2022年4月17日「見よ、お前の王がお出でになる」 磯部理一郎 牧師

 

2022.4.17 小金井西ノ台教会 復活礼拝

ヨハネによる福音書講解説教46

「見よ、お前の王がお出でになる」

聖書 詩編28編1~9節

ヨハネによる福音書12章12~36節

 

 

聖書

12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。12:17 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。12:18 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。12:19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」

 

12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人はそれを保って永遠の命に至る。12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 

12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よわたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。12:28 父よ御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した再び栄光を現そう。」12:29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。12:34 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」12:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 

説教

はじめに. 「人の子は上げられなければならない」(32節)

今日、わたしたちは、今ここに、主イエス・キリストのご復活をお迎えいたしました。イースター、おめでとうございます。本日の聖書箇所は「棕櫚の主日」に朗読される場合が一般的ですが、それは、主イエスの受難物語を時間の推移に従って描くという伝統によるものです。特に、共観福音書の構成は、主イエスのご受難の物語を順序よく辿りますが、ヨハネによる福音書は、共観福音書のように受難物語を時間の推移に即して辿りながら、しかし同時にヨハネ独特の時間を超えた啓示証言を組み込んで、主イエスの受難物語を展開しています。本日のみことばでも、イエスさまは、最初から弟子たちに、「わたしは地上から上げられる(u`yo,w u`ywqw/ 高い所に上げられる、高める)」(12:32)とアオリスト受動態で告げておられます。或いは「人の子は上げられなければならない(u`yo,w u`ywqh/nai 高い所に上げられる、高める)」(12:35)と、同じアオリスト受動態不定形で、仰せになっていおられます。この「上げられる」という言葉は、単に主イエスの受難物語を、エルサレム入場、続いてご受難と十字架の死、それから復活という出来事を一つ一つバラバラにして、形式的な時系列で展開して辿るのではなくて、どちらかと言えば、時間による区切りを超えて、主イエスにおける「神の永遠性」という視点から、地上から天上を貫いて、神の御子として父と共におられると同時に、また受肉の神の御子として天ののもとに栄光のうちにお帰りなられる、という栄光の帰還が「上げられる」という表現で言い表わされています。ヨハネは、主イエスの受肉全体を神の栄光の現われとして捉え、受難物語を展開します。いわば、主イエスご自身が天から降り、人の子であるイエスとしてマリアから人間性を受けて受肉して、イエス・キリストとして、即ち神のメシアとして、この地上にお出でなられたこと、そうした永遠の神の御子が人として受肉して到来したこと、即ち主の受肉全体が、そっくりそのまま神の栄光のみわざと言えましょう。この御子の受肉という出来事は、クリスマスという誕生に始まり、十字架と復活において頂点に達し、昇天して父のみもとにお帰りになり、右の座におつきなるという全てを、受肉のお身体において包み込んでいます。その受肉のお身体をもって栄光の帰還を果たすと共に、地上には新たに、聖霊が遣わされ、使徒たちによる教会が誕生する、という出来事をもって完結します。つまり、神の栄光のみわざは、全て、御子の受肉における十字架と復活を中核として展開します。パウロの表現に従えば、神の秘められたご計画は、この受肉におけるご生誕とキリストの十字架における死と復活において、明らかにされるといえます。

本日朗読した聖書箇所は、一般的には、復活を証言する聖書箇所としては用いられませんが、明らかに、先ほどもご紹介しましたように、「わたしは地上から挙げられる」あるいは「人の子はあげられなければならない」と主が仰せの通り、主イエスの栄光あるご帰還に焦点化させて、昇天も、復活も、十字架における死も、そしてマリアにおける受肉も皆、「あげられる」という一連の神の御子の栄光のみわざとして、啓示され、描かれます。極論すれば、主イエスの昇天も復活も十字架もそして降誕も、受肉それ自体が皆、受肉のお身体における神の栄光のみわざの現われとして、描かれます。したがいましては、本日は、先ず、この「高くあげられる」という「神の栄光のわざ」という視点から、ヨハネ福音書の特色ある復活について読み解いてまいりたいと思います。

