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2021年4月4日 復活日礼拝「三日目に死人のうちよりよみがえり」 磯部理一郎先生 牧師

2021.4.4. 小金井西ノ台教会 復活礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答45

「第二部 人間の救いについて ―子なる神について⑺復活―」

 

 

問45 (司式者)

「キリストの『よみがへり』は、どのような恩恵を私たちにもたらすか。」

答え (会衆)

「第一に、キリストは、復活によって、死に打ち勝ちました。その結果、

ご自身の死を通して獲得した(神の)義に私たちを共にあずからせるのです。

第二に、その御力を通して、私たちもまた、今こそ新しい命によみがえるのです。

第三に、キリストの復活は、祝福あふれる私たち自身の復活の確かな保証なのです。」

 

2021.4.4 小金井西ノ台教会 復活日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教61問答45(復活)

聖書 ルカによる福音書24章1~12節(新159頁)

ペトロの手紙一1章3~9節(新428頁)

説教「三日目に死人のうちよりよみがえり」

 

はじめに、わが死は十字架における主の「死」のもとにあり

唐突ながら、加齢のせいか、最近よく朝起きると、自分の「死」について考えることが多くなりました。どのようにして、死を迎えたらよいか、死の準備に、思いをいたすことが、毎日のようにあります。そして死を思い、死について考える度に、主イエスの十字架の死のことを想い起します。永遠の神の御子が、わたしのために、わたしの罪と死を背負って、十字架の上で死なれた、という十字架におけるキリストの「贖罪の死」に、いよいよ思いは深く導かれてまいります。そして十字架のもとに、自分の魂が導かれてまいりますと、わたしの死を主が背負われ担われたという大きな事実を、幾度も思い知らされるのであります。心が十字架に導かれますと、十字架において、既に主イエスと共に持ち去られてしまった「わたしの死」に気付かされます。そう、わたしの死と裁きは、滅びと地獄の運命は、すでに「キリストの十字架における贖罪の死」のもとに、背負われ担われて、持ち去られてしまっている。そして既にそこでは、「罪の償い」と「完全な従順」を十字架の死に至るまでに貫き通してくださった主イエスのおかげで、新しい「神の義」による命の祝福が始められており、死から復活の身体が準備さている、とそう思うのです。それが、十字架における、わたしの死の実態なのだ、と。つまり、キリストの十字架において、「わたしの死」は、既にキリストによってキリストと共に持ち去られたのだから、死の支配の実態を具現化した死体が存在しないのだ。それはまさに聖書の証言する「空虚な墓」のように、死の支配は完全に失われてしまっている、と思わされるのです。なぜなら、死とは、罪による堕落の当然なる結果ですが、それ以上に、死の滅びは、罪に対する神の裁きの結果でもあります。死の苦しみの恐るべき点とは、罪に対する「神の怒り」であり「神の呪い」にあります。罪による堕落も、神の裁きも、そして罪ゆえの神の怒りも呪いも、すべて、キリストが十字架の上で背負い尽くして、私たちのために持ち去られてしまったのです。であるとすれば、罪も死も、そして神の怒りも呪いも、最早、恐れる必要はなくなったのだ、と言わなければなりません。わたしは、ただキリストの十字架のもとに、おればよいのです。わたしの死は、キリストの十字架のもとに既に持ち去れており、既にキリストと共に死んだのだ、といよいよ深く思いをいたします。

 

1.空虚な墓

聖書は「復活」の出来事を証言します。その意味深い点は、主の復活の出来事を「空虚な墓」という現実をもって証言しようとする所です。最初にマルコは「16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ16:1~8)と証言します。次いで、マタイも「28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、28:6 あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」」(マタイ28:5~7)と告げます。そしてルカもまた「24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、24:3 中に入っても主イエスの遺体が見当たらなかった。24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。24:6 あの方はここにはおられない復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(ルカ24:2~7)と伝えています。

共観福音書に依れば、まさに主イエスの死体は存在しない、死体は無くなってしまった、そうした「空虚な墓」を復活証言の原点にして展開します。ルカは「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか」(ルカ24:5)とまで語り、明確に、死の支配や死の世界を具現する「死体」は、既に「空虚」となったのだ、と伝えて、新しい意識の覚醒へと導こうとします。したがって、どうして、生きておられる方を、すなわち「命」を、最早「空虚な墓」となった「死体」の中に捜し求める必要があるのか、「死の世界」にではなく、「永遠の命」の勝利のうちに、捜し求めるべきではないか、というメッセージが暗示されます。十字架におけるキリストの贖罪の死を通して、神の裁きは完了して、否、それ以上に、罪の償いは満たされ、完全永遠なる神への従順は尽くされ、新たに獲得された神の義の勝利のもとに、したがって新しい命の祝福あふれる世界に、万物は誘われ導かれている。それゆえ、心を向け、目を向けるべき世界は、「命の勝利」の世界ではないか、と告げます。つまり、「死」が「身体」を支配する「死体」の世界は、最早、十字架におけるキリストの死において、その実体性を喪失してしまった、という決定的な事実を世界に突きつけ、世に宣言したのです。したがって「死者」を葬る墓の中には、死が身体を支配する「死体」を捜し求めるのではなくて、キリストの死のただ中には、「神の義」の勝利は、安息日のもとに夕暮れと闇夜の中に、すでに内包され隠されていたのではないでしょうか。死んで陰府にくだるという闇に包まれつつも、キリストは十字架の死の贖罪において神の義を獲得して、死に勝利したのです。そして世界には、死んで三日目の朝、キリストにより十字架において完全に死に対して勝利した「神の義」は、キリストにおいて「復活」という新しい人間性の姿をまとって、永遠の命に溢れた「復活体」という新しい身体で具現化され、世に啓示されたのであります。

「死体」のない「空虚な墓」とは、受肉して私たちの人間性を担われた仲保者キリストの完全勝利の宣言であり、「不義」から生じた死に対する「義」の勝利を明らかにする証言であります。その意味から言えば、復活は既に「十字架の死」の内に深く形づくられていたのではないでしょうか。十字架の死の中に復活の本質である神の義は既に実現していた、と言ってもよいのではないでしょうか。「復活の身体」のキリストと、ガリラヤで或いはエルサレムで出会うというメッセージは、まだ目に見ぬ「復活体」のキリストをとてもよく暗示しているように思われます。それはまさに、永遠の義と命の祝福が身体を支配する、勝利の「復活の身体」におけるキリストに、心を向けよ、というのが、この「空虚の墓」が語るメッセージであります。十字架における贖罪の死を成し遂げられた「キリストの身体」、そして神の義と従順を貫き不義による先に勝利した「キリストの身体」は、同じ一つの「キリストの身体」であります。唐突ながら、自分の死に思いを向けるわたしの日常背生活についてお話しましたが、まさに聖書が証言するように、「死体」の世界に心を向けても、そこは、最早「空虚な墓」であって、本当のキリストの身体もなければ、私たちの身体も人間本性の存在しない場所なのです。私たちの人間性と本当の身体は、キリストと共に、十字架と復活のキリストお身体のうちに、永遠の神の義と命のもとに、奪い去られ、移し変えられ、生まれ変わったのであります。

 

2.「身体」による十字架の死とよりがえり

そこで、改めて、主キリストのご復活の勝利を、心よりお喜び申し上げます。イースター、まことにおめでとうございます。主のご復活をお迎えするとき、どうしても忘れてはならないこと、それは、主のご復活は、主の十字架での死と葬りからのご復活である、ということです。しかもその十字架の死と葬りからの主のご復活は、クリスマスの受肉、十字架の死と葬り、陰府への降下、そして復活という一連の出来事は、一串に串刺しするように連続する「主の御身体」における、私たちの人間性を根元から救うための救いである、ということです。主の十字架における死と葬りそして三日目の復活は、神の永遠の御子の受肉した「受肉のお身体」をもって、貫かれ、成し遂げられた出来事です。この十字架と復活とを共に貫き、さらに先取りして言えば、「天に昇り、神の右に座し給う」という一連のみわざは、すべて、同じ「主の身体と魂」によって一貫して串刺しにされるように、貫かれており、そこには常に「キリストのお身体」があるのです。この事実をしっかり覚えておく必要があます。つまり主の復活は単なる「甦り」でも、死なない永遠の命でもないのです。魂が天国に昇って逝った、というのではないのです。人間の死んだ「身体」が、同じ「身体」で勝利救われる「復活の身体」である、ということです。クリスマスの時に受肉したそのお身体をもって、十字架を担い、十字架の裁きのうちに死んで、葬られ、その全く同じ一つの身体をもって、甦り、天に昇られた、というその身体をしっかりと覚えるのでなければ、本当の意味で、主のご復活を祝うことはできない、と思います。

そのキリストのご受難のお身体から、しかも十字架において、槍で刺し貫かれた傷跡と釘打たれた釘跡が痛ましくも残る、そのお身体で、主はご復活を遂げられたのであります。そのお身体には、わたしたちの身体も魂も、そしてわたしたちの死の裁きも償いも皆すべて背負われ担われて、十字架に死んで三日目に復活した「お身体」であります。ハイデルベルク信仰問答を告白する信仰共同体は、決してそのキリストの身体から離れず、その身体と一体となって、今ここで信仰を言い表わしているのではないでしょうか。端的にかつ率直に表現すれば、主イエスの十字架と復活の、そのお身体において、そのお身体と一体となって、そのお身体をわが死とわが復活の身体として、キリストの復活を祝い、キリストの復活を告白して、神に栄光と讃美をささげるのであります。主のご復活が、私たち自身の意味ある勝利となるのは、まさにその「お身体」においてであり、私たちが、キリストのお身体に一体に結ばれているからからであります。

 

3.不従順の罪を満たすキリストの従順と償い

ハイデルベルク信仰問答は、問答45で「キリストの『よみがへり』は、どのような恩恵を私たちにもたらすか。」と、主のご復活の意義について問い、その答えでは「第一に、キリストは、復活によって、死に打ち勝ちました。その結果、ご自身の死を通して獲得した(神の)義に私たちを共にあずからせるのです。第二に、その御力を通して、私たちもまた、今こそ新しい命によみがえるのです。第三に、キリストの復活は、祝福あふれる私たち自身の復活の確かな保証なのです。」と、三つの意義について答えています。まず、第一の意義として「死に打ち勝ちました」と言い表します。

「死に打ち勝つ」とは、どういうことでしょうか。パウロは「15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よお前の勝利はどこにあるのか死よお前のとげはどこにあるのか。」15:56 死のとげは罪であり罪の力は律法です。15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(Ⅰコリント15:52~57)と告げています。ここで注目すべき点は、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と明記する点です。つまり死とは、死のとげである「罪」が律法に基づいて断罪されて、神の裁きの結果として、ついに「死」を迎える、ということになります。罪という堕落と崩壊ゆえに滅びに至るばかりではなく、最終的に罪に対してトドメを刺すのは、律法に基づいて断罪される「神の裁き」である、ということになります。

しかしながら、キリストの十字架における罪の償いとその代価の支払いによって、罪は律法のもとで、既に完全に償い尽くされており、しかもキリストのよる罪の償いは、さらに完全な神への「従順」によって、神の完全な「義」を実現しているので、最早、キリストの人間性を通して、私たちの人間性のうちにある罪は完全に償われ、それどころか、十字架の死に至るまでの、徹底した神への従順が貫かれたことで、完全な義が果たされたので、最早、神の裁きは十分に満たされた、ということになります。それゆえ、罪に対する裁きは、キリストの十字架において、既に完了したので、つまり死はキリストの十字架において既に完了してしまったので、死が生み出し死によってもたらされる死体の世界は消滅したのであります。パウロはさらに、キリストの十字架で成し遂げたみわざについてこう証言しています。「2:6 キリストは、神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。2:9 このため神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6~9)。ここで非常に注目すべき点は、「僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」という2章7,8節の証言にあります。ハイデルベルク信仰問答9は「神の律法を守れるように、神は人間を創造されました。しかし悪魔の唆(そそのか)しにより人間は身勝手に不従順を犯したため、神の賜物を奪われてしまいました。」と、人間の不従順について告白懺悔しています。御子は「人間の不従順」のために、御子の「従順」を神に支払ったのです。キリストの「従順」は、言うまでもなく、「人間の不従順」を満たすために代価として支払うべき「償いの従順」として、成し遂げられました。しかも唯一真の永遠の神の御子であるキリストが、人間の不従順を贖罪するために、完全で永遠の「従順」を支払うのであります。しかも、その支払いは、「十字架の死」に至るまで、極め尽くされた従順の死でありました。「このためゆえに、「神はキリストを高く上げ、あらゆるなにまさるなを与えになりました」。そしてさらに重要な点は、その完全で永遠なる従順を、しかも十字架の死に至るまでの従順を、「僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、に至るまで」支払い尽くしたことです。死を永遠の定めとする人間として支払われたのです。ここに、キリストの十字架の死における義は、私たち人間の、人間本性の本質と根源から、身も魂も、キリストにおいて背負われ担われて、永遠で完全の従順へ導かれる根拠があります。誰も、罪に定め、死をもって裁く者も、またその根拠を失ったのです。その現実こそが、まさに「空虚な墓」であります。キリストの十字架における従順により、「神の義」という新しい命のうちに飲み込まれ、死はその存在を完全に奪われててしまったのであります。したがって、復活の原点は、主キリストの十字架における「贖罪の死」にあり、その十字架の贖罪ゆえに、死の原因である罪もそして神の裁きである完全な死と滅びも、十字架において完全消滅し、神の義による新しい命が芽生え、勝利に至ったということになります。問答45で申しますと、「第一に、キリストは、復活によって死に打ち勝ちました。その結果、ご自身の死を通して獲得した(神の)義に私たちを共にあずからせる」のであります。このキリストの十字架における贖罪に連続直結するようにして、第二に復活の意義として、「今こそ新しい命によみがえる」と告白します。罪に対する勝利の結果、永遠の命の祝福に満たされ、復活に至るのであります。そしてまさにキリストの復活こそが、私たちの復活の根拠となり、証拠となるのです。それは、言うまでもなく、永遠の神の御子が、受肉して、私たち人間と全く同じ人間性を身に纏い、私たちの人間性をそっくりそのままその身に引き受けて背負い、完全な贖罪と復活を果たしてくださったからであります。私たちの死に対する勝利と復活の希望は、まさにキリストのお身体のうちにある、そこに、たちの復活の拠り所があり、保証も根拠もあります。しかも私たちは、そのキリストの身体と一体に結ばれ、養われます。いわば罪ゆえに、死して滅びるべき身体は、永遠の命によみがえる復活の身体となって、新たに創造され出現したのであります。

 

最後に重ねて、十字架と復活の「キリストの身体に与る」意義を覚えて

先週の主のご受難に続き、本日は、その三日目のご復活について、お話をいたしました。大事なことが三つあります。一つは、徹底して十字架の贖罪を正しく知り、十字架による贖罪を自分自身のうちに経験することです。自分の罪を認め、神の怒りと呪いの前に立ち、キリストの十字架上での贖罪を覚え、感謝することです。二つ目は、決して主のご復活は十字架の死と切り離すことができず、むしろ復活は十字架の死の中に芽生えた、ということをしっかりお覚えいただきたいのです。それゆえ、とことん十字架の死の意味を覚え、主の十字架での死をいよいよ深く「共体験する」ことに、復活の芽が生じるのです。そして三つ目は、十字架での贖罪の死も勝利の復活も共に、「キリストの身体」において実現貫徹されいる、という救いの本質であります。したがって、「キリストの身体」のうちに、わたしたちの死の身体も生の身体も共にある、ということであります。そのためには、みことばによる啓示を通して、神の救いの真理、福音の真理を正しく認識すると同時に、もう一つ、決定的に大事なことは、キリストの身体のうち深くに、一体の身体として、私たちの身も魂も飲み込まれるように入れられる、ということです。つまりキリストの身体のうちに、わたしたちの死も命もあるのですから、キリストの身体のうちにいよいよ生まれ、養われ、生きることが大切です。それゆえ、キリストの身体のうちに奥深く生きるための場こそ、キリストの身体に与り続けるという教会の生活に生きること、すなわち信仰をもってみことばを聴き聖餐に与って、正しく礼拝を守り、キリストの身体として豊かに養われることであります。

 

2021年3月28日「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」 磯部理一郎 牧師

 

2021.3.28. 小金井西ノ台教会 棕櫚の主日(受難週)礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答40~44

「第二部 人間の救いについて ―子なる神について⑹死、葬り、そして陰府への降下― 」

 

 

問40 (司式者)

「なぜ、キリストは『死んで』苦しみを受けねばならなかったのか。」

答え (会衆)

「神は義(ただ)しく真実であるがゆえに、御子の死によるほかに

私たちの罪の代価を支払う償いの方法はなかったのです。」

 

 

問41 (司式者)

「なぜ、キリストは『葬られ』たのか。」

答え (会衆)

「それによって、主がほんとうに死なれたことを示すためです。」

 

 

問42 (司式者)

「キリストが私たちのためにすでに死んだのに、どうして、私たちもまた死なねばならないのか。」

答え (会衆)

「私たちの死は、私たちの罪の代価を支払うための償いの死ではありません。

私たちの死は、罪に対する決別の死であり、永遠の命に至る入り口にすぎないのです。」

 

 

問43 (司式者)

「キリストによる十字架での犠牲奉献と死によって、私たちはどのような恩恵を受けるか。」

答え (会衆)

「主キリストの御力によって、私たちの古い人間性は、主と共に十字架につけられ、

滅ぼされ葬られるのです。

その結果、私たちの内にある肉の邪悪な欲望はもはや私たちを支配することはありません

それによって私たちは、感謝の献げ物として自分自身を主にお献げするようになるのです。」

 

 

問44 (司式者)

「『陰府にくだり』と続けて言われるのは、なぜか。」

答え (会衆)

「わたしは、この上なき試練の中にあってこそ、こう断言します。

わたしの主キリストはわたしのために魂の底から十字架に至るまで絶えず痛み苦しまれ

その言い難き苦痛と恐れを通してわたしを地獄の拷問と苦痛から

代価を支払って贖ってくださったのです。」

 

2021.3.28 小金井西ノ台教会 受難節第6(棕櫚)主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答40~44

ハイデルベルク信仰問答講解説教60

説教「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」

聖書 イザヤ書53章1~12節

ルカによる福音書23章26~56節

 

はじめに、受難週を迎えて

教会暦に従いますと、本日は「棕櫚の主日」を迎え、受難週に入ります。したがってこの金曜日は、主イエス・キリストが十字架につけられ、死んで葬られた、「聖金曜日」となります。今はどうか分かりませんが、かつて富士見町教会では受難週に入りますと、受難週祈祷会が月曜から金曜日まで設けられておりました。島村亀鶴牧師は、特に「十字架の七言」を主題にして、十字架上で死を迎える主イエスの七つの言葉を一つ一つ取り上げて、説教され、そして聖餐に与る、という受難週でした。そこではいつも長老の皆さんと共に、とても厳かでそして心に浸みる深い祈りが続いていました。身が引き締まるその緊張を、40年以上が過ぎた今でも、決して忘れることができない体験として、鮮やかにこの身体と魂に刻まれたように残されています。ましてや「ハイデルベルク信仰問答」は、1563年に成立し、既に450余りを経た今でも「十字架の信仰」をとても鮮やかに、そして生き生きと、豊かに湛えています。本日は、教会暦に従い、「受難週」を深く覚えて、ハイデルベルク信仰問答は、問答40~44に告白される、主イエス・キリストの十字架の死と葬りについて、共に解き明かしを受けたいと存じます。

 

1.キリストの死と苦しみは、わたしたちの贖罪のためであった

問答40~44によれば、キリストの苦しみと死の意味について、告白しています。問答40は「なぜ、キリストは『死んで苦しみを受けねばならなかったのか。」と、キリストの死と苦しみの意味を問いまして、答えでは「御子の死によるほかに私たちの罪の代価を支払う償いの方法はなかった」と告白しています。つまり、キリストの死は、私たちの罪を償うため、であった。キリストは、私たちの贖罪のために、苦しみ死んだ、という一点に集中して、告白しています。また問答の44でも、『陰府にくだる』意味を問い、答えでは「わたしの主キリストはわたしのために魂の底から十字架に至るまで絶えず痛み苦しまれその言い難き苦痛と恐れを通してわたしを地獄の拷問と苦痛から代価を支払って贖ってくださった」と告白して、キリストが陰府にくだられた目的は、地獄の拷問と苦痛から、代価を支払って、私たちを贖うためであった、と告げます。言い換えれば、キリストが死んで葬られ、陰府にくだられたのはすべて、私たちの罪と滅びから、或いは地獄での拷問から、贖い救い出すための犠牲であり、そして私たち人間の罪を償う贖罪のためには、神に対して義を確立するためには、どうしても支払わなければならない命の代価であった、と教えます。つまり、キリスト教の救いの根幹は「キリストの十字架の死」であり、その十字架の苦しみと死の意味と目的は、わたしたちの罪のための「贖罪」にある、しかも、それは神に対して「義」を立てるためにあった、という根本理解が示されています。言い換えれば、キリストの十字架における贖罪こそが、私たち人類の唯一の救いであり、神の義を立てなおすという万物創造の完成となる、ということになります。その贖罪が実際に歴史において、実際のキリストの十字架の死という出来事として引き起こされ、人類はその歴史の中心に十字架のキリストを経験し持った、ということになります。

今週は、「キリストの十字架における死」を覚える受難週となりますが、キリストの十字架における死という出来事は、キリスト教信仰の根幹であります。キリストの十字架での死の意味を正しく知ることは、実は復活を正しく知る起爆剤でもあります。十字架の死と復活は、別々の出来事のように見えますが、実は連続する一つの出来事として捉えた方が正しいのではないかとよく思うのです。なぜなら、キリストの十字架の死において、神の永遠の御子による完全な贖罪を体験することで、その贖罪それ自体が、永遠の命という神の祝福に溢れた新しい人間性の復活の根源であるからです。言い換えますと、「贖い」ということ、キリストの支払う命の代価によって、罪と死から贖われる、ということがきちんと分かれば、そこにはもう復活の新しい命が見えて来るのです。それゆえ、正しくキリストの十字架を知り体験することを抜きにして、キリスト教信仰入信の道はないのです。いくらクリスチャンホームで育ち、教会生活を長くしている、と言いましても、真実な意味で、キリストの十字架に死を本当知り体験するのでなければ、真実な意味での信仰のないクリスチャンで終わります。十字架の死のないキリスト教はありえないからです。キリスト教の文化や社会や習慣を突き抜けて、キリスト教の本質を知り体験する場、それがキリストの十字架における死を正しく知り、経験する場であります。そしてその十字架の死を体験するとは、その根本と本質において、「贖罪の体験」であります。十字架と復活とは一対の連続した救いのみわざですから、贖罪の本質が分かれば、その結果として、復活もいよいよ当然のことながら分かるようになるのです。十字架は信じられるが、復活は分からないなどということは、絶対にありえないことなのです。それは、どこかで、キリストの十字架の死による贖罪ということが体験しきれていないのではない、と思います。キリストの十字架における死は、「私たちの罪の代価を支払う償いの方法」であり、「主キリストは、わたしのために、魂の底から十字架に至るまで絶えず痛み苦しまれ、その言い難き苦痛と恐れを通してわたしを地獄の拷問と苦痛から、代価を支払って贖ってくださった」のです。キリストの十字架の死、キリストの死の葬り、そしてキリストの陰府への降下は、すべて私たちを「贖う」ため、すなわちご自身の命と尊厳という代価を支払って、神の義のもとに買い戻すための苦難であります。こうした贖い、贖罪の経験を深くすることで、またいよいよ正しく知ることで、私たちは「救い」の本当の力と意味を知るのです。すなわち復活という本当の勝利を知るのであります。教会生活で決定的重要なこと、それは、永遠の神の御子キリストの十字架における死の贖罪を正しく知り経験すること、そしてその贖罪、即ち罪による死と滅びから神の義と命の祝福へと贖われることを知り経験すると、もうそこは、新しい永遠の命に溢れた復活の世界が開けて来ます。しかもさらに大切なことは、それは、キリストの身体を通して実現する贖いであり復活であります。このキリストの身体を通して実現する贖いと復活の場こそ、天上と直結する地上の教会であります。したがって正しい信仰体験に続いて、次に重要なことは、この身体における、キリストの身体を通して身に着ける信仰と生きた体験であります。いずれにしても、根幹であるキリストの十字架における死の贖罪をキリストの身体として知り体験することに尽きると言えましょう。

