2022.3.20 小金井西ノ台教会 受難節第3主日
ヨハネによる福音書講解説教42
説教 「わたしは復活であり、命である」
聖書 ダニエル書12章1~3節
ヨハネによる福音書11章17~27節
聖書
11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
説教
はじめに.
ついに主イエスと弟子たちはベタニアの村に入ります。「1:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。」(18節)と、ベタニアの村についての説明がなされています。18節の「ベタニア」(Bethania悩みの家、貧困の家の意)は、エルサレムから、ケデロンの谷を挟んで、僅か3キロメートル足らず(十五スタディオン=185mx15=2775m)で、オリーブ山の麓にある村です。マルタ、マリア、ラザロの兄弟が住む「重い皮膚病の人シモンの家」(マタイ26:6)があり、主イエスもこの家からエルサレム神殿に通い、ユダヤの伝道拠点とした村です。ついに主イエスはヨルダン川東側のベタニアから西側のベタニアに戻り、弟子たちと共にエルサレムに向かう最後の決意を固めます。
1.「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」(17節)
主イエスとその一行は「ラザロの死」と直面します。17節以下に「ラザロは墓に葬られて(e;conta evn tw/| mnhmei,w|))既に四日も(te,ssaraj h;dh h`me,raj)たっていた」(17節)と、はっきりとラザロの「完全なる死」が告知されています。先週「この病気は死で終わるものではない(ouvk e;stin pro.j qa,naton)。神の栄光のためである(u`pe.r th/j do,xhj tou/ qeou/)。神の子がそれによって栄光を受ける。」と弟子たちに主イエスは告げましたが、弟子たちはその死を正しく受け止めることができませんでしたので、主イエスは改めて「ラザロは死んだのだ。」とはっきりと伝えたうえで、さらに「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」(11章14, 15節)「わたしはラザロを起こしに行く(poreu,omai i[na evxupni,sw auvto,n)。」(11節)と仰せになり、葬られて既に死後4日も経過したラザロのもとに、弟子たちを伴い、向かいました。それは、完全な「死者」となったラザロの葬りであり、もはやラザロは「人格」とは呼べず、死体となった塵に過ぎない物体がそこに横たわるばかりの墓をめざしたのです。疑いえない「死」に支配されたラザロの遺骸を収めた墓に赴くことは出来ても、二度とラザロと会うことは出来ないのです。しかしそれは同時に、ついに主が意図しておられた最大の奇跡、地上における最後で最大のしるしを行う、その瞬間でもありました。人間の本質が「死」の滅びから「復活」による永遠の命に転換する瞬間であります。
父と子は同じ一つ神の本質であり、その一体の父から子に全権を委ねられて、地上に降り受肉した主イエスは、まさにこの「復活の命」を与えるという栄光のみわざを示すために、最大の天のしるしとしてラザロを復活させ、まさに「神の子がそれによって栄光を受ける」(14節)その時を迎えます。「父が死者を復活させて命をお与えになる(o` path.r evgei,rei tou.j nekrou.j kai. zw|opoiei)ように、子も、与えたいと思う者に(o` ui`o.j ou]j qe,lei)命を与える(zw|opoiei)。」(5:21)と、主イエスが以前からみ言葉によって約束した通り「復活の命」は、今ここにラザロという死者における神の栄光のみわざを行われるのです。
2.「兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」(19節)
「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。」(19, 20節)とありますように、ラザロの死を悼んで、ラザロの葬りのために多くの弔問客があったようです。マルタとマリアは、ラザロの葬りのために訪れた弔問客の応対に追われていました。通常はラビが取り行う葬儀は7日近く続いた、と伝えられており、マルタは、主イエスをお迎えに、そしてマリアは家で弔問の応対にあたっていたことが想像できそうです。恐らく、主イエスの弟子としての関係性から推し量りますと、律法学者のラビを呼ぶことはしていなかったのではないでしょうか。シモンとの関係から言えば、汚れた罪人の家との関わりで、やはり律法学者のラビを招くことは出来なかったかと推測されます。否、マリアもマルタも、律法学者のラビではなく、真のメシアである主イエスを最初からはっきりと求めていたに違いないと思います。どんなに多忙でも、姉のマルタらしく長女として恩師を出迎える礼節を果たしていました。
