2021. 10.3 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第20主日礼拝
ヨハネによる福音書講解説教18
説教「安息日の主」
聖書 レビ記19章9~18節
ヨハネによる福音書7章10~24節
7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。7:11 祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。7:12 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。
7:14 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。7:15 ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、
7:16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。7:17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。7:18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。
7:19 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」7:20 群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」7:21 イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。7:22 しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。7:24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」
説教
はじめに. やはり主イエスも密かにエルサレムに昇られていた
7章1節で、「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。7:2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。」と明記されていますように、主イエスは、ユダヤ人たちがエルサレムで主イエスを殺そうとねらっていることをご存知でありましたので、争いを避けようと、主イエスは「ユダヤを巡ろうとは思われなかった」ようです。しかし「仮庵祭が近づいていた」ので、ユダヤの律法規定にしたがって、神殿に向かうことになります。結局、これでガリラヤ宣教は最後となり、主イエスはエルサレムにゆくことになります。7章12節以下で、「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」と伝えられています。ここで注意しておきたい表現は「ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」という所です。こうした民衆の恐怖心は、ユダヤ全土に渡り、ユダヤの支配者たちの謀略が既に深刻に民衆の隅々に浸透していたことをよく示しています。主イエスをめぐり、ユダヤ全体が非常な緊張状態の中にあったことは、否めない事実であったと考えられます。
こうしたユダヤ人たちの、特に宗教権力者たちの陰謀は、何と言っても、主イエスの驚くべきみわざによるものでありました。以前、教師のニコデモについて、ユダヤの権力者たちの一員で、非常に高い地位にあった教師であった人物について、ヨハネは、3章1節以下で「3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』」と記されています。「わたしは」ではなく、「わたしたちは・・・知っています」と、複数形ではっきりと自ら言っていますので、ニコデモだけでなく、背後には数多くのユダヤ教師たちがいた、と考えられます。彼らは、主イエスの行う力あるみわざに、即ち「神の業」に非常に驚き、神のもとから来た教師ではないか、という現実を認めていたことが分かります。そして多くの群衆が主イエスの弟子となって集うようになっていたことも、大きな問題であったようです。しかもこうした見解は、恐らく、単なる個人的見解を超えており、一定の大きな教師集団の中で、深刻な問題となっていた、と推測されます。
しかし、その反面で、否、そうだからこそ、かえって増々権力にしがみつく宗教支配者たちは、自分たちの権威と信頼を失うことを非常に恐れていたのではないか、と思われます。こうした権力者たちは、ついにイエスを抹殺して排除する決断をし始めていたようでありまです。かえって主イエスのわざと神の権威を恐れた権力者たちは、それが真実であることが分かれば分かるほど、潰してしまおうと、権力と謀略を用いて、主イエスの抹殺を図ることにしたのではないでしょうか。その主イエスの排除と抹殺を正当化しようとする謀略こそ、一見合法的に見える形で、主イエスを「律法違反者」として断罪して処刑することでした。その律法違反の口実にしたことが、「安息日の規定違反」であります。5章8節以下で読みましたように、「ヨハネ5:8 イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。」と伝えています。あたかも主イエスを迫害するのは当然であり、迫害される原因は主自らが安息日を破壊したことにある、という言い分です。そこで、本日は、改めて、安息日の意義と原理について、主イエスのみことばを聴き直してまいりたい、と存じます。
