2021年10月17日「わたしをお遣わしになった方のもとに帰る」 磯部理一郎 牧師

 

2021.10.17 小金井西ノ台教会 聖霊降臨22主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教20

説教「わたしをお遣わしになった方のもとに帰る」

聖書 詩編147編1~20節

ヨハネによる福音書7章32~36節

 

 

7:32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。7:33 そこで、イエスは言われた。「今しばらくわたしはあなたたちと共にいるそれから自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所にあなたたちは来ることができない。」7:35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

 

 

説教

はじめに.  超えることのできない大きな壁と限界の前で、神を知るとは

私たちには決して超えることのできない大きな壁があります。それは、私たち人間には「神」を完全に知ることはできない、という大きな壁です。場合によっては、それは「神」だけでなく、「他人」の思いについても、完全に理解することさえできないかも知れません。否、もしかすると、私たちは「自分」の本当のことすら分からないまま生まれ、何一つ知らないまま、死んでゆくのかも知れません。そう考えますと、私たちは日々、ほんの一部のこと、それも、ほんの僅かで本当に小さいことを一つずつ気付かされているに過ぎないのかも知れません。そんな私たち人間が「神のご計画」全体を知るなどということは、明らかにとんでもないことであり、不可能なことであります。所謂「世界内存在」と呼ばれる非常に限られた人間世界の「内側」の中では、多少学ぶことや覚えることはできても、人間世界の「外側」で何がどのように起こっているのか、ましてや被造物というこの世の存在を越えて、「超越なる神」について知るということはどれほど困難か、であります。しかし「聖書」は、それでも、こうした現実を打ち破るようにして、たいへん不思議なことですが、「超越の神」をこの世の人間に分かるように人間の言葉を通して啓示し伝えます。「超越の神」を啓示して証言し続ける「聖書」というものが、世に与えられたことは、いよいよ人間の理解を遥かに超えた驚くべき出来事ではないか、と思います。

かつて青春時代に、鎌倉のお寺や学校で学んでおりました頃、人間は精神の修養や鍛錬のために勉強をして宗教を行うと教えられ、自分でもそう考えて育ちました。柔道や剣道に励み、師家について参禅もいたしました。それは全て「精神」修養のためでした。それは、あくまでも人間の世界の中の話であり、精神を鍛練する学びであります。そうした意味から言えば、わたくしにとりましては、宗教とは人間の世界の中で生まれ、人間の精神のために造られ、人間のために修行実践されてきたものでした。決して宗教とは、本来、人間世界の「外」にあって、人間の本質を超越する世界のことだなどとは全く考えたこともありませんでした。宗教とは、いつも人間の中で人間のために人間によって造られ、信じられ、用いられ、実践されてこそ、宗教の真の意義がある、と考えていたからであります。自己のうちに仏性を深く知り成仏する、と言われますように、神を遠くに拝むというよりも、自らがその拝む対象そのものにより近く近づく本体となることこそ、宗教を実践する目的であったように思います。ところが、アッと言う間に母が癌で亡くなり、人間には「死」という超えることの出来ない悲惨と限界があることを、死の事実をもって経験し知るようになりました。死という宿命的な破れの前で、死という底なしの淵に立ったとき、いわゆる精神修養も宗教実践も何一つ役には立たない、という無力で絶望的な人間の現実を魂の底から認識いたしました。では、どうすればよいのか。どうすることもできない。絶望と虚無の中に、人間は完全に閉ざされ塞がれてしまった、と思うようになりました。人間が人間の精神のために作り上げた宗教の空しさを知りました。生きているうちは、この世にあるうちは、心身の鍛錬も修養もとても意義あることですが、この世における存在も命も消滅するという事実の前には、宗教は完全に沈黙して無力でありました。それから参禅することも止めてしまいました。ただ、牧師になってから、また別の意味と目的から参禅するようになり、自由が丘におりました頃は、よく駒沢大学の禅堂に通い何時間も時の経つのを忘れて過ごしておりました。ご案内の通りは、仏教は仏陀、即ちガウタマシッダールタという気高い精神が魂の修養のために教え説いた宗教です。人間が人間であることのより深い真相を究める場という意味で、或いは精神の極限を見極めるという点で、禅はとても優れており、非常に有益である、と今でも考えております。しかしそれは、あくまでも人間の世界の話であります。人間の外側の、しかも人間の本質から遥かに超越した神の世界のことではないのです。古い仏教には、「白骨観」という修行があったようです。眼前で死者が白骨化してゆく経過を見つめながら座り続ける修行だと聞いております。そしてそうした死による完全消滅を眼前にしながら、あらゆる分別を捨て去り解脱して、悟りに至る修行です。それは最早、救済というよりは精神的「無」という判断停止の心境に近いように思われます。そこに、まさに世界内存在としての人間の限界があるように思われました。しかし、そうした世界内存在としてのこの世の人間に、世界の外から、超越の世界から「神」が外から内に限界と壁を打ち破るようにして、語りかけ、「神」であるご自身を啓示してお示しになったのです。その神の啓示を聖書は人間の言葉によって伝えるのであります。本当に、いよいよ不思議なことであります。本日の説教で取り上げたい今日の問題は、聖書こそは、その「神」を伝える啓示の言葉である、ということにあります。