そこで、所謂「葬儀」についてですが、葬儀の目的は何か、よくよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。そこで人々に求められることとは、どのような行為であり、またどのような祈りがささげられるべきでしょうか。葬りをめぐり、主イエスはどのようにお考えになっていたかをたいへんよく示す意味深い話が、ルカによる福音書にありまます。主イエスは、主のもとに集まったある弟子の一人に対して、こんなことを言われています。「9:59 そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。9:60 イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』9:61 また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』9:62 イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」という主の教えです。ここで、是非注目したいのは、葬りの視点が大きく変わっていることです。一般の常識で言えば、葬りの中心は「死」であり「死者の葬り」です。漢字でも草の下に、即ち地中深く死者を埋め塵に返す儀式です。この死者を土の塵に返す葬りを、ましてや肉親の死の葬りを人類はこれまで全てに優先すべき祭儀と考えて来たのではないでしょうか。ある弟子は「主よ、先ず父を葬りに」と言って、厳かに父を葬る儀式を最優先にすべきと考えていたのですが、驚いたことに、主イエスは、それは後回しにして、それよりも優先すべきことは「わたしに従いなさい」、ときっぱりと命じます。その理由は、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」ということであり、また「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」からだ、ということになります。優先順位が大きく変わるのです。その優先順位の転換は、視点の転換が起こっているからです。「福音」という視点、即ち主イエスにおいて「神の国は到来ている」という新しい視点に立ち直すことで、見えて来る景色は全く異なるからです。神の国とは、神の支配ですが、神の完全にご支配のうちに、しかも主イエスにおける神のご支配のうちに、既に「死者」さえも包まれているではないか、という視点を意味します。死について、使徒パウロは「15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」(Ⅰコリント15:54~55)と告げます。主イエスにおける神の国の到来において、「死は勝利に飲み込まれてしまった」という新しい福音の視点であり、同時にまた「15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(同56節)と、罪の裁きは主イエスによる十字架の贖いにより、既に律法の支配とそれによる罪の裁きからは完全に解放されてしまった、と宣言しています。主イエスは弟子に、「死」によって拘束され支配され敗北を認める葬りから解放されて、新しい福音、神の国において与えられる永遠の命を認め、命の祝福に与り、本当の生きる道を見つめよ、とお教えになられました。そしてラザロを復活させて、新しい命の祝福の到来を示すのであります。
3.「わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)
間に合わずに、心でから4日以上も遅れて到着した主イエスに対して、マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(21, 22節)と言って、主イエスをお迎えしました。この言葉は、矛盾しており、錯綜したマルタの複雑な感情をよく言い表しているように思います。マルタは主イエスを迎えるとすぐに「わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ouvk a’n avpe,qanen o` avdelfo,j mou)と言って、「仮定法」を示す用語で感情を露わにし、主イエスを咎め、深い絶望と悲嘆を訴えます。しかしその後で、それでも、微かな期待を主イエスに求め、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(nu/n oi=da o[ti o[sa a’n aivth,sh| to.n qeo.n dw,sei soi o` qeo,j)と言い換えます。マルタの言葉は、一見、マルタの信仰告白のようにも読めそうですが、これは非常に曖昧な表現だと言わなければなりません。先ず「今は知っています、今だから分かります」という主文ですが、これは一定の意味をよく示しているように思われます。「今でも承知しています」「今も分かる」、と言葉では言っているのですが、いったいどんなことが分かり、知っているのか、その内容が問題です。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」と言っています。原文から申しますと、「神」には定冠詞が付けられていますので、明らかに「父なる神」であり、全能の造り主なる「神」を指していると思われます。その神にあなたが、即ち主イエスがお願いすることができる、という意味になります。ただし、願いを実現しかなえてくださるのは、主イエスご自身ではなくて、「神」なのです。ところが、主イエスはご自身からご自分のことを「エゴー・エイミ」(わたしはある)という神の名を用いて名乗り、ご自身がモーセに啓示された「神」であることを、繰り返し自己啓示しておられました。言わば、ユダヤの人々に、文字を通して律法として、言い伝えられてきた神ではなく、現実に生きて働く「神」と出会うのであるとすれば、それは、ただ独り主イエスにおいて現臨する「神」のほかにはおられない、と主イエスはいつも告げておられたはずです。少し意地悪く読めば、マルタの中で、まだ、「神」は主イエスのうちにはおられないのです。主イエスは、ただ祈り願うことは出来る、そしてそれを神は聞き入れてくださるかも知れない。主イエスと神とは、一体ではなく、まだ大きく切り離された所で理解しているようです。マルタのこの信仰告白には、まだ、そうした曖昧さが残存しています。