1.モーセの律法の正しい理解をめぐり、解き明かして教える主イエス
「安息日」は、確かに、律法によって規定される重要な掟であります。7章14節以下で「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。7:15 ユダヤ人たちが驚いて、『この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう』」と言った、と記されています。これは、明らかに、主イエスは律法についてエルサレム神殿の境内で教えておられた、と思われます。「聖書」と記されていますが、前後の脈絡からすると、「律法」について、特にモーセ五書の教えについて、解き明かしの説教をなさっておられた、と思われます。そしてその主の説教の背景には、ある意図があったはずです。つまりユダヤ人たちの誤りに対して、真理を語り、弁明する意図があったようにも思われます。5章10節以下に「5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。」と記されていますように、安息日規定に違反した、というユダヤ人たちの誤解または曲解を意識し、正しい聖書の理解を求めたはずであります。
つまり、厳密に言えば、5章での主の癒しを読み直しますと、この病からの癒しは、先ず、主イエスのみことばによって、しかもその病人の人格と命の根源において、実現した神の癒しでありました。生きて働く神として、そのみことばを通して、この人物の魂の根源から解放して、絶望から立ち上がる、命と魂の解放でありました。しかし、それを見ていた周囲の人々にとっては、そこで何が起こっていたのか、その癒しの本質は肉の眼では見えない「神の業」でありました。誰にも見えない神の恵みのみわざであります。それゆえ、本質的に「神の業」であるのに、うわべでは、肉の眼ではその本当の癒しの本質が見えませんので、安息日に行われた律法規定違反として断罪すべき行為にも見えて来ます。そして、その癒しの結果、この病人は、『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』という主のみことばに、忠実に応答して実際に「5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」のでした。この段階で、初めて具体的な律法規定に抵触することになります。なぜなら、安息日における人や物の運搬作業は堅く禁じられていたからです。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』と言われている通りです。しかし、主イエスが行われた「神の業」は、本質的に神のみことばによる「癒し」であり、病からの解放であり、人格に命の息吹を吹き入れる命の祝福でありました。父なる神が、みことばにおいて「光あれ」と言われ、万物を創造して、命と存在を根源からお与えになる愛と恵みのみわざであります。それなのに、肉の眼だけ見えることだけで、安息日に物品を運搬したので律法違反だ、と言って、うわべの口実をつけ、主イエスの癒しを律法違反として断罪しようとするのであります。
そこで、主イエスは、改めてモーセの律法とは何か、本来その目的と意義はどこにあるのか、聖書に基づいて律法の本質について、解き明かし、教えておられたのではないでしょうか。そのイエスさまの説教の中心が、7章19節以下に断片的に紹介されています。「『モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。(中略)7:22 しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。(中略)だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。7:24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。』」と、律法についてのユダヤ人たちの誤解が指摘されています。主イエスは、ご自身が律法を破壊したのではなくて、あなたがた律法学者やユダヤの権威ある者たちこそ、モーセの律法を誤って利用しており、あなたたちこそ律法の本質を歪めているのではないか、と反対に問い、厳しく迫っておられるのです。その誤解と違反の典型事例として、安息日の割礼を挙げておられます。なぜ安息日でも、あなたがたは割礼を行うのか。それは、神の命の祝福と新しい契約のためではないのか、というわけです。そしてそうであれば、この病人の癒しも、本質的に神の創造的命の祝福そのものである、と見えない神の業の真相を明らかにしているのではないか、と思われるのであります。
2.安息日における割礼と主イエスの癒しの意義を解き明かす
主イエスはユダヤ人たちに、では安息日に割礼を施すのはどうなのですか、と問います。割礼は、言うまでもなく、新たに誕生した新生児に施される神の祝福と契約のしるしです。割礼の本質は、神による命の祝福であり、「神の民」の一員として認定される神の契約であります。割礼は、神が新たに生まれた新生児に「命の祝福」を与え、その子を「神の民」とする契約行為を表し意味します。こうした割礼の意味から言えば、主イエスの癒しも、「神の民」としての「命の祝福」には変わりありません。「人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。」と主が仰せになっておられる通りであります。それなのに、「床を担いだ」といううわべのことで、安息日を破壊した、と断罪するのは、おかしいではないか、というわけです。
