「Sermon on Worship」カテゴリーアーカイブ

説教 2020年8月30日 動画 「聖霊と信仰により、主の一つの霊と生命と身体となる」磯部理一郎 牧師

 

マルコによる福音書:10章14~22

コリントの信徒への手紙一:10章14~22

ハイデルベルク信仰問答:75~77

 

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第13~15主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』75~77(翻訳一部訂正版)

イエス・キリストの聖晩餐について(1)

 

 

問75 (司式者)

「どうしてあなたは、聖晩餐において、キリストによる十字架での唯一つの犠牲奉献の恩恵にあずかり、

またその共同体の交わりの恩恵にあずかる、と確信し断言するのか。」

答え (会衆)

「こう(確信し断言します)。キリストは、わたしとすべての信じる者に、キリストの記念のために、

この裂かれたパンから食べ、この杯から飲め、と命じられそこで約束されました。

それにより明らかなことは、第一に、

キリストの身体が、確かにわたしのために代わって十字架でいけにえとして献げられ砕かれたこと、

キリストの血が、わたしのために代わって流されたことです。

それは、まさにわたしが肉眼で、主のパンがわたしのために砕かれ、

杯がわたしのために分け与えられるのを見るように、確かなことです。

第二に(明らかなことは)、

キリストはご自身から、確かにわたしの魂のために永遠の生命に至るまで、

十字架につけられた身体をもって食べさせ、流された血をもって飲ませてくださることです。

それは、まさにわたしが聖晩餐の奉仕者から、

キリストの身体と血の記念のしるしとして分け与えられたパンと杯とを受けて、

身体として食べて味わうように、それほど確かなことです。」

 

 

問76 (司式者)

「十字架につけられた主キリストの身体を食べ、その流された血を飲むとは、どういうことか。」

答え (会衆)

「ただ単に心からの信仰を通して、キリストのあらゆる苦難と死を受け入れるだけでなく、

むしろそれに加えて、聖霊を通して、キリストの死による罪の赦し永遠の生命あずかり

益々堅く確かに主の祝福された身体に結ばれて一体とされるのです。

聖霊は、キリストの内に住み、同じ時と場を貫いて私たちの内にも住み給うからです。

したがって、主は天におられ、私たちは地にあろうとも、それにもかかわらず、

(一つの霊によって、私たちの手足が一つの身体として支配されるように)

一つの御霊によって、私たちはキリストの肉の肉キリストの骨の骨とされ

永遠に生き、そして統べ治められるのです。」

 

 

問77 (司式者)

「キリストは、ご自身の裂かれたパンから食べさせ、ご自身の杯から飲ませるように、

それほど確かに信じる者のためにご自身の身体を食べさせ血を飲ませてくださいます。

キリストはそれをどこで約束しておられるか。」

答え (会衆)

「聖なる晩餐の制定において、こう記されます。『主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「取って食べなさい。」「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。』

またこの約束は、聖パウロによって、繰り返し語られます。『わたしたちが神を讃美する聖餐の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。』

説教:2020年9月6日 動画 「聖餐に与り、復活のいのちに養われる」磯部理一郎 牧師

 

出エジプト記:24章~3~8

ルカによる福音書:24章28~35

ハイデルベルク信仰問答:75~77

 

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第13~15主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』75~77(翻訳一部訂正版)

イエス・キリストの聖晩餐について(1)

 

問75 (司式者)

「どうしてあなたは、聖晩餐において、キリストによる十字架での唯一つの犠牲奉献の恩恵にあずかり、

またその共同体の交わりの恩恵にあずかる、と確信し断言するのか。」

答え (会衆)