しかしそれでもマルタの一定の「信仰告白」として評価できる点もあります。主イエスは、祈りを通して「神」は聞き入れてくださって病気を癒していただける、そんな特別な「力」が主イエスにある、と信じていたことは確かです。だからこそ、姉妹たちは、主イエスの祈りとその特別な力に期待を寄せて、イエスのもとに人をやって「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた(11:3)と考えられます。厳密に言えば、22節で「あなたが神にお願いになる(aivth,sh| to.n qeo.n)」と「神はかなえてくださる(dw,sei soi o` qeo,j)」とは別の事柄なのです。新改訳聖書の改訂3版の訳では「神はあなたにお与えになります」となっておりますが、その方が原典に近いと思います。主イエスが求め、神がお与えになるのです。イエスの「祈りの力」が神を動かして、神が奇跡を実現される、と考えたようです。つまり「奇跡」とは、ある意味で主イエスの特別な「祈りの力」にある、と理解していたようです。それでも、主イエスの病気を治す「祈りの力」に、強い信頼を寄せていたことはよく分かります。少し難しい表現ですが、まだ彼女の信仰告白には、キリスト論がはっきりしていなかった、と言えます。救いの信仰において、この明確なキリスト告白を持つということは決定的な意味を持つのですが、マルタはまだ十分に主イエスの本質を理解するには至っていなかったのです。こうした事例は、3章のニコデモや4章のサマリアの女とよく似ているのではないでしょうか。そして主イエスとの対話を通して、その解き明かしの中で、少しずつ、主イエスにおける「神」を正しく知り、信じ受け入れることが出来るように導かれるのです。すなわち、主イエスは、その本質において、三一体の神である、と知るのです。
4.「あなたの兄弟は復活する」(23節)
さて、いよいよ主イエスとマルタとの問答は、復活とそれを成し遂げるメシアの到来をめぐる根本問題に発展します。主イエスが「あなたの兄弟は復活する(VAnasth,setai o` avdelfo,j sou)」と言われると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った(23, 24節)と書かれています。主とマルタとの問答の主題は、主イエスが神にお願いをして、それを神がかなえるという脇役の次元の話から、直接主イエスがらラザロを復活させて「命を与える」主人公として、話は進んでゆきます。ここに、ヨハネ福音書の核心があります。
まず主イエスは「あなたの兄弟は復活する(VAnasth,setai o` avdelfo,j sou)」と「未来形」(avni,sthmi VAnasth,setai)でラザロの復活を告げます。欽定訳聖書は “Jesus saith unto her, Thy brother shall rise again.”と「意志未来」で訳して、主イエスの強いご意志を表しています。大事なのは、ラザロを復活させるのは、終始一貫主イエスご自身であり、主イエスのご意志です。したがって「神」のご意志は、即ち主イエスのご意志として一体なのです。そこでマルタは「終わりの日の復活の時に復活すること(o[ti avnasth,setai evn th/| avnasta,sei evn th/| evsca,th| h`me,ra|)]は存じております、と応答します。「復活」をめぐり、両者が共に共有する理解は「終末にはやがて復活はあるであろう」とする<未来形の甦り(avnasth,setai)>です。ここでの復活とは、今現在からは遠くかけ離れた曖昧な<未来への期待>に過ぎません。実はこうした世の終わりの時に、その遠い未来に、起こりうるであろうとされる「未来形の復活」は、ユダヤ人たちの間でも、ファリサイ派を初めエッセネ派、クムラン教団でも共有されていた復活の期待でありました。こうした復活信仰は、当然ながらファリサイ派も含めて、ユダヤでも共に共有し受け継いでいたと考えられます。マルタはその期待を述べたのです。ただ、ラザロは既に死んでしまったので、いつか甦るだろうという期待は絵にかいた餅に過ぎず、だれもどうしようもないことです。その意味からすれば、復活はまだ「現実の出来事」ではなくて、あくまでも架空の「未来の期待」に過ぎません。こうしたマルタの復活観には、ある致命的で決定的な問題によって、貫かれています。それは、主イエスにおいてこの未来の復活は既に現在化されて到来しており、未来も過去も主イエスの時の支配の中に包まれ統合されているのです。