2021年1月17日「まことの愛による家庭の平安」 磯部理一郎 牧師

2021.1.17 小金井西ノ台教会 公現後第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答108~109

十戒について(6)

 

問108 (司式者)

「第七戒(『姦淫してはならない』)は、何を言い表すか。」

答え  (会衆)

「淫らなことはすべて、神によって弾劾されます。それゆえ、私たちは不貞不倫を心から憎悪します。

聖なる結婚生活においても、また結婚以外の生活においても、慎み深く純真な生活をしなさい、

ということです。」

 

 

問109 (司式者)

「この戒めにおいて、不倫不貞やそうした醜態のほかに、もはや神は禁じないのか。」

答え  (会衆)

「私たちの肉体と精神とは、二つともに、聖霊の宮です。

それゆえ、神が望まれることは、

私たちが、この二つを汚れなく神聖なものとして、保ち続けることです。

したがって、神は、あらゆる汚れた行為、態度、言葉、考え、欲望を、

また人間を汚れへと唆すものは皆すべて、禁じるのです。」

 

2021.1.17 小金井西ノ台教会 公現後第2主日

ハイデルベルク信仰問答講解説教50(問答108~109)

説教 「まことの愛による家庭の平安」

聖書 申命記5章17~21節

マタイによる福音書5章27~32節

 

本日は、律法の十戒、その第七戒『姦淫してはならない』について、ハイデルベルク信仰問答より、みことばの解き明かしをいただきます。わたしたちは今、罪の破れと絶望の中で、神の戒めに向き合おうとしているのではありません。或いは、絶望と破れ、疑心暗鬼と闇の中で、神の戒めを聴くのでもありません。そうではなく、私たちは今、福音の豊かな響きの中で、希望と信頼に溢れて、神の愛と救いのみことばとして、戒めを聴くのであります。私たちは今、罪赦された喜びと復活とうい新しい命に溢れる中で、新しい希望と使命を受けて、神のみことばを聴くのであります。それは「律法から福音に至る」道を経て、今まさに「福音」の中にあって、「福音から新しい律法へと向かう」道のただ中に立っているのであります。そうした福音による希望と喜びの中で、本日も、第七の戒め「姦淫してはならない」を聴くのであります。ここに、本日のみことばを聴く、決定的な前提があります。

 

ハイデルベルク信仰問答は、問答108で「第七戒(『姦淫してはならない』)は、何を言い表すか。」と問い、「淫らなことはすべて神によって弾劾されます。それゆえ、私たちは不貞不倫を心から憎悪します。聖なる結婚生活においても、また結婚以外の生活においても、慎み深く純真な生活をしなさい、ということです。」と教えます。この問答108の答えで「淫らなことはすべて、神によって弾劾されます。」とありますように、まず自分の心を神さまに向けて、神の御前で、信仰的決断が迫られ、神との深い対話の中から、神への応答が導き出されます。つまり私たちは、まず神の激しい弾劾と断罪の前に、立たされます。

この「(神によって)弾劾されます」と訳した字(vermaledeiet:verfluchen)は、本来の意味は「呪う、呪詛する」という字です。竹森先生はその通りに「神に呪われている」とお訳しになっておられます。本当はそう訳すべきですが、わたしは怖くなってしまい「神に呪われている」とは訳し切れず、現代風に「断罪される」とか「弾劾される」と訳してしまいました。英訳でも古い字のaccursed という字で訳されており、「呪われた」という意味です。現代風には「告発される」という訳になるのでしょうか。用語の用い方からすれば、些細なことと思われますが、信仰をつくる筋から申しますと、とても大事な、信仰の基礎となるところです。