 

1.聖書は「神のことば」ではあるが、

周知の所でありますが、キリスト教の源泉はただ「聖書」のみにあります。教会は「聖書」から生まれ、キリスト教は「教会」から生まれました。人間の世界には存在しない「神」が「神」ご自身において「神」を語り、「神」をお示しになり明らかにすることを「啓示」と申しますが、これはまことに不思議なことでありますが、神が神ご自身において神を語る啓示の言葉こそ、66巻から成る新旧両約の「聖書」の本体本質である、と私たちは認め、信じて受け入れています。したがって「聖書」こそ「神」と通じる天からの天への窓であります。では、聖書を読みさえすれば、すぐに「神」が分かるか、といえば、実はそうでもないようです。折角、神は自ら真実な神ご自身を聖書において、人間の分かる人間の言語として啓示してくださったのに、折角、神ご自身が神のことばにおいて、神を明らかにされお示しくださったのに、折角、人類に聖書が与えられたのに、その神の啓示である聖書を読めば、すぐに「神」は分かるようになるかと言えば、これもまことに皮肉なことですが、それは必ずしもそうでもないのです。一方では「聖書」という神の啓示がこの世の中に与えられていながら、他方では、それだからと言って、必ずしも読めば「神」が分かるというものでもない、というのですから、何だか矛盾しているようにも思われます。聖書が分かる、言い換えれば、聖書に証しされる「神」と出会い、「神」を知るとは、どういうことなのでしょうか。今日は、神殿で説教されるイエスさまのお姿から学びたいと思います。

先週の説教で、エルサレム神殿で、説教するイエスさまについて、お話いたしました。イエスさまは、神殿の回廊で、既にユダヤの人々に与えられていた所謂「旧約聖書」について説教しておられました。私たちのよく用いる言葉で言い直しますと、聖書を、つまり律法についての「解き明かし」を行っておられたと見られます。なぜでしょうか。確かにユダヤの人々は、物心がつきますと、聖書の言葉を丸ごと暗記して、骨身になるほどまで聖書の言葉を身に着けて、成長するようです。当時の聖書は羊や子牛或いはパピルス等に巻物として記されており、エルサレム神殿を初めとする、宗教活動拠点に安置され、人々は只管に口伝えで暗記して身に着けていたようです。したがって聖書がある、聖書を持っていると申しましても、印刷技術に助けられた現代人が聖書を持っているという話とは質的に次元が違うのです。ユダヤの人々はどれほど聖書の言葉に親しんでいたか、それは、私たち想像を遥かに超える次元で、聖書のことばを持っていたはずであります。それなのに、聖書を読めばよく分かるはずなのに、ましてや骨身になるように聖書を読み込んでいるユダヤの人々に対して、イエスさまは、わざわざ神殿で聖書を解き明かさなければならなかったのです。それはどうしてなのでしょうか。

