2021年12月19日「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 磯部理一郎 牧師

 

2021.12.19 小金井西ノ台教会 待降節第4主日(クリスマス)礼拝

ヨハネによる福音書講解説教29

説教 「言は肉となって、わたしたちの間に宿った」

聖書 ルカによる福音書1章26~38節

ヨハネによる福音書1章14~18節

 

 

聖書

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 

 

説教

はじめに. 「伝統」を謙遜に覚えつつ、相応しく神の御子を宿すクリスマスを迎えましょう

神の御子、主イエス・キリストのご降誕を迎えました。クリスマスの礼拝であります。私ども日本のプロテスタント教会でのクリスマス礼拝は、教会によって異なりますが、この小金井西ノ台教会のように、待降節第4主日の日曜日にクリスマス礼拝を行うと定めて、クリスマス礼拝を実施する教会が多いようです。本来、クリスマス礼拝では、三重の誕生の喜びを覚えて礼拝がささげられます。ご案内の通り、伝統的な教会の典礼規定では、クリスマスは12月25日と定められております。25日と申しましても、キリスト教では一日の始まりを「闇」から「光」へと数えますので、クリスマス礼拝は24日日没に始まり、神の御子の永遠の誕生を覚え礼拝します。次いで25日0時の真夜中に、永遠の神の御子が聖霊により処女マリアの胎内に受肉し人の子として生まれた御子イエス・キリストの誕生を覚え礼拝します。そして25日明け方になると、受肉し世に到来した神の御子イエス・キリストを迎えた世界が新しい世界として生まれ変わったことを覚え、荘厳にそして高らかに、教会の鐘を鳴らして喜び祝います。

このような伝統的なクリスマス礼拝を振り返りますと、改めてクリスマスの意義を学び直すことができます。礼拝のかたちそのものが、日没の礼拝では、「三位一体の神」の一位格(persona)として神の御子が永遠のもとに生まれていることが、はっきりと指し示されています。さらに真夜中の礼拝では、永遠の神の御子が聖霊により処女マリアから「受肉した人の子」としてこの地上に誕生したことが宣言され、神の御子イエス・キリストは「真の神」でありかつ「真の人間」であることを明らかにしています。「神人両性のキリスト」の信仰を告白して受肉のキリストに礼拝がさささげられています。そして夜明けを迎え、受肉した御子イエス・キリストの贖罪と復活によって、人類を初め世界万物が新しく生まれ変わったことを覚えて祝い、御子の栄光と勝利の讃美の鐘が高らかに世界中に響き渡ります。こうしてクリスマスの礼拝を通して、神の救いが、新しい万物の誕生と新生の完成として、高らかに宣言されるのです。このようにクリスマス礼拝の形は、そのままニケア信条の三一神やカルケドン信条のキリスト両性論などの信仰の基本原理を鮮やかに映し出していることがよく分かります。つまり礼拝の形から、私たちは信仰の基本を受け取ることが出来るのです。

教会の古い言葉に、“Lex orandi, Lex credendi”「祈りの法則、信仰の法則」という言葉がありますが、これは、礼拝の形式と信仰の定義の関係を言い表わす定式と言われています。元々は「恩寵の先行」を著した書物(Prosper de Aquitania; Indiculus de gratia Dei『恩寵論』)に依るのですが、やがて礼拝の伝承形式は、言語化され定義される教理や信仰よりも先行しており、礼拝の形から神学教理は示唆される、とする礼拝学上の定式を表す言葉となりました。まさにクリスマス礼拝は、受肉のキリストを中心にして、ニケア信条の三位一体論やカルケドン信条のキリストの神人両性論を、とてもよく映し出しているように見えます。礼拝を「形」として正しく守る、ということは、すなわち信仰を「教理」として正しく受け継ぐことでもあるのです。したがって礼拝の「形」が曖昧になり恣意的になって崩れますと、当然ながら、正しい「信仰」の筋も崩れてしまうことになる、という警鐘でもあります。クリスマス礼拝を「形」として正しく守るということは、クリスマスの信仰と喜びを正しく受け継ぐということでもあり、とても意味深い、大切なことだと言えます。

