2021年8月29日「わたしだ、恐れることはない」 磯部理一郎 牧師

 

2021.8.29 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第15主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教13

説教「わたしだ、恐れることはない」

聖書 詩編145編10~21節

ヨハネによる福音書6章16~21節

 

 

6:16 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。6:17 そして、舟に乗り湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。6:18 強い風が吹いて湖は荒れ始めた。6:19 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。6:20 イエスは言われた。「わたしだ恐れることはない。」6:21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた

 

 

はじめに. 湖の上を歩く主イエス:神に遣わされた神のメシアを啓示する

本日は、ヨハネによる福音書6章16節から21節のみことばをお読みしますが、読んでみますと、非常に不思議な出来事が弟子たちの体験として伝えられています。読む人によっては、少々不気味にも感じる所でもあるようです。著名な聖書註解者でありまして、殆どこの出来事について、詳しく解説しないで済ませてしまうことが多いようです。しかし、聖書には、非常によく似た出来事として、マタイによる福音書14章22節から27節に、またマルコによる福音書6章45節から52節にも登場します。マタイ、マルコ、そしてヨハネは、同じような酷似する出来事を彼らの体験談として証言しており、新共同訳聖書では、三つとも「湖の上を歩く」という全く同じ表題が付けられています。したがって、概ねこれらは同じ一つの出来事を、マタイ、マルコ、ヨハネは其々の理解にしたがって伝承し伝えている、ということになるのではないか、と思われます。

そこでマタイ、マルコ、そしてヨハネ、其々の記事を比較一覧しながら、この出来事の真相を正確に読み解いてまいりたいと思います。比較一覧プリントを皆さんのお手元にご用意しましたので、どうぞご参照いただきながら、お話をお聞きいただければ、と存じます。ヨハネ6章16節は「弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした」と記します。ところが、マルコ6章45節は「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ」と伝えており、弟子たちが舟に乗って湖を渡って行き着く目的地が、ヨハネは「湖の向こう岸のカファルナウム」と記し、マルコは「向こう岸のベトサイダ」と記しており、両者は相互に矛盾して表記しています。それゆえなのか、マタイは「向こう岸」とだけ表記しています。今となりましては、果たして目的地はどちらなのか、特定することは出来ません。したがいまして、共通する表記はただ「向こう岸」であり、小舟に乗って目指す目的地、しかもそれは主イエスのご意志に基づいて目指すべき向こう岸であり目的地であります。結論から言えば、ある意味で、それはキリストの身体である教会という小舟に弟子たちを乗せて、この世という大嵐の中を航海して、終末の神の国をめざす、ということをも暗示しているようにも思われます。

関連して、ここでもう一つ、意味深い点として、マタイとマルコは共に「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」と明記しています。弟子たちが舟に乗って湖の向こう岸に渡ろうとしたのは、つまりこの出来事は、終始一貫して、主イエスの「強い意志」に基づいて、引き起こされたことである、ということを念頭に入れて、読むべきであります。この嵐の湖の中で、湖の上を歩く主イエスを見る、というこの出来事は、明らかに、主イエスの固く大きなご意志のもとで、弟子たちは舟に乗せられ、湖を渡ろうとする中で、引き起こされてゆくことになります。つまり単純な嵐の出来事を伝えるというよりも、主イエスにおける神の大きなみ心とその啓示として主イエスの真理をお示しになるという前提で、福音書記者はこの出来事を伝えようとしている、ということを窺い知ることができるのではないでしょうか。つまり、主イエスこそ、神がお遣わしになられた神のメシアである、という真実を啓示する出来事として、この出来事は描かれているのであります。

 

1.荒波と暗黒に苦悩するこの世の中で

さらに詳しく読み進んでゆきますと、聖書は、湖を渡る際の「状況」について、特に時や気象について、言及します。主イエスは、残念ながら、祈るためにお独りで山に残られましたので、それゆえ、舟は弟子たちだけを乗せて、夕方に、既に暗くなる中に、出航しました。ただ、意味深い点として、再度確認しておきますと、大きな前提として、この出来事全体を包み込むように、主イエスご自身が弟子たちを強いて舟に乗せたことです。しかも、主イエスは山に残られて祈っておられます。そうした主イエスの言わばご計画とご配慮に守られて、弟子たちは、夕暮れの中を小さな舟に乗り込んで、ガリラヤ湖を向こう岸をめざして漕ぎ出して行ったのです。

