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2022年5月15日「わたしは漁に行く」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.15 小金井西ノ台教会 復活第5主日

ヨハネによる福音書講解説教50

説教「わたしは漁に行く」

聖書 ヨナ書2章1~11節

ヨハネによる福音書20章1~14節

 

 

聖書

21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

 

 

説教

はじめに.  「信じてイエスの名により命を受けるためである」(20章31節)

ヨハネは、20章をもって福音書を完結させた、と考えられます。20章において、復活した主イエスは、二度に渡り、ご自身のお姿を弟子たちに現し、「平和」と和解の宣言をもって彼らを祝福し、ご自身の息を彼らに吹きかけて「聖霊」を与え、改めて「使徒」として世に遣わしました。そればかりか、第一回目の復活顕現の折に居合わせなかったトマスにも、ご自身の手の釘の跡やわき腹の槍の跡をお示しになり、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」と仰せになり、復活の主には、みことばを信じることにおいて出会えること、更には「主イエスはメシアであると信じる」ことにおいて「永遠の命」は与えられる、と諭しました。そして福音書をこう結びました。「20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と。

このように、ヨハネによる福音書の目的とその主眼点は、一貫して「イエスは神の子メシアであると信じ」そして信じたその信仰において「イエスの名により永遠の命を受ける」ために集中しています。言い換えますと、主イエスは、ご自身を「わたしはある(エゴー・エイミ)」と自ら「神」の名を名乗り、主イエスご自身において「唯一真の神」は今ここに現れ、御自身の十字架の死と復活において「神の栄光」を表し、人々に「永遠の命」を与えられること、それを人々はただ信じて受け入れるだけで、神の愛と主イエスの恵みにより、永遠の命を得ることができる、という福音をヨハネはこの福音書を通して宣べ伝えた、と言えましょう。そして今ここに、その福音の物語は完了完結したのです。

問題はではなぜ21章なのか?ということになります。エルサレム郊外の墓の中でマグダラのマリアにご復活のお姿を現した主イエスは、エルサレムの家で弟子たちに姿を現し、同じ家でトマスにも主は復活のお姿を再度顕現しました。そしてヨハネは、最後この福音の物語を書くに至った目的を記して締めくくりました。ところが、その続きとして、さらにつけ加えるかのように第三の復活の復活顕現の物語を、しかも場所はエルサレムの「使徒」として働く弟子たちではなくて、ガリラヤ湖で世俗の「漁師」として働く弟子たちにご復活のお姿をお示しになるという話が、21章として登場します。これは、いったいどういうことなのでしょうか。「聖霊」を受けて聖別され、「使徒」として世に遣わされた弟子たちは、どうしてガリラヤ湖で「世俗の漁師」に戻って、不漁に苦悩する姿を描くのでしょうか。とても不可思議な物語であります。わたしたちは今や、同じヨハネによる福音書ではあるものの、21章という全く新しい形で、第三回目に復活顕現される主イエスと出会うことになります。

内容からも明らかなように、20章とは大きく矛盾する21章は、後のヨハネの「教会」によって付け加えられた物語ではないか、と多くの学者が推測しています。よく内容が似ているためにしばしば比較されるのは、ルカによる福音書5章で、ガリラヤ湖の漁でおびただしい魚が獲れた、とする「大漁の奇跡」の記事です。話の内容から申しますと、ヨハネ福音書の21章においては、ガリラヤ湖での大漁の奇跡といルカ伝承に、更に復活顕現する主イエスの奇跡の物語がさらに二重に重ね合わせられて、大漁という場面での復活顕現が物語られるのであります。確かに、場所も話もとても酷似していますが、実は、語ろうとする内容も意図も、ルカとヨハネとでは、大きくズレ、異なります。ルカによる福音書5章の主眼点は、奇跡であり奇跡を起こすメシアの力に焦点化されて物語られます。いわば、主イエスにおける「力あるわざ」として、メシアを証言するしるしとして、大漁の奇跡が描かれます。確かに、ヨハネも同じように、ガリラヤ湖での大漁という奇跡とそこ働く主イエスの驚くべき力が表されている点では同じですが、ただ根本で大きく異なる点は、論点が、復活の主イエス・キリストに対する後の「教会の信仰」に移り、しかも復活の主は、「みことばと信仰」とにおいて、常に現臨し救いのみわざをいよいよ行われており、教会は復活の主による「みことばと信仰」において導かれている、というメッセージにあります。復活の主が、教会の宣教を導くために、ペトロを中心に弟子たちを使徒職として立て、またその後継者たちにより、教会において「大漁」の喜びが象徴的に証しされるのです。

 

1.「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」(4節)

21章での主イエスの復活顕現は、20章のようにエルサレムではなくて、「ティペリアス湖畔」とありましたようにガリラヤ湖畔です。故郷のガリラヤ湖で「魚をとる漁師」として、弟子たちは登場します。やはり弟子たちの行動の中心的に担う人物は「ペトロ」でした。聖書は「21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。21:4 既に夜が明けたころイエスが岸に立っておられただが弟子たちはそれがイエスだとは分からなかった。」と、出来事の発端と事情について描き出しています。なぜ、21章が後に付け加えられたのか、その真相を示す鍵語が、既に4節で「21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」という言葉によく示されています。先ず決定的な問題は、復活の主イエスがおられるのに、復活した主イエスが分からない、その存在を認めることができない、という現実認識です。復活して現臨する主イエスを受け入れることができないまま、曖昧で不安定な状態のまま故郷に帰り、魚を獲る漁師に逆戻りしてしまった弟子たちの生活が描かれます。復活した主イエスがそこに立っておられたのに、それをイエスだとは分からない、という弟子たちの「不信仰」が浮き彫りにされます。厳然と主イエスは彼らの傍らに現臨しておられるのに、それが主イエスだと分からない、そういう空しい実態が問題となって掲げられています。彼らの生活の実態は最早「信仰」生活とは言えず、とても空虚な生活です。既にそこに、主が立っておられるのに、です。前の20章29節で「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」と、主イエスがトマスに語った、あの決定的的なメッセージが、ここでは既に失われています。信じることの意義と幸いの本当の意味は見失われ、それどころか、既に見えなくなって久しいご復活の主イエスの存在もすっかり失われてしまっていたようです。まさに復活の主不在、神不在、命不在の、実に空虚な信仰生活であります。

同じことは、わたくしたちにも言えそうです。日々の生活の、その時その時において、復活と栄光勝利の主は傍らに寄り添い立っておられるのに、わたしたちはそれが主イエスだと分からないのです。いわば、ヨハネの21章の主題は、教会と信仰の生活だと言いながら、実際は「生ける神不在」の生活を空しく偽善的に過ごしているのではないか、そんな生きて力あるわざを行っておられる「神」不在の生活を問うているのです。「使徒」であるはずの弟子たちは、単なる「世俗」の漁師に終わっていないのか。生きて力強く働く神は少なくておも彼らの意識の中には居られず働きもしていないのではないか、という空虚な墓のような信仰生活を問い質します。

「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」とありました。そこには何一つ収穫と言える、心に燃える、生き生きとした命溢れる霊的な生活実態はありませんでした。そうした喪失した弟子たちの心の風景が、ここにはよく映し出されています。もしかしたら、ヨハネの教会は、後の時代になって、教会の中心となって共同体とその信仰を支えていた本当の意味での使徒職を失い、信仰共同体としての本来の意義と目的を喪失する危機に直面していたのではないか、とさえ危惧してしまいます。そして教会は、そうした信仰喪失の危機に対して、復活の勝利と栄光の信仰をもって改めて立ち向かって闘う決意をしたのではないでしょうか。それが、この21章を書く必要であり目的であったのではないか、と思われます。現代のわたくしたちの教会でも、本当の意味での「信仰」の実質や形式でも教理信条が失われ、信仰が空洞化する中で、生ける神の不在となり、結局は世俗生活に溺れて死ぬ他に行き(生き)場を失い、教会と信仰に残された残骸は、薄ぺらなヒューマニズムだけ、ということに尽きてしまうのでしょうか。

 

2.「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(6節)

ペトロもパウロもそしてヨハネも、使徒たちは迫害の中で世を去ります。後に世に残された教会は、迫害やさまざまな試練の中で、使徒職と神不在という信仰不安のまま、生ける主イエスの栄光と勝利を喪失してしまう危機に陥った、と考えらえます。信仰生活の実態はいつの世でも常に「闘い」であり「苦悩」です。そこには、実際に何一つ希望も喜びをも得ることのできない、弾圧と抑圧、排除と差別の悲痛な日々が続きます。そうした絶望寸前の中で、ペトロを初めとする使徒職の継承者たちは、改めて、主イエスの「みことば」のうちに、神の啓示を聴き直そうとします。そしてついに、教会は復活のキリストの身体として、天地を貫く信仰の共同体験という形で、復活の主イエスは試練の中の教会に寄り添いいつも共におられる、ということを知るのです。復活の主は、信仰とその共同体である教会の真ん中に来て立ち、ご自身のみことばをもって働き、命と栄光のみわざを行っておられたのです。見たから信じるのではなく、見ないで信じる者は幸いであるとは、そういうことでした。復活の主イエスは、教会とその信仰において現臨し、みことばをもって、信徒一人ひとりに直接語りかけ、永遠の命を与えておられたのです。神不在ではなく神はわたくしたちのうちに現臨し生きて働いておられたのです。主イエスは弟子たちに「21:5 『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。」と語りかけます。この「食べ物」(prosfa,gion prosfa,gion)という字は、パンに添えて食べる「魚」を指しており、言い換えれば、主イエスは「魚は獲れないのか」と尋ねたのです。ですからリビングバイブルはこれを「『おーい。 魚はとれたかーい。』その人が声をかけてきました。『いやー、全然だめだよー。』」と訳しています。信仰共同体の中核を構成する弟子たちの生活には何一つのその信仰による収穫は得られていない、とそう思い込んでいたようです。そればかりか、復活の主イエスがおられることも分からなくなっていました。「魚」とは、そうした日常の生活を根源から支えて力づける「命」そのもの、救いの命を象徴的に表しています。「魚」という字は、ヘブライ語で「ダーグ」と言うそうですが、その語根「ダーガー」は「増えて増殖する」(創48:16)という意味のようです。また初代教会では「魚の絵」は「救いの象徴」として用いられ、ギリシャ語の「魚(ivcqu,jイクスュース)」(ヨハネ21:11)の文字は、「エス・リストは、世主(VIhsou/j Cristo.j Qeou/ U`ioj Swth,r)」という其々の単語の頭文字で構成された言葉であり、教会の最も短い信仰告白でありました。そうしたことから、無限の神の恵みであり命を象徴し、また「イエス・キリストは神の子救い主」という信仰そのものを象徴するものとして、この物語でも用いられたのではないでしょうか。ペトロやヨハネの後継者たちは、教会において、その命と力の拠り所を失い、「ありません」と答えるしか外に道はなかったというのです。

ガリラヤで世俗の漁師に戻った使徒たちとは、ユダヤ人やローマ人からによる迫害から逃避逃亡する中で、絶望するキリスト教共同体を象徴しているかのようです。「使徒」として立てられ、世に「福音の宣教」のために、遣わされたという自覚はおろか、世に敗北し埋没しそうな弟子たちの不安が、故郷に帰り漁師に戻る姿に映し出されているようにも見えて来ます。そればかりか、キリスト者と言っても、これが世に支配されたわたしたちの日常生活の実態ではないのかと厳しく指摘されているようにも見えます。

そうした生きた信仰の喪失という空虚な生活のただ中に向かって、ついに、主イエスは、突入して来られるかのようにその真ん中に来て立ち、みことばを告げ、みわざを行われ、救いを実現されるのです。聖書は「21:6 イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさいそうすればとれるはずだ。』そこで網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」と記します。主イエスが彼らの日常生活のただ中に突入して来られ真ん中に立ち、主のみことばが語られるもとで、網を投げるように宣教と奉仕に励んでみると、確かにそこにはおびただしい信仰による命の魚が、またその福音という命の救いに導き入れられる多くの信仰者が与えられ、宣教活動の網にはいっぱいに溢れていた、という象徴的な出来事が物語られます。この出来事は、弟子たちとその教会に、とても大きな力と励ましを与え、確信に導いたことでありましょう。弟子たちは、この世の漁師として漁をするのですが、そうではなくて、言わばこの世での宣教も働きも全ては皆、主イエスの語られたみことばの示す所に導かれており、天国という大きな網の中で、ぴちぴちと飛び跳ねる大漁の魚のように、地上の教会でもあっても天上には大漁の収穫を得ているのです。主イエスのみことばにしたがって、営む生活の全てを尽くして、みことばのもとに投げ入れるのであります。すると、不思議なことに、そこにはたくさんの魚がぴちぴちと跳ね上がって大漁となっていたのです。主イエスの語られたみことばのもとで、初めて獲得し経験された大漁の奇跡でした。

 

3.「ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった」(11節)

そのように、弟子たちの生活のただ中に立ち、みことばを告げる復活の主に、真っ先に反応した人物が、あのペトロでした。ペトロやヨハネが弟子たちの集団の中でとても意味深い役割を担っており、その役割を十分に果たしています。それは、共同体の行動規範です。先ず「21:3 シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」とありますように、ペトロが真っ先に、弟子たちの集団を率いて舟に乗り込み、漁に向かって出て行きます。あたかも教会という舟に真っ先に乗り込んで人を漁る漁師として、宣教に向かってゆくとても勇ましいリーダーとして登場しています。さらに「シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。」と描かれます。ここでも、弟子たちの中で、最も早く弟子たちの真ん中に立ち現臨する復活の主イエスに対して反応して驚き、「上着をまとって湖に飛び込んだ」のです。ペトロは真っ先に、弟子たちの中で最も純粋で鋭敏に応答する礼拝者としてまた祈り手として登場します。しかも聖書はさらにペトロについて、「21:11 シモン・ペトロ舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。」と記しています。153匹の「魚」(ivcqu,j ivcqu,wn)であっても、一見か弱く小さく見える投網でも、どんな大漁にも応え得る一つの網として、破れず機能していたのです。「153」とは、何の数を象徴しているのか、不明です。教会数か、神の恵みの数か、あるいは民族や都市なのか、分かりませんが、いずれにしても、ひとつの信仰による一つの教会における救いは、破れることなく無限に広がり、揺るぎなく普遍に働くのであります。注目すべき点は、仮りに「舟」を教会の譬えとして読み、「網」を教会の宣教として解釈し、さらには「大きな魚」を獲得した信徒や新たな教会群として理解すると、そこには、ペトロを初めとする使徒たちの後継者による宣教が、広くあらゆる国々や人種にまたがるように、一つの公同普遍の世界教会を形成しているように見えて来ます。歴史的な使徒ペトロというよりも、ペトロのように使徒の務めによって導かれ、拡がる世界の教会の姿です。後にニケア信条で告白される「一つの、聖なる、公同の、使徒の教会」です。そして復活の主イエスがその世界教会の真ん中に立ち、みことばを語り、世界は主のみことばのもとに、宣教という網を投じると、その網の中は大きな魚が生きて跳ね上がり大漁となって、夥しい新しい民族と教会が収穫されているのです。しかもその網は「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」とありますように、教会も宣教も、揺らがず壊れず破れず、いよいよ堅固に守られ導かれるのです。こうした表現から、ペトロを中心とした使徒たちとその後継者たちに教導され、さまざまな国々の民族を全て包み込むように、唯一の聖なる公同の使徒的教会は形成されてゆくのです。しかも、そうした世界の教会形成のただ中には、何と言っても、主イエスが十字架と復活の栄光のお身体をもって現臨し、力あるみことばを語りかけ、みことばにより命と救いの食卓に招き、ご自身の勝利と栄光のお身体を分かち与えるのです。こうして「神不在」としか見えない迫害や試練の中にあっても、教会は勝利の希望と永遠の命に溢れ、主と共に確信に満ちたて歩み始めることが出来るのです。

 

4.「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(9節)

復活の主が弟子たちを招き、弟子たちに与えたもの、それは「朝の食事」でした。朝の礼拝と言ってもよいかも知れません。「21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚(ovya,rion ovya,rion)がのせてありパンもあった。21:10 イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。」と記されています。少々、不思議な表現になっています。既に炭火のうえに魚はのせてあり、パンもあったのに、なぜわざわざ主イエスは「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われたのでしょうか。とても不思議な印象を受けます。既に炭の上にのせてある魚と、今とった魚とは、どこがどのように違うのでしょうか。原典から厳密に言えば、そこに差し出され横たわっている「魚」(ovya,rion ovya,rion)も「パン」(a;rtoj a;rton)も、文法的に言えば、共に無冠詞単数の形で書かれており「たった一つの魚とパン」です。どちらかと言えば、数より「質」を意味しており、キリストによって用意された唯一普遍的な魚とパンであり、そればかりか「今とった魚(tw/n ovyari,wn w-n evpia,sate nu/n複数形で冠詞)を何匹か持って来なさい」というみことばは、あの5千人の給食を彷彿とさせます。しかしさらに不思議なことに、12節以下で「イエスは、『さあ、来て朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった主であることを知っていたからである。21:13 イエスは来てパンを取って弟子たちに与えられた魚も同じようにされた。」とあります。こうして主イエスから既に用意されていた唯一の魚とパンは、弟子たちひとりひとりに与えられます。ここで、弟子たち一人ひとりに差し出され手渡されたパン(to.n a;rton)も、そして魚(to. ovya,rion)も共に冠詞付単数形です。敢えて数にこだわって深読みすれば、主イエスによって既に用意された唯一の普遍的なパンと魚から、さらに収穫された数々の魚へと広げられ、最後に冠詞付複数形という形で、全ての神の救いの恵み全体を天地を貫いて包み込むように、教会と宣教は大漁として描かれ、救いの喜びを纏め上げているかのようです。一つの普遍的で大きなパンと魚となって現れた、ということでしょうか。まさにこれはキリストの身体としての救いが大きく広がる現実を象徴しているかのようです。

このみことばで、さらに注目すべき点は、弟子たちにおける大漁という状況の変化と共に、弟子たちの意識も大きく変化していることです。その場の空気は全く異質な世界に一変します。その空気を象徴する言葉は、「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった」という言葉です。最初は「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」(14節)と明記されていましたように、弟子たちの意識や信仰は、明らかに主イエス不在という「不信仰」と夜通し網を打ち続けても不漁という「絶望」に支配されていました。ましてや復活された主イエスの栄光と勝利は、彼らのうちにはなかったのです。ところが、主イエスのみことばのもとで、舟に乗り網を打ちますと、思いを超える大漁を共に体験したのです。何と岸辺では、主イエスは既に彼らのために、パンと炭の上に魚を用意しており、彼らは主の食卓に招かれ与るのです。みことばのもとで、復活した主イエスが、ご自身の十字架と復活のお身体をもって共同体の真ん中に来て共にたち、永遠の命に溢れる勝利の食卓を備えてくださっているのです。最早、誰もそれを疑う者はいないのです。復活の主を知り、それが復活の主だとわかるようになったのです。そしてそれはついに教会共同体の核心(確信)となります。弟子たちは、信仰共同体という教会生活を営む中に、懸命に伝道という網を打ち続けて働く中で、天地を貫き世界に広がる救いの恵みを収穫し続けていたのです。主がパンと魚とをもって日々の食卓を備え、命と生活の共同体を支えてくださるのです。天地を貫き世界全体に渡って日々展開され永遠の命による交わりの生活であります。そうしたさまざまな恵み豊かな営みの中で、復活の主を見る信仰の目は、増々確かに養い育てられていくのではないでしょうか。神は元々人間には捉えることのできない永遠普遍の存在ですから、わたしたち人間は、心身を尽くし信仰を尽くして教会生活に励む中で、初めて、受肉と復活の神に出会う喜びに導かれるのです。歴史を貫き、復活の主イエスは、教会において現臨し給い、救いのみわざは途切れることなく行われているのです。

2022年5月8日「わが主よ、わが神よ」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.9 小金井西ノ台教会 復活第4主日

ヨハネによる福音書講解説教49

説教「わが主よ、わが神よ」

聖書 詩編22編25~32節

ヨハネによる福音書20章24~31節

 

 

聖書

20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 

 

説教

はじめに. 主イエスとは誰か、どのようなお方なのか?

主イエスのご復活を、ヨハネとその教会は、どのように受け止めたのか、という視点から、主イエスのご復活について、お話をして来ました。前回は、ただ単に「肉体が生き返った」という不思議な奇跡を丸のみするように信じた、決してそれがヨハネの言う復活の「信仰」ではなかった、という話をいたしました。肉体が生き返る奇跡以上に、大事なこととしてヨハネが注目していたことは、「イエス」というおお方のご人格そのものでした。イエスさまのご人格全体と人格的に出会い交わることにありました。イエスさまは、いつも神さまがモーセに啓示した「わたしはある(エゴー・エイミ)」というそのままのお名前で、ご自身の本質をお示しになっておられました。しかも、ある時には、ご自身のうちに一体の交わりにある「神」さまを「父」と呼び、自らを「子」と呼ばれました。むずかしくて理解しがたい意味深長な表現ですが、ヨハネはそうしたイエスさまの中に、「子」を世に遣わす「父」なる神と、「父」に遣わされた「子」なる神が本質的に一つであり一致した交わりから、ご自身を見て、ご自身を啓示しお示しになれいました。つまり、ヨハネにとって、肉体が生き返ったかどうか、ということより、イエスさまとはどのようなお方であったか、そしてイエスさまとは、御子が人として受肉した「神」であった、その御子が受肉して人間性を背負い、世に栄光の勝利をした、それが「復活」というお姿であった、ということなのです。ヨハネは、福音書の冒頭で、使徒時代の古い讃美歌を引用して、イエスさまにおける「神(わたしはある)」について、「1:1 初めにがあった。言は神と共にあった言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と讃美告白して、主イエスとはだれであるか、イエスとは神のロゴスであり、永遠の神そのものであったことを讃美告白して、福音書を書き始めています。復活とは何か、というその真相と真実、実は主イエスとは誰であったか、ということの中に、全ての意味も根拠もある、とヨハネは気づいたのです。十字架の死も、復活も、そしてクリスマスの処女懐胎による受肉も、全てのことはどれもこれも、主イエスとはどのようなお方なのか、という主イエスのご人格の中から現れた出来事であります。そしてヨハネは、その主イエスとはいったい誰なのか、どのようなお方なのか、という根本問題において、永遠から神と共に存在し、万物の造り主である「神の言」(ロゴス)であり、と讃美告白して、福音書を書き始め、それから「1:14 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵み真理とに満ちていた。」と総括し、主イエスにおいて受肉した神であると言い表しました。神の栄光は全て、この主イエスという神の受肉者に現れ、それは完全な恵みとして人々に与えられ、万物を照らす真理の光である、という信仰告白です。ヨハネは、この主イエスご自身から、ご自身の真相を自ら語るみことばとして、「わたしはある」(ハーヤー、ヤハウェ、エゴー・エイミ)という神の名を用い、ご自身の本質を啓示し表しました。主イエスのうちに「わたしはある」と啓示した「神」は、まさに父と同一本質であり一体の交わりのうちにある子であり、神のロゴスであり、神の栄光と人類救済のために父より世に遣わされ子であり、父は子の派遣において栄光を受け、子は天から降り受肉したお身体において、十字架の死を遂げ、人類の罪を償い、神の義を貫き、そしてその受肉のお身体において、復活を果たし、人類の救済と万物の創造的回復と完成を成し遂げて、栄光を受けるのです。この受肉した神の子のお身体においてこそ、被造物全体は創造の回復と完成は貫かれるのです。これを神の栄光としてヨハネは証ししました。したがって、復活を信じるということは、主イエスをどのようなお方として信じ受け入れるか、という信仰の本質から初めて見えて来る神の真理なのです。ヨハネとその教会は、まさに主イエスにおける「神」こそ、即ち神として同一本質を共有する父と子と聖霊こそが、神としての栄光のみわざを世に啓示し、世において実現し成就するのですが、主イエスこそ、そうした三位一体の「神」の栄光を人となって露わに啓示する「神」ご自身であり、神の啓示者ご本人なのです。そうした栄光のみわざのうちに、御子の受肉も十字架の死もそして復活もまた、すべてのすくいのみわざを統合的に基礎づけた、それがヨハネの福音書です。したがってただ単に霊ではなく肉の身体が生き返る、という不思議な奇跡を主張するような、そんな単純なことではなかったのです。ヨハネの根本問題は、イエスさまのうちに力強くする神の栄光のみわざであり、神の本質が現される場こそ、主イエスの復活のお身体でありました。

 

1.「わたしたちは主を見た」(25節)

