2021年4月4日 復活日礼拝「三日目に死人のうちよりよみがえり」 磯部理一郎先生 牧師

2021.4.4. 小金井西ノ台教会 復活礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答45

「第二部 人間の救いについて ―子なる神について⑺復活―」

 

 

問45 (司式者)

「キリストの『よみがへり』は、どのような恩恵を私たちにもたらすか。」

答え (会衆)

「第一に、キリストは、復活によって、死に打ち勝ちました。その結果、

ご自身の死を通して獲得した(神の)義に私たちを共にあずからせるのです。

第二に、その御力を通して、私たちもまた、今こそ新しい命によみがえるのです。

第三に、キリストの復活は、祝福あふれる私たち自身の復活の確かな保証なのです。」

 

2021.4.4 小金井西ノ台教会 復活日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教61問答45(復活)

聖書 ルカによる福音書24章1~12節(新159頁)

ペトロの手紙一1章3~9節(新428頁)

説教「三日目に死人のうちよりよみがえり」

 

はじめに、わが死は十字架における主の「死」のもとにあり

唐突ながら、加齢のせいか、最近よく朝起きると、自分の「死」について考えることが多くなりました。どのようにして、死を迎えたらよいか、死の準備に、思いをいたすことが、毎日のようにあります。そして死を思い、死について考える度に、主イエスの十字架の死のことを想い起します。永遠の神の御子が、わたしのために、わたしの罪と死を背負って、十字架の上で死なれた、という十字架におけるキリストの「贖罪の死」に、いよいよ思いは深く導かれてまいります。そして十字架のもとに、自分の魂が導かれてまいりますと、わたしの死を主が背負われ担われたという大きな事実を、幾度も思い知らされるのであります。心が十字架に導かれますと、十字架において、既に主イエスと共に持ち去られてしまった「わたしの死」に気付かされます。そう、わたしの死と裁きは、滅びと地獄の運命は、すでに「キリストの十字架における贖罪の死」のもとに、背負われ担われて、持ち去られてしまっている。そして既にそこでは、「罪の償い」と「完全な従順」を十字架の死に至るまでに貫き通してくださった主イエスのおかげで、新しい「神の義」による命の祝福が始められており、死から復活の身体が準備さている、とそう思うのです。それが、十字架における、わたしの死の実態なのだ、と。つまり、キリストの十字架において、「わたしの死」は、既にキリストによってキリストと共に持ち去られたのだから、死の支配の実態を具現化した死体が存在しないのだ。それはまさに聖書の証言する「空虚な墓」のように、死の支配は完全に失われてしまっている、と思わされるのです。なぜなら、死とは、罪による堕落の当然なる結果ですが、それ以上に、死の滅びは、罪に対する神の裁きの結果でもあります。死の苦しみの恐るべき点とは、罪に対する「神の怒り」であり「神の呪い」にあります。罪による堕落も、神の裁きも、そして罪ゆえの神の怒りも呪いも、すべて、キリストが十字架の上で背負い尽くして、私たちのために持ち去られてしまったのです。であるとすれば、罪も死も、そして神の怒りも呪いも、最早、恐れる必要はなくなったのだ、と言わなければなりません。わたしは、ただキリストの十字架のもとに、おればよいのです。わたしの死は、キリストの十字架のもとに既に持ち去れており、既にキリストと共に死んだのだ、といよいよ深く思いをいたします。

 

1.空虚な墓

聖書は「復活」の出来事を証言します。その意味深い点は、主の復活の出来事を「空虚な墓」という現実をもって証言しようとする所です。最初にマルコは「16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ16:1~8)と証言します。次いで、マタイも「28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、28:6 あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」」(マタイ28:5~7)と告げます。そしてルカもまた「24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、24:3 中に入っても主イエスの遺体が見当たらなかった。24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。24:6 あの方はここにはおられない復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(ルカ24:2~7)と伝えています。