 

1.「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」(13節)

そのためには先ず「メシア」の意味を改めて見直す必要があります。メシアとは、前にも触れましたように、神に聖別され油塗られて「王」位に立てられた者を意味します。しかし問題は、どういう意味で「王」なのか、ということです。それは先ず主の十字架の上に掲げられた「ユダヤの王」という罪状書きが示す通り、主イエスは「ユダヤの王」という罪状で、十字架刑に処せられ、殺され、この世から抹殺されました。しかも、その十字架における死とは、「過越」における「神の小羊」という犠牲の生贄としての死でありました。「ユダヤの王」となることは、ユダヤの民のために、贖いの小羊として生贄になることを意味しました。「王」位に就くとは、民のために贖罪の死を遂げる王となることでもあったのです。ベタニアで主イエスをお迎えしたマリアは、主イエスの足に高価なナルドの香油を塗り、主をメシア(王)として葬りの儀式を致しました。マリアは、そうした主イエスの「神の小羊」としての死を先取りして、また天の父のもとに帰還するメシアとの別れを意識して、ナルドの香油を塗り、心からの痛みと懺悔、そして涙と共に彼女の全てを尽くして、感謝をささげました。主イエスは、そうしたマリアの葬りを主イエスを受け入れ、「12:7この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取って置いたのだから。12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と仰せになって、お応えになられました。

本日の聖書箇所の冒頭には「12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ主の名によって来られる方に祝福があるように、/イスラエルの王に。』12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。12:15 『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。』12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」と記されていました。明らかに、これは主イエスを「ホサナ」と呼び、また「主の名によって来られる方」を主を神の使者として迎え入れて祝福し、さらには「イスラエルの王」、「お前の王がおいでになる」と讃えて、主イエスのエルサレム入場を迎えています。「ホサナ」(hosanna)とは、ヘブライ語の「ホーシーアー・ナー」またそのアラム語形の「ホーシャナー」のギリシャ語読みで、「今、救ってください」という意味です。詩編118編25節にありますように「どうか主よ、わたしたちに救いを。」という祈願の祈りです。やがて「ダビデの子にホサナ」とか「ホサナ、いと高き所に」等とマタイで言われるように、神讃美に伴う感嘆詞の慣用表現として用いられるようになりました(マタ21:9,15、マコ11:9~10、ヨハ12:13)。

もう一つ、メシアをめぐる誤解がありました。それは、ヨハネの証言する「高く上げられる」メシアとは、理解が異なるものでした。「人の子は上げられなければならない」「わたしは地上から上げられる」と言われた主イエスに対して、群衆は問います。「12:34わたしたちは律法によってメシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、『人の子は上げられなければならない』とどうして言われるのですか。」と言葉を返します。明らかに、本来、主イエスは地上のお方ではなく、天上のお方、即ち本質は「神」であります。しかし群衆にとってのメシアとは、地上のお方、即ち、神から遣わされ特別な力を持つが、地上の「人」にすぎないのです。ヨハネが、この福音書の冒頭で讃美告白した神の「言」のように、永遠のはじめから神として存在する、万物の創造主でも、また永遠の命でもありませんでした。ユダヤ人たちの「律法」の教えからは、主イエスにおける「神」を知り、導き出すことはできなかったのです。それはただ、主イエスのみことばを信じて受け入れる外に、道はなかったからであります。

ただ問題は、弟子たちさえもまた、メシアの本当の意味を正しく理解することができなかった、という点です。聖書に「祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た」(12、13節)と記されています。この棕櫚の枝を持つ行為は、古くから、熱狂的な民族主義による政治行動を反映する行為でした。しかも「イスラエルの王」と叫ぶ民衆の声は、主イエスを、政治的な意味で、場合によってはローマ帝国から独立しようと武力蜂起する戦いの王という意味で、主イエスを押し立てようとする民衆の熱狂的な期待が込められていたと思われます。前述のように、主イエスの十字架刑の罪状は「ユダヤの王」でした。言わば、ユダヤの宗教権力者の陰謀と唆しにより、ローマ帝国に対する反逆反乱分子として、処刑されたということになります。