 

2.贖罪の前提となる私たち人間の「罪」と「神の怒り」

私たち人類を「贖罪する」ために、キリストは苦しみ死んだのですから、すなわち、その死と苦しみの根本原因は、私たち人類がその人間性の本質において受け継いだ「罪」にあるのですから、罪の問題を解決することが、救いの大前提となります。「罪」という現実を背負う人間の悲惨から、人間をどう救うか、という問題です。罪についてパウロはローマ書1章で真っ先にこう説きます。「1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。1:20 世界が造られたときから目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。1:21 なぜなら、神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、1:23 滅びることのない神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。1:25 神の真理を偽りに替え造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」(ローマ1:18~25)と、罪はどこにあるか、明らかにします。簡潔に言い換えますと、神は、私たち人間の犯した「罪」に対して、天からの「怒り」をもって、臨んでおられるのです。その人間の罪とは、神を無視して、自分の欲望のために、偶像を神と取り替えて、神に仕えず神ではない偶像に仕えた、それが罪の本質だ、と言っています。キリスト教の教理では、「原罪」The Original Sinとか「堕落」The Fallと呼んでいますが、人間の根源的な過ちであり誤りは、神に背き神から離反している、という人間の根源的な神に対する在り方にあります。造り主である神を褒め讃えず、自我とその欲求を拝んでいる。すなわち自分の欲望を神々見立てて偶像を拝み仕え、真の神は否定して背くという背神にあります。

 

3.一神教を知らない多神教(偶像崇拝)の日本の宗教文化

多神教の日本、八百万の神々を偶像として拝み仕える、という伝統的宗教文化の中にある、日本人の意識からすれば、一神教の神に対する背神の罪を問われて、それが罪である、と言われても、納得しづらいのではないでしょうか。何を言っているのか、ピンと来ないのです。一方から言えば、それは「神」を知らない民族だからだ、というでありましょうし、また他方から言えば、それこそ幅広く、とても寛容でおおらかな宗教文化でよいことではないか、ということになります。どんな神々を、何をいくつ、どのように信じようと、信じる者の自由ではないか、憲法でも信教の自由が認められている、ということになりそうです。したがって「罪」を根本から意識し、罪の本質を認識する所から、宗教や哲学をつくりあげ、文化や社会を構築する、という方向には決してゆきません。そうした意味で、正しく罪を知って認める、ましてや神に対する罪を認めるなどということは、日本人にはとても難しいことです。その結果、十字架の痛みを深く覚える要因となる土壌や受け皿がない状態の中で、罪や裁きを問題にされることに、抵抗とある意味で嫌悪感さえ感じる場合もあるようです。罪をどう認め、罪を正しく認識したうえで、さてその罪をどう償うのか、という所まで思いが届かないのです。したがって十字架や信仰の意味も希薄となり、結果として「信仰」によるキリスト教ではなくて、つまり本当の意味で「十字架のキリスト」を着るのではなくて、日本の文化や社会慣習に基づいて、日本の宗教文化を基礎にして形でキリスト教を身に着けるという次元に止まってしまう場合もあるようです。「日本教キリスト派」と括られる結果となります。信仰の次元よりも文化社会の次元で、つまりキリストの十字架の死における贖罪をいよいよ深く信仰体験することよりも、教育施設や慈善事業による社会文化活動を価値評価するにとどまる、そして教会さえも、親しい仲間のサークル活動に変質してしまい、説教や聖書のお話さえも、サークル活動の一環に過ぎない、ということになります。日本の土壌に、キリスト教信仰を根づかせることの困難を覚えます。ある方は、土着をin-culturationと言い表しましたが、日本の宗教文化の中に、キリスト教信仰を入れ込むことはそう簡単ではないようです。

文化や社会に根差すキリスト教の意義は、無論、否定するのではありません。魂には肉体が必要であるように、キリスト教信仰も、身体のように、信仰を具現化し展開する場である文化や社会は、絶対に必要とすることは論を待ちません。中世のヨーロッパにおいて、教会を「コルプス・ミスティークム」と呼ばれました。永遠の神の御子である超越のキリストが地上に降り受肉して、その受肉した身体から、キリストの受肉の身体として教会は誕生し地上に現存するからです。そして中世の文化や社会に対しては、「コルプス・クリスティアーヌム」と規定しました。いわば、教会は、目に見えないキリストの身体である「神秘体」であるのに対して、中世ヨーロッパ社会は、目に見えるキリストの肉体である、と考えたのです。まさに、心と身体が一体の身体として存在することを社会の基礎概念としたわけです。社会や文化は教会の身体でありました。しかし近代現代に入ると、魂と身体は分裂してしまい、身体を失った魂は行き場を失い、また身体が魂を失えば、病んだ化け物に豹変します。キリストの十字架による贖罪の信仰と罪の意識を核にしたキリスト教信仰、そして社会や文化としてのキリスト教という二重構造を意識して、改めて、御子を受肉させて「十字架刑」にして処罰するほど、償いの代償を必要とする「罪」の深さを覚えたいと思います。

 

4.「キリストの十字架」は、贖罪の出来事として引き起こされた

仏教の世界では、人間の根本問題を「四苦八苦」と表して「苦」と捉えます。人生の本質は苦にある、その「苦」から自己を解脱解放する所に、救いを見出そうとします。「苦」には、前生における原因があってその結果として今の人生苦がある、と考えます。そうした因果関係の縁を断ち切って、解脱して、苦から解放され、人間本来の姿である仏として成仏する、ということになるでありましょうか。そのためには「色即是空」と言って、あらゆる分別や価値観を捨て去ることを教えられ、心身の修行をすることになります。わたくしも思春期の頃、そう教えられて、参禅いたしました。仏教と言いまして、東西のいろいろな思想が海を越え大陸を超えて流れ込んでおり、一筋縄では行きません。浄土や地獄と言った宗教概念は、聖書から入り込んだ概念のようです。日本の仏教には、いろいろな神々の概念が雪崩のように入り込んでいます。

確かに世界でも、親鸞の思想は非常に高く評価されるようです。確かにキリスト教のような慈悲による極楽浄土や念仏の恵みを教えます。しかし決定的に、しかも本質的に異質で異なる点が一つあります。それは、そこには「贖罪」の出来事が存在しない、ということです。そこには、完全に贖罪を果たしてくださる「キリスト」もいなければ、キリストの「十字架の死」も「復活の命」も全く存在しない世界です。まさに贖罪の出来事であるキリストの十字架も復活もないという点で、明らかに「空」であり「幻想」であり「観念」の世界です。罪を償うキリストとその十字架の出来事は、実際にそこにないのです。それでは、いったい誰が実際に罪と死と滅びの淵から贖いでしてくれるのでしょうか。

改めて、人間の「罪」を見つめ直しますと、残念ながら、人間は、確かに時には「天使」に見えることもありますが、概して「悪魔」のようでもあります。親が子を殺すという厳然とした罪は、平和で豊かな日本の中でも、毎日のように繰り返されます。子も親を殺します。最も命と血の絆の深い親子や兄弟、夫婦や家族が互いに深く傷つけ合い、ついには殺し合う世界は、「愛」を切実に希求する家庭内で、深刻にも現実として繰り返されているのです。前に紹介しましたが、人殺しの現場となる殺人事件の大半は、家庭や家族の中で引き起こされています。いじめの中で、毎年多くのこどもが殺し殺されています。ましてや互いに恨みも怨念もないはずの人類同士が、隣国同士が、正義と防衛という名目のもとに、大量殺戮を幾度となく繰り返してきました。人類の歴史は戦争の歴史でもあります。アジアの侵略戦争も、原爆投下によるこの上ない悲惨も、すべて人類の意志に基づく人殺しであります。奇妙なことに、大量殺人の戦果を挙げた人殺しを英雄や偉人として褒め称える、それが世界史の現実であります。いわば、殺し合いの中から、文明は生まれ人類は生きて来たように見えて来ます。そこにどうしても解決できない人間の「罪」の現実を見るのです。そして最も悲しい罪の現実は、原爆投下を決行した国が、キリストの十字架の痛みを知るはずのアメリカであった、ということであります。あるいはそれ以上に、世界大戦を繰り返したのは、欧米のキリスト教国同士であったという、どうしようもない絶望と暗闇の淵に落とされます。キリスト教という宗教をもってしても、人類世界全体の罪を解決することはできないのです。それほど人間の「罪」は厳然として深くあるのです。こうした人間の罪の現実と破れの悲惨を、どのように表現すればよいか、わたくしには言葉がありません。人類がどのように進化して、どれほど進んだ科学技術を獲得しても、罪を現実に解決することはできないのではないか、と思います。それどころか、いよいよ人間の価値評価や実際の格差は広がり、人間本来の正義や公正を失うばかりではないかと危惧します。人殺しも差別も格差も無くすことはできないのではないか。だからと言って、絶望の中に希望を捨て、全てを諦めて、宗教の世界に逃げ込む、というのではありません。だからこそ、本当の希望をもってこの世と向き合うことが大切なのです。だからこそ、神は人を憐れみ、人を愛し、ご自身の命を引き換えにして、人を救う道を開くのであります。それが、キリストの十字架と復活による神の愛であり神の救いであります。人間は罪を犯し続けるでありましょう。仮に信仰を持ち、キリスト者とされても、必ず罪を犯すでありましょう。ドイツは、聖書原理と信仰義認を説いて、宗教改革を実現したルターの国であります。かつてのキリスト教国が、多くの人々を殺したように、であります。したがって文化や社会としてのキリスト教ではなく、キリスト教文化や社会の次元で、罪の本質は届かない課題であります。本質的に実存から信仰の問題として、もう一度、深く踏み込んで、真剣に向きあうことになります。問題はその「罪」とどう向き合い、どのようにして希望を持ち、乗り越えてゆくか、という所にあります。大切なことは、人間の罪の現実と真摯に向き合い、その罪に敗北して絶望することなく、希望をもってどのように乗り越えてゆくか、ということにあります。

 

5.神の御子よる十字架の死における贖罪

しかし残念ながら、私たちは、自分の力で、「罪」を根元から解決することはできません。人間の限界と絶望を受け入れざるを得ないのです。まさに敗北の告白です。二十歳で洗礼を受け、キリスト者とされ、牧師という務めを与えられても、わたしは自分の力で罪を解決することはできないのです。わたしたちがキリスト教の信者になることで、罪を根元から解決することは、人間にはできないことです。それどころか、信仰を持ち、洗礼を受けても、実際はいよいよ深く手に負えない罪と向き合うことになり、いよいよ無力を実感し、益々人間の限界と破れの中に堕ちてゆきます。罪の解決については絶望です。わたしもそしてすべての人々も、例外なく、全くの無力の中で、自分の死と終わりを迎えるのです。そういう意味からすれば、知識の行き着く所は完全な終わりであり、全くの空しい無であります。人は、ついに終わりと空しい無を知って、死ぬのであります。これは誰も否定することのできない事実です。人間が自分の力で知り確認し得る事実はここまでです。

あとに残された方法は唯一つです。それは人間の力に絶望しつつ、人間以外の力を受け入れ認めることです。言い換えれば、「神」に対して心を開くことができるかどうか、しかも「贖罪の神」に対してです。神の贖罪による愛と憐れみに出会い、本当の希望に目覚めて、神の愛に対する信頼のもとに身を委ねることができるかどうか、であります。すなわち、世界でたった一つの出来事、主イエス・キリストの十字架による贖罪を受け入れるかどうか、という一点にかかるのです。先ほど、キリスト教文化や社会習慣の次元では決して届かない課題である、と申しました。極論すれば、クリスチャン家庭であっても、教会員であっても、その社会性や文化習慣の次元をさらに深く踏み込んで、「贖罪の啓示」そのものに触れる「信仰」の次元で、すなわち超越の次元で「罪」と向き合い、贖罪の神と出会うことが、ここでは深刻に問われます。確かに、クリスチャンとして教会員として教会生活を守るということは、決定な重要な意味を持ちます。いわば、そこにすべての「出発点」はある、と言ってもよいでありましょう。まずは地上から神に心を向け、神の贖罪に触れる、という出発点に堅く立つことです。しかし問題は信仰の出発点に立つだけでなく、本当に信仰という道を踏み出し信仰という地上と人間の力を超えた「天」との関わりに生きる、そして生きた永遠の神との交わりを実際に始めるのでなければなりません。言い換えれば、常に神の存在と力を認め、神の啓示を受け入れ、そして命の事実として新たに生まれ変われるかどうか、その一点にかかるのです。そこにこそ信仰の出発点があるからです。キリスト教文化や社会の営みでは、その信仰の質的な出発点には触れることができずに、入り口の前で門の前を素通りしてしまうことになるからです。そして余りにも多くの人々が、その文化と社会の次元でとどまり、信仰を通して神と出会い、神と触れ、そして神のみわざによって生きるという本当の希望の出発点を素通りしてしまっているのではないかと思います。ヒューマニズムから信仰への転換が求められます。

 

6.十字架のことばを通して、神の怒りと贖罪のキリストに出会う

この「神の啓示」を、カール・バルトは、聖書のみことばの証言の中に、そして証言そのものであるキリストの十字架に見出しました。ルターやカルヴァンのように、神のことばに、神の啓示を見出し、生ける神の出来事と触れ、神と出会うことを明らかにしました。パウロは、ローマ書1章18節のみことばにしたがって、神の啓示であるキリストの十字架の苦しみと死において、そこで、私たちはまず「神の怒り」に出会う、と言います。私たち人間は、まずこの「唯一真の神」と向き合い、その「神」からの激しい怒りを受ける存在として、神の御前に立ちます。誰かが罪を身代わりに背負ったという曖昧な話ではありません。罪に対する神の激しい怒りと呪いの前で、神の御子が、私たちのために、深い愛と憐れみから、その怒りを背負うのです。したがって十字架の場は、一方で、罪に対する激しい怒りと呪いをもって迫る神と出会いますが、他方で、何よりも優れて、それこそ十字架において肉を裂き血を流し、私たちのために、罪の裁きを背負い、罪を償う神の永遠の御子と出会います。すなわち、わたしの罪に対して愛と憐れみをもって迫る神の御子と出会うのです。妙な言い方ですが、十字架において、私たちは神の怒りと呪いと出会う、同時にまた御子キリストの十字架の死と出会うのです。そして御子の十字架での死による贖罪を通して、唯一真の神である父・子聖・霊の神、三位一体の神を知り、真実な意味で、地上を超える永遠の神の世界へと初めて突き抜けるのであります。

それゆえ、自我欲求を中心にさまざまな神々を造り偶像化する自我の原理をそのままに残して生きる生活から、真の神に向かってすべてを方向転換するのであります。神のみことばを通して啓示される、神の御子イエス・キリストの十字架を知り、神の怒りの前で地上の罪を深く悔い、十字架における御子の愛と憐れみを心から受け入れて、十字架の血潮によって罪赦されて、「神」のもとに救い獲られるのであります。生きるべき命の質を地上の命においたままではなく、信仰によって命の質を神へと向かく命の質へと変えるのであります。罪と欲望に支配される地上の命とは質的に異なる、「神」の力と恵みによる「新しい生」を、歩み始めるのであります。信仰において、キリストの十字架のみことばを通して、私たちはまず、「罪」に支配された自分に注がれる神の激しい怒りと常に向き合うことになります。しかしそれでも、十字架のキリストに支えられ、信仰の門口にしっかり立ち、真摯にそして誠実に、直接「神の怒り」を受ける場に立つ経験をいたします。そこでは何一つこの世のものは通用しません。これまで生きてきた業績も名声も、弁明も弁解も、何を言おうと、神の怒りは激しさを増すばかりです。しかし反対に、みことばを通して啓示される、十字架上のキリストのお姿が見え始めて来ると、そこでは、激しい神の怒りと呪いを一身に受けているのはわたしではなくて、キリストご自身が痛み苦しんでおられ、ご自身のお身体の肉を裂き血を流して、私たちの罪を償うために「贖罪の死」に向かおうとするお姿が見えて来ます。キリストがわたしのために苦しみ死んで、命の代価を支払って、罪の償いを尽くしておられるのです。神の怒りのすべてを完全にご自身のお身体と魂において担い続けるのです。主イエス・キリストという永遠の神の御子が、わたしのために十字架の上におられる、ということを初めて体験するのです。それはただ神がおられるのではなくて、神の怒りと裁きをひたすらお受けくださり、私たちの罪を完全に償い尽くそうとされる、神の御子イエス・キリストが十字架の上に、おられるのです。

しかもこのキリストの十字架は、世界史の中に生起した史実であり、実際に神によって引き起こされた神の出来事であり、人類の歴史の中で生起した事実であります。聖書の証言者によって、この歴史の出来事となった十字架が鮮やかに示されます。「十字架」とは、「神の呪い」であり「神の怒り」の場であり、その象徴であります。この十字架について、カール・バルトは「神の告発は存続し、判決は執行され、神の怒りは爆発し、燃え、罪人を焼き尽くす」(『カール・バルト著作集』9、1971、398頁)と語り、十字架は、人類に対する徹底した神の怒りの場であることを説きます。しかしさらに大事なことは、この十字架においてこそ、「神の義が回復される」と説く点にあります。本当の不完全な人間による正しさや正常性ではなくて、神の完全な義と本来あるべき創造の原点が回復される場が現れたのです。私たちがこの世において幾度も絶望し続けて来た正義と公正、本来あるべきすべての形や状態が今この十字架を通して神の御子によって回復されようとしている事実と出会うのであります。それは、まさにこの世の人間に対する絶望であり、永遠の神に対する信頼と希望であります。嘘ではない、完全な真実が「十字架の死の苦しみ」を通して、そこに実現しているからです。この神の正義や愛が私たちの希望の基となるのです。新しい人類の拠り所となり、立つべき出発点となるのです。

 

7.十字架と復活の「信仰」から、十字架と復活の「受肉の身体」に

十字架におけるキリストの贖罪の死は、この世界史の史実として人類のただ中に生起し実現した神の義と希望であります。それは私たちの「生きる基」となり「未来の希望」となります。まさにこの命の義と希望は、この世における私たちのわざでは実現することはできない、キリスト教という文化や社会の次元にとどまるものでもなくて、ただ神の独り子である主イエス・キリストによって、そのみことばを通して啓示される、天からの恵みとして、しかお無償で私たちのために与えられた神の義であり、希望であります。この信仰の経験は「神の恵み」の経験として与えられ、また十字架におけるキリストの贖罪として経験され、そこで初めて唯一真の神の正義と愛に出会い、真実の希望を知り、真の生を生きる根拠となるのであります。このように実際にわたしたちの歴史の中で、主キリストは十字架という「神の呪い」の中でご自身の肉を裂き血を流して、人類への神の怒りと裁きを完全に担い背負われて、贖罪の死を遂げられました。問答41に「それによって、主がほんとうに死なれた」とありますように、「それによって」すなわち「神の怒り」「神の呪い」を、私たちのために完全に引き受け担うという贖罪のために、実際に事実として死んだのだ、ということを示しています。この十字架のことばにおいて、つまり十字架のみことばを通して、私たちは決定的な体験を経験します。それは問答44の示す通り、「わたしの主キリストは、わたしのために魂の底から十字架に至るまで絶えず痛み苦しまれ、その言い難き苦痛と恐れを通して、わたしを地獄の拷問と苦痛から代価を支払って贖ってくださったのです。」という体験をもって、神を鮮明に認識するに至るのであります。

しかしこの告白には大きな前提があります。この信仰告白を可能にし実現している大前提です。みことばを通して啓示される「罪の自覚」や「贖罪の信仰」は、確かに決定的な意味を持ちますが、しかし、そうした自覚的な「信仰」以上に忘れべからざる、遥かに大切なことは、その大前提となる肉を裂き血を流して贖罪の死を遂げられた「キリストの身体」そのものの存在です。御子が受肉した身体であり、十字架において贖罪の死を遂げたお身体であり、そして三日目に復活して天に昇られた御身体が、ここにある、という大きな事実であり現実を忘れてはなりません。そのお身体においてこそ、新しい生と世界は現存しているからです。信仰という認識や信頼、そして意識や自覚では、まだだめなのです。「キリストの贖罪」という認識や信頼を保証する根拠とその大前提は、まさに贖罪そのものを成し遂げた「受肉のキリスト」にあります。もう少し厳密に言えば、そのキリストの痛み苦しんで実現したキリストの身体が、しかも死の贖罪を完了して、三日目に「復活」という新しい命の祝福を獲得し、天に昇られた「キリストという受肉の身体」があるのです。その十字架と復活を貫かれたキリストの身体に私たちは結ばれて、贖罪の死を経験し、主の復活の身体と一体の身体として新たに永遠の命に生まれ変わり養われて、復活の命を生きている、という大前提です。ただ贖罪という観念や思想がそこにある、というのではないのです。そこには、現実にお身体をもって肉を裂き血を流して、私たちの罪を償い尽くして、苦しみのうちに贖罪の死を遂げた、キリストとその御身体がある、ということなのです。永遠の御子キリストは、その身体において、私たちは神に義と認め、新しい命の祝福をもって復活へと招くのです。「キリストのお身体」がここにある、という現実において、この救いははじめて実際の「力」を持つのです。そのお身体に、私たちは今、聖霊とみことばの働きを通して、そして洗礼と聖餐に与ることで、キリストの身体として一体に結ばれています。キリスト教信仰や教会において、そしてキリスト教社会や文化において、もっとも重要なことは、このキリストの身体をもって、キリストの十字架における贖罪とキリストの復活における新しい生を得ている、という所にあります。ユダヤ教やイスラム教も含めて、ほかの諸宗教と、キリスト教はどこが違うのか、その究極を言えば、それは、キリストの十字架と復活の身体がある、という点に尽きるのではないかと思います。そして私たち自身が、そのキリストの十字架と復活の身体とされている、という所にこそ、救いの現実と確かさがあるのです。

2021年3月21日「御名を崇めさせたまえ」 磯部理一郎 牧師

2021.3.21 小金井西ノ台教会 受難節第5主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答122

主の祈り(3)

 

問122 (司式者)

「第一の祈願は何か。」

答え  (会衆)

「『み名を崇めさせたまえ』です。

第一に、私たちに告げ知らされることは、

私たちが、正しくあなたを知り、

あなたの全能と知恵、善意と正義、慈愛と真理を光輝かせ給う、あなたのみわざすべてにおいて、

あなたを聖なる方として崇め、褒め讃えて、讃美することです。

次に(私たちに告げ知らされることは)、

それに向けて、私たちの生活態度や考え方また言葉や行動をすべて整え、

私たちゆえに、あなたの御名が汚されることなく、

却って、御名が褒め讃えられるようになることです。」

 

2021.3.21 小金井西ノ台教会 受難節第5主日礼拝

「ハイデルベルク信仰問答」問答112

ハイデルベルク信仰問答講解説教69

説教 「御名を崇めさせたまえ」

聖書 詩編138編1~8節

テモテへの手紙二2章19節

 

