2021年10月10日「わたしをお遣わしになった方」 磯部理一郎 牧師

2021.10.10 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第21主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教19

説教「わたしをお遣わしになった方」

 

 

聖書

7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちはこの人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのかだれも知らないはずだ。」7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っているわたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。

 

 

説教

はじめに. 「メシア」をめぐる論争

本日は、ヨハネによる福音書7章25~31節までのみことばを分かち合いますが、最初に7章全体の構成について、簡潔に整理しておきましょう。まず7章1~9節では、新共同訳聖書によれば「イエスの兄弟たちの不信仰」と小見出しが付けられておりますように、主イエスの兄弟たちがガリラヤでイエスさまに、エルサレムに上るように勧めて、ご自身がメシアであることをはっきりとお示しなさい、と迫る場面が紹介されます。しかし主イエスは、まだご自分の十字架の時には至ってはいないので、エルサレムには上らない、とお答になります。ところが、7章10~14節になりますと、「仮庵の祭り」が近づいたので、イエスさまは、律法の規定にしたがって、ひとりユダヤ人男成人性として密かにエルサレム神殿に詣でることになさいます。そしてついに、7章15節以下にありますように、神殿で、皆が驚くような力強い説教をなされる主イエスのお姿を、私たちは見出すのであります。主イエスは、今ここで、エルサレム神殿の回廊で、聖書の教えを解き明かしておられました。特に「律法」本来の意義とその目的について教えられ、律法の本質は「愛する」ことにあるのだ、と教えておられたよです。それは、マルコ10:17~31「金持ちの男」、マルコ12:28~34「最も重要な掟」などがよく示す通りです。同じように「安息日」の規定についても、安息日の本来の意義は、神の命の祝福を覚えることにある、と教えておられたのではないでしょうか。その典型事例として、安息日に「割礼」を施すのは、神の民に命の祝福と神の民の一員とする契約のしるしではないか、と安息日に覚えるべき最も大切なことをお説きになっておられます。ご承知の通り、割礼では、男子の身体(性器)の一部を切り取る、という行為が施されます。そうした身体に対する切断行為が「安息日」に認められているのはなぜか。それは、「誕生」の(生まれるという)出来事の本質は、神の命が注がれ、神の民の一員として迎え入れられた祝福を意味しているはすだ。それなのに、神の民の共同体において命の根元から一人の人物が癒されることは、どうして禁じられ、認められないこととなるのか、それでは、安息日における創造完成の祝福と矛盾するのではないか、と解き明かして、安息日の本来の目的は、神が民を愛する愛と恵みによる創造の完成と命の祝福を表すことでであり、人々はその神のみわざと栄光を感謝と喜びをもってほめ讃えることにあるのではないか、と説いたと思われます。安息日の癒しを非難して断罪しようとするユダヤ人たちに対して、主イエスは割礼を例に挙げて安息日の正しいあり方を説明し解き明かした、と考えられます。この7章15~24節に紹介されるイエスさまの説教は、5章の安息日の癒しの出来事と直結するお話であります。そうであれば、もしかすると、この15節以下は本来5章末尾に続く話であって、何等かの事情で7章に移されてしまった、と推測する学者も多くいますのも頷けることであります。

このように7章15節以下の教えは、安息日に病人を癒すことの正当な理由をお示しになって、律法本来の意義と目的について、聖書を解き明かした主教を中核していました。しかし、その続きとなる本日の7章25節以下は、全く異なるもう一つの、別の説教が展開されます。言わば、主イエスの説教を引き金にして、ユダヤ人たちとの激しい論争になってしまったようです。25節以下の主イエスの教えの主題は、主イエスご自身が何者であるかを主題としており、そして主イエスご自身が「神」と直結した存在であることをはっきりと表明する啓示のことばとなります。話はいよいよ、より重要かつ深刻な宗教問題に発展してゆきます。言い換えますと、15節以下24節までは、単なる「律法の解釈」をめぐる対立論争でしたが、本日の25節以下からは、律法解釈の枠を遥かに超えて、主イエスは「メシア」或いは「神」である、とご自身から表明したお話です。