ところが、弟子たちの乗った舟は、漆黒の暗闇に包まれる中で、「強い風が吹いて湖は荒れ始め」(ヨハネ6:18)ます。そして「逆風のために」(マタイ14:24、マルコ6:48)、「湖の真ん中」(マルコ6:47)で、「何スダディオン」(マタイ14:24)の所で、それは凡そ「25乃至30スタディオン」(ヨハネ6:19)進んだ所でしょうか、即ち5~6㎞進んだ所で、弟子たちは漕ぎ悩んでしまいます。しかしこうした出来事はよくあったようです。というのは、鋭く奥深くえぐられた、すり鉢状の地形をしたガリラヤ湖は、山から吹き下ろす突風に曝されることが多かったからです。たとえ、そうした地形と気象事情をよく知り、舟の操作に慣れた漁師たちであっても、余りにも突然にしかもとても強い突風に襲われると、とても危険であり、手も足も出なかったのではないでしょうか。今で言えば、突然の豪雨に曝されて、どうしようもできない気象事情に当たるかも知れません。あれだけ優れた衛星技術により、十分予測され分かっていても、被害は甚大となるのです。そうした突然の嵐と突風との闘いは「夜明け」(マタイ14:25、マルコ6:48)まで続きました。収まるはずの風も、終息するはずの嵐も、夜を通して闘い抜いても、一向に静かにならず、ついに「夜明け」を迎えてしまったのです。そのため、弟子たちの舟は、ついに危機的な状況の中に陥り、弟子たちの命も最早瀕死の状態にあったと考えられます。その真っ只中で、まさに主「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見た」(ヨハネ6:19)というのであります。マタイは「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」(14:25)と記し、ただマルコは「湖の上を歩いて弟子たちの所に行きそばを通り過ぎようとされた」(6:48)と微妙な表現をしています。

この湖での出来事を読んでいますと、どうも全く異なる二つの世界が互いに交錯して、描かれているように、思えてきます。一つは、荒れ狂う嵐の湖の中で、木の葉のように荒波に翻弄される小さな舟に乗り込んで、苦悩し続ける弟子たちの現実世界です。夜通し暗闇の中で舟を漕いでも漕いでも、僅か10㎞足らずの向こう岸に辿り着くことが出来ないまま、猛威を振るう嵐と荒波に飲み込まれ、溺れ死んでしまう恐怖と絶望の世界です。この小さな舟は、何も抵抗できずに、無力のまま、暗闇の中に転覆し、恐ろしい荒波の中に飲み込まれてしまう弟子たちの現実世界です。舟や水に慣れているはずの漁師たちでさえも、まさにそうした生活の場の中にあるのです。どうすることもできない魔物のように、襲いかかる逆風と突風と向き合わなければなりませんでした。当たり前にガリラヤ湖の漁師として生まれ育った弟子たちの日常生活の中に、どうすることができない大きな暗闇が支配しているという現実があり、どうしても辿り着く事の出来ない向こう岸があったのです。弟子たちは、そうした暗黒に住む魔物と向き合ったのではないでしょうか。僅か10㎞足らずの向こう岸に辿り着くことさえできず、暗闇の中で荒波に飲み込まれて終わるのです。それがそのまま、自分たちの本当の生活なのだ、ということを思い知ったはずです。

湖を知り、舟を操り、魚を取り、飢え渇くことなく生業を立てていた日常生活のただ中に、まさに魔物が住んでおり、ついに牙をむいて襲い掛かってきたのです。この闇の姿を露わにした湖の真ん中で、弟子たちに襲うかかる逆風と荒波は、ただ単に自然現象の話ではなく、人間の生活の本質を投影しているようにも、読むことができます。人間が生きる日常の現実の中に、その本当の姿は、底なしの暗い闇であり、そしてその深みには想像もつかない魔物が住んでいて、ついに私たちを暗黒の世界へと飲み込んでゆくのです。どんなに知恵と力を尽くしても、乗り越えられない、決して向こう側には辿り着くことの出来ない、そんな破綻と絶望の中に、私たちの本当の生活はある、それが、あなたの生活の実態である、と教えるのです。わたしたち人類が文明をいよいよ堅固に豊かに築けば築くほど、予想を遥かに超えて、思いもよらない大災害が私たちを飲み尽くし、叩いても叩いても湧き上がる新しい病原菌は次々と私たちの文明社会を侵し、また科学や知識を進めれば進めるほど、核兵器など一瞬にして起こる大量殺戮はより深刻となっています。人類は本当の平和にも、健全健康な生活さえも、いくら進化に進化を重ねたとしても、決して辿り着くことはできない現実です。そして何よりも、全ての人々が例外なく、死と滅びの中で自分自身を失うことになります。一つの病気を克服したと言っても、また次の病気に苦しみ、ついには死に至るのです。これが、木の葉のように、漆黒に住む魔物によって翻弄される小舟の姿であり、私たち人間の儚さであり、現実なのであります。