前回の説教では、「天にいます我らの父よ」とありますように、神を祈りにおいて「われらの父」と呼びかける意味について、お話しました。神を「父」(ルカ11:2)或いは「天にましますわれらの父」(マタイ6:9)と呼ぶのは、ハイデルベルク信仰問答120が告白する通り、「神がキリストを通してわたしたちの父となられた」からです。即ちキリストの十字架と復活による「贖罪の恵み」を通して、私たちはキリストをかしらとする「神の子」として、つまり新しく「神の子」として、生まれ変わったからです。それによって、唯独り永遠の神の御子であるキリストを通して、神は私たちの「父」となられました。主イエスは、十字架にかけられる直前に、ゲッセマネの園で夜を徹して祈られましたが、その苦悩されるお姿について、ルカによる福音書は「22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」と伝えています。私たちが「われらの父」と祈るとき、そして主イエスが「われらの父よ」と祈りなさい、と教えられると、いつもそこでは、このキリストの「血の滴る」祈りが、贖罪という大きな愛と力に満ちた祈りが、私たちを包み込み、天地に響き渡っています。神の永遠の御子であるイエス・キリストは、受肉して地上に降り、私たちと全く同じ人間になることによって、その受肉した人間のお身体をもって十字架と復活を貫き、またそのお身体をもって天に昇られて、神の右に座しておられます。キリストは、そのお身体と共に天にあって、私たち人間をその魂と肉体の全てを「神の子」としてくださいました。その結果、神は「私たちの父」となったのです。それゆえ私たちは「天の国」を本国とする「神の民」と呼ばれます。宗教改革者ルターの表現を用いれば、私たちの身体には「キリストの皮膚と背骨」が貫かれており、だから神を「父」と呼ぶのです。さらに主イエスは、天から「聖霊」を私たちに与えて、神の救いのご計画の真相を明らかに示されました。それを、パウロは「4:6 あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊をわたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」(ガラテヤ4:6)と告白しています。

 

問答121は「なぜ、『天にまします』と、付け加えられるのか。」と問うています。私たちはよく讃美歌21-18で「心を高くあげよ!」(Sursum Corda)と神を讃美します。心を高くあげるのは、私たちの魂も身体も、キリストのお身体と共に「天」にあるからであり、天のキリストと共に「子」として「父なる神」を礼拝する神の家族であるからです。確かにまだ「終末の完成」の時を迎えていませんので、今はまだ地上での形を残しながらの、しかしそれでもその本質からすれば、終末と完成を先取りした形で、私たちは「天」の神を拝んでいます。

ルカの伝承による主の祈りには、マタイのように「天にまします」という言葉はなく、いきなり神を「父よ」と呼び掛けて始まります。ルカからすれば、既にしかも直接、神を「父」と呼んで、神を礼拝することで、天と地上の教会とが一体であることを強く意識していたようです。マタイとその教会は、明らかに、地上での闘いを強く意識しつつ、だからこそ「天にいます神」を強く意識して、困難と向き合いつつ、地上での信仰生活を貫こうとしているように思われます。マタイもルカも、向き合う教会の事情は、其々違いますが、其々の状況との闘いの中で、「天」を強く意識し天にいますと天に呼びかけ、また一方で、天と地との強い戦いを覚えつつ、天と教会との一体性を強く意識して、天地を貫いて、直接、神の名を「父」と呼び続けていた、と考えられます。

問題は「天にいます」という言葉の意味にあります。神のおられる場所は、地上のこの世ではなく、「天」です。地上にある私たちは、天と地というその大きな違いを意識します。地上の教会は、この世と共に、常に深刻な課題と向き合わなければなりませんし、決して地上での信仰的な闘いは終わりがなく、問題解決はないからです。地上の教会ほど、問題の山積する場は、他にないかと思います。だからこそ、どのような信仰をもって、どのように祈るか、それはとても大切なことです。そこでマタイは「天にいます父よ」と祈ったのでしょう。問答121は、その答えで「私たちが、神の天上の尊厳を、この地上のものとして決して考えることがないように、そして神の全能の御力に、肉体と魂に必要なものはすべて、依り頼むようになるためです。」と告白しています。問答は「神の天上の尊厳」と呼び、それを「この地上のものとして決して考えてはならない」と言ってます。地上にありながら、強く「天」を意識しています。その意識は、天を地上のものとして考えないという強い信仰的自覚によるものです。「天」とは、物理空間を意味する言葉ではなくて、地上に存在するあらゆる事物とは完全に質的異なる存在である、すなわち「超越性」を意味します。「天」には、地上からは連続して類比できない本質や性質があるのです。それなのに、私たちは、天を地上に引き寄せて、天の神を世俗的に現世的に変質させてしまいがちなのです。問答がそう告白する理由は、単純明解で、この世の地上のものは、どんなに意味や価値に溢れるとしても、この地上の世は必ず「終わり」を迎えるからです。どんな資産を得てもどんな地位や名声を得ても、私たちは、あっと言う間に「終わり」を迎えます。万物は皆、終わりと滅びの中に、必滅の終末という定めの中にあるからです。他方、神は永遠であり、全知全能であります。したがって「神の全能の御力に、肉体と魂に必要なものはすべて、依り頼むようになる」ほかに、私たちが存在する、生きる道はどこへ行っても他にはないのです。私たちは「天」に向かう以外に、本当に生きる道はないのです。私たちは、滅びるものを、滅びに向かって求めるのではなくて、滅びる地上のものではなく、滅びることのない永遠の天に向かって、永遠の命の恵みを「天にいます永遠の神」に求めるのです。したがって「天にいます」とは、神がおられる場所を示す以上に、神さまの本質を、例えば、聖なる、永遠なる、全能なる、そして完全な自由なるという神さま特有の性質全体を、地上にあるものとは本質的に異なる「天」という表現で、象徴的に言い表していると言えます。前に、祈りの本質は、天と地を貫く或いは地上から天上へと通じる「恵みの通路」であると申しました。まさに祈りの場の意義は、神の永遠不変で全能の力に依り頼み、永遠の命を保証してくださる場であることです。祈りにおいて、私たちは空しい霞を食べるのではなくて、永遠の命に養われ生きる場を得るのです。極論すれば、祈りの場では、地上を捨てて天の権能に与る、という強い天の意識と自覚によって貫かれます。地上の死から天上の生へと移る場です。マタイとその教会共同体は、その「天にいます父」と共に生きることを、地上にありながら、とても強く意識し自覚していたのではないでしょうか。

 

「主の祈り」でもう一つ。天にますます「われらの父」と複数一人称で祈ります。それは唯単に、神が天におられる、というだけではなくて、そこに「わたしたち」は皆、同じように、「父の子」として共に天にある、ということではないでしょうか。地上に身を置きながらも、「わたしたち」は皆、「父の子」として「天」の場を確かに得ている、という確信です。つまりキリストを通して、神の招きを受け、地上から天へと既に選び分かたれ、神の民の教会共同体として、「父なる神の子」とされて、新しい永遠の生命の本質のもとに本体は既に「天」において、父と共にある、それが「われらの」という教会共同体の姿が見えて来るのであります。地上にあるよりも、実は「父なる神の子」として、私たちは、キリストの身体として、天に向かって共に集められた神の家族であり、神の民であり、神の共同体なのです。そう考えますと、礼拝で主の祈りをささげる意味もはっきりしてくるのではないないでしょうか。主の祈りを献金の祈りにしてしまう前に、まず私たちは「天」に向かって神の共同体として共に集められたことを、天に対しては感謝と讃美をささげ、地上に対しては、その天の所在を秋からに表明する信仰告白によって、礼拝は始まるのです。外形的には、この地上の教会として集められますが、しかしその本質は「天」に向かって召し集められている、ということをいよいよ強く自覚すべき祈りなのです。「天にいます父」の、その父なる神の子として、すなわち天に昇られたキリストをかしらとする「父なる神の子」として、天に向かって召し集められた共同体であり、「天」においてこそ、神と共に私たちの命と人格の本体はあるのだ、ということを明確にそして最初に、言い表すべき祈りなのす。つまり、わたしたちの本当の所在もまた、「父のなる神の子」として「天」にあることを共有する所から、共同体の礼拝は始まるのです。唯一永遠の神の御子は、イエス・キリストお独りですが、その主イエス・キリストが、神を父とする天の恵み、永遠の恵み、愛と力に溢れた恵みを「子」として、私たちにも与えてくださったからです。私たちもキリストと共に一体の身体として十字架で従順を貫き、神の義をまとい、永遠の命に溢れた復活が約束され、天に召された存在とされたのです。厳密に言えば、終末の完成をまだ迎えていない、という時の制限の中にありますから、地上での使命と責任を一方で担い続ける反面、同時にまた他方では、天にいます永遠の御子であるキリストと同じ一体の身体として、教会共同体は「天」に存在するキリストの永遠の身体でもあります。キリストと一体の身体として、父なる神の子なのです。

 

次に、問答122の「第一の祈願は何か」と最初に問う問いには、とても重要な意味があります。というのは、この始まりが、主の祈り全体の方向性を決定づけるからです。主の祈りの各項目を比べてみますと、第一の祈りが「御名」について、第二の祈りが「御国」について、そして第三の祈りは「御心」についてで、其々皆、「神」のための祈りです。そして第四の祈りから「日用の糧」について、第五の祈りは「負い目」もしくは「罪」について、そして最後の第六の祈りは「誘惑と悪」についてで、其々皆、地上の「人間」のための祈りになっています。そのため、主の祈りを二つに分け、前半は「神」についての祈り、後半を「人間」についての祈りというように扱うことが一般的です。それはそれでよいのですが、ただ、わたくしは敢えて二つに分割して考える意味は余りないと考えます。かえって一体に捉え直す方が大事であり、意味が生きるように思えるからです。構造的には、二つに分けて考えずに、前半の神についての祈りが、人間についての祈り全体を天の神の支配へと方向づけ、しかも人間のあらゆる祈りのすべてを力強く親が子を抱きかかえるように包み込んで、命と成長を保証する根拠となって決定づけられている、と考えるべきではないかと思っています。すでに「われらの父よ」と祈ることで、父なる神の子として、地上の共同体はすでにそして完全に「天」に属する存在として、天のものとして召され集められているからです。天のものとして、神の子として必要な「糧」を問題にしているのであり、天のものとしてどのように誘惑や罪と向き合い、或いは闘うのか、ということになるのではないかと考えるからです。立つべき軸足は、地上のこの世に立つのではなくて、あくまでも天に軸足を置くのであります。

 

問答122は「「第一の祈願は何か」と問い、私たちは何をどう祈るべきか、問い、教えます。これはとても大事なことだと思います。なぜなら、私たちは、案外、何をどう祈るべきか、またどのように祈りの世界に入ってゆけばよいのか、本当の意味で余りよく分からないからです。祈る礼儀作法と言いますと、社会儀礼的に聞こえますが、祈りに入るときには、心を改めて祈るという相応しい心構えが必要です。問答122は、『み名を崇めさせたまえ』と祈りを始める意義について、二つのことを教えています。「第一に、私たちに告げられることは、私たちが、正しくあなたを知りあなたの全能と知恵善意と正義慈愛と真理を光輝かせ給う、あなたのみわざすべてにおいてあなたを聖なる方として崇め褒め讃えて、讃美することです。」もう一つは「次に(私たちに告げられることは)、それに向けて、私たちの生活態度や考え方また言葉や行動をすべて整え、私たちゆえに、あなたの御名が汚されることなく、却って、御名が褒め讃えられるようになることです。」と教えています。何と言っても、「御名が崇められますように」と祈る、その第一の理由は、そこで初めて実際に、私たちは、本当の神を正しく知ることになりからです。祈る中で、心を向けるべきお方と、初めて現実にそして人格として出会うことができるからです。

随分前になりますが、ハイデルベルク信仰問答の持つ決定的な一つの特徴に、信仰の定義がありました。問答によれば、信仰とは「認識」と「信頼」である、とを学びました。つまり私たちは、祈りにおいて、神と出会い、そこで改めて実際に、神に触れて神を正しく認識します。一番分かり易い事例は、恵みを受けたときです。祈りは「天の恵みに与る通路」です。そこで、真実に神と出会い、神を知ることになります。私たちは神からいただいた恵みを一つ一つ丁寧に数えあげ検証します。そこで神がどのように恵み、導いてくださったのか、その神の恵みの大きさや完全さを再認識することになります。最初は自分中心の目先の欲で祈り求めたけれど、神に聞いてはいただけなかったのではなく、神は、それ以上に、もっと深くもっと相応しい仕方で、しかもいよいよ豊かに、わたしのためになるように聞き届けてくださっていたことが分かるのです。皆さんはこうした経験を幾度もなさったのではないでしょうか。その度に、祈りを通して、神の知恵や神の思慮の深さに驚かされます。一見すると、罰があったのではないか、と神の罰や裁きに見えるのですが、実は裁きどころか、大きな救いと導きがそこに用意されていたことを、随分時間が経って、私たちは知るようになります。神を正しく知るには、そのようにおおくの時間がかかり、またある意味では一生かかる場合もあります。

パウロは、神を知る知識の不完全さについて、昔の不鮮明な鏡に映る像に喩えています。「13:12 わたしたちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくともそのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(Ⅰコリ13:12)と述べています。また、キリスト者の生活は、鏡に主の栄光を映すかのように、「3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリ3:18)と、祈りの体験を伝えています。こうしたパウロの証言を手掛かりに、逢坂元吉郎は祈りの働きについて、「鏡(鑑)」における乣明の作用として、実践していたことをお話しました。こうして私たちは、祈りにおいて「神を正しく知る」ようになるのであり、言い換えれば、次々と顔と顔とを合わせて見るように、はっきりと神を知るようになるのです。そうした祈りを通して知る、或いは実際に賜物としていただく天の恵みを具体的に数えることができるようになるのです。その結果、言葉としては抽象的ですが、神の全能や知恵、神の善意や正義、神の慈愛と真理の一つ一つの実際が手に取るように、具体的にそして体験的に、理解できるようになるのです。そこで、だからこそ、初めて、私たちは、本当の意味で、心から神を「あなたを聖なる方として崇め、褒め讃えて、讃美する」ことが、よく分かるようになり、実際にできるようになるのです。

では「御名が崇められますように」と祈るのは、なぜなのでしょうか。それは、「神」を正しく知るためだ、と第一に答えていましたが、神を正しく知るとは、同時にまた、「自分」自身の本当の姿をを正しく知ることでもあります。神の全能や知恵、神の善意や正義、神の慈愛と真理の一つ一つを正しく、かつ体験的に知る、ということは、自分の弱さや惨めさ、愚かさや破れを、より深く正しく知ることができるようになります。それによって、自分の欲求を祈り求めるのではなくて、神の御心を中心に覚えて祈る祈りに、祈りの本質が変えられてゆくはずです。地上のことを求める以上に、天上の恵みを祈り求めるようになるはずです。こうして、自分の自我欲求を求めたり、自分を讃えることではなく、神の御心を求め、神のご計画に寄り添い従うことの意味が理解できるようになります。その結果、われら人間全体が背負う深刻な病い、多くの人々が抱える痛みや悲しみ、そして根源的な罪や死と破れから、神の全能なる力や愛によって救いの恵みが必要であることが、いよいよ分かるようになるのではないでしょうか。とても残念なことですが、教会生活を一生重ねるような方にも、場合によって牧師でさえも、結局、絶えず自我欲求と自己顕示の奴隷となり、放浪してしまう方々がとても多いように思われます。神を正しく知り、自分を正しく知らないまま、神や教会を自我の道具にするばかりで、人生を終えてしまうのです。魂の奥深くにある、自己自身の本当の姿を知るには、どうしても、神を知り、神の御前に出て、聖霊の光に照らされ、みことばによる省察を経て、初めて私たちは自己を知ることができるのです。神の御前で、真実な意味で謙遜にされ、へりくだり、みことばに導かれ教えられて、初めて自分の姿が分かるのです。

 

したがって極論すれば、「御名が崇められますように」と祈りを始めることで、徹底した「自己放棄」が開始されることになります。この世や人間の力には決して依存しない、という自己放棄の固い決断と意思を神に御前に表明することになります。まさに神の御心に対する恭順の場です。そしてそのためには何が必要なのか、より深く考えて祈るようになるはずです。そこで改めて確認し知ることは、「福音のみことば」を告げ知らされ、福音のみことばに与る、ということです。本当の意味で、神の御名が崇められるようになるとは、ましてやこの地上において、神の御名が崇められるようになるとは、私たちが神を正しく知り、神のみわざの中核を成す福音を正しく知り、即ち神の愛と救いのみわざを感謝と喜びをもって受け入れ、福音の喜びを宣べ伝えることではないでしょうか。つまり「福音の説教」をよく聞き分けて、共に「福音の宣教」を担うことにあります。私たちが地上での生活と命のすべてを尽くして、福音の説教を共に受け入れ、共に福音の説教に仕えるとき、最も神の御名は高く崇められることになるはずです。その一番の中心は、絶えず福音のみことばが正しく語られ、絶えず福音のみことばが正しく聴き分けられ、心から感謝と讃美をもって受け入れられることです。そのとき、初めて本当の意味で、神の御名は崇められるようになるのではないでしょうか。問答122は「あなたをあなたのみわざすべてにおいて、あなたを聖なる方として崇め、褒め讃えて、讃美する」とは、キリストを信じて受け入れ、キリストのことばを聞き分けて、キリストのことばにお仕えすることを意味するのではないでしょうか。教会を立て教会の宣教を共に担うということにもなります。そして全地が一致して、信仰を告白する共同体となることではないでしょうか。

 

2021年3月14日「神を<われらの父>と呼ぶ祈り」 磯部理一郎 牧師

2021.3.14 小金井西ノ台教会 受難節第4主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答120~121

主の祈り(2)

 

 

問120 (司式者)

「なぜ、キリストは『我らの父よ』と、このように神を呼び求めるよう、私たちに命じられたか。」

答え  (会衆)

「(それによって)キリストは、私たちの祈りの始めにおいて、直ちに私たちのうちに、

私たちの祈りの基礎となるべき、神に対する幼子のような畏れと信頼を呼び起こすためです。

つまり神は、キリストを通して、私たちの父となられたのです。

私たちの父親でさえ、地上のものを惜しまず与えるように、

それを遥かに勝って、信仰において神に願い求めるものは何であれ、

神は、決して拒もうとはしないのです。

 

 

問121 (司式者)

「なぜ、『天にまします』と、付け加えられるのか。」

答え   (会衆)

「私たちが、神の天上の尊厳を、この地上のものとして、決して考えることがないように、

そして神の全能の御力に、肉体と魂に必要なものはすべて、依り頼むようになるためです。」

 

2021.3.14 小金井西ノ台教会 受難節第4主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答120~121「主の祈り」

ハイデルベルク信仰問答講解説教58

説教 「神を<われらの父>と呼ぶ祈り」

聖書 ルカによる福音書11章1~13節

使徒言行録17章22~31節

 

本日より、ハイデルベルク信仰問答の講解は、「主の祈り」の各項目についての解き明かしとなります。そこで、まず「主の祈り」全体の構成について、その概略をお話いたします。いつも共に唱える「主の祈り」の全文は週報4頁に掲載されている通りです。ただ、カトリック教会の「主祷文」は、所謂「主の祈り」は、わたくしたちプロテスタントの主の祈りとは、少々異なる所があります。カトリック教会の「主の祈り」では、最終項目にあたる「国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり」という項目はありません。それは、それが、聖書聖典に記述されていないからです。奇妙で皮肉な思いをお持ちになる方もおいでかと思いますが、「聖書の原理」を宗教改革の第一原理に掲げているプロテスタント教会で、聖書に記述されていない祈りを教会の中心で使用いるというのは、聖書原理に反する選択をプロテスタント教会はしてるのではないか。その一方で、聖書よりも教会伝統を重んずるカトリック教会の方が、聖書の証言に忠実に祈る、という結果になっているように見えるからです。一見すると、皮肉にも両者の基本原理が逆転したかのように見えます。そこで、今日はまず「主の祈り」の構成について、特にその中にある祈りの項目の違いについて、聖書証言に基づいて、確認することから始めたいと思います。

 

聖書テキストから参考プリントを皆さんのお手元に用意していますので、ご参照いただきながら、「主の祈り」の構成について話をいたします。参考プリントでは、()付きの番号でお示ししたように、「主の祈り」は全部で6項目の祈りから構成されています。ただ、先ほど申しましたように、第七の項目すなわち最終項目の祈りは、マタイによる福音書にもまたルカによる福音書にも、どちらの聖書テキストにも存在しない項目となります。主イエスが弟子たちに教えた「主の祈り」は、聖書の証言に忠実に従えば、6つの項目から構成された祈りであった、と考えられます。さらに厳密に言えば、マタイによる福音書では6項目ですが、ルカによる福音書では5項目であった、ということも、あわせて確認することができます。加えて、宗教改革者のルターは、マタイによる福音書の伝える6つ目の項目について、「わたしたちを誘惑に遭わせず」という前半の項目と、後半の「悪い者から救ってください」という項目とを、さらに二つに分けて、七項目と数えますが、これに対して、改革派教会のカール・バルトは、この両者を分けずに、一つの項目として扱っています。したがってルター派では7項目構成、改革派では6項目構成として扱っています。いずれにしても、聖書証言から言えば、マタイもルカも、最終項目の「国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり」という祈りはないのです。

 

この事実を受けて、では、どうしてまたいつから、最終項目は付け加えられたのか、という疑問が起こります。実は、聖書の古い写本にはなかったのに、すこし遅れて後になって造られたと考えられる写本には、最終項目が登場し始めます。したがって、聖書が成立した直後に、そのごく早い段階で既に付け加えられていたことは、明らかなようです。初期の教会が「主の祈り」を「教会の祈り」として纏め直す過程で「最後の結び」の言葉として、最終項目は付け加えられるようになった、と考えられています。ちょうど日本では西郷さんの西南戦争が起こる明治維新の終盤に当たる頃、1875年に『ディダケー』(12使徒の教訓)と呼ばれる使徒教父文書が、ギリシャ語の完全写本として、発見されました。原始教会の実態を継承する重要な記録文書です。それまでは断片的に保存され伝えられていましたが、完全な全文の形で発見された、聖書と初期の教会の歴史を繋ぐ重要資料です。16章から成り、1~6章は「命と死」、7~15章は「洗礼、断食、祈り、聖餐についての教会的諸規定」、そして16章は「終末の希望と警告」について書かれています。未受洗者の陪餐禁止事項もここには既に明記されており、聖餐の原型もうかがい知ることができます。そして「主の祈り」も記録されており、毎日3回は祈るように、と規定されています。

歴史を辿りますと、主イエスは30年頃十字架刑を受け葬られ、三日目に復活し、40日後には天に昇られました。その十数年後に当たる40年代に入ると、教会ではパウロ書簡が書かれ、65年前後にはマルコによる福音書が生まれ、おおよそ90~100年前後には殆ど全ての聖書が成立します。そして聖書の記録を補うかのように、その直後に「使徒教父文書」が登場します。『ディダケー』は、その最も重要な文書の一つです。そしてこの『ディダケ―』には、最終項目の「国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり」が既に付け加えられた形で、祈るように規定されています。考え方としては、主イエスご自身が弟子たちに直接教えた6項目の祈りに対して、後に弟子たちと教会は、その祈りをさらに公の「教会の祈り」として、「主の祈り」を纏め直して、その締めくくりの讃美として、全体の結びに第七の最終項目が付け加えられるに至ったのではないか、と考えられます。その根拠は、ユダヤの伝統的な典型事例が既に聖書によって原始教会に伝えられていたからです。歴代誌上29章11節以下に、29:10 ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。29:11 偉大さ光輝威光栄光は、主よ、あなたのものまことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。29:12 富と栄光は御前にありあなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。29:13 わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。」と、イスラエル共同体全体を代表する形で、ダビデの名により讃美の言葉によって締めくくられ結ばれています。そのように、教会も新しいイスラエル共同体として、その伝統に則って、共同体の礼拝の中で、神に全ての栄光を帰する讃美をもって「主の祈り」全体を纏め、締めくくり、讃美の応答をもって終わる形式に形成されたと思われます。こうして「主の祈り」として、讃美の応答をもって締めくくられる結びが加えられて、教会共同体の中心的な祈りとして確保された、と考えられます。こすいて「主の祈り」はいよいよ「教会の祈り」の中心となる祈りとして整えられて、特に教会共同体が「神の民」として神との契約を更新して、現臨の神と交わり、神と一体となる場であった「聖餐」に与る、その聖餐の交わりに入るときの共同体の祈りとして、典礼的にも形式化されていったのではないか、と推測されます。だからこそ、そのような重要な祈りであるから、どこにいようと、其々が日々祈る祈りとしても、少なくとも一日3回以は一致して主の祈りをささげられるように整えられ規定された、と考えられます。また聖書のいくつかの写本の中にも、付け加えられた写本もあることから、そのまま最終項目を加えた形で、祈るようになっていましたので、それを私たちも受け継いだ、ということになります。言い換えれば、主の祈りや聖餐を中心とする使徒たちの交わりの中から、次第に礼拝共同体として自覚的に最も重要な伝承として受け継がれ整えられて現在に至った、と考えてよいかと思います。