旧約聖書レビ記によれば「レビ記12:1 主はモーセに仰せになった。12:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。12:3 八日目にはその子の包皮に割礼を施す。」と規定されおります。また、創世記によれば「創世記17:9 神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。17:10 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。17:11 包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」21:3 アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、21:4 神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。」と記されております。問題は、この割礼が「八日目に」と規定されているために、その八日目が安息日になることもしばしばあり、安息日にも休むことなく、割礼は執行され施されていたのです。
ここで、律法を考える上で、とても意味深い点は、主イエスが「7:24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」と教えておられる所です。「うわべで裁く」ことと「正しい裁き」とは本質的に違う、と指摘します。つまり律法の本質、律法の本当の意義と目的は何か、教えようとしておられのです。「裁く」とは、どういうことでしょうか。神の裁きとは、本来は、量り知ることのできないほどの深い愛と知恵によって、民の「導き」のために、行われる善きわざであるはずです。裁きの本質は、人を愛し、人を正義に導き入れるために、行われる愛の業であって、人を憎み人を抹殺するためになされる復讐の業ではありません。主イエスの癒しは、一生涯病に苦しみ続けた「神の民」を愛する愛による解放であり、慈しみの癒しであり、そして憐れみの救いであります。共観福音書によれば、律法の本質とは何かについて、主イエスはこうお答えになっておられます。
マルコ12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコ12:28~34, マタイ22:34~40, ルカ10:25~28参照)
このように、律法に対する主イエスのお立場、ご理解はただひとつ「愛する」ため、であります。この、神と隣人とに対する二重の意味での「愛」を失っている所に、ユダヤ人たちの根源的な罪と背きがあることに、ユダヤの権力者たちは気づけないのです。神の民として自分たちの民を愛するのではなく、自分の権力欲の道具に利用しようとしていたからです。
3.「神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか」
このように、主イエスは聖書について神殿で教えられました。その解き明かしの中心は、聖書と律法のすべてが「愛」に集約される、ということでありました。愛のための律法なのか、自分の権力欲を満たすための宗教制度であり律法なのか、根源から問うておられます。しかもその愛は、神から出る「愛」であり、神から出た神の愛のうちに、全ての神の民が豊かに守られ、養われ、祝福のうちに生きるための愛であります。主イエスは、さらにこう教えます。「7:16 イエスは答えて言われた。『わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。7:17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。7:18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。』」と、主は仰せになられ、神の御心から出た、神の愛のためにこそ、全てが収斂されると教えます。ここで、是非注目すべきことは、律法の一つ一つに、その全ての根源に「愛」がなければならない、ということです。しかもその「真実な愛」は全て「神から出た」ものであります。偽りやうわべの愛ではなくて、神の本質から出た本当の愛でなければならないのです。律法はそのように神の御心に従って、即ち神を愛し人を愛する愛に基づいて、運用されなければならい、ということを教えらたのであります。
このように主イエスは、愛が生じる根元は「神」であり、真の愛は神から出たものである、と暗に示しながら、実は、その真の神の愛を完全に表すお方こそ主イエスご自身であり、神の御心と愛の実現者として降って来られた神のメシアであることを明らかにしようとしておられるように思われます。それを「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。7:17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。7:18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」と言われます。つまり最も大事なことは、神から出たことなのか、それとも神以外から出たことなのか、その出所を常に厳格に見極めなければならない、と教えておられるのではないかと思われます。私たちの為すすべての言動は、果たして自分から出たものか、それとも、神を愛し神の栄光のために仕える信仰から出たものか、を厳格に問うのです。もし仮に、自分の支配欲や自我欲求のための奉仕であれば、それは、神を愛し神に仕えるための信仰から出たものではなく、「自分」から出たものであり、「自分の栄光」のためのものです。それは自分のために自分の栄光を求めたことを意味します。