弟子たちは、トマスに「わたしたちは主を見た」と証言しました。ここで言う「見た」とは、単純な意味で、生き返った死体を見た、という物理的な目撃証言ではなかったようです。前回もお話しましたように、弟子たちは、「あなたがたに平和があるように」という神による平和と和解の宣言を受けました。そして神の平和と和解の宣言のもとで、つまり主イエスの十字架の贖罪によって齎された神の平和のもとで、改めて弟子たちは「使徒」として世に遣わされ、その使徒としての派遣には、人々の罪を完全に赦す「赦罪の全権委託」が与えられていたからです。したがって、正確に言えば「主を見た」という経験の中には、ただ単に主が生き返ったことを見たという物理的な狭い意味だけではなく、復活した主イエスとの全人格的な出会いを経験し、その交わりの中で、神の平和と和解のうちに入れられ、そこから新たに「使徒」としての使命を受け、さらには神の平和と和解へと人々を導くために、罪を赦す全権を与えられ、さらには、その保証として「聖霊」を吹きかけれられて、世に遣わされています。復活の主イエスを見た、という体験の中で、もっと意味深いことは、イエスさまは決して十字架の死において世に敗北し滅ぼされたのではない、という主の栄光と勝利を確認したことです。敗北どころか、かえって反対に、イエスさまの本質は、人として受肉した「神」であって、その人として受肉した「神」の栄光は、「人」として受肉したご自身の人間性において、十字架の死に至るまで神の義と栄光は貫き、罪と死と滅びとに打ち勝って、永遠の命をもって栄光の勝利を成し遂げられたことにあります。その栄光と勝利の現れこそ、復活のお身体において現わされ、明らかに示された、と言えましょう。「わたしたちは主を見た」とは、それを知った、それを信じ受け入れた、その真理を認識することが出来た、ということになります。主イエスの栄光と勝利において、主イエスにおける「神」は、十字架の死に至るまで従順に神の義を貫き、死と死者となって罪を償い尽くしたその人間性を義と認め、祝福と栄光のもとに甦らせたのです。復活の主を見たとは、主イエスの人間の身体のうちに現わされた神の栄光と救いのみわざを、しっかりと見届け体験したことに他ならないのです。こうして、主イエスの受肉した身体において、その生死(いきしに)を通して、神の愛と憐れみは完全に現わされ、全人類の罪は主イエスの背負う人間性において償われ赦され、復活のお身体をもって新しい永遠の命が吹き入れられたのであります。この絶大な神の栄光のわざのもとで、即ちまさに神による平和と和解のもとで、罪と死と滅びの恐れから解放されて、しかも神の完全な赦しと和解の宣言のもとで、弟子たちは主イエスと出会い、主イエスを見て、主イエスから「罪を赦す」全権を与えられ、世に「平和の使徒」として世に遣わされたのです。

しかし、こうした「主を見た」という喜びと祝福溢れる新しい創造世界の体験について、弟子たちはトマスに告げたのですが、トマスはそうした他の弟子たちの「体験」を理解できませんでした。言わば、弟子たちが「主を見た」という体験は、ただ単に復活証言者としての体験を遥かに超えて、それは「使徒」として「召命と派遣」を受けた体験であり、そして何よりも、主イエスによって与えられた永遠完全なる平和の和解の体験であり、罪と死と滅びからの解放という貴い体験だったのですが、残念ながら、トマスはその体験の場から外れていたのです。なぜトマスはこの弟子たちの共同体験から外れてしまったのでしょうか。単純に言えば、たまたまその場に居合わせていなかったのでありましょう。しかし深読みすれば、それだけではなく、トマスの考え方にその原因があったのではないか、とも憶測可能です。なぜなら、彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言っておりますように、非常に強烈な物理的実証を求めていたからです。人間の認識の尺度を遥かに超えた神の栄光のわざを、信仰という新しい恵みの尺度によってではなく、余りにも小さな人間の尺度から理解し納得しようとしていたからではないでしょうか。主イエスのご復活は、「神」のわざであり、しかも「神」の完全な「栄光」のみわざの現れであります。それは、人間の認識尺度を遥かに超える出来事です。神を「信じる」という新しい尺度のもとで、初めて正しく獲得できる神の出来事であります。

 

2.「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ」(25節)

しかし、このトマスの言葉には、示唆に富んだ重要な意味があります。いろいろな意味に解釈できそうですが、一つは、何と言っても、物理的実証という観点から、実際に甦った主イエスを「肉の身体」という形で見て触れる経験をもって、確認することを願ったことです。真実の基準は、肉体的な身体による判定を求めたのです。それは、実際に「人間」そのものとして、主イエスが復活したどうかを問題にしていたからではないか、と思われます。わたくしは、このトマスの願いは、徹底して肯定されるべきであって、決して否定的に非難されるべきではないと思います。なぜなら、事実、主イエスのご復活は、物理的に肉体をもった復活であり、主のお身体における永遠の命の発現であり復活であったからです。なぜなら「肉体」或いは「身体」こそ、キリスト教の人類救済の中核となって現れる場であるからです。キリスト教の救いは、肉体や身体を捨象して、単に精神や霊だけの救済ではないからです。大切なのは、復活とは、「身体」や「肉体」の救済であり、その栄光と勝利こそ復活の本質でもあるからであります。言い換えれば、それがそのまま失われた「人間性」の本質的回復となるからです。身体のない所に人間は絶対に存在できないのです。それが人間だからです。それでは、最早人間ではなくて幽霊や亡霊にすぎません。人間としての本当の健全さや生きている証しと喜びは、生き生きとした身体の営みを謳歌できること、そこに人としての人らしい在り方があります。だからこそ、生き返る、復活とは、身体の、即ち人間性そのものの復活であり、甦りであり、生き返りなのです。この意味で、トマスは正しい、と言わねばなりません。

もう一つ更に重要なことは、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」とありますように、あの方の「手に釘の跡」「そのわき腹」とはっきりと言っている点です。主イエスの両手の釘跡とは、十字架の上に掲げられた「ユダヤの王」という罪状書きのもとに、十字架に釘付けられた両手の釘跡であり、主イエスのわき腹とは、主の十字架における死を実現したトドメの槍による傷跡であります。つまり両手の釘跡と脇腹の槍の傷跡とは、主が確かに「死んだ」ことを証明する傷跡ですが、それ以上に大事な点は、それらの傷跡はただ単に「死んだ」証拠である以上に、十字架刑という主が「死んだ」意味と目的を指し示しています。主イエスの十字架の死とは、ユダヤの民を救う「ユダヤの王」として、即ち「神のメシア」として、民の救いのために死んだ「メシアとしての死」を表しており、ただ「死んだ」という事実に加えて、「メシアの死」を表しているからです。主イエスが死んだのは、自分たち罪人の「罪の償い」のための犠牲の死であり、民を罪から贖うのために贖罪の死の生贄であり、神の義のために献げされた「神の小羊」である、という神聖で厳粛な意味と目的をもった「メシアによる贖罪の死」であった、ということです。主イエスの十字架における贖罪の死こそ、神による平和と和解の根源となり、救いの証明となるはずの死でした。だからこそ、主イエスご自身も、死んでも生きる、と教えておられたはずです。したがって、トマスが自分の目で見ようとした主の手の釘跡は、そしてトマス自身がその手で触れようとした主イエスの槍の傷跡は、トマス自身の罪が御子を傷つけ死に至らしめた自分の傷跡そのものでした。その時、その傷跡のうちに、トマスは、主イエスが痛み苦しみ、死に至るまで、自分の罪の贖い、命を神に献げ尽くしてくださった主の愛を見ていたのではないでしょうか。しかもトドメの死ですから、最後の死の極致まで、人間として人間の罪を背負い贖罪と従順を尽くしたことを表します。

そしてここで最も重大となる問題は、主イエスの十字架よる「死」は、世の権力者たちによるメシア抹殺であり、神の御子の敗北として終わる死であったのか、という点です。復活はメシアの勝利であり、十字架の死の勝利であり、神による平和と和解の勝利ではないのか、という問題であります。トマスからすれば、主イエスにおける復活のお身体に、十字架の死のお姿を見て確認することで、十字架の死が意味ある救いとして、神によって認められ、神の祝福のうちに新しい世界創造の始まりとなるはずだ、と期待したかも知れません。そうしたユダヤの王として、神のメシアとして、贖罪の神の小羊として、ご自身に受肉した人間としての命のすべてを尽くして罪を償い、人類の全てを担い尽くして死んだ、そういう「十字架の死」の意味が、神において受け入れられ認められたのか、という問題です。主イエスは神のもとに罪と死と滅びに勝利したのではないのか。それとも、神のメシアは、罪状書きにあるように「ユダヤの王」として、政治的反逆者として、世の権力者たちによって処刑され、世から抹殺され、完全敗北に終わってしまったのか。主の敗北による絶望と恐怖の中で、自分たちもまた、最早生きる意味は完全に失われ、死ぬ外ない、とトマスを初め多くの弟子たちは思い詰めていた、とも考えることができるかも知れません。主の十字架の釘跡と槍の傷跡は、メシアの敗北を意味するしるしなのか、それとも、釘跡と槍跡を背負うお身体の復活は、贖罪のメシアの神における勝利と栄光なのか、という根本問題です。したがって、この点においても、トマスの主張は、まことに正しい問いであった、と言えるのではないでしょうか。

 

3.「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(27節)

そこに、主イエスはご自身の復活のお姿を弟子たちに再び現わします。「20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」と記されています。これは、明らかに他の弟子たちがした復活の主の共同体験そのものの再現です。トマスも、他の弟子たちと共に全く同じ共同体験に至ります。やはりその体験の中心は「あなたがたに平和があるように」というみことばを語り、神の平和と和解とを宣言する主イエスとの再会であります。それから、主イエスは、トマスに「20:27『あなたの指ここに当ててわたしの手を見なさい。また、あなたの手伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。』」と言われました。この主のみことばも、とても意味深い表現ですが、これもいくつかの意味に解釈できるのではないでしょうか。主イエスは、明らかにトマスのために、釘跡のあるご自身の手をトマスに差し出して、触れさせています。同じように、死の極致に至るトドメを刺された脇腹をトマスのために差し出して、ご自身自らトマスの手を取って誘うように、死のトドメとなった脇腹の傷跡に触れさせています。いわば、主イエスはトマスのためにご自身の手の傷跡をトマスにも与えて彼と共に共有しているのです。そして同じ死のトドメの傷跡のある脇腹もまた、同じようにトマスに共有させるのです。これはまさに、主イエスはトマスにご自身の十字架の死を与え共有させているかのように見えます。ただ生き返った身体を「見せた」だけではなく、トマスの手を通して、主のお身体の釘跡槍跡とそして主の十字架の死そのものを、同じ人間の「身体」において「共体験」させているのです。主イエスは、ここで主とトマスの同じ「人間の身体」において、主のご人格からトマスの人格の奥深くに至るまで、その全身全霊において、「十字架の死」を「共体験」として、写しているのではないでしょうか。まさにトマスは、自分の手で主の十字架のお身体に触れて、十字架で贖罪のために死んだお身体に今ここで与っているのです。そうした意味からすれば、これは、わたしたちが聖餐において差し出された主の十字架の死のお身体に与る、というまさにその原型ではないでしょうか。

 

4. 「わたしの主、わたしの神よ」

このトマスの言葉は、決定的な意義を持ちます。それはただ単にトマスの信仰告白というだけではなくて、人類を初め世界万物の信仰告白であり、最も簡潔な応答讃美となる言葉です。主イエスの復活の身体のうちに、全ての神の真理とその勝利が明らかにされ啓示され、トマスは、今そこで、その復活のお身体を自分の目で実際に自分の手で実際に触れているのです。しかもその主の復活のお身体には、両手には痛ましい釘跡がくっきりと残され、わき腹には鋭く突き刺された槍の傷跡が残されており、十字架の死において完全なる贖罪を果たされ、人間性の全てを背負おわれた主の命溢れるお身体に、トマスはその血の通う暖かなお身体に今まさに触れているのです。まさしく主イエスは、神のメシアとして、栄光と勝利のうちに、命溢れて復活し、今ここに立っておられるのです。トマスが見て触れた主イエスの復活のお身体は、まさに神の平和と和解、人類を初めとする被造物全体の勝利であり、新しい創造そのものを指し示していたのです。

 

5.「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

主の復活のお身体、それはまさに十字架の死から復活した主のお身体に触れて、まったく新しい神の創造的な勝利と平和を実感したトマスに、主イエスはとても意味深いことを告げます。「『信じない者ではなく信じる者になりなさい。』20:28 トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。20:29 イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」と教えます。これは、とてもヨハネらしい証言の仕方ではないかと思います。最もヨハネ的で、したがってその意味を理解するには、とても難しい教えです。つまりヨハネとその教会が、主イエスのご復活から受け継いだ信仰と神学がここによく現わされているように思われるのです。その特徴は二つあるように思われます。一つは「見た」という物理的な認識と並んで「聴く」ということによる認識方法が考えられます。主イエスは度々弟子たちを羊に譬えて、「10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているのでついて行く。10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」・・・10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分けるこうして羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる。」と教えておられました。「一つの群れ」とは、神の民であり、神の教会を指しています。その羊飼いである主イエスと、教会とを繋ぐ唯一の絆は、羊飼いは自分の羊の名を呼んで(羊を)連れ出し、羊はその声を知っているので、ついて行く」という結びつきにあります。具体的に言えば、みことばを語りみことばを聞くということになります。みことばにおいて神はご自身のみわざを示し、みことばにおいて教会の神のみわざに与る、ということになるでありましょう。

もう一つ重要なことを忘れてはなりません。それは、ヨハネは主イエスの復活を、父と子と聖霊の三位一体の神の栄光のわざとして証言していることです。共観福音書は、どちらかと言えば、復活昇天ののち、聖霊が降臨して、教会が誕生する、という仕方で、救いの展開を描きますが、ヨハネは、主イエスにおいて、父と子と聖霊なる神は一体の形で、救いの真理は啓示されます。ですから、復活の主がそのまま復活のお姿を示し、その復活のお姿のもとに、弟子たちに聖霊を授け、使徒として世に派遣します。そうした復活の主は、聖霊に満ち溢れており、聖霊そのものを弟子たちに与えられるお方として直に弟子たちに向き合っています。言い換えれば、復活した主イエスにおける聖霊の働きを認めることができます。もしかしたら、主イエスは、ご自身の復活のお身体を物理的に見せて示す以上に、聖霊の力によって復活の勝利をお示しになっておられたのではないでしょうか。だからこそ、先ず「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とトマスに告げて、釘跡や槍の傷跡をお示しになったのではないでしょうか。そして今度は、トマスだけではなく、トマスを超えて、言わば「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる。」と仰せになられた教会を想定して、教会は物理的に見ることに神の救いの根拠を置かず、告知されるみことばに神の真理の根拠を置くことを教えておられるのではないでしょうか。つまり聖霊を与え、聖霊の恵みと力を通して、教会はみことばを聞き分け、主について行くのです。そうした聖霊に導かれる教会を祝福して言われたのではないかと思われます。

前にもお話しましたように、ヨハネはこの福音書の冒頭で彼の教会が受け継いだ讃美歌を引用しています。その「ロゴス賛歌」と呼ばれる讃美歌には「1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とあり、本来、父なる神によるわざである万物の創造が、御子であるロゴス(言)と共有されており、ロゴス(言)のみわざとして讃美されています。このように、「父」による創造のみわざは、同時に「子」と共に、場合によっては「聖霊」と共に、本質的に一致して共有する「神」のわざとして考えられます。ヨハネの「神」とは、そういう父と子と聖霊が相互に一致し共有し合う「神」であり、それが「三一体の神」としての本質である、と考えられているように思われます。であるとすれば、復活の主イエスにおいて、「神」としては父も子も一致して一体に働き、栄光のみわざは常に一致して共有されるのです。父と子と同じように、子と聖霊も、復活の主イエスにおいて、栄光のみわざとして一致して一体に働き、御子と御霊の一致において、使徒を派遣し教会をつくるわざとしても常に一致して働き、そのみわざは共有されているはずであります。

ツヴィングリは、ルターとの聖餐論争において、キリストの身体は「天」に昇られたゆえに、「地」には現存しない、と主張しましたが、確かに、主の復活と昇天を聖書証言に基づく神の経綸として救済史的に見れば、しかも三位格其々の救済史的役割から見れば、キリストの昇天の後、聖霊降臨を記述することはその通りですが、主イエスにおいて、神の内在論的な相互交流という点から見れば、父と子と聖霊が同質一体である神としての働きは一致し共有されているはずです。ヨハネは、聖霊の伝授や使徒の派遣のわざにおいても、働きにおいて一体に共有し合う父と子と聖霊という三位一体の「神」を見ていたように思われます。東方神学におけるペリコレーシス(三位格の相互内在性)という教理から見れば、まさにヨハネの神学と信仰は、そうしたダイナミックな「神」の栄光のわざとして、復活顕現された主を描き、復活の信仰を言い表そうとしているのではないでしょうか。

 

 

6.「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

主イエスは、トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言って、諭しています。このみことばの意味は、「入って来て、見て、信じた」というあの言葉にも通じるみことばのようにも思われます。肉体を「見た」ゆえに「信じる」ことができたという意味で、見たことが信じる根拠となっている、と解釈することもできます。或いは「見た」という次元だけにとどまらずに、さらにそこから「信じる」というより神に近づく次元に至らなければならない、という意味にも解釈できそうです。どうしても人間的な常識からすれば、信じるという次元は、見たという次元に比べると曖昧で不確かなことと考えがちですが、どうもヨハネは反対で、神の真理については、見たという次元よりも、信じるという次元の方がより確かでより包括的で深い認識に至る、と考えているように思われます。主イエスご自身がトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである。」と仰せになっておられるように、明らかに主イエスや聖書の観点からは、「信じる」ことの方が、より確かであり、より幸いなことだ、と教えます。どうして「見る」より「信じる」方が、より確かで、より幸いなのでしょうか。

その一つは、やはり「人格」として相互に出会う、ということが背景にあるからではないかと思われます。単に物理的にしかも部分的に見たという次元を超えて、目には見えない、未来のことのように今の段階では何一つ検証できないこと、或いは時間を超えて向き合うべきこと、更には「人間の尺度」を超えた測り尽くせない領域に至るまで、より確かにより深くそしてより豊かに知り出会うことで、与えられる大きな幸いがあるのです。よく申し上げることですが、未来を見ることは誰にもできません。では未来はない、と言い切れるでしょうか。未来を信じて未来に向かって生きた者だけが、未来を現在に見た者となることができるのです。愛も同じです。自分は誰に愛されているか、最初から見えるわけではありません。その人の中に愛を信じてその人を愛した者だけが、愛を見て、愛を体験し、愛を生きることが出来るのです。しかもこうした未来や愛は、人間性における最も意義あることであり、人間性と命の「質」を決定づける事柄です。未来を見失った命も、愛を見失った命も、本当に生きている、という質の高い命と言えるでしょうか。肉も四肢もそれらは皆、このより意義のある「命の身体」のために仕え、構成し、形成する生命体の要素です。人間らしく生きる、いよいよ奥深い人間の存在や意味を考えますと、どうでしょうか。やはり見ることより信じることの方が遥かにその意味を知ることができるのではないでしょうか。ましてや、復活の主イエスは、単に肉体だけを見ることでは、その「生命体」全体を捉えることはできないのです。神として生きておられる無限性や永遠性、そして神の命や愛や自由に満ち満ちた全知全能の「神」を測る知ることは出来ないことです。したがって、信じて生きてみなければ、見ることも触れることもできないはずです。このように、見える世界が全てではなく、見えない所でこそ、本当の生きるべき世界もあり、無限の真理もあるのです。そうである以上、それに辿り着く唯一の道は「信じる」ことであります。無限の可能性は、「信じる」という一本の道にしか開かれてはいないのです。見えないと言って、信じることを捨ててしまえば、可能性の道は失われてしまいます。特に永遠の神を知り、出会い、共に生きることでは、信仰は決定的な意味を持つのです。

もう一つ、「信じる」ということを決定的に意味づけたこと、すなわち弟子たちの教会共同体として学び経験した「神の恵み」があります。「聖霊」の伝授です。「信じる」という幸い豊かな尺度は、実は「聖霊」による恵み豊かな賜物である、ということです。使徒たちは、そして信じた信仰共同体としての教会は、この復活の主より吹きかけられた「聖霊」を受けたのです。その「聖霊」による豊かな賜物として、信仰を引き起こして与え、信仰を助け信仰を導き、救いの真理に至らしめる、神の完成へと導く恵みであります。「見ないのに信じる人は、幸いである。」と告知された主の教えは、ヨハネとその教会において、全てを決定づける決定的な教えとなったのではないでしょうか。最早、トマスのように、生きた主イエスを「見る」よりも、「聖霊」の賜物として「信じる」共同体であることが、より大きな意味を持つのです。極論すれば、ヨハネとその共同体のように「信じる」共同体は、最早、主イエスを見る必要もないのです。なぜなら、既にこの福音の告知である主イエスのみことばそのものを信じることにおいてすべては完全に成就しているからであります。主のみことばの約束とその信仰において、教会は既に神の愛と永遠の命の内にあるからです。まさに神は、神のことばにおいて、最早、見ずとも、完全に現存し全てを差し出しお与えくださっているのです。そしてその元々の神の言葉である神の「言(ロゴス)」は、教会の宣教の言葉として、目に見える神の言葉であり目に見えない神の言葉として、現在しご自身を差し出して、共におられるのです。

このように、「見ないのに信じる人は、幸いである。」とは、そうした三一体の神としての一致し共有し合う神のみわざの中に展開する救いを、見えない聖霊の恵みのもとに、みことばによって導かれ、信仰によって形成される教会の幸いを示して、言われたことではないでしょうか。ヨハネはこの20章を「20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアである信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と締めくくり、福音書を記した主たる目的を明らかにしています。

2022年5月1日「あなたがたに平和があるように」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.1 小金井西ノ台教会 復活3主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教48

説教「あなたがたに平和があるように」

聖書 創世記2章1~9節

ヨハネによる福音書20章19~23節

 

 

聖書

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

 

説教

はじめに

主イエスは、マグダラのマリアに、復活したご自身のお姿を現して、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」、そう命じました。主の仰せに従って、「20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(ヨハネ20:18)のです。しかし、主の復活を知らされた弟子たちは、それがどういうことか、どうも腑に落ちなかったようです。いったい何が起こっているのか、よく理解できなかったのです。マルコによる福音書も、同じように、「16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。16:11 しかし彼らはイエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても信じなかった。〕」と明記していますので、弟子たちが主の復活を受け入れず、認めなかったことは明らかであります。

先週の説教で触れましたように、ヨハネも、「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て見て信じた。20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハネ20:8~9)と、晩年に至るまでいよいよ洞察を深める中で、突然、振り返るかのようにここにあらわれて、理解が不充分であったと自らも回想する言葉のように思われます。弟子たちは、最初は、全くと言ってよい程、主イエスのご復活を受け入れることは出来なかったようです。が、しかし後になってから、主イエスの復活とはどういうことだったのか、振り返り、「入って来た、見た、信じた」(ヨハネ20:8)という三重の人格的な行為を経て、初めて主の復活という出来事を認識できるようになった、と思われます。そこに、ヨハネが言わんとする復活の伝承が、ここに、現れて来るのです。それは、「来て、見た」だけで復活が分かったのではなくて、復活したお方の存在を、生きた人格として、自分の心の中心に認めて受け入れるのでなければ、復活の主とはであうことは出来なかった、ということではないかと思います。そのお方が、自分の心の中心に存在することを受け入れ認めて、初めて人間として、愛し信じお仕えできるのです。それが、人間らしい人格的な交わりのあり方であり、生きた人を人として認める認め方です。復活したご人格として、主イエスを自分の最も人らしい中心で信じる、そういう霊と魂の働きが中心にあって、初めて復活の主と出会うことが出来た、という経験です。どんな人物でも、その方の人格を心の中心で受け止められた時、初めてその方に私たちは信頼を置き、共に生きることができるようになります。肉体を見ただけで、人としての出会いは生まれないのです。しかもここで言う、復活されたイエスさまのご人格を、自分の心の中心で受け入れて認める「信仰」とは、ただ単に肉体ではなくて、人の子のうちに受肉した「神」(エゴー・エイミ、わたしはある)と自ら啓示したお方なのです。主イエスというお方のうちに確かに「神」(「わたしはある」)の現存を認めて、主イエスにおいてこそ「神」の存在を認めて受け入れることが出来て、その「信仰」において、初めて主イエスの復活の本当の意味内容が、復活という出来事の真相が分かって来るのです。ただ「見た」だけでは分からいことなのです。ここで重要な点は、主イエスの復活を、ただ死んで動かなくなった肉体がもう一度動き出した、という単純な「肉の再起・再現」として「見た」ことにあるのではないのです。それ以上に根源的で奥深い「人格」即ち「受肉の神」として、私たちの心の中枢において、「信仰」として受容されることに、ヨハネの復活証言の意義があります。言い換えれば、私たちの最も人間らしい尊厳を担う魂の中心で、このお方をそのまま「受肉の神」として受け入れのです。ファリサイ派の人々も、復活はある、と信じていました。しかしファリサイ派のように、ただ人が生き返る、というのではなく、ヨハネは、主イエスの復活とは、その決定的で本質的な意味において、主イエスにおける「神」の現存とそのわざによる出来事である、としたのです。先取りして言えば、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神という三位一体の神による力あるわざとその栄光の現れであり、しかも復活の大前提として、神の御子が人の子イエスとして受肉し、その御子の背負う人間性における十字架の死であり復活である、としたのです。復活はあくまでも、主イエスにおける「神」による力あるみわざであり、主イエスにおける「神」である御子、主イエスにおける先在のロゴスが、常に同じ一つの神である父と共にあり、また聖霊と共にあって、同一本質の神として、主イエスにおいて働き栄光あるわざをその背負われた人間性のうえに現わした、と言えましょう。

