2020年11月29日「イエスと名付けられた神の独り子」 磯部理一郎 牧師

2020.11.22, 29  小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第26主日礼拝、待降第1主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答29~30

子なる神について(1)

 

 

問29 (司式者)

「なぜ、神の御子は『イエス』すなわち『救い主』と呼ばれるのか。」

答え (会衆)

「救い主イエスは、私たちを私たちの罪から永遠に救い出してくださるからです。

唯一の永遠の救いは、ただ主イエスお独りだけに、求められまた見出すことができるからです。」

 

 

問30 (司式者)

「では、聖人自分自身に、或いは何か別の所に救いと平安を求める人々は、

唯一永遠の救い主イエスを信じている(と言える)のか。」

答え 「いいえ。そうした人々は、救い主イエスを同じように賞賛しても、

その行為によって、唯一永遠の救い主、救世主イエスを否定しています。

結局、イエスは唯一完全な救世主でないのか、

それとも、この永遠の救い主を真の信仰をもって受け入れ

自分の救いに必要な全てをイエスにおいて間違いなく獲得するか、

そのどちらかです。」

2020.11.29 小金井西ノ台教会 待降節第1主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教43(問答29~30 ⑵)

説教「イエスと名付けられた神の独り子」

聖書 マタイによる福音書1章18~25節

マルコによる福音書2章13~17節

 

本日は、4週間余りの待降節の第Ⅰ主日となります。四本目の蝋燭が燈りますと、ご降誕をお迎えするクリスマスであります。マタイによる福音書1章20節以下によれば、「1:20ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と、天使はヨセフに命じます。ヨセフは、処女マリアの胎内に宿る男の子が生まれると、神の使いに命じられた通り、生まれて来た男の子に「イエス」と名付けます。「イエス」(ギリシャ語の「イエースース」)は、旧約聖書の「ヨシュア」(ヘブライ語の「イェーシューア」)という名前で、「主は救い」という意味です。「この子は自分の民を罪から救う」、それが「イエス」という名の所以です。ここで最も大切なことは、「イエス」は「民を罪から救う」ということです。「名は体を表す」という名言がありますが、名前は単に名前に終わらず、その存在の「本質」を表します。「イエス」という名の意義は、その名と共に、その本体、その本質である「民を罪から救う」お方である、ということにあります。

 

この「救う」(ソーゾー)というギリシャ語は、新約聖書では主に福音書やパウロ書簡に106回登場します。「神が民を罪と死から救い出して解放する」という意味で用いられます。「救う」という用語は、聖書の中で、どのように用いられているか、さらに掘り下げ、聖書神学しますと、前提となる三つのことが、救いの背景にあることが分かってきます。一つは「贖罪」です。つまり聖書は「救う」という場合、常に罪を償うことを前提としている、ということです。「イエス」と名付けられて「民を罪から救う」のは、「贖罪者」としてご自身の命を神に贖罪の犠牲を献げて生涯を終えるお方である、ということになります。マタイで「自分の民の罪から救う」から、さらにパウロはローマの信徒への手紙で「5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(リビングバイブル:キリスト様は罪人のために血さえ流してくださったのですから、神様が私たちを無罪と宣言した今は、もっとすばらしいことをしてくださるに違いありません。 今やキリスト様は、やがて来る神様の怒りから完全に救い出してくださるのです。)5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」と告げます。「罪から救う」という用い方の背景には、「キリストの血によって義とされ」「神の怒りから救われる」ことが、つまり、キリストの血による贖罪に基づく神の赦しが含意されるのです。

二つ目は「恵み」です。「救い」は、神からの恵みとして与えられる賜物である、という意味になります。イエスは、神による民への大きな「恵み」として生まれ、神による恵みとしてその生涯を尽くすお方です。口語訳のエペソ書は「2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは恵みによるのである。2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」と述べています。イエスは、神ご自身による神の恵みとして、神が与える救いであることが確認されます。

そして三つ目は「栄光」です。「救い」が実現するとき、そこには神が完全に神とされる、神の栄光が示されるからです。「栄光」とは、本来「神の栄光」であり、神が神として完全な勝利を果たして、神本来のお姿を明らかにすることを言います。コリント前書でもパウロは「1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と、「イエス」すなわち救いの本質は、イエスの十字架にあり、主イエスの十字架にこそ、神の力と栄光が完全に表されている、と宣言します。世には無力な敗北の死にしか見えない主イエスの十字架は、実は神の御子による十字架の死を通して実現された人類救済の贖罪であり、しかもその十字架の贖罪は、神の愛と栄光が最も力強く表明される場であった、という神の事実が啓示される場となったのであります。