「こう(確信し断言します)。キリストは、わたしとすべての信じる者に、キリストの記念のために、

この裂かれたパンから食べ、この杯から飲め、と命じられそこで約束されました。

それにより明らかなことは、第一に、

キリストの身体が、確かにわたしのために代わって十字架でいけにえとして献げられ砕かれたこと、

キリストの血が、わたしのために代わって流されたことです。

それは、まさにわたしが肉眼で、主のパンがわたしのために砕かれ、

杯がわたしのために分け与えられるのを見るように、確かなことです。

第二に(明らかなことは)、

キリストはご自身から、確かにわたしの魂のために永遠の生命に至るまで、

十字架につけられた身体をもって食べさせ、流された血をもって飲ませてくださることです。

それは、まさにわたしが聖晩餐の奉仕者から、

キリストの身体と血の記念のしるしとして分け与えられたパンと杯とを受けて、

身体として食べて味わうように、それほど確かなことです。」

 

 

問76 (司式者)

「十字架につけられた主キリストの身体を食べ、その流された血を飲むとは、どういうことか。」

答え (会衆)

「ただ単に心からの信仰を通して、キリストのあらゆる苦難と死を受け入れるだけでなく、

むしろそれに加えて、聖霊を通して、キリストの死による罪の赦し永遠の生命あずかり

益々堅く確かに主の祝福された身体に結ばれて一体とされるのです。

聖霊は、キリストの内に住み、同じ時と場を貫いて私たちの内にも住み給うからです。

したがって、主は天におられ、私たちは地にあろうとも、それにもかかわらず、

(一つの霊によって、私たちの手足が一つの身体として支配されるように)

一つの御霊によって、私たちはキリストの肉の肉キリストの骨の骨とされ

永遠に生き、そして統べ治められるのです。」

 

 

問77 (司式者)

「キリストは、ご自身の裂かれたパンから食べさせ、ご自身の杯から飲ませるように、

それほど確かに信じる者のためにご自身の身体を食べさせ血を飲ませてくださいます。

キリストはそれをどこで約束しておられるか。」

答え (会衆)

「聖なる晩餐の制定において、こう記されます。『主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「取って食べなさい。」「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。』

またこの約束は、聖パウロによって、繰り返し語られます。『わたしたちが神を讃美する聖餐の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。』

 

説教:2020年9月20日 動画「パンを食べ・ぶどう酒を飲み、主の真の身体に与る」磯部理一郎 牧師

 

ヨハネによる福音書:6章47~59

コリントの信徒への手紙一:11章16~34

ハイデルベルク信仰問答:78~79

 

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第17主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』78~79

イエス・キリストの聖晩餐について(2)

 

 

問78 (司式者)

「では、キリストの身体と血の本質は、パンとぶどう酒から生じるのか。」

答え (会衆)

「いいえ。洗礼の水が、キリストの血に変化せず、罪それ自体を洗い流さないように、

それは、ただ神による記念と保証のしるしです。

同じように、聖晩餐で聖別されたパンも、キリストの身体それ自体に変化することはありません。

ただ、それは、聖礼典の性質と慣例に基づいて、キリストの身体である、と言われます。」

 

 

問79 (司式者)

「では、なぜキリストは、パンを『わたしの体』と呼び、

杯を『わたしの血、新しい契約の血』である、と言われたのか。

また、なぜ聖パウロは『キリストの体と血にあずかる』と言ったのか。」

答え (会衆)

「重要な理由があり、キリストは言われるのです。

パンとぶどう酒がこの世の生命を養うように、

十字架につけられたキリストの身体と流された血は、

永遠の生命に至らしめる、私たちの魂の、真(まこと)の食べ物と飲み物だからです。

しかしキリストは、ただそう教えられるだけではないのです。

キリストは、この目に見えるしるしと保証を通して、むしろ確約しておられるのです。

私たちが、肉の口でキリストの記念として、この聖なる記念のしるしを受けるとき、

キリストは、聖霊の働きを通して実際にご自身の真の身体と血とに私たちをあずからせるのです。

それはまさに、私たちが、自分自身の人間性において、ありとあらゆる苦難に悶え苦しみ、

完全に罪の償いを果たし尽くしたかのように、それほど確かに

キリストご自身の苦難と従順のすべてが、私たち自身のものとなるのです。」

説教題:「呼び集めてくださるイエスさま」

旧約聖書:出エジプト記 19章1~6 節
新約聖書:マルコによる福音書 3章13~19節
説教題:「呼び集めてくださるイエスさま」
讃美歌(説教後):讃美歌 1-517番
(説教者:青戸宏史牧師)