ヨハネは、復活の主に対するマリアの信仰的覚醒について、こう告げています。「20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。20:15 イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』20:16 イエスが『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」(ヨハネ20:14~16)。ここで是非注目したい点は、マリアは復活の主から、自分の名前を呼ばれ、語りかけられます。この主イエスからマリアの魂の中枢に向かって呼びかける御声こそ、マリアが復活の主であると気付き、復活の主を認め、自分の心の中に深く受け入れて、そのお方に対して人格の全てを開いて明け渡す、という出会いの引き金となります。「マリア」と自分の名を呼ばれるその呼びかけで、そのみことばを通して、或いは、マリアの魂のうち深く響き渡るその呼びかけにおいて、二人は人格として深く出会い、認め合い、交わりに至るのです。そこで初めて今ここに「主イエスは生きておられる」ことが分かるようになり、そのお方の現存の認識を深め、さらに新しい生を共に生きてゆくことになりまます。このように、単なる肉や動く肉体の再現ではなくて、自分の罪と死のために犠牲となって下さったお方として、即ちそれによって主の最も深い愛と憐れみのうちにあり、その主が、今ここにそしていつも永遠に、わたしの救い主として目の前に立ち共にお導きくださるのだ、と分かったのです。復活の認知は、ただ単純に肉の眼だけ見る物理的な肉体によって理解できる、ということではなかったのです。そこには生きて現存する人格として、十字架によって自分の罪から命を贖われた救い主として、そして今は復活という永遠の命のもとにある救い主として、自分を深く愛し、自分の名を呼び語りかけてくださる受肉の神として、「イエスさま」は目の前に現存し、みことばを通して、語りかけておられるのです。このように、生きて働く主イエスにおける「神」と、みことばにおいて、深く人格的に出会い交わる中で、ヨハネは、確かに「入って来て見た信じた」と証言したのではないでしょうか。確かに、物理的な存在や肉体における主のご復活を前提にしつつ、しかしそれ以上に、みことばにおいて、生き生きとした人格の深みにおいて、魂の交わりに導かれていた、と言えます。主のご復活を理解して受け入れられるようになるには、このように、主はみことばにおいてご自身を現わしておられ、主のみことばによる呼びかけの中で、私たちは最も人間らしい魂の中心でそれを聞き、みことばを通して現臨するお方の存在に心を向け、ついにはそのお方の現存を、しかも魂の奥深い根源を刺し貫くように現存してくださる主と出会うのです。人格として相互に認め合い出会うとは、ある意味で、肉体的である以上に、人格の中枢にまで至る、肉体を超える人間としての言わば「霊」的な領域にまで及ぶ認識であります。したがって、先ず人格として現存することに気付き、その現存を認めて、受け入れられるようになること、こちら側の人格の全てを尽くして信頼と尊敬をもって、主からの呼びかけを聞き分けることで、初めて「生きておられる」という本当の意味が分かるのではないでしょうか。しかも、そうした復活の主と出会いとその気づきの根源は、主イエスにおける「神(わたしはある)」による啓示の力であり、名を呼んで呼びかけ語りかける御声の力であって、ただ生き返ったという肉体を根拠にするものではないのです。主イエスにおける「神」を信じ認め、そこで復活させられた主イエスにおける「人」とも出会い、気づかされるのではないでしょうか。主イエスにおける「神」は、死体をも生き返らせる、という奇跡的な現象を遥かに超えて、愛と力に満ちた「神」のみことばによる力が、私たちの魂のうちに、「信仰」の体験として引き起こし、甦ってここにおられる、という人格的な出会いとなって証言されていると言えましょう。

 

1.「あなたがたに平和があるように」(19節)

本日は、ついに主ご自身から、弟子たちのただ中に入り込んで来て、復活したご自身のお姿を現し、みことばを告げられます。「20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたそこへイエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」とヨハネは証言しています。意味深いことがいくつかここでは伝えられています。それは、何と言っても、復活の顕現は、圧倒的に、主イエスご自身からの主導によることです。復活の主との出会いは、人間の側からは全く無力なことで完全に受け身です。主ご自身からご自身のお姿を現して、ご自身のみことばをもって語りかけ、弟子たちの人格の中枢に飛び込んで来られ、弟子たちの魂を平和と安息のうちに誘います。そうした主イエスから、人々の魂の奥深くへの突入によって、復活顕現は明らかな出来事として体験されます。ヨハネはそうした様子を「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへイエスが来て真ん中に立ち(h=lqen o` VIhsou/j kai. e;sth eivj to. me,son)、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(ヨハネ20:19~20)と証言します。迫害とそれによる死の恐れに支配され、堅く家の戸に鍵をかけて全てに対して閉ざす中、その扉をすり抜けて、徹底的に恐怖に飲み尽くされていた、そのただ中に、復活の主は突入して来られたのです。あたかも霊のように、そこへ、即ち恐怖に震える弟子たちひとりひとりの魂のただ中に突入するかのように入り込んで来て、部屋の真ん中に来てお立ちになって、ご自身の復活して生きておられるお姿をお見せになります。新共同訳聖書も「イエスが来て真ん中に立ち」と、とても勢いのある訳をつけていますが、リビングバイブルも「その時、突然、全く突然に、イエスが一同の中にお立ちになったのです。」と訳して、まさに弟子たちの真ん中に突入して来られお立ちになった復活の主イエスを描いています。意味深いのは、聖書ははっきりと「手とわき腹とをお見せになった」(20節)と証言しており、主イエスの復活を、決してただ単に「霊」や「風」のように顕現してはいないことです。しかし同時にその一方で、単に「生き返った肉体」だけを示そうとするものでもないのです。主は、弟子たちの真ん中に立ち、先ずご自身のみことばをもって語りかけ、弟子たちに平和の挨拶をします。しかしこの挨拶の言葉は通常の日常的な平和の挨拶にとどまらず、もっと本質的な意味があります。すなわち、神が、あなたがた生きた人間である魂の中心から、平和と安息のご支配がもたらせられるように、否、もう既にそのご支配は実現した、と宣言します。言い換えれば、人類に対する神からの和解と赦しの宣言であり、神の栄光勝利のもとに、人々は完全に罪赦され、死と滅びの呪いから解放された、という福音の宣言であります。主イエスは、ご自身の受肉を通して、「人間性」を受け取ることで、人類すべてにその人間性をご自身のうちに引き受けて背負い、担い続け、人間性をそのまま背負ったままで、十字架の死に至るまで神の義と従順を貫き、罪を償い、その結果、主イエスにおいて神との和解は果たされ、神の義は貫かれ、人類のための贖罪は完全に成し遂げられました。こうした主イエスの受肉を通して主イエスに背負われた「人間性」は、そのままの肉体と人間性において、「神」の力とその栄光のもとで、ついに罪と死に勝利して、永遠の命をもって死者から復活し、今ここに、神と人類との平和と和解を、そして永遠の命による復活勝利を祝福豊かに告げ知らせるに至ったのです。それが、復活顕現の福音的本質であります。「あなたがたに平和があるように」とは、まさにそうした救いの宣言でありました。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」という表現は、天と地を貫いて、神の国の到来と神のご支配を完全に分かち合う平和であり一致であり、それはまた、復活の主、栄光勝利の主による新しい契約共同体の誕生であり、それこそ、キリストの身体としての教会の本質を写すものであります。神による平和と和解は、先ずこうした「信仰」において、主イエスの復活勝利に気づくことから、その本質的な働きは始まったのであります。

 

2.「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)

「20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった弟子たちは主を見て喜んだ。」とあります。意味深いのは、「弟子たちは、主を見て喜んだ(oi` maqhtai. ivdo,ntej to.n ku,rion)」と記しています。単に、手と脇腹を見て、喜んだ、のではないのです。大事なのは、「手とわき腹をお見せになった(e;deixen ta.j cei/raj kai. th.n pleura.n auvtoi/j)」、その結果、それからさらにもっと大事なこととして、「イエスさま」だ、ということが分かったのです。この気づきは弟子たちの方から気付いたのではなくて、主イエスの方から、ご自身の両手と脇腹を差し出し弟子たちにお見せになることで、ご復活の主の現存をお示しになったのです。言うまでもなく、これは、主イエスを十字架に打ちつけて罪人として処刑した痛みと屈辱の釘傷であり、主イエスの脇腹を刺し貫いて、トドメを刺して「死」に至らしめたあの槍の傷跡であります。この記述は、単に肉体としての存在を証明しようとしているのではないのです。肉体を示す以上に大事な意味は、自分たちの罪と死のために、十字架において贖罪の死を遂げて葬られたお方の傷であり、自分たちの贖いのために十字架の死において傷ついたお方のお身体がここにあり、しかもその十字架の死は敗北ではなくて、栄光勝利の復活体として、今ここに甦って立っておられるのです。主イエスは、今もなお、あの十字架で死んだ同じお身体をそのまま背負い担って、死に勝利して、復活体としてご自身の十字架のお身体を示しつつ、ここに立っておられる、ということであります。主の十字架が神によって勝利した、という喜びでもあります。確かに、弟子たちは復活の主として再会したのですが、それは、自分の罪のために十字架で贖いの死を果たされたその贖罪と復活のお身体をもって、弟子たちにそのお姿を現し、弟子たちはそのお身体をもった「受肉の神」と再会したのです。しかもそれは、死と敗北のまま終わった死の身体、死に支配され呪われた人間性ではなくて、栄光の復活という勝利のお姿で、しかも十字架における贖罪の勝利した新しい人間性として神に受け入れら祝福されたのです。主イエスがお見せになられたのは、両手と脇腹ですが、ですから、わざわざヨハネは、「主」を見て喜んだ、と書くのであります。これはまさに十字架の勝利者としての主であり、主イエスにおける「神」の勝利をいよいよ確かに知って、そうだったんだ、と喜んだのではないでしょうか。復活とは、主イエスの復活であり、十字架の死からの復活であり、ですから、単に肉体が復帰したという不思議な幻想ではなくて、十字架に死んで葬られた主イエスにおける人類救済の勝利の凱旋であり、主イエスにおける「神」が、即ち神の御子が、その受肉したお身体と人間性を支配する罪に神の従順を尽くして勝利し、愛と憐れみをもって罪から贖い、永遠の命をもって復活という新しい人間性を実現してくださった、ということに他らなりません。その新しい復活の人間性のもとに、弟子たちは初めて本当の平和と安息を分かち与えられたのです。したがって、復活の主が最初に発したみことばは「あなたがたに平和があるように」という和解と平和のみことばでありました。

 

3.「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)

主イエスの十字架の死における贖罪の人類救済は、主イエスのお身体の復活という勝利と栄光の凱旋となって、弟子たちに顕現されました。主イエスは「あなたがたに平和があるように。」重ねて言われた(21a節)とありますように、人間を根源から支配していた罪と死と滅びの呪いに対して、主イエスの十字架と復活のお身体において、即ち主イエスの全身全霊を尽くした人間性において、完全の神のご支配と勝利を実現し、天地を貫く天地一体の和解と平和をもたらしました。主イエスによる神の平和は、新しい創造における存在の義として隅々に沁みわたり、人類は元より万物の隅々に至るまで神の和解と平和による命の支配は実現したのです。この福音が繰り返し平和の挨拶として宣言されています。このように、主の復活における万物の平和と和解の挨拶が、重ねて宣言されていることはとても意味深いことです。

主のご復活の挨拶のもとに、即ち、この神の和解と平和の勝利宣言のもとに、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と主は仰せになり、弟子たちを「使徒」として派遣します。弟子たちは皆、ここで改めて、「聖霊」によってと言うよりも、「復活勝利の主イエス」から直接に、「使徒」として、全地に遣わされます。「遣わす、送り出す(avposte,llw avpe,stalke,n)」という字は、「使徒」という字の動詞で、完了形と現在形で二度用いられます。父による子の派遣と、子である主イエスによる使徒の派遣は、同じ「遣わす」という動詞を用いることで、「使徒の派遣」というわざの本質は、父子一体の交わりにあるわざであることを暗示しているようです。受肉の神として天地を貫く主イエスの栄光勝利とそのご主権のもと、その栄光勝利とご支配をそのまま受けて、弟子たちは、天へと導神の平和と和解の「使徒」として、神から天地を貫く働きを担い遣わされたのです。

ヨハネによれば、この弟子の派遣は、復活顕現の主イエスにおいて、聖霊の伝授と共に、同時に統合的な一つのわざとして、行われています。ルカによる福音書は、明らかに時間による経過と段階を経て、主イエスの復活顕現から昇天、そして主の昇天を受けて、初めて聖霊が弟子たちに降り、その聖霊を受けて弟子たちは世に遣わされます。ルカによる福音書24章45節以下によれば、24:45イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めがその名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。24:49 わたしは父が約束されたものをあなたがたに送る高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と記されています。そして使徒言行録1章3節以下によれば、「1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい。1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と記しています。

しかしヨハネによる福音書20章19節以下によれば、「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった」という復活顕現の出来事も、そして「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」という弟子を使徒として世に派遣することも、さらには「20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せばその罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ赦されないまま残る」とする聖霊の伝授も、同一の場で同時に与えられる一つの出来事として、行われています。それは、同じ場所で同じ時に行われただけではなく、さらに其々のみわざの内容が相互に深く関わり合う同じ一つの神の出来事として語られます。ちょうど、三位一体の父と子と聖霊の「三位格」が、其々「一体」に相互に内在するように、御子の復活顕現も、聖霊の伝授も、そして弟子の派遣と教会共同体の形成も、皆一つの統合された神の出来事として、明らかにされるのです。こうした一体の神による統合された出来事として福音を証言する、という点に、ヨハネとその教会の持つ神学的特徴があると言えます。こうしたヨハネの神学は、東方教会の神学の根幹を担っているようにも思われます。

 

4.「聖霊を受けなさい」(22節)

復活した主イエスは、その場で、弟子たちを「使徒」として派遣し、同時に同じ場で弟子たちに「使徒」としての聖霊を伝授します。「20:21 イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい(evnefu,shsen kai. le,gei auvtoi/j( La,bete pneu/ma a[gion)。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」と言って、聖霊を弟子たちに聖霊を吹き入れて注がれています。先ほど申しましたように、ヨハネでは、復活の後に昇天があって、それからようやく聖霊が降るペンテコステを迎えるというのではないのです。聖霊の伝授は、復活と同時に同じ一つの統合された出来事として描かれます。しかも復活の主イエスから直接弟子たちに、しかも息を吹き入れるようにして、聖霊は吹き入れられています。「息を吹きかける」(evmfusa,w evnefu,shsen)という字は、創世記2章7節に「2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた(evnefu,shsen eivj to. pro,swpon auvtou/ pnoh.n zwh/j)。人はこうして生きる者となった(evge,neto o` a;nqrwpoj eivj yuch.n zw/san)。」とありますように、生きた人格としての神に依る人間創造の原点を表す場面ですが、七十人訳聖書のギリシャ語と全く同じ字です。ヨハネは、わざわざ「息を吹きかける」という旧約聖書の人間創造の字を用いて、聖霊の伝授を「創造」という視点から描きます。いわば、あたかも聖霊の伝授とは、人間の「再創造」である、と言わんばかりです。否、人間の創造の完全であり完成であると言っているように思われます。しかも、その聖霊を吹きかけて、人間の創造を完成させるのは、復活の主イエスであります。つまり、主イエスにおける「復活」の人間性をそのまま人間に分け与えているのです。聖霊を受けた使徒たちの新しい人間性とは、この主イエスにおける栄光の復活の霊と身体とによる新生であります。ここに、天地を貫いて実現するキリストの復活の身体としての弟子たちの共同体であり、即ち一つの、聖霊なる、公同普遍なる、使徒の教会の本質がここにあります。つまり、教会とはキリストの復活した十字架のお身体であり、贖いのために十字架に死んで復活した主のお身体であります。それを弟子たちとその共同体は、ご復活の主イエスから直接聖霊を受けるという形で与り、分け与えらたと言えましょう。

 

5.「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(23節)

復活の主イエスは「『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」と仰せになり、弟子たちを<使徒>として派遣しますが、その際に、「息を吹きかけて」聖霊を与えます。先ほど、聖霊の伝授は、人間の再創造と創造完成を意味している、と申しましたが、もう一つ重大な意味を持っています。それは「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せばその罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ赦されないまま残る。」と、主イエスご自身の権威において、「罪を赦す権限」を弟子たちに委ねておられることです。ここに、聖霊伝授によるもう一つの、弟子たちを「使徒」として立て、遣わされた意味が込められています。「聖霊」を主イエスは弁護者(パラクレートス)とお呼びになっておられます。パラクレートスとは、「傍らに絶えず寄り添い助ける者」という意味です。主ご自身の代わり聖霊を弟子たちの傍らに寄り添う助け主として与えたのです。その働きの目的は、「あなたがたが赦せば、その罪は赦される」が「あなたがたが赦さなければ、赦されない」という赦罪の権限の付与でした。「福音を宣べ伝える」という「宣教」の全権委任と、そして「罪を赦す」という赦罪の全権委任が「使徒たち」与えられたのです。これが復活の主から、直接に使徒たちに委ねられた使徒としての権限委託です。「聖霊」はそれを傍らで寄り添いつつ保証する弁護人であり助け手であります。この聖霊伝授に基づく宣教と赦罪の全権委託は、マタイによれば、「ペトロ」(マタイ16:19)を代表者としてつつも「18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ18:18)と言われていますように、「使徒」の其々に対して委ねられた権限委託であったと言えます。

 

2022年4月24日「イエスは必ず死者の中から復活される」 磯部理一郎 牧師

 

2022.4. 24 小金井西ノ台教会 復活第3主日礼拝

ヨハネによる福音書講解47

説教 「イエスは必ず死者の中から復活される」

聖書 詩編16節1~11節

ヨハネによる福音書20章1~18節

 

 

聖書

20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て見て信じた。20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」20:16 イエスが、「マリアと言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 

説教

はじめに 「主が墓から取り去られました」(13節)

主イエス・キリストが復活した、という復活の根拠は、「空虚な墓」を確認した所から始まりました。「20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られましたどこに置かれているのかわたしたちには分かりません。』20:3 そこでペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り亜麻布が置いてあるのを見た。20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て見て信じた。」とヨハネは証言します。ペトロとヨハネは、マグダラのマリアから「主が墓から取り去られました」との報告を受けて、そこで、急いで墓に行き、墓の中に入ると、墓に納められていたはずの主イエスの亡骸は既になく、ただ亜麻布と覆いがそこに残されているだけでした。つまり、墓の中に葬られた主イエスの遺体がない、という既に空虚となった墓を確認したことから、復活の話は始まります。

マルコによる福音書による伝承では、マグダラのマリアとヤコブの母マリアそしてサロメが墓を訪れ「16:5 墓の中に入ると白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」と記されています。つまり「白い長い衣を着た若者」が墓の中にいて、「あの方は復活なさってここにはおられない」と告げ、主イエスは既に復活なさったことを告知します。同じように、ヨハネによる福音書も「20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、20:12 イエスの遺体の置いてあった所に白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。20:13 天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』」と告げ、「白い衣を着た二人の天使」の登場を証言しています。但し、マルコの伝承では「白い長い衣を着た若者」が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と主イエスの復活を告知していますが、ヨハネの伝承では「白い衣を着た二人の天使」は確かに墓の中に登場しますが、復活の告知はそこではなされず、一気にマリアに主ご自身が復活のお姿を現すという展開になっています。他方、マルコの伝承では、〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活してまずマグダラのマリアに御自身を現された。〕と復活顕現が報告されていますが、この16章9~20節の証言は、聖書協会の凡例によれば「後代の加筆と見られている」と紹介されています。マルコの伝承では、先ず「空虚となった墓」が確認され、次いで「白い長い衣を着た若者」が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という主の復活告知がなされるだけで、〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。〕という証言は、後代の加筆と見なされています。ところが、ヨハネによる福音書は、マルコの証言とは全く反対に、主イエスのご復活を、弟子たち自身による目撃体験として、特にマグダラのマリアに復活の主イエスが自らお姿を現して出会った、という復活の体験に基づいた証言を中核にして、主イエスの復活を伝えています。このマリアと復活した主イエスとの出会いこそが、主イエスが復活してその復活のお姿を現した、とする復活証言の中核を構成することになります。

 

1.「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」(14節)

マリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と二人の天使にと迫り、主イエスの亡骸を返して欲しい、と嘆き訴えます。マルコの証言によれば、そこで「長い白い衣を着た若者」が「あの方は復活なさってここにはおられない」と復活を告知することで、答えています。つまり、主イエスの亡骸がここにはないのは、主イエスは復活したからだ、と告げています。復活したから、亡骸はないのだ、ということになります。最初から「復活」は天から降ったかのように、大前提として告知されます。しかしヨハネの伝承では、復活の証言は一歩深く踏み込んで、実際に主イエスご自身が復活したお姿をマリアに直接現わした、だから、亡骸はないのではなくて、今復活してそのお姿は現されているではないか、という証言となります。ヨハネはさらに続けて「20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」と証言しています。ここで、ヨハネは「見えた」とはっきりと断言していますが、その一方で、同時に「分からなかった」ともはっきり言っています。ここで証言される復活の事態は、非常に矛盾した表現で伝えられています。「見えた」なら、「分かる」はずですが、「見えた」のに「分からなかった」とはどういうことなのでしょうか。「イエスの立っておられるのが見えた」と証言し、主イエスの復活のお姿を見たのに、しかし、「それがイエスだとは分からなかった。」とも告白しています。いったいどういうことが起こっていたのでしょうか。

先ずその理由の一つは、本当の意味で「生きた人格存在を知る」ということの、深くて難しい問題がここにはあるように思われます。厳密かつ正しい意味で、「生きた人格を知る」ということの奥深さがあるのではないでしょうか。皆さんは、「自分」のことをどこまで深く確かに知り、分かっているでしょうか。自分がどのような意味と目的で、誰によって命を与えられて、なぜ生まれて来たのか、そして自分の本当の姿や正体は果たして何なのか、どのように生きどのように生涯を完成させてゆくのか、自分のことでもよく分からないのではないでしょうか。それは家族でも同じです。結婚して一緒に暮らす連れ合いでも、どこまでその人を自分は知り理解しているだろうか、全く理解してなかったのではないか。血縁の親子兄弟であっても、本当に知り分かり合うことはとても難しいことです。自分が相手に求め期待する自分勝手なイメージはあっても、本当の所、相手はどのような人なのか、ちゃんと知っているわけではないのです。毎日のように顔を見て、姿形を知っていても、その人を「生きた人格」としてをどこまで本当知り分かっているのでしょうか。それは、姿形を前提にしつつも、魂の奥深い所で、相手の語る言葉を聞き分けて、相手がどのような人格なのか、死ぬまで相手の本当の姿を探り求め続ける必要があるのではないかと思います。夫婦でも、生きて生活と共に年老いてゆく中で、しかも相互の魂の深淵において、お互いの人格を探り求め続けて、時には出会い、時には見失い、そして時に矛盾に満ちた問いの中で、お互いの人格に触れ続けることで、初めて出会い、分かり合えるのではないでしょうか。人生でいろいろな人々と出会いますが、殆どが見ていてもすれ違ってしまいます。確かに物理的に一定の時間を共にして、姿形を見て音声を聞いて、場合によって共同生活するのですが、本当の意味で「人格」として出会い、知り、分かり合えるのでしょうか。見て、場合によっては知っていても、本当は知らずに、何も分からぬままに、すれ違っているのではないかと思います。人が人格存在として他者を知るとは、どういうことになるのでしょうか。

マリアは、「それがイエスだとは分からなかった」のです。目の前に立っておられる主イエス対して、「園丁だと思って」語りかけています。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」とまで言い出します。実に不思議ですが、「イエス」というお方が目の前に立っておられるのに、主イエスの存在を認めていないのです。彼女が認めたのは「園丁」でした。主イエスを認めることができないでいた原因は、「園丁だと思って」いたからです。自分の思いや考えが、現実に目の前にお立ちになって、しかも語りかける主イエスを見ても、抹殺させてしまい、分からなくしていたようです。無理解と誤解は、つまりマリアの考え違いは、マリアの自我とその外側に立つ主イエスとの間に立ちはだかる大きな壁となり、本当の人格としての出会いと二人の交わりを分断していたのです。ここに人間の不完全な限界性があります。どんなに好きになって愛して、やはり完全にその人を知り分かり合えることはできないのではないでしょうか。それが人間です。ましてや、それが人間ではなくて、万物を超越する「神」としての存在を見て知るということでしたら、どうでしょうか。カルヴァンは「有限は無限を包むことができない」と教えています。包む、理解するには、限界があり、結局人は神を知ること、ましてや十字架において死に、死者から復活した「神」を見て理解することは、たとえ見ても、不可能なこと、出来ないことです。しかし理解することができないから、存在しないとは言えません。どうすれば、その存在を確かに捉えられるのか、どう捉えればよいのか、という決定的な問いが、実は聖書の根本命題でもあります。人間関係でも、目の前にいる人を、母ならば母として愛と尊敬と信頼をもってその存在を認めて受け入れる中で、私たちは初めて、「母」と出会うことができるのではないでしょうか。問題は母の姿形だけではないようです。