待降節に入り、4本の蝋燭の火を一本一本と灯しながら主の日を迎えるごとに、悔い改めをいよいよ深くし、いよいよクリスマスの喜びと信仰を鮮やかにして、24日の日没を迎える、ということには、信仰を相応しく整え備えてゆく大切な道筋が示されているように思われます。礼拝を重ねてゆくごとに、信仰の火は灯され、神の真理も明らかにされてゆくからです。わたしどもプロテスタント教会の特徴は、神秘主義的分派は別として、言語化された「信仰」を厳密かつ純粋に、特に聖書に記された言葉を堅く守ろうとする所に、その特徴があります。それは、聖書原理・信仰義認・万民祭司という宗教改革の原理が生きているからです。しかしそれが余りにも行き過ぎて「主観化」し「独善化」しますと、いつの間にか、信仰は「自己」中心の解釈に偏重してしまい、ついには、本来は神の信仰であるはずの信仰が「自己主張」や「自己正当化」を満たすための道具に変質してゆき、ついには宗教を利用した「自己絶対化」を引き起こしてしまいます。いわゆる主観と独善の偏重は、本来の神を見失い、自己絶対化の偶像になってしまいます。そういう意味から言って、伝統に従うという謙遜の中で礼拝の形を守り、聖書の言葉を従順に読み聞く、ということはとても意味深いことです。プロテスタントという大きな広がりの中では、極端な場合は礼拝の形や教会の制度や教理がなくても「自分の信仰」だけでよい、とするグループもあるようですが、そうなると、最早キリスト教の定義が失われ、偽キリスト教となってしまうのではないでしょうか。或いは、万民祭司論を誤解して、自己中心の個人主義に傾く余り、自分の信仰に合わないから、教会を変える、ということにもなります。いったいのその基準は何なのでしょうか。そうした意味で、伝統伝承を謙遜に受け継ぐことの意義を先ずここでは覚えておきたいと思います。それが、クリスマスを正しく迎える一つの備えになるのではないでしょうか。

クリスマスの礼拝で、一番中心となること、それは、永遠の神の御子を、マリアから受肉したキリストとして、わたしたちのうちに、相応しくそして正しく信仰において、迎え入れることにあります。大切なのは、あくまでも、永遠の神の御子を受肉のキリストとしてお迎えすることにあります。当たり前のことですが、誰々さんに久しぶりに会える、お食事会のご奉仕や会食が楽しめる、自分を認めてもらえる場がある、ということは、あくまでも副次的なことであって、礼拝の目的ではありません。礼拝者のひとりひとりが確実に御子を迎え、御子を受肉のキリストとして信仰によって自分のうちに宿すことにあります。

 

1.「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」

先週の待降節礼拝では、ヨハネによる福音書から「1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とのみとばを聴きました。神さまは、神の御子を「世を照らす光」として、世に遣わされましたが、いったい、どのようにして、私たち人類を照らそうとなさるのでしょうか。今日は「世に来てすべての人を照らす」という救いの道筋について、みことばをお聴きしてまいります。ヨハネによる福音書は「世に来てすべての人を照らす」という9節の言葉を、14節では「1:14 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」と言い表しています。同じ14節をリビングバイブルで紹介しますと「1:14 キリストは人間となりこの地上で私たちと共に生活なさいました。彼は恵みと真実の方でした。私たちはこの方の栄光を目のあたりにしました。それは天の父のひとり子としての栄光でした。」と訳しています。新共同訳との違いは、「言」を「キリスト」と、はっきり言い換えており、また「肉」を「人間となる」と言い、「宿られた」を「この地上で私たちと共に生活なさいました」と訳しています。つまり、神の「言」が、世界の救世主万民の王である「キリスト」として遣わされ、しかも、それは「人間」となられることによるのであり、わたしたちの世に来られ共に生活なさった、という訳です。神さまの御心からすれば、私たち人類と共に、この地上で「死老病生」の生活をしなければ、ただ生と申しまして実態は「生」ではなく、生まれた時から「死と滅び」を本質とする生でありますが、神の救いとはまさに私たち人類を宿命的に支配する死老病生から根源的に開放するご決意をなさった、ということでありましょう。クリスマスの本当の趣旨は、神の言が人間となり、人間のただ中に入り込み、人間の本性を中枢から支配する宿命的な死老病生の全てを背負い尽くしてくださる、という神のみわざにあります。天にいます神の言がキリストとして地上に降り「人間になる」のでなければ、私たち人間を根本から救う救いは実現できない、とお考えになられたのです。したがってクリスマスの出来事は、神の人類救済のわざそのものである、ということになります。つまりクリスマスは、永遠の神の御子が徹底的に人間になり、人間と共に日々の暮らし中におられ宿られたとする「神の受肉」に集中する出来事です。神はどこにおられるか、と言えば、天であると言いたい所ですが、そうではなく、実は日々日常の人間生活の中にこそ「神」がおられるのです。しかも神はこの地上で私たちを救う愛の「神」として共に暮らしておられるのです。神の御子が処女マリアの胎内から受肉して、人間本性の全てを引き受けて担い、共に生き暮らすのです。私たちが宿命的に背負う死老病死という肉の中に、この肉体の中に、永遠の神の御子が「キリスト」(救い主)として共に生活しておられる、そこにクリスマスを迎える急所があります。

