2021年9月26日「世はわたしを憎んでいる」 磯部理一郎 牧師

 

2021.9.26 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第19主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教17

説教「世はわたしを憎んでいる」

聖書 レビ記23章23~44節

ヨハネによる福音書6章60節~7章9節

 

 

聖書

6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。6:62 それでは人の子がもといた所に上るのを見るならば……。

6:63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。6:65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」6:70 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人はわたしが選んだのではないか。ところがその中の一人は悪魔だ。」6:71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 

7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。7:2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。7:3 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。7:4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」7:5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。7:6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。7:8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かないまだわたしの時が来ていないからである。」7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

 

 

はじめに. 主の語る福音のみことばに躓く人々

ヨハネによる福音書の7章1節以下を読みますと、主イエスを取り囲む人々の不信仰に、大きく驚かせられます。主イエスが誠実に語られた福音のみことばに、多くの人々がこれほどまでに深刻に躓いてしまうのか、と愕然とさせられます。6章の段階では、主イエスは、人々や弟子たちの不信仰を嘆き、こう訴えておられました。「6:36 あなたがたはわたしを見ているのに信じない」。そして「6:60弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だだれがこんな話を聞いていられようか。』」と弟子たちの多くがつぶやくのをお聞きになった主イエスは、「6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。『あなたがたこのことつまずくのか。』」と仰せになり、それを見ていたヨハネも、「6:66 このために弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と記しています。ガリラヤの人々も、そして多くの弟子たちも、主イエスから完全に離反して、主のもとを去って行きました。多くの弟子たちが主イエスから離反し、去って行った原因は、主イエスのお語りになられた「福音のみことば」そのものにありました。人々は、何と、「福音」の根本に躓いていたのです。神の救いのご計画を、神の独り子である主イエスに託して、天から世に遣わされ、「わたしは、天から降って来た生きた命のパンである」と告げられた、まさに神の子自ら証言する福音の説教に、人々や弟子たちが躓いたのです。神ご自身からであっても、神の真実を語ると、人々は躓き離反するのです。福音を宣べ伝えるとは、実はそういうことなのです。いくら語っても、福音の本質は聞かずに、自分の都合のよいことだけを求めて聴こうとします。聴かれることの方が、かえって怪しいのかも知れません。聴かれない方が、本当の場合のありそうです。宣教活動とは、意味がないと言って腐らずに、愛と寛容と信念をもってみことばに仕え続けることでもある、ということがよく分かるのではないでしょうか。

ヨハネは、こうした人々の躓きと不信仰に対して、「1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と証言し、また「3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆光を憎みその行いが明るみに出されるのを恐れて光の方に来ないからである。」と、躓きと不信仰の根底に、悪が支配し、その結果、本性的に、真理の光を恐れ憎むのだ、と洞察しています。人間の力では、克服しきれない悪と闇の力による世界支配を示唆しているかのようにも読み取れます。

しかし、7章に入りますと、さらに人々の不信仰と離反は、より深刻さを増して行きます。それは「7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」と記されている通りです。ユダヤ人ばかりではなく、主イエスご自身の家族や親族からも、しかも主ご自身の兄弟たちの中に、主イエスに躓く者が登場します。「7:3 イエスの兄弟たちが言った。『ここを去ってユダヤに行きあなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。7:4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいないこういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。』7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」と述べて、はっきりと、主の身内における不信仰と離反の現実を証言しています。先ほど、悪と暗闇が人類全体を支配している、というヨハネの洞察について触れましたが、まさに人々は、この悪と闇の支配に対して、どうしても抵抗することができず、支配されてしまうのです。そうした弟子たちの躓きと離反の現実について、主イエスご自身が「7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいるわたしが世の行っている業は悪い証ししている」と仰せになり、明らかに、世を支配する悪と闇の抵抗の中にあることを指摘しておられます。こうした悪と闇のすさまじい抵抗の中で、主イエスは、はっきりと「十字架の死」を意識し覚悟しておられたのではないでしょうか。それが、7章1節の「ユダヤ人が殺そうとねらっていた」という表現に、また「わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」という7章8節の主ご自身のみことばにたいへんよく表されています。本日は、そうした主イエスの苦悩と人々の離反について考えます。

 