主の祈りが画一的な統一性を持たない、そのもう一つの理由は、シュバイツァーなど多くの学者が指摘するように、イエスさまが教えられたこの祈りは、最初から律法主義的に厳格に守られなければならない、という形式主義によるものではなかった、という点です。皆が、其々に、いつでも常に神に祈ることができるように、その根幹となる指針のような項目が与えられたのであって、厳格に記述記録してとどめるような目的で、与えられた祈りではなかった、と考えられています。その結果、主によって教えられた祈りの根幹は、弟子たちや教会の中で益々豊かに育まれ、いわば発展的に展開し続けていたはずです。弟子たちから新しい世代へと受け継ぐように、主の祈りは「教会の祈り」として、まさに「主の祈り」として、改めて整えられ、纏め直され、しかもその結びに、神への栄光と讃美をもって締めくくる、栄光讃美の言葉をもって完成させた。それが総合的に「ディダケ―」(教え)として残されたのではないかと思います。以上が、最終項目が付け加えられた背景であります。

 

次に、聖書本文を比較参照しておきたいと思います。プリント左段がマタイによる主の祈り、右段がルカによる主の祈りの原型です。マタイを中心とする教会が受け継いだ形の「主の祈り」の原型と、ルカの教会が受け継いだ形の「主の祈り」の原型を、其々に対照してみますと、既にお気づきかと思いますが、右側のルカ伝承の主の祈りには、第3項目の「御心が行われますように、天におけるように地にも」という祈りは、ないのです。これを、本来あった項目が何かの事情で失われ欠落してしまった、と考えることもできますが、反対に、マタイの教会では、むしろ祈りをより豊かに発展的に展開したため第3項目となった、と考えることもできます。学者によってその判断は異なり、完全にそれを断言するのは、わたくしにはできませんが、マタイもルカも其々に、どちらも意味ある有効な実証性をもっている、とわたしは考えています。このことは、また改めて問答124で詳しくお話できるのではないか、と思います。先ほども申し上げましたように、主イエスは、厳格な形式のもとに律法主義的に記録し保持すべき祈りとして、この祈りを教えられたわけではなく、弟子たち其々の祈りの助けとなるようにと、とても柔軟な形で祈りの手ほどきをしたものが、マタイやルカの教会に引き継がれていたようです。

 

さて、本日の主の祈りは、第一項目「天にましますわれらの父よ、願わくは、み名を崇めさせたまえ」についての解き明かしを進めてまいります。ハイデルベルク信仰問答120は「なぜ、キリストは『我らの父よ』と、このように神を呼び求めるよう、私たちに命じられたか。」と、神を「父」と呼ぶ意味を訪ねています。おそらく、神さまを「われらの父」と呼びかけることから、祈りを始めるというは、この「主の祈り」の一番大きな特徴ではないかと思います。

マタイによる福音書6章9節による主の祈りでは、「天におられるわたしたちの父よ」(Pa,ter h`mw/n o` evn toi/j ouvranoi/j)と、「天におられる神」を「わたしたちの父」と呼びかけています。「唯一真」であり、「天にいます神」(o` evn toi/j ouvranoi/j)を「われらの父」(Pa,ter h`mw/n)と呼ぶのです。文法的に言えば、「私たちの父」と「天にいます神」を「同格扱い」にして、呼びかけて祈ることになります。ただ単に「われらの神」と、神を所有格で、呼ぶのではなくて、加えて神を「われらの父」と身内扱いにして、呼びかける祈りです。「われらの」という字も、「父」という字も、どちらも共に神と私たちとの「関係の本質」を表す言葉です。「われらの」とは、神さまと私たちが何らかの「所有の関係」にあることを表す言葉です。「父」とは、「親子関係」である人格的な出来と出生の関係を表す言葉です。言い換えれば、血の繋がった「命の根源」であることを示します。子は父から生じて、初めてその命と存在は与えられます。神さまの方から言えば、したがって私たちは、神から生まれた「神の子」である、というになります。

先週の説教で、私たちは、祈りにおいては、みことばを通して、神と出会うのだ、という話をしました。問題は、その神と出会うとき、私たちは、どのようにして、どのような関係で、果たして出会うのでしょうか。その答えが、まさに「私たちの父」として、私たちは、本質的に父子として、神と出会うのである、というのです。神さまの側から言えば、神は、私たちを「わが子」としてお迎えくださる、ということになります。人格の関係を示す言葉で、「親子」という言葉以上に、その関係の深さを本質的に示す関係性は他にはないのではないでしょうか。根源的で決定的な関係で、父と子として、私たちは神と出会い、共に生きるのです。前回紹介した聖書でも、7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:7~11)と、ここでも主イエスは、「あなたがたの天の父」(o` path.r u`mw/n o` evn toi/j ouvranoi/j)と呼んでおられます。実はここでも、主の祈りの所と全く同じように、「あなたがたの父」と「天にいます神」とが、それぞれ定冠詞のついた同格表現になっています。

 

問答120は「なぜ、キリストは『我らの父よ』と、このように神を呼び求めるよう、私たちに命じられたか。」と、神を父と呼ぶ意味を訪ねてから、答えで「(それによって)キリストは、私たちの祈りの始めにおいて、直ちに私たちのうちに、私たちの祈りの基礎となるべき、神に対する幼子のようなおそれと信頼を呼び起こすためです。つまり神は、キリストを通して、私たちの父となられたのです。私たちの父親でさえ、地上のもの惜しまず与えるように、それを遥かに勝って、信仰において神に願い求めるものは何であれ、神は、決して拒もうとはしないのです。」と告白します。

ここで、是非注目すべき、とても重要な教えが記されています。それは、神をただ「父」と呼ぶだけにとどまらないことです。問答120で「つまり神は、キリストを通して私たちの父となられたのです。」と告白して、父と呼ぶだけでなく、実際に「父となれた」と告白しています。しかもそれは「キリストを通して」神は私たちの「父となられた」と言っています。いわば、私たちは、キリストをかしらとする、或いはキリストと全く同じ命と人格を持つ兄弟として生まれ変わることになるわけです。つまり「わたしたちの」あるいは「わたしの」と所有格で呼びかけられる決定的な根拠も、そして「父」と呼びかけることが可能となった根拠も、いずれも「キリストを通して」神が私たちの父となる、ということが実現しているのです。キリストがおられなければ、私たちは、神を「父」と呼び求めることも、ましてや「私たちの父」と呼ぶこともできなかったのです。神を「父」(アッバ)と及びになったのは、主イエス・キリストただお独りです。神は神であって、父ではありません。しかし主イエスは、その全能の神であり万物の造り主なる神を、「わが父」とお呼びになりました。その独り子であるキリストは、十字架と復活という贖いのみわざを通して、私たちを「罪と滅びの子」から「永遠の命」溢れる「神の子」として生まれ変わらせ、造り変えてくださったのです。キリストの十字架と復活を通して、その贖罪のみわざによって、私たちを新たに誕生させてくださったからです。言い換えれば、キリストの十字架と復活の恵みに与ったがゆえに、私たちが新たに生まれ変わり、神の子とされているので、神を父と呼ぶことができるのです。

ここで注目すべき点は、祈りを支え、祈りを成立させる基盤に「父と子の関係」が永遠不変、不動の現実として存在している、という点にあります。父と子の関係にあるからこそ、私たちの「祈り」は成り立つのです。キリストの十字架と復活を通して、その愛と恵みのみわざにより、祈りは、神と私たちを「父と子」として、存在の根源から、本質的にかつ決定的に切っても切れない関係として、親子ですから命の本質を共有するお互いとして、永遠に結び合う場となったのです。キリストの十字架と復活による贖罪から、神さまと私たち人間との関係性が本質的に「父と子」の関係性に変化したのです。しかもそのキリストの霊として、聖霊が私たちの内に与えられ、宿るという新しい神との関係性が構築されたのです。その新しい存在と関係性の中で、しかも聖霊に導かれて、私たちの祈りは始まるのです。

キリストの贖罪により、「父と子」という決定的に新しい関係性から、すなわち新たに生まれた「子」の命と魂に生じる果実として、つまり神の子とされた成果が実際に示されます。それが、祈りにおいて生じる「神への畏れと信頼」です。聖霊は私たちのうちに力強く働いて、キリストの贖罪を聖書の証言に基づいて照明しつつ、キリストの贖罪体験へと導いてくださります。そこで、私たちはまさに父なる神のもとで、「神の子」として生まれ変わり、永遠の命に養われます。そうした「神の子」として人格の根源から生まれ変わる中で、真実な意味で「神に対する畏れと確かな信頼」はうちに泉のように湧き溢れるのです。したがって、祈りにおけるこの畏れと確信は神の賜物と言うべき天の恵みであります。「畏れ」Furchtと訳しました元の字は、「恐怖」「不安」「心配」を第一義とする言葉です。確かに、神は人智を超えた超越の神ですから、予測できず、人間の思い通りにゆかないということからすれば、それは恐怖や不安のもとにもなりうるのです。しかしあえてそれを捨てて、「畏敬」や「畏怖」を意味する言葉として訳しました。なぜなら、神はキリストを通して「われらの父」となられたからからです。大事な点は、「キリスト」の十字架と復活ゆえの「父」である、ということです。つまり十字架の愛と憐れみを前提にする「畏れ」であり、したがってこの父に対する子としての畏れは、本質的に信頼であり従順であり、安心の畏れとなります。

「信頼」Zuversichtと訳した元の字は、「物事がうまく運ぶであろうという確実な期待や確信」を意味します。単に信じるという人間の側の真理作用を遥かに超えて、万事を益としてくださる父に対する絶対の確信です。虎や猫の子は、常に親の胸元から離れず乳を吸いますが、胸元から離れますと、親は首をつかんで、再び安全で豊かな成長を保証する胸元へと再び連れ戻してくれます。つまりこどもの将来全体に渡って養い育てるのです。そういう親にすべてを委ねて任せ、自らを預けるのです。この本能は神が動物に与えた賜物ですが、それ以上に、キリストを通して与えられた「子」としての身分は本質的に異なり、それを遥かに超えた特別な神の愛と恩寵によります。神は、私たちの完全な保護者として私たちを守りぬき、最後の最後まで子であるキリストに与えた同じ命を分け与えて、私たちをわが子として養い育て、私たちのために万事を益にしてくださるのです。この永遠の命の育て親として、私たちは神を畏敬し確かな信頼をもって向き合う場、それが、神を「父」と呼ぶ祈りの場であります。問答の告白する通り、「神は畏敬と信頼を直ちに私たちのうちに呼び起こす」とは、そういうことではないでしょうか。

こうした神を「父」と呼ぶ意味について、以前に学びました問答26はこう告白しています。「『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず』と言い表すとき、あなたは何を信じるか。」と問い、「全能の父なる神を信ず」、と告白するときに、そこで、私たちは何を心に覚えるべきかについて問います。つまり、なぜ神を「われらの父」と呼ぶのか、その意味を問うています。そして問答26はその答えで「私たちの主イエス・キリストの永遠の父である神は、天と地と共に、その中にあるすべてのものを無から創造し永遠のご計画と摂理によって、被造物全体を保ち統べ治めておられます。父なる神は、ご自身の御子キリストのゆえにわたしの神でありわたしの父です。わたしはこの神を信頼し、依り頼んで、疑うことはありません。即ち、父なる神はわたしのために身体と魂に必要なものはすべて与えてくださり、わたしを嘆きの谷に送られようとも、わたしのために、万事を善きことに変えてくださるのです。全能の神として、父なる神はご自身からそれを行うことができ、また誠実な父として、父なる神はご自身からそれを願っておられるのです。」と告白しています。ここに、神を父と呼ぶ、すべての根拠が示されており、その一時一句を丁寧に辿れば、これ以上の説明は不要かと存じます。私たちは、祈りにおいて、神を父と呼ぶことで、神に父として出会い、神は私たちを子として受け入れてくださり、創造のわざ、摂理のわざ、そして統治のわざがいよいよ進められることになります。また問答26も120と同じように「父なる神は、ご自身の御子キリストのゆえに、わたしの神であり、わたしの父です。」と告白している点も合わせて、覚えておきたいと思います。

 

 

マタイによる福音書6章

 

6:9 だから、

こう祈りなさい。

 

⑴『天におられるわたしたちの父よ、

Pa,ter h`mw/n o` evn toi/j ouvranoi/j(

御名が崇められますように。

a`giasqh,tw to. o;noma, sou

 

⑵ 6:10 御国が来ますように。

evlqe,tw h` basilei,a sou\ \

 

⑶ 御心が行われますように、

genhqh,tw to. qe,lhma, sou(

天におけるように地の上にも。

w`j evn ouvranw/| kai. evpi. gh/j

 

⑷ 6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

To.n a;rton h`mw/n to.n evpiou,sion do.j h`mi/n sh,meron\

 

⑸ 6:12 わたしたちの負い目を赦してください、

kai. a;fej h`mi/n ta. ovfeilh,mata h`mw/n(

わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

w`j kai. h`mei/j avfh,kamen toi/j ovfeile,taij h`mw/n\

 

⑹ 6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、

kai. mh. eivsene,gkh|j h`ma/j eivj peirasmo,n(

悪い者から救ってください。』

avlla. r`u/sai h`ma/j avpo. ponhrou/)

 

―――――――――――――――――――――――――

⑺ 国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり。

☞ 聖書テキストにはない項目。『ディダケー』に登場。

使徒教父文書『ディダケー(十二使徒の教訓)』(1c末~2c初頭シリア、パレスティナで成立)に登場します。本書構成は1~6章「生と死」7~15章「洗礼,断食,祈り,聖餐等の教会生活書規定」16章「終末の希望と警告」。1875年ギリシャ語写本(11c)の全文が発見された。

本書は毎日3回「主の祈り」を祈るよう規定している。

 

2021. 3.14  磯部理一郎

 

ルカによる福音書11章

 

11:2 そこで、イエスは言われた。

「祈るときには、こう言いなさい。

 

⑴『よ、

Pa,ter(\\

御名が崇められますように。

a`giasqh,tw to. o;noma, sou

 

⑵ 御国が来ますように。

evlqe,tw h` basilei,a sou

 

 

 

 

 

⑷ 11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

to.n a;rton h`mw/n to.n evpiou,sion di,dou h`mi/n to. kaqV h`me,ran\

 

⑸ 11:4 わたしたちのを赦してください、

kai. a;fej h`mi/n ta.j a`marti,aj h`mw/n(

わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。

kai. ga.r auvtoi. avfi,omen panti. ovfei,lonti h`mi/n\

 

⑹ わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

kai. mh. eivsene,gkh|j h`ma/j eivj peirasmo,n)

 

 

 

 

 

2021年3月7日「わたしたちのための祈り ―主の祈り―」 磯部理一郎 牧師

2021.2/21、28、3/7 小金井西ノ台教会 受難節第1~3主日

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答116~119 「祈りについて」(1)

 

問116 (司式者)

「祈りは、なぜキリスト者に必要か。」

答え  (会衆)

「祈りは、神が私たちに要求する感謝の最も重要な行為です。

神がご自分の恵みと聖霊を与えようとする人々とは、

呻吟のうちにも怠りなく、神の恵みと聖霊を絶えず神に請い願い、

神の恵みと聖霊を神に感謝する人々だけなのです。」

 

問117 (司式者)

「そのように神の御心にかない、神に聞き入れられる祈りとは、どのような祈りか。」

答え  (会衆)

「第一に、私たちが、心から、唯一真の神に、

すなわち、ご自身を私たちに神のことばにおいて啓示された神に、請い願いなさいと

神が私たちに命じられたことすべてを嘆願する祈りです。

第二に、私たちが、公正にそして根本から徹底して、自らの貧しさや惨めさを認識し

神の尊厳ある御顔の前に、自らへりくだり自分を低くする祈りです。

第三に、このような堅固な拠り処が、私たちにはあります。

すなわち、神のみことばにおいて神が私たちに約束されたように、

私たちが未熟でみすぼらしくあろうと、

それでも神は、主キリストゆえに、確実に私たちの祈りを聴き入れようとなさいます。」

 

問118 (司式者)

「何を請い願え、と神は私たちに命じたか。」

答え  (会衆)

「霊と身体に必要なものは皆すべてを、です。

主キリストは、既にそれらをすべて、主ご自身が私たちに教えた祈りに、纏められました。」

 

問119 (司式者)

「主の祈りとは、どのような内容か。」

答え  (会衆)

「天にまします我らの父よ、

願わくは、み名を崇めさせたまえ、

み国を、来たらせたまえ、

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ、

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ、

われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ、

われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ、

国と力と栄とは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」

☞ 「主の祈り」は、『讃美歌21』(93-5 主の祈りA)から転載しています。

 

2021.3.7 小金井西ノ台教会 受難節第3主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答116~119「祈りについて」(1)

ハイデルベルク信仰問答講解説教57

説教 「わたしたちのための祈り ―主の祈り―」

 

これまで「祈り」について、いくつかの観点から、お話をしてまいりました。一回目は祈りの本質とその特徴や形式から、前回二回目は祈りの実践的側面から、祈りの現場に臨場する、というお話をいたしました。大切なことは、唯一真の神に正しく心を向け、正しく神に心を集中させることにあります。神は聖書のみことばにおいてご自身を啓示されるのですから、また神はご自身を聖書のみことばにおいて真のお姿現しておられるのですから、聖書のみことばに導かれてこそ、はじめて心を正しく神に向けることになります。このように、祈りは、神に心を向け神に集中することから始まるますが、そのためには、まず聖書に心を向け、みことばを通して、ご自身を現す神に集中しなければなりません。祈りは、聖書のことばと一体なのです。また祈りとは、聖霊なる神が私たちのために「弁護者」として遣わされ、弁護者である聖霊に導かれる場でもあります。聖霊は、聖書の真理を、すなわち聖書に啓示された唯一真の神を照らし出してくださり、私たちの魂を神さまのみもとへ導いてくださるのです。聖霊による「イルミネーション」(照明)という作用です。聖霊が聖書の真理を照らし出す、すなわち聖霊が聖書に啓示された神そのもののお姿を照らし出して、私たちの魂の前に、唯一真の神のお姿をお示しくださるのです。そうして祈りにおいて、私たちは生ける神と出会う体験が可能となります。

 

わたくしども改革派教会の神学では、すべてが「みことば」において始まり、「みことば」において終わる、と考えます。神のことば(言)とは、第一に、「神の独り子」であり、永遠の神の御子である「神」そのものを指します。次いで第二に、神の独り子が受肉した「イエス・キリスト」です。すなわち歴史上に「救い主」(メシア、キリスト)として、人間の姿を取って現れたお方を指します。そして第三に、受肉したキリストを証言した「聖書」の言葉を指して神のことばと呼びます。。あるいは「聖書」に基づいて説教された宣教のことばもそれに含めることもあります。重要な点は、その一連のみことばは皆、一体に串刺しにされていて、「神の啓示」という本質において貫かれており、一つの纏まりをもっていることです。バラバラに切り離して取り扱うのではなくて、連続する一連の啓示のみわざとして捉えます。したがって、聖書が朗読され、聖書に基づいて説教が正当になされると、つまり聖書の解き明かしが行われると、それは、歴史において受肉された「イエス・キリスト」の証言となり、さらには「神の独り子」であり「神の永遠の御子」である「神の言」(ヨハネ1:1~5)が啓示されます。「啓示される」とは、神がご自身から隠された覆いを取り除いて隠されたご自身の本当のお姿を現し、その真実なお姿を世界に対してお示しになることを言います。つまり、聖書のみ言葉において、神はご自身を覆いを取り除いてご自身を現してお示しになります。そのおかげで、聖書のみことばを私たちが受け入れ、聖書のみことばに導かれることで、心の目は神を見る目として開かれ、唯一真の神を見ることができるようになり、神を知り、神と豊かに出会うことができるようになります。みことばを通して、神は私たちの魂の内に姿を現わし現臨するのです。その神の御前に私たちは厳かに立ち、今度は神ご自身のみ言葉を聴くことになります。こうして聖書のみ言葉を通して現臨する神のことばを直に聞き、私たちの魂は、ついにはみことばを通して現臨する神に触れ、みことばを通して確かにそこにいます神と人格の深みにおいて出会い、命の交わりに入ることができるのです。主イエス・キリストは、地上においてお約束してくださったように、聖霊を私たちのために「弁護者」として、「助け主」としてお遣わしになり、みことばを通して、私たちを神のもとに導くのです。ヨハネ福音書が証言する通りです。「14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におりこれからもあなたがたの内にいるからである。」(ヨハネ14:16~17)と、主イエスが約束されています。ここに、祈りの内実があります。祈りにおいて、聖霊とみことばは一体に構造化されており、まさに祈りの現場となるのです。自然神学的な意味で、この地上の肉体に残存する神の創造の恵みを手掛かりにして、祈りを成立させてゆくという方法とは、大きく異なる祈りの方法です。地上の教会のかしらであって、天にいます御子イエス・キリストから、直接、遣わされた聖霊なる神が私たちを助けてくださり、聖霊と一連一体のみことばにおいて、天地を貫いき、主と出会わせてくださり、私たちは主と出会い主と固く結ばれるのです。まさにハイデルベルク信仰問答117が「ご自身を私たちに神のことばにおいて啓示された神」に請い願いなさい、と教えるようにです。神・受肉者・聖書(解き明かし)という「神のことば」において、一直線に串刺しにされるようにして、私たちは唯一真の神の啓示とそのみわざのただ中に一気に到達するのです。これが、私たちの祈りの方法です。したがって、祈りは、人間を手掛かりにする「修行」ではなくて、祈りは優れて「神のことば」における「神の恵み」そのものなのであります。

 

ところで、問答117には「神が私たちに命じられたことすべてを嘆願する祈りです」とありますように、「嘆願する祈り」と訳しています。ふつうは「呼び求める」という字を、元の意味を強調して言い表すために、「嘆願する祈り」と訳しています。その理由は、祈りとは、根本からまた本質から言いますと、神がわたしたち人間のために「恵み」を与える場であり、その恵みを「請い願い嘆願する場」であるからです。そして嘆願の祈りは、常に神に聞き入れられ、余りある神の恵みとして体験し知る場であるからです。前回朗読したダニエル書9章17節では「わたしたちの神よ僕の祈りと嘆願に耳を傾けて荒廃した聖所主御自身のために御顔の光を輝かしてください」というみ言葉に倣ったためです。ここで重要なのは「荒廃した聖所」に、即ち本来礼拝の場となるべき魂に、まさに「御顔の光」を輝かせてください、と祈っていますように、求められているのは「神の現臨」と「神の啓示」そのものであり、それによって真実な礼拝が実現することです。まず祈る中心は、神の現臨と啓示を求めることにあります。しかもそれは、先ほど紹介したように、また長老教会の式文にもありますように、祈りや礼拝では「聖霊の派遣」と「聖霊の照明」を請い求める共同の祈りとなって展開します。聖霊の導きのもとで、神の啓示のことばである「聖書」の朗読がなされ、次いで聖書の言葉に基づいて「福音の説教」が告知され、ついには地上を超えて天地を貫き、主キリストの十字架と復活の身体与り、主と一体とされ、天国に至るのであります。