よく「神」と出会う、という言い方をしますが、それはいったいどういう意味でしょうか。本来、神は「無限」であり、人間は「有限」でありますから、有限である人間は、絶対に未来永劫、無限である神を捕らえて包むということは出来ないはずです。つまり、神が真の神であればある程、神は超越であり無限であって、人間の手に届く存在ではないはずです。それなのに、わたしたちは神と出会い、神の言葉を聞き、神の子であるキリストの身体とされる、と言われるのは、どういう意味なのでしょうか。最も中心にあるはっきりした要は、神が人になられ、私たちの間に宿られ、共に生活をなさった、ということです。つまり神が受肉して、人の子となって、この世に来られ、共に人間の本質を担うからです。だから神に出会うことが出来るのです。厳密かつ正確に言うならば「言が肉となって、私たちの間に宿られた」だけでは、神に出会うことは出来ません。重要なのは、さらに人間本性を宿命的な罪と死の支配による死と滅びから解放されるのでなければなりません。クリスマスの本当のは、この罪と死の問題を解決する根本問題の解決において、初めて人を照らす光となることができるのではないでしょうか。したがって、クリスマスの光は、徹底的に十字架を照らし出すはずです。その意味からすれば、やはり罪を照らし出して、死と滅びを照らすのであり、暗闇も照らす光でもあります。人間の闇を根源から照らす光となるとは、まさに十字架と復活による新しい人間創造でなければならないはずであります。御子の受肉による十字架と復活を齎すクリスマスがなければ、この世には神も救いも光もなく、ただ死と滅びの暗闇だけであります。この御子の受肉による十字架と復活こそ、神の啓示の中心であり、救いの福音の中核を成す出来事であります。ヨハネはそれを、命と真理の光が、暗闇の中で燦然と輝き、どんな暗闇もこの光を消し去ることはできない、と言い表しました。真の神は、私たちの中にあり、私たちと共にあり、私たちの生活と共に過ごす神となられたばかりではなく、私たちの肉の身体を贖う贖罪の神となられたのです。だから、私たちは「神」に出会うことが出来るのです。神は遠く天におられるのではなくて、私たちの間に、私たちのただ中に、私たちと共に、生活の中に共に、しかも身体と命を贖う贖罪の神として、受肉して共に暮らす神となられたのです。悲しめばその悲しみの涙の中に、喜べばその笑顔の中に、まさにその生活の中におられるのです。クリスマスにより、私たち人類はこの暮らしの中で、生きて働く「神」と出会うのであります。

 