しかしヨハネ福音書は、民衆の熱狂的な歓迎を描いた後に、ろばの子に乗られる主イエスのお姿を描き、民衆の期待するメシヤ像を伝えますが、つまりローマからユダヤを解放する王という民衆のメシア像に反して、主イエスは、はっきりと、十字架の死において神の栄光を現わす、と告げます。つまり、死んで或いは殺されて、この世と決別して、天に上げられ、神の栄光を現わすメシアである、と告知します。本当のメシアの救いとは、「12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」と告げていますように、地上におけるこの世での救いではなくて、天上に招き入れる神の国への救いを宣言したのです。そして「12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」とさらに記して、ヨハネは主イエスの十字架における死の意味について暗示し注釈します。このように、天国への門、救いへの入り口として「十字架の死」があり、それが「メシアの栄光」であって、天国への門戸は主ご自身による「贖罪の死」をもって開かれるのです。そうした主イエスのメシアとしての本当の御心と御姿を弟子たちは理解出来なかった、とヨハネは明記します。例外的にマリアは、主イエスを過越の生贄である神の小羊メシアであるとして、深く痛み悲しみ、そして全身全霊を込めて涙と共に主に感謝をささげたのですが、他の弟子たちは、まだユダヤにおけるもう一人の権力者となるメシアとして、主イエスに期待を寄せていたようです。そうしたメシアの無理解は、単に、銀30枚で主イエスを裏切ったイスカリオテのユダただ一人だけではなかったのです。

 

2.主イエスの十字架における死と葬りそして復活の栄光の身体

このようなメシアとして、つまり政治的にまたローマ帝国と戦って王として世の支配者なる、という政治的メシアとしてではなくて、全人類を支配する罪ゆえの死と滅びに対して勝利するメシアとして、しかもそのためには、過越の生贄である神の小羊として、栄光の贖罪の死を遂げるメシアであるとして、主イエスは神の栄光を明らかにしました。言い換えますと、イエスにおける「神」(「わたしはある」)は、民の痛みのために下り民を率いて上る神のメシアとして、十字架における死によって罪を償い従順の義を尽くして、罪の支配による死と滅びに勝利して、神の栄光を現わすのです。そして父なる神のいます天へと栄光ある帰還を遂げるのです。

こうしたメシアの理解において、最も意味深く重要と思われる点は、天国に招き入れる扉となる十字架の死も復活も、そうした栄光のみわざは全て、主イエスの受肉したお身体において終始一貫して実現し現わされている、ということにあります。主イエスの受肉のお身体とは、処女マリアから受け継いだ私たち人間と全く同一本質から成るお身体であり、肉体であり、人間本性であります。神の栄光のみわざは、この人間本性の全てを担う「身体」において、しかも十字架の死も復活の命もその身体において現わされます。言わば、受肉のキリストにおける「神」(「わたしはある」)は、天から降り、そればかりか人間の身体の隅々に宿る「神」です。この「神」が神の力を栄光のわざとして発揮して現わすのです。それが「十字架の死」であり「復活」という命の勝利です。繰り返し申しますが、神が神としてのご自身の全ての栄光を現す場は、この受肉したキリストのお身体において、であります。言い換えれば、十字架の死の身体においてであり、しかもその十字架の死の身体において、その身体のまま、栄光の復活を遂げられ、そしてそのお身体のまま、栄光の昇天を遂げられるのです。つまりこの身体において、「神」の栄光ある救いのみわざはすべて展開するのです。贖罪の死という贖いのわざも、復活という永遠の命の祝福も、全て徹頭徹尾一貫してこの受肉したキリストのお身体において行われ実現し成就します。この「身体」という所に、キリスト教のメシア(救い主)としての中心的な特徴があります。前回の説教でも触れましたが、マリアが塗ったナルドの香油について「わたしの葬りのために」と主イエスご自身が言われた通り、「葬り」とは「死体」という屍(しかばね)となった「肉体」に香油や防腐剤を塗り布を巻く儀式を言います。死の支配は人間の死体において現れ、死体に現れ支配する死は、香油の香りや防腐剤で抑えることはできません。意味深い点は、その屍となった死体において死に勝利して、永遠の命を吹き入れて、死体から復活体へと造り変えることです。主イエスは、ご自身における「神」の爆発的な力によって、死に支配された死体を永遠の命の宿る復活の身体へと化えるのです。その死に勝利し命に変える根源的な場が、主イエスの受肉したお身体であり、その勝利と栄光の場こそ、十字架の死に至る主のお身体であり、栄光勝利した復活のお身体そのものであります。