理由は明らかです。聖書を知っていること、聖書をもっていることと、聖書の真理に「心の眼」を開かれて、聖書の啓示に示される「神」を知り「神」と出会うということとは、実は全く別なことであったからではないでしょうか。聖書に書かれた言葉を通して、真実な神を知る、そして生きた神と出会い、神との交わりの中に生かされることを、主イエスは、聖書を解き明かすことによって人々を導こうとしたからではないでしょうか。だからこそ、主イエスは、聖書を解き明かす必要があったのだと思います。言い換えれば、聖書をよく知り聖書を持っていたユダヤ人は、本当の意味で、また真実の神を知らず、まことに生きて働いておられる真の神が前におられることを知らないでいる、とお考えになったからではないかと思います。あの熱心なユダヤ人さえ、聖書に啓示された「神」を正しく聞き分け、人格の根元から神と出会い、神を知り、神と交わり、神と共に生きることが出来ずにいる、とイエスさまはお考えになっておられたからではないでしょうか。これと全く同じことが、わたくしどもキリスト教会についても、また私たち信徒ひとりひとりにおいても、言えることではないでしょうか。教会に通い聖書を読んでいる、だから神を知り神と共に生きている、とそのまま果たして言い切ることができるだろうか、という問いにもなります。主イエスが、神殿で、ユダヤの人々のために、聖書を解き明かしてくださる、ということは、実はそういうことであったのではないでしょうか。聖書が与えられていたのに、聖書に啓示される神の真実を読み解き、今ここに生きて現臨する神に届いてはいなかったのです。

 

2.わたしお遣わしになった方のもとへ帰る

そこで、主イエスはこう言われます。「7:33今しばらく、わたしはあなたたちと共にいるそれから自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所にあなたたちは来ることができない。」。特に注目したい所は、「それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」しかも「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」という告知です。神の次元で言えば、神のもとに帰ること、すなわち十字架の死の栄光を遂げて、御心を果たされたのちに、復活の栄光を受けて天に昇り、父のみもとへと栄光の帰還を遂げられることをお告げになります。しかしこれはあくまでも、超越の神の次元でのご計画ですので、人間の側には見えず、量り取ることのできない「隠された神のご計画」を啓示し告げ知らせるみことばです。ただし、さらに注目すべき所は、それでもなお主イエスは、「7:33今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。」とも告げておられます。確かに神の隠されたご計画であり秘義ではあっても、今はまだ主ご自身が人々と共にいてくださる、というのであります。言い換えれば、それでも主ご自身は、ご自身において、またご自身のお語りになるみことばにおいて、私たちと共におられる、寄り添い続けてくださる、という主イエスの愛とみこころがここに読み取ることができます。率直に言えば、「わたし」において、今はまだあなたがたは「神」と出会い、神と共に過ごしているではないか、ということを意味するみことばでもあります。

しかしやがて、イエスさまには、十字架の死をもって御心を果たし、栄光のうちに父のもとにお帰りなられる時が来る。そして天に昇り父の右に座するのですが、今度は、主イエスに代わり、別の助け主が遣わされることになります。先の話になりますが、主が十字架の死の栄光を遂げて、完全に従順と義を貫いて、世の罪を全て償い尽くして、天に昇られた後に、今度は「聖霊」を「別の助け主(弁護者)-傍らに寄り添う者-」として、お遣わしくださることになるのですが、しかも神はイエスさまに代わる聖霊において神ご自身をいよいよ啓示してくださり、人々はその「聖霊」において導かれれる「教会(エクレーシア)」という「キリストの身体」において、「神」と出会い、「神」は私たちのうちに宿り、「キリストの身体」として共に聖化と救贖の道を歩むことになります。