 

2.「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」(8節)

そうした真実な意味で、生きた人格との出会いは「信仰」による、とヨハネは確信したのではないでしょうか。先ほど読んで聖書の中で、とても意味深長な表現がありました。「20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て見て信じた。20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と記していますが、この言葉は、前後関係からすれば、少々唐突に組み入れられたヨハネ自身の「注釈」のようにも読めます。ヨハネは「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の真理を理解するには、復活した主イエスを「入って来て見て信じた」という三重の人格的行為を経て、初めて実現することができる、と言い表わしているように思われます。ヨハネは、死を迎える直前まで、イエスさまとは「誰」であったか、主イエスにおいて「啓示された神」(「わたしはある」「エゴー・エイミ」)とはどういうことであり、どのような神であったのか、振り返り反芻し続けて来たと考えられます。主イエスは、ご自身の十字架の死や甦りにおいて、何を弟子たち啓示し示そうとしたのか、ヨハネの別の弁護者と言われた聖霊の導きのもとで、さらに奥深く問い、いよいよ神の真実を探求し続けていたと考えられます。そしてついに確信したことこそ、「来た、見た、そして信じた」という三つの人格的行為を貫くことで、人は神と出会うことができた、と思い至ったのではないでしょうか。主イエスにおいて啓示された「神」とは、まさに「神」であり御子でありそして先在の言であり、しかもそれは「人」として受肉した神であり、であるとすれば、主イエスにおける神人両性において、実現する神の秘儀を確認したのではないでしょうか。その真理に達するには、ただ弟子として来た、従っただけでは、到底理解するには不充分であったはずす。また目の前で事実を「見た」だけでもだめだったのではないでしょうか。どうしても、「入って来て見て信じた」所に至って、それは初めて分かる始めることなのです。教会生活も、入って来ただけでもだめ、教会生活を見ただけでもだめ、結局、あなたの魂の根源から、神のすべてをそのまま従順に信じて、受け入れてこそ、そこで初めて真実に「神」と出会うのです。人格存在との出会いには、どうしても、魂の根源において、その人を認めて受け入れ、そして信じることにおいて、初めてその人を知り出会い分かり合えるようになるのです。つまり、人格存在は皆、実際に自分で、来て、見て、信じる所で、人格の根源と魂を尽くして、声を聞き、初めてその人格としての存在に触れ、出会い、交わることができるのであります。自我を押し付けて、自我によって相手を支配することではないのです。マリアは復活の主を「園丁」にしてしまったように、復活の主との出会いを疎外していた障壁は、まさに「自我」から生じる自分の考え違いにあります。このマリアの自我による勘違い思い違いゆえに、それはとても深刻なほど、二人は引き離し、マリアから何もかもを奪い去り、失わせていたのです。これこそ、生ける神と出会うことができない人間の限界であり、罪であり、悲しい宿命と言えましょう。私たちも、主が目の前に立っておられ語りかけておられるのに、神を園丁にしてしまう、神を世の物にしてしまっているのではないでしょうか。ヨハネは、その限界を突き抜ける決定的な行為として、「信じた」と言ったのではないでしょうか。そこで初めて「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉」を理解したのではないでしょうか。

 

3.「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った」(16節)

こうしたどうしようもない人間の側の限界と障壁を打ち破り、信仰において出会う道を開いたのが、主イエスからのみことばによる呼びかけでした。イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った、とありますように、主からのみことばが、この人間の側の限界を打ち破ったのです。主イエスはマリアの前に立って、「マリア」と彼女の名を呼んで、マリアの目を覚まし心の扉を開いたのです。ただ前に立ってそこにおられるだけではないのです。名前を読んで、言葉を語り、ご自身を開いて、十字架の死において勝利して復活し、永遠の命に漲り溢れるご自身の人格をマリアに対して差し出されます。それは単に名前を呼ぶことで終わらないのです。徹底的に、十字架と復活のご自身をマリアの人格の中枢に向かって差し出し与えるのです。真実な言葉とは、そのように自己自身の人格の全てを開いて相手に差し出し明け渡すことではないでしょうか。すると、マリアも「ラボニ」と同じように、いつも呼んでいた主の呼び名で、応えます。差し出された復活の主イエスご自身に対して、マリアも自己自身の人格の全てを開き明け渡して、主を認め受け入れ、そして全てを信じたのです。「ラボニ」(先生)とは、いろいろと解釈できるでしょうが、先ず、自分の全てを導く師として自己を開き明け渡したと言えましょう。この後で、トマスは「わが主、わが神」と主を呼び、復活の主を受け入れていますが、まさに自分のすべてにおける神として、主として、主イエスを受け入れたことを意味しているのではないでしょうか。

 

4.「わたしにすがりつくのはよしなさい」(17節)

こうしてついに、マリアは復活の主と出会うことができ、喜びと安堵の中で、主を迎え入れようとします。しかし「先生」と言って主に縋り付こうとするマリアに対し、主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と押しとどめます。しかしこのテキストの中心は、即ち主イエスのメッセージの主眼点は、「すがりつくのはよしなさい」と押しとどめることではありません。それに続く、メッセージにあります。「まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」と告げます。マリアとの出会いも大事ですが、それ以上に、神の本質の神の共同体の本質について、啓示するみことばが語られます。主イエスは十字架の死から復活したことを見て信じて理解したマリアに、さらに深い神の啓示を告知したのです。それは「まだ父のもとへ上っていない」というもう一つの新しい主の栄光のみわざです。そればかりにとどまらず、さらにこの新しい栄光のみわざ、即ち、天の父のみもとへと上るという啓示の証言者として、弟子たちのもとにマリアを遣わします。この使命を受けたマリアは、「20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」とありますように、主に命じられた通りに伝えました。

ここで最も重要な、主イエスのメッセージは、父なる神のもとに上る、という栄光のみわざについての告知にあります。「まだ父のもとへ上っていない」(avnabe,bhka pro.j to.n pate,ra)だから「わたしの父のもとへわたしは上る」(VAnabai,nw pro.j to.n pate,ra mou)というメッセージです。これは、いったい何を意味しているのでしょうか。しかも「わたしの父のもと」とは、同格表現を用いて、即ち「あなたがたの父」であり「あなたがたの神」でもある所だと告げています。ここには二重の一体性が暗示されているように思われます。一つは、「上るという」神の栄光のわざは、つまり主イエスの栄光において「神」として父なる神も子なる神(言)も一体の栄光にある、ということを暗示しているのではないでしょうか。教理的な表現をすれば、ヨハネは「父」「子」「聖霊」は神として一体の栄光のうちにあることを言い表わそうとしているのではないか、と考えられます。したがって、ただ単に栄光のうちに天に昇るのではなくて、ヨハネにおいて、主イエスが天に昇るのは、主イエスにおける「神」(わたしはある)は、父・子・聖霊の一体で一致した一つの栄光である、ということを意味します。この天に上るという栄光は、父と子と聖霊とが一体に神としての交わりを相互に共有し合う栄光である、という神の栄光に加えて、ヨハネはさらに、その栄光は「あなたがたの父」の栄光であり、「あなたたがの神」の栄光である、と直ちに同格的に言い表します。主イエスが父のもとに上るとは、実は、わたしたち自身もまた父のもとに上ることを意味しているのです。なぜなら主イエスにおける「神」は同時に主イエスにおいて「人」を一体に背負い担っておられるからです。これ以上の福音は外にあるでしょうか。パウロは「われわれの国籍は天にあり」と告白した通り、まさに、わたしたち人類の本質は、主イエスのうちに担われ背負われて復活して天に上る、その主イエスのお身体のうちに、しかも既に天において存在するのであって、今のわたしたちのこの世での姿は、永遠の天での姿を写す影に過ぎないのではないでしょうか。わたしたちの本体は天にあれ、主イエスのお身体のもとにあるのです。時間的に先取りして言えば、時間と地上にある私たちは、永遠の天上から見れば、少し遅れた天からの影に過ぎないのではないでしょうか。

わたしは、この永遠の天上において父と子と聖霊の一体の神の交わりのもとに、主イエスにおける人性を通して、私たち人類の人間は根源から全て担われ背負われて一体の身体として、同じ命の交わりのうちに共有されている、と信じています。これが「天」であり、「教会」の本体であり、そしてその先取りした招きの場が地上の教会であります。そしてニケア信条に置いて告白される「唯一の、なる、公同普遍の、使徒の、教会」とは、このことを指すものだと思います。地上にある教会の根拠は全てここに収斂されます。唯一性も、聖性も、公同性も、そして使徒性も、其々の概念は相互に内的に融合した概念です。教会が唯一であるから聖であり、或いは教会が普遍的である(カトリック)根拠は使徒によるからです。逆も言えます。使徒的でなければ普遍的な公同教会は存在しないのです。いずれにせよ、こうした教会の根拠根源は天にあって、その天の栄光とは父と子と聖霊の神が一体のうちに共有する栄光であり、その栄光のわざとは、主イエスにおいて受肉・十字架の死・葬り・復活・昇天を貫通する神人両性の一体の交わりであり、その人性のうちに、私たち人類の人間性は担われ背負われ一体の身体として場を得ているのです。この「父のもとへ上る」という栄光のみわざにおいて、全ての救いは実現し全ては完成します。ヨハネは、こうした天のキリストから、すべてを俯瞰するように福音を語ろうとしているのではないでしょうか。

西方のキリスト教の信仰は、どちらかと言えば、このキリストをキリスト論的に焦点化して、贖罪論的な教理を強く展開し、一体性よりも三位格を其々の存在様式において経綸的に記述しようとするようです。しかし、ヨハネを初め、東方のキリスト教の信仰の特徴は、常に、父と子と聖霊は一体のうちに相互内在化しており、父のうちに子はおられ、子のうちに聖霊もおられ、聖霊がおられる所には、父と子の神も一体におられると考え、どちらかと言えば、一体性において相互を同時に語ろうとするように思われます。

2022年4月17日「見よ、お前の王がお出でになる」 磯部理一郎 牧師

 

2022.4.17 小金井西ノ台教会 復活礼拝

ヨハネによる福音書講解説教46

「見よ、お前の王がお出でになる」

聖書 詩編28編1~9節

ヨハネによる福音書12章12~36節

 

 

聖書

12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。12:17 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。12:18 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。12:19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」

 

12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人はそれを保って永遠の命に至る。12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 

12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よわたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。12:28 父よ御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した再び栄光を現そう。」12:29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。12:34 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」12:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 

説教

はじめに. 「人の子は上げられなければならない」(32節)

今日、わたしたちは、今ここに、主イエス・キリストのご復活をお迎えいたしました。イースター、おめでとうございます。本日の聖書箇所は「棕櫚の主日」に朗読される場合が一般的ですが、それは、主イエスの受難物語を時間の推移に従って描くという伝統によるものです。特に、共観福音書の構成は、主イエスのご受難の物語を順序よく辿りますが、ヨハネによる福音書は、共観福音書のように受難物語を時間の推移に即して辿りながら、しかし同時にヨハネ独特の時間を超えた啓示証言を組み込んで、主イエスの受難物語を展開しています。本日のみことばでも、イエスさまは、最初から弟子たちに、「わたしは地上から上げられる(u`yo,w u`ywqw/ 高い所に上げられる、高める)」(12:32)とアオリスト受動態で告げておられます。或いは「人の子は上げられなければならない(u`yo,w u`ywqh/nai 高い所に上げられる、高める)」(12:35)と、同じアオリスト受動態不定形で、仰せになっていおられます。この「上げられる」という言葉は、単に主イエスの受難物語を、エルサレム入場、続いてご受難と十字架の死、それから復活という出来事を一つ一つバラバラにして、形式的な時系列で展開して辿るのではなくて、どちらかと言えば、時間による区切りを超えて、主イエスにおける「神の永遠性」という視点から、地上から天上を貫いて、神の御子として父と共におられると同時に、また受肉の神の御子として天ののもとに栄光のうちにお帰りなられる、という栄光の帰還が「上げられる」という表現で言い表わされています。ヨハネは、主イエスの受肉全体を神の栄光の現われとして捉え、受難物語を展開します。いわば、主イエスご自身が天から降り、人の子であるイエスとしてマリアから人間性を受けて受肉して、イエス・キリストとして、即ち神のメシアとして、この地上にお出でなられたこと、そうした永遠の神の御子が人として受肉して到来したこと、即ち主の受肉全体が、そっくりそのまま神の栄光のみわざと言えましょう。この御子の受肉という出来事は、クリスマスという誕生に始まり、十字架と復活において頂点に達し、昇天して父のみもとにお帰りになり、右の座におつきなるという全てを、受肉のお身体において包み込んでいます。その受肉のお身体をもって栄光の帰還を果たすと共に、地上には新たに、聖霊が遣わされ、使徒たちによる教会が誕生する、という出来事をもって完結します。つまり、神の栄光のみわざは、全て、御子の受肉における十字架と復活を中核として展開します。パウロの表現に従えば、神の秘められたご計画は、この受肉におけるご生誕とキリストの十字架における死と復活において、明らかにされるといえます。

本日朗読した聖書箇所は、一般的には、復活を証言する聖書箇所としては用いられませんが、明らかに、先ほどもご紹介しましたように、「わたしは地上から挙げられる」あるいは「人の子はあげられなければならない」と主が仰せの通り、主イエスの栄光あるご帰還に焦点化させて、昇天も、復活も、十字架における死も、そしてマリアにおける受肉も皆、「あげられる」という一連の神の御子の栄光のみわざとして、啓示され、描かれます。極論すれば、主イエスの昇天も復活も十字架もそして降誕も、受肉それ自体が皆、受肉のお身体における神の栄光のみわざの現われとして、描かれます。したがいましては、本日は、先ず、この「高くあげられる」という「神の栄光のわざ」という視点から、ヨハネ福音書の特色ある復活について読み解いてまいりたいと思います。

 

1.「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」(13節)

そのためには先ず「メシア」の意味を改めて見直す必要があります。メシアとは、前にも触れましたように、神に聖別され油塗られて「王」位に立てられた者を意味します。しかし問題は、どういう意味で「王」なのか、ということです。それは先ず主の十字架の上に掲げられた「ユダヤの王」という罪状書きが示す通り、主イエスは「ユダヤの王」という罪状で、十字架刑に処せられ、殺され、この世から抹殺されました。しかも、その十字架における死とは、「過越」における「神の小羊」という犠牲の生贄としての死でありました。「ユダヤの王」となることは、ユダヤの民のために、贖いの小羊として生贄になることを意味しました。「王」位に就くとは、民のために贖罪の死を遂げる王となることでもあったのです。ベタニアで主イエスをお迎えしたマリアは、主イエスの足に高価なナルドの香油を塗り、主をメシア(王)として葬りの儀式を致しました。マリアは、そうした主イエスの「神の小羊」としての死を先取りして、また天の父のもとに帰還するメシアとの別れを意識して、ナルドの香油を塗り、心からの痛みと懺悔、そして涙と共に彼女の全てを尽くして、感謝をささげました。主イエスは、そうしたマリアの葬りを主イエスを受け入れ、「12:7この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取って置いたのだから。12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と仰せになって、お応えになられました。

本日の聖書箇所の冒頭には「12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ主の名によって来られる方に祝福があるように、/イスラエルの王に。』12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。12:15 『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。』12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」と記されていました。明らかに、これは主イエスを「ホサナ」と呼び、また「主の名によって来られる方」を主を神の使者として迎え入れて祝福し、さらには「イスラエルの王」、「お前の王がおいでになる」と讃えて、主イエスのエルサレム入場を迎えています。「ホサナ」(hosanna)とは、ヘブライ語の「ホーシーアー・ナー」またそのアラム語形の「ホーシャナー」のギリシャ語読みで、「今、救ってください」という意味です。詩編118編25節にありますように「どうか主よ、わたしたちに救いを。」という祈願の祈りです。やがて「ダビデの子にホサナ」とか「ホサナ、いと高き所に」等とマタイで言われるように、神讃美に伴う感嘆詞の慣用表現として用いられるようになりました(マタ21:9,15、マコ11:9~10、ヨハ12:13)。

もう一つ、メシアをめぐる誤解がありました。それは、ヨハネの証言する「高く上げられる」メシアとは、理解が異なるものでした。「人の子は上げられなければならない」「わたしは地上から上げられる」と言われた主イエスに対して、群衆は問います。「12:34わたしたちは律法によってメシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、『人の子は上げられなければならない』とどうして言われるのですか。」と言葉を返します。明らかに、本来、主イエスは地上のお方ではなく、天上のお方、即ち本質は「神」であります。しかし群衆にとってのメシアとは、地上のお方、即ち、神から遣わされ特別な力を持つが、地上の「人」にすぎないのです。ヨハネが、この福音書の冒頭で讃美告白した神の「言」のように、永遠のはじめから神として存在する、万物の創造主でも、また永遠の命でもありませんでした。ユダヤ人たちの「律法」の教えからは、主イエスにおける「神」を知り、導き出すことはできなかったのです。それはただ、主イエスのみことばを信じて受け入れる外に、道はなかったからであります。

ただ問題は、弟子たちさえもまた、メシアの本当の意味を正しく理解することができなかった、という点です。聖書に「祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た」(12、13節)と記されています。この棕櫚の枝を持つ行為は、古くから、熱狂的な民族主義による政治行動を反映する行為でした。しかも「イスラエルの王」と叫ぶ民衆の声は、主イエスを、政治的な意味で、場合によってはローマ帝国から独立しようと武力蜂起する戦いの王という意味で、主イエスを押し立てようとする民衆の熱狂的な期待が込められていたと思われます。前述のように、主イエスの十字架刑の罪状は「ユダヤの王」でした。言わば、ユダヤの宗教権力者の陰謀と唆しにより、ローマ帝国に対する反逆反乱分子として、処刑されたということになります。

しかしヨハネ福音書は、民衆の熱狂的な歓迎を描いた後に、ろばの子に乗られる主イエスのお姿を描き、民衆の期待するメシヤ像を伝えますが、つまりローマからユダヤを解放する王という民衆のメシア像に反して、主イエスは、はっきりと、十字架の死において神の栄光を現わす、と告げます。つまり、死んで或いは殺されて、この世と決別して、天に上げられ、神の栄光を現わすメシアである、と告知します。本当のメシアの救いとは、「12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」と告げていますように、地上におけるこの世での救いではなくて、天上に招き入れる神の国への救いを宣言したのです。そして「12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」とさらに記して、ヨハネは主イエスの十字架における死の意味について暗示し注釈します。このように、天国への門、救いへの入り口として「十字架の死」があり、それが「メシアの栄光」であって、天国への門戸は主ご自身による「贖罪の死」をもって開かれるのです。そうした主イエスのメシアとしての本当の御心と御姿を弟子たちは理解出来なかった、とヨハネは明記します。例外的にマリアは、主イエスを過越の生贄である神の小羊メシアであるとして、深く痛み悲しみ、そして全身全霊を込めて涙と共に主に感謝をささげたのですが、他の弟子たちは、まだユダヤにおけるもう一人の権力者となるメシアとして、主イエスに期待を寄せていたようです。そうしたメシアの無理解は、単に、銀30枚で主イエスを裏切ったイスカリオテのユダただ一人だけではなかったのです。

 

2.主イエスの十字架における死と葬りそして復活の栄光の身体

このようなメシアとして、つまり政治的にまたローマ帝国と戦って王として世の支配者なる、という政治的メシアとしてではなくて、全人類を支配する罪ゆえの死と滅びに対して勝利するメシアとして、しかもそのためには、過越の生贄である神の小羊として、栄光の贖罪の死を遂げるメシアであるとして、主イエスは神の栄光を明らかにしました。言い換えますと、イエスにおける「神」(「わたしはある」)は、民の痛みのために下り民を率いて上る神のメシアとして、十字架における死によって罪を償い従順の義を尽くして、罪の支配による死と滅びに勝利して、神の栄光を現わすのです。そして父なる神のいます天へと栄光ある帰還を遂げるのです。

こうしたメシアの理解において、最も意味深く重要と思われる点は、天国に招き入れる扉となる十字架の死も復活も、そうした栄光のみわざは全て、主イエスの受肉したお身体において終始一貫して実現し現わされている、ということにあります。主イエスの受肉のお身体とは、処女マリアから受け継いだ私たち人間と全く同一本質から成るお身体であり、肉体であり、人間本性であります。神の栄光のみわざは、この人間本性の全てを担う「身体」において、しかも十字架の死も復活の命もその身体において現わされます。言わば、受肉のキリストにおける「神」(「わたしはある」)は、天から降り、そればかりか人間の身体の隅々に宿る「神」です。この「神」が神の力を栄光のわざとして発揮して現わすのです。それが「十字架の死」であり「復活」という命の勝利です。繰り返し申しますが、神が神としてのご自身の全ての栄光を現す場は、この受肉したキリストのお身体において、であります。言い換えれば、十字架の死の身体においてであり、しかもその十字架の死の身体において、その身体のまま、栄光の復活を遂げられ、そしてそのお身体のまま、栄光の昇天を遂げられるのです。つまりこの身体において、「神」の栄光ある救いのみわざはすべて展開するのです。贖罪の死という贖いのわざも、復活という永遠の命の祝福も、全て徹頭徹尾一貫してこの受肉したキリストのお身体において行われ実現し成就します。この「身体」という所に、キリスト教のメシア(救い主)としての中心的な特徴があります。前回の説教でも触れましたが、マリアが塗ったナルドの香油について「わたしの葬りのために」と主イエスご自身が言われた通り、「葬り」とは「死体」という屍(しかばね)となった「肉体」に香油や防腐剤を塗り布を巻く儀式を言います。死の支配は人間の死体において現れ、死体に現れ支配する死は、香油の香りや防腐剤で抑えることはできません。意味深い点は、その屍となった死体において死に勝利して、永遠の命を吹き入れて、死体から復活体へと造り変えることです。主イエスは、ご自身における「神」の爆発的な力によって、死に支配された死体を永遠の命の宿る復活の身体へと化えるのです。その死に勝利し命に変える根源的な場が、主イエスの受肉したお身体であり、その勝利と栄光の場こそ、十字架の死に至る主のお身体であり、栄光勝利した復活のお身体そのものであります。

 

3.「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(6章53節)

改めて6章で語られた主イエスのみことばを想い起してみましょう。「6:53 イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べわたしの血を飲む者はいつもわたしの内におりわたしもまたいつもその人の内にいる。6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』」(ヨハネ6:53~58)と主イエスは教えられました。主のお身体における十字架の死と復活の命という視点から読み直すと、この意味はよく分かるのではないでしょうか。神の完全な愛と救いのみわざは、主イエスのお身体のうちに込められて現わされ実現したのです。「神」はそのお身体に受肉して現臨し、「神」の永遠無限の力を漲り溢れるように発揮しておられるのです。そのお身体において、という点が最も重要なのです。なぜなら、その主のお身体は、わたしたちの身体と全く同じ本質を担う身体であり、わたしたちの人間性そのものであり、身も心も人間であることの全てを担う身体だからです。私たち自身の人生の全てであり、わたしたち自身であるからです。その私たち自身のうちに、神ご自身から降り受肉し現臨して、神の完全栄光なるみわざを持ち込まれたのです。それが、メシアであり、それがキリスト教の救いであります。だから、パウロの表現で言えば、この自分の身体にキリストの身体を着るのです。キリストはこの身体のうちに受肉して、神の栄光のわざを行われるのであります。だからこそ、わたしたちはこの身体において洗礼を受けキリストの身体に一つに結ばれて、キリストの身体の栄光に与るのです。みことばを聴くことも洗礼に与り聖餐に与ることも皆、教会員となることも礼拝に集うことも全て、本質的には「身体」として、現れ実現し成就する点で全く同一のことであります。このキリストの受肉したお身体と身も心も皆が一体に結ばれて、その一体とされたお身体において、そのお身体を通して、人々も万物も神と出会い、神の栄光のみわざに与り、十字架における死の贖罪に与り、復活における永遠の命に与るのです。だからこそ、それを、主イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と言われたのです。したがって、唯一真の神のメシアとは、神の受肉したお身体において、神の全ての栄光を現わし実現し成就したのであります。サクラメントを中核に礼拝も、教会も、そうしたキリストの受肉の身体における栄光を天地を貫いて写し出しています。

 

4.「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)