前に戻って5章36節以下の説教に連続する部分でもあります。「5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。5:37 また、わたしをお遣わしになった父がわたしについて証しをしてくださるあなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければお姿を見たこともない。5:38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。5:41 わたしは、人からの誉れは受けない。5:42 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」と非常にはっきりと、ご自身が、神から遣わされた方であり、「神」そのもののみわざを行い、「神」を証しするお方であることをお告げになっておられました。7章28節以下でも、全く同じように、「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っているわたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」と仰せになっておれる通りです。そして決定的なみことばは、「モーセは、わたしについて書いている」(5:46)と言い切って、モーセの証言は、即ち主イエスご自身と結ばれた契約律法そのものであることを告げておられます。言い換えれば、旧約聖書は「神」の告げる律法ですが、その「神」の名のもとに、実は直結するように主イエスがおられた、ということになります。それは直ちに、主イエスの名のもとに、旧約聖書の神が直結するように生きて働いており、現臨して語っておられることを意味するのではないでしょうか。

このように、主ご自身から神と直結したお方であり神から来られた方である、と宣言したことで、ユダヤ人にとって、それは、明らかに「神を冒涜した」罪であり極刑に値する罪として、話は展開してゆくことになります。

元々、6章全体でも主イエスは5千人を満腹させる、という力あるしるしを行われ、そこでも、主ははっきりとご自身が「天から降って来た生きた命のパンである」と説かれていました。言わば、ご自身が神のメシアであることを既に表明しておられたことを想い起します。同じように、この7章25節以下でも、主イエスはご自身が神から遣わされた神のメシアであることを明らかにします。ユダヤ人の側からすれば、この主イエスの主張に対して、本当に主イエスは「メシア」なのか、その真偽を正しく判断するにはどうすればよいのか、という大問題に発展するのです。律法学者や祭司たちは、聖書に基づいて、さまざまに「解釈しよう」としたはずです。そして民衆もまた、大きく動揺しながら、果たして当局はイエスをメシアであると認めるのだろうか、と固唾を飲んで見守っていたはずです。ユダヤ全土が、しかもエルサレム神殿という宗教的権威のど真ん中で、イエスというナザレ出身で大工のせがれが、自分こそ真の神に直結する者であり、その神から直接遣わされたメシアである、ということを言い出したのですから、ユダヤ人たちの間では、当然ながら、非常に深刻な論争を引き起こすことになります。主イエスの説教は、ユダヤ全土を震撼させる大きな緊張の中に、陥れたことになります。

 

1.「メシア」を知る困難さ

この7章25節以下で「7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。『これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちはこの人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのかだれも知らないはずだ。』」とあります。ユダヤの人々の間で、主イエスは果たして「メシア」であるのか否か、という極めて深刻かつ重大な論争が起こっていたことがここからもよく分かります。イエスがメシアであるかどうか、その真偽がユダヤ人の心の奥深くで深刻に問われ始めていた、と思われます。25節以下の言葉は、そうした人々の動揺と緊張を非常によく表しています。こうした国を二分する深刻な問いに、主イエスはついにはっきりとお答になられたのです。

28節以下で「7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。『あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。』」とありますように、主イエスは、確かに、誰もが知るように、ガリラヤ出身で大工ヨセフとマリアとの間に生まれた人の子であります。これは明らかな事実でありました。27節で「7:27わたしたちは、この人がどこの出身かを知っているメシアが来られるときは、どこから来られるのかだれも知らないはずだ」と人々が語っていますように、本来メシアが到来するときは、突然、誰も知らない形で到来する、と一般的には考えられていたようです。したがって、出所が分かっている以上は、即ち、ガリラヤ出身で大工のせがれであるイエスは、「メシア」ではない、という結論になります。既に誰もがガリラヤ出身でヨセフの子であることを知っていたからです。

こうした人々の思惑に対して、主イエスは公然としかも大声を張り上げてお答えになります。「7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。『あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っているわたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。』」。ここで先ず「イエスは、大声で言われた」とありますように、これは明らかに、公然とはっきりとご自身がどこから来たのか、ご自身の出所を宣言されます。そしてこの世の人からではなく、神から来た者、神から遣わされた者である、という主イエスのみことばは、明らかに主イエスを断罪迫害する決定的な根拠となります。この主のみことばの趣旨は、あなたがたは、本当にメシアはどこから来たか知っている、という問題ですが、主イエスはガリラヤ出身で大工ヨセフから出た、ということだけをもって、誰もが知る明らかなことなので、したがってイエスはメシアではない、と考えたわけです。しかし、主イエスには、もう一つの、全く異なる本質がありました。それは、人々が決して知ることも思い着くことも出来ない本質から生まれたことについて、つまり、あなたたちの知らない方の所から、あなたたちの知らないお方によって遣わされて来たと断言して、「神」から生まれ「神」から遣わされた者である、と公に宣言して、ご自身の出所の真相を明らかにされたのです。つまり人が知ることの出来ない、天の神から遣わされて来た者である、と公然と表明したわけであります。この主イエスの「大声」語るという表現は、まさしく、生きた神が主イエスにおいて力強く現臨しておられることを、表しているように思われます。

