありました。ユダヤ人律法主義者たちは、自分たちの権限権力を守るために、律法を利用して、主イエスを犯罪者として抹殺しようとする権力主義者と、しかしそれは慎重に確認したうえでなければならない、とするニコデモのような良識派との分裂を背景にしていたようであります。

しかし他方、主イエスのお立場は、9章4節以下に「9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業をまだ日のあるうちに行わねばならないだれも働くことのできない夜が来る。9:5 わたしは世にいる間世の光である。」9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。」とありましたように、主イエスご自身は、明らかに、父から委託され遣わされた栄光のみわざを実現すべく、十字架の死に向かって、突き進んでゆかれます。モーセに「わたしはある」(出エジプト3:14)と示されたように、わたしは「わたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。3:8 それゆえ、わたしは降って行き、(中略)彼らを導き上る。」ために、まさに十字架の死における贖罪を通して、民を、しかも罪ある民の罪を赦して、神のもとへ導き上るのであります。

 

1.「ファリサイ派の人々のところへ連れて行った」(9:13)

9章13節に「9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。」と記されています。ファリサイ派のもとに連れて行ったのは、二つの理由が考えられます。一つは、治療が本当に「奇跡「であったかどうか、すなわち<神のみわざによるしるし>なのかどうか、公に奇跡判定を行うためであった、と思われます。もう一つは、治療の経緯はどうであったか、その治療過程に、律法規定に基づいて正しく行われたかどうかということよりも、真意は安息日規定違反を立証するためであった、と思われます。「ファリサイ派」は、まさに安息日の禁止行為にこの治療行為に相当すると、律法に基づいて尋問し証言させたかった、のではないかと思われます。しかしここにはディレンマがあります。本当に奇跡であり神のしるしであれば、主イエスを「神のもとから来た者」として否定できなくなってしまいます。完全に治癒した、即ち、汚れが清められたかどうかは、厳密に言えば「祭司」(コーヘーン/ヒエリュース)の判断によるのですが、完全に癒されたのであれば、祭司が治癒の証明をすることになり、祭司が主イエスをメシアとして認めることになります。一般に祭司は、聖所(「天幕」「契約の箱」「祭壇」と祭儀器具)に仕え、ささげものをするために任職された聖職ですが、祭司はまた、らい病の診断をして、公にそれを宣言する権威を与えられており(レビ13:1‐59)、祭司の宣言は「汚れている」(レビ13:3,8等)か、或いは「きよい」(レビ13:6,7,13等)かであり、「汚れ」は「罪」、「きよい」は「聖」と考えられていました。生まれつき目が見えない人が完全に目が見えるようになったことを確認検証することは、そのように二重に真偽が問われていたのです。

 

2.「土を捏ねて」(14)「捏ねた土を塗り」(15)

この癒しの過程について「土を捏ねて」(14)「捏ねた土を塗り」(15)と詳細に記しています。「土を捏ねる」ことは一種の労働行為と見なされ、安息日規定の禁止行為となり、その結果「その人は、安息日を守らないから、「神のもとから来た者ではない(Ouvk e;stin ou-toj para. qeou/ o` a;nqrwpoj)」と結論づけられます。明らかに、律法違反者であり冒涜者として断罪できることを意味します。

 

3.「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」(16)

しかし他方で、証言通り、生まれつき目の見えない人が目が見えるようになったのであれば、「奇跡」となり、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」(16)という全く反対の立証となります。「しるし(shmei/on shmei/a)」とは、神が目の前で生きて働いておられることを示す象徴または記号となる行為や出来事を意味します。ここでは「複数形」で使用されていますように、主イエスのみわざ全体を、場合によって主イエスご自身の存在そのものをも含めて、語ることばも、為すみわざも皆、「メシアのしるし」と捉えているようです。「しるし」は新約聖書中77回登場しますが、頻度はヨハネ福音書が最も多く17、マタイ13、使徒13、ルカ11、マルコ7、ヨハネ黙示録7、となります。ヨハネ福音書では以下のように使われています。

「ヨハネ2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」「3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています神が共におられるのでなければあなたのなさるようなしるしをだれも行うことはできないからです。』」「4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。」「6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」「6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」「7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』と言った。」「10:41 多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。』」

このように、「しるし」という語は、まさに<メシアの到来>のしるし、あるいは<メシアである>ことの実証として、ヨハネ福音書では共通して用いられているようです。主イエスが、神のメシアとして遣わされメシアのわざをおこなっている、と理解する人も大勢いたと考えられますが、しかしその時は既に、イエスをメシアと認める者は会堂から追放することが決められていました。

 

4.「預言者です」(17節)

