2021年4月11日「み国を来たらせたまえ」 磯部理一郎 牧師

2021.4.11 小金井西ノ台教会 復活後第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答123

主の祈り(4)

 

 

問123 (司式者)

「第二の祈願は、何か。」

答え  (会衆)

「『み国を来らせたまえ』です。それはすなわち、

あなたがすべてにおいてすべてとなり給う、来たるべきあなたの御国の完成に至るまで、

どうか、御言葉と御霊とを通して、私たちを統べ治め、

私たちが時と共に益々あなたに自らを服従させて、あなたの教会を守り増し加え、

そして、あなたに抗(あらが)って立つ悪魔の働きとそのあらゆる力と、

あなたの聖なるみことばに背く邪悪な企てとを、ことごとく打ち滅ぼしてください

(という祈願です)。」

 

2021.4.11 小金井西ノ台教会 復活後第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答123主の祈り(4)

ハイデルベルク信仰問答講解説教62

説教「み国を来たらせたまえ」

聖書 ヨハネによる福音書18章36~37節

ペトロの手紙二3章8~13節

 

はじめに、神が神とされるように、

本日の説教は、「主の祈り」の第二の祈り「み国を来たらせたまえ」となります。主の祈りの骨子は、神に祈り求める祈願、嘆願です。そこで主イエスは弟子たちに、神に何を祈り求めるべきか、教えられました。それが「主の祈り」です。主イエス自ら弟子たちに教えられたこの「主の祈り」は、6つの嘆願の祈りから、成り立っています。前半は「神」についての嘆願で、後半は「人間」についての嘆願という形式になっています。前半の「神」ついて嘆願は、第一に「御名を崇めさせたまえ」、第二に「み国を来たらせたまえ」、第三に「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」です。これら神についての嘆願は、最初に神の「御名」、次いで神の「み国」、最後に神の「御心」について、祈り求められます。すべて神さまのことを中心に覚え、神さまのために嘆願する祈りです。祈りで最も大切なことは何か。それは、神さまのことに心を向け、神さまが祈りの中心になることです。そうでないと、祈りそれ自体が祈りでなってしまうからです。私たちは、いつもは「自分」のことを中心に考えて、必要なものや自分の希望することを願い求めます。しかし、それでは、本質から「神」に祈るのではなく、自分の欲求を述べるにとどまってしまいます。「主の祈り」では、最初に神の御名が崇められますように、と神さまのことを中心に覚えて、祈り求めています。私たちが祈り求めるもの、それは、まず神さまが私たちの中心におられ、中心となることです。神の御名が崇められますように、と祈ることで、私たちは、神に対して神の御前で、自己放棄を宣言して、神が自分の中心にあることを意志表明するのです。自分の欲求に耳を傾けるのではなくて、神さまの御名の栄光のために、祈りはあります。そのためには、祈る自分が、まず神を中心に、神を「主」とする者となる、のでなければなりません。そして最終的には、自分と神との関係では、自分は捨てて、神が自分を完全に支配する「主」となり、神を主なる神として、お迎えするのであります。まずわたし自身の中で、神が神となる、のです。自分が神のように中心にあり続けるのではなくて、徹底的に神が「わたしの主なる神となる」ように祈り求めること、それが祈りの本質です。自分はその神を主として徹底して付き従う者にならせてください、と願い求めるのであります。それによってはじめて、本当の意味で、神を主として正しく拝むことができるようになり、みことばは「神のことば」となり、正しく聞き分ける環境が整えられるのです。実際は少しずつゆっくりではありますが、段々と神の御心がリアルに分かるようになります。神の御心が分かるようになればなるほど、いよいよ神の御名を崇められる感謝と喜びも深まり、益々神のみわざが神のご主権をもって行われて、神のご支配が確かに打ち立てられる現実に、内面からのまた言動においても、いよいよ生き生きと生きることができるようになります。

 