そこで少しこだわりをもって触れておきたい点が一つ、あります。それはこの信仰問答の「答え方、応答の仕方」であります。まさに、信仰とは、私たちの真実で誠実な心が神に向かうとき、初めてみことばが聞こえて来て、意味が分かり、そして決断が生まれ、神への応答という信仰生活が始まります。そして何よりも、みことばの向こう側には、神が厳かに現臨しておられるのです。信仰問答も同じでありまして、神のみことばによる「問い」に、心を誠実に向けて問いに「答える」という応答の形で、決断が迫られ神への応答となります。それが、信仰問答の「答え」となっています。まずその「答え方」に注目しましょう。問答の答えでは、いつもそうなのですが、まず、神がどのようにお考えなのか、明らかにされます。そしてそれから、わたしたちの応答としての信仰告白が言い表されます。つまり問答によって、私たちは、まず神の呪い、神の断罪と弾劾告発の前に立たされます。その神の呪いと厳しい弾劾告発の前に立ち尽くした所で、神の呪いと断罪を恐れて、「それゆえ」と今度は自分の「決断」と「応答」が迫られ、改めて信仰による応答として、私たちの信仰生活は引き起こされ、はじめらます。つまり神さまからの問いの中で、いつも私たちは「神の呪い」と向き合うことになる、というのであります。実はこの「呪われる」という字は、かつては「ニケア信条」の中でも用いられました。信仰を正しく言い表すことのできない者たちに向けて、「呪われよ」と宣言したのです。「信仰告白」は同時にまた「神の呪詛宣言」でもあったのです。今の教会では用いられてはいませんが、ハイデルベルク信仰問答も、そうした古い教会の態度を受け継いでいるようみ見えます。「神の呪い」というべき神の厳格な弾劾と告発の前に、私たち教会もそして人類もまた、いつも立たされ、決断と応答が求められているのであります。正しく信仰を言い表し、相応しく神に応答することで、神の呪詛から解放されるのですが、信仰を正しく言い表すことができなければ、相応しい応答ができなければ、神の呪詛の中に立ち続けることになります。そして思私たちが、慮を尽くした果てに、下した決断と応答を通して、神は新たな命の息吹を私たちの内に吹き入れようとなさっておられるのではないか、と思います。私たち人間は、ここで尊厳ある「人格」として、神の問いの前に立つのです。言い換えれば、神は「裁き主」として、同時にまた人間を心から信頼し尊重する「愛と信頼の神」として、親が子を思うように、みことばを通して「問い」の向こうに立っておられるのではないでしょうか。ハイデルベルク信仰問答も、したがって、そのように、私たちも厳しい「神の呪い」の前に立ち、人としての「人格の尊厳」を尽くして決断し、神への信仰をもって応答する。そうしたかかわりの中で、私たちの魂は、新しい神との人格関係に養われ、永遠の命と未来へと踏み出してゆくことになるのではないか、と想像できるのではないでしょうか。

 

本文の「それゆえ」(darum)という用語は、そうした経過敬意を伝えるものであります。実を言いますと、「それゆえに」と訳しましたが、直訳しますと「その神の呪いを避けて」とも訳すことができます。神の呪いの前で、私たちが誠実を尽くして決断し応答する。「その(神から呪われている)ことをめぐり」或いは「そのことを避けるために」決断と応答が迫られ、つまり神の呪いを避ける決断と応答により、その結果「それゆえ、私たちは不貞不倫を心から憎悪します。」という告白となり、「聖なる結婚生活においても、また結婚以外の生活においても、慎み深く純真な生活をしなさい」という覚悟に至ります。このように、意味深い点は、人間のあるべき形を説く「倫理」は、実は意味深いことに、「神の呪いを避ける」という深い人格的決断から生じています。「神によって弾劾告発され、呪われている」という所から、人格としての決断や応答が迫られ、新しい信仰的応答が生まれ、生きるべき倫理的道筋が構成される、というような考え方は、倫理の生まれ方としては、現代的な考え方からすれば、きっと厳しい批判に晒されることと思います。現代社会において今もなお「神の呪い」なのか、と場合によっては嘲笑されるかも知れません。しかし他方で、こうした人間の心の奥深い所で、神と人間との関係性が根源的な「原理」として現れているようにも思えるのです。理屈を超えた奥深い魂における「恐れ」であり、「畏れ」であります。

 

「淫らなこと」と訳していますが、一般的に言えば一夫一婦制を前提にした「性」的な不貞と不倫を意味するものと思われます。いわば「性」sexの乱れを意味する言葉である、と考えてよいと思います。ある意味では、「性」の領域は、所謂「理性」や「理屈」を超える、人間の生物としての最も奥深い行動原理を支配する領域でもあります。礼拝の説教としては、余談に聞こえるかもしれませんが、脳の領域で言いますと、前頭葉のように比較的新しい進化によって獲得された「理性的な知的領域」と異なり、「情動」反応を支配する大脳辺縁系よりもさらに奥深く、最も古く奥深い脳の層と密接に関与する領域と言えます。進化論では、人類進化の原理となる領域でもあります。進化の歴史において、多くの生物との比較において、人間が人類として命を繋ぐ意味から、性の選択的決断こそ決定的な意味を持つ、考えられています。そうした過程で、生存競争原理の中で、性の選択的決断のひとつとして婚姻制度も論じられます。しかし問題は、人類の長い体験的学習から、「神による呪いを避ける」という奥深い魂の決断原理がそこには働いていた、と理解することもできます。男女のスペクトラムをめぐるジェンダの問題も含めて、性や結婚の在り方をめぐり、上から下へ投げ下ろすように、その絶対値を形式的に決定づけることは、非常に困難なことであり不可能であって、いつも相対的で多様な判断が余儀なくされるものであります。