主イエスにおける「神の国」の到来により、主イエスにおける「神」の永遠の支配力は全ての時を支配するに至ったのです。終末時に期待される復活の出来事が、今ここで、主イエスにおいて現在化しており、すべての時を包み、すべての時間の中心となった、それがメシアの到来であるということを、まだ認められずにいたのです。主イエスにおける「神」の支配は、あらゆる時を貫いて、今この現実として、無限の愛と意志をもって万物を贖われるのです。それが「神の国」の到来なのですが、それはまだ彼女にはとても受け入れ難い現実だったのです。復活の出来事は、終末時の未来にやがて起こるであろう、とただ期待するに過ぎないことだったのです。主イエスにおける現実として今既に生起していることとしてまだ分かりませんでした。
5.「わたしは復活であり、命である。」(25節)
そこで主イエスは、単刀直入にマルタに告げます。「11:25『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』11:27 マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』」と、主イエスによる復活の告知に対して、マルタは「メシアであるとわたしは信じております」と答えて、締めくくられます。この「わたしは復活であり、命である」という主のみことばには、二重の意味が込められています。一つは、「わたしはある」という言葉で、主イエスにおける「神」を自己啓示しています。主イエスご自身は、モーセに啓示したあの「神」そのものである、という「神」の啓示です。そしてもう一つは、「命」であると言われ、主イエスご自身が「命」の根源であり、その命を与える与え主であることを明らかにしています。ヨハネ福音書の冒頭の言葉で、「1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と讃美告白された言の命です。「言葉の内に命があった」とありますように、「言」は、命の源泉であり命の賦与者であり、万物の創造主でもあります。この「言」としての神こそ、即ち「御子」としての神が人の子として受肉したお姿こそ、主イエス・キリストの本質であります。
用語の使い方で申しますと、「わたしは復活であり、命である(VEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,)。」は、『わたしはある(VEgw, eivmi)』という神の名に、「復活と命(h` avna,stasij kai. h` zwh,)」を連結させた「エゴー・エイミ構文」で構成されています。「混沌」(カオス)から万物を創造し、「土の塵」(アダマ)から人間を形づくり「命の息吹」(ルーアッハ)を鼻に吹き入れ、「生きた者」(創世記2:7)として人間を創造された創造主なる「神」は、またモーセに「わたしはある」という名でご自身を啓示した「神」(出エジプト記3:14)であります。「わたしはある」は、ヘブライ語の神名「ヤハウェ」の語源ハーヤーで、それを3世紀の七十人訳聖書は「わたしはある」(VEgw, eivmi)とギリシャ語訳した言葉です。その神の名「わたしはある(VEgw, eivmi)」を主イエスは自ら名乗り、さらにご自身が「神」であることを自己啓示し、イエスという受肉した「神」として「神」の栄光のみわざを行うために、今ここに人々の前に現れたのです。まさに「神」とは、父においても、子においても、そして聖霊においても、同一の本質を共有する「神」であることを示したのです。主イエスにおける「わたしはある」神は、そのまま民の痛みを知り、降り、導き上る神として、しかも「わたしは復活であり、命である(VEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,)」神として、世の人々に「神の国」の到来を告知したのです。だから「命と復活」の到来であり「世の光」であり「真理」なのです。終末時に生起する未来の復活は、まさに今ここで、主イエスにおいて先取りされ現在化され既に実現した出来事として世の人々の前に差し出されたのです。つまりキリストは、命と復活を与える神であるばかりか、ご自身が「命」そのものの根源であり復活そのものであるとして、人々の救いと命に与る源泉としてご自身を差し出されるのです。
ヨハネによる福音書の特徴の一つとして、未来の終末が先取りされて現在化されている、という特徴が挙げられます。しかもその未来を先取りする現在化は、説教と聖餐のみことばにおいて、鮮明にされます。ご自身の十字架と復活によるお身体を先取りして、最後の晩餐で弟子たちに差し出される主のお姿は、聖餐式で朗読される「聖餐制定語」に見出すことができます。主の食卓において、主は弟子たちに「取って食べなさい(La,bete fa,gete)。これはわたしの体である(tou/to, evstin to. sw/ma, mou)。」(マタイ26:26)と命じられました。これから迎える十字架の死による贖罪と復活による永遠の命を、今ここに先取りして、弟子たちに主の栄光のお身体に共に与らせ、分かち与えています。またパウロの聖餐制定語では、さらに「これは、あなたがたのためのわたしの体である(Tou/to, mou, evstin to. sw/ma to. u`pe.r u`mw/n)。」