このみことばで、最も重要な言葉は、何と言っても29節のみことばです。「7:29 わたしはその方を知っているわたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」という「神」とご自身を直結させ、しかも直接「神」から出て来た者として、ご自身の出処を明かされたからです。しかしその真相を世は知ることも、ましてや確かめることもできません。人間の知恵や経験によって、神を正しく量り取ることはできないのですから、「神」を世に伝えるために、神の内側から世に向かって、神の子が自ら「神」を啓示して明らかにする、というみことばによる啓示以外に、神を伝え、神を告げ知らせる方法は他にない、という決定的な問題です。まだまだ人間には知らないことが沢山あります。世に対して、しかも能力や存在の本質から言っても、世は神によって造られた「被造物」である以上、造られる前のことを初めとして、造られた背景や意図も知る由はないのです。その世界に向かって、神の完全な真実と真理を啓示するためには、神は、「神の独り子」を「イエス」という名のもとに、マリアより受肉させ世に遣わして、この受肉した主イエスにおいて、神のご意志の全てを行いかつお示しになったのです。主イエスご自身は、そうした「神」の全てを、ご自身において背負い、ご自身のうちに担われ、「神」の全てを世に啓示して示し、神の真理を世に告げ知らせるのです。その啓示の内容が、まさに「福音」として、聖書に記録された出来事であり、神の約束であります。神は真実な方であるからこそ、その真実の全てを、神の独り子である御子を受肉させ、その受肉の御子にお託しになり、世を救う受肉のキリストとしてお遣わしになり、御子はその神の真実の全てを従順を尽くして担い背負われて、神の御心を世に行いかつお示しになられたのです。しかしこの神の啓示を、世の力では理解することも、ましてや神を確かめることはできません。ただ一つ可能な方法は、世が自分の力に頼ることを一切捨てて、御子の語るみことば一つ一つに謙遜に縋りそこから真理を求め、まさにその主のみことばにおいて神の真理と出会う外に、神を知り神と出会う道はないのです。主のみことばを聴き分けて、信じて受け入れることで、人々は初めて「神」と向き合い、しかもみことばを信じ受け入れる信仰において、人々は初めて「神」を知るようになり、ついには神の救いを体験することができるようになるのです。こうして人々は、みことばを信じ受け入れる信仰において、初めて「神に救われる」という福音の真理を体験し実現することができるのであります。

少し難しい話に聞こえるかも知れませんが、これは、キリスト教の根本問題でありまして、どうしても、きちんと弁えておくべきことであります。なぜなら、主イエスのみことばは、最初からそしてその根源から「神」を問題にしているからです。世界は「神」を知らないのです。否、世は「神」を決して知り得ないのです。だからこそ、神がおられることを世が知るには、神ご自身による啓示のみことばによる外に、知る方法道はないのです。神は御子にご自身の全てを託して、御子を聖霊によって処女マリアから受肉させ、人の子として生まれさせて、主イエスは世に遣わされました。本日の説教題は、聖書のみことばそのままですが、「わたしをお遣わしなった方」という題ですが、まさに「遣わす」「派遣する」という本当の意味を言いますと、それは、「神」が独り子である御子に「神」の本質と真実の全てを完全に託して、御子を聖霊によって処女マリアより受肉させて、イエスという名のもとに「人の子」として、世にお遣わしになったのです。その遣わされた御子である主イエスご自身こそ、ただお独りが「神の真理」を担う方であり、世に「神」を証し伝える啓示そのものとなられたのであり、その御子が、主イエスのお姿において、お語りなったみことばが「聖書」という福音の言葉として記録され保存されたわけであります。だからこそ、私たちは聖書を読み聖書を語り、聖書を通して神の啓示のみことばを聴き、「神」と出会うことができるのです。私たち人類が「神」を知り体験し、「神」と交わり共に生きることが出来るのは、まさにこの神のみことばにおいて聴くことによるのであります。主イエスは、そうしたことを、わたしは天から降って来た生きた命のパンであり、わたしの肉を食べ、血を飲まなければ、命はない、と仰せになったのではないでしょうか。28節以下で言われる「わたしは自分勝手に来たのではないわたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っているわたしはその方のもとから来た者でありその方がわたしをお遣わしになったのである。」とは、そういう、神を知り得ない世に対して、神の内側から神と人との境を打ち破るようにして、神の御子が神の本質を担って世に遣わされ、神の真理を告知する、ということを意味しているのではないでしょうか。そしてこれを誰も証明し、確かめることは困難な真理と言わなければなりません。