ハイデルベルク信仰問答の意味深い所は、決して最初から、いわば依って立つ出発点を、つまり性の乱れについて論ずる原点を、単に一定の時代や社会制度による規範に依存せずに、徹底して常に「神の呪い」と弾劾告発の前に立ち尽くす、という所から始めようとしている所にあります。つまり決して形式的に、また人間の自我欲求から出発するのでもなく、ましてや一定の時代や社会の制度慣習を絶対化するのではなくて、「神の呪いをめぐって」を性の選択的決断に対する規範原理とする点です。少なくとも自分自身の「性」をめぐり、選択的決断の基本原理を判断するうえで、私自身としての立つべき基本原理は、まさにこの「神の呪い」を畏れ(恐れ)回避する所にあると考えています。既存の社会制度を形式的に規範原理とすることはできないのです。聖書の中でも、アブラハムの子孫繁栄の祝福をめぐりサライ(サラ)とハガルは深刻な苦悩を分かち合い(創世記16章)、終末を予期したパウロの独身主義に至るまで、時代や状況において、非常に多様であります。神の呪いを回避する、言い換えれば、どうすれば「神の御心」に適い、「神の祝福」を受けられるのか、という「神の呪い(祝福)」原理から、すべてを展開させようとしているように見えます。ですからハイデルベルク信仰問答も、神の呪いを回避するという原理から、つまり神の祝福を受けることができなくなるような、不貞不倫を憎悪する、と告白しているのではないか、と思われます。原典の文章表現からすれば、ドイツ語のよくある些細な用法ですが、その意味する所からすれば、とても意味深い原理を窺い知ることができるのではないかと思います。

 

さて、神の呪いを避けて神の祝福に至る道筋という原理に基づいて、神の前で下す決断と応答でありますが、問答108はその答えで「聖なる結婚生活においても、また結婚以外の生活においても、慎み深く純真な生活をしなさい」と答えています。ここで注目したいのは「聖なる結婚生活」と言い、「慎み深く純真な生活をする」と言い切っています。問題は、何をもって「聖なる結婚」となし、「純真無垢な生活をする」とする根拠は何か、という点です。結婚制度があるから、結婚していれば、その男女はそのまま「神聖」となるのか。結婚制度に守られているので純真無垢と言えるのか、改めて疑念が生じます。人間が作る制度や形式も大事ですが、それ以上に、私たちが心を目を向けるべきことは、神さまによって聖とされる「神聖さ」であり、神さまからいただく「純真無垢」にあるのではないでしょうか。私たち自身が、純真無垢なのではないのです。ましてや、私たち自身が神聖であるはずがないのです。ではなぜ、「聖なる結婚生活」と言ったのでしょうか。ではなぜ、「慎み深く純真な生活をする」などと言えるのでしょうか。

その決定的な答えが、問答109です。問答109は「この戒めにおいて、不倫不貞やそうした醜態のほかに、もはや神は禁じないのか。」と問い、「私たちの肉体と精神とは二つともに聖霊の宮です。それゆえ、神が望まれることは、私たちが、この二つを汚れなく神聖なものとして保ち続けることです。したがって、神は、あらゆる汚れた行為、態度、言葉、考え、欲望を、また人間を汚れへと唆すものは皆すべて、禁じるのです。」と告白します。問答を告白する者は、誰でも、その命と体の内に、即ち私たちの肉体と魂とのうちに、「聖霊」を宿しており、私たちの身体そのものが、そのまま即、厳粛な「聖霊を宿した聖霊の神殿」である、と宣言しています。つまり、結婚生活が「神聖」とされるのも、また私たちが「慎み深く純真な」生活をすることができるのも、実は神が、私たちの身体そのものを「聖霊の神殿」となさったからだ、というのであります。だからこそ「聖」であり、だからこそ汚すことは直ちに呪われることを意味するのではないでしょうか。性sexの生活そのものよりも、性を担う人間本体、その魂と肉体そのものが神の賜物であり、聖霊の宮であることに、目を向けています。さらに言えば、神の決定的な関与であり、神の生きた現臨がそこにあるからであります。

