2020年11月22日「われは、その独り子、われらの主イエス・キリストを信ず」 磯部理一郎 牧師

2020.11.22, 29  小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第26主日礼拝、待降第1主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答29~30

子なる神について(1)

 

 

問29 (司式者)

「なぜ、神の御子は『イエス』すなわち『救い主』と呼ばれるのか。」

答え (会衆)

「救い主イエスは、私たちを私たちの罪から永遠に救い出してくださるからです。

唯一の永遠の救いは、ただ主イエスお独りだけに、求められまた見出すことができるからです。」

 

 

問30 (司式者)

「では、聖人自分自身に、或いは何か別の所に救いと平安を求める人々は、

唯一永遠の救い主イエスを信じている(と言える)のか。」

答え 「いいえ。そうした人々は、救い主イエスを同じように賞賛しても、

その行為によって、唯一永遠の救い主、救世主イエスを否定しています。

結局、イエスは唯一完全な救世主でないのか、

それとも、この永遠の救い主を真の信仰をもって受け入れ

自分の救いに必要な全てをイエスにおいて間違いなく獲得するか、

そのどちらかです。」

 

2020.11.22 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第26主日

ハイデルベルク信仰問答講解説教42(問答29~30)

説教 「われは、その独り子、われらの主イエス・キリストを信ず」

聖書 イザヤ書11章1~10節

マタイによる福音書1章18~24節

 

神を神とする、それが礼拝の本質であります。しかし私たち人間は、自分の自我欲求から悪魔の誘惑に負けて、神に背き、神から離反してしまいました。この神への背きと堕落の罪により、人間の本性そのものにおいて、人間の本質から、本来の神による創造の恵みと秩序を失い、神との基本的な関係性を破壊してしまったのです。所謂「義」の関係と存在を失い、「不義」の関係と形に転落して、神との正常な関係性が壊れてしまったのです。その結果、人間は、根源的に、神を正しく神とすることができなくなってしまいました。したがって、たとえ人間が神の御名を呼んだとしても、根本から義の関係が破壊されて、神に背き神を憎む方向に傾いていますので、自分の欲求により神を歪め、人間の都合に合わせて、人間中心に礼拝を形づくろうとします。正しく神を神とする本来の礼拝は根本において成立しないのです。結局、外見上は、神の名を呼んでいるのに、本質は、偶像崇拝となります。罪ゆえに、罪人は罪を通してしか、神を拝めないのです。したがって、神を神とする正しい、真実な礼拝ができるようになるには、この罪の問題を根源的に解決する必要があります。

 

では、どうすれば、神の名を正しく唱え、神を正しく神とすることができるのでしょうか。破綻した人間の力ではなく、神の力による外に道はないようです。問答102は「神は御心からただ独り人の心を知る神として真理に証明を与えわたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます。」と告白します。人間は、本来、神なしに、また正しい意味で神の御名を呼び求めることなく、生きることはできません。なぜなら、神の愛と恵みのある限りにおいて、初めて存在し生きることができる「被造物」だからです。それを一番よく知るのは、人間をお造りになった神ご自身です。人間が、本当の意味で人間らしく生きるには、神が必要であることを神は一番よくご存じなので、神なしには生きることができない被造物の惨めさを、神は最も深くご存じなので、神ご自身から神ご自身の意志によって、人間と向き合おうとされるのです。それを問答102は「神は御心からただ独り人の心を知る神として真理に証明を与える」と宣言告白したのです。真理とは、人間が失った神の真理であり、その神の真理を神が証明するのです。神が永遠完全なる愛の神であり、人が霊と魂により人格として生きる人間であるための命の源であり、人間は神から造られた神の「複写」であり「似像」です。創造主である神と、被造物である人間とが、互いに正しく向き合い、共に生きるための、創造の秩序であります。神は全てを知っており、人間の心の深みを極めます。人の病と痛みを知り、人の狂気と残虐も知り、人の破れと滅びも知るお方であります。そして神は、愛と憐れみ、豊かな慈しみのうちに、人間をはじめ、万物、世界を創造されたのです。しかし信仰問答は、そのような大きな真理全体の中で、その真理の中心を指し示そうとしているのではないかと思います。神の真理全体の中心にある真理、それが、まさにキリストの出来事であり、キリストによる人類の救済であり、万物の完成であります。真理とは、無限に大きくて深い、有限な被造物である人間には、到底包み込むことはできず、殆ど全てが隠されていて知ることのできない、そうした深い奥義のような神のご意志、神のご計画のすべてであります。こうした神の御心を、使徒パウロは「キリストの秘められた計画(ミュステリオン)」(コロサイ4:3)と呼んでいます。問答102はそれを「真理」と総称しているように思われます。

 