1.「み国を来たらせたまえ」の「み国」とは

今日の第二の祈りは「御国を来たらせたまえ」という嘆願です。マタイによる福音書6章10節もルカによる福音書11章2節も全くの同一文で「6:10 御国が来ますように(evlqe,tw h` basilei,a sou)。」と記しています。直訳すれば「あなたの御国が来ますように」となります。この「御国」と訳されたギリシャ語原典の字は「バシレイア」という言葉で、本来の意味は「支配」或いは「統治」を意味する字です。したがって「あなたの御国が来ますように」とは、神が私たちの心や身体の内に、そして私たちの交わりのうちに、神が全権をもって完全に支配権を打ち立て、ご支配し統治してください、ということを意味します。ただ神お独りが、唯一真の神が「わたしの主」となって、わたしの心と身体の全身を、そして人生のすべてをご支配くださり、永遠の命の祝福と愛と憐れみと正義と公正とをもって統べ治めてください、と嘆願するのであります。それが、あなたの御国が来る、という現実です。何か私たちの思い描く理想郷や希望が叶う極楽浄土のようなものを願い求めることではないのです。わたしたち人間の理想や希望を、ましてや欲しいものを願い求める祈りではないのです。祈りにおいて願い求めることは、まず神がわたしの神となりわたしの主となってくださって、わたしの人生のすべてを、そしてこの世界の隅々に至るまで、完全な神のご支配を打ち立てて、統べ治められることであります。マタイは、この神によるご支配と統治の場を「天国」と呼びました。

ハイデルベルク信仰問答123は「第二の祈願は、何か。」と問いまして、「『み国を来たらせたまえ』です。それはすなわち、あなたがすべてにおいてすべてとなり給う、来たるべきあなたの御国の完成の至るまで、どうか、みことばと御霊を通して私たちを統べ治め、私たちが時と共に益々あなたに自らを服従させあなたの教会を守り増し加え、あなたに抗(あらが)って立つ悪魔の働きとそのあらゆる力と、あなたの聖なるみことばに背く邪悪な企てを、ことごとく打ち滅ぼしてください(という祈願です)。」と告白します。ハイデルベルク信仰問答が、とても意味深いことは、この第二の祈りにおいて、「みことばと御霊を通して私たちを統べ治めてくださいますように、そして時と共に益々あなたに自らを服従させてください」と真っ先に祈り求めていることです。何よりも最も大切こととして、わたしたち自身の内面から、深くそして隅々に至るまで、聖書のみことばと聖霊の働きを通して、確実に、神によって統べ治められてゆくことを祈り求めていることです。そしてさらに、問答123は、さらに徹底して、私たち自身が自らをあなたに服従させてください、と祈ります。私たちの理想や希望が叶うとか、叶わないとかいうのではなくて、まず何よりもいの一番に、日々益々もって、わたし自身が自らをあなたに服従させることを心の底から祈り求め、しかもそのためには、どうか、みことばの解き明かしを通して聖霊が働いてください、と祈るのです。ここに宗教改革の精神を根本に据えた、聖書の信仰と信仰義認をうかがわせる福音主義教会の祈りを見ることができます。何よりも、このわたしが神に従う者とならせてください、と祈り求め、そのためには、どうしても聖書のみことばの解き明かしと聖霊の力が必要なのです、という祈っています。あなたの御国が来ますように、と神の国の到来を祈る、その御国が真っ先に到来する場所は、他でもない、このわたしの心と身体において、そしてこの私の信仰において、神のご支配が打ち立てられることを、最も熱心に嘆願する祈りであります。

 