このように「イエス」(神は救い給う)とは、民を罪から救い出して罪と死から解放するのですが、「イエス」は、民に代わって民の罪を完全に償い、ご自身の命を十字架の死において償いの犠牲として献げる「贖罪者」であり、そしてこの「イエス」において、神は神のお姿を完全に現し啓示したのです。それが「イエス」という名であります。「イエス」は、十字架の死におけるただ一つの犠牲の中に、神が神である勝利を完全に明らかにし、神の栄光が表明したのです。「イエス」とは「民を罪から救う」という意図で命名されましたが、その「救う」という字には「贖罪者として罪の償いを果たす」「神よりの恵みの賜物である」「神の完全な栄光をあらわす」という三つの意味が含まれます。この「イエス」の名を、即ち「救い主」という名について、ハイデルベルク信仰問答29は「救い主イエスは、私たちを私たちの罪から永遠に救い出してくださるからです。唯一の永遠の救いはただ主イエスお独りだけに、求められまた見出すことができる」と告白します。

 

さて次に、この「イエス」すなわち「救い主」を「信仰をもって受け入れる」ということについて、問答30から学びます。待降節、すなわち主イエスのご降誕を待ち望む季節になりましたが、主イエスのご降誕を待ち望むうえで、最も大切で、最も相応しい、そして最も必要なこととは何でしょうか。それは「真の信仰」であります。問答30は「では、聖人や自分自身に、或いは何か別の所に救いと平安を求める人々は、唯一永遠の救い主イエスを信じている(と言える)のか。」と問います。この問いは、前回の説教でも触れましたが、救いをイエスのほかに、或いはイエスと並んで「別の所に求める」、つまりイエスを救いのone of themとするのか、それとも、唯一の救い主とするのか、と問います。私たちは素朴に平和な幸せや不老長寿なる健康を求ます。あれも求めこれも求めます。キリスト教で結婚式を挙げて結婚を祝い、クリスマスを家族で祝い、神社に初詣をして親族一同の無事を祈り、或いはお寺で葬式をして親族を葬ります。無分別と言えば無分別ですが、素朴な平安と救いの祈願と言えば、実に素朴な願いであります。なぜ、それが咎められなければいけないのか、と言って、多くの日本人は、キリスト教の宗教としての非寛容さを厳しく非難するのではないか、と推察します。だったら、どんな宗教でも仲よくしようよ、ということになります。しかし問題の本質は、真実な意味で「救い」であり、本当の「平和平安」はどこから来るのか、ということです。忘れてはならないのは、「罪の支配による死と滅び」に定められている、という人間の根本問題をどう解決するか、ということにあります。先ほど、救うという用語は、罪を償うという贖罪を前提として用いられていることをお話しましたが、救いとは、まさに罪を完全に贖い、神の義を回復することにほかならないのです。

少し戻りますが、問答13は「だが私たち人間が、自分の力で、これを償うことができるか。」と問い、答えで「できません。完全に償うことができないばかりか、私たちは、自分の負うべき罪責を日々いよいよ大きくしています。」告白します。罪を改善できず、罪責は日々膨らみ大きくしている、と告白します。したがって、その直前の問答12は「私たち人間は、神の正しい裁きによって、この世における処罰もまた永遠の処罰も、受けねばならないのは、当然のことです。ではどうすれば、この罰を逃れ、再び神の恵みを得ることができるか。」と問い、「神は、神ご自身の義が十分に行われ満たされることを望んでいます。それゆえ神の義のために私たち自身か、或いはほかの誰かが完全にこれを償うのでなければなりません。」と告白します。単刀直入に言えば、罪から救うとは、罪の償いを果たすことになります。では、どうすれば罪は償えるのか。問答16は「なぜ、救い主である仲保者は、真実(まこと)の人で、罪のない義(ただ)しい人でなければならないのか。」と問い、「神は、神の義を求め、罪を償うことを要求しておられるからです。人間はその本性において罪を犯したので、その同じ人間本性において自分の罪を自ら償い神の義を全うしなければなりません。しかし罪人である者が他者の罪を償うことはできません。」と答えます。まずは、罪を犯した本人である人間自身がその人間本性の根源から罪を償い、神の義を回復することです。罪を犯した人間でもない、ましてや、他のどんな被造物に、人間の犯した罪を完全に償い、神の命の祝福を取り戻すことができるのか、という問題です。しかも罪の支配の中に堕ちた者が自らを罪の中から引き上げることは不可能であります。「真の人間」で「罪のない義しい人」など、果たしてどこにいるのでしょうか。まさにパウロの告白するように、「7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマ7:24~25)。罪からの救いこそが、唯一真の救いであることを知り、しかもその罪から解放できるお方とは、十字架で罪を償ってくだり、神の義を回復してくださったイエス・キリストお独りだけであることを知ったのであります。このように「罪から救う」という名前が「イエス」という名前であります。死と滅びに運命づける罪の支配から、人間本性が根源的に開放されない限り、本当の安息も平安も人間には生まれないのです。マルコによる福音書2章13節以下で、律法学者が「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問います。すると、主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えます。イエスとは「罪人を招く」お方であることを明らかにします。人は死老病生をはじめとする四苦八苦から逃れることはできません。「罪」が、死と滅びによって、人間本性の根源を支配しているからです。イエスは、まさにその罪人を神のもとに招くために、罪から解放するために来られた、と言明されたのです。