主イエスのもとにギリシャ人が訪れます。そのギリシャ人の来訪に応えて主イエスは、「人の子栄光を受ける時が来た。12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」と告げます。これは、ご自身のお身体における栄光のみわざが、即ち、死の葬りと永遠の命による復活というわざが、同じ本質的な一つお身体における神の栄光のわざとして、現わされることを指し示しています。なぜなら、人間の本質は「死」であるからです。人間は、元々本質的に永遠存在ではありません。主イエスのお身体に一体に結ばれたわたしたちは、その人間性の本質において、罪の償いは完全に果たされ、しかも神に対する従順は十字架の死に至るまで完全に尽くし貫かれており、「神の義」を実現しています。そして同時に、その神の義の祝福は、豊かな永遠の命の祝福を齎し実を結び完成します。こうして、永遠の命は、わたしたちの身体において、身体の復活という最終的な形で実を結び、新しい人間本性として完成します。確かに、この世においては、わたしたちもいつかはこの肉体のもとで「死」を迎えます。したがって私たちの身体も、その本質は既に「死体」であります。大事なことは、その身体において迎えるべき「死」の支配は、キリストの身体と一つに結ばれることで十字架と復活のお身体とされ、死に至るまでの償いは果たされ、従順という義は貫かれ、罪の支配による敗北と堕落の死はその本質が変わり、新しい永遠の命の勝利と希望のうちに生まれ変わるのです。死の身体は滅びではなくて、死の身体は命の始まり場となるのです。ですから「死体」はこの世においては確かに悲しく空しいことですが、キリストのお身体と一体に結ばれた者には、死に敗北し支配された身体は、永遠の命に勝利し支配される復活の身体となったのです。なぜならその死に支配された人間本性は、十字架の死の場となり、贖罪の死の場となり、従順の勝利に与る身体となり、神の義に与り永遠の命の祝福溢れる身体となるからであります。ここにキリスト教の救いの核心があります。

 

5.「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」(28節)

こうして主イエスは祈りをささげます。「『父よ、わたしをこの時から救ってくださいと言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。12:28 父よ御名の栄光を現してください。』」と祈ります。主イエスが天から降り、人の子として受肉した全ては、「この時のため」であることが、明らかにされます。「この時」とは、十字架における死と葬りですが、「天からの声」が全地に響き渡り、全地を包みます。「すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した再び栄光を現そう。』」という天からのみ声でありました。ここで「天から声」として言い表わされる「神」の啓示ですが、まさに父と子が、父も「神」、そして子も同じ一つの「神」として、同一の神の本質からなる三位一体の「神」として、その三一の「神」のご意志とその栄光が、十字架の死と復活の命のお身体の上に、現され示されます。

既に栄光を現わした」とは、また「再びそう」とはどういうことでしょうか。「既に」現した栄光とは、主イエスのお身体における御子の受肉「全体」を指して言われたことではないかと思います。言い換えれば、主イエスにおける「神」の到来のすべてを指して言われたいます。したがって、主イエスにおいて「神」(「わたしはある」)は既に到来したのであり、主イエスにおいて既に完全に啓示されている、と言えましょう。つまり主イエスにおいて「神」は、既に、天から地に降り到来し啓示されたのです。その栄光は、既に、主イエスの受肉したお身体において、クリスマスの降誕の出来事から十字架で受難受苦して死に至るまで罪を償い尽くし、従順の義を全うして葬られ、陰府にくだり、罪による死の呪いの支配に完全勝利し、神の義の勝利のもとに永遠の命の祝福に溢れる復活と昇天に至る身体として、つまり受肉という一連のキリストのお身体における神の栄光のみわざとして予定され現わされています。

「再び」現わされる栄光も同じであります。一方で、「既に」という時を貫き、他方では「再び」という「時」を貫いて、「永遠の栄光」のみわざは、主イエスの受肉のお身体において実現しています。確かに「既に」を、時間の流れに従って推移する、これまで起こった過去から今現在に至る出来事として捉えることも出来ます。また「再び」を、これから起こるべき未来の復活昇天として、其々解釈することもできます。確かに「既に・再び」という表現を、この世の時間の概念に従って時系列的に解釈することも可能ですが、反対に、むしろ時間の概念を打ち破る爆発的な永遠の神の力という視点から、既にも再びも共に貫き包み込むように、徹底一貫した一つの永遠の「神の栄光」のみわざとして理解した方が、ヨハネらしい解釈となるのではないかと思います。受難も復活も昇天も、場合によっては聖霊降臨も、すべての神の栄光は、まさに主イエスの受肉した「身体」において、一つに集約されるのではないでしょうか。わたしたちはそして全地万物は、そのお身体に結ばれて一つの身体となって、神の栄光に与るのです。

2022年4月10日「わたしの葬りのために」 磯部理一郎 牧師

 

2022.4.10 小金井西ノ台教会 棕櫚の主日

ヨハネによる福音書講解説教45

説教 わたしの葬りのために」

聖書 雅歌4章9~16節

ヨハネによる福音書13章1~8節

 

 

聖書

12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取って置いたのだから。12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 

 

説教

はじめに. 主イエスをまことの神のメシアとして認めれば・・・

ヨハネによる福音書11章によれば、ユダヤの最高法院は、ついに主イエスを捕縛して処刑することを公に確定いたしました。最高法院が最も恐れていたことは、このまま最高法院が公に主イエスが神によって立てられた唯一真の「王」(メシア)であると認めれば、ローマ皇帝を否定し主イエスを神として立て立てることとなり、その結果、メシアを認めれば、ローマ皇帝に対する反逆と見なされてしまい、「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」(ヨハネ11:48)という恐れです。しかも、既に公然たる事実として、主イエスが神のメシアであることは、ラザロの復活のみわざを初め、数々の奇跡としるしによって証明され、誰もが否定できない共通認識としてユダヤ全土で受け入れられていました。そこで、大祭司カイアファは、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と提案して、ローマからユダヤを守るために、スケープゴートとして、主イエスを抹殺してしまおう、と提案しました。つまり、主イエスは自ら「ユダヤの王」と語る反逆者である、としてローマに差し出し抹殺する陰謀です。それによって、ローマの弾圧を回避し、同時にまた自分たちの支配構造と特権的利害を守ろうとしたのです。こうして主イエスの捕縛と処刑とはユダヤの最高法院において確定したのです。

 

1.平行記事を比較すると・・・

本日より12章に入り、マリアが高価なナルドの香油を主イエスに塗って、主の葬りの備えをする、という記事を読みますが、まさにそうして刻一刻と迫る主のご受難と十字架の死を先取りして、マリアは主イエスをお迎えします。本日は「棕櫚の主日」であり受難週に入りますので、主のご受難を覚えるには、とても相応しい聖書箇所と言えましょう。実は、このナルドの香油のお話は、マルコによる福音書やルカによる福音書でも紹介されています。そこで平行記事を概観しながら、ヨハネによる福音書による伝承の特徴を明らかにしてゆければ、と考えております。そこで、お手元に配布した対観表をご参考に、先ずこの話の全体像を把握してまいりましょう。ヨハネは、この物語の枠組みを「過越祭」という枠組の中に設定して話を始めます(ヨハネ12:1)。マルコによる福音書も、主イエスご自身による三度目の受難予告の直後に、そして過越祭の食事の直前に、この話を置いています。ですから、マルコもヨハネも、主イエスの葬りの塗布として、このナルドの香油を注いでおり、主イエスの十字架の死に対する「事前の葬りの備え」としてなされ(マルコ14:8、ヨハネ12:7)、共通して主イエスご自身のみことばのうちに言明されています。明らかに「葬り」の先取りであることが分かります。ルカによる福音書では、編集上は、過越祭における犠牲としての葬りという枠組みの中からは切り離されており、主イエスの宣教活動の中で生じた一つの出来事として、すなわち主の「宣教」における教えとして紹介されます。どちらかと言えば、主イエスによる「説教」の中での説諭のわざとして組み入れられており、ナルドの香油は、非常に象徴的な形で、主イエスの宣教の働きに対する喜びと感謝の応答として、また信仰の表れとして紹介されます。

さらに興味深い点は、マルコとヨハネの伝承ではベタニア(ヨハネ12:1、マルコ14:3)と記されていますが、ルカではナインという村に続くガリラヤ宣教の流れの中に登場する話です。ここでも、マルコとヨハネは「主の葬り」に集中し焦点化されますが、ルカは「宣教活動」の中に組み込まれています。ヨハネは、マルタ、マリア、ラザロという兄弟姉妹の固有名詞を挙げて、村の人々と食卓を囲んでいます。マルコも同じように、「ベタニア重い皮膚病の人シモンの家」(マルコ14:39と特定して、食卓の場所を明記しています。したがって、明らかに、罪人と呼ばれ、正当なユダヤ共同体からは排除され切り捨てられた人々の集落を想定することができます。主イエスのそうしたユダヤ共同体から排除され切り捨てられた人々の交わりのただ中に、自ら入り込んで、共に食卓を共有していたことが分かります。しかし、ルカでは、「あるファリサイ派の人」(7:37~44)で後に「シモン」(ルカ7:40、44)という名で主イエスは呼びかけておられますように、ここではファリサイ派のシモンの家の食卓ということになります。少々詳細な点では、マルコでは、主イエスの「頭」に香油を注ぎます(マルコ14:3)が、ヨハネとルカでは、「足」に香油を塗り、自分の髪で涙を流して主の「足」を拭っています(ルカ7:38、44~46、ヨハネ12:3)。

おそらくマルコは、受難予告を始め、徹底的に主イエスの十字架の死という贖罪の神の小羊による犠牲に集中する枠組みの中に、その葬りの備えのわざとして、この話が基礎づけられているように思われます。またヨハネも、マルコほどにはご受難と十字架の死という贖罪死の枠組みの中に集中してはいないのですが、それでも、明確に過越の小羊による犠牲の死を指し示す葬りを明らかにしています。しかしルカは、どちらかと言えば、ファリサイ派に対する警告的教説として、律法主義的儀礼や形式を超えて、魂の根底から生じる感謝と喜びを明らかに教えているように思われます。

最後に、主イエスと深刻な対話相手となる人物が登場します。注目されるのは、300デナリオンという価値の値と尊さです。1デナリオンは一日分の労働賃金と言われますが、月給30万であれば、1万円で300万円になるでしょうか。1リトラは327.45gと言われますので、500mlのペットボトルを想像していただければ、どれほどの量か、お分かりいただけるのではないかと思います。その高価な価値は、全て「主イエスの死」とそれによる「罪の赦し」のために献げられましたが、それに対して、ヨハネでは「イスカリオテのユダ」(ヨハネ12:4~6)が、マルコでは「そこにいた人の何人か」(マルコ14:4)が、その論争点として、「貧しい人々の施す」(ヨハネ12:4、マルコ14:5)ということに向けられます。ルカでは「罪を赦された」(ルカ7:47)その深さ尊さ大きさに向けられますが、「ファリサイ派の人シモン」はその価値を認識できないことが明らかにされます。こうしたことから、主イエスとは誰なのか、すなわち主イエスのうちに、何を見出しているか、その信仰の告白が深く根底から問われる場面でもあります。ヨハネでは、「十字架の死」における神としての栄光に対して、全身全霊を込めて讃美して栄光を帰する人間の信仰として、言わば信仰者と教会の代表者のようにマリアが登場します。マルコでは、「十字架の死」において生贄の小羊として流される血と裂かれる肉体の聖別としてこの行為は示されます。ルカでは、無論「十字架の死」に贖罪を前提にしつつも、宣教的説諭として教えられ、罪を赦された「罪人の感謝」と喜びが余す所なく表現されています。そしてマルコやヨハネでは「貧しい人々に施す」ことを論点した人々は、主イエスのうちに「贖罪の犠牲」によって実現される神との和解は意識されず、また貧しい人に施すという名目のもとに、貧しい人々や数多くの民衆に認められ支持されたい、という承認欲求や支配欲を窺い知ることができるのではないでしょうか。主イエスに従うことは、主イエスのメシアとして王として獲得される権力支配とそれによって生じる利害を欲しがる欲望が見えて来ます。しかしそこには、真実な意味で、主イエス・キリストはおられないのです。

 

2.「過越祭の六日前に」(12:1)

過越祭の六日前に(pro. e]x h`merw/n tou/ pa,sca)」(ヨハネ12:1)とあります。「過越祭」(パスカpa,sca)の語源のヘブライ語「ペサフ」(xsP[, pacach paw-sakh’)は「過ぎ越す」「足を引きずって歩く」「飛び回る」「立ち止る」等を意味します。旧約聖書に7回登場し、出エジプト記12章に3回、サムエル記下1回、列王記上2回、イザヤ1回と其々用いられています。前1250年頃のエジプト脱出の際に、神はファラオに対して、モーセとアロンを遣わして、ユダヤの民の解放を求めました。神は頑なファラオに災いを起こします。災いは、血・蛙・蚋(ぶよ)・虻(あぶ)・疫病・腫れもの・雹(ひょう)・蝗(いなご)・暗闇の災いと続き、ついに最後の災いを示します。出エジプト記に「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。」(出エジプト記11:4~6)と記されています。他方、イスラエルの民に対しては、「それ(傷のない一歳の雄の小羊)は、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(出エジプト記12:5~14)と、エジプトとは反対に、イスラエルの民に対しては、小羊の血ゆえに、神による死の裁きは過ぎ越されました。

このように「過越祭」は、出エジプトを記念して春に守る祭で、ユダヤ3大祭り一つです。元来は牧畜の祭、種入れぬパンの祭(除酵祭)と区別されていたようです。その後出エジプトの歴史的意味が加えられ、旧約聖書では「過越の小羊」と「種入れぬパン」が過越祭に用いられました(出34:25、民28:16~17、エゼキエル45:21等)。後にバビロニヤ暦で「ニサン月」(ネヘ2:1、エス3:7)10日に、祭の準備となり、家族の人数に応じ傷のない1歳の雄の小羊を14日の夕暮に屠り(出12:6、レビ23:5)、その血は家の門柱とかもいに塗られ、後に神殿では祭壇とその土台に血が注がれました(Ⅱ歴35:11)。小羊は頭も足も内臓も火で焼かれ(出12:9)、骨を折ることは禁じられ(出12:46)、羊の肉は種入れぬパンと苦菜と共に(出12:8)規定通り食され、翌朝まで残してはならず朝まで残ったものは火で焼かれた(出12:10、34:25)。旧約聖書は「出エジプト」を神の全能の御手による出来事として覚え祝しています(Ⅰサム8:8、Ⅰ列8:53、詩135~136編、イザ10:26、エレ16:14、エゼ20:6、ダニ9:15、ホセ2:15、アモ2:10等)。過越祭は、イスラエル民族の存続を決定づけた出エジプトの出来事として「神の民の救い」を想起する祭りであり、民を奴隷から解放し、神の民として約束の地を与えてくださる「契約の神」を記念する(ミカ6:4~5)神の民の証です。新約聖書の「過越の子羊」「種を入れぬパン」は、全人類を汚れから清め、罪による死と滅びの支配から解放する主イエス・キリストの象徴です(ヨハ6:31‐35,Ⅰコリ5:7)。主イエスは、十字架上でご自身を神の子羊として神に献げ、その流された血潮により、神の怒りと裁きを過ぎ越すための贖いの生贄となさいました。鴨居に塗られた小羊の血と同じように、主イエスの十字架で流された血は人々の罪よる死の裁きを過ぎ越して、新しい命と祝福に入れる贖罪のみわざとなって示されました。

 

3.「イエスの足に塗り」(12:3)

「香油を塗る」行為をめぐり、共観福音書との比較から、マルコ福音書では「香油をイエスの頭にauvtou/ th/j kefalh/j注ぎかけた(katace,w kate,ceen上から注ぎかけた)」(マルコ14:3)、ルカでは「うしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながら(klai,w klai,ousa)その足を涙でぬらし始め/(h;rxato bre,cein tou.j po,daj auvtou)、自分の髪の毛でぬぐい(tai/j qrixi.n th/j kefalh/j auvth/j evxe,massen)、イエスの足に接吻して(katefi,lei tou.j po,daj auvtou/)香油を塗った(h;leifen tw/| mu,rw)」(ルカ7:38)、そしてヨハネ福音書では「イエスの足に塗り(h;leiyen tou.j po,daj tou/ VIhsou/:avlei,fw h;leiyen油を塗る)、自分の髪で(tai/j qrixi.n auvth/j)その足をぬぐった(evxe,maxen tou.j po,daj auvtou:evkma,ssw evxe,maxenぬぐい取る、拭き取る)」(ヨハネ12:3)と其々に描かれます。

前述しましたように、マルコは「頭」に香油を注ぎますが、ヨハネとルカによれば、「足」に香油を塗り、髪で足をぬぐいます。この一連の行為について、⑴メシア(王)告白、⑵愛と献身の告白、⑶感謝と讃美、⑷懺悔と感謝、讃美と献身など、さまざまなマリア(罪深い一人の女)の心情を想定することができます。「キリスト」(油塗られた者)の原意となった「油注ぐ」(cri,w塗る)という動詞は、特殊な用語で、新約聖書で5回使用され、その主語は「神」です。つまり、イエスを「メシア」(王)として油を注いで聖別して、メシア(王)の務めに就けるお方は「神」であり、したがって通常は「神」が主語となって、メシア(王)としての職務にお就けになる厳かな神のみわざです。ところが、ここでは、主語は「マリア」で、彼女がイエスの足に油を注いだ(直接法能動態のアオリスト形の三人称単数)のです。このように「神」ではなく「人」であるマリアが、主イエスに対して、主イエスは神のメシアであるとして油を注ぐ行為は、どうなるのでしょうか。マリアは、高価で一切の混じりけのない純粋なナルドの香油を主イエスの足に注ぎ、それによって、彼女の純粋な信仰告白を言い表したのではないでしょうか。即ち「あなたは、わたしにとって、ただお独り、唯一真の生ける神の子メシアです」と告白して、足元にひれ伏して讃美し、神のメシアを主として礼拝した、と考えられます。しかも、ルカやヨハネは「足」に香油を塗っていますように、本来、神のメシアとして「頭」に油注がれたお方は「神」であるので、マリアは讃美告白者としてひれ伏して「足」に、香油を注ぎ、土の塵で汚れた主の足を感謝と讃美の涙をもって拭い尽くしたのではないか、と思われます。「家は香油の香りでいっぱいになった」とありますように、家は、まさに主イエスを神のメシアとする厳かな信仰に、いっぱいに満たされていたのではないでしょうか。ヨハネにおいて、マリアの役割は、謙遜に主イエスを神のメシアとして讃美告白する礼拝者として、全ての信仰者の模範であり、象徴として登場しているようにも思われます。

 

4.「わたしの葬りのために」(

ところが、イスカリオテのユダは、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(12:5)とありますように、そうしたマリアの礼拝行為を理解することが出来ず、マリアを咎ます。同じようにマルコでも、そこにいた何人かが、「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この交友は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と憤慨して互いに言い合います(マルコ14:4、5)。彼らの怒りの原因は、最も価値ある高価なものを誰にどのように用いるべきか、という点です。それは、マリアのように、「神」に対して、しかも自分の罪のために贖いの犠牲となるメシアのために奉献されるべきものと考えるのか、それとも、彼らが憤るように、「貧しい人々」のために用いられ、その結果として、「自分の尊敬や承認」という報酬となって返ってくることを期待して利用されるべきか、という全く異質な立場がたいへんよく示されているように思われます。一方は、罪に支配された自我に絶望して、罪による死と滅びから解放してくださる神のメシアを待ち望み、その流す血によって償われ浄められ、新しい神の義と祝福のもとに神との和解を果たし、義と祝福に満ちた永遠の命に至る、という神のメシアを讃美告白して礼拝を捧げて、「神」に向かう道です。他方は、絶えず神ではなく「人」に目を向けて、「この世」における人間的な賞賛と評価を期待して、その見返りとして権力支配や利害の独占を求め続ける、という人間として自我欲求を満たす社会行動を尽くして、「人」に向かう道です。同じ宗教集団の中に、マリアの道とユダの道は常に同居しているのです。これは、教会も同じではないでしょうか。同じ牧師や教会集団の中に、マリアの道もあれば、ユダの道もある、そうした異質で対立する緊張の中に、わたしたちは皆置かれているのではないでしょうか。

こうした宗教内における本質的な分裂と対立に対して、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取って置いたのだから。12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と仰せになり、ついに主イエスは神の真理を告げるのです。この主のみことばには、マリアの行為の真相について、二つの大事なことが明らかにされていると思われます。マリアの行為が表した真相とは、一つは、「わたしの葬りの日のために、それを取って置いた」と言われていますように、主イエスご自身の十字架による死を明らかにします。そしてもう一つは、「わたしはいつも一緒にいるわけではない」という主イエスの栄光ある帰還、即ちこの世からの退去を明らかにしています。これは、ヨハネの伝承の特徴を示す啓示ですが、主イエスの十字架刑による死は、神の栄光のわざであり、そしてそれは即ち、天にいます父なる神のもとに栄光をもって帰還する地上からの退去をも意味します。それゆえ、主イエスに代わる別の弁護者(助け主)である聖霊が、地上の人々のために降るのです。

「わたしの葬りの日のために、それを取って置いた」というみことばですが、とても深い意味が込められています。「葬り」(evntafiasmo,j evntafiasmou)という字の元々の意味は、「死体に香油や防腐剤を塗って布で巻き埋葬の準備をする」(evntafia,zw)ことを意味します。先ほど、マリアが香油を塗るという所では「油を注ぐ」(cri,w塗る)という任職を意味する特別な用語が用いられていました。マリアの行為で「油を注ぐ」は「神の御子が神のメシアとなって遣わされた」というメシア告白と讃美を言い表わしていましたが、ここで主ご自身が言われた「葬り」即ち「死体に香油や防腐剤を塗る」という字は「死」そのものを象徴する字として用いられているように思われます。言い換えれば、主イエスはここで人々に、ご自身がメシアとして遣わされたその務めの中心に、「死体」となって、「死」ただ中に入り込み、「死」そのものをご自身のお身体において背負い担うことにある、と宣言したのではないか、と考えられます。言わば、マリアはメシアを迎え入れたことを油注ぐということで言い表わしたのですが、さらに主イエスは、そのメシアとは「死体」となって「死」を担う神のメシアである、と告げたのです。つまり、主イエスが天から降り、人の子として受肉して、世に使われたその目的は、「死体」となるためであり、「死」の全てをその本質と根源から、主のお身体において、背負い担うためである、ということになります。そしてさらに重要なことは、それこそが、神の栄光のわざである、というのです。これが、主イエスの啓示の中核であります。「死」の世界は、主イエスのお身体において、完全にかつ本質的に根本から「神の命」の世界となるのです。まさに闇から光への転換であります。

2022年4月3日「彼らはイエスを殺そうと企んだ」 磯部理一郎 牧師

 

2022.4.3. 小金井西ノ台教会 受難節第5主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教44

説教 「彼らはイエスを殺そうと企んだ」

聖書 イザヤ書49章7~13節

ヨハネによる福音書11章45~57節

 

 

聖書

11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。

11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。11:50 一人の人間が民の代わりに死に国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言してイエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。

11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ

11:54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。

11:55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。11:56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」11:57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

 

 

説教

はじめに. 「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った」(47節)

いよいよ、主イエスの捕縛と殺害の時は迫ってきました。主イエスは、最大で最後のしるしとして、死んだラザロを死の墓から復活させました。ラザロの復活のしるしを見て、人々は、主イエスにおけるメシアの到来は、誰も否定できない決定的な事実として、受け入れ認められるようになります。ヨハネは、そうしたユダヤの人々の心の動きを45節以下で「11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くはイエスを信じた。」と記してします。「11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。11:47 そこで祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。』」と伝えています。「イエスのなさったことを目撃して」とは、ラザロの復活ですが、それを見て、ユダヤ人たちは皆、イエスをメシアであると信じるようになりました。主イエスの行う奇跡のしるしを見て、多くの人々が主イエスを信じるようになることを、最早、誰も止められなくなっていました。それどころか、復活のしるしを行った主イエスに、ユダヤの最高権力者たち自身も、果たしてどう向き合うべきか、追い詰められたゆきます。「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して」とありますように、ついに公に最終決断を下すことになります。その結果、ユダヤ全土は「11:57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」とありますように、ユダヤの最高権威は、主イエスの捕縛命令、即ち捕縛して処刑する命を発したのです。

ここで、ヨハネの伝承によれば、最高法院を初めユダヤ全土は、明らかに、主イエスにおいて神のメシアが到来したことを、否が応でも、認めざるを得ない状態に追い込まれてしまったと言えます。これまでお話して来たように、単純な意味での「不信仰」や「無理解」、言わば止むを得ざる無理解というレベルではなくなってしまったのです。宗教権威を筆頭にユダヤ全土は、全民族を挙げて、公然と、主イエスにおける「神」の到来を知り、認めたのです。その事実を無理解ゆえに斥ける、という単純な意味での「不信仰」の段階を既に超えてしまったのです。イエスにおける「神」の到来は、ラザロの復活の出来事を目撃したことで、最高法院を筆頭にユダヤ全土を尽くして、意図的に確信的にしかも公然と、二度と否定できず、認めざるを得ない所まで、追い詰められており、ついに主イエスにおける「神」の到来を概ね認めた、と言えましょう。キリスト教の教理のように「三位一体の神」として「神」が主イエスにおいて現臨し到来したという厳密な神認識はないにしても、モーセに啓示した「わたしはある」という「神」が主イエスにおいておられ働いている、という厳粛な事実は、受け止めたはずです。このように、主イエスにおいて「神」が到来し働き始めた、その厳粛かつ緊張した事態に、ユダヤ全土が立ち至っている、という非常に緊張した共通認識に立たされたことは否めない事実であります。本日の説教は、そうした主イエスにおける「神」の到来を、ユダヤ全土が公に認知しなければならない切羽詰まった状況の中で、ユダヤ人たちは、本当の意味で確信的な「不信仰」と「背き」に、足をいよいよ深く踏み入れてゆくことになります。主イエスにおける「神」を抹殺してしまうという不信仰と反逆は、宗教権力者たちによっていよいよ確信的に集中的にユダヤ全土において徹底されてゆくことになります。その象徴的存在として、登場する人物こそ「大祭司カイアファ」であります。