 

ここで改めて、私たちの肉体と精神が、すなわち身体が問題となります。神の御子イエス・キリストは、私たちと全く同じ魂と肉体を受けて受肉し、その受肉の身体と精神とをもって十字架にかかり、復活し、天に昇られました。その「キリストの身体」が大きな意味を持ってきます。「教会」はキリストをかしらとする「キリストの身体」であります。教会とは神によって召し集められた私たちひとりひとりであり、私たちひとりひとりの身体こそ、キリストをかしらとする「キリストの身体」でもあります。キリストは、その私たちの肉体と魂をご自身の人間本性として背負い、そのご自身の肉と血とによって罪を完全に償い、贖い、復活して、天に昇り、父の右に座しておられます。そのキリストの身体こそ、私たちの身体の「本体」であります。キリストの身体の肢体(えだ)とは、そういうことでありましょう。そこには、キリストの霊である聖霊が満ち満ちています。キリストの身体には、復活による永遠の命と聖霊とが満ち満ちており、わたしたちは日々、みことばである説教と聖餐(ミュステリオン:秘儀、カトリックでは「秘跡」東方では「機密」・プロテスタントでは「聖礼典」の一つ)を通して、その霊と体をわが身体としていただき、肉体も魂もそのみことばによって養われいます。このことにこそ、決定的で重大な意味があります。いわば「キリストの身体」であることを前提にして、それを根拠根源として、私たちは、初めて「神の呪い」とその厳しい弾劾告発を回避することができるのです。それどころか、ただ回避するのではなくて、神の御子イエス・キリストの身体そのものの内に、新たに生まれ変わり、新しい血と肉そして聖霊によって永遠の命へと養われるという現実のもとに、生かされ生きています。したがって「結婚」も、このキリストの身体としての営みの中での結婚であり、キリストの身体の中に設けられた家庭であり家族であります。そうした意味から、社会制度としての結婚ではなく、カトリック教会、東方教会、聖公会も「キリストの身体」における「結婚」を「聖礼典」(ミュステリオン「神の秘められた救いと完成のご計画」の秘儀)の一つとして堅持するのではないでしょうか。プロテスタントでは「結婚」をサクラメント(ミュステリオン:聖礼典)に数えませんが、数えなくても「キリストの身体」としての新しい命の営みであることに、違いはありません。神は、呪うどころか、神はその独り子を私たちの罪の償いと新しい永遠の命のために与えてくださいました。その御子のお身体を私たち今着て纏っているのです。洗礼も聖餐も共に、御子のお身体を着ること、御子のお身体に養われることですが、「性」sexをめぐる生活も含めて結婚生活の一切が、全く同じように、御子のお体を着て御子の贖罪と復活のお身体に養われる営みなのです。だからこそ、「神聖な神の神殿」と呼べるのであります。慎み深く純真な生活となるのは、キリストの裂かれた肉と流された血のゆえであり、聖霊によって新たに生まれ創造されてゆくからであります。もし仮りに私たち人間の側から答えられるとすれば、或いは答えるべきことは、ただその身体を感謝と喜びをもって大事にする、ということに尽きるのではないでしょうか。何か特別に立派なことや清い生活をすることではなくて、日々精一杯「キリストの身体」とその養いを大切にすること、すなわち教会員としての信仰生活をまず大事にする、ということになるのではないでしょうか。主の日における神の礼拝を怠らずにみことばに与り続ける、キリストの身体として生き養われることです。すでに問答103で学びましたように、「わたしが、熱心に神の教会に通い神のみことばを学び聖礼典にあずかり、神に憐れみを公に祈り求めキリストの教えに基づいて施しをすることです。次に、神が求めることは、わたしが、全生涯を通していつの日も悪しき働きを捨て神が聖霊を通してわたしのうちにお働きくださるよう身を委ね、この生涯において永遠の安息日(あんそくび)を始める」ということに尽きるのではないでしょうか。

 

