2021年1月10日「隣人を愛せ」 磯部理一郎 牧師

2021.1.10 小金井西ノ台教会 公現後第1主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答105~107

十戒について(5)

 

 

問105 (司式者)

「第六戒(『殺してはならない』)において、神は何を望まれるのか。」

答え  (会衆)

「わたしは、わたしの隣人を、思想によりまた言葉や態度により、

ましてや行為により、わたし自身からも他者を通しても

辱め、憎み、侮り、殺してはならない、ということです。

むしろ、わたしは、あらゆる復讐心を捨て去り、自分自身を傷つけず、

自ら思い上がって危険を冒してはならない、ということです。

それゆえ、官憲は殺人を防ぐため剣(つるぎ)を携えています。」

 

 

問106 (司式者)

「では、この戒め(『殺してはならない』)は、ただ殺人についてだけ、語るのか。」

答え  (会衆)

「殺人の禁止を通して、神が私たちに教えようとされることは、

神は、殺人の根元となる妬み・憎しみ・怒り・復讐心を嫌い、

そうしたことはすべて、神の御前で隠れた殺人となる、ということです。」

 

 

問107 (司式者)

「だが、そう言われるように、私たちが自分の隣人を殺さないことだけで、果たして十分なのか。」

答え  (会衆)

「いいえ。第六戒で、神は、妬みと怒りに対して、死刑の宣告をしています。

それゆえ、神が私たちに望まれることは、

私たちが自分の隣人を自分自身のように愛し、

隣人に、忍耐・平和・柔和・慈悲・親愛を示し、

隣人に及ぶ損害を可能な限り防ぎ、私たちの敵にさえも、善行を尽くすことです。」

 

 

2021.1.10 小金井西ノ台教会 公現後第1主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教49(問答105~107)

説教 「隣人を愛せ」

聖書 出エジプト記20章13~17節

マタイによる福音書5章21~26節

 

私たちは今、キリストのもとで、新しい出会いを経験しています。その新しい出会い方とは、仲保者、主イエス・キリストの受肉において、しかもその十字架と復活による贖罪と新しい永遠の命のもとで、改めて新たに父と母とに出会い、同じように、主イエス・キリストによる贖罪と命において、その福音の光の中で、新たに隣人とも、私たちは出会います。この新しい出会いは、共に「主の贖い」の中に招き入れられ、新しい希望と喜びそして完成への期待と信頼に溢れています。前回の説教で学びましたように、ハイデルベルク信仰問答104は「第五戒(『あなたの父母(ちちはは)を敬え。』)において、神は何を望まれるのか。」と問い、「わたしの父と母に対して、またわたしの上に立つすべての人々に対して、わたしは、あらゆる敬意と愛と誠実を示し、善き教えとその報いのすべてに、相応しい従順をもって自ら従い、彼らの欠陥さえも、耐え忍ぶべきです。なぜなら、私たちを彼らの手を通して統べ治めることを、神が望まれるからです。」と告白しています。統べ治められる、とありますように、神の新しい統治による、すなわち神の国における、父母との、また隣人との新しい出会いであります。既に主イエスにおいて、罪赦された者同士が共に集い出会い、共に復活という永遠の命に満たされて、新しい希望と期待に生きる。そうした福音という新しい創造の中で、父母と出会い、隣人と出会い、そして世界と、私たちは出会っているのであります。

 

本日は第六戒「殺してはならない」について、ハイデルベルク信仰問答より解き明かしを受けますが、その第六戒について、問答105は「第六戒(『殺してはならない』)において、神は何を望まれるのか。」と問い、「わたしは、わたしの隣人を、思想によりまた言葉や態度により、ましてや行為により、わたし自身からも他者を通しても、辱め憎み侮り殺してはならない、ということです。むしろ、わたしは、あらゆる復讐心を捨て去り、自分自身を傷つけず、自ら思い上がって危険を冒してはならない、ということです。それゆえ、官憲は殺人を防ぐため剣(つるぎ)を携えています。」と告白します。人間の悲惨がどこにあるか、と問えば、やはり人を愛し、人を受け入れることができない、という所にあるのではないでしょうか。人間の悲惨を生み出す具体的な場が、問答の告白する通り、「辱め、憎み、侮り、殺す」ということにあります。