共観福音書に依れば、まさに主イエスの死体は存在しない、死体は無くなってしまった、そうした「空虚な墓」を復活証言の原点にして展開します。ルカは「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか」(ルカ24:5)とまで語り、明確に、死の支配や死の世界を具現する「死体」は、既に「空虚」となったのだ、と伝えて、新しい意識の覚醒へと導こうとします。したがって、どうして、生きておられる方を、すなわち「命」を、最早「空虚な墓」となった「死体」の中に捜し求める必要があるのか、「死の世界」にではなく、「永遠の命」の勝利のうちに、捜し求めるべきではないか、というメッセージが暗示されます。十字架におけるキリストの贖罪の死を通して、神の裁きは完了して、否、それ以上に、罪の償いは満たされ、完全永遠なる神への従順は尽くされ、新たに獲得された神の義の勝利のもとに、したがって新しい命の祝福あふれる世界に、万物は誘われ導かれている。それゆえ、心を向け、目を向けるべき世界は、「命の勝利」の世界ではないか、と告げます。つまり、「死」が「身体」を支配する「死体」の世界は、最早、十字架におけるキリストの死において、その実体性を喪失してしまった、という決定的な事実を世界に突きつけ、世に宣言したのです。したがって「死者」を葬る墓の中には、死が身体を支配する「死体」を捜し求めるのではなくて、キリストの死のただ中には、「神の義」の勝利は、安息日のもとに夕暮れと闇夜の中に、すでに内包され隠されていたのではないでしょうか。死んで陰府にくだるという闇に包まれつつも、キリストは十字架の死の贖罪において神の義を獲得して、死に勝利したのです。そして世界には、死んで三日目の朝、キリストにより十字架において完全に死に対して勝利した「神の義」は、キリストにおいて「復活」という新しい人間性の姿をまとって、永遠の命に溢れた「復活体」という新しい身体で具現化され、世に啓示されたのであります。

「死体」のない「空虚な墓」とは、受肉して私たちの人間性を担われた仲保者キリストの完全勝利の宣言であり、「不義」から生じた死に対する「義」の勝利を明らかにする証言であります。その意味から言えば、復活は既に「十字架の死」の内に深く形づくられていたのではないでしょうか。十字架の死の中に復活の本質である神の義は既に実現していた、と言ってもよいのではないでしょうか。「復活の身体」のキリストと、ガリラヤで或いはエルサレムで出会うというメッセージは、まだ目に見ぬ「復活体」のキリストをとてもよく暗示しているように思われます。それはまさに、永遠の義と命の祝福が身体を支配する、勝利の「復活の身体」におけるキリストに、心を向けよ、というのが、この「空虚の墓」が語るメッセージであります。十字架における贖罪の死を成し遂げられた「キリストの身体」、そして神の義と従順を貫き不義による先に勝利した「キリストの身体」は、同じ一つの「キリストの身体」であります。唐突ながら、自分の死に思いを向けるわたしの日常背生活についてお話しましたが、まさに聖書が証言するように、「死体」の世界に心を向けても、そこは、最早「空虚な墓」であって、本当のキリストの身体もなければ、私たちの身体も人間本性の存在しない場所なのです。私たちの人間性と本当の身体は、キリストと共に、十字架と復活のキリストお身体のうちに、永遠の神の義と命のもとに、奪い去られ、移し変えられ、生まれ変わったのであります。

 

2.「身体」による十字架の死とよりがえり

そこで、改めて、主キリストのご復活の勝利を、心よりお喜び申し上げます。イースター、まことにおめでとうございます。主のご復活をお迎えするとき、どうしても忘れてはならないこと、それは、主のご復活は、主の十字架での死と葬りからのご復活である、ということです。しかもその十字架の死と葬りからの主のご復活は、クリスマスの受肉、十字架の死と葬り、陰府への降下、そして復活という一連の出来事は、一串に串刺しするように連続する「主の御身体」における、私たちの人間性を根元から救うための救いである、ということです。主の十字架における死と葬りそして三日目の復活は、神の永遠の御子の受肉した「受肉のお身体」をもって、貫かれ、成し遂げられた出来事です。この十字架と復活とを共に貫き、さらに先取りして言えば、「天に昇り、神の右に座し給う」という一連のみわざは、すべて、同じ「主の身体と魂」によって一貫して串刺しにされるように、貫かれており、そこには常に「キリストのお身体」があるのです。この事実をしっかり覚えておく必要があます。つまり主の復活は単なる「甦り」でも、死なない永遠の命でもないのです。魂が天国に昇って逝った、というのではないのです。人間の死んだ「身体」が、同じ「身体」で勝利救われる「復活の身体」である、ということです。クリスマスの時に受肉したそのお身体をもって、十字架を担い、十字架の裁きのうちに死んで、葬られ、その全く同じ一つの身体をもって、甦り、天に昇られた、というその身体をしっかりと覚えるのでなければ、本当の意味で、主のご復活を祝うことはできない、と思います。