本日の説教題を「まことの愛による結婚生活の平安」といたしました。結婚生活で最も重要なことは「愛」であり「平和」であります。神よりいただく真の愛と真の平安であります。そこでさらに大切なことは、夫婦が互いに結婚する前に、其々が共に、神の御子キリストの十字架と復活のもとで、キリストの身体として結ばれている、という点にあります。キリストの名によって教会で結婚式を挙げる、ということはそういうことであります。カトリックでは結婚式でも葬儀でも必ず「聖餐」が執行されまが、それは「キリストの身体」として養われる営みの中に結婚も死もあることを示すことであり、決して否定すべきことではないと考えられます。家庭にこどもが生まれるとは、キリストの子として其々の家庭が「神の家族」として生まれることです。いわば、その家庭は、キリストの家族であり、キリストの家庭として、キリストの身体としての永遠の生の営みを始めることを意味します。だからこそ、永遠の愛を信じ永遠の平和を祈り求めることができるのであります。わが子可愛いとする思いを遥かに超え、好きで惚れた情愛を遥かに超えて、キリストの家族として、キリストの愛をもって互いに愛し、キリストの平和をもって、互いに平和な家庭を担うのであります。それがキリストの身体としての家庭であり、結婚であります。

 

第七戒をめぐり、ハイデルベルク信仰問答から三つのことを学ぶことができます。特に問答104で「私たちを彼らの手を通して統べ治めることを、神が望まれる」と教えられました。神さまの御心は、所謂「他者」が、自分の前に自分の「隣人」として差し出されることで、明らかに、自分以外の人格の尊重を通して、神の真理、神の愛、神の義を深く学び、そればかりか、神の似像として自分の人格を豊かにそして確かに成長させてくださる、ということがよく分かります。父や母、兄弟、そしてわが子、夫や妻というさまざまな人格と触れ、共に生きることを通して、人間であることの尊厳と真価をいよいよ深く知り、学ぶ。試行錯誤を繰り返しながらも、その意義を一層豊かに噛みしめるものです。自己中心で他者を自我欲求や自己実現のための道具として利用する、という考え方を捨てて、他者を愛し他者のために仕え働く、という愛を学ぶことを、人格の尊さとして、神は私たちに教えられます。

前回ご紹介した熊野義孝先生は、わたしたち人間の近代現代社会における誤った考え方、そうした近代主義の特徴は「主観化の原理」にある、と論じています。すべての精神、文化、社会の活動を「自我の自由な人格性の展開のための手段とみなす哲学」にある、と指摘します。熊野先生はこうした近代の哲学を「自我哲学」と総括し、近代のキリスト教信仰さえも、この「主観化の原理」、或いは「自学哲学の領域内」に見出そうとする点に、大きな誤りがある、と指摘されておられます(「教会と文化」338頁)。キリスト教会とキリスト教信仰の根本課題は、いかにかして、この「主観化の原理」「自我哲学」から解放されることにあります。それはまさに直ちに、まず私たち「教会」自身から、「キリストの受肉体」としての身体を回復することではないでしょうか。自らの身体をもって、愛の身体、贖罪の身体、そして復活という永遠の命に溢れたキリストの身体であることを想起することにあります。この「キリストの受肉の身体」である教会をもって、世に対する贖罪と復活の場とするのであります。そこに「愛の秩序」を獲得する場が生まれるのではないでしょうか。

「父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」とは、まさに、神が自分のために差し出し給う隣人として他者と出会うことであり、神より賜る隣人として他者を愛し、他者のために仕えることで、初めて愛することを学び始めることができます。しかし、さらに大切なことは、ただ自分が他者を愛することを学ぶのではなくて、「他者から愛される」という現実も、学ぶことができるのです。自分が他者のために仕えることと同時に、他者こそが自分のために仕え働いてくれることを、そして何よりも、他者の罪を赦すこと以上に、どれほど他者によって自分の罪が償われ、贖われ、赦されているかを、深く学ぶのであります。言い換えれば、ひとりのキリストの身体の肢体としての尊さ豊かさを、贖罪と復活の喜びを、霊肉共において学ぶのであります。そうしてついに、他者を愛すべき隣人として深く感謝して、認め、受け入れ、信頼することを学ぶのであります。こうして問答109の教える通り「私たちの肉体と精神とは二つともに聖霊の宮です。それゆえ、神が望まれることは、私たちが、この二つを汚れなく神聖なものとして、保ち続ける」のです。私たちは、この義を、いよいよ深め、確かにするのであります。