 

3.「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(6章53節)

改めて6章で語られた主イエスのみことばを想い起してみましょう。「6:53 イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べわたしの血を飲む者はいつもわたしの内におりわたしもまたいつもその人の内にいる。6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』」(ヨハネ6:53~58)と主イエスは教えられました。主のお身体における十字架の死と復活の命という視点から読み直すと、この意味はよく分かるのではないでしょうか。神の完全な愛と救いのみわざは、主イエスのお身体のうちに込められて現わされ実現したのです。「神」はそのお身体に受肉して現臨し、「神」の永遠無限の力を漲り溢れるように発揮しておられるのです。そのお身体において、という点が最も重要なのです。なぜなら、その主のお身体は、わたしたちの身体と全く同じ本質を担う身体であり、わたしたちの人間性そのものであり、身も心も人間であることの全てを担う身体だからです。私たち自身の人生の全てであり、わたしたち自身であるからです。その私たち自身のうちに、神ご自身から降り受肉し現臨して、神の完全栄光なるみわざを持ち込まれたのです。それが、メシアであり、それがキリスト教の救いであります。だから、パウロの表現で言えば、この自分の身体にキリストの身体を着るのです。キリストはこの身体のうちに受肉して、神の栄光のわざを行われるのであります。だからこそ、わたしたちはこの身体において洗礼を受けキリストの身体に一つに結ばれて、キリストの身体の栄光に与るのです。みことばを聴くことも洗礼に与り聖餐に与ることも皆、教会員となることも礼拝に集うことも全て、本質的には「身体」として、現れ実現し成就する点で全く同一のことであります。このキリストの受肉したお身体と身も心も皆が一体に結ばれて、その一体とされたお身体において、そのお身体を通して、人々も万物も神と出会い、神の栄光のみわざに与り、十字架における死の贖罪に与り、復活における永遠の命に与るのです。だからこそ、それを、主イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と言われたのです。したがって、唯一真の神のメシアとは、神の受肉したお身体において、神の全ての栄光を現わし実現し成就したのであります。サクラメントを中核に礼拝も、教会も、そうしたキリストの受肉の身体における栄光を天地を貫いて写し出しています。

 

4.「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)