2.三つの祈りの主題 ―神に自分を服従させること・教会を守ること・悪魔に勝利すること―

次いで問答123は「御国を来たらせたまえ」という祈りにおいて三つのことを特に覚えて祈り求めます。一つは、今話しましたように、私たち自身がまず自らをいよいよ神に服従させること、そしてそのためには、主が、みことばと聖霊を通して、わたしたちの魂と信仰のうちに、神のご支配と統治とを確立してください、と祈り求めることでした。二つ目は「教会」のための祈りです。問答は「あなたの教会を守り増し加える」ようにと嘆願します。人間の食物や人間の生活のことを祈る前に、教会が守られ、益々増し加えられることを、神のご支配の次に願い求めています。そして三つ目に「あなたに抗(あらが)って立つ悪魔の働きそのあらゆる力と、あなたの聖なるみことばに背く邪悪な企てを、ことごとく打ち滅ぼしてください」と祈ります。このように「御国を来たらせたまえ」という第二の祈りを、より丁寧に見てまいりますと、そこには、ある決定的な「信仰の秩序」が見えてきます。第一の秩序は、神がわたしたちを支配し、私たち自身から自らを神に完全服従させること、第二は、教会を守り、教会を成長させること、そして第三に、悪魔とその支配に勝利することです。そうでないと、神がすべてにおいてすべてとなり給う御国は来ないのだ、ということになりそうです。ペトロは、その手紙二3章9節で「3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」と諭しています。いわば、神が私たちに一番求めておられることは信仰である、ということがよく分かるのではないでしょうか。万物が完全に神を「主なる神」として服従すること、そしてその結果、信仰の交わりであり、信仰による共同体として、教会が生まれ立てられて、教会を守り、教会を増し加えることが求められます。そして信仰が、悪魔の働きに勝利することこそ、神が最も私たちに求めておられることではないでしょうか。言わば、私たちはみことばと聖霊の働きに導かれつつ、信仰において勝利するとき、本当の意味で、私たちはの平和と安息は保障され確保されるのであります。信仰とその勝利は、みことばと聖霊を通して働く、神のご支配の賜物であり勝利の恵みであります

 

3.教会とわたしたち

神の国とは「神の支配」を意味し、神の国の完成は、私たち人類を初めとする万物が、神を「主」として、服従することから始まります。言い換えれば、神がすべてにおいてすべての神となられ、神の愛と憐れみ、正義と公正、そして永遠の命と無限の祝福がすべてにおいて溢れて充満することを意味します。ハイデルベルク信仰問答123は、まずこの豊かで力強い命に溢れた神の国の到来を祈り求めるのですが、そのためには、まず私たち自身から、みことばと聖霊を通して、造り変えられて、神のものとされることが大切です。自らを益々神に服従させることです。しかもその服従の一番の目的と方向性は、問答123によれば「あなたの教会を守り増し加える」働きに向けられています。この教会に向かう服従の信仰から、私たちは、もう一つ、御国の到来をめぐる重要な神のご計画に触れることになります。それは、この世を生きる目的は、具体的に言えば、教会をつくり、教会を立て、教会を形成することに方向づけられている、ということです。言い換えれば、どうすれば、教会を守り、増し加えられるようになるのか、神の教会を形成することに向かって、私たち自身がみことばを通して絶えず造り変えられ、聖霊を通して自らを服従させるのであります。ハイデルベルク信仰問答は、このように非常にはっきりと、教会を立ててゆくための信仰告白となっています。つまり宗教改革の本質は、真の教会を立てるための闘いであった、ということが、こうした告白からよく分かるのではないでしょうか。

言うまでもないことですが、私たちは今、宗教改革の信仰告白を「現代」という時代において読み、受け取ろうとしています。宗教改革から現代に至るまでには、多くの時代の変遷がありました。私たちは宗教改革時代を生きる者ではありません。私たちはあくまでも現代という時代に生き、現代からハイデルベルク信仰問答を読み、何らかの形で受け取り、継承しようとする者です。宗教改革の教会は、現代に至るまで大きく揺れ動き、時代の嵐の中で翻弄され、ある意味では痛み傷つき、満身創痍で今日という岸辺に辿り着いた、と申し上げてよいでありましょう。宗教改革の時代が終わると、メランヒトンやカルヴァンの教理を初め、数々の信仰告白が生み出されて、プロテスタント正統主義の時代を迎え、敬虔主義や啓蒙主義などの時代を経て、しかも近代国家の成立や世界大戦を経験し、教会はいわば満身創痍の姿で、今日を迎えました。分けてもその決定的な問題として、信仰は、その本質とそのあり方において、「教会」の公同的な信仰から、「わたし」の個人的信仰へと大きく転換し、救いの概念も大きくヒューマニズムに依存するようになりました。熊野先生の言葉で言えば、「自我の原理」による支配です。わたしたちは「自分」のために信仰をもち、「自分」のために教会生活を守るようになりました。時には、自分の利害と教会の目的とが互いに矛盾し互いに背反し合うことも起こります。個人主義的な「わたし」という次元と、公同の「教会」という次元で、一致や調和が非常に難しい選択となりました。