 

こうした行為で、共通する重要な問題は、「人格」としての尊厳や尊さを根本から見失ってしまうことにあります。人間存在の人格としての尊厳とは何か、と言いますと、創世記1章26節以下によれば「1:26 神は言われた。「我々にかたどり我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とありますように、人間の人格としての尊厳は「神の像」としての尊厳です。目に見えない神の存在が、目に見えるようにと人間を創造された、と言っても過言ではないでありましょう。また創世記2章7節によれば「2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と述べて、神の命の息そのものを吹き入れられているところに、命の源があることが証言されています。人の人格としての尊厳とは、神の息による命にあります。最も神に近く、最も神の尊厳と命を湛える存在が、わたくしたち人間存在であります。だからこそ、人格を凌辱したり、憎悪したり、侮辱したり、ましてや、その人格を否定するばかりか、神の息そのものである命を奪い取って殺してしまうことは、決して神は許しません。人間は誰であろうと、神さまの人格そのものを、また神のさまのお命をかたどって創造され、まさに神の存在を世に代わって神の御心を映すべき存在として、人間は世に生まれたはずです。そればかりか、世界に満ち満ちる生き物全体を管理統治する、という世界に対してとても重いしかもとても栄光と権威ある責任を担っています。

 

世界の統治と管理を担う人間が堕落すれば、世界の秩序は壊れ傷ついて、世界は痛みと悲しみに苦悩することになります。欲望に唆されて、神に背き、罪に堕落した人類の最初の子であるカインは、神さまの忠告を無視して、妬みと怒りの余り、兄弟アベルを殺して、アベルの命を奪ってしまいました。兄カインは、弟アベルの祝福を認め、受け入れ、共に喜ぶことができなかったのです。弟アベルの中に、神の息吹が溢れていることを認めることができませんでした。人間が世に生まれた以上は、誰にも皆、一つの例外もなく、神の命の息吹が漲り溢れています。ひとりひとりの中に、神が直接吹き入れられた命の息吹の尊厳を認めることができない、ということは、神を認めることができないことを意味します。神に背き、罪に堕落した人間は、実は既に心の中で、神を殺してしまっていたのではないでしょうか。神を殺してしまった者が、どうして、人間の中に神の息吹を認めて、その尊厳を敬愛することができるでしょうか。こうして、神への背き、率直に言えば、人間による神殺しは、具体的にこの世では、人殺しとなって、展開するのであります。ましてや、神を信じる者が人を殺す、などということは決してあってはならないことであります。宗教を理由に、信仰を理由に、人が人を殺すということは、決して許されないのであります。わたくしたちキリスト教徒の間でも、歴史の事実として、とても悲しいことですが、殺し合いが幾度も行われたことがありました。決して許されることではないし、そこには何ら弁明の余地はありません。しかし日常において、今もなお、殺人が絶えないことも、否めない事実であります。戦争もなくなりません。それどころか、戦争のために巨額な投資がなされているのも、現実であります。何と、人間は惨めで悲惨なのでしょうか。進化発展と言いながら、人殺しを決して止められないのです。これほどの知恵や知識をもちながら、人間の根源から愛することができないのです。その中心は、自分中心であり、自我欲求を生の基本原理としてしまった点にあります。しかし神は、隣人を愛するという戒めを通して、反対から言えば、殺してはならない、という戒めることで、人の中に尊厳の回復を求めておられるのではないでしょうか。キリストによる福音とは、罪が償われて、新しい命の尊厳を回復することにあります。この福音の上に堅く立つとき、私たちの中に、新しい行動変容が生まれて来るはずです。福音に堅く立つことに生涯を尽くし、福音のもとに生きようと、常に私たち自身の行動を吟味して愛に生きることが求められます。

 