カイアファ(Kaiaphas)とは、実際の名はヨセフと言ったようですが、紀元18年にピラトの前任シリア総督グラトゥスにより大祭司に任命され、36年に総督ヴィテリウスによる解任まで、大祭司を務めました。カイアファは、前任の大祭司アンナス(Hannas)の婿(ヨハネ18:13)でもあり、両者は非常に緊密な協力関係にありました。アンナスは、紀元6年にクレニオにより大祭司に任命され15年に退位しています。大祭司の退職は、単にローマ人による任命や退任であって、ユダヤの伝統からすれば大祭司の職務は終身職です。カイアファの家の中庭で主イエスを捕えて殺す策略を練った(マタイ26:3~5)と記され、捕縛された主イエスはアンナスのもとに連行され、それからカイアファのもとに送られています(ヨハネ18:24)。そしてローマ帝国シリア総督ピラトに送致され(ヨハネ18:28)、ローマの極刑である十字架刑に処せらます。カイアファはその後も、エルサレム教会の迫害に関与します(使徒言行録4:6)ので、反キリストとしてその生涯を貫いています。

 

1.「そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

さて本日は、そのユダヤの権力中枢を担う大祭司カイアファが果たした役割に注目します。「11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになるそしてローマ人が来て我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」とヨハネは記していますので、多くのユダ人たちが一致して危惧していたことは、驚いたことに、主イエスの不思議な「神の力」ではなかったようです。「神」を恐れることよりも、「ローマ人が来る」ことを恐れたのです。極論すれば「神」などどうでもよかったのです。彼らにとって重要なのは、ユダヤの権力支配とその利害を守ることにあったからです。宗教はそのための方便であり仕組みに過ぎなかったと思われます。ローマ帝国という巨大なこの「世の権力」によって滅ぼされてしまうことを、真っ先に心配し、最も恐れたのです。こうした態度から見ても、明らかに、ユダヤ人の宗教は、神を信じるという信仰の本質からは離反しており、信仰は空洞化しており、この世の権力支配に隷属してでも自分の利害を確保することに集中していたことがよく分かります。彼らにとって宗教とは、最初から「神」に従うための「信仰」による宗教ではなくて、権力支配とその利害を得るためのこの世の方便であり道具に過ぎなかったのです。完全に最初から「神」からの離反は生じており、実質、信仰は空洞化していたようです。ただ「罪人」と呼ばれ、権力支配の利害やその恩恵からは完全に排除され、世から差別され、捨てられた地の民は、主イエスにおける「神」とその愛と憐れみに深い慰めと平和を覚えていたはずです。この世の利害を失うことで、人間の本当の尊さや喜びをより深く知っていたからです。人は財産や身分に依らず、人は愛と命に生きることをよく知っていたのではないかと思います。しかも滅び去る空しい死の命ではなく、永遠の神によって祝福される永遠の命に生きる尊厳と喜びを主イエスの説教から学んでいたように思われます。主イエスは、罪人のただ中に自ら入ってゆき、食卓を共にして、みことばを語られており、そうした主の教えの場は、「重い皮膚病のシモンの家」、すなわちマルタやマリアそしてラザロの家は、そうした主イエスにおける「神」による慰めを深く求める集う人々の教会となっていたと思われます。このように、宗教には、「信仰」による宗教としてこの世に力強く存在する宗教もあれば、全く信仰本質とは全く異なる異質で腐敗した形態として、権力支配やその利害を得るための仕組みや方便として、社会に存在する宗教もあります。しかも難しいのは、同じユダヤ教やキリスト教会の中に、そうした二重の意味での宗教が存在していることであります。これは、当時のユダヤ教も、そして今のキリスト教会も全く変わらないのではないでしょうか。宗教の仕組みを借りて、権力支配とその利害の追求はいよいよ推し進められてゆくのです。

 

2.「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む」

話を戻しまして、「ローマ人が来て我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」とユダヤの権力者たちが考える理由は明らかです。主イエスを信じ認めることは、直ちに「メシア」即ち「ユダヤの王」として立てることであり、それは直ちにローマ皇帝を否定してイエスを王とすることになり、ローマ皇帝に対する反逆罪となります。主イエスが十字架刑に処されたときに、十字架の上に掲げられた罪状書は「ユダヤの王」でした。それはまさに政治的反逆者としての極刑でありました。実に悲しいことですが、主イエスの受難は、神の選びの民であるユダヤ人が真っ先に主イエスにおける「神」を否定し「神」を抹殺する証明の場であり、彼らの言う所のユダヤのために、ローマ総督ピラトを利用してゆくのです。主イエスこそ、神のメシアであり、真の神がお立てになられたユダヤの王であることを一方で認めたがゆえに、彼らの利権や利害に満ちたユダヤの宗教社会を守るために、その宗教を用いて、主イエスをローマに売り渡し処刑させる道を選び取るのです。そうした最高法院の一致した危惧とその解決方法は、神によるユダヤの王を抹殺して消し去ることでした。

そうした権力者たちの欲求を代弁した人物がカイアファです。「11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。11:50 一人の人間が民の代わりに死に国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』」と記されています。ここでとても意味深いのは、カイアファの言い分、彼の論理構成です。ここでは、所謂「スケープゴートscapegoat」論が展開されます。主イエスを「贖罪の山羊」として、ユダヤ共同体全体の危機から救う犠牲にして、何が悪いのか。ユダヤの欲求を満たすと同時にその罪責を逃れるための口実としたのです。主イエスをローマの攻撃の矢面に立て、自分たちの身を守る犠牲にすればよいではないかという提案です。こうして見てみると、明らかに、主イエスの十字架の死とは、明確な意図と確信に満ちた、しかも用意周到周到に入念に練に練られた組織的なユダヤ人による陰謀であった、ということがよく分かります。しかもこの陰謀は、公の最高法院という宗教の最高権威において、成立したものです。大祭司カイアファは、神のメシアを殺すという罪意識から言い逃れる口実に、スケープゴート論を巧みに利用し、結果としてユダヤ民族全体を救済することになるのであるから、最も合理的で正当化できる、と説いたのです。自分たちの強欲な罪とそしてメシア殺しを正当化する手段として、スケープゴートの論理を悪用したのです。

 

3.「これは、預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。

しかしヨハネはさらに興味深い注釈をこれに加えます。ヨハネとその教会は、主イエスの十字架について、ユダヤ人たちによる主イエスの殺害意図を遥かに越えたて、「神の栄光」のみわざを「預言した」という表現で見つめます。ユダヤ人のために、ケープゴートとされる主イエスについてこう言い換えます。「11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言してイエスが国民のために死ぬと言ったのである。11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」と述べています。主イエスの十字架の死とは、カイアファの陰謀の枠組みを超えた神のご計画であるから、したがって、それはカイアファ自身の考えとして生まれたものではなくて、大祭司の職務を通して、予め神が大祭司の務めを用いて彼に「預言」させた、神の栄光みわざであり、「イエスが国民のために死ぬ」という神のご計画を告げて、主イエスの十字架の死によって全世界の散らされた神の子たちを召し集めることになるのだ、というわけです。非常に不思議なことですが、カイアファの言う「スケープゴート」の本当の意味は、実は「預言」であり、したがってそれは「神のご計画」である、とヨハネは註解し告知します。人間の欲望と罪が生み出す組織的な陰謀を遥かに打ち破って、その「スケープゴート」には、神の巨大な憐れみと救い場となるのだ、と言い表したのです。腐敗した宗教権力の中枢の中で練り上げられた陰謀を、その根源から吹っ飛ばしてしまい、神の救いのご計画とその栄光のみわざが遂行される場となるのです。まさに神の栄光のみわざが実現しようとしているのが、あなたたがには見えないのですか、と言わんばかりのヨハネによる見事な註解です。単に人間の謀略によって都合よく造り出したスケープゴートではなくて、主イエスの死は、主イエスにおいて「神」が愛と憐れみによって民を集めて救うご計画であり、人類を救い出すことの出来る唯一の栄光のみわざではないか、と言って、高らかに主の十字架の死による救いを讃美告白しているよう読めるのではないでしょうか。

こうしたヨハネによる「スケープゴート」の注釈は、いくつかの形で、登場します。「1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」「10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」「10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」「10:17 わたしは命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」「17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」という表現に見られます。ヨハネは、主イエス・キリストの十字架における死を、民の贖いとなるための生贄として死んで贖罪の犠牲となられることを言い表しています。

主イエスの十字架の死の意味と信仰は、新約聖書においては、共観福音書を初め、パウロ書簡、そしてヨハネ福音書など、それぞれの教会の信仰や伝承に基づいて、表白されます。例えば、主イエスの十字架の死とは、⑴終末時の神の使者が受けるべき運命的受難として、⑵また神のご意志に従順に従い神との契約を徹底して成就する神のメシアとして、⑶人類のために神の小羊として贖罪の死を遂げる犠牲の生贄として、⑷死と滅びの闇の世に対して、永遠の命の光に勝利する神の栄光のわざを現わす命と光の勝利の場として、というように、さまざまに言い表され告白され伝承されています。ヨハネによる福音書は、民を贖罪する生贄の「神の小羊」として、命を捨てる贖罪のキリストの伝承を受け継ぎながら、さらに人の子として受肉した「神」が十字架において死に勝利して永遠の命の神として栄光を現わし栄光のうちに天の父のもとに帰還する、よいう十字架の死における神の栄光ある帰還として、言い表わします。ユダヤ最高法院は、世の権力を象徴する死と滅びの闇ですが、まさにその死と滅びのただ中に、神の御子は「受肉の神」として地上の闇のうちに到来して、闇の謀略に見える十字架の死において完全な命の勝利を遂げる「栄光の神」を啓示します。死と滅びの謀略は、主イエスの十字架の死において、まさに永遠の命の勝利という神の栄光に輝く場となるのです。

 

4.「散らされている神の子たち一つに集めるためにも死ぬ」

もう一つ最後に、意味深いみことばがヨハネの注釈として語られています。それは「11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たち一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」と説明を加えています。この言葉は10章16節以下で「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいるその羊をも導かなければならないその羊もわたしの声を聞き分けるこうして羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」(ヨハネ10:16~17)と教えられた主の説教を想い起こさせます。これは、明らかに、ユダヤ社会をさらに超えて、世界に大きく広がる異邦人教会を意識した言葉ではないでしょうか。御声を聞き分けて、主イエスを「わが主、わが神」と告白して聞き従う教会は、ユダヤの地域を遥かに超えて、広く全世界に及ぶ永遠普遍の教会の栄光が宣言されているように思われます。言わば、ニケア信条が告白する「一つ、聖霊なる、公同普遍なる、使徒の教会」の栄光とその出現であります。ここには、ユダヤはおろか、欧米さえも遥かに超えた、極東の、わたくしたち日本の教会も含まれているはずです。律法においてではく、主イエスの十字架の死において、全人類の罪は償われ、死と滅びの運命は永遠の命の祝福に溢れるのです。

2022年3月27日「神の栄光が見られるとき」 磯部理一郎 牧師

 

2011.3.27 小金井西ノ台教会 受難節第4主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教43

説教 「神の栄光が見られるとき」

聖書 ヨブ記2章11節~3章10節

ヨハネによる福音書11章28~44節

 

 

聖書

11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。

 

11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え興奮して、11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。11:35 イエスは涙を流された。11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 

11:38 イエスは再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で石でふさがれていた。11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よわたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」11:43 こう言ってから、「ラザロ出て来なさい」と大声で叫ばれた。11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 

 

説教

はじめに.

先週は主に主イエスを迎えに出たマルタと主イエスの問答について聖書を読みました。この主イエスとマルタとの間で交わされた問答の中心となったみことばは「わたしは復活であり命であるわたしを信じる者は死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはないこのことを信じるか。」(ヨハネ11:25~26)という復活の告知にありました。「わたしは復活であり、命である」と啓示されたイエスさまのみことばには、二重の意味がある、と前回お話いたしました。「神」ご自身が自己啓示する神の名前「わたしはある(ハーヤー、エゴー・エイミ)」というみことばですが、これは、その唯一真の「神」が主イエスにおいて到来し現臨していることを啓示する言葉でした。単刀直入に言えば、父と子は一体の「神」として、主イエスにおいて現臨し、今ここに到来し、その結果、神の完全なご支配である神の国は、主イエスにおいて到来したことを告げるみことばす。そして二つ目は、父と子と聖霊の一体の「神」は、主イエスにおいて到来し現臨しているのであるから、したがって、主イエスにおける「神」は、父子霊一体であり一致して、万物の造り主であり、永遠の命を与える命と創造との根源であります。ここでとても大事なことは、主イエスにおいて「神」は到来し民の前に現臨している、という出来事が起こっていることです。この神の事実を、即ち主イエスにおいて「神」は到来し現臨し神の支配をもたらしている、ということを認めて、受け入れいる「信仰」が求められることです。主イエスにおいて神の新しい創造が行われ、永遠の命が与えられることを信じて受け入れ、この信仰において、その永遠の命に与るのです。人間の側からすれば、まさに主イエスを信じて受け入れる信仰を通して神のご支配に入れられる中で、新しい創造と永遠の命に与り生かされるという現実が始まったのです。神さまの側から言えば、主イエスにおける「神」は、永遠無限で全知全能であり創造と命の根源である神として、主イエスを通して、わたしたちのもとに来られ、地上のすべてのもの、すべての被造物のうちに力強く救いの介入しておられる、ということになります。完全なる「永遠」が、主イエスにおいて、未完成の「時」の中に、奥深く介入するのです。ですから、現在・過去・未来という時の流れの全てが、主イエスにおいて、神の永遠性のもとに包まれ支配され、しかも主イエスにおいて現在化されることになります。「命」が死と滅びのただ中に入り込み、万物に介入したのですから、死は永遠の命によって包まれ飲み込まれてしまったのです。そうした主イエスにおける神の決定的な介入が、ついに私たちの中に、始められたのです。この主イエスにおける「神」の完全な介入の中心は、御子の受肉を通して、マリアより受け取られた人間性において、しかも十字架の死に至る罪の償いと従順を貫くことにより、神の義は回復され、命の祝福をもたらし、永遠の命の復活となって結実します。これが、主イエスにおける「神」の到来の中心です。

そういう意味で、主イエスにおける「神」において、永遠の命が与えられる、という神の国が到来したという出来事を前にして、主イエスはマルタに「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と告げました。もう主イエスにおいて「神」は栄光のみわざを行われておられるのですから、当然ながら、それを受け入れるかどうか、厳粛に信仰的決断を迫られたのです。主の命の告知と信仰問いかけを、残念ながら、マルタはまだ正しく理解できなかったようです。それは、ある意味では、仕方のないことだと思います。人間が神さまのみわざを理解するのは、とても難しいことです。常に驚きと戸惑いの中で、神さまのみわざは受け止めざるを得ないからです。イエスさまも、そうした人間が神の啓示をそう容易く理解できないことはよくご存じだったはずであります。だからこそ、主イエスは意図的に、ラザロの訪問を遅らせラザロの死を待って、確実に臭うほど腐敗した死を迎えたラザロの墓を訪れることにしたのではないでしょうか。そうなのです。その人間の曖昧な不信仰を確かな希望に溢れた信仰に招くために、主イエスはラザロを復活させます。

 

1.「墓に泣きに行く」(31節)

本日の聖書は、ついに主イエスがラザロの墓を訪れ、ラザロを死の墓の中から甦らせる、という場面です。主イエスはまだ村には入らず、マルタは出迎えた所で死者の復活をめぐり主と問答を交わした後、戸惑い動揺しつつ、主イエスの問いに応えました。28節に「11:28 マルタは、こう言ってから」とは、そうした主イエスとの信仰問答を背景に、戸惑い困惑して、主の問いから逃れるように、「家に帰って」しまいます。マルタは「姉妹のマリアを呼び」とありますから、自分は主から逃れ、「これを信じるか」とする主の真剣な告知に対する応答については、マリアに委ねてしまうように見えます。わたくしたちもそうですが、いよいよ信仰問題の中心となる話題は避けがちです。こうした信仰問題の回避は、親兄弟夫婦と関係が近くなればなるほど、遠慮しがちとなることがあります。しかし主イエスは、いつものように、愛する人々の永遠の命の救いをかかっていますので、常に誠実にまっすぐに神の真理を告げ知らせるのです。伝道や牧会の難しさもここにありそうです。真剣に福音を伝えようとして、信仰問題を回避してしまう人々にどう語ればよいか、心痛める所でもあります。主イエスは、そんなマルタの信仰のためにも、やはりラザロを復活させて見せる必要をお感じになられたのではないかと思います。

さて、マルタが「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちすると、「11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。」と描かれています。マルタは、主イエスを出迎るようマリアを呼びに家に戻り、マリアは、村の人々と共に、主イエスをお迎えしたのです。主イエスに対する態度で、マルタとマリアの違うようです。主イエスにおける「神」としての真実な告知については、マルタは回避的で迎えてもてなすという人間的な対応に終始しますが、マリアはどちらかと言えば、主イエスにおける「神」と正面から向き合い、語られる真理を聞き分けようと集中してゆきます。

ついにマリアたちは、ラザロの埋葬された墓へと向かいます。31節に「11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った」とありますように、明らかに「死」を悼み悲しむ人々の感情が露わにされ、永遠の別れを嘆き悲しむ悲痛な場面が描かれます。私事で恐縮ですが、思春期の頃、母を癌で亡くし亡骸を荼毘にふす火葬場で、力が抜けて倒れてしまいました。初めて人には「死」あること、「死」の支配の恐ろしさを経験し、その深い絶望と空しさから、立つ力も生きる力も失ってしまいました。「死」と向き合うとは、喪失と絶望、その深く恐ろしい暗い淵に転落して二度と這い上がれず、死の滅びの呪いに完全に飲み込まれてしまいました。問題は、この世にある人間には「死」を乗り越えるどころか、真実な意味で死と向き合うすら出来ない、それほど「死」は人間の全てを根本から喪失させ空虚にしてしまうのです。ですから、「死」は、単に死者が死ぬだけではなく、周囲の人々の生きようとする命までも、生きる尊厳や希望までも奪い去って、絶望と敗北に飲み込んでしまうのです。ある意味で、死とは、死者本人以上に、周囲に生きる人の人格的尊厳や希望そのものまでも、根こそぎ奪い去ってゆきます。「墓に泣きに行く」マリアの姿は、そうした死による余りにも暴力的な掠奪であり、人格そのもの尊厳も希望も生きる力さえも奪い去っていたのです。

 

2.「泣き、憤り、興奮し、涙を流す」(33,34,35節)

ついに主イエスは、マリアたちと共に、ラザロの墓を訪れます。32節以下に「11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、11:34 言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。11:35 イエスは涙を流された。11:36 ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。11:37 しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。」と記されています。

このくだりで、特徴となる表現が二つあります。ヨハネは先ずここで死に支配されてしまった人々の絶望を描きます。マリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えます。複雑なマリアの感情がよく現われています。複雑な思いとは、一方で、主イエスが早く来て下されば、もしかしたら死なずに済んだかも知れない、という主に対する信頼と期待です。しかしその一方で、ラザロは死んでしまった、という死の現実は最早変えることは決してできない、という変更不能な死に対する無力と絶望が滲み出ており、残念無念という恨み辛みが表白されています。そうした悲痛な「死の現実」、それは死の支配に飲み尽くされた絶望であり無気力とも言えますが、それを共有するマリア、マルタ、そして弔問客も、絶望の涙に訴えています。ラザロの死の事実は、すなわち「死」は、こうした死に敗北し支配された悲惨悲痛な感情により、周囲の人々や或いは人間そのものを人格の根底から尊厳を奪い絶望させ、虚無の奴隷に貶めてしまうことです。「死」ゆえの悲痛な思いは、人々を「絶望と虚無」に転落させ、そして怒りや憎悪そして無限の恐怖となって支配してしまうのです。しかしさらに深刻な点は、死ゆえに絶望が人々を支配することは、その結果、最終的には、死に支配されたゆえの絶望は、主イエスに対する失望と不信に変わるのです。つまり日本の言葉で言えば、神も仏もあるものか、という決定な虚無となって現れます。36節以下に「11:36 ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。11:37 しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。」とありますように、一方で確かに主イエスの深い愛情を好感をもって受け入れながら、しかし他方では、それほど深い愛も、死に対しては無力である、と口々にしているように読むことが出来ます。死に対する人間存在の完全な敗北と喪失がはっきりと確認されています。

もう一つ、ヨハネは、死に支配された人々の感情を描いたうえで、今度は「死」に対する主イエスご自身の感情を描いています。これはとても意味深いことではないでしょうか。「11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」と表記しています。死に支配された絶望と悲痛な涙に訴える人々を見て、主イエスも同じように「死」の支配に対して、「心に憤りを覚え興奮して」「涙を流された」と明記されています。「11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。」と繰り返しており、ヨハネは徹底して主イエスの悲痛な思いを伝えています。

ここには、とても深い主イエスの「人間性」が表われ出ています。他の誰よりも、主イエスは、先ず「人の子」として、人間の生と尊厳そして深い感情の中で、生きておられたことがよく分かります。御子がマリアより人間性を受け取り受肉した、その「受肉」という出来事それ自体のうちに、人間に対する神の大きな愛と憐れみが込められているように思われます。この受肉した神が人を愛し人を慰め人に希望と力を与えるのです。教理的に言いますと、神人両性におけるキリストの「人間性」の意義と力を物語っています。言わば、人間の痛み悲しみ、特に希望や尊厳が死と滅びの恐怖の中に失われてゆくことに、「人」としての強い同感共感そして強い憤りを深く覚えています。主イエスはご自身の「人間性」の全てを尽くして、丸ごとご自身に背負い、共有し、共に生きておられるがとてもよく分かります。絶望して死の滅びに堕ちてゆく人間の悲惨は、そのまま、主イエスの人間性のうちに、そのお心とお身体全身のうちに、全て余す所なく引き受けられており、共有され、担われて

います。大事な点は、ただ単に神が人を救う、という話ではないのです。そうではなくて、神が「人間」として苦しみ捨てられ絶望して死んでゆく、その十字架の死に至るまで人間として人を救うのであります。主イエスにおける真の「神」は、主イエスにおいて真の「人間」として受肉した神であり、その神の受肉において人間は人間として慰めを受け、希望に勝利するのであります。

 

3.「その石を取りのけなさい」(39節)

そこで主イエスは動き出します。「11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。11:39 イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。」とあります。「再び憤りを覚えて」とありますので、主イエスの御心は激しい憤りとなって死の墓に向けられていることがよく伝わってきます。そこでまず主イエスは、墓の前に立ち、墓を塞ぐ巨大な石を取り除けるよう命じます。ヨハネ福音書の描き方で意味深いのは、「死の墓」に強い憤りを向ける主イエスのお姿を具体的に、言わば生々しく伝えていることです。マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」とまで言っています。腐敗し始めたラザロの死体から、腐敗臭に満ちた死臭が臭って来てあたりを包んでいます。それでも主イエスはそうした死による腐敗という現実の奥深くに入り込んでゆきます。死の本質は、人間の犯した罪の結果であり、罪の代償であります。自我欲求や欲望を餌に誘惑に負けて、神に背き神の義と恵みを投げ捨ててしまった結果、自ら招いた罪の報酬です。主イエスは、ご自身は罪を犯しておられませんが、この堕落して死と滅びに支配された悲惨な人間性全てを、ご自身のお身体の隅々において背負われ、ご自身の全身全霊において神への従順を貫き、全人類の罪を償い、神の義と命の祝福を復活のお身体において回復したのです。残虐な殺戮も醜い呪いや憎しみもその全てをご自身の人間性に引き受けて担い、十字架の死に至るまで人間であることを貫き通しました。使徒信条で「陰府にくだり」と告白しますが、死による腐敗も火で焼かれる悲痛さも、何もかも、全てご自身を開いてご自身の人間性において直かに向き合い、共に引き受け、担われるのです。このように死の腐敗臭がする死体の現実の奥深くにまで入り込んでゆくことは親兄弟でさえもできないことであり、人間には無力なことです。それでも主イエスは、死に対する激しい憤りと共に、そして何よりもラザロを思う深い愛と共感をもって、ご自身の全身全霊において、その現実を受け止め担い尽くします。

そして墓の扉を取り除けます。これはとても象徴的な表現です。主イエスは、ご自身のお身体において、固く閉ざされ何人も立ち入ることを許さない死の扉を取り除けます。言い換えれば、主イエスにおいて、固く閉ざす死の扉は解放されたことを象徴しているようにも見えます。バチカンの聖ペトロ寺院は、コンスタンティヌス帝によってペトロの遺骸の上に立てられた、と言われています。その上にミケランジェロが再建の設計をしたと言われます。墓とは、死の扉によって固く閉ざされた場から、主イエス自らが扉を取り除けて、その奥深く這いこんで、主のお身体のもとに深く扉は開かれ、主が深く介入され共におられる場となったのです。そういう意味で、墓は主の介入する場であり、主の体である教会の場となったと言えましょう。