 

2.「夜明け」を迎えるとき、神の歴史における介入を啓示する

しかし聖書は、同時にもう一つの、全く異なる新しい世界を告げ知らせます。それが、まさに「夜明け」に、主「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見た」(ヨハネ6:19)とする、もう一つの、信じがたい、驚くべき、新しい出来事であります。一方で、暗黒に住む魔物のような嵐に襲われる絶望的な現実の中で、他方では、信じがたい、驚くべき、主イエスによるもう一つの新しい世界と私たちは出会うのであります。マタイもマルコもそしてヨハネもまた、明らかに共通する点は、つまり福音書は、明らかに、主「イエスが湖の上を歩く」というこの出来事を描くことで、しかもそれを弟子たちが見たことを証言することにより、主イエスにおいて神はこの暗黒の世界に力強く迫り、キリストを通して神の無限の力が私たちの人生に介入し始めていることを証言しようとしたのではないでしょうか。単に不思議な奇跡を物語るのではなくて、明らかに、福音書は、外ならぬ全能の神が、自然を超越して超自然的な力をもつて、「主イエス」において、介入しているという決定的な啓示を描こうとするのです。どんな悪魔や魔物に飲み込まれようと、私たちは、主イエスというお方の神の力とそのご意志の中に、そして無限の愛と祈りの中に、完全に包まれているのだ、ということをヨハネも、マタイもマルコも共に、共通して言い表そうとしているのです。

なぜなら、ヨハネによれば、それを「見た」からであります。実は、牧師たちがよく参考にするある著名な聖書註解者は「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られる」のを見たのではなくて、それは「海辺を歩いていた」のを錯覚したのだと解釈します。しかし、それでは、聖書の証言を解き明かすことはできるはずはないのではないでしょうか。ヨハネは、「錯覚した」のではなく、はっきりと「見た」と証言しています。彼らは、暗黒の中でしかも嵐に翻弄されるなかで、確かに「見た」のです。その信じがたく、驚くべき、主イエスにおいて力強く啓示されている真理を見たのです。それはまさに、主イエスにおける力強い神の力であります。その主イエスにおける神の力は、暗黒に夜明けをもたらし、嵐に静寂を実現する神の力でありました。確かに、荒れ狂う湖の上を歩く主のお姿を見たとき、余りにも信じがたく、驚くべき出来事を見てしまったため、それを「見た」ことで、いよいよ弟子たちの心は恐ろしくなり、恐怖に震えたことでありましょう。ヨハネは「見て、彼らは恐れた」(ヨハネ6:19)と記し、マタイは「見て、『幽霊だ』と言っておびえ恐怖のあまり叫び声をあげた」と証言し、そしてマルコは「見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ」(マルコ6:49)と伝えています。彼らの知識や経験では受け止めることのできない、許容力を遥かに超えた現実と直面し体験したことは間違いないことでありましょう。

 