出る所も自分であり行きつく所もすべて「自分」です。神を愛し神の栄光のために自己を献げることにはならないからです。したがってそこには、神との愛における正しい神中心の関係性は破壊されており、単に自我を神のように愛する自己中心に終わってしまいます。こうしたあり方を、イエスさまは「不義」であるとして、修正を求めます。考えてみますと、自分から自分の栄光を求めれば求めるほど、神を愛し神に仕えることから離反してしまい、神との豊かな愛と信仰の関係性は失われてしまいます。したがって本来の神との愛と信仰は壊れ、虚偽の中に破綻してしまいます。神から離反した所で、いくら被造物が栄光を自ら欲求しても、命も存在もまたその意義も「神の義」を失い、空洞化してしまい、「虚偽の義」に変質し腐り果ててしまいます。それは、結局、空しい滅びであり喪失となり、破綻するのです。その真相を理解すると、それはとても危険で恐ろしいことなのですが、気づかずに、自分の欲求にしたがって思い上がり、破綻に向かって突き進んでしまうのです。しかし、さらに大事なことは、その破綻に気付き、神を愛し神の御心を求めて生きようと、立ち帰ることにあります。自己のうち深くに本当の神の愛を豊かに宿して、その神の愛をもって、今度は神を愛し隣人をひたすら愛することに、全ての人生をやり直すのです。そうであるとすれば、こうした破綻は恵みでもあり、新しい立ち帰りの重要な契機ともなり、そして何よりも、この破綻からこそ「信仰」が始まり、真の「奉仕」が生まれます。英語で言い換えますと、真の「奉仕」serviceこそ、真の「礼拝」serviceであります。何よりも先に自分を認めて欲しい、という自我欲求から出る奉仕や教会生活に破綻して、その破綻ゆえに、神を愛し直す真の愛から、ただ神の栄光のためにお仕えするように、一から努力し直す新しい奉仕の取り組みにかえって導かれるのです。信仰生活はそうした破綻と再生の繰り返しであり連続である、と言えるかも知れません。自分の栄光を求め始めた途端に、信仰は偽善に変質しますし、自分の栄光に生きることに破綻した途端に、そうした自己栄光化の破綻は、神の愛に生かされ生きる新しい生まれ変わりとなるのです。つまり私たちの生き死にが全て、神と神の愛から出たものとなるのです。主イエスは、それを徹底されました。ひたすらに父なる神の御心だけを行い、実現したのです。それが、まさに、十字架の死に至るまでの従順と献身であります。十字架の死において、主イエスはまさに主イエスの本領を発揮するのですが、主の十字架は即かつ直ちに「神の御心」そのもののでもありました。
4.命の祝福と創造の完成の喜びとしての安息日
神の「律法」を守り全うすること、そして「律法」の根元となる意義と目的とその基本原理は、あくまでも「神を愛する」「人を愛する」という「愛」のためにあるのであります。しかもその愛は、常に無限であり普遍に神と人を愛する愛でなければなりません。実は、安息日の本当の意義も同じではないでしょうか。創世記2章1節に「2:1 天地万物は完成された。2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」と記しています。神ご自身の本当のお仕事とは、何でしょうか。それは言うまでもなく、神の御心を行うことであり、神の愛を完全に満たすことにあるのではないでしょうか。万物の創造完成においてこそ、神の御心と愛は見出されます。安息日とは、神のその愛の完成の喜びであり、万物と共にある平和の安息であり、まさに創造完成の祝福を意味するのではないでしょうか。神の完全な愛は、そもそも、虚無にあって飢え渇き命と存在を失って、傷つき痛むもののために、その存在の根源から愛を満たし命を浮き入れて癒しを与え、命の存在の完成を喜び祝う、愛と喜びの祝いであります。本来の安息日は、そのような完全な愛による創造の完成と喜びであり、その存在と命を尽くした祝いであって、本質的に愛の成就の喜びであって、人々を癒しと救いから排除するための掟ではないはずであります。その典型的証拠であり事例が、こどもが新たに誕生した命の祝福として、神の民への愛と保証の契約を明らかに示すしるしが割礼であります。あなたがたは、その割礼を休むことなく安息日に実行してきたのではないか。人々を支配するのは神の愛であり、神の創造完成の祝いこそ、安息日規定の本質である、と主イエスはそう教えておられるのです。このように、神において、神の共に、神のうちに、愛と命に溢れて、存在を心から感謝して喜ぶこと、そこに安息日の本質があるのではないでしょうか。自分中心の利己的な自我欲求と自我の栄光のために、律法を利用し、その結果、律法を愛によって運用するのではなく、他者を排除して裁く道具にしてしまった律法主義の問題は非常に深刻であると言わねばなりません。
主イエスは最後に「7:24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」と結んで、説教を終えます。ここでイエスさまの言われる「正しい裁き」とは、何を意味するか、もうすでにお分かりいただけるのではないでしょうか。それは、宗教的責任者たちが、律法を目的に適って正しく運用することでありましょう。そして律法の正しい運用とは、神を愛し人を愛することに集約されます。裁くとは、否定断罪し排除抹殺することではなくて、神の愛のもとに人々を回復することです。神は、キリストを通して、わたしたちを神の愛のもとに回復してくださる、それが、正しい裁きが行われる、ということではないしょうか。キリストを信じ受け入れることで、私たちは、明らかに神の愛のうちに回復される、そういう正しい裁きの中に、選ばれいるのであります。そういう意味で、神の正しい裁きの中にあることは、喜ばしいことであり、幸いなことであります。