その証言を取るために、ユダヤ人たちは執拗に尋問を続けて、「お前はあの人をどう思うのか」と問います。目が見えるようになった人は「預言者です」と答えます。この「預言者です」という答え方は、意味深長です。おそらく内心は、明らかに「メシア」であると信じているはずですが、律法違反の加担者として見なされ追放を恐れた結果、そうは言えないので「預言者」と答えたのではないでしょうか。なぜなら、9章22節でも彼の両親が「ユダヤ人たちを恐れていたから」と明記されていますので、家族全体が内心は「メシア」告白をもちながら、迫害を恐れて「預言者」と答えることにしていたとも想像できそうです。ペトロでさえ、捕縛を恐れて、主イエスを3度否定した(マタイ26:31~35、マルコ14:27~31、ルカ22:31~34、ヨハネ13:36~38 → マタイ26:69~73、マルコ14:66~72、ルカ22:56~62、ヨハネ18:15~18、25~27)のですから、精一杯のメシア証言であり、信仰告白となる可能性を秘めていると言えます。

 

5.「ついに、目が見えるなった人の両親を呼び出して」(18節)

ファリサイ派の人々による尋問は執拗に続けられます。13節「前に盲人であった人をファリサイ派のところへ連れて行った」(15節)「そこで、・・・どうして見えるようになったのかと尋ねた」(17節)「そこで、人々は盲人であった人に再び言った」そして「両親を呼び出して」(18節)「尋ねた。・・・息子で、生まれつき目が見えなかった・・・それが、どうして今は目が見えるのか」(19節)とありますに、徹底した尋問が行わたことが分かります。注目すべき点は、この異常なほどに執拗な尋問の背景です。ファリサイ派をこのように執拗な尋問に駆り立てた事情は、「こうして、彼らの間で意見が分かれた」(16節)からであります。つまりユダヤの権力者たちの間に分裂が生じていたと思われます。たとえば、ニコデモの事例からも分かるように、それでも、夜遅くに人目を忍んで、主イエスを訪ねて、真理を求めたユダヤの教師たちもあった、と考えられます。彼らラビたちの間で、主イエスの権威(神から出た者)をめぐり、大きな混乱が生じており、それが大きな分裂となり始めていたのではないでしょうか。だからこし、中枢の権力者たちは、主イエスの処刑を急ぐ必要があった、と考えられます。主イエスを認め主イエスの処刑に慎重な態度を取る側の論拠は「こんなしるしを行うことができる」(16節)という目の前に起こった厳粛な事実からであり、処刑を一層と急ごうとする側の論拠は「安息日を守らない」(16節)という、言わば律法解釈を超えた、超法規的で大胆な主イエスの行動によるものでした。ユダヤ人たちは、確かに主イエスの力を恐れており、さらに大勢の民衆や罪人たちが主イエスに従って大きな宗教運動のうねりとなっていたこと、それに加えてユダヤの権力者たちやラビの間にも分裂が生じ始めていたこと、最終的にはユダヤの共同体を保持していた律法主義社会が崩壊するのではないか、という二重三重の恐れの中で、イエス問題と向き合ってゆかねばならなかったのではないでしょうか。

 

6.「もう大人ですから、本人にお聞きください」(21、23節)

ユダヤ人たちは、目が見えるようにされた人物の両親にまで、尋問を繰り返しますが、両親は「もう大人ですから、本人にお聞きください」(21、23節)と答えています。奇跡の真相は、当事者でなければ分からないことであり、その本人の意志により真相を確認してください、と両親は答えました。確かにその通りで、当事者でなければ「真相」は分かりません。しかし「9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば会堂から追放すると決めていたのである。9:23 両親が、『もう大人ですから、本人にお聞きください』と言ったのは、そのためである。」と明記されていますように、実はその本当の背景には、処罰が怖くて、自分の立場では言い逃れをしていたのです。大切な点は、ユダヤ人たちに対する言い逃れは出来ても、神さまに対する真意はまだ問われ続けるということです。本来は信仰の問題として「自分たち」も深刻な問いの前に立たされていることは否めない事実です。