1.12弟子の選びにおける光と闇

ところが、そうした悪と闇のすさまじい抵抗の中で、非常に興味深い、しかも深刻な伝承について、ヨハネは触れます。少し前に戻りますが、6章66節でヨハネは「6:66 このために弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と述べて、弟子たちの躓きと離反を総括したうえで、さらに主イエスに対する躓きと離反を根源から引き起こしている真相に踏み込みます。「6:67 そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。6:68 シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』6:70 すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところがその中の一人は悪魔だ。』 6:71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」と記されております。言わば、主イエスの啓示を前にして、まさに光と闇が激しく交錯する現実を証言します。主イエスによる12弟子の選びにおいて、一方では「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じる」と告白するペトロの信仰告白に対して、他方では、神の啓示のわざを根底から抵抗し破壊しようとする悪魔の存在が、ここであからさまに、露呈されます。しかもその悪魔と闇の抵抗と支配は、何と主の選ばれた12弟子の中枢にまで及んでいたという事実に、私たちは愕然とします。まさか神の御子である主イエスの選びの中にまで、悪魔が入り込み、闇は激しく抵抗して光と争っているのです。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」と言われた主ご自身のみことばは、驚愕の極みであります。

少し深読みになりますが、ヨハネは、こうした主の選びの中にありながらも、その根源からとことん抵抗しようとする悪魔の働きについて、その深刻な実体を具体的に自分たち使徒の中にも存在することを証言すると共に、同じように神に選ばれたはずの教会の中においても、悪と闇の抵抗が根強く働いている、という教会の現実も、暗に示唆しているように読めるのではないでしょうか。一方では明るく「あなたこそ、神の聖者です。わたしたちは信じます。」と言いながら、他方では「イエスを裏切ろうと謀略を図る悪魔」の支配が現存しているのです。そしてそうした悪と闇による悪魔支配は、多くの場合、人間の「支配欲」や「権力欲」或いは「自己栄光化の欲求」を、流行りの「承認欲求」をも含めて、そのような人間の自我欲求を通して、悪魔の抵抗は働き続けているのではないか、と思われます。牧師や長老そして信徒ひとりひとりのただ中にさえも、悪魔は入り込んで、こうした自我欲求を利用して誘惑し、ついには反キリストという化け物になって抵抗するのです。さまざまな形での教会紛争を初め、牧師や信徒の間で引き起こされる紛争の根底に、人間の本性である自我欲求を餌に誘惑し唆し続ける悪魔が働いているように見えます。教会の中でさえも、この世の権力闘争や裁判闘争の様相と化する事案も昨今は少なくないようです。是非、しっかりとみことばに立ち帰りつつ、謙遜に悔い改めをもって絶えず祈り合えるよう、お互いに注意し合いたいと思います。

「このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」(ヨハネ6:71)と記されていますが、なぜ、ユダは「十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」のでしょうか。ユダは、自分が「十二使徒の一人である」ことは、とても強く自覚していたようですが、どのように考えていたのでしょうか。そして「イエスを裏切ろうしていた」ユダの意図とは、何であったのでしょうか。ヨハネではもうすでにここで明らかに示されてしまっていますが、この裏切りが明らかにされるのは、つまり主イエスが悪魔の支配を告げて、ユダが裏切るとはっきりと指摘する場面は、「過越の食卓」において(マタイ26:14~25、マルコ14:10~21、ルカ22:1~23、ヨハネ13:21~30)です。すなわち、弟子たちを初め人類のために、贖罪の犠牲の生贄として十字架にかかり死ぬことを明らかにして、その十字架の死によって贖罪の身体となるご自身の肉と血を先取りして、パンと葡萄酒を弟子たちに分け与える聖なる晩餐の場面です。言い換えれば、十字架を目前にして、まさに主イエスの十字架を引き起こす動因となるユダの裏切りがここで告げられ、明らかにされます。こうした状況から、ユダヤは、明らかに、使徒であることの本当の意味を取り違えていた、と推測されます。主イエスは、驚くべき不思議な力をもった「王」として、ユダヤの民衆を導き、ユダヤをローマの軍事的支配から解放して、新しいイスラエルを再建するお方と信じていた。ユダばかりではなく、主の力を示すよう求めた主の兄弟や家族たちも(7:3~9)、そのように、主イエスの立身出世と権力掌握の中に、自分たちの名誉や賞賛が実現されることを求め期待していたはずです。そうした欲求や確信が、十字架刑を受けて死ぬ、というローマとユダヤ権力者に対する完全敗北を決定づける瞬間でした。主の十字架の死こそ、それによって、ユダは使徒としての意味を失い絶望したのではないでしょうか。こうした地上における完全な絶望こそ、主イエスを裏切る決定的な動機となって働いたと思われます。しかもその絶望それ自体が、主イエスをいよいよ十字架の死へと導く引き金になったのです。裏切りとは、このようにして、人間の権力欲や自我欲求から生じるもう一つの見返りとして、露わにされるのです。この世の次元を超えて、天の神の真理を受け入れるということは、人間の思いを遥かに超えることで、結局は、本当の意味で、「6:65父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と主イエスご自身が言われたように、神の選びによる外に、道はないと言わざるを得ません。悪魔は、いつも神の選びに反逆して、世の終わりに至るまで働き続けます。創世記3章が啓示するように、人間本性である自我の欲求を餌にして、魂の根源から誘惑して堕落させ、結局は神を裏切り、離反を謀り続けるのであります。それは既に、選ばれたはずの12使徒の中においても、ましてや世の教会においても、いよいよ引き起こされる深刻な現実であります。