 

2. 神を啓示して伝えるみことばの意義

本日の主題は、ガリラヤの大工のせがれ「イエス」とは、「神の子」であり、「神のメシア」である、という根本問題です。しかも「その真理」を、私たち人間はどうすれば知ることができるのか、という根本問題です。主イエスはご自身が誰なのか、その本質を明らかにするために、神さまのことを「わたしをお遣わしなった方」と言い表して、ご自身が「神」から直接に遣わされた「神のメシア」であることをお示しになりました。また神さまのことを敢えて「父」とお呼びになることで、ご自身が「神の子」である、即ち「父」である神と全く同じ「神」であることをお示しになりました。しかし同時に主イエスは、ガリラヤ出身で大工ヨセフの子として生まれた方でもありました。ここには人間にはどうしても理解しがたい、人知を超えた「神のご計画」が奥深くに隠されているように思われます。パウロの言葉で言えば「ミュステリオン(秘められた神のご計画)」です。「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っているわたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」と言われます。「わたしをお遣わしなった方」の真実とは何か、もう少し踏み込んでみますと、ここで、人々は躓き人々の理解を困難にしていること、それは、一方でマリアから受肉して生まれた「真の人」であり、他方で聖霊によって生まれた「真の神」である、という人知を超えてあり得ない二重の本質を主イエスはご自身の内にお持ちなっている、ということではないでしょうか。「人間」の姿は、確かに肉の眼でこそ見えますので、具体的に理解できることです。最も隠された中心は、しかしその人間性の中にこそ生ける真の神が現臨する、というもう一つの、「神」であるという本質について、その神の真理は決して肉の眼では見ることが出来ないのです。強いて言えば、聖霊とみことばによって導かれる信仰心によってのみ捕らえられることで、外に道はありません。主イエスを「人間」として見てしまえば、最早それを「神」として決して見ることはできず、受け入れることは出来なくなります。主イエスを「神」として受け入れば、それは最早「人間」であるはずはない、と考えてしまうでありましょう。まさに「矛盾」であり、人間の脳はそこで思考停止となります。人間の能力や理解力を完全に超えてしまった向こうの果てに、神の真理はあるのです。したがって少し乱暴に言えば、主イエスを「神」のメシアと信じて認めるか、拒否するか、というみことばに対する信仰的選択だけが残されます。

ただし、重要なことがただ一つあります。6章16節以下の話で、嵐の湖の中を歩く主イエスを見た弟子たちが「幽霊だ」と言って恐れたとき、主イエスが「わたしだ。恐れることはない。」と言って、主ご自身からみことばを語りかけます。すると、弟子たちは、舟に主イエスを迎え入れることが出来るようになり、さらに驚いたことに、舟はいつの間か既に「向こう岸」に着いていたことに、弟子たちは気づくのです。この所の説教で、皆さまに強調したことは、主イエスのみことばが語られ、その主のみことばを聴くことにおいて、初めて弟子たちは「イエス」を、「幽霊」としてではなく「主イエス」として、正しく認識することが出来たのです。その結果、喜んで主を舟に迎え入れることが出来、舟を支配していた大嵐は静まっていた、という体験に導かれたのです。重要なことは、明らかに、みことばが語られみことばを聴き分けることで、そこでこそ、イエスを正しく知ることが出来たのです。そうでなければ、神からの救い主であっても、それは「幽霊」で終わってしまい、嵐の危機の中で弟子たちの舟は沈んでしまったはずです。このように、主のみことばが語られ、主のみことばが正しく聴かれる場こそ、人々が初めて「神」と出会い「神」を知る場となるのであり、そこに初めて地上の教会は生まれるのではないかと思います。

 