そこで改めて、ハイデルベルク信仰問答123は、聖霊の働きとみことばの導きの中で、私たち自身が自らを益々神に服従させて、教会を守ること、教会を増し加えるように、祈り求めなさい、と現代に訴え、私たち現代人に教えます。誤解しないようにしていただきたいのですが、問答は、ただ形式的にまた権威主義的に命令し、自分を殺して教会に仕えよ、と言っているわけではありません。大切な点は、あくまでも「みことばと聖霊を通して、時と共に益々」と告白している所にあります。わたしたち自身もそして教会も、すべては「みことば」と「聖霊」の導きの中にあるのだ、ということになるのではないでしょうか。したがって現代こそ、益々もって「みことば」と「聖霊の働き」に集中しなければならない時代なのです。みことばをいよいよ深く厳密に聞き分けるべき時代なのです。どう聞き分けるべきなのか、そこには、謙遜かつ慎重にそして根気強い祈りが求められます。

改革長老教会の特徴を、信仰告白の視点から申しますと、それは、其々の時代に応じた相応しい信仰告白を生み出してきた、ということにあります。言い換えますと、信仰告白を「未来」に向けて閉じてしまうのではなくて、信仰告白を未来に向かって、つまり「終末」に向かってその扉を開き続けている、ということにあります。ルター派はその可能性を閉じてしまいましたが、改革長老教会は、「終末」に向かうために、必要な信仰告白を未来に向けてまた現代のために、さらに新しく生み出すことを容認したのです。ここには、とても大きな意味があります。時代に応じて、言い換えれば、終末に向かうべき其々の時代の中で、みことばをより深く確かに聴き分け、聖霊の導きをいよいよ豊かにいただき、自分たちの信仰を吟味し続けるのであります。そうした神の照明に照らされる中でこそ、進むべき道筋は明らかになります。それこそ、「あなたに抗(あらが)って立つ悪魔の働きとそのあらゆる力と、あなたの聖なるみことばに背く邪悪な企てを、ことごとく打ち滅ぼしてください」という祈りは、まさにこのみことばと聖霊による導きそのものにあります。

 

4.祈りと終末

この問答の文章構成で、ドイツ語原典から日本語に翻訳する段階で難しいのは「語順」をいかに生かすか、にありました。日本語には「前置詞」用法がありませんので、文末末尾の前置詞句を翻訳ではそのまま末尾にもって来れませんので、どうしても前に出して文頭に持って来る場合が多くなります。「あなたの御国の完成まで」という文末の前置詞bisで導かれる前置詞句です。ドイツ語原典は文全体の末尾にあり、文全体を時間的に制約する副詞的な働きで、文全体を修飾しています。この文末末尾の大きな前置詞句を、日本語訳では仕方なく文頭にもって来て「あなたがすべてにおいてすべてとなり給う、来るべきあなたの御国の完成に至るまで」と訳しました。詳細は、末尾の前置詞句「到来すべきあなたの御国の完成までは」という句を受けて、さらにまた , darin(その中で)に導かれるもう一つの節、即ち「(あなたが到来すべき御国の完成まで)、それにおいてこそ、あなたはすべてにおいてすべてとなります」と後に続きます。その結果、この長い前置詞句を、付属する節も含めて丸ごと、文頭で文全体を制約するようにもって来ると、という訳になりました。これに対して、竹森先生は、どちらかと言えば、前置詞句であるbis die Vollkommenheit~(~完成まで)という言葉を中心に意訳されて、「かくて、あなたが、すべてのすべてとなる、み国の完成をきたらせて下さい」とお訳しになっています。つまり「あなたの御国の完成まで」という前置詞句が、文全体を覆って制約しているため、本文全体の「締めくくり」となるように、敢えて「み国の完成をきたらせて下さい」とお訳しなったのではないか、と思われます。むしろ、こちらの方が、直訳するより、本来の意志や意味をよく伝えているのではないかと思います。