 

したがって、問答29は「救い主イエスは、私たちを私たちの罪から永遠に救い出してくださる」と告白します。また問答30は答えで「いいえ。そうした人々は、救い主イエスを同じように賞賛しても、その行為によって、唯一永遠の救い主、救世主イエスを否定しています。結局、イエスは唯一完全な救世主でないのか、それとも、この永遠の救い主を真の信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要な全てをイエスにおいて間違いなく獲得するか、そのどちらかです。」ときっぱりと、主イエスただお独りだけを、真の信仰をもって受け入れることで、救いに必要な全てにあずかる、と告白します。ここで、問答は「唯一完全な救世主」であるイエスを認め、受け入れる人間の側の信仰を求めます。罪から救う救い主は、イエスただお独りであることを正しく知って、自分の救い主であると認めること、そしてそのただ独りの救い主であるイエスを信仰を持って受け入れることで、初めて救いに必要なすべてを得ることができる、と教えます。自分を罪の支配から完全な償いをもって解放してくださるのは誰か、あなたに分かるか、というわけです。厳密にいえば、それを分かるようにしてくださるのも、神さまからの恵みによるのですが、その前に、あなたはそれを少なくても、心から信じて心から求めますか、ということです。心から信じ、心から罪からの贖いを求めて、待つことができますか、という私たちの態度を神は問うておられるのです。神は人間をロボットや機械のように扱いません。神は人間をご自身と同じ人格として尊重し霊と魂とを伴う「意志」をお問いになります、しかも神はその心溢れる神のみことばを通して、私たち人間の意志をお問いになるのです。弱くても弱いながらも、どうしようもない限界を抱えながらも、それでも人としての心からの思いを、あなたは心から信じ心から求めていますか、と問われるのです。信仰に、完全な信仰はない、と思います。絶えず、そして人それぞれの限界と精一杯の中で、神は其々の事情の中で、心から神を信じ、心から神の愛と憐れみを求めますか、と問われるのであります。

その神の問いに、私たちは少しでも誠実にお応えできるように、悔い改めを繰り返しつつ、いよいよ学びを深めつつ、日々新たな信仰をもってお応えします。キリストの身体である教会において、信仰の学びにいよいよ深く導かれ、福音の説教を通して益々救いの確かさを確信するに至ります。まさに救いという真理に、アーメンという信仰の証明を与えてくださいます。神は、主イエスを信じる信仰を通して、私たちに悔い改めを引き起こし、福音の真理を気づかされて信仰の確信が与えられ、キリストによる魂と命の養いのすべてを導かれます。

 

信仰とは、神の真理を識別して正しく認識することでもあります。ハイデルベルク信仰問答は随所で、信仰とは「認識」であり「信頼」であると告白します。その中核を成す問答21は「では、真(まこと)の信仰とは何か。」と問い、「真(まこと)の信仰とは一つの確かな認識です。わたしはこの確かな認識を通して、神がみことばに啓示したことすべてが真理であることを悟りこの真理に堅く立つことができます。信仰は、この確かな認識によるだけでなく、心からの神への信頼でもあります。即ち、神はその純粋な憐れみから、ただキリストの功績ゆえに、無償で、ほかの人々だけでなく私たちにも、罪の赦しと永遠の義を与え救いの至福をもたらしてくださる、という心からの神への信頼です。この神への信頼は福音を通して聖霊が働き私たちの内に引き起こしてくださいます。」と答えます。ここには、救いの道筋の根幹が、非常に簡潔に、表白されているのではないでしょうか。「罪」という字は「ハマルティア」と言って、本来向かうべき目的や的から外れて離反する、という意味です。神に向かうべき者が神に背き神から離反したことを言います。反対に、悔い改めという字は「メタノイア」と言って、方向を転換して本来向かうべき所に立ち帰ることを意味します。誤りを認めて、正しく本来の道へと立ち帰るのです。そのためには、罪を認めて告白し、真理を正しく知って、真理の光に照らされつつ、本来の道へと立ち帰るのでなければなりません。その道筋こそ、信仰の道であります。クリスマスを象徴する闇と光は、まさにこの闇である罪の支配を知り認めることであり、またその闇から救い出す光となる御子の到来を知り認めることであります。問答21は、その立ち帰るべき正しい道こそ、信仰による正しい神の認識であると言い、信仰による堅い神への信頼である、と告白したのではないでしょうか。イエスは、神の独り子にして、私たちの罪を償う唯一真の救い主である、と知り、すべてをイエスに委ね依り頼むのです。まさにこうした主イエスの信仰によって、クリスマスを迎える備えをなし、待降節は待ち望むものではないでしょうか。待降節は、所謂、世間のクリスマス気分ではなく、ただ独りの救い主の認識をいよいよ確かに知り学ぶことにあります。そして主イエスの贖罪と救いの確信をいよいよ堅くし祈ることにあります。信仰の認識が深くし、信仰の信頼を固くするのであります。