ところが、この主イエスの、隠された神のご計画を告げる啓示のことばに対して、ユダヤ人たちは、互いにこう言い始めます。「7:35わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろうギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行ってギリシア人に教えるとでもいうのか」。とても興味深いくだりです。神の世界に心を向けられずに、あくまでもこの世の人の世界に、キリストを求めようとします。実は、こうした同じような話が、20世紀以降でも、キリスト教の聖書学者と呼ばれる人々の中にも起こりました。キリストを神として受け入れることができずに、この世の人間の中に、キリストの価値を捜し求めたのです。神の世界は神話の世界であって、聖書証言から神に関する神話的な証言は全て捨て去り、キリストを神に求めずに、この世の人間世界の価値の中に、或いはこの世の諸宗教の中に、捜し求めて研究する、という聖書神学が流行しました。ある意味で、それはいつの世でも、最初から変わらないことなのかも知れません。ただキリストを神として捜し求めることが出来ず、ギリシアに求めたユダヤ人たちの姿が、現代では、こうした聖書学者に入れ替わっただけの話かも知れません。言い換えれば、信仰か、不信仰か、そのどちらかで、方向性の全ては決定づけられてしまうことになるようです。みことばにおいて、神の啓示を認め、その示されたご計画を信じ受け入れ、神の愛と救いと出会うのか、それとも神の啓示を拒否して、その拒否ゆえに、神の愛と救いに出会うことなく、自分独りで独善的に実存と称して、自分を神のように信じて生きるのか、ということになるでしょうか。

ユダヤ人たちは、さらに興味深いことを語っています。「7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても見つけることがないわたしのいる所にあなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」と言って、とても意味深長な「問い」を残して、この対話は終わります。「あなたたちは来ることができない」とは「どういう意味なのか?」というこの論争の末、最後の最後に残された問いは、とても奥の深い、底知れなく意味の深い問いのように聞こえて来ます。言わば、人類がどれほど神を求めても求めて、決して自分の手では掴み取ることができないでいる、そうした人類の、知恵ある種族、ホモ・サピエンス(知恵)としての、宿命的で永遠の問いのように聞こえてくる問いではないでしょうか。まさにこの「どういう意味なのか?」という問いで終わるこのユダヤ人の言葉は、知恵の行きつく所は、常に「謎」であり「懐疑」に終わる、という知恵の本質を見事に言い尽くしているように思われます。神と人とは、その存在と本質において、徹底的に異なるものであり、人は如何なる知恵をもってしても、神を完全に測り取ることはできないのです。したがって、神に対しては常に問いが残り、結局は「謎と懐疑」に包まれてゆくことになります。

しかし他方で、わたくしは、このユダヤ人の主イエスの啓示のみことばに対する言葉、すなわちその言葉は「どういう意味なのか?」という問いに、ある大きなプラスの意味も見出しています。それは、人間の別な意味での、「知恵」を持つことの意義を覚えるからです。それは、ホモ・クワエレンス(問い)とも言われるように、人類は「知恵」をもって全てを問い続ける存在でもあります。ユダヤ人たちは、狂気と憎悪に燃えて、イエスさまを十字架につけて殺してしまいましたが、そのユダヤ人たちでさえ、果たしてそれは「どういう意味なのか?」と最後まで心に残る問いを決して消し去ることはできなかった、ということです。知恵は問いを人類に与え、最後まで問いを残し続けているからです。人類の歴史を振り返りまして、一方で戦争を繰り返しながら、しかしその反面、果たしてそれはどんな意味があったのか、と問い続けるのであります。問いは、省察と反省を産み、ついには「破れを知る」導きとなるからです。ソクラテスは知と学びの始まりは「無知の知」にある、と教えていますが、まさに、破れを知り、無知を知り、ついには、救いと助けを謙遜に願い求める心を準備する出発点となるからです。いくら聖書学者たちが「神」を聖書から捨象し排除したとしても、それでも、聖書はいつも私たち人類に「どういう意味なのか?」と問いを残し続けるのであります。確かに罪びとであり不信仰であっても、わたくしたちの心の奥深くに、その言葉の意味は何を意味するのか、神の存在とその啓示について、問いを残し続けるのではないでしょうか。

 

3.三位一体の神と聖書の霊感説

イエスさまは、聖書の言葉を完全に骨身になるほどに身に付けたユダヤ人たちにさえ、それでも聖書はいよいよ解き明かされなければならない、と説教を神殿の中枢で行う必要があると考えていたようです。それは、どうしてでしょうか。既に主ご自身のみことばの中に、答えはあるように思われます。それは、なぜなら「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」(ヨハネ7:36)からです。人は神ではないし、人は神にはなれないからであります。であれば、ただひたすら神が人として世の人々にご自身を啓示し続ける外に道はありません。神ご自身が外から人間の内側に降り、現臨し続け、啓示し続け、そして常に人間のうちにおいてみわざを行うことの外に道はないのです。人間の側から「外」に向かって問い探し求めることは出来ても、神に出会い神を知り神と共に生きる術はないからです。