そのキリストのご受難のお身体から、しかも十字架において、槍で刺し貫かれた傷跡と釘打たれた釘跡が痛ましくも残る、そのお身体で、主はご復活を遂げられたのであります。そのお身体には、わたしたちの身体も魂も、そしてわたしたちの死の裁きも償いも皆すべて背負われ担われて、十字架に死んで三日目に復活した「お身体」であります。ハイデルベルク信仰問答を告白する信仰共同体は、決してそのキリストの身体から離れず、その身体と一体となって、今ここで信仰を言い表わしているのではないでしょうか。端的にかつ率直に表現すれば、主イエスの十字架と復活の、そのお身体において、そのお身体と一体となって、そのお身体をわが死とわが復活の身体として、キリストの復活を祝い、キリストの復活を告白して、神に栄光と讃美をささげるのであります。主のご復活が、私たち自身の意味ある勝利となるのは、まさにその「お身体」においてであり、私たちが、キリストのお身体に一体に結ばれているからからであります。

 

3.不従順の罪を満たすキリストの従順と償い

ハイデルベルク信仰問答は、問答45で「キリストの『よみがへり』は、どのような恩恵を私たちにもたらすか。」と、主のご復活の意義について問い、その答えでは「第一に、キリストは、復活によって、死に打ち勝ちました。その結果、ご自身の死を通して獲得した(神の)義に私たちを共にあずからせるのです。第二に、その御力を通して、私たちもまた、今こそ新しい命によみがえるのです。第三に、キリストの復活は、祝福あふれる私たち自身の復活の確かな保証なのです。」と、三つの意義について答えています。まず、第一の意義として「死に打ち勝ちました」と言い表します。

「死に打ち勝つ」とは、どういうことでしょうか。パウロは「15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よお前の勝利はどこにあるのか死よお前のとげはどこにあるのか。」15:56 死のとげは罪であり罪の力は律法です。15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(Ⅰコリント15:52~57)と告げています。ここで注目すべき点は、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と明記する点です。つまり死とは、死のとげである「罪」が律法に基づいて断罪されて、神の裁きの結果として、ついに「死」を迎える、ということになります。罪という堕落と崩壊ゆえに滅びに至るばかりではなく、最終的に罪に対してトドメを刺すのは、律法に基づいて断罪される「神の裁き」である、ということになります。