主イエスのもとにギリシャ人が訪れます。そのギリシャ人の来訪に応えて主イエスは、「人の子栄光を受ける時が来た。12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」と告げます。これは、ご自身のお身体における栄光のみわざが、即ち、死の葬りと永遠の命による復活というわざが、同じ本質的な一つお身体における神の栄光のわざとして、現わされることを指し示しています。なぜなら、人間の本質は「死」であるからです。人間は、元々本質的に永遠存在ではありません。主イエスのお身体に一体に結ばれたわたしたちは、その人間性の本質において、罪の償いは完全に果たされ、しかも神に対する従順は十字架の死に至るまで完全に尽くし貫かれており、「神の義」を実現しています。そして同時に、その神の義の祝福は、豊かな永遠の命の祝福を齎し実を結び完成します。こうして、永遠の命は、わたしたちの身体において、身体の復活という最終的な形で実を結び、新しい人間本性として完成します。確かに、この世においては、わたしたちもいつかはこの肉体のもとで「死」を迎えます。したがって私たちの身体も、その本質は既に「死体」であります。大事なことは、その身体において迎えるべき「死」の支配は、キリストの身体と一つに結ばれることで十字架と復活のお身体とされ、死に至るまでの償いは果たされ、従順という義は貫かれ、罪の支配による敗北と堕落の死はその本質が変わり、新しい永遠の命の勝利と希望のうちに生まれ変わるのです。死の身体は滅びではなくて、死の身体は命の始まり場となるのです。ですから「死体」はこの世においては確かに悲しく空しいことですが、キリストのお身体と一体に結ばれた者には、死に敗北し支配された身体は、永遠の命に勝利し支配される復活の身体となったのです。なぜならその死に支配された人間本性は、十字架の死の場となり、贖罪の死の場となり、従順の勝利に与る身体となり、神の義に与り永遠の命の祝福溢れる身体となるからであります。ここにキリスト教の救いの核心があります。

 

5.「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」(28節)

こうして主イエスは祈りをささげます。「『父よ、わたしをこの時から救ってくださいと言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。12:28 父よ御名の栄光を現してください。』」と祈ります。主イエスが天から降り、人の子として受肉した全ては、「この時のため」であることが、明らかにされます。「この時」とは、十字架における死と葬りですが、「天からの声」が全地に響き渡り、全地を包みます。「すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した再び栄光を現そう。』」という天からのみ声でありました。ここで「天から声」として言い表わされる「神」の啓示ですが、まさに父と子が、父も「神」、そして子も同じ一つの「神」として、同一の神の本質からなる三位一体の「神」として、その三一の「神」のご意志とその栄光が、十字架の死と復活の命のお身体の上に、現され示されます。

既に栄光を現わした」とは、また「再びそう」とはどういうことでしょうか。「既に」現した栄光とは、主イエスのお身体における御子の受肉「全体」を指して言われたことではないかと思います。言い換えれば、主イエスにおける「神」の到来のすべてを指して言われたいます。したがって、主イエスにおいて「神」(「わたしはある」)は既に到来したのであり、主イエスにおいて既に完全に啓示されている、と言えましょう。つまり主イエスにおいて「神」は、既に、天から地に降り到来し啓示されたのです。その栄光は、既に、主イエスの受肉したお身体において、クリスマスの降誕の出来事から十字架で受難受苦して死に至るまで罪を償い尽くし、従順の義を全うして葬られ、陰府にくだり、罪による死の呪いの支配に完全勝利し、神の義の勝利のもとに永遠の命の祝福に溢れる復活と昇天に至る身体として、つまり受肉という一連のキリストのお身体における神の栄光のみわざとして予定され現わされています。

「再び」現わされる栄光も同じであります。一方で、「既に」という時を貫き、他方では「再び」という「時」を貫いて、「永遠の栄光」のみわざは、主イエスの受肉のお身体において実現しています。確かに「既に」を、時間の流れに従って推移する、これまで起こった過去から今現在に至る出来事として捉えることも出来ます。また「再び」を、これから起こるべき未来の復活昇天として、其々解釈することもできます。確かに「既に・再び」という表現を、この世の時間の概念に従って時系列的に解釈することも可能ですが、反対に、むしろ時間の概念を打ち破る爆発的な永遠の神の力という視点から、既にも再びも共に貫き包み込むように、徹底一貫した一つの永遠の「神の栄光」のみわざとして理解した方が、ヨハネらしい解釈となるのではないかと思います。受難も復活も昇天も、場合によっては聖霊降臨も、すべての神の栄光は、まさに主イエスの受肉した「身体」において、一つに集約されるのではないでしょうか。わたしたちはそして全地万物は、そのお身体に結ばれて一つの身体となって、神の栄光に与るのです。