 

4.「信じるなら、神の栄光が見られる」(40節)

主イエスは、墓の扉を取り除け、死の扉を開いた、ということにとどまりませんでした。「11:40 イエスは、『もし信じるなら神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よわたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』11:43 こう言ってから、『ラザロ出て来なさい』と大声で叫ばれた。11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって行かせなさい』と言われた。」と記して、ついに、主イエスはラザロを復活させたことを証言します。

この段落で、注目すべき所は、先ず何と言っても、「信じるなら、神の栄光が見られる」という宣言です。このみことばは二つのことを約束しています。先ず「死」は、「神の栄光の現わされる」ための場となり、呪いと絶望の場ではなくなった、ということを宣言し約束しています。しかも「神の栄光」のみわざは、信じて受け入れる「信仰」を通して、初めて人々に与えられ共有される「神の恵み」であることです。「信じる」とは、わたくしたち人間の側の主体的な決断行為でもありますが、大事な点は、信じる内容にあります。何を信じて受け入れるか、です。信じるのは、主イエスのおいて「神」が現臨し「神の国」の到来したことです。その「神の栄光」のみわざが、今ここに、主イエスにおいて現され展開していることです。神の永遠のご支配は、過去と現在と未来の全ての時を貫いて、時の中心として主イエスにおいて万物も時も支配し包み込まれるようになったのです。その主イエスにおける「神」と「神のみわざ」と「神の永遠の命」を認め受け入れ、共に「神の栄光」に即ち永遠の命の祝福に与るのです。信じるとは、そういうことです。すると、既に神の永遠の命のみわざは、今ここでこのわたしの内に、力強く実現していることが明らかにとなるのです。終末と完成回復の完全な先取りです。「神の栄光が見られる」とはそういうことでありましょう。

 

5.「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」(41節)

「11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』」と主は祈っておられます。この祈りで、少々不自然と思われるのは、元々は「願う」祈りなのに、「かなえられた」結果が表明され、同時に「感謝」がささげてられていることです。かなったのであれば願う必要はないし、願うなら感謝するの矛盾しています。実は、この祈りの「不自然さ」にこそ、主イエスのご自身の秘密が隠され、表白されています。私たち人間からすれば、「願う」、「かなう」、そして「感謝する」は、それぞれ異なる場面です。通常は「今」願い、それから「未来に」かなえられ、かなえられた結果、最後に感謝するものです。主イエスの祈りは、願うことも、かなうことも、そして感謝することも、皆一つのこととして、同時に実現しています。現在も未来もそして過去も全ての時間は、主イエスにおいて、一つに纏められ包括されており、それぞれの時の一つ一つは皆主イエスの現在において貫通されており、全ての時を主イエスは同時に支配するのです。言わば「神の栄光」のみわざは、主イエスを通して、万物の隅々にそしてあらゆる時の隅々に、染渡るように及んでいます。願いはなされ、かなえられ、感謝がささげられます。「神」は、即ち父と子と聖霊は、一体の「神」として、永遠に同一本質として、常に一致して、永遠に普遍的に万物に及んでいます。「神」は、その一致の全てを、主イエスにおいて、栄光のみわざとして現し啓示したのです。したがって時間を超越した永遠の神として、子が父に願うことは、すなわち父が子にかなえることであり、したがって子が父に感謝することでもあります。もし父と子に分裂があれば、子がいくら願っても、かなうこともあれば、かなわないこともありうることです。それゆえ感謝になるか、呪いになるか、その関係性も不安定です。しかし完全一致であれば、願っても一致ゆえにかなうのであり、感謝でもあります。

明らかに、「ラザロは復活する」という出来事は、これから実現する未来の復活ですが、この「よ、わたしの願い聞き入れてくださって感謝します」とみことばの意味の背景には、主イエスが三位一体の「神」における父と子であることを前提にしたみことばであり、祈りであります。しかしこの「神」の本質的な一致は、人々の目に見えない神の永遠の事実であり、それを主イエスにおいて「見せる」のです。主イエスにおける祈りの力とは、不思議で神秘的な魔術の力ではなくて、「神」の本質から生じる出来事であると言えましょう。それが、聖書は主イエスの奇跡として「見える」形で現わされたのです。ただ、人間の側には、表層で目に見える現象は認めることは可能でも、その本質や根源となる真相はやはり見ることも、理解することもできないのです。したがって「信仰」による外に道はありません。イエスさまが仰せになるように、やはり「信仰」を通して、触れ、出会い、体験する超越の世界なのです。「しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」と説明されていますように、見せて、しかもその目的はあくまでも「信じさせる」ためであります。そうしてついにラザロを復活させるのであります。

 

6.「ラザロ、出て来なさい」(43節)

主イエスは「11:43 こう言ってから、『ラザロ出て来なさい』と大声で叫ばれた。11:44 すると死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」とヨハネは証言して、主がラザロを復活させた瞬間を描いています。とても興味深い点は、主イエスがラザロを復活させるとき、「ラザロ、出て来なさい」と主が大声で叫ばれたことです。主イエスは、大声でしっかりと「ラザロ」と彼の名を呼んで、「出て来なさい」と命じています。この響き渡る大きなみことばの声を、死んで腐敗してしまったラザロは、不思議にも「ラザロ」と自分の名を呼ぶその声を聞き分けて、しっかり応答するかのように、死の墓の中から出て来たのです。前に10章で、羊飼いが羊の名を呼んで連れ出す、と言われた話を想い起します。稚拙な話になりますが、洗礼を受ける前にここを読んで不思議に思いました。死んで既に腐敗して動けないラザロは、どうして主イエスの声を聞くことができたのか、否、声を聞くどころか、自ら死の墓から出て来たのか、理解に苦しんだことを想い起します。

「復活」とは何なのか、それを考えるヒントがここにありそうです。どうして声を聞き歩いて出て来ることができたのでしょう。既に死んで腐敗してしまったザロは、腐敗はどうなったのでしょうか。先ず主イエスは11節で、ラザロの復活について予め「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と言われていました。つまりラザロの「死」について「眠っている(koima,omai kekoi,mhtai)」(11節)と表現されています。しかしその直後に、弟子たちは「ただ眠りについて話されたものと思ったので」、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」(12節)と言って、主がラザロの死をどのようにお考えになっておいでか、その真意を理解することが出来ませんでした。そこで主イエスは、改めて「ラザロは死んだのだ(avpoqnh,|skw avpe,qanen)。」(14節)と言い換えています。主イエスは、既に死者となったラザロを「死から復活させる」という栄光のみわざを予告したのですが、弟子たちは「死から復活させる」主のみわざをよく理解出来なかったようです。弟子たちは「死」を「眠っている」と言われた主イエスの意図を正しく理解できなかったのです。

では、なぜ、二度と目覚めて起きることのない「死」を、わざわざ「眠っている」と言われたのでしょうか。主イエスは、既に「この病気は死で終わるものではない神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)と言われ、その上で「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く(evxupni,zw evxupni,sw 眠りから覚ます)。」(11節)と言い、さらに「あなたの兄弟は復活する(avni,sthmi VAnasth,setai)」(23節)と言い換えられています。つまり主イエスは、眠りから覚ます、倒れ横たわる者を起こして甦らせる、という「神の栄光」のみわざを行い、その復活のわざを通して、「御子の栄光」が現わされる、と予告しています。したがって、主イエスは、最初から「死」(死んだのだ:アオリスト形)を、これから示される「復活する」(未来形)という神の栄光のみわざを前提に、その光のもとで、ラザロの死を見ています。言わば、既に死んでしまったラザロの死を未来の復活から見て、今は「眠っている」と言われたようです。

復活をめぐる誤解がいくつかあります。その大きな誤解の一つは、霊魂不滅説から、死を考えようとする誤解です。魂は永遠不滅であって死んではいないが、ただ肉体だけが死んだのだ、という考え方です。教会の葬儀でも、時々こうした誤解を耳にすることもありますが、死んだら霊魂は天に昇る、という考えるのです。しかしこれは、キリスト教の復活とは似て非なる最悪の誤解です。復活は霊魂の不滅に依存するものでは全くない、ということをしっかり覚えておきたい所です。教理の伝統から言えば、「人は理性を有する霊魂と肉体から成る」(アタナシオス信条37)と規定されていますように、二元論的に霊魂と肉体を分離分割する考え方はありません。パウロは「15:44 自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです(evgei,retai sw/ma pneumatiko,n)。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(Ⅰコリント15:44)と説き、どんな場合でも「体」のもとに人は存在することを告げています。特に復活の体を「霊の体(sw/ma pneumatiko,n)」と表現して、「霊」は「体」と常に一体で分離分割不能あり、「身体」において働くのです。霊が身体において一体として働くとき、「命」となり、それは「復活」となり、永遠の命として生きる身体となるのです。エゼキエル書37章の預言でも、「霊」は「骨や肉」に深く染渡るように宿り一体となって命として働き、生きた大きな群れとなります。確かに霊と分離分割した所で、肉だけが独立して命の存在として立つことはできません。しかし「霊」は「身体」において一体となって、即ち「霊の体」として、永遠の命として復活し活性化するのです。またこの私たちの「霊の体」は、キリストとその復活の身体を根源として、与り獲得されて、与えられます。ちょうどキリストが聖霊によってマリアの胎内に宿って人間性を着たように、キリストは、聖霊の恵みと力のもとに、みことばを通して、ご自身の身体に私たちを与らせて、霊の身体となして、守り支え支配し、永遠の命の身体を「復活の身体」として与えるのです。このように、常に霊と身体(肉)との一体において、人格存在は理解されます。大事なことは、その身体が神の霊から離れてこの世に依存し支配されて朽ちるのか、神の霊に支配されて永遠の命を得て甦るか、ということでありましょう。

「死から復活させる」という神の栄光のみわざは、「死」の滅びに対して「命」に勝利する、という栄光であります。ラザロの復活は、あくまでもキリストの十字架の死における贖罪と復活を先取りして、予め表わされた主イエスの十字架と復活の予兆であり、私たちの将来を象徴的に預言する役割を担っています。ですから、先ずキリストの十字架の死により人類の罪の代償を完全に支払い尽くして、贖われるのでなければなりません。主の十字架の血に与り、罪から贖われた者が義の冠に恵まれ、命の祝福に与ります。ここで重要なことは、キリストの十字架で流された同じ血と裂かれた同じお身体に与り一体とされることです。だから贖われ義と認められ、復活の栄冠に与ることができるのです。このみことば(説教と聖餐)によるキリストの十字架と復活を心から認め、感謝と喜びをもって、また讃美と栄光をもって与るのです。そうした主の十字架と復活の栄光を前提して、それを先取りした形で、それを示すために、主イエスはラザロを復活させたのです。それは、ちょうど聖餐式も同じです。最後の晩餐は、主イエスの十字架の最後を先取りして、主は主の十字架と復活のお身体を差し出して与らせたのえす。終末に迎える未来の復活も同じです。主のご復活と再臨を先取りして、主イエスはわたしたちのためにどんな不条理や絶望の現実に支配されようと、「復活」という永遠の命の喜びのうちに飲み込まれている復活の福音をお示しになられたのではないでしょうか。

キリストにおける福音を先取りして、その勝利の福音の光に照らし出されると、死はキリストにおいて「命」のうちに飲み込まれてしまったものに見えます。新たに永遠の命を与えられることを前提すれば、だから眠っていることと同じではないか、ということになるでしょうか。ラザロの現実は、「死」がすでに支配しているので、その肉体は腐敗臭がしています。しかし主イエスにおける「神」の支配の到来においては、神の栄光のみわざの光のもとでは、同時に永遠の命に溢れて起き上がる、という新しい生が今既に生起しているのです。復活のみわざを待ち望むとは、これから引き起こされる未来の復活を今ここで既に先取りして、「死」を「眠っている」と言われたのではないかと思います。

興味深い点は、それまでのラザロの肉体と人格が再生される形で、復活して、出て来たことです。ちょうど、復活されたイエスさまが、トマスに、ご自身の釘跡や槍跡をお見せになられたように、ラザロも自分の名前をしっかりと呼ばれて、「ラザロ」というたった一人の固有な人格が再生されて与えられる形で、復活したように思われます。しかもその新しく復活した「ラザロ」という名の人物は、その固有な人格を尽くして、起き上がり、歩いて墓から出て来たようです。そのラザロの様子を「11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」と記されています。ラザロは、人としての魂と肉体とをもって、しかもそれまでの個性豊かな人格として、復活しています。そこには、時間の経過も動作の経緯もその詳細は全く描かれてはいないのですが、それはまさに、主のみことばに応じて、しかも一瞬の出来事として、復活して死の墓の中から出て来たのです。主イエスは「ほどいてやって、行かせなさい」と言われますが、死と滅びの呪縛から肉体をほどいて解放し、人類が完全に「霊の体」として開放されて立ち上がる瞬間への応援であり、新しい旅路の始まりとして死の墓に勝利したせ宣言であります。

 

2022年3月20日「わたしは復活であり、命である」 磯部理一郎 牧師

 

2022.3.20 小金井西ノ台教会 受難節第3主日

 

ヨハネによる福音書講解説教42

説教 「わたしは復活であり、命である」

聖書 ダニエル書12章1~3節

ヨハネによる福音書11章17~27節

 

 

聖書

11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 

 

11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 

 

説教

はじめに.

ついに主イエスと弟子たちはベタニアの村に入ります。「1:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。」(18節)と、ベタニアの村についての説明がなされています。18節の「ベタニア」(Bethania悩みの家、貧困の家の意)は、エルサレムから、ケデロンの谷を挟んで、僅か3キロメートル足らず(十五スタディオン=185mx15=2775m)で、オリーブ山の麓にある村です。マルタ、マリア、ラザロの兄弟が住む「重い皮膚病の人シモンの家」(マタイ26:6)があり、主イエスもこの家からエルサレム神殿に通い、ユダヤの伝道拠点とした村です。ついに主イエスはヨルダン川東側のベタニアから西側のベタニアに戻り、弟子たちと共にエルサレムに向かう最後の決意を固めます。

 

1.「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」(17節)

主イエスとその一行は「ラザロの死」と直面します。17節以下に「ラザロは墓に葬られて(e;conta evn tw/| mnhmei,w|))既に四日も(te,ssaraj h;dh h`me,raj)たっていた」(17節)と、はっきりとラザロの「完全なる死」が告知されています。先週「この病気は死で終わるものではない(ouvk e;stin pro.j qa,naton)。神の栄光のためであるu`pe.r th/j do,xhj tou/ qeou/)。神の子がそれによって栄光を受ける。」と弟子たちに主イエスは告げましたが、弟子たちはその死を正しく受け止めることができませんでしたので、主イエスは改めて「ラザロは死んだのだ。」とはっきりと伝えたうえで、さらに「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」(11章14, 15節)「わたしはラザロを起こしに行く(poreu,omai i[na evxupni,sw auvto,n)。」(11節)と仰せになり、葬られて既に死後4日も経過したラザロのもとに、弟子たちを伴い、向かいました。それは、完全な「死者」となったラザロの葬りであり、もはやラザロは「人格」とは呼べず、死体となった塵に過ぎない物体がそこに横たわるばかりの墓をめざしたのです。疑いえない「死」に支配されたラザロの遺骸を収めた墓に赴くことは出来ても、二度とラザロと会うことは出来ないのです。しかしそれは同時に、ついに主が意図しておられた最大の奇跡、地上における最後で最大のしるしを行う、その瞬間でもありました。人間の本質が「死」の滅びから「復活」による永遠の命に転換する瞬間であります。

父と子は同じ一つ神の本質であり、その一体の父から子に全権を委ねられて、地上に降り受肉した主イエスは、まさにこの「復活の命」を与えるという栄光のみわざを示すために、最大の天のしるしとしてラザロを復活させ、まさに「神の子がそれによって栄光を受ける」(14節)その時を迎えます。「父が死者を復活させて命をお与えになる(o` path.r evgei,rei tou.j nekrou.j kai. zw|opoiei)ように、子も、与えたいと思う者に(o` ui`o.j ou]j qe,lei)命を与える(zw|opoiei)。」(5:21)と、主イエスが以前からみ言葉によって約束した通り「復活の命」は、今ここにラザロという死者における神の栄光のみわざを行われるのです。

 

2.「兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」(19節)

「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。」(19, 20節)とありますように、ラザロの死を悼んで、ラザロの葬りのために多くの弔問客があったようです。マルタとマリアは、ラザロの葬りのために訪れた弔問客の応対に追われていました。通常はラビが取り行う葬儀は7日近く続いた、と伝えられており、マルタは、主イエスをお迎えに、そしてマリアは家で弔問の応対にあたっていたことが想像できそうです。恐らく、主イエスの弟子としての関係性から推し量りますと、律法学者のラビを呼ぶことはしていなかったのではないでしょうか。シモンとの関係から言えば、汚れた罪人の家との関わりで、やはり律法学者のラビを招くことは出来なかったかと推測されます。否、マリアもマルタも、律法学者のラビではなく、真のメシアである主イエスを最初からはっきりと求めていたに違いないと思います。どんなに多忙でも、姉のマルタらしく長女として恩師を出迎える礼節を果たしていました。

そこで、所謂「葬儀」についてですが、葬儀の目的は何か、よくよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。そこで人々に求められることとは、どのような行為であり、またどのような祈りがささげられるべきでしょうか。葬りをめぐり、主イエスはどのようにお考えになっていたかをたいへんよく示す意味深い話が、ルカによる福音書にありまます。主イエスは、主のもとに集まったある弟子の一人に対して、こんなことを言われています。「9:59 そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず父を葬りに行かせてください』と言った。9:60 イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』9:61 また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』9:62 イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」という主の教えです。ここで、是非注目したいのは、葬りの視点が大きく変わっていることです。一般の常識で言えば、葬りの中心は「死」であり「死者の葬り」です。漢字でも草の下に、即ち地中深く死者を埋め塵に返す儀式です。この死者を土の塵に返す葬りを、ましてや肉親の死の葬りを人類はこれまで全てに優先すべき祭儀と考えて来たのではないでしょうか。ある弟子は「主よ、先ず父を葬りに」と言って、厳かに父を葬る儀式を最優先にすべきと考えていたのですが、驚いたことに、主イエスは、それは後回しにして、それよりも優先すべきことは「わたしに従いなさい」、ときっぱりと命じます。その理由は、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」ということであり、また「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」からだ、ということになります。優先順位が大きく変わるのです。その優先順位の転換は、視点の転換が起こっているからです。「福音」という視点、即ち主イエスにおいて「神の国は到来ている」という新しい視点に立ち直すことで、見えて来る景色は全く異なるからです。神の国とは、神の支配ですが、神の完全にご支配のうちに、しかも主イエスにおける神のご支配のうちに、既に「死者」さえも包まれているではないか、という視点を意味します。死について、使徒パウロは「15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきもの死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」(Ⅰコリント15:54~55)と告げます。主イエスにおける神の国の到来において、「死は勝利に飲み込まれてしまった」という新しい福音の視点であり、同時にまた「15:56 死のとげはであり、罪の力は律法です。」(同56節)と、罪の裁きは主イエスによる十字架の贖いにより、既に律法の支配とそれによる罪の裁きからは完全に解放されてしまった、と宣言しています。主イエスは弟子に、「死」によって拘束され支配され敗北を認める葬りから解放されて、新しい福音、神の国において与えられる永遠の命を認め、命の祝福に与り、本当の生きる道を見つめよ、とお教えになられました。そしてラザロを復活させて、新しい命の祝福の到来を示すのであります。

 

3.「わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)

間に合わずに、心でから4日以上も遅れて到着した主イエスに対して、マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(21, 22節)と言って、主イエスをお迎えしました。この言葉は、矛盾しており、錯綜したマルタの複雑な感情をよく言い表しているように思います。マルタは主イエスを迎えるとすぐに「わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ouvk a’n avpe,qanen o` avdelfo,j mou)と言って、「仮定法」を示す用語で感情を露わにし、主イエスを咎め、深い絶望と悲嘆を訴えます。しかしその後で、それでも、微かな期待を主イエスに求め、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(nu/n oi=da o[ti o[sa a’n aivth,sh| to.n qeo.n dw,sei soi o` qeo,j)と言い換えます。マルタの言葉は、一見、マルタの信仰告白のようにも読めそうですが、これは非常に曖昧な表現だと言わなければなりません。先ず「今は知っています、今だから分かります」という主文ですが、これは一定の意味をよく示しているように思われます。「今でも承知しています」「今も分かる」、と言葉では言っているのですが、いったいどんなことが分かり、知っているのか、その内容が問題です。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」と言っています。原文から申しますと、「神」には定冠詞が付けられていますので、明らかに「父なる神」であり、全能の造り主なる「神」を指していると思われます。その神にあなたが、即ち主イエスがお願いすることができる、という意味になります。ただし、願いを実現しかなえてくださるのは、主イエスご自身ではなくて、「神」なのです。ところが、主イエスはご自身からご自分のことを「エゴー・エイミ」(わたしはある)という神の名を用いて名乗り、ご自身がモーセに啓示された「神」であることを、繰り返し自己啓示しておられました。言わば、ユダヤの人々に、文字を通して律法として、言い伝えられてきた神ではなく、現実に生きて働く「神」と出会うのであるとすれば、それは、ただ独り主イエスにおいて現臨する「神」のほかにはおられない、と主イエスはいつも告げておられたはずです。少し意地悪く読めば、マルタの中で、まだ、「神」は主イエスのうちにはおられないのです。主イエスは、ただ祈り願うことは出来る、そしてそれを神は聞き入れてくださるかも知れない。主イエスと神とは、一体ではなく、まだ大きく切り離された所で理解しているようです。マルタのこの信仰告白には、まだ、そうした曖昧さが残存しています。

しかしそれでもマルタの一定の「信仰告白」として評価できる点もあります。主イエスは、祈りを通して「神」は聞き入れてくださって病気を癒していただける、そんな特別な「力」が主イエスにある、と信じていたことは確かです。だからこそ、姉妹たちは、主イエスの祈りとその特別な力に期待を寄せて、イエスのもとに人をやって「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた(11:3)と考えられます。厳密に言えば、22節で「あなたが神にお願いになる(aivth,sh| to.n qeo.n)」と「神はかなえてくださる(dw,sei soi o` qeo,j)」とは別の事柄なのです。新改訳聖書の改訂3版の訳では「神はあなたにお与えになります」となっておりますが、その方が原典に近いと思います。主イエスが求め、神がお与えになるのです。イエスの「祈りの力」が神を動かして、神が奇跡を実現される、と考えたようです。つまり「奇跡」とは、ある意味で主イエスの特別な「祈りの力」にある、と理解していたようです。それでも、主イエスの病気を治す「祈りの力」に、強い信頼を寄せていたことはよく分かります。少し難しい表現ですが、まだ彼女の信仰告白には、キリスト論がはっきりしていなかった、と言えます。救いの信仰において、この明確なキリスト告白を持つということは決定的な意味を持つのですが、マルタはまだ十分に主イエスの本質を理解するには至っていなかったのです。こうした事例は、3章のニコデモや4章のサマリアの女とよく似ているのではないでしょうか。そして主イエスとの対話を通して、その解き明かしの中で、少しずつ、主イエスにおける「神」を正しく知り、信じ受け入れることが出来るように導かれるのです。すなわち、主イエスは、その本質において、三一体の神である、と知るのです。

 

4.「あなたの兄弟は復活する」(23節)

さて、いよいよ主イエスとマルタとの問答は、復活とそれを成し遂げるメシアの到来をめぐる根本問題に発展します。主イエスが「あなたの兄弟は復活する(VAnasth,setai o` avdelfo,j sou)」と言われると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活すること存じております」と言った(23, 24節)と書かれています。主とマルタとの問答の主題は、主イエスが神にお願いをして、それを神がかなえるという脇役の次元の話から、直接主イエスがらラザロを復活させて「命を与える」主人公として、話は進んでゆきます。ここに、ヨハネ福音書の核心があります。