イエスさまは、父なる神さまのもとから派遣された方であります。派遣・誕生されることによって。神さまの方から「神は我々と共におられる」という事が実現したのです。そのイエスさまがメシア・救い主として語られた最初の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1・14)と言う宣言、言葉でした。

私たちにとって、今の時は「・・今や、恵の時、今こそ、救いの日。」(コリント二6・2)と言われます。私たちは「救いの到来・実現」の中を歩いて、生活しているのであります。

今朝は、最初の主イエスの弟子・最初の教会と言ってもいいでありましょう。そこに起きた「主の招き」、その使命について、私たちもその招き、使命の中にあることを覚えつつ御言葉に聞きたいと思います。

わたしもそうでありますが、皆さんの中にも経験されたことがあるでしょう。多くの人の中にいながら、誰からも声をかけられることなく、一人ぼっち、孤独の中に置かれて寂しさを味わったことがないでしょう。そんな時、誰かが近づき声をかけ、尚、名前を呼ばれ、話しかけられる時の喜びを思い出される事がないでしょか。

イエスさまというお方は、私たちを友として、たえず御自分の方から尋ね求め下さる方であります。

13節.「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。」とあります。

主イエスは「これと思う人々を呼び寄せられた」のであります。ここには選び、主は御自身の自由に基づいて選ばれるかたでありますます。その選びには特別な「御意志」があるのです。「呼び寄せられた」と言う言葉の意味は「欲した」と言うことであります。主イエスの方から「欲して」選び、御自身の下に、側に招かれたのです。今礼拝している私たちも主に招かれた一人ひとりであります。しかもその「招き」、主の下に呼び寄せられたという出来事は、特別の関係を意味する出来事であります。ギリシャ語には「不定過去(アオリスト)時制」というのがあります。「呼び寄せられた:欲して」がその時制が用いられているのです。主イエスによって起きた出来事は、一回限りの永遠の出来事を示しているのです。一度限りの決してし忘れられない「神との契約」、関係を表しているのです。人間の側では、忘れてしまっても、その関係は真実な神様にとっては、永遠の出来事なのです。

14節で「12人を任命した」と訳されていますが、「任命」と言う言葉は、もともとは「作る」と言う意味の言葉です。翻訳している聖書の中には「メイク」と言う言葉をあてはめています。主イエスは「12人を作った」と、直訳するとそのようになりますが、決して12人人間を造り出したと言うことではありません。しかし、まるでそのように「新しい存在」として、12人をお造りになった。そこには、神の創造の働き、活動は活発になされたことが示されています。「任命する」と言う場合、目的なしに、任命することはありません。必ず、特別な使命と、任命された者が、その使命に相応しい、「新しい存在」になることを期待し、目的とするのです。

新しい、主キリストを中心とする「新しい契約に基づく共同体(教会)」の創造と言えるのではないでしょうか。

「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると・・」あります。山は聖書では特別な場所で、「聖なる場所」、「祈りの場所」、「神の御心を聞き、示される」場所であります。出エジブト記19章に、モーセも山の上で神と相対して「新しい使命」を受け止めています。6節「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」とあります。主イエスは「新しい共同体」として、12人を選ばれたのですが、その12と言う数を、モーセに語られた「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」の言葉を背景にして考えますと、モーセが率いていた民、神の民、イスラエル、ユダヤの人々は、12部族から自分たちは成り立っていると考えていました。実際に歴史を見ますと、そういう組織を持っていました。