問答105で「それゆえ、官憲は殺人を防ぐため剣(つるぎ)を携えています。」と付け加えられています。現実の国家制度の中で、官憲は殺すためにではなく「殺人防止」のために、人民を守るために、剣を携える、というわけです。近代国家の大半は、国家による殺人となる死刑制度を廃止しています。アメリカではおおよそ半分の州が、そして日本も死刑制度を国家の威信をかけて死刑制度を存続させています。そうでないと、重大な犯罪が増加する、と考えるからでありましょうか。大きな矛盾ではないかと思います。一方で殺してならない、と言い、もう一方では、殺すのです。どうすればよいのでしょうか。一つは、徹底した「人格としての教育」にあります。人格の尊厳をどうすれば尊重することができるのか、その尊さと道筋を丁寧に教えること、そして共に深く学び合うことにあります。理想論かも知れませんが、試行錯誤を繰り返しつつも、それに徹底する他に道はないように思います。日本の教育基本法が、その目的として、「人格の完成」を掲げていますが、その意義は計り知れない、と思います。人格としての完成を祈り求めること以外に、人類が救われる道はないのです。

 

このように、「殺してはならない」という戒めをめぐり、では、ただ殺さなければよいのか、という課題が生まれます。ハイデルベルク信仰問答106は、「では、この戒め(『殺してはならない』)は、ただ殺人についてだけ、語るのか。」と問い直します。そして、「殺人の禁止を通して、神が私たちに教えようとされることは、神は、殺人の根元となる妬み・憎しみ・怒り・復讐心を嫌い、そうしたことはすべて、神の御前で隠れた殺人となる、ということです。」と教えています。「神は、殺人の根元となる妬み・憎しみ・怒り・復讐心を嫌い、そうしたことはすべて、神の御前で隠れた殺人となる」と言い切っています。殺人の根元に、妬みと憎しみ、そして怒りと復讐心がある、と教えています。しかもこうした思いはすべて、密かなる殺人そのものである、と説いています。つまりハイデルベルク信仰問答は、殺人をさらに魂のレベル、人間の心の中の問題としてさらに深く取り扱おうとしているのです。先ほど紹介した創世記4章に、兄カインが弟アベルを殺す場面が登場します。人類最初の殺人事件がどのように引き起こされたか、その隠れた殺人のレベルについて聖書はこう記しています。「4:4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、4:5 カインとその献げ物には目を留められなかったカインは激しく怒って顔を伏せた。4:6 主はカインに言われた。「どうして怒るのかどうして顔を伏せるのか。4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求めるお前はそれを支配せねばならない。」4:8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」(創世記4:4~8)。意味深い点は、兄カインの怒りに対して、主なる神は、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と明確に、密かな隠された殺人を予見して、カインに対して、みことばを発して、カインの人格の中枢である魂尊に対して、人間としての尊厳と自由を根源から、問いかけている場面です。殺人という表面化する行為の前に、奥深く隠された魂による殺人をどのように防ぎ、また回避するか。それは、まさに人格の中枢である魂において、人格の根源から人間として尊厳と自由に覚醒することによる他に、道はないのであります。神はその人格の尊厳の回復をカインに求め、それによって殺人を回避し防ごうとしたのではないでしょうか。まさに「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」のです。ここには、人間の人格に対する神の強い信頼と希望が溢れています。神はご自分の像に似せて人間を創造し、しかもご自分の本質を意味する命の霊を鼻の中に吹き入れて、人間を生きた者となさいました。その神の像であり、神の命の霊である人間に深い信頼と尊重をもって、どうであれ、自立した自由な人格としての秩序ある決断を求めたのであります。残念ながら、カインは弟アベルの殺人を選択したのです。もはやそこでは人間の尊厳も自由もそして義も完全に破壊喪失していたのです。この人格的破壊と自由と尊厳、そして神の義の喪失を、後に神は御子キリストの十字架と復活を通して、贖罪し回復するのであります。わたしたちは、そのキリストの回復された新しい人間性のもとに生まれかわり、新しい創造の中に招かれており、神は永遠の力と愛とをもって、私たちひとりひとりの人格を完成へ今は導こうとしておられるのであります。