 

2.裏切りは、予知であり容認なのか

「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」と仰せになられた、このみことばを改めて読み返しますと、非常に意味深長な表現であることが分かります。「わたしが選んだ」という神の決定的な選びの中に、「ところが、その中の一人は悪魔だ」というのです。しかも主イエスは、「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる」と、不信仰の存在を予知したうえで、さらに「イエスは最初から信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられた」と証言している点は、いよいよ意味深長というよりは、むしろ不可解と言わざるを得ません。主は、こうも繰り返して言われます。「6:65こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければだれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」と仰せになっておられます。神の選びと裏切りの間には、ある不可解さが見え隠れしてきます。「不可解さ」と申しましたのは、神さまに対して甚だ不敬な言い方になりますが、しかし私たち人間の感情からすれば、どうして神は選びのうちに悪魔までもお加えになられたのか、という一種の不可解さは、禁じ得ない所です。どういうことでしょうか。神は「神の選び」の中に「悪魔」を加えられて、人類救済のクライマックスである「十字架」に向けて、時を刻みつつ、神のご計画をお進めになられておられるかのように見えます。しかも、その神のご計画全体を、主イエスは、既に完全に予知予見しつつ、覚悟固くし、神の御心を遂行してゆかれるのです。神のご主権による聖なる選びの中に、裏切りと悪魔による誘惑支配が容認されていた、ということは、何を意味するのでしょうか。しかもそのような悪魔や裏切りを、主イエスは予知して、しかも覚悟して受け止めておられるのです。それどころか、自らのご意志に基づいて、裏切りに導かれ乗りかかっていくようにして、十字架の死へと向かわれるのであります。神は、明らかにご自身の確信と容認のもとで、ユダに裏切りの場を与えておられるかのように、読むこともできます。それどころか、ユダの裏切りを推し進める悪魔の罪さえも、背負って十字架に赴くかのように、見えて来るです。極論すれば、救済者としてのキリストは、既にあらゆる裏切りと抵抗を背負う覚悟をしておられた、ということになります。悪魔の支配さえも、ご自身の犠牲によって償うかのように、十字架の贖罪の死へと向かってゆかれるのであります。その上で、どんな罪人であれ、どれほど深刻に悪魔に支配されていようとも、否、だからこそ、主イエスは改めてこう言われたのではないでしょうか。「6:53はっきり言っておく。人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は永遠の命を得わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55 わたしの肉はまことの食べ物わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつもわたしの内におりわたしもまたいつもその人の内にいる。6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」と。ここで改めて求められ、同時にまた問われていることは、このみことばを信じ受け入れる、という最後の信仰決断であります。それだけで十分なのです。ただ、キリストにおける神の愛と恵みに基づく完全な救いを認めて、信じて受け入れさえすれば、それでよいのです。どれほど不信仰であったとしても、今改めてここで、最後に信じ受け入れることで、新しい命が与えられるのであります。世の終わりに至るまで、この主のみことばは永遠に世界に響き続けており、私たちに語りかけ続けているのです。キリストの十字架の死における贖罪から、排除されなければならない者など、誰一人として存在しはしないのであります。ただこの福音のみことばを認めることで、全ての神の恵みは、わたしたちのうちに豊かに成就するのです。私たちが、キリストの十字架において神の救いを信じ受け入れる限り、キリストの十字架は、完全な「贖罪の十字架」として、全ての人々を背負い尽くして、罪を償い、新しい命に生まれ変わらせてくださるのであります。わたしたちは、神よりこの福音のみことばをもったのです。そしてのこの力ある福音のみことばのうちに生きることが許されたのです。

 