なぜこのように翻訳について、わざわざ触れるのかと言いますと、その理由は、いずれにしても、この祈りの本文全体が、この時を示す前置詞句によって、枠づけされている、ということに注目したいからです。祈りの内容が、一定の時間的条件のもとに、制約されるのです。「御国の完成まで」という時間的制約のもとに、祈りの内容と本質は性格づけられます。ここに、祈りの本質があることに、気づかされます。つまり私たちが祈る「祈り」とは、本質的に「終末論」的なのです。終末論的制約というと、分かりづらいかも知れませんが、私たちは今、時や場の時空による制約の中で、また物理的な条件に支配されて生きています。しかし同時にまた、そうした時空や物理的な制約を完全に超えた永遠の完成を前提としている、ということです。その永遠の完成を大前提として信頼できる唯一の場こそ、祈りの場である、ということになるのではないかと思います。つまりこの祈りにおいて、一方で物理的時間的な現実と向かい合い、他方で時空を超えた永遠と向かい合い、そしてそのどちらか片方にではなく、そのいずれにおいても、したがって両方においてしかも同時に、私たちは身をおくのです。天と地の其々の本質を同時に生きています。矛盾し緊張する両者の中を、そしてその間を同時に生きるのです。単なる現世現実主義でもなければ、単なる理想空想主義でもない。質的に根本から相反し緊張し合う狭間に、この世とあの世の終末論的現実に生きている、それが、私たちの本当の「生のリアル」であります。そうした条件的制約や緊張の中で「祈る」すなわち信仰者としての生を生きるのであります。

終末論eschatologyとは、ギリシャ語のeschaton「終焉」「終わり」とlogos「教説」から成る複合語です。ただ、とても大事な点は「終わり」において「永遠」を知る、「永遠の完成」において「終わり」を知るのです。「祈り」において、「終わり」とそして全く異質である「永遠の完成」を同時に知り、また同時にその緊張する中を生き、体験することになります。つまりわたしという中で、祈りを通して、終わりと永遠とがそれぞれに生起している、という体験であります。緊張し合う「古い人間性」と「新しい人間性」が同時に生き死にをする体験です。一方で何かが完全に終わり、他方で何かが完全に永遠となるのです。「御国の完成の到来まで」、唯一キリスト者として通用する行為が「祈り」なのです。どんな実践や行動よりも、「祈り」においてこそ、「終末」を先取りして、現代を乗り越え、神の国を生きることができる、ということになるのではないでしょうか。祈りにおいてこど、永遠の御国は、現代のただ中に、このわたしのただ中に、その真相を明らかにするのであります。私たちは、この「主の祈り」においてこそ、この世と時間の枠組みの中にある制約を乗り越えて、永遠の完成である神の国へと超越することができる、と言ってもよいのではないでしょうか。垂直的に言い表せば、祈りにおいて、天地は一体に直結され、水平的に言い表せば、祈りにおいて、過去・現在・未来という時間経過は永遠と一体に直結されるのであります。その不思議な隠された神秘を、私たちは祈りにおいて、リアルに体験し知るのであります。

 

5.主キリストによる「主の祈り」

このように、主の祈りは「終末の完成」を先取りし、この世の時の枠を越え、永遠の神のみ国に生きる道を示します。私たちは、この主の祈りを通して、天と地の間を行き来することになります。しかしそれだけではなく、前にも触れましたように、主の祈りは、私たちが祈る祈りである前に、魂と肉体をマリアより受け継ぎ、私たちの人間性を完全に背負って仲保者として祈る、受肉者キリストの祈りでもあります。キリストの霊と身体のうちに、キリストと共に一体となって、キリストの祈りをわたしたちは祈っているのです。主の祈りを始めるときに、「われらの父よ」と神を呼び求めて祈ることからもよく分かります。時代の嵐の中で満身創痍となった教会は、その傷と痛みを十字架において満身創痍となったキリストの身体のうちに見出すのであります。時代の中で変わる地上の教会を、三日目に復活を遂げ、天に昇り、永遠に天の父の右ににあって、完全勝利を成し遂げられたキリストは、今もご自身の身体として、その身体のうちに私たちのすべてを背負って、歴史を旅しておられるのであります。