(祖先アブラハムに始まり、イサク、ヤコブ・3代目のヤコブに子どもが12人いて、この12人の子どもを基礎にして、12部族が生まれてきたのであります。)

主イエスは、父なる神の御心によって、示された約束を実現される方であります。預言の成就者、完成者であられ、「古い契約」を完成され「新しい契約」に生きる群れ・共同体を御造りになるのです。それが、主イエスを入れて13人です。しかし、この小さい13人と言う群れから、大きな神のみ業が始まったのです。神の創造の世界、歴史の中に「新しい救いのみわざ」が始まったのです。「新しい神の民」の誕生、形成が始まったのであります。

主の招き、呼び掛けによって人数は記されていませんが、12人だけと言うのではなく、1~3章までの、主イエスの御働きを見る時、かなりの人たちが、主イエスの呼び掛けの声を聞き、御側に集まったに違いありません。(そこでの人々の思いを創造してきてください)

主イエスは、創造の世界、歴史の中に神の国を実現するのに、主イエス御ひとりで働こうとされるのではなく、御自分の助け、目的の達成を求めて、群れを、新しい群れを御造りになったのであります。そこに何人いたのか分かりませんが、所謂私たちが、選別するような仕方ではなく、13節で「これと思う人々」とありますが、もとの言葉の意味は、「何の理由もない」、と言う意味の言葉です。ただ主がこの人を、と「お考えになった」と言う、それだけの理由であります。主がお望みなって12人を選び「使徒」と名づけられたのであります。「使徒」とは「派遣された者」と言う意味であります。主イエスから・神から、神の使いとして派遣される者たちということであります。「その名の中」に、その目的が示されています。使徒は、主イエスのお使いをするのです。

主イエスのお使いをするのに、どうしても身につけなければならないことがありました。

第一が「彼らを自分のそばに置くため」

第二が「派遣して宣教させる」

第三が「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」

第一は、「主イエスのそばに置いて頂く」ことであります。 主イエスと共に生活することによって、主イエスを一層知るのです。私たちにとって、すべてのキリスト者にとって最も大事なことは、主イエスがそばにいてくださるということであります。呼び集めてくだることによって、主イエスに結ばれて、委ねて歩むことも出来るのです。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・・」(マタイ11章28節参照)

人生に行き詰まった時、主イエスがそばにいてくださるということは大きな、支え、力、励まし・・・新しく歩み始めることが出きる者となるのです。

第二は「派遣して宣教させる」と、言うことであります。

主イエスの側において頂き、使徒として「御言葉を宣べ伝える」ために出て行くのです。

第三が「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」

わたしが力を持って悪霊を追い出すのではなく、主イエスが生きて働いておられることを証しするのです。

12人の使徒に名前をお付けになりました。その中には、よく知っている有名な人、無名なリストだけの人、あだ名をつけられた人、性格で呼ばれた人・・・、そして、あのイスカリオテのユダについて、「このユダがイエスを裏切ったのである。」と、記しています。

「イス」・・は「イーシュ」で・・へブル語の意味は「男」と言うことで、日本的に言えば「匕首(あいくち)を持っている男」と言うことであります。

「裏切った」とは「引き渡した」と言うことです。しかも、主イエスの受難をと関係する言葉であります。

ユダは、使徒として選ばれ、使徒としての使命に生きたのですが、結果として「永遠の選び」が、最悪の事実を招いたのであります。

神の招き、その招きに応えて、常に主の下、側にいることを求められるのです。

(今回初めて、説教を載せてみました。これからも努力いたします。宜しく。)

説教題:「愛する兄弟たちへの勧め」

旧約聖書:詩篇 27編4~13節
新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 5章12~18節
説教題:「愛する兄弟たちへの勧め」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-396番
(説教者:武田英夫牧師)

