2021.10.24 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第23主日礼拝
ヨハネによる福音書講解説教21
説教「渇いている人は、だれでも、わたしの所に来て飲みなさい」
聖書 エゼキエル書47書1~12節
ヨハネによる福音書7章37~39節
聖書
ヨハネ7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。
説教
はじめに. 「神」を慕い求める飢え渇きの中で
八日間続いた仮庵の祭りの間、おそらく主イエスはずっと神殿に通い、聖書の解き明かしを続けておられた、と思われます。イエスさまは聖書を解き明かして「神の啓示」を語り告げることを祭りが終わるまで決して止めることはありませんでした。ヨハネ福音書7章37節にありますように、主イエスの神殿での説教は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」という、とても強い「呼びかけ」のみことばであり、「神の招き」でありました。「渇いている」とは、どういうことでしょうか。何に、飢え渇いているのでしょうか。言うまでもなく、「神」を慕い求める飢え渇きであります。神の真理に飢え、神の愛と憐れみに渇き、神による命に飢え渇くことであります。先週の説教との関連で言えば、「7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」という根源的な神を求める問いであります。聖書を与えられ、骨身になるほど聖書の言葉を覚えているユダヤ人でも、主イエスによる正しい聖書の解き明かしが直接なければ、真の神と出会い、神を知ることは出来なかったのです。このみことばの主題は、あくまでも「神」と出会うための飢え渇きであります。是非注意したいことは、私ども日本人には、どうしても聖書を主観的に感情的に、自分の感情の欲求を満たしたいというだけで、聖書を読もうとする癖があります。つまり自分の感情欲求からこのみことばを聴こうとしてしまうのです。その結果、本来の「神」抜きに、「キリスト」抜きに、主観的な感情に支配されたまま、聖書を読もうとしてしまうのです。そういう自分の感情欲求だけで、聖書をいくら読んでもまた教会に通っても、実は本当の意味で「神」に出会うことはできないのです。なぜなら、神と出会うことと、自分の欲求感情を満たすこととは本質的に異なることだからです。それを「渇く」というと、日本人はすぐに「神」を抜きにして、自分の感情的欲求を中心に渇きを満たそうとするからです。これは所謂「承認欲求」と「信仰義認」と混同してしまう誤解にも通ずることで、常に「神さま抜き」で、神さまのことはわかんない、でも「自分の気持ちや欲求」で、聖書を読み教会に通う、場合によっては、奉仕さえも「神抜き」に求める癖が出てしまうのです。ですから、改めて申しますが、神さま抜きで、自分の感情的欲求を満たすための「渇き」ではない、ということを慎重に覚える必要があるようです。心の中で先ず、真実に神を求め、神を認めて、神を受け入れる渇きであることを分別したうえで、説教をお聞きくださるとよいと思います。あくまでもこれは「神」を捜し求め、「神」を慕い求める者の話なのです。
1.エゼキエルの預言から
主イエスの聖書の解き明かしは、詳細は分かりませんが、もしかするとエゼキエル書に触れる説教ではなかったかと思われます。なぜなら、主イエスはわざわざ「聖書に書いてあるとおり」と言われておられるからです。預言者エゼキエルは「47:1 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。47:2 彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。(中略)47:9 川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」という有名な預言を残しています。エゼキエルは、言わば、神とその命の恵みを、神殿から流れ出る川に喩えて、神による新しい命の祝福を預言した、と考えられます。そしてこの預言はイザヤの希望の預言にも通じており、「12:3 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。」とありますように、神がイスラエルを命の祝福をもって満たす喜びと感謝を表しており、神への栄光と讃美の歌であります。しかも盛大な仮庵の祭りでは、こうした聖歌隊の豊かな讃美の中で、祭司が神殿に湧く水を汲み取る儀式が行われていたようです。したがって仮庵の祭りのただ中で、祭司が神殿の水を、おそらくはシロアムの池の水を汲み取る儀式を背景にしながら、主イエスは聖書の解き明かしを行っておられたのではないか、と推定することが出来ます。問題は、単に祭りの儀式として神殿の水を汲み取ることではなくて、二度と渇くことがないように永遠の命を齎す真の神と出会い、真の神の命の祝福にあずかるのだ、と主イエスは人々をご自身における「神」へとお招きになられたのではないでしょうか。儀式を繰り返すことと、生きて現臨する神の祝福に実際に与ることとは本質的に異なる現実があるのです。ここで、決定的な意義ある働きをするのが、「受肉のキリスト」である主イエスご自身において、「神」は「わたしはある」という名において現臨し、「神」ご自身が「受肉のキリスト」の語るみことばにおいてその真実を啓示し、解き明かしておられることにあります。決定的なことは、このキリストの現臨とその語るみことばにおいて、初めて人々は真の「神」と出会い、真の命の祝福に与ることにあります。