神は、ヨブ記38章において、ヨブに語りかけます。「38:16 お前は海の湧き出るところまで行き着き/深淵の底を行き巡ったことがあるか。38:17 死の門がお前に姿を見せ/死の闇の門を見たことがあるか。38:18 お前はまた、大地の広がりを/隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。38:19 光が住んでいるのはどの方向か。暗黒の住みかはどこか。38:20 光をその境にまで連れていけるか。暗黒の住みかに至る道を知っているか。(中略)38:31 すばるの鎖を引き締め/オリオンの綱を緩めることがお前にできるか。38:32 時がくれば銀河を繰り出し/大熊を子熊と共に導き出すことができるか。38:33 天の法則を知り/その支配を地上に及ぼす者はお前か。」こうした宇宙万物の存在と営みすべての中心におられるお方、それが、神のロゴスであり、キリストであり、受肉して十字架に死に三日目に復活したイエス・キリストであります。ヨハネは福音書の冒頭で、神と万物の真理について、こう告げます。「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と証言する、神の言であり、キリストであります。つまり「神が真理に証明を与える」とは、単刀直入に言えば、神は、人間の救いのために、真理を与え、真理を神自ら担い証明する。それが、イエス・キリストであります。キリストがイエスとして、十字架と復活において、神の隠されたご計画を担い実現して、人間に神の義と真理を与え、人間を罪から救済して、新しい命と存在を与えるのであります。

 

そこで本日より説教の主題は、イエス・キリストとなります。十戒の第三戒まで学びましたが、来週から待降節にはいりますが、本日よりクリスマスまで教会暦に合わせて、ハイデルベルク信仰問答より問答29から神の子について、解き明かしの説教となります。問答29は「なぜ、神の御子は『イエス』すなわち『救い主』と呼ばれるのか。」と問い、キリストがこの世に生まれて、なぜ「イエス」と命名されたかを尋ねています。そして答えでは「救い主イエスは、私たちを私たちの罪から永遠に救い出してくださるからです。唯一の永遠の救いはただ主イエスお独りだけに、求められまた見出すことができるからです。」と告白します。最も大切なこととして覚えたいことは、なぜ「イエス」という名をつけるように、神は、天使を通して、ヨセフやマリアに求めたのか、ということにあります。

 

「イエス」という名前は、ギリシャ語読みで「イエスース」ですが、元々はヘブライ語で「ヨシュア(イェーシューアまたはイェホーシューア)」(神ヤハウェーは救い給う)という名前です。マタイによる福音書1章では、1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさいこの子は自分の民を罪から救うからである。」と、神からの使いである天使の命令により「イエス」と命名されます。神がその名を命名せよと命じる理由は、「この子は自分の民を罪から救うからである」とはっきりと宣言され、「神が民を罪からの救う」という神の使命を言い表した名前であることが告げられています。イエスという名、すなわちヨシュアという名前はユダヤの民であればだれもが知るユダヤの歴史を担う伝統的な名前です。モーセはエジプトからイスラエルの民を解放する務めを担いましたが、途中荒れ野を彷徨い、死を迎えます。そのモーセの使命を受け継いで、見事、イスラエルの民を乳と蜜の流れる地に導き、出エジプトの完全解放を実現した人物こそ「ヨシュア」でした。ヨシュアにおいて、神ヤハウェーは民の救いを実現したのでした。そしてイスラエルは神の民の国として建国されるのです。同じように、神は「イエス」において人類を罪から救うのです。

神さまと、実際の歴史における人類との関わりは、すべてが神の救いのみわざを通しての関わりでした。創造それ自体が救いと言ってもよいのですが、ノアが登場したり、アブラハムが登場したり、そしてモーセやヨシュア(イエス)が登場したりと、こうした人々は、神が人類との不義と背きの関係から、愛と信頼の関係へと回復するための働きでありました。そうした神は救いと導きを通して人類とその歴史に深く介入して、人類との関係回復を行われて来ました。聖書は、特にイエス・キリストが遣わされるまでの、そうした神の救いの歴史を記録し証言したことばが旧約聖書と言えます。聖書は、神の人類救済の記録であり、神の救済史は聖書の中に証言されるのであります。

 