しかしながら、キリストの十字架における罪の償いとその代価の支払いによって、罪は律法のもとで、既に完全に償い尽くされており、しかもキリストのよる罪の償いは、さらに完全な神への「従順」によって、神の完全な「義」を実現しているので、最早、キリストの人間性を通して、私たちの人間性のうちにある罪は完全に償われ、それどころか、十字架の死に至るまでの、徹底した神への従順が貫かれたことで、完全な義が果たされたので、最早、神の裁きは十分に満たされた、ということになります。それゆえ、罪に対する裁きは、キリストの十字架において、既に完了したので、つまり死はキリストの十字架において既に完了してしまったので、死が生み出し死によってもたらされる死体の世界は消滅したのであります。パウロはさらに、キリストの十字架で成し遂げたみわざについてこう証言しています。「2:6 キリストは、神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。2:9 このため神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6~9)。ここで非常に注目すべき点は、「僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」という2章7,8節の証言にあります。ハイデルベルク信仰問答9は「神の律法を守れるように、神は人間を創造されました。しかし悪魔の唆(そそのか)しにより人間は身勝手に不従順を犯したため、神の賜物を奪われてしまいました。」と、人間の不従順について告白懺悔しています。御子は「人間の不従順」のために、御子の「従順」を神に支払ったのです。キリストの「従順」は、言うまでもなく、「人間の不従順」を満たすために代価として支払うべき「償いの従順」として、成し遂げられました。しかも唯一真の永遠の神の御子であるキリストが、人間の不従順を贖罪するために、完全で永遠の「従順」を支払うのであります。しかも、その支払いは、「十字架の死」に至るまで、極め尽くされた従順の死でありました。「このためゆえに、「神はキリストを高く上げ、あらゆるなにまさるなを与えになりました」。そしてさらに重要な点は、その完全で永遠なる従順を、しかも十字架の死に至るまでの従順を、「僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、に至るまで」支払い尽くしたことです。死を永遠の定めとする人間として支払われたのです。ここに、キリストの十字架の死における義は、私たち人間の、人間本性の本質と根源から、身も魂も、キリストにおいて背負われ担われて、永遠で完全の従順へ導かれる根拠があります。誰も、罪に定め、死をもって裁く者も、またその根拠を失ったのです。その現実こそが、まさに「空虚な墓」であります。キリストの十字架における従順により、「神の義」という新しい命のうちに飲み込まれ、死はその存在を完全に奪われててしまったのであります。したがって、復活の原点は、主キリストの十字架における「贖罪の死」にあり、その十字架の贖罪ゆえに、死の原因である罪もそして神の裁きである完全な死と滅びも、十字架において完全消滅し、神の義による新しい命が芽生え、勝利に至ったということになります。問答45で申しますと、「第一に、キリストは、復活によって死に打ち勝ちました。その結果、ご自身の死を通して獲得した(神の)義に私たちを共にあずからせる」のであります。このキリストの十字架における贖罪に連続直結するようにして、第二に復活の意義として、「今こそ新しい命によみがえる」と告白します。罪に対する勝利の結果、永遠の命の祝福に満たされ、復活に至るのであります。そしてまさにキリストの復活こそが、私たちの復活の根拠となり、証拠となるのです。それは、言うまでもなく、永遠の神の御子が、受肉して、私たち人間と全く同じ人間性を身に纏い、私たちの人間性をそっくりそのままその身に引き受けて背負い、完全な贖罪と復活を果たしてくださったからであります。私たちの死に対する勝利と復活の希望は、まさにキリストのお身体のうちにある、そこに、たちの復活の拠り所があり、保証も根拠もあります。しかも私たちは、そのキリストの身体と一体に結ばれ、養われます。いわば罪ゆえに、死して滅びるべき身体は、永遠の命によみがえる復活の身体となって、新たに創造され出現したのであります。

 

最後に重ねて、十字架と復活の「キリストの身体に与る」意義を覚えて

先週の主のご受難に続き、本日は、その三日目のご復活について、お話をいたしました。大事なことが三つあります。一つは、徹底して十字架の贖罪を正しく知り、十字架による贖罪を自分自身のうちに経験することです。自分の罪を認め、神の怒りと呪いの前に立ち、キリストの十字架上での贖罪を覚え、感謝することです。二つ目は、決して主のご復活は十字架の死と切り離すことができず、むしろ復活は十字架の死の中に芽生えた、ということをしっかりお覚えいただきたいのです。それゆえ、とことん十字架の死の意味を覚え、主の十字架での死をいよいよ深く「共体験する」ことに、復活の芽が生じるのです。そして三つ目は、十字架での贖罪の死も勝利の復活も共に、「キリストの身体」において実現貫徹されいる、という救いの本質であります。したがって、「キリストの身体」のうちに、わたしたちの死の身体も生の身体も共にある、ということであります。そのためには、みことばによる啓示を通して、神の救いの真理、福音の真理を正しく認識すると同時に、もう一つ、決定的に大事なことは、キリストの身体のうち深くに、一体の身体として、私たちの身も魂も飲み込まれるように入れられる、ということです。つまりキリストの身体のうちに、わたしたちの死も命もあるのですから、キリストの身体のうちにいよいよ生まれ、養われ、生きることが大切です。それゆえ、キリストの身体のうちに奥深く生きるための場こそ、キリストの身体に与り続けるという教会の生活に生きること、すなわち信仰をもってみことばを聴き聖餐に与って、正しく礼拝を守り、キリストの身体として豊かに養われることであります。