2.渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい
主イエスは、愛と憐れみをもって「7:37渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と仰せになって、人々をお招きになりました。ただ、この主イエスが仰せになったみことばの本当の意味をもう少し丁寧に考えてみる必要があります。私たちの欲求が満たされることだ、と短絡的に受け取るのではなくて、むしろ主イエスがお求めになる本当の意味を、正しい理解を主の真意に即して辿り着くことが大事です。既に見て来た通りですが、こうしたイエスさまの憐れみと神への招きは、既にサマリアの女との対話の中で、ご自身が神のメシアであると告げ知らせる啓示の言葉の中に見られます。4章13節以下で「4:13この水を飲む者はだれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」とお教えになり、女を主イエスのもとにお招きになりました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とは、「ヤコブの井戸」から命の水を汲み取ろうとする、即ち「律法の遵守」を通して「神」に出会い、神の命の祝福を受けようとする、所謂「律法」主義のもとにあるユダヤ人たちを指しています。しかし残念ながら、いくら律法の中に救いを求めても、それでは増々罪に破れ、罪を重ね続けことになり、底なしの罪責の中に堕ちるばかりで、真の神の前に祝福を受けることはできない、と主は女に諭しました。すると、女は主イエスに「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と応じます。そして最後に、主イエスは女に「4:21婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と説きます。主イエスは、あなたとわたしが共に向き合っている今ここが、もうすでに「真の神」の前に立ち、真の神と出会い、生きた「神」を礼拝している、その時は既に来ている。なぜなら今この「わたし」において、あなたは「神」の前に立ち、既に神に愛と赦しに招かれている、と告げたのです。すると、女は主イエスに「4:25わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と応答しました。その人のうちに湧き溢れ流れ出る永遠の命の水とは、主イエス・キリストにおいて、主イエス・キリストを信じて受け入れることを通して、今ここで汲み取ることが出来る、と主イエスは教えたのです。渇くことのない命の泉から汲み取ること、それは即ち、主イエスにおいてまた主のみことばにおいて「神」の前に立ち、神と出会い、神の生きた命の祝福に与ることを意味したのです。
3.わたしがそれである(わたしはある)
主イエスは、このようにご自身が真の「神」のメシアであり、真の神のみこころを実現し行うために「わたし」をお遣わしになれたのだ、という言い方で、主イエスご自身における「神」を女にお示しになられたわけです。そればかりか、主イエスは加えて、神を「父」と呼びご自身を「子」と呼ぶことで、父も子も同じ同一本質の「神」である、と言い表しました。親がライオンであれば子もライオンであるように、父が神であれば、言うまでもなく、子も同じ神であります。主イエスは「わたしをお遣わしになった方」或いは「父」という言い方で、主イエスはご自身における「神性」を、或いは「神」であるご自身の本質を表明されたのですが、もう一つ、さらに重要な言い方で、主イエスはご自身における「神」を言い表します。それは、先ほどの4章26節に既に現れていました。主イエスはサマリアの女にこう仰せになりました。主イエスは「4:26それは、あなたと話をしているこのわたしである(VEgw, eivmi( o` lalw/n soi))。」と告げて、ご自身が神のメシアであることを明らかにしたのです。この主イエスの表明で最も重要なことは「わたしはある、わたしは~である(VEgw, eivmi)」という言い方です。邦訳のように「それ」という文字そのものはギリシャ語原典にはなく、「わたしは(evgw,)」という一人称単数主格と「ある(eivmi)」という能動形一人称単数現在の動詞に、後から「あなたと話しているその人(o` lalw/n soi)」という男性単数主格定冠詞と男性単数主格の直接法能動形現在分詞による句が続きます。直訳しますと「わたしはある、即ちあなたと話しているこの者である」という意味になります。これはギリシャ語の表現ですが、この元となったギリシャ語表現は「七十人訳」旧約聖書に遡ります。それも旧約聖書出エジプト記3章13節に遡る用語であります。それは「神」を言い表す神のお名前の定型表現として現れます。エジプト脱出の折りに、神はモーセを出エジプト脱出の指導者として立てますが、そこでモーセは神にこう尋ねます。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」と記されています。言い換えれば、モーセに対して、「神」ご自身は「わたしはある」というお名前でご自身の存在を現わし啓示された、と言えます。ヘブライ語原典では「ハイヤー」という字ですが、これをギリシャ語の七十人訳旧約聖書は「わたしはある」(VEgw, eivmi)という字で、訳しました。ヨハネによれば、その「わたしはある(VEgw, eivmi:エゴー・エイミ)」という言葉を、そのまま、主イエスご自身は「神」であることを言い表すお名前として用いておられるのです。