ただし「請い願う嘆願の祈り」と言いますと、思い違いや誤解を犯しやすい注意すべき点が一つあります。それは、自分や人間の考えで自分の欲求を中心にして、呼び求める祈りであり嘆願を考えてしまうことです。私たちが願い求めるというと、求める私たち側の方に意味がある、と考えてしまいがちです。しかし祈りは、あくまでも「神の恵み」であって、しかも神の愛と憐れみによる救いのご計画とご意志に、その本質はあります。祈りは、罪に支配された私たち人間の欲望や願望を実現するための「道具」ではなくて、神さまの愛を実現する恵みの場であります。以前に、近代社会を支配した思想は「主観化の原理」であると総括した熊野先生の見解を紹介しましたが、まさに自我の哲学や主観化の原理に基づいた人間中心の願望実現の道具ではない、ということです。宗教や祈り、神や教会は自我欲求の道具ではない、ということを弁えておく必要があります。そこには、神のご意志とご計画に基づく人間の完全な救いと「神の支配」(=神の国)があるからです。「自分の欲求」を基準にするのではなくて、あくまでも「神の恵み」を神の恵みとするのであります。だからこそ、主の祈りでは、「御心の天になる如く、地にもなさせたまえ」と祈るのです。そのような神の御心を求め、神の御心を明らかにする信仰的態度が必要です。ですから、祈りは「請い願い嘆願する」場ですが、それは自我欲求を基準とする場ではなく、「神の御心を中心にする」場であります。

 

問答117は「神が私たちに命じられたことすべてを嘆願する祈り」と述べて、はっきりと祈りにおいて嘆願すべき事柄は、事前に定められていてすでにあることを、明記します。神が何を求め、神が何を命じておられるのかを知らなければ、そしてその神の御心を正しく理解して求めるのでなければ、こうした祈りはできません。だからこそ「神のことばにおいて啓示された神に」と言い直して、聖書のみことばから、正しく真理を照らし出された場で祈るのです。みことばから、より深く厳密に聞き直して、照らし出された啓示に触れて、その神の御心をより深く学ぶ必要があります。罪という闇と絶望に支配された魂が、みことばの光に照らされて、「神の義」をめざして導かれる始めます。そして神は、絶対の・唯一真の・永遠なる愛と恵みのもとに、神の御心により、わたしにとっては其々に最善最良である、しかも今最も必要な恵みを、お与えくださるのであります。有限で破滅と荒廃の中にあるわたしたち人間の思いを基準にする欲望の祈りから、永遠の尊厳と恵みに満ちた「神の義」を求める祈りへと、聖霊はわたしたちを導き、地上から天上へと解放してくださるのであります。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)と、主イエスがお教えくださった通りです。

 

請い願い嘆願する祈りという点で、さらにもう一つ、主イエスは弟子たちにこう教えています。「7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる探しなさい。そうすれば、見つかる門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け探す者は見つけ門をたたく者には開かれる。7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:7~11)。祈りは、単なる意味で、呼びかけでも、語りかけではない、ということが、ここからも、明らかになります。どうしても、私たちの意識では「求める」という所に思いが行ってしまいますが、祈りは、求める場である以上に、それに勝って「与えられる場」であります。神によって「与えられる」「見つかる」「開かれる」場であります。「受け」「見つけ」「開かれる」場こそ、祈りの場なのです。だからこそ、請い願い嘆願する意味も目的もはっきりして来ます。人間の思いを遥かに超えた、天の恵みをいただく場なのです。申し上げましたように、求める内容が非常に明確な、神に嘆願する場であり、しかも明らかに、神に求めるべきことは聖霊による助けであり、神の恵みであります。もっと率直に言えば、祈りは、神の恵みと聖霊をいただく場なのです。しかも、十字架と復活のキリストのお体をいただく場であります。

 

さて、問答117はさらに、第一に祈りとは「請い願い嘆願する」場である、と教えたうえで、「自らの貧しさや惨めさを認識する」場である、と教えます。「第二に、私たちが、公正にそして根本から徹底して自らの貧しさや惨めさを認識し神の尊厳ある御顔の前に自らへりくだり自分を低くする祈りです」と告白する通りです。真実な謙遜とは、人前で人目を基準にする謙遜ではないのです。人から褒められよく思われたいと願うのは否めない人情であり、大半の人々が求めることですが、しかしそれは、信仰においては、最も危険で最も誘惑に満ちた感情であることを知っておくべきです。真実な謙遜とは「神の尊厳ある御顔の前に、自らへりくだり自分を低くする」ことに外なりません。祈りの世界では、決して優等生にはなれない、ということを知るべきであります。どうすれば、そうした謙遜は実現できるのでしょうか。明らかなことは「公正にそして根本から徹底して、自ら貧しさや惨めさ認識する」ことです。以前、さまざまな祈りの形についてお話しましたが、そこで「乣明」という祈りの作用について触れました。乣明とは、広辞苑によれば「罪や悪事を問いただし、悪い所を追及して明らかにすること」とあります。植村門下で、熊野先生の兄弟子にあたる逢坂元吉郎先生が、最も重視した祈り方です。逢坂元吉郎によれば、祈りには「鏡(鑑)に写す」或いは「写映する」という作用がある(『逢坂元吉郎著作集上』1971、説教要録18「鏡」360頁)と説教し、実践しました。その祈りという鑑に、写し出すべき対象は二つあって、一方で「罪」を写し、他方で「キリスト」を写す、という写映作用を教えます。しかも、逢坂の祈りで、最も意味深い点は、キリストを益々鮮やかに魂に写し出して、その鮮やかに映し出されたキリストが自分の霊と魂とに乗り移り、ついには十字架と復活の身体と一体に結び合わせる体験へと至ることです。つまり逢坂にとって祈りの場とは、罪とキリストを「乣明する」場であり、同時にまた、乣明されたキリストが自分の身体と魂に乗り移って来て、自分を「キリストの身体とする」現場なのです。まさに祈りの場とは、十字架のキリストによって罪が贖罪され罪赦され、さらには自分の身体と魂にキリストが乗り移って、「聖化」が実現されてゆく力強い聖なる場であったのです。問答117は「公正にそして根本から徹底して、自らの貧しさや惨めさを認識する」という非常に的確な表現で、罪とキリストを写し出す「乣明」の場として、祈りを教えているのではないかと思います。そこでさらに大切なことは、神の無限絶対の愛と命が、わたしの心と身体の中を隅々に至るまで染み通すように、いわば「復活の身体」に造り変えるように迫り来る体験です。竹森満佐一先生は、「主の愛は、主イエスの祈りのうちにこそ、もっとも明らかに知られる」(竹森満佐一『主の祈り』1975)と言い表しています。無限の神が、私たちの心と身体を隅々に至るまで貫き、愛と命を満たして、ついに罪を完全に贖罪して、罪は赦され、新しい復活の命となって湧き溢れるのです。

 

こうして、祈りの場は、私たちの命と生活の「堅固な拠り所」となります。問答117は、最後に「第三に、このような堅固な拠り処が、私たちにはあります。すなわち、神のみことばにおいて、神が私たちに約束されたように、私たちが未熟でみすぼらしくあろうと、それでも神は、主キリストゆえに、確実に私たちの祈りを聴き入れようとなさいます。」と宣言します。ここでも、「神のみことばにおいて、神が私たちに約束されたように」と告白して、みことばの原理、聖書原理がはっきりと貫かれます。神が約束された約束のみことばの中に、私たちのすべての確かな根拠があり、だからこそ「堅固な拠り所」なのです。したがって「私たちが未熟でみすぼらしくあろうと、それでも神は主キリストゆえに確実に私たちの祈りを聴き入れようとなさいます。」と告白することができるのです。

 

主イエス・キリストは、二つのことを私たちにお与えくださいます。一つは十字架において、ご自身の命と身体をもって私たちの罪をお赦しくださり神の義をお与えくださり、そして復活において、永遠の命の祝福を与えくださります。もう一つは、私たちの弁護と助けのために、聖霊なる神をお遣わしくださいます。聖霊をいただき、聖霊によって、私たちの心が照らされるとき、私たちの贖罪と義そして永遠の命は確かな真実として、明らかにされます。たとえこの世で死に向う時でさえも、祈りを通して、聖霊なる神は私たちに「永遠の命」を照らし出すのです。否、滅びが支配するこの世にあるからこそ、神は、キリストの十字架において、贖罪のみわざを通して罪と死を滅ぼし、キリストの復活において、新しい甦りの永遠の命をお与えくださいます。私たちひとりひとり、其々の人生のただ中で、しかも魂の底においてその罪の赦しと復活を明らかにする場所こそ、祈りの場であります。

 

そしで最後に、ハイデルベルク信仰問答118は、主イエスが自ら弟子に教えられた祈りである「主の祈り」の解き明かしに進みます。以前、礼拝全体の中で、どの位置に「主の祈り」をおくかという点で、行き場を失った「主の祈り」について、お話しました。主イエスをかしらとする唯一無二なる教会共同体の祈りであり、弟子たちが日々共に集まるとすぐに「主の祈り」をもって集会が進められ、「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈るように、その中心は日々のパン裂きである聖餐の交わりがありました。やがて、過酷な迫害から、受洗したキリスト者の交わりを守るため、ミサ典礼が「感謝の典礼」として整えられるにしたがい、聖餐の祈りがささげられると、すぐに聖餐に与る前に「主の祈り」を共に唱え合い、ニケア信条を告白し聖餐に与りました。つまり「主の祈り」は、常に「聖餐の交わり」と一体の形で、構造化されていたのです。西ノ台教会のように、献金の後に、献金の祈り用に献げられる祈りでは決してなかったのです。聖餐に与るための共同の祈りだったのです。大切なことは、本来「聖餐」を中心とする礼拝構造の全体の中心において、「主の祈り」は共同体の天に通ずる祈りとして、位置付けられたいたのです。それどころか、「十戒」の唱和、或いは「聖書朗読」や「説教」なども、すべての礼拝要素は皆、一つの目的と意味に向かって、相互に関連付けられ、構造化されており、一体に組み合わされていました。そしてそのすべての役割は「聖餐の交わり」へと導くことにありました。聖霊の光に照らされつつ、聖書朗読と説教の解き明かしにより、「福音」は会衆に告知され、会衆は福音を聞いてそれを受け入れて信じ、キリストの十字架と復活の身体に与り、永遠の命に至る共同体験へと導かれるためです。主の祈りを唱えること、説教を聞くこと、讃美歌を歌うこと、それらは皆すべて、キリストの十字架と復活の身体と結ばれ一体とされ、復活による永遠の命に溢れて、天に生きる体験へと導かれたのです。そして今、私たちも、その聖餐の交わりに、主の祈りをもって臨むのであります。

2021年2月28日「神の信頼に堅く立つ祈り」 磯部理一郎 牧師

2021.2/21、28、3/7 小金井西ノ台教会 受難節第1~3主日

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答116~119 「祈りについて」(1)

 

問116 (司式者)

「祈りは、なぜキリスト者に必要か。」

答え  (会衆)

「祈りは、神が私たちに要求する感謝の最も重要な行為です。

神がご自分の恵みと聖霊を与えようとする人々とは、

呻吟のうちにも怠りなく、神の恵みと聖霊を絶えず神に請い願い、

神の恵みと聖霊を神に感謝する人々だけなのです。」

 

問117 (司式者)

「そのように神の御心にかない、神に聞き入れられる祈りとは、どのような祈りか。」

答え  (会衆)

「第一に、私たちが、心から、唯一真の神に、

すなわち、ご自身を私たちに神のことばにおいて啓示された神に、請い願いなさいと

神が私たちに命じられたことすべてを嘆願する祈りです。

第二に、私たちが、公正にそして根本から徹底して、自らの貧しさや惨めさを認識し

神の尊厳ある御顔の前に、自らへりくだり自分を低くする祈りです。

第三に、このような堅固な拠り処が、私たちにはあります。

すなわち、神のみことばにおいて神が私たちに約束されたように、

私たちが未熟でみすぼらしくあろうと、

それでも神は、主キリストゆえに、確実に私たちの祈りを聴き入れようとなさいます。」

 

問118 (司式者)

「何を請い願え、と神は私たちに命じたか。」

答え  (会衆)

「霊と身体に必要なものは皆すべてを、です。

主キリストは、既にそれらをすべて、主ご自身が私たちに教えた祈りに、纏められました。」

 

問119 (司式者)

「主の祈りとは、どのような内容か。」

答え  (会衆)

「天にまします我らの父よ、

願わくは、み名を崇めさせたまえ、

み国を、来たらせたまえ、

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ、

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ、

われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ、

われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ、

国と力と栄とは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」

☞ 「主の祈り」は、『讃美歌21』(93-5 主の祈りA)から転載しています。

 

  1. 2.28 小金井西ノ台教会 受難節第2主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答116~119 祈りについて(1)

ハイデルベルク信仰問答講解説教56

説教「神の信頼に堅く立つ祈り」

聖書 詩編103編1~22節

マタイによる福音書7章7~12節

 

「祈り」は、神が聖霊と神の恵みを与える場です。そして「祈り」の本質的な特徴とは、天地を繋き、天地を貫き、天地を行き来する「恵みの通路」であります。私たちは「祈る」という場を得る、ということで、「天」を獲得し「神の恵み」に生きることができます。恵みの通路である「祈り」を通して、この地上を生きながら天を生きることができるのです。その根拠は、「祈り」を通して、神が私たちのために「聖霊」なる神を「助け主」「弁護者」としてお遣わしくださり、神と私たちを繋ぐ恵みの通路を特別に造り、設けてくださるからです。したがって、祈りを豊かにする人は、益々神をよく知り、祈りを深くする人は、益々神の恵みに満たされます。私たちはこの身を地上においていますが、真の国籍は天国にあって、天に生かされ生きています。まさにこの真実は、このリアリティーは、「祈り」を通してのみ、実現しかつ実感されるリアリティーです。このように、私たちは、極論すれば、「祈り」という現場において、「神」に直面しそして「天国」に実存する者である、という隠された真相を深く認識することになります。

したがって、少々奇妙な言い方ですが、私たちキリスト者は今「祈り」という現場に遣わされ赴いています。「現場」という言葉は、教会では幾分馴染みにくい言葉ですが、本日は、敢えて「現場」という概念を用いて、実践的側面から、祈りという行為をより深く覚えたいと思います。前回は、祈りについて、その本質と形式の観点からお話いたしましたが、本日は、祈りを実践の観点から、お話したいと思います。そこで、祈りの現場という視点からお話したいと思います。よく教育の分野でも、教育の現場というような言い方をします。いわば行政や研究から見た教育の課題に対して、学校や教室、或いは職員室という具体的な教育の課題を現場として表現したのではないか、と思います。一般でも「現場に赴く」という表現をします。まさにその現場に赴く、現場に行くことで、最初に問われることは、現場という中にしっかり入り込めているか、そして現場の一構成員として、自分はどこまできちんと向き合えるか、現場に実存し存在する確かさ、或いは働きや関わりをめぐる臨場のリアリティーが、その実践において鋭くそして厳しく問われる場でもあります。教育現場では、教室で行われる授業という現場空間で、学生は教師としっかりと向き合い、学びの対象となる課題と力強く共に取り組み、向き合うことになります。教師も生徒と向き合い、ひとりひとりとどうかかわり、何をどのように教えるのか、授業全体を生き生きと構築するうえで、教育という現場に生じるさまざまな実践的課題と向き合います。中には、きちんとこどもと向き合えないまま、独り善がりの授業で終わる教師もいれば、授業の集団に入り込むことができずに、学びに身が入らないで、授業現場を共有できないまま終わる生徒もいます。会社員なのに、会社の職場で、手もつかず身も入らず、自分は何をすればよいのか、と部外者のように仕事が流れて終わってしまうこともあります。現場をどのように理解して、現場の中にしっかり入り込んで、共同の課題をしっかり取り組むことができる、それが現場の課題です。

教会にも、まさにそうした生きた「現場」があり、祈りという現場に深くしっかり入り込んで、神とその啓示とどう向き合い、そこで力強く展開する現場の中でどう生きるか、という魂の非常に現実的な取り組みの中で、「祈り」という現場について考えてみますと、「祈り」は、教会といえども、決して自明の行為ではないように思われます。特に初心者の方々には、最も宗教的な行為でありながら、一番わかりにくい行為であるかも知れません。言葉を出すことだけでも、難しいのに、その内容や実質を問われますと、困惑する方もあるでありましょう。実質的に祈りという世界そのものの中に入れない人もあれば、何か思い違いをして、現場からすべり落ちて、「祈り」の本質から外へ逸れて、祈れずに終わることもあります。何等かの理由で、きちんと祈りの世界を確保できないまま、すべり続け、或いは流され続け、信仰生活らしきものが、生涯にわたり過ぎ去る場合もあるかもしれません。言い換えれば、祈りの世界は、天地を行き来できる、神と天国に直面するとてもリアルな現実なのですが、必ずしも、そういかないのです。なぜなのでしょうか。そこには教会における、或いは信仰における、祈りを学び、祈りの修練に励む、祈りを訓練するという致命的な課題が見えてきます。

 

私事で恐縮ですが、わたしは、鎌倉市にある臨済宗の僧堂から誕生した学校で、教育を受けました。禅寺での修練を背景にした男子校です。上智大学で知られるイエズス会は、イグナチウス・ロヨラの『霊操』という方法を用いて、祈りを修練する修道会です。禅もイエズス会の『霊操』も、「祈り」という現場にどう臨み、そしてこの世を突き抜けて、「超越に至る」ことを根本命題にしています。まさにこの世の肉体から永遠超越の「無」へと突き抜ける修行であります。経験してみますと、ある意味で、特に身体と五感を基盤にして祈りに入る点で、両者はとてもよく似ているように感じます。カトリックの修道士の方々の中には、門脇神父をはじめ禅と祈りを一体に捕らえて修練される方もおられます。祈りという現場にいかにして臨むのか、それは2000年を貫くキリスト教信仰の根本命題です。修道院の歴史は、祈りの現場を映すものであると言えましょう。では、私どもプロテスタント教会では、どう、この祈りの現場に臨もうとしているのでしょうか。中には、異常なほどに感情移入を意図的に図り、それも集団強制のような形で、一種の祈りの状況を造り出して、熱狂的に祈りに臨むグループもあります。「異言」を強く求め、異言が出なければ、「聖霊」が与えられない、と指導する聖霊派のグループもあります。その反対に、残念ながら、祈りには余り熱心でない、祈ると言っても余りピンと来ない、さほど関心を示さない教会も、中にはあります。

 

ハイデルベルク信仰問答117は、どんな祈りが神に喜ばれるか、と問います。「どのような祈りが、そのように神の御心にかない神に聞き入れられる祈りとなるか。」と、祈りのあるべき形について問います。まさに、どのように祈りの現場に私たちは赴けばよいのでしょうか。どのような心構えで、祈りと向き合い、祈りと取り組めばよいのでしょうか。祈りについて真剣に問う態度が貫かれています。そしてその答えは「第一に、私たちが、心から、唯一真の神に、即ちご自身を私たちに神のことばにおいて啓示された神に請い願いなさいと、神が私たちに命じられたことすべて嘆願する祈りです。第二に、私たちが、公正にそして根本から、徹底して、自らの貧しさやと惨めさを認識し、神の尊厳ある御顔の前に、自らへりくだって自分を低くする祈りです。第三に、このような堅固な拠り処が、私たちにはあります。すなわち、神のみことばにおいて神が私たちに約束されたように、私たちが未熟でみすぼらしくあろうと、それでも神は主キリストゆえに確実に私たちの祈りを聴き入れようとなさいます。」と告白します。

この問答117で、まず一番に大事なこととして注目したい所は、一度「唯一真の神に」と言ったうえで、改めて「ご自身を私たちに神のことばにおいて啓示された神に」と言い直しています。これはとても意味深いことです。祈りという神の恵みに与る現場において、「誰に」「どこに」心を向ければよいのか、どのようなお方に、どのようにして、祈ればよいのか、相手がよく見えず、心を集中させることができないことを最初から想定しているように思われます。祈りにおいて、どうも自分の心が神に届かないのです。祈りの現場で、そうした問題が頻繁に起こることを問答はよく分かっているようです。問答117は「第一に、私たちが、心から唯一真の神に、即ちご自身を私たちに神のことばにおいて啓示された神に、請い願いなさい」と教えています。私たちが、心を尽くして、向き合い、心を集中すべきお方は、唯一真の神である、ということこそ、祈りの現場で、第一に求められることであります。しかし問題は、どうすれば、「唯一真の神に」正しく心を向け、集中させることができるか、ということにあります。先ほど、こども私語のことを例に喩えましたが、「唯一真の神に」ではなく、「私語」の世界に、この世や自分の思いに縛られ閉じ込められたたまま、この世の中の次元で、祈りを初めてしまうことがあります。次元を天に切り替えて、神に心を向けて集中する訓練が必要なのです。そこで、だからこそ問答はこう明記するのです。「心から唯一真の神に、即ちご自身を私たちに神のことばにおいて啓示された神」に心を向ける祈るのであります。聖書に啓示された神に、であります。それ以外に、唯一真の神はない、と言い換えて、改めて、心を向けるべき唯一真の神を指し示したのです。唯一真の神とは「神のことば」即ち、聖書のみ言葉において、啓示された神であります。ここには、非常にはっきりとした宗教改革の精神、「聖書原理」の精神が働いているように思われます。心を向けるべき神の正しい認識は、空想や哲学により、場合によって人間の修行に根拠をおいて、できることではなくて、神話物語に言い伝えられた神でもなくて、ただ一つ神のことばである「聖書」においてのみ証言される「啓示の神」であって、それ以外に唯一真の神はない、という徹底した聖書主義に基づく神認識がここに表明されています。であれば、祈るときは、やはり聖書のみことばに基づいて祈る、ということが想定されるはずです。聖書のみことばを心から信じ受け入れて、祈ることです。つまり聖書のみことばを深く知って信じる、ということと、祈りを深くする、ということが、ここでは一体に結び合っているように思われます。宗教改革の特徴は、みことばの理解と祈りの深まりとが、相互に影響し合うのです。であれば、祈るときには、しっかり聖書を読む、場合によっては聖書の解き明かしを受けることを通して、祈りはより確かにそして鮮明となるのです。み言葉をより深く正確に理解することにより、心の向かうべき神のお姿が鮮明にされ、祈る本当の意味と力がはっきりとするのです。それは同時に、独り善がりの自己中心的な欲求を祈り求める、人間の自我欲求だけに支配された、私語のような祈りから、聖書のみことばを通して「啓示の神」に心を向け直すことにより、神へと向かう真実な神に祈る祈りとなるのです。