パウロはこの手紙を終えるにあたって、まず「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさいと、勧めます。まだ長老・執事の制度もなかった頃のことですが、重んじ、尊敬すべき方が何人かいたのです。

その人々の労苦の中味は「導く=指導する」ことと「戒める=訓戒する」ことでした。でも、一口にそう言っても精神的・肉体的な労苦を伴う指導、偶像崇拝者や礼拝から離れている人への叱責、迫害に見舞われている人への激励などの負担は大きかったことでしょう。

このような信仰の先輩たちに対しては、愛をもって、この上もないほどの尊敬をし、互いに平和に過ごしなさいと勧めます。そして悪いことに出会っても、悪をもってではなく、善をもって悪に打ち勝つようにと勧めます。

これは主イエスの「右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)の教えにも一致するものです。そして信仰者の基本的生活の態度として16~17節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と勧めています。

それは、私たちが自分の徳を高めるためではなく、十字架と復活との主イエスさまが、先ず徹底的に私たちを愛して下さったからです。パウロの勧めは、現在の私たちへも向けられています。

説教題:「心をひとつにして祈る」(教会創立記念日礼拝)

旧約聖書:ヨエル書 3章1~5節
新約聖書:マタイによる福音書 18章15~20節
説教題:「心を一つにして祈る」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-474番
(説教者:武田英夫牧師)

小金井西ノ台教会は1956年9月16日(日) 渡邊 充 牧師によって創立されました。同時に「こどもの国幼稚園」も創設されました。

幾多の困難に見舞われましたが、神の不思議なお導きによってそれらが乗り越えられ、今年で創立53周年です。多くの教職・教会員・協力者の労苦がありましたが、何よりも神様の御導きがなければここにまで至らなかったと思います。

本日の御ことばの内、マタイ18章19~20節には「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とあります。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」とは、この前後の文章で教会の問題が扱われていますので、教会のことと受け取ることができます。従って「たった二~三人の教会でも」と読めるでしょう。

これ迄どれだけ多くの心を一つにした祈りが捧げられたことであろうかと思います。個人的な問題のためには密室の祈りは大切ですが、教会の成長・発展のために皆が心を一つに合わせて主イエスとその父なる神さまに祈ろうではありませんか。

私たちは主イエスの十字架と復活によって結び合わされた者です。私たちを救おうとされた神様の愛を信じて祈りましょう。

説教題:「テサロニケの教会」

旧約聖書:民数記 6章22~2節
新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 1章1~3節
説教題:「テサロニケの教会」 (第一テサロニケ連続講解第1回)
讃美歌(説教後):讃美歌 21-469番
(説教者:武田英夫牧師)

この「テサロニケの信徒への手紙一」はパウロの第二次伝道旅行の途中の紀元50年頃テサロニケからコリントに到着した直後に、パウロによって記されたものです。現存するパウロの手紙のうちでも最も古いとされていますので、最初の福音書とされているマルコ(紀元70年頃)より前ですから新約聖書中の最初の文書になります。

現在、テッサロニキとなっているこの町はギリシャ第二の都市として当時も非常に栄えていました。パウロたちはフィリピからテサロニケに向かいましたが、そこにはユダヤ人の会堂がありました。約半年間に三回、安息日に聖書について論じ合いましたが多くの信徒が集りパウロたちを受け入れたたため、ユダヤ人たちが妬んだのです。この辺の事情は使徒言行録16~17章にあります。

1節冒頭に「恵みと平和が、あなた方にあるように」とあります。恵みは今日もギリシャでの日常会話となっているそうです。また平和はイスラエルでの「シャローム」という平安を祈る挨拶になっています。

この二つの言葉がパウロによって結合されて、主イエスの十字架と復活という絶大な恵みを知った者に与えられる罪を赦された者の平安を思い、パウロは常に祈りの度に感謝をしているというのです。私たちも兄弟姉妹の上に、恵みと平安とを絶えず祈り求めるものでありたいと思います。