と言われ、「わたしの体」は「あなたがたのための」ものであり、「あなたがた」のために制定した聖餐において共に与る主の体であることをと明らかにしています。また「これを行いなさい(tou/to poiei/te):新改訳:わたしを覚えて、これを行いなさい。塚本訳:わたしを記念するためにこのことを行ないなさい(tou/to poiei/te eivj th.n evmh.n avna,mnhsin)。」(Ⅰコリント11:24)とお命じになり、聖餐のパンと葡萄酒とは十字架と復活を先取りする主のお身体であることを明示し、ご自身のお身体をあなたがたのために与え、与ることができるように制定した恵みの座であることを明らかにします。つまりわたくしたちは、今ここで、このみことばの座において、主の十字架の死による贖罪の恵みと復活による永遠の命の恵みに与ることができるようにしてくださいました。
ここで、是非とも覚えておきたい大切な言葉は、まず主が「取って食べなさい(La,bete fa,gete)。これはわたしの体である(tou/to, evstin to. sw/ma, mou)。」(マタイ26:26)と言われ、聖餐のパンと葡萄酒において、ご自身を差し出されています。これは、主ご自身が「わたしは復活であり、命である(VEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,)」と告知したご自身の命の身体であります。さらに大切なことは、「このように」と口語訳や新共同訳が誤訳していますが、先ほど触れましたように、原典は「これを(対格で「このことを」ou-toj tou/to)行え」とお命じになりました。「これを行う(tou/to poiei/te)」とは、これから経験しようとする十字架と復活のお身体を、この聖なる晩餐において主は「先取り」して、「現在」の出来事として今ここで受けるように、と主の十字架と復活のお身体を現在化した「しるし」として「パンとブドウ酒」を弟子たちに差し出し分け与えておられます。言わば「わたしを思い起す(eivj th.n evmh.n avna,mnhsin)」ただ中で、その記念想起の場において、み言葉を通して導かれた共同体は、未来に復活するという出来事とその命を、今ここに現在化され現実化された出来事として、共に与り体験するのです。決して誤解してはならないのは、聖餐は、ただ過去の過ぎ去ったことを記念して想い起す記念式典ではなく、その約束のみことばが語られ、招かれ、導かれる中で、主のお約束を「想い起す」(記念する)ことにより、終末は先取りされ、今ここに主のお身体が現在化され現臨するのです。むしろ過去・現在・未来のすべての時の中心として、そしてあらゆる場を全て包み込む中心として、全てを今ここに一つに収斂させて、ただ一度の現在のこととして、今ここに共に「覚え」て「与る」のです。したがって聖餐においては、終末未来の復活と命は、主の現臨と語られるみことばの恵みと力により、記念と想起の行為を通して、わたしたちのうちに現在化され現実化された永遠の完成の恵みとなるのです。わたくしたちの礼拝の意味と力は全て、このみことばによる終末の現在化と現実化にかかっている、と言わなければなりません。復活と命は、主が現臨し主が語られるみことばにおいて、未来形の期待は既に引き起こされる現在形の出来事として実現し、キリストご自身のみ言葉を通して、わたくしたちに差し出されるのです。
6.「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(25節)
終わりに、ヨハネ福音書の中核を成すメッセージの終結部に触れておきたいと思います。主イエスはマルタに復活による永遠の命を告知し、主のみことばに対する信頼と承認を求めて、「このことを信じるか(pisteu,eij tou/to)」と、マルタの信仰を問い糾します。なぜなら「わたしを信じる者は、死んでも生きる(o` pisteu,wn eivj evme. ka’n avpoqa,nh| zh,setai)。生きていてわたしを信じる者はだれも(pa/j o` zw/n kai. pisteu,wn eivj evme.)、決して死ぬことはない(ouv mh. avpoqa,nh| eivj to.n aivw/na)。」(25, 26節)からです。文字通り「信じるか」と、マルタには信仰的決断がここで求められます。ヨハネのもう一つの重要な主題はこの「信仰的決断」です。主は「わたしは復活であり、命である(VEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,)。」(25節)とご自身を自己啓示しました。その啓示を受け入れることで、主の命はわたしたちの光となって実現します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないから」(ヨハネ3章16~18 節)です。先ほど申しましたように、終末的未来の復活と最後の審判は、主の啓示のみ言葉を通して、人々の前に、今ここに、差し出されています。それはまさに全ての時の中心に立つことになりますです。明日の約束は今、信仰による決断として、力強く先取りされて、現在化して現実の出来事となって迫ります。わたくしたちも、信仰において、永遠の喜びを今ここに生きるのです。