またその反対も言えます。祈りをもってみ言葉を読む、祈りをもってみことばを聞き分けることになります。もう少し強く表現すれば、祈りによることなくして、聖書を読み、説教を聞き分けることはできないのです。祈りを通して、神が聖霊を私たちのための弁護者、助け主として、今ここにお遣わしくださり、主キリストの救いと清めのもとに導いてくださるのでなければ、何を読み、何を聞いても分からないからです。地上の耳では、天のことばを聞き分けられないのです。アメリカ長老教会の礼拝式文では、旧約聖書、使徒書簡、そして福音書と聖書朗読がなされますが、その際に、illumination と言って、聖霊の働きにより、聖書朗読から神の啓示の真理が照らし出されることを祈ります。まさに聖書を読むには、祈りなしには読むことができないことを意味しています。教会に聖霊が与えられ、その聖霊なる神の導きのもとで、聖書が朗読され、そして聖書の真理が解き明かされるのです。それはすべて、天の恵みである祈りを通して導かれるのです。初代教会の礼拝では、今でもその名残りが東方教会の典礼にも伝えられています。聖霊の光りが礼拝堂いっぱいに明るく照らし出す中で、「大聖入」と言って、福音を告げる聖書が厳かに会衆のもとに運ばれて来てついに登場するのです。そしてついに福音が高らかに告げられるように、聖書の朗読が始まります。聖書のみことばと祈りとの関係は一体なのです。問答116では「神がご自分の恵みと聖霊を与えようとする」と宣言し、したがって私たちは「怠りなく神の恵みと聖霊を絶えず神に請い願いなさい」と教えるのです。問答117では、祈りは「私たちの神に対する嘆願する祈り」であると説いていますが、真っ先に神に訴え求めること、請い願う嘆願とは、神の完全な恵みとして、また神とキリストと一体となった助け主である聖霊を私たちのもとに遣わしてくださり、真理を明らかに照らし出すことに外なりません。それによって、礼拝もさることながら、祈りもみことばも本当の力を発揮することが可能となるのです。聖霊に支えられて、祈りは絶大な天国に至る拠り所となるのです。

 

2021年2月21日「神の愛と恵みに、ただ感謝の祈りをもって」 磯部理一郎 牧師

2021.2/28、3/7 小金井西ノ台教会 受難節第1~3主日

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答116~119 「祈りについて」(1)

 

問116 (司式者)

「祈りは、なぜキリスト者に必要か。」

答え  (会衆)

「祈りは、神が私たちに要求する感謝の最も重要な行為です。

神がご自分の恵みと聖霊を与えようとする人々とは、

呻吟のうちにも怠りなく、神の恵みと聖霊を絶えず神に請い願い、

神の恵みと聖霊を神に感謝する人々だけなのです。」

 

問117 (司式者)

「そのように神の御心にかない、神に聞き入れられる祈りとは、どのような祈りか。」

答え  (会衆)

「第一に、私たちが、心から、唯一真の神に、

すなわち、ご自身を私たちに神のことばにおいて啓示された神に、請い願いなさいと

神が私たちに命じられたことすべてを嘆願する祈りです。

第二に、私たちが、公正にそして根本から徹底して、自らの貧しさや惨めさを認識し

神の尊厳ある御顔の前に、自らへりくだり自分を低くする祈りです。

第三に、このような堅固な拠り処が、私たちにはあります。

すなわち、神のみことばにおいて神が私たちに約束されたように、

私たちが未熟でみすぼらしくあろうと、

それでも神は、主キリストゆえに、確実に私たちの祈りを聴き入れようとなさいます。」

 

問118 (司式者)

「何を請い願え、と神は私たちに命じたか。」

答え  (会衆)

「霊と身体に必要なものは皆すべてを、です。

主キリストは、既にそれらをすべて、主ご自身が私たちに教えた祈りに、纏められました。」

 

問119 (司式者)

「主の祈りとは、どのような内容か。」

答え  (会衆)

「天にまします我らの父よ、

願わくは、み名を崇めさせたまえ、

み国を、来たらせたまえ、

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ、

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ、

われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ、

われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ、

国と力と栄とは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」

☞ 「主の祈り」は、『讃美歌21』(93-5 主の祈りA)から転載しています。

 

2021.2.21 小金井西ノ台教会 受難節第1主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答116~119「祈りについて」(1)

ハイデルベルク信仰問答講解説教55

説教「神の愛と恵みに、ただ感謝の祈りをもって」

聖書 ダニエル書9章17~19節

テサロニケの信徒への手紙一5章12~28節

 

教会暦で申しますと、水曜日からレント(受難節)に入りまして、本日はその第一主日となります。特に、キリストの十字架でのお痛みを深く覚える時です。ハイデルベルク信仰問答の講解説教も、「十戒」の解き明かしから、「主の祈り」の解き明かしへと、進んでまいります。今日の説教題は「神の愛と恵みに、ただ感謝の祈りをもって」という題にしました。私どもがキリストの十字架でのお痛みに思いを深くするということは、結局、神の御心と愛に、心から感謝するになるからです。最も神に喜ばれる、私たちの信仰とは、御子の十字架をもってお救いくださった神への感謝であり、同時にまた、それほどに深い私たちの罪をいよいよ深く悔いて、神に懺悔することであります。神の愛をこの地上において人間のために啓示し実現したキリストの十字架を深く覚え、十字架を仰ぎ、十字架に涙し、十字架に心から感謝し、そしてついには主の十字架に、まことの喜びを知る信仰をつくる、まさにその時に、あります。

 

今、わたくしどもは、キリストの十字架と復活により、完全に罪赦されて、新しい永遠の命のもとに、生まれ変わり、造り変えれています。しかし同時に、終末の完成を迎えるには、まだ至ってはいません。まさに、終末を迎える準備のただ中にあって、その意味ある備えをなす時の中にあります。そうした救いの喜びとまた未完成との狭間にあって、最も大きな恵みとなり力となるのは「祈り」であります。「祈り」を通して、神は、わたくしどもになくてはならない最も大きなものをいつもお恵みくださるからです。神は「祈り」を通して、わたくしどもに、地上を超えた「天の恵み」をお与え下さるからです。言い換えますと、この世にあってわたくしどもキリスト者の、最も力強くそして最も確かな行動とは、まさに「祈り」である、と申してよいでありましょう。この祈りこそ、この世を生きる力であり、祈りによってこそ、わたしどもキリスト者は、天を生きることを始めるのであります。

 

キリスト者に与えられた「祈り」には、いくつかの特徴があります。まず、どんな祈りでも、すべてに共通することは、「キリストの名において」祈るということです。キリスト共に祈る、キリストを通して祈る、そしてキリストゆえに、キリストを拠り所にして祈る、ということになります。なぜなら、「神の御子」でありながら、「真の人」として、わたくしども人間のために、神の御前に「仲保者」としてお立ちくださったからです。人間の側に立って、人間の救いのために、みことばを語り、執り成しの祈りをささげ、十字架において人類の罪を償い、復活によって新しい永遠の命を私たちにお与えくださり、そして天に昇り、父なる神の右に座して、いつもわたしども人間と万物の完成のために執り成し、聖霊と共に救いのみわざを行い続けてくださるからです。そのキリストのおかげで、初めて私たちは神の御前に立ち、祈り、讃美することができるようになりました。キリストは、われらの仲保者であり、われらを代表してわれらの「主」として神の御前にお立ちくださる「キリストの名」によって、祈りのわざは可能となり、始められるからです。

もう一つ、祈りに共通する決定的な出来事があります。それは、キリストの名によって祈るとき、必ず神は、「聖霊」なる神を私たちにお遣わしくださることです。主イエスは、「14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っているこの霊があなたがたと共におりこれからもあなたがたの内にいるからである。」と仰せになり、私たちのための弁護者、助け主として、「聖霊」を遣わしくださったのです。「祈り」によって「聖霊」が与えられるのであります。正確には、聖霊が与えられているからこそ、その聖霊の働きのもとで、祈ることができるのだ、と申し上げるべきでありましょう。このように、神は、キリストの御名において、聖霊をお遣わしくださり、その聖霊の働きに包まれて、私たちは初めて祈ることができます。祈りを通して、聖霊なる神が与えられ、まさにその聖霊なる神は、私たちの弁護者として、地上と天上とを一つにつなぎ、結び合わせ、一体としてくださるのであります。その中心に、祈りという行為が、私たちに与えられたのであります。

次いで、祈りにはいろいろな「形式」や「役割」があります。祈りを形をいくつか大別しますと、まず教会共同体全体で祈る、特に礼拝で祈る祈りがあります。礼拝で祈る祈りの中にも、所謂「公の祈り」として、「式文」による祈りもあれば、自由に祈る「自由祈祷」もあります。次いで共同体全体や礼拝から離れて、個人で私的に祈る「密室の祈り」があり、声を出して祈る「声祷」もあれば、声を出さずに祈る「黙祷」または「瞑想」があります。自己の内面を深く糾明して、罪を一層深く認識し、救いの恵みをいよいよ豊かに知る、信仰訓練の祈りもあれば、隣人や他者のために祈る執り成しの祈りもあります。其々の祈りの場面に応じて、形式も内容も異なりますが、いずれにしても、祈りにおいて天の賜物を共に分かち合う、という祈りの本質においては、何一つ変わることはありません。どのような時に、またどのような場であろうと、祈りとは、天の恵みを分かち合う、天地一体の交わりであり、交流であることに、祈りの本質は変わりません。

 

このような祈りの中で、主イエスが直接、弟子たちに教えられた「主の祈り」は、祈りの中の祈りと言っても過言ではありません。主の祈りは、「声」を出して「ことば」を用いて祈る祈りです。声を出して共通の言葉を用いて祈るということは、「共同体の祈り」である、「教会」のために主イエスが与えてくださった祈りである、ということを意味します。弟子たちの原始教会は、共同生活のようにして、其々の家に毎日のように集い、聖餐と説教を囲む礼拝が行われていました。そこで皆が集うと、最初に共に祈った祈りが「主の祈り」であったようです。やがて、礼拝が教会の「ミサ聖典」として整えられるにしたがって、共同体の最も中核に位置する聖餐に与る前に「主の祈り」がささげられるようになったようです。いずれにしても、「主の祈り」が、終始一貫して、弟子たちの共同体を支える中心的な祈りであり、どんな場面でも、いつも祈られていた祈りでありました。公の礼拝で祈るのは、言うまでもないことですが、キリスト者が日々の生活の中に常に祈る祈りでもありました。

わたくしども小金井西ノ台教会の礼拝では、「献金の祈り」の後に「主の祈り」が置かれています。いつからそうなったか、詳しいことは存じませんが、おそらく吉祥寺教会で竹森先生が献金の祈りに代えて、主の祈りをささげられていたことに倣ったためではないか、と推測されます。これは誠に申し上げにくいことですが、わたくしども日本のプロテスタント教会では、概して会衆の代表者が献金の当番として献金の祈りをささげます。その献金の祈りの際に、代表者個人の主観的で感情的に偏った祈りとなり、公の礼拝を傷付けてしまう場合があります。代表者個人の主観的な感情を言い表すような祈りとなり、礼拝全体を壊してしまうことがあります。説教を要約して感謝するつもりが、反対に、みことばを歪めてしまうことが起こります。十分に深くそして正しくみことばを認識して、しかも教会の礼拝や献金の意味をよく理解したうえで祈るのではなくて、当番で順番で祈る、そうした個人の祈りに代えて、皆で主の祈りをささげる方が、礼拝としてより相応しいものになる、という理解でありましょう。献金の祈りは、個人の祈りではなくて、共同の公の祈りなのです。そう考えますと、原始教会の時代から共同体の祈りとして、集会の中心で祈られていた主の祈りは最も相応しい祈りであります。

ただしさらに重要なことは、原始教会時代では、「主の祈り」は、集会の「最初」に、共同の祈りとして、共に祈られていましたが、聖餐を中心としたミサ聖典が整えられると、聖餐を共に囲み聖餐に与るとき、そこでこそ共同体の祈りとして、共に祈られるようになります。そこで意味深い点は、聖餐の共同体験と主の祈りの共同体験の内容とが一体になります。これはとても意味深いことです。最初に祈りの本質は、キリストの名において、聖霊が与えられ、天の賜物に与ることである、と申しましたが、聖餐も全く同じ本質を担う恵みです。そうした両者の本質的な役割から申しましても、「主の祈り」をささげ、共同体全体が共に共有する「天」を見つめ分かち合う共同体験から、さらに聖餐を共に囲み共に与るという聖餐の体験において、天の恵みを地上の現実となす、という内容は、天地を直結する恵みの通路として、とても重要な意味を持ちます。ところが、プロテスタント教会の多くは、近代の誤った誤解から、礼拝の中から聖餐を排除したわけではないのですが、カトリックのミサ批判を強く意識したため、説教中心の礼拝に礼拝形態が移行して、聖餐が行われない礼拝が「通常」の礼拝となってしまいました。その結果として、本来聖餐を中核にして礼拝は構造化されているのですが、聖餐を失った礼拝形式の中で、「主の祈り」の本来の場所が失われてしまいました。その結果、教会によっては、主の祈りの、礼拝での位置が、最初にある教会もあれば、最後になる教会もある、ということになって、礼拝の中での主の祈りの行き場が、或いは位置づけ、意味づけが失われてしまったままのようです。礼拝学的に申しますと、献金の位置も、本来は「ささげもの」ですから、礼拝の最初に、みことばの前におかれていたものです。礼拝者は、まず「ささげもの」を神にささげてから、それからみことばを聴き、キリストの身体である聖餐に与りました。いつの間にか、説教を聞いた感謝となります。そして感謝の祈りとして、献金の祈りがささげられるようになり、ついには、献金の祈りに代わって、主の祈りがささげられるようになります。しかし、本来の「主の祈り」とは、共同体を根元から映し出す共同体の最も重要で中心となる祈りですから、本当は原始教会時代のように、礼拝の最初か、あるいは聖餐に与る時に共に祈るべきではないか、とわたしは考えております。プロテスタント教会の深刻な課題は、健全に正しく、聖餐を中心とした礼拝の形を取り戻すことにありますが、それは、今となっては、たいへん困難なこととなってしまっています。つまり「主の祈り」を教会はどのように受け継ぐべきか、これは、教会全体としてまた礼拝との関わりから考えますと、決して単純に扱えないことではないかと思います。

 

さて、「祈り」は、中間時代を生きる最も強い力であり、神は「祈り」を通して「聖霊」を与えてくださり、聖霊の力により「天の賜物」をお与えくださるのだ、と申しましたが、ハイデルベルク信仰問答116は、祈りについて、こう解き明かします。「祈りは、なぜキリスト者に必要か。」と問いまして「祈りは、神が私たちに要求する感謝の最も重要な行為です。神がご自分の恵みと聖霊を与えようとする人々とは、呻吟のうちにも怠りなく、神の恵みと聖霊を絶えず神に請い願い、神の恵みと聖霊を神に感謝する人々だけなのです。」と告白します。祈りについて、二つのことが言い表されています。一つは、「感謝」の最も重要な行為として、神が私たちに求める行為である、と言っています。私たちが必要としている以上に、まず神さまの方が私たちに「祈る」ことを求めておられる、というのです。なぜなら、神は「祈り」を通して「聖霊」と「天の恵み」をお与えになるからだ、ということになります。この意味からすれば、祈りとは、天と地を貫く垂直的な通路であります。祈りにおいて、神と私たち、天と地とは直結され、貫通され、「通路」が生まれ、天地を互いに行き来することが可能となるのです。聖霊が与えられ、聖霊なる神が別の弁護者として私たち地上にある者を天上へと導くのです。そして必要なものはすべて満たしてくださるのであります。だから、祈りは、本質的に感謝の祈りとなるのです。少々極端な言い方をすれば、祈りがよく分かり祈りができるようになると、私たちは地上にあっても、天国に生きることも可能となるのです。それは、ちょうど、キリストが天国におられても、私たちと共に、地上に生きておられるのと同じです。「祈り」を通して、「聖霊」が与えられ、その活き活きとして漲り溢れる聖霊の働きに包まれて、「天の恵み」に与るのです。祈りを通して、天地は交流し、神と人とは一体に生きるのです。このように、地上における天のリアリティを体験的に知り、天の恵みに実際に生きるようになるには、どうしても祈りの体験を深め、祈りの真実を知る必要があるのです。天の恵みを地上に与えるために、言い換えれば、終末の完成を未完成の地上に先取りさせるために、神は「祈り」という方法を用いて、時空を超えて、天地を繋ぐ通路としてお定めになられたのであります。その意味で、信仰生活の中で最も大切なことはまさに「祈り」である、と問答が教える通りです。こう考えますと、祈りは、人間の側からの神に対する行為である以上に、神の側からの人間に対する超越的な恵みのみわざである、と言えます。洗礼や聖餐のサクラメントについて、宗教改革者は「恵みの通路」と呼びましたが、まさしく「祈り」こそ、神がお与えくださった天と地を結ぶ恵みの通路そのものではないでしょうか。したがって、「祈りをする」という生活は、「天と地を共に生きる」生活そのものなのです。

2021年2月14日「神の導きに従い、正しく生きる喜び」 磯部理一郎 牧師

2021.2.14 小金井西ノ台教会 公現後第6主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答113~115

十戒について(11)

第十戒「隣人の家を欲してはならない」

 

 

問113 (司式者)

「第十戒(『隣人の家を欲してはならない』)は、何を言い表しているか。」

答え  (会衆)

「神の掟に背く、どれほど些細な欲望もまた思いも、

もはや二度と私たちの心のうちには起こることはありません

それどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、

あらゆる罪を憎みあらゆる義に至ることを願い求めるべきです。」

 

 

問114 (司式者)

「だが、そのように神に回心した人々は、この戒めを完全に守ることができるか。」

答え  (会衆)

「いいえ。この生涯にある限り、最も聖なる者たちでも、

ただほんの僅かな従順を始めるにすぎません。

しかし聖なる者たちは、掟にただほんの僅かに従うだけではなく、

真剣な意図をもって、すべての神の戒めに従う生涯を生き始めています。」

 

 

問115 (司式者)

「この生涯では誰も守れないのに、なにゆえ神は、それほど厳しく十戒を説教させるのか。」

答え  (会衆)

「第一に、私たちは、自分の全生涯を通して、

自分の罪に汚れた本性を、いよいよ深く認識すればするほど、

いよいよ熱心にキリストにおける罪の赦しと義を、求めるようになるためです。

次いで、私たちは、絶えず努力を重ねて、聖霊の恵みを賜るよう神に請い求め、

時と共に益々もって神の生き写しとして、新しく造り変えられて、

そしてついには、この生涯の後、完全なる完成を達成するためです。」

 

2021.2.14 小金井西ノ台教会 公現後第6主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教54(問答113~115 ②)

説教 「神の導きに従い、正しく生きる喜び」

聖書 マタイによる福音書5章1~12節

ガラテヤの信徒への手紙3章21~29節

 

キリストの十字架での贖罪そしてキリストの復活により、神の愛と救いの恵みのもとで、私たちは新しく造り変えられています。神の愛と恵みによって実現した、キリストの十字架における贖罪と復活によって、永遠の命の祝福は、まさに「福音」と呼ぶべき人類全体の喜びとなったのであります。人類の罪は、完全に神の御子によって償われ、罪と死の滅びから私たちは完全に解放され、神の完全な「贖罪」によって、新しい命の祝福のもとに招かれて、「復活」という希望に導かれています。すでに、私たちはキリストの十字架と復活により、罪は償われ、死と滅びから永遠の命へと贖われています。そして聖霊の恵みと導きにより、復活と万物創造の完成へと、今まさに導かれようとする、そのただ中を生きています。ただし、その完全な完成には、まだ至っていません。したがって、私たちは世々の聖徒と共に、キリストの再臨する終末を待ち望んでいます。このように、永遠の命と万物の創造完成に向かって、確かに力強く聖霊に導かれる中で、私たちはこの「今の時」を生きているのです。

 

神の御子キリストにより、罪と死と滅びから解放されて、聖霊なる神により、永遠の命の完成に達するという「救い」の完成は、言うまでもなく確実で信頼することができますが、それは、最初から最後まで、私たち人間に力やこの世の成り行きによるものではななく、あくまでもこの世を超えた神のご計画とその絶大な力によるものであります。決して、私たち人間の力や努力によるものではありません。厳密な意味で言えば、私たち人間の力は、「救い」においては、完全に無力なのです。ですから、徹頭徹尾「神の恵み」にすがるより外に、道ははないのです。私たち人間の力と努力は、まさに大きな神の恵みと力によって包まれているのです。ちょうど、太平洋という大海原を越えて新大陸をめざすとき、自分の力で泳いで辿り着くことはできないように、どんな嵐や波にも負けない巨大な船に乗って新大陸を目指します。私たちは、そうした巨大でびくともしない船に乗り、安心して新大陸をめざすのです。そして私たちがなすべき努力とは、新大陸へと向かう船の中で、すなわち大きな神の導きの中で、共に船旅の無事到着を共に祈り、互いに日々助け合い、互いに愛し労り合って、その航海を続けることであり、また新大陸到着後の新しいの生活の備えをなす、ということではないでしょうか。私たちは、教会という大きな船に乗って、船長である聖霊とそのみことばに導かれながら、終末という新大陸をめざしています。そしてその教会という船の中で私たちが為すべきことと言えば、ただひたすらに皆が無事に神のみ国に入ること、そしてそれまでの生活が平和に守られることを祈りことであります。今まさに、私たちは確実に神の国に向かう大きな教会という船の中にあって、日々の生活が平和であることそして安全無事の航海を祈るばかりであります。時には、船が沈んでしまうのではないか、と心配する試練の嵐もありますが、祈りを尽くし信仰を尽くして、天国への航海の無事を願い求めるばかりであります。

 

ハイデルベルク信仰問答113~115は、そうした終末に向かう旅路をどのように考えて過ごし、またどのように生きてゆけばよいのか、その覚悟をたいへんよく示している信仰告白ではないか、と思います。私たちは、キリストをかしらとする教会という船に乗り込んで、既にキリストの贖罪のもとで、復活という終末の完成をめざして、天国に向かっていますが、今、この時は、まだ向こう岸には着いていないので、その航海中のただ中にあります。そうした中間時代を生きる生き方として、しかもより清く正しく生きるために、特に神の戒めに対する態度として、問答113は「神の掟に背く、どれほど些細な欲望もまた思いも、もはや二度と、私たちの心のうちには起こることはありません。それどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、あらゆる罪を憎み、あらゆる義に至ることを願い求めるべきです」と告白しています。しかし同時にまた、私たち自身は完成に至っていませんので、問答114では「完全に守ることができるか」と問われますと、「いいえ。この生涯にある限り、最も聖なる者たちでも、ただ、ほんの僅かな従順を始めるにすぎません。しかし聖なる者たちは、掟にただほんの僅かに従うだけではなく、真剣な意図をもって、すべての神の戒めに従う生涯を生き始めています。」と答えます。こうした問答に、まだ未完成である神の国を前にして、終末論的中間時に生きる人々の信仰態度がよく表されているように思われます。先ほど、神の国の完成という向こう岸に向かって、教会というキリストの身体である船に乗って、私たちは今は航海のただ中にある、という話を致しましたが、まさにその旅路をどう生きるのか。船に乗って向こう岸をめざしているのですが、嵐や荒波に翻弄されながら、向こう岸に辿り着くことが不可能ではないか、と希望と確信が失われそうになるのです。無事安全に到着することを懸命にまた熱心に祈るのですが、眼前の大きな嵐に目を奪われてしまい、絶望し、祈りを捨ててしまいそうになるのです。問答115は、そうした現実を、さらに、とても鮮明に映し出しているように思われます。「この生涯では誰も守れないのに、なにゆえ神は、それほど厳しく十戒を説教させるのか。」と、実際は誰もできない現実が今ここにあるのに、どうしてそれでもなお、十戒の説教をするのか、と問うのです。まさに、完成されていない未完成の現実を前にして、その未完成という現実を前に、心が萎えてしまい、もはや、そんな厳しい説教を聞いても、何の意味があるのか。もっと別の、慰めになりそうな話はできないのか、と言わんばかりであります。そこで答えはこう応答します。「第一に、私たちは、自分の全生涯を通して、自分の罪に汚れた本性をいよいよ深く認識すればするほどいよいよ熱心にキリストにおける罪の赦しと義を求めるようになるためです。次いで、私たちは、絶えず努力を重ねて聖霊の恵みを賜るよう神に請い求め時と共に益々もって神の生き写しとして新しく造り変えられて、そしてついには、この生涯の後、完全なる完成を達成するためです。」と、信仰の確信をいよいよ強くして、冷静沈着に「今と向き合う」ように告白しています。