3.「人の子がもといた所に上るのを見るならば……」

主イエスは「あなたがたはこのことにつまずくのか。」と、弟子たちの躓きと離反を前にいたしました。しかしそれがあなたがたの現実であれば、「6:62 それでは人の子がもといた所に上るのを見るならば……」、増々躓き離反することであろう、と心を痛め、弟子たちのより深刻な不信仰について嘆き訴えておられます。ここには、ジレンマが大きな壁となって立ちはだかっているように思われます。ジレンマとは、一方で、悪魔による裏切りさえも、主の十字架の贖罪死は永遠の命をもたらす、大きな神の愛と恵み力が明らかにされます。しかしまたその一方で、いよいよ主の十字架における愛と救いを信じて受け入れることができなければ、命はない、という裁きが生じてしまうことです。

「人の子がもといた所に上る」とは、御子の栄光なる帰還を指して言われたみことばではないかと思われます。神の世に対する愛は、キリストが十字架で死に完全に人類の罪の償う贖罪の死を遂げることで、完全に御子において成し遂げられます。それゆえ、十字架の死の内に陰府に降ることは、まさに神のご計画の成就を意味するために、主の下降を意味する十字架の死は、同時に、直ちに神の御心の成就という栄光勝利を意味しており、天に昇り凱旋する栄光の帰還を意味します。父なる神の、世に対する愛と憐れみによる救いのご計画を、御子は十字架の死に至るまで神に従順を尽くして、しかも受肉の神として人間本性を根底から背負い、死の裁きの犠牲をもって人間の罪を完全に償われるからです。御子はその受肉した人間の身体において十字架の死における完全な贖罪を果たされて、神の義を得たからであり、神の義とは、神の無限の祝福と平和に満たされた命の関係を示す神と被造物との善き秩序でもあります。これがヨハネにおける「降って来た命のパン」である「栄光のうちに昇る」神の御子であります。

確かに主イエスの受肉したお身体は「肉の眼」という制約の中で見るには見えますが、しかし、無限の力に溢れた神の永遠の本質は、肉の眼では決して見ることはできません。神の栄光とは、そうした受肉した神の下降と無限の上昇における栄光であり、また先在の神のロゴスによる天への帰還であります。言い換えれば、もはやそれ以上の神のみわざはない、というべき神の永遠なる完全性を意味するのではないでしょうか。「救済」という点で、神は全てのみわざをやり尽くしてしまった、それが、御子の十字架であり復活であります。そして別の助け主である聖霊までも既に世に遣わしておられるのであります。であるとすれば、いよいよ残された最後のことは、それを感謝と喜びのうちに信じ受け入れるだけであります。

福音を語るとは、「神の恵み」を明らかに現すとだけではなく、実は、最も深刻な「人間の罪」を明らかに現すことでもあります。福音の光の輝きが増せば増すほど、私たちの罪の暗闇もまた色濃くその陰を刻むのです。こうして福音の恵みは、無限の神の愛と慈しみの恵みを告げ知らせるのですが、それと同時に、不信仰においては、そのまま最後の審判となって、裁きの宣告となります。福音を語ることは、神の愛と御心の実現を明らかに啓示しますが、その結果、その愛の光のもとで、人間の罪が露わに啓示されます。主の十字架は贖罪であり、贖罪とは罪の償うという罪の宣告と罪からの解放を意味するからです。したがって福音を啓示するとは、常に、その罪の現実に向かって、悔い改めを呼び求める叫びとなるのです。そこでただ一つ、感謝と喜びをもって悔い改め、罪を告白し、キリストにおける愛と命の勝利を心から讃美するのであります。このように、人間の理解を超える神の本質は、罪を悔い改めて、神の啓示としてのみことばを信じ受け入れること、みことばをいよいよ聴き分けて深く学ぶ外に、救いの道はないのです。キリストにおいて十字架の死は「無限の苦しみ」であると同時に「無限の栄光」となります。そればかりか、私たちにおいても十字架の死は無限の命への解放となるのと同時に「永遠の裁き」をも照らし出しているのです。みことばにおける神の御心を受け入れ、理解できるようになること、そのためには、神を啓示するみことばを聴いて深く学ぶ外に道はないのです。みことばを聞いて学び続ける信仰が求められるのです。このように、神のご決意とご計画の真相は、主イエスご自身と主のみことばにおいてのみ、啓示され明かに示されるのです。その主のみことばを信じ受け入れ、聴いて学ぶことこそ、まさに霊の恵みであり、永遠の命を知る基礎となります。そしてこのように信仰の形成は、すべては主の「みことば」と「霊」による恵みの賜物として与えられます。