説教題:「義とされて生きる」(ガラテヤ書連続講解 第6回)

旧約聖書:民数記 6章22~27節
新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 2章15~21節
説教題:「義とされて生きる」(ガラテヤ書連続講解 第6回)
讃美歌(説教後):讃美歌 21-296番
(説教者:武田英夫牧師)

既にこれまで何度も見てきました「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」との言葉が繰り返されています。義とは神の前での正しさです。単にこの世の法に触れなければよいというのでなく、清い神の前に立つことができるかどうかという罪が問われるのです。

律法の完全な遵守は人間の努力だけでは決して達成できません。その人間のための救い主である主イエス・キリストを信じる信仰のみによって、神は罪を赦して下さり、救いを与えて下さるのです。

そのように信仰によって義とされるということは、私たちの命について見ますと、主キリストが私たちの罪を御自分の身に引き受けて死んで下さったということは、私たち自身も古い自分に死んだということなのです。

だから、私たちは「生きているのは、もはや私ではない、キリストが私の内に生きておられる」と告白できるのです。これは、パウロだけが言える言葉ではなく、全ての信仰者に等しい告白なのです。もし私たちが神の恵みによってではなく、自分の力によって義とされるとしたら、2章21節の言葉のように「それこそキリストの死は無意味なものになってしまいます」と言えます。

主イエスの十字架に、心からの感謝をささげて参りましょう。