3.わたしだ。恐れることはない。

しかしここで、最も重要な点は「6:20 イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」と、明確に主イエスは、ご自身のみことばをもって弟子たちに臨みます。その主のみことばを彼らは聴いて、主イエスであると確かに認識して、主イエスと向き合い、荒れ狂う湖の真ん中で今出会っているお方は「わたしである」と主イエスと分かるのです。不思議なことに、弟子たちは、見て「主イエス」を正しく知り理解したのではありませんでした。否、主イエスを見たのに、認識できたわけではなかったのです。そこで、主イエスはご自身のみことばを語ることにおいて、「わたしだ!」とご自身の本当のお姿を示され教えらたのです。ことばの力とは、こういうことではないでしょうか。親子や兄弟でも、外見上の見せかけでは本当は余りよく分かっていないのかも知れません。その人の人格の本質から語り出すことばによって、その人の本当の姿を知る、ということは、それほど多くはなくても、確かに経験することです。人格ということ、人間であるということ、そして人間としての本当の尊厳は、その人の魂の中心から語られる真実な言葉によって、明らかになり、初めて認識されるのではないでしょうか。その主のみことばにおいて、主イエスはご自身を明らかにお示しになり、その主のみ言葉を確かに聞き分けることで、弟子たちは主イエスであることが分かったのであります。主イエスの「わたしだ。恐れることはない。」と弟子たちに直接語りかける、主の生きたみことばのうちに、主ご自身である、という真実が明らかに現されており、弟子たちは、荒れ狂う荒波の中であっても、主のみことばを確かに聴くことによって、ここに主がおられ、ここにおられるのは主イエスであると分かり、主イエスと確かに出会い、そしてついに自分たちの乗る舟の中に、「主イエスを迎え入れた」のです。すると間もなく、決して辿り着くことができなかった目指す地に、彼らを乗せた舟は静寂のうちに着いていた、というもう一つの、新しい現実に招かれ、遭遇したのであります。

 

4.イエスを舟に迎えいれようとした

不思議なことに、ヨハネは「6:21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく舟は目指す地に着いた。」と記している聖書証言に、是非とも私たちは注目すべきであります。全く異なる二つの世界が、ここでは互いに交錯し合い、出会い、交わり、そして一方では絶望的な暗黒と荒波に翻弄されながらも、それにもかかわらず、静寂のうちに目指す地に辿り着いているのではありませんか。わたしはここには三つの重大な要素が重なり合うように働いていると思います。

一つは、言うまでもなく、全く異なる二つの世界が同時に交錯し重なり合っているという現実です。単刀直入に言えば、一つは、死と滅びの運命に翻弄され続ける人間の現実であり、いくら舟を漕いでも、決して命と解放もない、希望の向こう岸には辿り着けない現実です。もう一つは、主イエスが湖の上を歩くという超越の神が明らかにこの地上に苦悩する人間の闇に深く介入して来られる神の支配、神の国の到来というもう一つの世界と現実であります。超越の神は、イエス・キリストにおいて、キリストを通して、私たち人類の住むこの世に語りかけます。神の無限の力は、キリストを通して、私たちの人生の奥深くに、漆黒の魔物が住む絶望の世界に深く介入され、人格の中枢から命と希望を与えて、かかわられるのであります。

そしてこの交錯し合う二つの世界にあって、しかしこの小さな小舟は、湖の真ん中で暗黒から夜明けへ、荒波から静寂へ、驚愕と恐怖から平和と安息へと突き抜けて、向こう岸へと辿り着いています。この貫通貫徹を実現し可能にしたのが、主イエスであり、主イエスの中枢から語りかける神のみことばであります。ここに、二つ目の重大な働きがあります。しかも神の独り子であるイエス・キリストは、その人間のことばにおいて、暗黒の世に深く救いの介入を啓示されるのです。今日の聖書で言えば、「わたしだ。恐れることはない。」というみことばにおいて、ご自身の本当のお姿をお示しになっています。意味深いのは、マタイとマルコです。マタイもマルコも湖の上を歩く主イエスを最初は「幽霊だ」(マタイ14:26、マルコ6:49)と言っておびえた、と証言しています。人智を遥かに超えた現象でありみわざであるからです。それは「幽霊」としか言いようない現実を見たからでした。しかしながら、主イエスご自身が語りかけた「わたしだ。恐れることはない。」というみことばにおいて、弟子たちは明らかに「幽霊」という錯誤と誤解から完全に解き放たれて、ここにおれるのは主イエスである、という確かで真実な真理認識に至ります。みことばが語られ、みことばが聞かれる中で、弟子たちは、幽霊ではなく、ついに真の主イエスと出会ったのです。