しかしながら、アブラハムにおける救済の約束も、モーセと律法における救済も、そしてダビデやソロモンにおける救済も人類の歴史の中で、とても大きな神のメッセージとして認識されたのですが、罪に堕落した人間には、そのメッセージを受け入れて、神との義なる関係、愛と信頼の関係、そして永遠の命に溢れる創造の秩序を回復するには至りませんでした。パウロはローマの信徒への手紙の7章で、「7:8 ところが、罪は掟によって機会を得あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。7:9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき罪が生き返って、 7:10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が死に導くものであることが分かりました。 7:11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」と罪に苦しみ悶えつつ、告白します。律法は、人類を救いに導くことはできず、それどころか、益々、罪の実態を現し突き付けたのです。どんなに素晴らしい理想や律法が与えられても、その志の根源から人間は破綻していたのです。罪とは、そのように、人間の本性を根源から虚偽に変質させ、腐らせていたのです。したがって、救いの根本問題は、単に愛を示し救済の手を差し伸べることではないのです。所謂「慈善」では、一時は助けとなりますが、人間をその本性から救済することはできないのであります。問題は、ひとりひとりの人間本性の根源に宿り吹き出し続ける罪の解決にあります。したがって、どうしても、罪の完全解決を目指した救済でなければならないのです。当然ながら、旧約は新約へと展開するのであります。まことの救い主、すなわちまことの「イエス」(ヨシュア)とは、罪を完全解決できるまことの「キリスト」でなければならないのです。

 

ルカによる福音書は2章では、2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と天使がイエス誕生の真相を告知し、その後で「2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」と記しています。この証言でとても意味深い点は、最初から「救い主」が「主メシア」であると宣言し告知していることです。つまり、本当に民を救うお方、すなわち罪から救う救い主は、「メシア」(キリスト)である、と宣言するのであります。神の独り子は、ついに「キリスト」として、処女マリアの胎内より受肉して地上に生まれ落ち、人間「イエス」という名が付けられて成長し、「救い主」となられるのです。

 

問答29の答えで「救い主イエスは、私たちを私たちの罪から永遠に救い出してくださるからです。唯一の永遠の救いは、ただ主イエスお独りだけに求められまた見出すことができるからです。」と告白していますが、パウロのように自分の罪を深く知り、ついに永遠に救済してくださる救い主こそ、罪を根源から滅ぼして神との和解を実現する仲保者「キリスト」として見出すことになります。「7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体からだれがわたしを救ってくれるでしょうか。7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたしますca,rij de. tw/| qew/| dia. VIhsou/ Cristou/ tou/ kuri,ou h`mw/n))。」(ローマ7:24~25)と告白する通りです。このとても短い文の中に、真理の全てが集中しています。特に「イエス・キリストを通して」という表現にご注目ください。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのか、それは、ただ独り「イエス・キリストを通して」救われるのであり、したがって、神に感謝することができるのは、ただ独り「イエス・キリストを通して」である、ということになります。罪を根源から解決するのも、神を神として礼拝することができるのも、実は常に「イエス・キリストを通して」のみ、可能なのです。したがって問答29は「唯一の永遠の救いは、ただ主イエスお独りだけに、求められまた見出すことができる」と告白します。

 

そこで問30「では、聖人や自分自身に、或いは何か別の所に、救いと平安を求める人々は、

唯一永遠の救い主イエスを信じている(と言える)のか。」と問い、イエス・キリストのほかに、またイエス・キリストと並んで、救いを求める過ちと不従順を問題にします。言い換えれば、本当の意味で、救いと平安はだれを通して、何を通して与えられるか、ということを徹底しています。そしてきっぱりと、答えで「いいえ。そうした人々は、救い主イエスを同じように賞賛しても、その行為によって、唯一永遠の救い主、救世主イエスを否定しています。結局、イエスは唯一完全な救世主でないのか、それとも、この永遠の救い主を真の信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要な全てをイエスにおいて間違いなく獲得するか、そのどちらかです。」と告白します。問題は、どのようにして、或いはどうすれば、罪を根源から解決できるか、という点です。罪を完全に償い尽くして、つまり神との正しい関係性を回復して、創造の豊かな恵みと秩序を取り戻すのか、ということになります。つまり、贖罪者としてのイエス・キリストであり、贖罪という十字架のみわざにおいて、初めて罪は滅ぼされ、人間は罪から解放されるのであります。そうでなければ、何を与えられても、どんな高価な愛と恵みを与えられたとして、罪が残れば、結局は、神に背き、神の祝福を自ら捨てて、欲望の奴隷となり、死と滅びに転落するほかに道はなくなるからです。先週の問答102で「神は御心から、ただ独り人の心を知る神として、真理に証明を与え、わたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます。」と告白しています。真理に証明を与えるとは、まさに、それは、罪を徹底的に罰して裁くことではないでしょうか。神の愛が真理として証明されるには、人間を死と滅びの悲惨へと引きずり込んでしまう罪を罰し裁くのでなければ、本当の愛にはならないのです。天より遣わされた神の御子は、イエス・キリストとして地上に生まれ、十字架の死へとただひたすらに直行されます。まさにこの十字架への道こそ贖罪の道であり、神は、イエス・キリストの十字架において、罪に膿んで虚偽となった人間本性を根源から罰して滅ぼし、イエス・キリストの復活において、永遠の命を回復されるのであります。