 

ハイデルベルク信仰問答は、問107でさらに「だが、そう言われるように、私たちが自分の隣人を殺さないことだけで、果たして十分なのか。」と問い続けます。当然、殺してはならないのですが、具体的に殺人を犯さなくても、或いは殺人者でなければ、それで十分なのか、と改めて、殺人を心の中の問題として、魂のレベルで執拗に問い続けています。そして「いいえ。第六戒で、神は、妬みと怒りに対して、死刑の宣告をしています。それゆえ、神が私たちに望まれることは、私たちが自分の隣人を自分自身のように愛し、隣人に、忍耐・平和・柔和・慈悲・親愛を示し、隣人に及ぶ損害を可能な限り防ぎ、私たちの敵にさえも、善行を尽くすことです。」と教えて、問答は、愛による善行へと導きます。ここで最も大切なことは、「愛」です。厳密に言えば、「愛の秩序」です。実は、熊野義孝先生は、教会を教会たらしめているのは「愛の秩序」である、と説いています。「不断に『愛の秩序』による謙遜と勇気にあって醇なる信仰告白の継承者たることを務めねばならぬ」(『熊野義孝全集』9「教会と文化」356頁)と、「愛の秩序」の意義を力説しておられます。教会を教会たらしめているとは、言い換えれば、わたくしたちキリスト者の存在を本質において決定づけているのは、「愛の秩序」である、ということになります。教会が教会として働き始める場、それは愛の秩序が働く場であり、私たちひとりひとりが、キリスト者として生まれ出る場、それが、愛の秩序が働く場である、というのであります。そしてその「愛の秩序」を根底から導くものが、「信仰告白」であり、謙遜と勇気をもってその継承者たることを求めておられます。熊野先生は、その直前で、この愛の秩序の中核を構成するものこそ、神の「受肉」であることを明らかにしておられます。つまり、私たちひとりひとりの命のただ中に、キリストの受肉がある、というわけです。それを謙遜にそして勇気をもって信頼し期待し認めるのであります。

パウロは「キリストを着る」と言いました。この「着る」(エンデゥオー)とは、「着る、包む、纏う、身に着ける」という字です。口語訳聖書で紹介しますと、その典型例は、「ガラテヤ3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」とパウロは言っています。また同じように「1Co 15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。死は勝利にのみ込まれた。」とも言っています。つまり「死と滅び」に運命づけられた人間本性が、「永遠の命」を纏った人間本性に変えられた、それは、キリストを着たことによる、ということになります。エフェソ書では「Eph 4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」と述べ、神にかたどって造られた新しい人を身に着けた私たちの姿が宣言されています。だからこそ、ついに「Col 3:12 あなたがたは神に選ばれ聖なる者とされ愛されているのですから、憐れみの心慈愛謙遜柔和寛容身に着けなさい。」とも語っています。キリストの受肉の身体と全く同じ一体の身体として、神に育てられ成長していくのです。神の愛による成長と育成のただ中に、私たちは生まれ、今そのただ中に生きているのです。だからこそ、熊野先生は、それを「不断に「愛の秩序」による謙遜と勇気にあって醇なる信仰告白の継承者たる」と仰せになられたのではないでしょうか。『殺してはならない』という神の戒めは、まさに大きなそして力強い神の愛の秩序の中で、キリストの身体として、受け止め直すことができます。私たちは、キリストと共に、キリストと一体の中で、この愛のもとで、新しい律法と向き合っているのです。だからこそ、ハイデルベルク信仰問答は「それゆえ、神が私たちに望まれることは、私たちが自分の隣人を自分自身のように愛し、隣人に、忍耐・平和・柔和・慈悲・親愛を示し、隣人に及ぶ損害を可能な限り防ぎ、私たちの敵にさえも、善行を尽くす」と言い切る、告白することができたのではないでしょうか。