 

本文に「第一に」また「次いで」とありますように、二つの事柄が明記されています。一つは、「第一に、私たちは、自分の全生涯を通して、自分の罪に汚れた本性をいよいよ深く認識すればするほど、いよいよ熱心に、キリストにおける罪の赦しと義を求めるようになる」ということです。ここから私たちが学ぶべきこととして、未完成である今の中間時を、とても積極的に意義ある「時」として受け止め、向き合おうとしています。まさに終末論的信仰態度であります。どのように、この中間の時を「意味ある場」として生かすのか、その課題にしっかり。答えています。舟に乗っていますが、嵐に翻弄されて、世の荒波に敗北しかねない現実の中で、明確に希望をもって祈る、今はそういう時のであります。私たちは、舟の転覆や荒波に敗北しそうな中でこそ、自分の無力さを悟り、しかもそこからさらに認識を深めて、「自分の罪に汚れた本性を、いよいよ深く認識します」。どれほど自分が脆く弱いか、そして人間社会もどれほど病んで傷ついているか、人類全体の深い痛みと嘆き、そして絶望が聞こえて来ます。人類社会を愛し、信頼し、期待し、そして尊重するのですが、信頼すればするほど、この世界を愛すればこそ、この世を深く憐れみ、いよいよ愛おしく大事にするようになります。だからこそ心からこの世界のために深く祈ることができるのです。しかしながら、いよいよこの世の不確かさと人間本性の根源からの破れが深く理解できるようになり、完全なる完成と救いをそこに求めることはできない、と悟るのです。一方で、この世の限界と破れを認識して深くその痛みを知れば知るほど、私たちの祈りは、まことの神による救いを求めて、人間とこの世を背負うようにして「神の国」に向かうようになるのです。「いよいよ熱心に、キリストにおける罪の赦しと義を、求めるようになる」と告白する通りです。どうしても、私たちの関心はこの世にあって、神よりも、自分や周りの人々に、お金や物に、向かってしまいます。しかしそこで大事なのは、神を知ると共に、人は人として正当に評価できるようになり、物は物として正しく認識することができるようになるのです。お金や物は、神の義と栄光のために、そして隣人の人としての人格を尊重するために、正しく物本来の価値と使途を正しく認識して使用することが大切です。確かにお金や物が必要ですが、だからと言って、物やお金に心を奪われて、お金や物の奴隷になるのではないのです。人を人格として正しく敬愛して、お金や物を正しく正当に用いることができるようになるのでなければならないです。万物は、神の創造秩序の中にあり、神の愛と義のために、其々の存在と働きは、分に応じて相応しく定められています。それを人間の欲望により暴力的に支配して、私物化の道具にしたり、反対に、欲望の誘惑から物やお金によって、人格を貶められ、その奴隷となるようなことがあってはなりません。したがって、だからこそ、人間本来の、或いは物本来の存在の役割を正しく保つためにも、神の戒めを正しくそして深く聞き分けることがとても大切なのです。問答115の問いに「この生涯では誰も守れないのに、なにゆえ神は、それほど厳しく十戒を説教させるのか」とありましたが、この中間の時の中にあって、改めて今こそ、より正しくより深く福音を知り、また新しく救いを与えられた私たちであるからこそ「神の戒め」を聴き分けるのであります。日々、福音の恵みの中で、福音のみことばによって、慰めと励ましを受けながら、実現できなかった破れは心から悔い改め、改めて心と顔を天に向けて高く挙げ、新たなチャレンジに挑むのです。なぜなら、私たちは永遠の国、天国での完成をめざしているからです。

 

問答115は「次いで、私たちは、絶えず努力を重ねて聖霊の恵みを賜るよう神に請い求め、時と共に益々もって神の生き写しとして新しく造り変えられて、そしてついには、この生涯の後、完全なる完成を達成するためです」。私たちは、罪と破れを深く知り、いよいよ赦しとまた憐れみを祈り求めることを学びますが、さらに加えて、神よりの益々の憐れみと恵みを請い求めます。繰り返しこの中間時代の現実に「神に立ち帰り、向き合う」のです。未完成に不満の余り、短気を起こして苛立つのではなく、むしろ積極的に、中間にある今の時を豊かな恵みの時として、正しく認識して、神の戒めに従って誠実に取り組む覚悟が必要です。

パウロは、フィリピの信徒への手紙でこう説教しています。「3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召してお与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。3:20 しかし、わたしたちの本国は天にありますそこから主イエス・キリストが救い主として来られるのをわたしたちは待っています。3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」

ハイデルベルク信仰問答115は、パウロの「何とか捕らえようと努めている」(フィリピ3:12b)という言葉や「目標を目指してひたすら走る」(フィリピ3:14)という言葉を、「絶えず努力を重ねて」と言い表しています。またパウロの「3:20 しかし、わたしたちの本国は天にありますそこから主イエス・キリストが救い主として来られるのをわたしたちは待っています。3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」という教えを、「聖霊の恵みを賜るよう神に請い求め、時と共に益々もって神の生き写しとして新しく造り変えられて、そしてついには、この生涯の後、完全なる完成を達成する」と告白します。特に注目したい所は、「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」とパウロは教え、そして問答115は「聖霊の恵みを賜るよう神に請い求め、時と共に益々もって神の生き写しとして新しく造り変えらる」と告白している所にあります。徹底的にキリストの再臨を待ち望むのですが、ただ何もせずに待っているわけではないのです。「待ち望む」ということは、何もできずに、ただ消極的で受動的に待っているように見えますが、そうではないのです。パウロの言葉で言えば、「絶えず努力を重ねる」ことであり、「わたしたちの卑しい身体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」という実に豊かな体験を深めることを意味しています。問答115は「時と共に益々もって神の生き写しとして、新しく造り変えられる」と告白しています。信仰生活の醍醐味はここにあります。信仰生活は、ただ観念的に妄想し理屈を言うことではないのです。ただ形式的に儀礼を繰り返しているわけでもなくて、「卑しい身体を、キリストの栄光の身体と同じ形に造り変えられ」、「時と共に益々もって神の生き写しとして、新しく造り変えられる」という命の体験の中を、徹底的に生き抜くことを意味します。そうした、いよいよ完成に向かって生きる、という命の営みの中で、私たちは意味ある努力を重ねるのであります。そういう意味で、信仰生活とは、誠に楽しく、希望に溢れた、とても力強い内実を秘めています。以前、義認と聖化というお話をいたしましたが、まさにその「義認」と「聖化」を、私たちのこの身体のうちに、そして命のうえに刻むのであります。そういう日々こそ、今のこの時なのです。日々、聖化の体験を喜び楽しみながら、いよいよ天をめざすのであります。この確かな命の救いという生活の中で、私たちは今を全力を尽くして生きようとしているのであります。

 

この思いますと、未完成だから意味はないのではなく、未完成だからこそ、いよいよ信仰の恵みと力を発揮することができます。この世にあって信仰が深く問い直されて、私たちより深く確かな信仰へと導かれます。この世にあって、愛に破れるときも、人間本性に宿る罪を改めて悔い改めて、新しくされ、再び、愛に向き合うのであります。私たちはこの世にあって、未完成の嘆きではなく、救いの希望と喜びに溢れ、天国をめざして、永遠かつ不断なる「挑戦の場」に誇りをもって遣わされてゆくのであります。

2021年2月7日「神の義にあずかる」 磯部理一郎 牧師

2021.2.7 小金井西ノ台教会 公現後第5主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答113~115

十戒について(11)

第十戒「隣人の家を欲してはならない」

 

 

問113 (司式者)

「第十戒(『隣人の家を欲してはならない』)は、何を言い表しているか。」

答え  (会衆)

「神の掟に背く、どれほど些細な欲望もまた思いも、

もはや二度と私たちの心のうちには起こることはありません

それどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、

あらゆる罪を憎みあらゆる義に至ることを願い求めるべきです。」

 

 

問114 (司式者)

「だが、そのように神に回心した人々は、この戒めを完全に守ることができるか。」

答え  (会衆)

「いいえ。この生涯にある限り、最も聖なる者たちでも、

ただほんの僅かな従順を始めるにすぎません。

しかし聖なる者たちは、掟にただほんの僅かに従うだけではなく、

真剣な意図をもって、すべての神の戒めに従う生涯を生き始めています。」

 

 

問115 (司式者)

「この生涯では誰も守れないのに、なにゆえ神は、それほど厳しく十戒を説教させるのか。」

答え  (会衆)

「第一に、私たちは、自分の全生涯を通して、

自分の罪に汚れた本性を、いよいよ深く認識すればするほど、

いよいよ熱心にキリストにおける罪の赦しと義を、求めるようになるためです。

次いで、私たちは、絶えず努力を重ねて、聖霊の恵みを賜るよう神に請い求め、

時と共に益々もって神の生き写しとして、新しく造り変えられて、

そしてついには、この生涯の後、完全なる完成を達成するためです。」

 

2021.2.7 小金井西ノ台教会 公現後第5主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教53(問答113~115)

説教「神の義にあずかる」

聖書 箴言21章1~31節

フィリピの信徒への手紙3章12~4章1節

 

本日は、いよいよ第十戒に入ります。十戒「隣人の家を欲してはならない」について、ハイデルベルク信仰問答113は「第十戒(『隣人の家を欲してはならない』)は、何を言い表しているか。」と問いまして、「神の掟に背く、どれほど些細な欲望もまた思いも、もはや二度と、私たちの心のうちには起こることはありませんそれどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、あらゆる罪を憎みあらゆる義に至ることを願い求めるべきです。」と答えます。「神の掟に背く、どれほど些細な欲望もまた思いも、もはや二度と私たちの心のうちには起こることはありません。」とありますように、非常に強い確信と覚悟に満ちた信仰告白をもって、神に対して力強く応答しています。罪とはきっぱりと決別する決断から、さらには「それどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、あらゆる罪を憎みあらゆる義に至ることを願い求めるべきです」と告白して、新たに生きる覚悟に漲り溢れた、大きな「方向転換の表明」を表白します。「あらゆる罪を憎み、あらゆる義に至る」という表現は、非常に希望と信念の力に漲り溢れ、とても新鮮で新しい精神の息吹を感じます。意欲的に神の戒めに向かおうとする、強い覚悟、同時にまた、豊かな希望と確信に満ちた信仰告白になっています。一言で言えば、希望と確認の告白です。

 

これまで、第七戒「姦淫してはならない」、第八戒「盗んではならない」、そして第九戒の「偽証してはならない」について、ハイデルベルク信仰問答から解き明かしを受けて来ました。これらに共通する、とても意味深い、そしてまた注意を惹く表現は、前回の問答112で申しますますと、「さまざまな嘘偽りと裏切りのすべては、悪魔の固有な働きとして、激しい神の怒りを拠り所にして、避けて斥ける」という表明です。即ち「激しい神の怒りを拠り所にして、避け斥ける」という表現です。また問答108の答えでは「淫らなことはすべて、神によって弾劾されます。それゆえ、私たちは不貞不倫を心から憎悪します」という告白です。「神によって弾劾されます」と訳しましたが、竹森先生は「神によって呪われる」とお訳しになっておられます。原典の古い用語に忠実に従えば「神によって呪われる」と訳すべき所でした。英語版でも同じです。現代風に訳しますと、「弾劾告発される」或いは「断罪される」となります。つまり、この大きな「方向転換」あるいは「回心」の背景には、「激しい神の怒り」があり、その心は「神の呪い」に向けられています。いわば、神に対する「恐れ(畏れ)」が、告白者の魂のうちに強く生じており、その恐れ(畏れ)から、この回心は生じた、と推測することができます。問答112では、敢えて意図的に「激しい神の怒りを拠り所にして、(罪を)避けて斥ける」と告白しています。どちらかと言えば、神の怒りや呪いをその恐怖心ゆえに消極的にとらえずに、むしろより積極的な信仰心による決断として解釈して、訳しています。神の怒りや呪いを「恐れ」から逃れるために忌み嫌うという意味で、罪を「避ける」のではなくて、反対に、神の怒りや呪いを畏れて、畏怖して、言い換えれば心の底から「尊い」こととして、むしろ正面から積極的に受け入れるという意味で、罪を避ける、罪を回避する。したがって罪を「斥ける」と意訳したわけです。なぜなら、激しい神の怒りを、罪を避ける「拠り所」にしているからです。神の怒りや呪いが、罪を避けて斥ける「拠り所」となっているからです。実は原典には「拠り所」という単語はありません。ただ、激しい神の怒り「に基づいて」(bei)という前置詞があるだけです。しかし、この前置詞には、空間や場所を示すほかに、「認識の根拠」を示す字であります。特に誓いを立てるときに、「~にかけて誓う」と表現して、誓いの根拠を示す字として用いられます。つまり「神の激しい怒りにかけて誓う」と誓いを立てているのです。明らかに、この信仰告白は、神の激しい怒りや呪いを十分認識したうえで、明確な覚悟のもとに、罪を回避し斥ける、とはっきりと言い切り、誓いを立てているのです。つまり「罪を斥ける道筋」となる明白な根拠と確信を秘めて言い表している、と考えられます。しがって、神の呪いや怒りを恐れて逃げ隠れするのではなくて、むしろ反対に、神の呪いや怒りをしっかり正面に見据えて、その呪いをそのまま罪を避ける根拠として、神を畏れ、神を畏怖して、行動決定をしているのです。それどころか、その神の怒りや呪いを拠り所や根拠にして、新しい決断と勇気を得て、方向転換を実現しているのであります。

 

そこで、神は「何」に対して、怒り・呪われるのでしょうか。神の怒りと呪いの対象は、「どこ」に向けられているか、改めて確認したいと思います。その正しい認識をもつことこそ、この回心と方向転換を決定づけているからです。どのような認識に至ったのでしょうか。「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉があります。これは、たとえどれほど「罪」を激しく憎悪し怒りを向けたとしても、かえって「人」を憎まず、愛と憐れみと同情を注ぐ、という意味のようです。言うまでもなく、神の怒りと呪いは、「罪」に対する怒りと呪いであります。「人」に対する怒りや呪いではないはずです。したがって問題の本質は「罪」にあります。罪は、どのようにして、この世に引き起こされたのでしょうか。問答113では「神の掟に背く、どれほど些細な欲望もまた思いも、もはや二度と私たちの心のうちには起こることはありません。」と告白していました。それはただ人間の決意だけを言い表しているだけではないように思われます。神の掟への背きが、どのようにして、私たちのうちに引き起こされるのか、それに対するある確固たる「認識」を持ったのではないでしょうか。その一つが先週触れました問答112の「さまざまな嘘偽りと裏切りのすべては、悪魔の固有な働きである」とする見解です。言い換えれば、神の怒りと呪いは、「悪魔の固有な働き」に向けられていることがよく分かります。人類最初に生まれて来た子カインは、弟アベルへの嫉妬に怒り狂って、弟アベルを殺害しようと企てます。すると、神はカインにこう諭します。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せておりお前を求めるお前はそれを支配せねばならない。」(創世記4章6節)。これはとても意味深い諭しの言葉です。人間はその霊と魂を尽くして、悪と向き合い、善を選択する尊厳をもっているのです。神は人間の霊と魂を信頼して、その魂に向かって、理解を求めます。残念ながら、カインは、「原罪」をアダムとエバから受け継いだままで克服できず、つまり「罪」を支配し治めることはできないまま、怒りと嫉妬に狂い、結局は弟アベルを殺害してしまいます。恐らく私たちも自分のうちに起こる罪を、カインのように、自分の力では支配して治めることはできない、と思います。その結果、神の呪いと怒りを受けることになります。そしてカインのように「4:11 お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる」ことになります。私たち人間の最も深刻で大きな課題は、まさにこの神のみことばに示される通り、「罪は戸口で待ち伏せておりお前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。この神のみことばを聴く、という課題にあります。家庭内で生じる傷害事件から、国家的或いは世界的な戦争に至るまで、結局は罪を根元から支配して治めることができるか、というこの一点にかかって来ます。教理的に申しますと、カトリック教会は、どちらかと言えば、「神の像」はまだ完全に壊れたわけではないので、善を選択しうる、したがって善行は可能である、と教えます。だからこそ、キリストに倣うことで、完成と回復を目指すことができるのだ、と考えます。ところが、私どもプロテスタント教会では、特に宗教改革者たちは、「全的堕落」と言って、アダムとエバの「堕罪」によって、「神の像」は完全に失われてしまったので、善行は不可能である、と考えます。だからこそ、キリストによる愛と恵みが必要であり、その信仰だけが人を救いへと導く、と考えます。いずれにしても、人類は、堕罪によって、人間性の本質が傷つき病んでしまい、罪ゆえに、神の怒りと呪いの中にあります。

 

こうした罪に堕落した人間の前に、ゼカリヤはついに立ち上がり、預言します。「8:13 ユダの家よ、イスラエルの家よ/あなたたちは、かつて諸国の間で呪いとなったが今やわたしが救い出すので/あなたたちは祝福となる恐れてはならない勇気を出すがよい。」とイスラエルの民に預言します。まさに神は、罪に堕落した民を心から痛み、憐れみ、愛している。したがって、このままに放置することはせず、必ずや、わたしが救い出すので、あなたたちは祝福となるので、恐れずに、勇気を出しなさい、と告げたのです。人々は、この預言、この「神のみことば」をついに聴いたのです。

そしてパウロは、この預言をしっかりと受け取るように、ガラテヤの人々にこう告げます。「3:13 キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」(ガラテヤの信徒への手紙3章13節)。ゼカリヤの預言は、ついに「キリストの十字架」において成就し、神の呪いは「十字架の贖罪」において既に回避された、とパウロは説いています。「キリストは、わたしたちのため呪いなって」と記されるように、キリストが、私たちの罪のために、私たちに代わって、神の呪いをご自身に受け一身に担われたのであります。だから、私たちはキリストのおかげで、律法の呪いから既に贖い出された、とパウロは証言します。パウロは、同じガラテヤ書の4章5節でも、「贖い出す」(エクサゴラゾー:evxagora,zw 「買い戻す、贖い出す」)という同じ字を用いて、「4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出してわたしたちを神の子となさるためでした。」と書いています。この、キリストにおける神の呪いと怒りは、物語でも理念でもありません。或いはまた、それを信じる信じないという人間の観念を超えた、実際の出来事であり、まさにユダヤ人たちの眼前でしかもローマ帝国という実際の世界史の中で起こった「世界史的事実」であります。信仰や宗教の違いを超えた「人類史における史実」であります。ユダヤ人も異邦人も人類は皆、人類全体の歴史のただ中に、この「キリストにおける神の呪いと怒り」は既に受けており、人間自身のうちに引き起こされ、担われているのです。それが「キリストの十字架」という神自らが引き起こした贖罪の事件でありました。私たち人類は、神の呪いと怒りの前に、キリストの十字架を持ったのです。

 

つまり、ハイデルベルク信仰問答113の確固たる方向転換の確信となる根拠はここにあったのです。キリストの十字架において、人類は既に神の呪いから贖い出されていることを、いよいよ深く認識したのです。しかも、もはや、人類は、神に背き、神の怒りを受ける者としてではなく、主の十字架を通して、神の愛を受ける「神の子」として、新たにそして大きく導かれているのであります。そこには、神の御前に立つ新しい喜びと希望に満ち溢れています。だから、恐れずに、心から隣人を愛し、全力を尽くして隣人を喜んでよいのです。こうした所から言えば、キリスト教は本質的に楽観主義である、と言えます。

末期癌におかされた友人が、かつて私にこう申しました。「信仰を持つと、とても楽よ!」と、とても平安に満ちた笑顔で語ったのを、私は今でも忘れられません。本当は、神の呪いに発狂するくらい、恐ろしいはずなのに、「ものすごく楽よ!」と言って、笑いながら、自分の死と向き合っている彼女は驚くほど輝いていました。それは、私たち人間が方向転換をしたというよりも、実は、神がキリストの十字架という大きな愛のみわざによって、世界を全く新しくしてくださった、人類は新しくされたのであります。悪魔の誘惑に支配され、罪による死と滅びによる定めを、大きく造り変えてくださったのです。私たちが、「自分の力」で、神の呪いを回避するのではなくて、キリストが「愛と憐れみ」によって神の呪いをご自身にお受けくださった、そのおかげで、神の呪いや怒りを私たちは回避することができた、というのが、正しい言い方かも知れません。キリストご自身が、ご自身の命を代価として支払い、肉を裂き血を流して、神の呪いと怒りを一身に引き受けて下さり、その犠牲により、私たちに向けられるべき神の怒りと呪いは回避され、私たちは、新たに「神の子」として、神のもとに買い戻されたのであります。したがって、神の呪い、或いは神の怒りと言う場合は、そこではいつも、キリストが眼前に現存し、キリストの十字架のお姿が鮮やかに見えているのであります。神の呪いや怒り、それは自分に向けられたものですが、しかしそこにキリストが血を流し肉を裂いて、私たちのために償い、贖ってくださっておられるのです。そのキリストを告白者たちは皆、息をのむようにしてじっと見つめている、のではないでしょうか。十字架につき、血を流しながらも十字架から決して十字架から降りようとはせず、苦しみに耐え抜き、私たちのために執り成しの祈りをささげ続ける、そのキリストの眼差しが、しかも自分に向けられたその眼差しが見えて来ます。そうしたキリストの十字架のお姿を見つめ、私たちの罪に対する神の怒りと呪いとがどれほど激しいものか、いよいよ強く感じられるようになります。しかし告白者たちには、その神の怒りや呪いと共に、キリストのお痛みが、わが身に迫って来るのではないでしょうか。先ほど、末期癌の友人の話をしましたが、キリストの復活も同じです。私たちは、キリストの復活において、復活の新しい人間性のもとに、永遠の命をもって新たに生まれたのです。死と直面しながらも、永遠の命を生きていることを知っているのです。しかもそれを「自分の力」で知るのでもなければ、自分で融通するのでもない。ただ神の恵みにより、すべてを神にお委ねさえすればよいのです。ただキリストの愛と恵みを認めて、信じて受け入れ、主に委ねれば、それでよいのであります。何の心配もなく、明るく元気に、キリストの十字架と復活において、よりよき道をただ前に向かって、感謝と喜びと希望をもって、進めばよいのであります。このように神の恵みを知り、神を信頼して生きることこそ、私たちの罪を斥ける方法であり、結果として「神の呪いを回避する」仕方であり、生き方であります。問答113の「それどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、あらゆる罪を憎みあらゆる義に至ることを願い求めるべきです。」という告白は、そうした希望を率直に言い表しているよう思います。そして迷うことなく、確実に、信仰の道を選択しています。

 