この言葉から与えられる一つの示唆は、真相を「本人」から聞く、という考え方です。理想を言えば、皆が其々「本人」「当事者」として神の前に自覚的に直面し、神に対して誠実かつ忠実に<神の証言者>として立つべきであります。ルターは『キリスト者の自由』という本で、信仰者の自由とは、キリストへと向かうキリストへの自由である、と説いています。自立した人格の本当の自由とは、キリストに向かう自由である、と言います。確かに、この生まれつき目が見えない人物がキリストによって目が見えるようになったという奇跡の真相は、本人でなければわからないことです。しかし、いよいよ本当のことについては、何が起こっているのか、場合によっては、本人さえもその真相を完全に理解できることはできないのではないでしょうか。神の超越的行為を人が完全に理解して知るということには限界があるからです。人間に理解できる、証言できる、というのはほんの僅かで、しかも主観的な仕方でしかできないことです。自然を超える神の真相究明は至難のわざであります。そこで、人間にさらに求められる態度は、神に対する全幅の「信頼」と、そして自分に対しては「破れ」を認める「謙遜」です。神は全知全能の創造者として全てを知り全てを究めるお方ですが、人間は破れと限界にある被造物としてどこまでも謙遜であり、神を信頼して憐れみを求める外に道はありません。

ルターはまた、人間の「自由意志」に対して「奴隷意志」を説きます。人間の意志には、自らキリストに向かう自由は「罪」ゆえに堕落し破壊されてしまったため、その結果、どれほど自由を求めても「神への背き」になってしまう、というのです。そしてこの罪の奴隷から人間を根源から自由に解放してくださるお方こそ、主イエス・キリストであり、その愛と恵みよる外に、自由と解放はない、と教えます。先週、ヨハネ福音書9章7節「シロアム」という意味についてお話しました。泥で塞がれた目を「シロアム(遣わされた者)」で洗うのです。これは「洗礼」を象徴しているようにも読めないでしょうか。罪と破れに支配された全身全霊を、人間性の本質を、主イエスの十字架における贖罪の愛と力と恵みのもとで洗い尽くし、主イエスの霊と身体に与って、キリストの霊と身体として新たに生まれ変わり、新天新地に立つのです。シロアムで泥を洗った本人だけが、初めて目に見ることのできる新しい命の景色です。同時にまた、洗われて新天新地が見えるようになった本人だけが、新たに遣わされた者(アポステロス「使徒」)として、主の福音とその喜びを伝える全権を委任委託されて立てられ、「神の証人」として真理の証言者となるのです。それは自分の力に頼る自由でも人間の意志によるものでもなく、ただ奴隷のように主に縋る信仰によるばかりであります。このように、自分の破れに沈みつつ、神の愛と恵み豊かな力によってのみ、自由と解放は与えられます。言わば、キリストの十字架における神の愛と恵みのもとでは、私たちはただそれを受けるばかりであり、それは自由と言うよりはむしろただ恵みに浸ることであり、神の愛と恵みの奴隷や神の乞食となることであり、それは最早自由でも意志でもなく、強いて言えば「奴隷的な意志」にすぎないのではないでしょうか。この生まれつき目が見えない盲人の目が見えるようなった奇跡の真相とは、まさに、真実な神の愛と恵みに触れた、ということに尽きるのではないでしょうか。

この人物の両親は、これは自分たちの問題ではなく、「他者」(本人)の問題だとして、この神の愛と恵みの前に自ら立つことを避けているように見えます。よくあることですが、教会員の親が「子の信仰」を問題にするとき、人格として独立した「他者」「本人」の信仰の問題である、と対応する状況とよく似ています。幼児洗礼をめぐり、さまざまな議論があるのは周知の所ですが、自分は自分、他者は他者という態度から、結果として、信仰における「個人」を超えた普遍的な神の愛と恵みを拒否することになり、神の愛と恵みの「普遍性」に対する信頼を失うことになります。<共に神の前に立ち、神の愛と真理の前に一つとなる>という信仰における共同性が失われてしまうのです。神の愛と救いの前に、自己も他者もその区別はないはずです。家族が一致して神の愛を信頼することよりも、其々の人間的意志や判断に重心が移り、その結果、共同の信仰よりも個人の人間が主となる人本主義となり、一致して神の前に立つことはできなくなってしまうのです。こうした近代現代のキリスト教の在り方は、実はルターやカルヴァンのような宗教改革におけるキリスト教とは本質的に変異してしまったことも覚えるべきではないでしょうか。現代の教会は改めて「信仰」を問い直すべきかも知れません。

謙遜と信仰においてのみ、人は神と共に生きる道を見出すことができます。神に向けて心の目が開かれ、心身を神の愛と恵みに明け渡すことを学び覚える信仰訓練の中で、初めて「神の栄光のわざ」は確かな「わたしの救い」という「福音」となって明らかに現れ光輝き始めます。教会での信仰生活は、神の十字架における栄光の奇跡に対する信頼と学びであり、ついに神の栄光のわざは、「みことば」によって働き、わたしたちのうちで日々新たな追体験となり、教会の豊かな共同体験として世に実証されるのです。