次いで、三つ目の重要な要素として、マタイはこの出来事をこう総括して終えます。「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」(マタイ14:33)と結びます。言うまでもなく、真実な信仰の認識に導かれて、真の信仰告白に至った瞬間であります。これは非常に意味ある結び、総括ではないでしょうか。つまり「わたしだ。恐れることはない。」という主イエスご自身のみことばによって語りかけられ、またそれを聴き分けることで、「幽霊」は大きく転換して、幽霊におびえる不安と恐怖から解放されて、「神の子」であると明白に認識します。主のみことばが弟子たちに語られ、弟子たちは主のみことばを聞くことで、恐るべき「幽霊」であるという錯誤と誤解を乗り越えて、「神の子」というもう一つの、真理の世界に辿り着いたのです。即ち、主イエスにおける神の力ある救いの働きを、みことばを聴くことにおいて、受け入れ、その体験を「信仰」として確保したことになります。まさにこの信仰において、ついに弟子たちは平安と静寂に満ちた向こう岸というもう一つの新しい世界に辿り着くことが出来たのです。これが三つ目の重要な働きです。暗黒に住む魔物に飲み込まれるのか、それとも主イエスをみ言葉を通して正しく認識して、信仰において、安息と静寂の向こう岸に辿り着くのか、それはまさに、み言葉を聴き分けて、キリストの出会い、キリストを受け入れる信仰の世界が実に大きな意味を持ちます。まさにそういう意味で、みことばは、死と滅びと絶望の世界から、弟子たちを神の子キリストにおいて力ある解放の世界へと導く分岐点となったのです。みことばを聴き分けることで、恐怖に満ちた「幽霊を見た」のではなく、平安に満ちた「神を見た」のであり、本当の「神の子と出会う」ことが許されたのであります。

 

5.すると間もなく、舟は目指す地に着いた

わたくしはこれまでずっと暗闇と絶望の中を生きて来ました。苦悩し続けた青春でもありました。しかし今は違います。平安と希望に自分の魂を置くことができます。したがって「安心」の中を生きれるようになりました。その決定的な分岐点となったのは、まさに「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださった主イエスがおられたからであります。文字通り「わたしだ。恐れることはない」という主のみことばを聴くことが出来るようになったからであります。主のみことばを聴くことで、わたしは生きて現臨したもう主と出会うのです。主のみことばにおいて、主の豊かな御心と主の救いの力に出会い、全身にそれが満たされるからです。木の葉のように、嵐と荒波に翻弄され続ける小さな小舟は、主イエスのみことばによって語りかけられ、主のみことばを聴くことにおいて、風は静まり、もうすでに向こう岸に舟は辿り着いているではありませんか。主のみことばを聴き分け、聞き入れることで、信仰の世界に辿り着き、キリストを知り、キリストと出会い、キリストを受け入れ、キリストと共に生き、キリストの力にすべてをお委ね出来るようになるからです。ヨハネは「6:20 イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』6:21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとしたすると間もなく舟は目指す地に着いた。」と告白しています。みことばを聴き、主イエスを迎え入れたのです。舟は彼らの命であり人生であります。彼らはみことばを聴き入れることにおいて主イエスを彼らの命のうちに、人生のただ中に迎え入れたのです。信仰において主イエスを日々迎え入れるのであります。日々主イエスのみことばにおいて主イエスと出会い、主イエスにおいてわたしたちは生ける神と共に生き、生ける神による命を知ります。するともう、そこは、神のみ国ではないでしょうか。「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とは、そうした信仰における豊かな体験を証言しているのではないでしょうか。

「教会」は、よくこの「舟」に喩えられ、「沈まぬ舟」と呼ばれます。改革派の教会ではこの「沈まぬ舟」を旗頭にして誇りに覚えてきました。「教会」が、まさに「沈まぬ舟」となる、その瞬間がここにある、と言えるのではないでしょうか。木の葉のように嵐に翻弄される小舟が永遠不滅の教会となる瞬間が、ここに描かれ、告白されているのであります。漕いでも漕いでも向こう岸に辿り着けない小舟が、向こう岸に辿り着ける確信に至る瞬間があります。それは、「わたしだ。恐れることはない」主のみことばが語られた瞬間であり、主のみことばが小舟の中で従順に聞き入れられた瞬間であります。そして、そこに信仰の告白が生まれた瞬間であります。この地上に教会が、「神の教会」として、真の姿を露わにするとき、それはまさにみことばが真実に語られ、みことばが信じて聴かれる瞬間ではないでしょうか。わたしたちは常に嵐に翻弄され、不安の中に揺れ動きます。しかしそれを乗り越えることの出来る瞬間があるのです。それは、みことばを聴けた瞬間であります。そのとき、わたしたちは初めて、大嵐と暗闇の中に翻弄される中にあっても、永遠の安息と希望に憩う現実に辿り着くのであります。そのとき、私たちは初めて、死のただ中に身を置こうとも、永遠の命と勝利の喜びに生きることが出来るのであります。