問答114は、こうした方向転換を「神に回心した人々」と呼んでいます。「だが、そのように神に回心した人々は、この戒めを完全に守ることができるか。」とまたしても問い直します。そして、「いいえ。この生涯にある限り、最も聖なる者たちでも、ただほんの僅かな従順を始めるにすぎません。しかし聖なる者たちは、掟にただほんの僅かに従うだけではなく、真剣な意図をもって、すべての神の戒めに従う生涯を生き始めています。」と答えています。この問答で、特にその答え方に、是非、注目していただきたいと思います。問答は、神に回心した人々は、この戒めを完全に守ることができるか、と敢えて踏み込んで、念を押すように、問い直しています。そして、とても正直に、あっけらかんと「いいえ」できません、と答えます。問答113で「もはや二度と私たちの心のうちには起こることはありませんそれどころか、私たちは、全身全霊を尽くして、あらゆる罪を憎み、あらゆる義に至る」と、さっきは言い切っていたのに、問答114でまた「完全に守ることができるのか」と問われると、「いいえ」できません、といとも簡単に答えてしまっています。これをどう説明すればよいのでしょうか。私たちの、今ある姿を、どのように理解すればよいのか、ということになります。今はまだ、終末論的な意味で、まだ完成の終末時に至っていないので、まだ完全な救いは完成できていない、とよく言われます。しかし、同時にまた、既に世界は新しい完成へと向かって益々進んでいます。既に新しくされたが、まだ完成は完了していない、未完成と完成との「中間」の中に、私たちも万物もあるのです。キリストが再臨する、世の終わりと完成を待ち望む中間時にある、ということになります。したがって、互いに希望のもとに励まし合う交わりが、そして互いの罪を告白懺悔して、共に主に赦し請い求める祈りの交わりが、大きな意味を持つのです。そして、「主の祈り」において教えられているように、「われらに罪をおかす者をわれらが赦すごとく、われらの罪をもお赦しください」と祈るのです。だからこそ、新約聖書の人々は、特に、パウロの宣教した教会の人々は、日々「マラナ・タ、Marana-tha」(mara,na qa)と祈り続けていたようです。そうです。もう一つの大切なこと、そしてキリスト教信仰の特徴の一つは、「待ち望む」という信仰態度にあります。この世における自分の矛盾や偽善に見える現実によく耐え忍んで、神の恵みに依り頼んで、「完成の時を待つ」ことも、信仰による態度として、とても大切なことではないでしょうか。希望のもとに、確信をもって、忍耐強く、完成の恵みを待ち望むのです。パウロは「16:20 すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。16:21 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。16:22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。16:23 主イエスの恵みがあなたがたと共にあるように。16:24 わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。」(Ⅰコリント16:22~23)と挨拶を交わしています。この「マラナ・タ」とは、当時流通していたアラム語で「私たちの主は来られた」とも「私たちの主は来られる」とも訳すことができる言葉です。口語訳聖書は「われらの主よ、きたりませ」、新改訳聖書も新共同訳聖書も「主よ、来てください」と其々訳しています。つまり、新しい完成である神の国は既に到来し、その建設は始められている。しかし完全な完成には、まだ至っていないので、早く主が再臨して、完成させてください、という終末論的な祈りであります。パウロの手紙には、再臨を待ち望む祈りと共に、愛による励まし合いの交わりの豊かさが、よく示されています。未完成をどのように耐え忍び、終末をどのように待ち望むのか。未完成だからこそ、互いに心痛め合い、慰め合い、支え合い、励まし合うのです。こうして未完成だからこそ、うめきの中で、予期せぬ「愛の交わり」という恵みも、神はこの世においてお与えくださるのであります。問答114は、こうした「すでに」と「いまだに」という中間に生きる現実を、とても意味深長に言い表し告白しています。「この生涯にある限り最も聖なる者たちでも、ただほんの僅かな従順を始めるにすぎません。」と言い表し、同時にまた「しかし聖なる者たちは、掟にただほんの僅かに従うだけではなく、真剣な意図をもって、すべての神の戒めに従う生涯を生き始めています。」とも告白しています。「ただほんの僅か」であり、しかし同時にまた「すべての神の戒め」を生き始めてもいる、という微妙な表現となっています。この微妙な表現は、信仰経験の実態を示すものであり、聖化体験の実態を言い表すものでもあります。

 

この「マラナ・タ」についてよく話題になることですが、実は聖餐に与るときに、祈られた祈りであります。原始教会の祈りの中核は、キリストの再臨を求める祈りであり、しかもその共同の祈りの場は、聖餐に与る場であった、というのです。つまり信者は皆、口々に「主よ、来たりませ」と祈りながら、主の聖餐に与ったのです。それはただ単に終末論的な時間の問題ではなくて、主の身体、贖罪と復活の身体である聖餐に与ることで、いまだ完成に至らず、というこの「中間の時」を一気に、「永遠の時」へと超え行こうとしたのではないでしょうか。「マラナ・タ(主よ、来たりませ)」と祈りつつ、聖餐に与ることで、一気に地上から「天上の現実」へ、一気に死から「復活」へ、そして一気に「永遠の命」に移ることを祈りの本質としていた、そう祈り求めたのではないかと思います。キリストの十字架による贖罪と、キリストの復活による永遠の命を、私たちに完全に保証してくれる体験の場こそ、聖餐に与る場であったからです。そこで人々は皆、口々に「マラナ・タ(主よ、来たりませ)」祈り続けたのであります。

激しい神の呪いや怒りを前にしつつも、ほんの僅かな一歩ではあるが、すべてを大きく変えてしまう大転換の中で希望と確信に溢れ、そして未完成であっても明るく前を向いて進む、そうした信仰問答における「明るさ」或いは「楽観」主義は、まさにキリストの身体として生きる者の信仰体験から生まれる明るさであり、希望であります。完全ではないにしても、明るく元気に、全身全霊を尽くして、神の戒めと向き合うことができるのです。福音のみことばを聴き、主の十字架と復活のお身体に与る体験の中で、確実に私たちは完成へと導かれる道を歩んでいます。

 

2021年1月31日「偽証してはならない」 磯部理一郎 牧師

2021.1.31 小金井西ノ台教会 公現後第4主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答112

十戒について(10)

 

 

問112 (司式者)

「第九戒(『隣人に関して偽証してはならない』)は、何を言い表しているか。」

答え  (会衆)

「わたしが、誰に対しても、虚偽の証言をせず

誰に対しても、その証言を翻さず

誰に対しても、誹謗中傷する者とならず、

誰に対しても、審問なしに軽率に弾劾に加担せず、

むしろ反対に、さまざまな嘘偽りと裏切りはすべて悪魔の固有な働きとして、

激しい神の怒りを拠り所にして、避けて斥け、

法廷においても、またその他のあらゆる振る舞いにおいても、真実を愛し、

正直に語りかつ告白し、

わたしの力に応じて、さらにわたしの隣人の栄誉と安寧をいよいよ守り、かつ助けることです。」

 

2021.1.31 小金井西ノ台教会 公現後第4主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教55 (問答112)

説教「偽証してはならない」

聖書 申命記5章17~21節

エフェソの信徒への手紙4章17~24節

 

前回は、第八戒「盗んではならない」について、近代現代の世界は「主観化の原理」に基づいて、大きな「盗み」の中にあるのではないか、というお話を致しました。「神の創造の恵み」或いは「神の賜物」という大きな枠の中でこそ、「隣人」がいて、「私たち」もいます。神の創造のみわざの中で、「あなた」もいれば「彼」も「彼女」もいて、「あれやこれ」もあります。「わたし」は、そうした中の一部にすぎません。このような、神・人間・世界という大きな秩序の枠の中で、其々の「関わり」が与えられ、其々の働きが、創造の大きな営みを支えているのであります。

しかし、一部に過ぎない人間が、自己中心となって、世界を「私物化」する、または道具として「自己目的化」することが、「自我欲求」の展開として、引き起こされるとき、そこには違法合法の違いを超えて、大きな盗み合いが生じることになります。それによって、本来の「創造の秩序」すなわち「神の義」が、深刻に傷つけられ病んでしまい、愛は失われ、自己中心的に略奪が始まるのです。そうして争奪戦ともいえる社会や国家の間で、しかもグローバルな形での、世界戦略的な争奪時代の中にあって、どのように私たちは、隣人への愛を実践すればよいのでしょうか。ましてや「自己否定媒介」による他者愛の実現はどうなってしまうのでしょうか。大きな壁、有り体にそしてシリアスに言えば、絶望の淵に立つ思いです。信仰は空想もしくは幻想なのか、という深刻な現実に立ち尽くすことになります。果たして、事実として、私たちはここで希望に溢れることができるのか、それとも絶望するのか、或いは、偽善と空想に生きるか、という選択が迫られるのです。

本日の説教の主題は「嘘をつくな」です。第九の戒めは「隣人に関して偽証してはならない」ですが、詰まる所、「嘘をつくな」ということです。嘘をつかないで生きる人生を、どうすれば、正しく整え直すことができるのでしょうか。言い換えれば、虚偽に生きず、真実に生きる、ということになります。嘘をつかずに、真実に生きるとは、どういうことなのでしょうか。しかも世界の大きな「盗み」の中で、どうすれば、真実に嘘をつかずに、盗みもすることなく、私たちは生きることができるのでしょうか。

 

そこで私たちはハイデルベルク信仰問答にその示唆を求めたいと思います。問答112は、こう宣言告白します。「第九戒(『隣人に関して偽証してはならない』)は、何を言い表しているか。」と問い、答えとしては「わたしが、誰に対しても、虚偽の証言をせず、誰に対しても、その証言を翻さず、誰に対しても、誹謗中傷する者とならず、誰に対しても、審問なしに軽率に弾劾に加担せず、むしろ反対に、悪魔の固有な働きとして、激しい神の怒りを拠り所にして避けて斥け、法廷においても、またその他のあらゆる振る舞いにおいても、真実を愛し、正直に語りかつ告白し、わたしの力に応じて、さらにわたしの隣人の栄誉と安寧をいよいよ守り、かつ助けることです。」と、非常に明解に答えています。「十戒」全体は、まさに禁止命令によって、貫かれていますが、この問答の文章表現も「誰に対しても~しない」という否定構文が特徴です。

内容に入りますと、「嘘をつく、偽証する」という言動を考える場合に、ただ単に国家社会の法廷での偽証だけではなく、「誹謗中傷」などの悪口もまた「偽りの証言」と見なされており、言うなれば、法的偽証から倫理的偽証へと、その意味の視野は広げられています。その真意は「さまざまな嘘偽りと裏切りはすべて、悪魔の固有な働き」であると断定しているところによく現われているように思われます。そこでまず、ここで言う「悪魔の固有な働き」とは、どのような働きなのでしょうか。

創世記3章に蛇が登場します。「3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのはであった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると目が開け神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」とありますように、悪魔(サタン)と解釈される蛇が登場します。神さまが決してしてはいけない、と禁じた命令を、人類と原型となるアダムとエバ、特に女エバが神の掟を破った瞬間です。この時に、悪魔である蛇が、非常に巧妙に、まさに「悪魔の固有な働き」をもって、エバを誘惑する場面です。聖書は、悪魔である蛇を「最も賢い」と表現しても、決して「最も悪い」とは言いません。善悪が決定するのは、人間自身による自由な決断においてです。それは、人間の決断の瞬間に、全と悪が生まれるようでもあります。次に、蛇は「蛇は女に言った」とありますように、エバに「ことば」をもって語りかけます。神と人間の根源的な関係性は「ことば」によって結ばれており、所謂「契約」(約束)における一体性は「ことば」によって担保されます。その「ことば」を、どのように用いるか、という一点に、この誘惑事件はかかっています。ハイデルベルク信仰問答も同じです。「虚偽の証言をせず・・・その証言を翻さず」と告白する通りです。

ところが、悪魔は「ことば」を巧みに用いながら、エバを誘惑し始めます。「どの木からも食べていけない」と神は言われたのかと尋ねます。エバは「園の中央に生えている木の果実」だけはいけないと言った、と答えます。この問答により、エバの心は「園の中央の木の果実」に向けられます。蛇はことばを用いて、中央の果実に、エバの心を誘導したのです。そしてついにトドメを刺します。3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると、目が開け神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」こうして、蛇の虚偽虚言に誘導され、エバの心の中には、新しい意識が呼び起こされます。その新しい意識とは、死ぬことはない、という虚構虚偽の世界が生まれ、さらには虚偽に生きる目が開け、神のように善悪を知る、という今まで考えたこともなかった偽りの自己世界が広がるのです。そしてそこでは、神を主として主なる神のみことばに従う存在から、自分の虚構と虚偽に基づいた判断を、行動決定の基準とするように、新しい意識はエバを動かし、誘導するのです。エバはこの虚偽におる意識誘導によって次第に支配されてゆきます。その中心が「3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け賢くなるように唆していた。」と聖書は言い表しています。意味深長な表現です。中央の木の果実が、恰も唆しているように描写されていますが、エバの意識の中で、明らかに、被造物であり人であり、神との約束関係の中に命を得ている人間であるのに、自分は今や「神のように善悪を知るものとなる」と思い込み、神でないものが神になる幻想と虚偽の世界に堕ちてしまうのです。そう誘惑したのは確かに蛇ですが、その幻想と虚偽を選択したのは人間でした。「おいしそう」「目に引き付ける」「賢くなる」という言葉を明示するように、決定的な点は、神の創造秩序の原理を捨てて、言い換えれば、神に従い万物に仕える他者愛から、主観化の原理に基づく自我欲求によって貫かれる意識へと、180度大転換してしまった所にあります。しかもその転換は巧みなことばによる虚偽によって誘惑され誘導されたのです。まさに「嘘をつく」「嘘に騙される」そしてその両者の中心に、自我欲求を通して実現してしまうのです。その結果、罪が生じ、悪が露呈します。悪魔の固有な働き、すなわち巧みに嘘をつくことで、心は虚偽の世界に堕ち光を失い、暗闇の中での狂乱を余儀なくされるのです。

 

言うまでもなく、ここで最も大切なことは、問答112で「むしろ反対に、悪魔の固有な働きとして、激しい神の怒りを拠り所にして避けて斥け、法廷においても、またその他のあらゆる振る舞いにおいても、真実を愛し正直に語りかつ告白する」ということに尽きるのではないでしょうか。人が「人格」の根底から救われるには、まず「虚偽のことば」から解放されて、「真実なことば」に生きることです。確かに地上の言葉、人間が造り出した言語は、決して完全でも万能でもありません。したがって、言葉による齟齬や誤解を完全に避けることは不可能です。ましてや多種多様な言語と文化の中で、人々は語り告白するのですから、相互において「真実」となる言葉を見出すためには、賢明な努力と忍耐が求められます。そしてまた「人間のことば」の限界性もよく分かるのではないでしょうか。

しかしその真実のことばを、「神のことば」から、学ぶことができます。人々が神のことばに耳を傾け、神のことばの真理そのものである主イエス・キリストに心を向ける中で、語り合い告白し合う「ことば」です。私たちの間に、仲保者キリストが現臨しておられ、その現臨する「キリストのことば」を共に分かち合う中で、たどたどしいながらも、キリストからいただいた「神のことば」によって、お互い間に「真理」が光照らされて、互いに真実を語り真実を尽くし合う、という方向性がうまれて来るのではないでしょうか。悪魔は、ことばを通して、エバに神から離反した所での「自我」を目覚めさせ、自我のための「欲望」として「自我欲求」に光を当てました。すると、エバの心は、自我の欲望に支配される自我欲求奴隷となりました。そして殺しや盗みが始まります。反対に、キリストのことばを通して、私たちの心は「罪」「赦し」「愛」「命」そして「神」へと向けられるのです。虚偽のことばを捨てて、キリストのことばによって、語るのであります。キリスト者が語る語り方、それは、キリストのことばによって、隣人に語りかける「愛のことば」であり「赦しのことば」であります。

教会内での生活には、「この世の言葉」は無用です。教会の中に、この世の言葉が入り込み、教会の人々が、この世の言葉を語り出せば、結局は「蛇の言葉」のように、虚偽の誘惑となって、人々の心を自我欲求を中心にした語り合いへと変質するのではないでしょうか。したがって、教会生活の中で語り合うべき言葉とは、「キリストのことば」だけでよいはずです。それが通じないとすれば、そこには信仰が生きていないから、ではないかと思います。其々の間に、キリストが現臨して生きて働き、キリストのことばが語られていないから、ではないかと思います。絶えず鮮明にキリストのことばが語られているところでは、必ず虚偽の言葉は廃れ、新しい愛と命の言葉が勝利するはずです。本当の愛と希望に生きようとするのであれば、「愛のことば」すなわち「キリストのことば」が語り尽くされねばなりません。

しかし同時にまた、私たちの語る現実のことばは、愛のことばでもなければ、真実なことばでもなく、「偽りのことば」となります。なぜなら私たちは、先ほどの蛇のように「、どうしても自我欲求」と主「観化の原理」に基づいてことばを語る「罪の本性」に支配されているからです。であれば、仮にわたしたちが何らかの形で、真実なことばを語ることができるとすれば、「罪を告白する」ことばであり、「罪の赦しを願い求める」ことばから語り始めなければならない、のではないでしょうか。私たちの語るべき究極のことばとは、「贖罪のことば」であります。贖罪の言葉を語ることで、私たちは初めて自分自身の真実なことばをもつのであります。私たちは罪と虚偽によって支配されており、そのままでは死と滅びに至るばかりですが、キリストの十字架によって罪を認め、罪を告白し、キリストの贖罪によって罪赦され、感謝と喜びのことばを語り、キリストの復活によって新しい希望と未来のことばを語るのであります。だからこそ、問答112は、「わたしの力に応じてさらにわたしの隣人の栄誉と安寧をいよいよ守りかつ助ける」という新しい覚悟と誇りに達するのではないかと思います。隣人愛は、人類にとって大きな壁です。不可能で絶望的と思えるほど大きな壁です。しかし信仰問答が立っている立場の、決定的な特徴は、その他と異なる分岐点は、虚偽のことばを語る空しさ悲しさを本当の意味で深く知っている、だから、もはや虚言に生きることはできない、という鮮明な自覚にあります。自我欲求の自我哲学でもなく、他者を自己展開の道具とする主観化の原理でもなく、そうではなく、やはり自分に可能な限り、力を尽くして、神を愛し隣人を愛する道をゆく、という自己の存在を尽くした決心であり、方向転換であります。

 

では、その「方向転換の道」を生きるには、どうすればよいのか。問答は遠慮せずに、正直率直に「わたしの力に応じて」と告白しています。この「わたしの力に応じて」という言葉は、とても大事な言葉だと、わたくしは考えています。原典は「わたしの力に即して」、「わたしの力に従って」、「わたしの力に沿って」などと訳すことができます。大事な点は、「わたしの力」とは何を意味するか、であります。「わたし」とはだれか、そして「わたしの力」とは何か、その実態を深く見つめ、かつまた「わたしの力」の本質とは何であり、どのように「わたしの力」は成り立っているのか、と徹底して脚下照顧し、「わたしの力」の真相を吟味しなければなりません。私たちは、いったい何をもって、また何処まで、どのように「わたしの力」としているのでしょうか。「わたし」の本当の姿とは何か、と言い換えてもよいでありましょう。

前に、「キリスト者」(Christ, Christian, Christianos「所有格から生じたキリストのもの」の意)ということを学びました。そうです。ここでしっかりと立つべき所は、私たちは「キリストのもの」とされたキリスト者である、という自覚です。この「わたしの力」とは、キリストのものとされたキリスト者としての自覚からのみ、生じる力であります。つまり、神の御子であるイエス・キリストの受肉を通して、その十字架と復活によって、そして昇天において実現されている新しい「わたしの力」であります。そのキリストを身にまとい、キリストを着た「わたしの力」です。キリストのみざわを通して、初めてわたしのうちに働き実現する力です。わたしのうちに注がれる神の恵みと力であります。神さまの恵みを知れば知るほど、その恵みの力は増します。反対に、余り神を信頼せずに、自分の力に頼ろうとすれば、その力は失われ、結局は破綻と偽善に陥るのではないでしょうか。わたしのうちに本当に現してくださる恵みの力をどう認め受け入れるのか、そこでこの力は大きく変わって来るのではないでしょうか。自分の中で、自分がしようとするのではなく、主がなさろうとする恵みの力を数えるのであります。わたしのうちに力強く働いて、神がきっと造り変えてくださる神の創造の力であり、愛と恵みの力です。神がわたしの罪をお赦しくださったのであれば、わたしの中の神は、きっと同じように隣人を愛し、隣人の罪もお赦しになるはずです。わたしのうちに宿る神は、わたしを復活させてくださるのであれば、同じ神の力は、隣人をも復活させてくださるのではないでしょうか。この力を恵みとして、私たちは、わたしのうちにもっているのです。前に、わたしは、聖霊の宿る、神の宮(神殿)である、ということを問答で学びました。わたしの力とは何か、わたしの力の中に、どんな力を見て、どんな力に生かされているか、いよいよ深く知るのであります。そしてついには、わたしの中に働く、わたしのうちに宿る聖霊の力、キリストの愛、そして神の創造の力を知るのであります。そこから、初めて「わたしの力に応じて、さらにわたしの隣人の栄誉と安寧をいよいよ守り、かつ助ける」と告白する、決して「絶望的な不可能」ではない、本当の意味での「希望と力」が、わたしのうちに見えて来るのではないでしょうか。ここに、キリストの受肉の身体である教会の肢体としての、私たちの本当の姿と本質が、まさに、私たちの国籍は「天」にある、とする世にある教会とキリスト者の意味が見えて来るのではないでしょうか。言い換えますと、神の愛と憐れみを知り、その中に生まれ生かされる「わたし」であり、神の愛を認め、神の支えを信頼できるようななった、信仰に生きる「わたしの力」であります。そして何よりも、新しい命の創造のもとで造り変えられている「わたし」である、ということです。

エフェソの信徒への手紙は、「4:21 キリストについて聞きキリストに結ばれ教えられ真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。4:22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、4:23 心の底から新たにされて、4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」と教えています。

 

最後に、問答112で「むしろ反対に、さまざまな嘘偽りと裏切りはすべて、悪魔の固有な働きとして、

激しい神の怒りを拠り所にして、避けて斥ける」と告白している所に注目したいと思います。問答はただ単に「悪魔の固有な働きとして、避けて斥ける」と言わずに、「激しい神の怒りを拠り所にして」とわざわざ、悪魔の働きを回避して斥ける根拠を示しています。前に何度か「神の呪いを回避する」ということについてお話いたしましたが、同じ意味です。神の呪い、言い換えれば、私たちの罪を弾劾告発する神の法廷に、私たちひとりひとりは立たされている、という深刻な自覚です。その神の法廷で求められることは、ありったけの人格的尊厳と自由と誠実を尽くして、自分の罪を告白することです。けれども神の法廷はそれだけでは終わらないのです。そこに神の御子であるキリストが、仲保者として、神の前にお立ちくださるのです。ご自身の肉を裂き血を流して、神の御前で、わたしの罪を完全に償われるのです。そして神の法廷では、古き人の死と新しき人の誕生が宣告されて、新しい神の義に生まれ変えられるのです。その結果、神の法廷で神の激しい怒りは、悪魔の働きへと向かい、神の法廷において悪魔の働きによって生じた罪や悪、死や滅びに対して、キリストの憐れみのゆえに、私たちは徹底的に勝利するのです。「神の怒りを根拠として」とは、そういうことではないでしょうか。だからこそ、私たちは、悪魔の働きを回避し斥けることができる、のではないかと思います。

 

このように問答の解き明かしを受けますと、「大きな壁」が違って見えて来るのではないでしょうか。「大きな壁」とは、熊野先生の総括によれば、近代現代の「主観化の原理」であり「自我哲学」の支配でありました。言い換えれば、世界全体をまた世界の歴史すべてを私物化する「盗み」であり、アダムとエバ依頼の「罪」であります。この罪に勝利して愛と義を回復する、という大きな壁は、キリストの受肉の福音の光のもとでは、果たしてどのよう見えるのでしょうか。むしろ誇りをもって乗り越えゆくべき壁ではないでしょうか。むしろ、二度と盗みをしない、私物化はしない、罪と滅びの支配に逆戻りはしない、という新しい人間としての決断が生まれるのではないかと思います。同じ死ぬのであれば、絶望のもとで死ぬのではない、希望に溢れる中で死ぬのです。たとえ途中で倒れるのであれば、呪いと怨念の中で倒れるのではなくて、愛と赦しのために倒れるのであります。どんなに非力な私たちでも、まず一番最初に、この希望と誇りに生きることはできるのではないでしょうか。