ヨハネによる福音書によれば「6:35わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」「6:48 わたしは命のパンである。」「6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」「8:12わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」「11:25わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」「14:6わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」「15:1わたしはまことのぶどうの木で(あり)、わたしの父は農夫である。」「15:5 わたしはぶどうの木で(あり)、あなたがたはその枝である。」と主イエスはご自身を言い表しておられます。これらは皆全て「わたしはある(VEgw, eivmi)」という同一の定型句によって貫かれており、主イエスは、ご自身における「神」を自己啓示するための象徴用語としてお使いになっておられます。極論すれば、出エジプト記において、主イエスは、モーセに「神」がご自身を啓示されたその「神」のお名前「わたしはある(VEgw, eivmi)」を、そのまま用いて、ご自身が同じ「神」である、即ち「わたしはある」と自己表明されたことになります。「律法」という文字や規則の中に、いくら生きた真の神を求めても、決して得られるのではなく、「わたし」すなわち主イエスというお方においてこそ、神は初めて求めることが出来るのであり、主イエスにおいてこそ、初めて真の生ける「神」に出会うことが出来、主イエスにおいてこそ、初めて力ある神の救いのわざに与ることが出来る、と告知したのです。7章37節以下にありますように「7:37渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言われました。完全な神による命の祝福は、「わたしのところに来て飲む」ことで見出され得られるのです。それは無限に湧く泉のように川となって流れ出すのです。なぜなら、主イエスにおいて、真の「神」は啓示され、しかも主イエスにおいて「神」は生き生きと現臨しその御心を行われるからであります。
4.父、子、そして聖霊としての「三位一体の神」
最後に、本日の聖書テキストで、読み解くのに最も困難に覚える箇所が、7章39節の「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」というみことばではないかと思います。これは、おそらくは主イエスが4章23節以下でサマリアの女に告知されたみことばに関連づけられるのではないか、と考えられます。主イエスは「4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と女に啓示しておられました。
これを聞いている人々の側からすれば、主イエスにおいて「神」が到来している、ということさえ、まだ受け入れることができないでいるわけで、しかも、その主イエスが十字架の上で贖罪の死を遂げ栄光の復活をなさり天に昇られる、という主イエスのご自身の「栄光」についても、人々には全く理解することができなかったはずです。それなのに、さらに加えてまた、今度は主イエスに代わる「別の弁護者」として「聖霊」が遣わされ、その聖霊において、「神」は現臨しご自身を啓示されて、いよいよ最後の救いの完成が実現する、ということまでは、到底理解できることではなかったと思います。当然ながら、12人の弟子たちにしても、イエスが「神」であり、しかも神の御子が、マリアから受肉したお身体において、民の贖罪のために十字架でご自身を献げ死んで三日目に復活することさえも、到底受け入れることが出来ない神のご計画であったはずです。ましてや「聖霊」がさらに降るというもう一つの新しい神の現臨の仕方と啓示を信じて受け入れる、などということは全く理解出来なかったのではないかと思われます。おそらくヨハネは、使徒として生涯を尽くし最後までこの真理を理解することに、この啓示の真理を探り求め、葛藤しながら深く苦しみ続け、追いかけて来たのではないかと思われます。そしてヨハネとその教会はついに、神が「父」としてまた「子」としてそしてついに「聖霊」として、すなわち「三位一体の神」として、「神」ご自身を啓示してくださり、自分たちのうちに常に永遠に現臨し続け、しかも永遠の命に至る完成に導き養い続けておられる、という救いの現実を悟るに至ったのではないか、と思います。まさに渇くことなく永遠に湧き出る命の泉は、このわたしの内にこんなにも豊かに流れ出し溢れ出ていることを悟ったと考えられます。それはまさに父と子と聖霊の神において現臨し、父とキリストを通して注がれる聖霊において生きて働く神を体験したからではないでしょうか。そこで、ヨハネはようやく福音書を書くことが出来るようになったと思われます。そうしたヨハネの思いが、この7章39節には滲み出ているように見えます。ヨハネは、主イエスにおける神を探り求め続けながら、主イエスのうちにその本質に触れるまで奥深くまで入り込むようにして、主イエスのみことばにおける神の啓示を探り求め続けていたことがよく分かるのではないかと思います。主イエスのみことばにおいて、いよいよ深く神の本質に迫ろうとするヨハネの熱い信仰の思い、そして聖霊において生きた命の泉が湧き出るように流れ出ている恵みと喜びが伝わって来ます。しかしそれは、私たちも全く同じことではないでしょうか。私たちも日々、主のみことばにおいて、生きて現存する神と深く触れ合い、その生きた交わりの中に、新しい永遠の命を汲み取り続けているからであります。