キリスト教を世に成立させている決定的なキリスト教の神の教理は「三位一体の神」という教理です。わたくしは事ある度にとても意義の深い教え、或いは啓示ではないか、と痛感しています。「神」は、最初に万物を創造することで万物にご自身をお示しになりました。「万物創造」において「神」をお示しになられたので、聖書は「造り主」としてご自身を啓示します。次いで「神」は、神の創造の祝福溢れる秩序を罪による堕落により破壊した人間の罪を贖罪して神の義のもとに新しい人間性を回復して永遠の命を与えるために、「受肉のキリスト」として「神」をお示しになり、しかも「神」は「受肉のキリスト」においてまたその語るみことばにおいて、「神」は「父」と「子」と「聖霊」という三つの存在様式をもって神ご自身を証し啓示します。そしてさらに「神」は、「受肉のキリスト」に代わり「別の弁護者(助け主)」として「聖霊」を世に遣わして、一貫した神ご計画を啓示し続け、みわざを遂行して、そして人類をはじめ万物を贖いの完成へと導かれます。ここで是非お覚えいただきたいことは、「啓示の貫徹」ということです。造り主による万物創造も、御子による受肉のキリストにおける贖罪と和解も、そして聖霊による教会における救贖も、すべて神は、父子聖霊として、この世の外から内に向かって常に現臨して、一貫して救いのみわざを遂行され、ご計画を完全に貫徹しておられる、ということです。つまり常に神の啓示はこの世のただ中に向かって貫かれている、ということにあります。

イエスさまは、神殿で聖書を解き明かす説教を、ユダヤ人のためになされました。そのお姿は、そのまま、御子が人間のためにご自身が天から降り、しかも神を問い続け探し求めても見つけられない人間に対して、人間の前に現臨することで、「神」ご自身を啓示し続けておられるお姿を象徴しているかのように見えるのであります。そればかりか、天から地上に降り、人間の内に宿り、万物と共に寄り添い、ご自身の救いのみわざを遂行しておられるのであり、ついには完成へと導く「神」をお示しになっておられるのではないかと思えて来るのであります。まさに「神」とは「啓示の神」であり、まさに父と子と聖霊という「啓示の神」において、神はわたくしども人間の内に現臨し働き続けておられるのではないでしょうか。

そうした中で、聖書の解き明かしは、主イエス・キリストから別の助け主である聖霊なる神により受け継がれます。みことばにおける主権者、審判者として、主イエスは聖書を解き明かしましたが、今度は、教会においては聖霊がまさに主イエスを啓示して主イエスを主権者としてお立てになり、主イエスにおいて語るのであります。キリスト教の決定的な信仰告白に「聖書は神の霊感によりて成る」という教えがあります。日本基督教団信仰告白(1954年制定)は、その冒頭で、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の依るべき唯一の聖典なり。されば聖書は聖霊によりて神につき救いにつきて全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして信仰と生活との誤りなき規範なり」と告白しています。また日本基督教会「信仰の告白」(1890制定)では、「古(いにしえ)の預言者使徒および聖人は聖靈に啓廸(けいてき)せられたり、新舊兩約の聖書のうちに語りたまふ聖靈は宗教上のことにつき誤謬(あやまり)なき最上の審判者なり」と告白します。両者は共に、聖書の本質は聖霊による啓示であることを明らかにしつつ、その聖書に基づいて、信仰や生活が基本的に導かれていることを明らかにしています。つまり聖書証言の中に、神の秘められたご計画が啓示されている、それは聖霊によるということになります。ここに、キリスト教それ自体が依って立つ根拠があります。反対に、聖書の中から、神についての啓示を神話として排除してしまえば、聖書の本質が失われて、教会の依って立つ信仰と知識の基盤を失います。