まず主イエスは「あなたの兄弟は復活する(VAnasth,setai o` avdelfo,j sou)」と「未来形」(avni,sthmi VAnasth,setai)でラザロの復活を告げます。欽定訳聖書は “Jesus saith unto her, Thy brother shall rise again.”と「意志未来」で訳して、主イエスの強いご意志を表しています。大事なのは、ラザロを復活させるのは、終始一貫主イエスご自身であり、主イエスのご意志です。したがって「神」のご意志は、即ち主イエスのご意志として一体なのです。そこでマルタは「終わりの日の復活の時に復活すること(o[ti avnasth,setai evn th/| avnasta,sei evn th/| evsca,th| h`me,ra|)]は存じております、と応答します。「復活」をめぐり、両者が共に共有する理解は「終末にはやがて復活はあるであろう」とする<未来形の甦り(avnasth,setai)>です。ここでの復活とは、今現在からは遠くかけ離れた曖昧な<未来への期待>に過ぎません。実はこうした世の終わりの時に、その遠い未来に、起こりうるであろうとされる「未来形の復活」は、ユダヤ人たちの間でも、ファリサイ派を初めエッセネ派、クムラン教団でも共有されていた復活の期待でありました。こうした復活信仰は、当然ながらファリサイ派も含めて、ユダヤでも共に共有し受け継いでいたと考えられます。マルタはその期待を述べたのです。ただ、ラザロは既に死んでしまったので、いつか甦るだろうという期待は絵にかいた餅に過ぎず、だれもどうしようもないことです。その意味からすれば、復活はまだ「現実の出来事」ではなくて、あくまでも架空の「未来の期待」に過ぎません。こうしたマルタの復活観には、ある致命的で決定的な問題によって、貫かれています。それは、主イエスにおいてこの未来の復活は既に現在化されて到来しており、未来も過去も主イエスの時の支配の中に包まれ統合されているのです。主イエスにおける「神の国」の到来により、主イエスにおける「神」の永遠の支配力は全ての時を支配するに至ったのです。終末時に期待される復活の出来事が、今ここで、主イエスにおいて現在化しており、すべての時を包み、すべての時間の中心となった、それがメシアの到来であるということを、まだ認められずにいたのです。主イエスにおける「神」の支配は、あらゆる時を貫いて、今この現実として、無限の愛と意志をもって万物を贖われるのです。それが「神の国」の到来なのですが、それはまだ彼女にはとても受け入れ難い現実だったのです。復活の出来事は、終末時の未来にやがて起こるであろう、とただ期待するに過ぎないことだったのです。主イエスにおける現実として今既に生起していることとしてまだ分かりませんでした。

 

5.「わたしは復活であり、命である。」(25節)

そこで主イエスは、単刀直入にマルタに告げます。「11:25『わたしは復活であり命であるわたしを信じる者は死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』11:27 マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』」と、主イエスによる復活の告知に対して、マルタは「メシアであるとわたしは信じております」と答えて、締めくくられます。この「わたしは復活であり、命である」という主のみことばには、二重の意味が込められています。一つは、「わたしはある」という言葉で、主イエスにおける「神」を自己啓示しています。主イエスご自身は、モーセに啓示したあの「神」そのものである、という「神」の啓示です。そしてもう一つは、「命」であると言われ、主イエスご自身が「命」の根源であり、その命を与える与え主であることを明らかにしています。ヨハネ福音書の冒頭の言葉で、「1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった命は人間を照らす光であった。」と讃美告白された言の命です。「言葉の内に命があった」とありますように、「言」は、命の源泉であり命の賦与者であり、万物の創造主でもあります。この「言」としての神こそ、即ち「御子」としての神が人の子として受肉したお姿こそ、主イエス・キリストの本質であります。

用語の使い方で申しますと、「わたしは復活であり、命である(VEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,)。」は、『わたしはある(VEgw, eivmi)』という神の名に、「復活と命(h` avna,stasij kai. h` zwh,)」を連結させた「エゴー・エイミ構文」で構成されています。「混沌」(カオス)から万物を創造し、「土の塵」(アダマ)から人間を形づくり「命の息吹」(ルーアッハ)を鼻に吹き入れ、「生きた者」(創世記2:7)として人間を創造された創造主なる「神」は、またモーセに「わたしはある」という名でご自身を啓示した「神」(出エジプト記3:14)であります。「わたしはある」は、ヘブライ語の神名「ヤハウェ」の語源ハーヤーで、それを3世紀の七十人訳聖書は「わたしはある」(VEgw, eivmi)とギリシャ語訳した言葉です。その神の名「わたしはある(VEgw, eivmi)」を主イエスは自ら名乗り、さらにご自身が「神」であることを自己啓示し、イエスという受肉した「神」として「神」の栄光のみわざを行うために、今ここに人々の前に現れたのです。まさに「神」とは、父においても、子においても、そして聖霊においても、同一の本質を共有する「神」であることを示したのです。主イエスにおける「わたしはある」神は、そのまま民の痛みを知り、降り、導き上る神として、しかも「わたしは復活であり、命である(VEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,)」神として、世の人々に「神の国」の到来を告知したのです。だから「命と復活」の到来であり「世の光」であり「真理」なのです。終末時に生起する未来の復活は、まさに今ここで、主イエスにおいて先取りされ現在化され既に実現した出来事として世の人々の前に差し出されたのです。つまりキリストは、命と復活を与える神であるばかりか、ご自身が「命」そのものの根源であり復活そのものであるとして、人々の救いと命に与る源泉としてご自身を差し出されるのです。

ヨハネによる福音書の特徴の一つとして、未来の終末が先取りされて現在化されている、という特徴が挙げられます。しかもその未来を先取りする現在化は、説教と聖餐のみことばにおいて、鮮明にされます。ご自身の十字架と復活によるお身体を先取りして、最後の晩餐で弟子たちに差し出される主のお姿は、聖餐式で朗読される「聖餐制定語」に見出すことができます。主の食卓において、主は弟子たちに「取って食べなさい(La,bete fa,gete)。これはわたしの体である(tou/to, evstin to. sw/ma, mou)。」(マタイ26:26)と命じられました。これから迎える十字架の死による贖罪と復活による永遠の命を、今ここに先取りして、弟子たちに主の栄光のお身体に共に与らせ、分かち与えています。またパウロの聖餐制定語では、さらに「これは、あなたがたのためのわたしの体である(Tou/to, mou, evstin to. sw/ma to. u`pe.r u`mw/n)。」と言われ、「わたしの体」は「あなたがたのための」ものであり、「あなたがた」のために制定した聖餐において共に与る主の体であることをと明らかにしています。また「これを行いなさい(tou/to poiei/te):新改訳:わたしを覚えてこれを行いなさい。塚本訳:わたしを記念するためにこのことを行ないなさい(tou/to poiei/te eivj th.n evmh.n avna,mnhsin)。」(Ⅰコリント11:24)とお命じになり、聖餐のパンと葡萄酒とは十字架と復活を先取りする主のお身体であることを明示し、ご自身のお身体をあなたがたのために与え、与ることができるように制定した恵みの座であることを明らかにします。つまりわたくしたちは、今ここで、このみことばの座において、主の十字架の死による贖罪の恵みと復活による永遠の命の恵みに与ることができるようにしてくださいました。

ここで、是非とも覚えておきたい大切な言葉は、まず主が「取って食べなさい(La,bete fa,gete)。これはわたしの体である(tou/to, evstin to. sw/ma, mou)。」(マタイ26:26)と言われ、聖餐のパンと葡萄酒において、ご自身を差し出されています。これは、主ご自身が「わたしは復活であり、命である(VEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,)」と告知したご自身の命の身体であります。さらに大切なことは、「このように」と口語訳や新共同訳が誤訳していますが、先ほど触れましたように、原典は「これを(対格で「このことを」ou-toj tou/to)行え」とお命じになりました。「これを行う(tou/to poiei/te)」とは、これから経験しようとする十字架と復活のお身体を、この聖なる晩餐において主は「先取り」して、「現在」の出来事として今ここで受けるように、と主の十字架と復活のお身体を現在化した「しるし」として「パンとブドウ酒」を弟子たちに差し出し分け与えておられます。言わば「わたしを思い起す(eivj th.n evmh.n avna,mnhsin)」ただ中で、その記念想起の場において、み言葉を通して導かれた共同体は、未来に復活するという出来事とその命を、今ここに現在化され現実化された出来事として、共に与り体験するのです。決して誤解してはならないのは、聖餐は、ただ過去の過ぎ去ったことを記念して想い起す記念式典ではなく、その約束のみことばが語られ、招かれ、導かれる中で、主のお約束を「想い起す」(記念する)ことにより、終末は先取りされ、今ここに主のお身体が現在化され現臨するのです。むしろ過去・現在・未来のすべての時の中心として、そしてあらゆる場を全て包み込む中心として、全てを今ここに一つに収斂させて、ただ一度の現在のこととして、今ここに共に「覚え」て「与る」のです。したがって聖餐においては、終末未来の復活と命は、主の現臨と語られるみことばの恵みと力により、記念と想起の行為を通して、わたしたちのうちに現在化され現実化された永遠の完成の恵みとなるのです。わたくしたちの礼拝の意味と力は全て、このみことばによる終末の現在化と現実化にかかっている、と言わなければなりません。復活と命は、主が現臨し主が語られるみことばにおいて、未来形の期待は既に引き起こされる現在形の出来事として実現し、キリストご自身のみ言葉を通して、わたくしたちに差し出されるのです。

 

6.「わたしを信じる者は、死んで生きる。」(25節)

終わりに、ヨハネ福音書の中核を成すメッセージの終結部に触れておきたいと思います。主イエスはマルタに復活による永遠の命を告知し、主のみことばに対する信頼と承認を求めて、「このことを信じるか(pisteu,eij tou/to)」と、マルタの信仰を問い糾します。なぜなら「わたしを信じる者は死んで生きる(o` pisteu,wn eivj evme. ka’n avpoqa,nh| zh,setai)。生きていてわたしを信じる者はだれも(pa/j o` zw/n kai. pisteu,wn eivj evme.)、決して死ぬことはない(ouv mh. avpoqa,nh| eivj to.n aivw/na)。」(25, 26節)からです。文字通り「信じるか」と、マルタには信仰的決断がここで求められます。ヨハネのもう一つの重要な主題はこの「信仰的決断」です。主は「わたしは復活であり、命であるVEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,)。」(25節)とご自身を自己啓示しました。その啓示を受け入れることで、主の命はわたしたちの光となって実現します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない信じない者は既に裁かれている神の独り子の名を信じていないから」(ヨハネ3章16~18 節)です。先ほど申しましたように、終末的未来の復活と最後の審判は、主の啓示のみ言葉を通して、人々の前に、今ここに、差し出されています。それはまさに全ての時の中心に立つことになりますです。明日の約束は今、信仰による決断として、力強く先取りされて、現在化して現実の出来事となって迫ります。わたくしたちも、信仰において、永遠の喜びを今ここに生きるのです。

 

2022年3月13日「この病気は死で終わるものではない」 磯部理一郎 牧師

 

2022.3.13 小金井西ノ台教会 受難節第2主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教41

説教 「この病気は死で終わるものではない」

聖書 ダニエル書2章17~23節

ヨハネによる福音書11章1~16節

 

 

聖書

11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。11:2 このマリアは主に香油を塗り髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された

11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けばつまずくことはない。この世の光を見ているからだ。11:10 しかし、歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 

 

 

説教

はじめに. ラザロの復活

10章では、主イエスはご自身を「良い羊飼い」に、神の民を「羊」に喩えて、良い羊飼いは、羊のために命を捨てる、そして羊に命を与える(10:10,28)とお約束なさいました。11章では、主イエスは、ご自身がとても愛しておられたラザロを墓の中からよみがえらせる、という主のご生涯で最大かつ最後の奇跡を行われます。主イエスには、人々に永遠の命を与える力があること、その栄光のみわざを、このラザロの復活の奇蹟を通して、現します。神のメシアである主イエスの栄光のみわざは、十字架の死において人々の罪をご自身の命の代価を支払って贖い、人々を復活させ永遠の命を与えることです。その栄光のわざを、ご自身における十字架の死と復活によって現すのですが、そのご自身における栄光のわざの予兆として、ラザロを死の墓の中から復活させて見せるのです。

主イエスと永遠の命の関係について言えば、ヨハネによる福音書の冒頭で「1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と讃美告白されておりましたように、先在の言(ロゴス)であり、神の御子である主イエスのうちに永遠で根源的な命はあります。ヨハネによる福音書の中心テーマは、この御子における命が御子を信じることにより、信じる者に分け与えられる(ヨハネ3:15,16,36,5:24,26,40,6:27,35,40,47,48,51,53,54,68,10:28,11:25,14:6,17:2,3,20:31)ということにあります。これは、聖書の基本原理ですが、「命」とは、そもそも「神」のうちにその源泉を有しており、神から創造の恵みとして、神から分け与えられる神の賜物であります。単純な基本原理ですが、それでも、私たち人間にはきちんと受け止められないことでもあります。わたしたちはいつも親子兄弟などの家族の命を心にかけて心配し、無事を祈ります。しかし決定的な点は、そのすべての命は皆、神のものである、という点です。神から戴くことで命は実現しているのです。自分たちのものではないのです。そうであれば、神を受け入れ、神の命の恵みへの感謝こそ、生活の中心になるはずです。しかし残念ながら、そのために神を礼拝し神に感謝する人は余りにも少ないのです。家族の命を思うと言いながら、神からの命ではなく、自分の手の中の命ばかりを考えてしまうのです。元々、命は御子のうちにあり、御子はそれを信じる者に永遠の命として与えることが出来る、と主イエスは啓示します。ラザロの復活は、それをしるしとして証明して見せるために行われます。

 

1.登場人物、マリア(1~3節)

さて11章には、マリア、その姉妹マルタ、そしてその兄弟ラザロという三人の兄弟姉妹が登場します。先ずマリアという人物についてご紹介しますと、マリアとマルタは、この11~12章以外でルカによる福音書10章に、その名前が挙げらるだけです。ベタニヤ近くにある墓から、マリア,マルタ,ラザロの名が記されたものが発見された、という話を聞きます。この家族について詳細情報は殆どありませんが、ヨハネによれば、主イエスは彼らをとても深くいつくしんでいたことが記されています(3,5,36節)。

マリア(Maria, Mariam)という名は、ギリシヤ語で「マリア、マリアム」と言われますが、ヘブライ語では「ミルヤーム」で、そのギリシヤ語音訳音写になります。アラマイ語方言では「マルヤーム」となりますでしょうか。旧約聖書の出エジプト記の記述によれば「15:20 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。15:21 ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。」とあります。モーセの姉ミリアム(出15:20‐21,民12:1,ミカ6:4)に由来する、と考えらえます。新約聖書には、マリアという名の人物は六人登場しますが、ここに登場するマリアは「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア出身」とありますから「ベタニヤのマリア」ということになります。ベタニヤは、エルサレムから約3キロほどの所で、オリーブ山の東南の斜面にある村と考えらえます。ベタニヤのマリヤは、姉のマルタと兄弟のラザロと共に、このオリーブ山の斜面の村で暮らしていたようです。主イエスとの出会いは、主イエスがユダヤ伝道の折りにこの村を訪れ、一家と親しく交わるようになり親交を深めたのではないか、と考えられます(ヨハネ11:5)。主イエスは、神殿に詣でる際に、彼らをしばしば訪ね、その家で食卓を囲みみことばを語られたようです。その際、マリヤはイエスの足もとに座り、主のみことばに聞き入りますが、姉マルタはイエスのもてなしのために忙しく働きます。主イエスの宣教は、いつも罪人と共に食卓を囲み、み言葉を語りましたので、食卓のために忙しく働くことはとても意味ある奉仕でしたが、マルタは自分だけが準備で忙しくしている、と不満を主イエスに訴えますが、主イエスは、マリアの行為は最も意義あるとしてマリアを妨げてはならない、と諭します(ルカ10:41~42)。来週触れますが、ラザロを復活させる奇跡を主イエスは行われます(11:1~46)。その時「11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と告げています。言わば、主イエスがラザロを復活させる出来事につなげる役割を果たしています。最もマリアらしい行動は、イエスの最後の過越の祭の準備の時のことです。マリアは300デナリもする高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、涙と共に、自分の髪の毛でぬぐったことが記されています(12:1~8)。こうしたマリアの行為は、イスカリオテのユダなどは、浪費で愚かな行為として、非難しますが、主イエスはかえって彼女の愛の行為を感謝するばかりか、葬りの備えとした彼女の信仰を高く評価しています。(マタイ26:10,マルコ14:6)。

 

2.マルタとラザロ

マルタ(Martha)は「婦人」を意味するアラマイ語から派生した名前のようです。新約聖書では、ルカ10:38~41,ヨハネ11:1,5,19~39,12:2に登場します。先ほどの、イエスの死の準備に香油を注いだマリア(ヨハネ12:3)の姉として、そして主イエスが死人のうちからよみがえらせたラザロの姉として登場します。マタイによる福音書やによれば「26:6イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」とあり、またマルコによる福音書によれば「14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき一人の女が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来てそれを壊し香油をイエスの頭に注ぎかけた。」とありますように、この香油を注いだ女がマリアであれば、「思い皮膚病の人シモン」の家にいたとする一人の女とは、マリアでありその姉がマルタ、或いはラザロもいた可能性もありうることではないか、と推測されます。つまりマリア、マルタ、ラザロは、重い皮膚病のシモンの家の家族または関係者であったと思われます。言い換えれば、深刻な汚れた罪人と断罪された人物の家族関係者であることが分かります。したがって、やはり主イエスは、罪人のもとに自ら訪れ、罪人を招き、罪人と共に食卓を分かち合い、みことばを語る、という宣教活動を常としていたようです。その宣教活動のただ中で、同じ罪人の家族であるラザロを主イエスは復活させて、新しい命に罪人を招くのであります。

ラザロという名の人物も、聖書には複数登場しますが、ここでは「ベタニヤのラザロ」です。主イエスの親しい友人であり、マルタとマリヤ(ルカ10:38~42)の兄弟です。そして場合によっては、重い皮膚病のシモンの関係者と言えましょう。それ以上の記述はありません。ただ、ここで、ラザロは、その性格や人間性に何か特別な意義があるからというのではなく、ラザロの役割は、あの生まれつき目が見えなかった人が目を開けられた人と全く同じように、神の栄光のみわざが主イエスによって行われる「栄光の場」として、象徴的に登場している点にあります。そうした主の栄光が現れる場としての役割を担っているように思われます。

 

3.「この病気は死で終わるものではない」(4節)

人物紹介はこれまでといたしまして、早速本論に入りますと、ラザロ復活の発端として、ラザロの病気が姉妹から主イエスのもとに伝えられます。ヨハネは「その兄弟ラザロが病気であった。11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。11:4 イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」と記しています。

この対話の中には、病気に対する一つの重要な見方が示されています。この味方はとても信仰生活には重要な考え方です。しかしそれと同時に、私たち人間の感情からすれば、非常に驚くべき考え方でもありますから、ある意味で躓きのもとにもなりそうです。信仰とは、どんなことでもそうですが、信じる者には福音であっても、正しく信じられない者には、いつも躓きとなります。主イエスはラザロの病気について「病気は死で終わるものではない(ouvk e;stin pro.j qa,naton)」と断言しました。直訳すれば、死に至るものではない、となります。つまり「死」に至らしめる「病気」などはなく、病気は「死」に至らしめるものではない、ということでしょうか。或いは、今や、病気は「死」に至らしめるものではなくなった、ということを意味するのでしょうか。場合によっては、今や、「死」はなくなったのだ、それゆえ、病気さえも恐れることはないのだ、という意味にもとれます。今、わたしたちは、非常に難しい感染症で苦しめられております。人類の歴史は、病気との闘いでもありました。誠に悲しいことですが、多くの犠牲者を出してきました。誰もが心を深く痛めるばかりか、いつかは自分も感染したら、と非常に恐れています。わたくしも母の病死が人生を変えました。そうした病いに対する恐れや痛み悲しみこそ、わたしたち人間に共通する感情であります。だからこそ「11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた」とありますように、早急な癒しを主に求めたはずです。先ほども紹介しましたが、後に間に合わずに死んでしまったラザロの悲しみとその無念さから、「11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたらわたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った」のです。死んでしまった者は、もう二度と生き返ることはない。それが「死」であります。しかし主イエスは、病気は「死」をもたらしはしない、と言い切っています。では病気による死とは何なのでしょうか。主イエスは「死」を二重に見ているのでしょうか。一つは、完全な死滅や永遠の滅びという根源や本質における死と、時間の中で現象として生じる死の状態とを区別して見ておられるのでしょうか。11節で「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と言われています。用語では「眠ってしまっている」(koima,omai kekoi,mhtai)という現実として完了形で表し、だから「眠りから呼び覚ます」(evxupni,zw evxupni,sw)と仮定法過去(アオリスト)で表しています。

したがって、ここには明確な「ある視点」に立って病気を見つめる主イエスのお姿が見えて来ます。ある特別な視点から、「死」を見つめている、と言ってもよいでありましょう。それは、主イエス・キリストご自身による視点から見えて来る、「死」の本質であります。主イエス・キリストにおいて「神」の到来を認めて受け入れた信仰の視点から見れば、「死」の本質は「眠ること」であり、確かに病気によって眠らされてしまったが、「死」という終焉を滅びとして迎えているわけではない、というのであります。したがって、病気が死に誘い至らしめるそのただ中に、福音の光が射し込んでいると言えましょう。なぜなら、そこに、主イエスにおける「神」の現臨は、直ちに「神の国」(神の支配)の到来を意味するからです。神の永遠のご支配が病気の中に介入されるからであります。主イエスにおける「神」のみわざは、主イエスによる十字架と復活のみわざであり、それこそが、まさに「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受ける」場となるからであります。主イエスにおいて真実に生きて働く「神」は、今この地上に到来し、このわたしたちの生活の隅々に降り、主イエスの十字架と復活において、永遠の命はこの地上に突き刺さるように介入したのです。その明確の視点に立つとき、はじめて病気は決して死で終わるものではない、否、死そのものに勝利するという希望の光が、病気という悲惨な闇に光射すのです。

 

4.「夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」

主イエスは弟子たちに「昼のうちに歩けばつまずくことはない。この世の光を見ているからだ。11:10 しかし、歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」と教えています。「昼」には「光」があり、「夜」とは暗闇の象徴ですが、暗闇は「光」を失った不信仰を意味します。つまり「光」とは、主イエスご自身であり主ご自身が現臨して今ここにおられること、そして主イエスにおいて現臨する神を信じる信仰であります。この光すなわち信仰こそ、世界のすべての現象とその真相を見分ける明確な「視点」となります。明確な信仰という視点をもって、キリストにおける「神」の到来という光のもとで照らし出される世界の真相を見分けるのです。「その人の内に光がない」とは、キリストにおける神のご支配を福音として信じ受け入れることができない不信仰を言い表したのでありましょう。主イエスの十字架と復活を通して与えられる神の恵みから見れば、病気は、確かに悲痛な現実であることは変わりはありませんが、そこでもう一つの真実が、すなわちキリストを通して到来する「神の支配」という光の介入です。病気に苦しみ悶えつつも、わたしたちは「神」と共に病気と向き合い、そして病気を乗り越えて、死に勝利するのです。こうして病気は、わたしたちを永遠の死へと至らしめるものではない、という真実を知ります。病気は痛ましい病気のままであり続けることはなく、キリストの十字架と復活を通して、「神の栄光」が現れる場となり、私たち自身からすれば、だからこそ、その希望の光のもとで、神の栄光を現わす場として積極的に受け止め直すことができるようになるのではないでしょうか。苦しみも悲しみも、確かに痛み悲しみの現実は変わりませんが、キリストの十字架と復活を通して働く神の栄光のみわざを知れば、それは敗北と絶望の場ではなく、その痛み苦しみの場こそ、希望に生きる場であり、本当の意味で命に勝利する場となるのではないでしょうか。ようやくホスピス病棟が我が国でも受け入れられるようになりましたが、それはただ医療の敗北から仕方なく容認せざるを得ない、というのであってはならないと思います。むしろ永遠の命に向かう尊厳と希望に溢れた、言わば本当の意味で生き抜こうとする過程であり場であります。したがって、ホスピス病棟を根底から支えるものは、主イエスにおける「神」の到来と現臨であり、主の十字架と復活を通して実現した贖罪と復活の恵みであり、その信仰であります。

 

5.

主イエスが「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と仰せになり、一行はベタニアに向かって出発するのですが、それに対して、弟子たちは根本的な誤解をしてしまうのです。12節以下に「11:12 弟子たちは、『主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう』と言った。11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。」と記されています。主のみことばを誤解した弟子たちには、「死」という究極的なその本質はおろか、ラザロが実際に死んだ、ということさえ、誤解しており、ただしく受け止められてはいなかったです。「11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。』」と改めて、主イエスは現実のこととしてラザロの死を告げ直して、本当の意味で、ラザロを死から復活させる出来事を暗示します。しかしそれでも、「11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った。」とありますように、死と復活の意味はさらに二重に誤解されてしまいました。しかし、これがわたくしたち人間の実情でありましょう。主イエスのみことばをその場で正しく聞き分け理解することは至難と言わなければなりません。この福音書を書き記したヨハネ自身もそうだったと思われます。だからこそ、ヨハネは死の直前まで、繰り返し繰り返し主の言われた言葉、主のなされたみわざを反芻するように、想起しつつ、その意味を問い続け、ようやくこの福音書を書くに至ったのでありましょう。

以前にも少し触れましたが、「牧会」の目的は「信仰」の助けとなることにありますが、その本質を言えば、キリストご自身の御声そのものが、羊の名を呼び、羊を連れ出して、天国の門を通り抜けて、永遠の命の囲いの中に導くこと、それが牧会の本質です。したがって、ひとりひとりが、羊飼いである主イエスのみことばの声を聞き分ける、その一点に牧会は生じるのではないでしょうか。この場面での弟子たちは、まだ羊飼いの御声を正しく聞き分ける段階には至らなかったようです。わたくしたちも同じで、長い牧会という信仰の旅と訓練の中で、絶えず自分の名前を呼ばれ、引き戻され連れ出されつつ、門を通り抜けてゆくことになります。