3.神を「父」と呼び、ご自身を「子」と呼び、父と子の本質を明かす主イエス

主イエスは、ご自身のみことばにおいて、ご自身の本質を啓示して、神の真理を明らかにします。振り返りますと、5章19節以下で、ユダヤ人たちとの論争する中で主イエスは「5:19『はっきり言っておく。子は父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない父がなさることはなんでも子もそのとおりにする。5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになってあなたたちが驚くことになる。5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も与えたいと思う者に命を与える。5:22 また、父はだれをも裁かず裁きは一切子に任せておられる。』」(ヨハネ5:19~22)と言い切っておられます。このように、主イエスはいつも、ご自身の真相を示すために、神を「父」と呼び、ご自身を「子」と呼んでおられます。しかも神を「父」と呼び、ご自身を「子」と呼ぶことで、さらに神とご自身との「本質的な関係」についても、明らかにしておられます。父であり子であるという関係は、共に同じ「神」であることを意味します。しかも「5:22 また、父はだれをも裁かず裁きは一切子に任せておられる。」ということは、極論すれば、ただ主イエスお独りにおいて「神」の全てが現わされる、ということを意味しており、外の形でこの世に対しては「神」は現わされることはない、ということにもなります。イエスさまは、ご自身から人々に語り、御ご自身が何者であるのか、その真相を人々に啓示し、自ら告白しておられるわけであります。そればかりか、「神」そのものを、ご自身において、お示しになられたのです。イエスとは誰かという点で決定的なこと、それは父と子であるという両者が直結した一体の同じ「神」である、という神の一体性のもとに、すなわち「父」と「子」は、同じ一つの「神」、完全一体の「神」であり、その一体の「神」の全てを、主イエスはご自身の「お身体」においてまたご自身が直接に語られる「みことば」において明らかにした、ということを、こうした表現は明白に言い表していることになります。さらに意味深長な表現は、このような「神」を啓示する言葉であると共に、もう一つ、最後の審判としての神の主権を明確に言い表していることです。すなわち「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と宣言して、「父」から「子」に、最後の審判が完全委託されていることを明らかにして、主イエスお独りが究極の「最後の審判者」であることを宣言しておられます。

 

4.手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。

こうした主イエスの神としての啓示に対して、30節に「人々はイエスを捕らえようとした」と記されています。罪に堕落した人間が、その罪を贖うために遣わされた愛の神を捕らえて裁こうというのです。本来、神の「国」という言葉の意味は、神の「支配」或いは「統治」を意味します。世界を支配し統治できるのは、果たして誰なのか、ここで根源から、万物支配の「主権者」は誰か、問われます。ユダヤ人たちは、この「ユダヤ人たち」という表現は、ヨハネにとっては、ユダヤの宗教的権力者を表す言葉ですが、そのユダヤの宗教権力者たちは、律法を持ち、神殿の運営権を有しておりながら、そこに君臨し統治する永遠の王は、明らかに「神」であるはずなのに、神を排除抹殺して、「自分たち」が王として君臨し続けようとしたのでした。つまり人間が、しかも支配欲や権力欲に支配された悪魔の奴隷に変貌した「人間」が、死と滅びから愛と憐れみのもとに永遠の命を回復しようとする「神」を捕縛して、断罪して裁き、処刑しよう、というわけです。まことにおかしな話であります。しかし罪は、人間の心を暗闇に閉ざして、真理の光を奪ってしまったのです。人間には、どうしても、この神の真理が分からいのです。自分たちこそ、支配する権利を持つ権力者であると、思い込んでしまうのです。

こうしたユダヤの権力者たちの思いとは裏腹に、そして遥かにそうした悪の謀略を超越した所で、それでも、しかし神は確実に「キリストによる愛と救い」のみわざをご計画通りに整えておられたのです。そうした神の不動で、完全不変なご計画遂行について、ヨハネは「手をかける者はいなかったイエスの時はまだ来ていなかったからである。」と伝えています。徹底的に、神のご主権のもとに、神のご計画は進められていたことが分かります。したがって、神の御心と定めなくして、人々の計画は全て空しく終わります。神がお定めになられた「時」というものがあることを、ヨハネははっきりと世に告知しています。

主イエスご自身も「わたしの時」はまだ来ていないと仰せになられた、「わたしの時」とは、言うまでもなく、十字架の死において栄光のうちに天の神のもとに上られる時を意味します。神がお遣わしになるとは、十字架の死にお遣わしになることであり、十字架の死に至るまで人類の罪を背負い償い尽くして、神の義を人類に齎すことであります。主イエスは「神の愛」をみことばにおいて語られましたが、その主の語られるみことばの究極が、十字架というみことばでありました。

しかし最も大事なことは、この「わたしの時」「イエスの時」とは、十字架の栄光の時を意味しますが、先ほどご紹介した言葉「5:22 また、父はだれをも裁かず裁きは一切子に任せておられる。」というみことばと重ねあわせて十字架の時を覚えますと、こうも言えるのではないでしょうか。すなわち、私たち罪人が裁かれるべき裁きの一切を、主イエスは引き受け背負われて、十字架に向かわれたのではないでしょうか。そして私たちに代わって、裁きと償いを完全に果たされて、神に対して従順を貫いて、ご自身を生贄としてお献げくださったのであります。私たち自身の上に置かれた裁きを、キリストは愛と慈しみゆえに、みずからその裁きを引き受け背負われたのです。しかしこの時はまだその時に至っていませんでした。