2.神の啓示の光射すところ、「信仰」において、神と人格の根源で出会う

旧約聖書の時代の人々は、直接「神を見る」ことはできませんでした。神の使者が民に遣わされ、「預言」として神のことばが語り伝えれました。ヨハネは「1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と言っています。言わば、神と人との間柄で、その関係性は、完全に断絶しており、直接的には連続できない限界を告げます。神は神の子以外に知らないのです。そして人は神を知ることは出来ないし、見たこともできないのです。神を知り、神を見て、神のことばを聞き、神と人格的に出会えるのは、18節後半の言う通り「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示される」外に、道はないからであり、即ちイエス・キリストというお方、ただお独りにおいて、神を示すことが可能です。確かに「1:17 律法はモーセを通して与えられた」のですが、しかし神の「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」のであって、それがまさに「1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」からであり、その恵みゆえに「わたしたちはその栄光を見」ることが出来るのだ、と言っています。つまり、神ご自身による完全なる自己啓示において、すなわちイエス・キリストという神の御子ただお独りの受肉において、人々は初めて神と人格的に出会うことができるようになったのであります。

さらに踏み込んで、神との人格的な出会いについて、思いを深めますと、わたしたち人類は、イエス・キリストという神の自己啓示そのものにおいて、初めて神を見る、神のことばを聞く、そして神と共に生きるという人格的出会いを経験します。まさにその神の自己啓示そのものであるイエス・キリストと私たち自身の人格とが深く出会い一体となる場こそ、「信仰」という場においてです。そのキリストを信じ信頼して認める、主イエスにおける神の受肉を受け入れ、そして主を深く豊かに知る、という人間精神の中枢において、また人格の根源的な経験として神と出会い神を経験することになります。神ご自身による自己啓示である主イエスの受肉について考えますと、人としておいでになられて、人のうちに宿られたということは、わたしたちの霊や魂そして精神や肉体を引き受けて担われた、ということになります。それは、キリストの受肉のおかげで、神が人間の肉の中に入るという神の恵みのわざを通して、私たちはこの人間本性のまま、その中枢を占める霊魂や精神において、また身体や肉体において、神と深く人格的に出会い一体となって生き死にすることができるようになった、ということを意味するのではないでしょうか。ですから、私たちはこの死老病生の魂と身体の中で、そのまま神と共に生きるのです。否、この魂と身体のままで神と出会うのです。なぜなら「神」が「肉となって」、私たちの間に宿られたからです。私たちは、まさにこの身体で、即ちこの病やこの死の中で「神」と出会い「神」と共に生き死にすることが許された、と言わねばなりません。しかも、主イエス・キリストの受肉の目的は、十字架の死に至る「贖罪の死」であり、「身体の復活」による永遠の命の賦与であります。したがって、わたしたちの肉体そのものが、神と出会う場として、キリストの十字架と復活を受けて、既にキリストの身体の一部として出会い、この死の身体において聖別されているのです。キリストを通して精神も肉体も人間存在の全てがキリストの身体として、十字架と復活の身体とされた、ということを意味します。それが、受肉の本当の意味と目的であり、神の啓示の内容であります。言が肉となって、私たちの間に宿られたとは、そういうことではないでしょうか。

このように、人は、ただ一つ神の受肉の啓示において、つまりイエス・キリストというお方においてのみ、神を知ることができるようになるのであります。ヨハネは、神の側から言えば、この神による自己啓示において、神と出会でるようになった、その栄光を見た、と告げます。そしてもう一方で、人間の側から言えば、ただ一つ、この神の自己啓示を信じて受け入れることで、即ちイエス・キリストを自分の心の内に、わが神、わが主、わが王と認めることで、信仰において神と出会うことができる、と語ります。待降節の準備とは、この信仰において神の御子と出会うために、聖別された期間であったことがよく分かるのではないでしょうか。問題は、どのようにして、心のうちに、御子を迎える備えとするか、どうすれば神の子キリストを、私たちのうちに、お迎えすることができるか、にあります。

 

3.新しい人間性に目覚める

今、私たちの「うちに」御子をお迎えする、と申しましたが、私たちの「うちに」お迎えするとは、果たして「どこ」に、どのようにお迎えすることを意味するのでしょうか。勿論、それは、「信仰」において、御子をお迎えする、ということであり、当然ながら、私たち自身の魂と身体のうちに、お迎えすることであります。創世記1章26節によれば、「1:26我々にかたどり我々に似せて、人を造ろう。1:27 神は御自分にかたどって人を創造された神にかたどって創造された男と女に創造された。」と、神は言われます。それゆえ、神さまは私たち人間を神の肖像ように「神の象り」或いは「似像」として造られた、と考えられます。まさに人間が神と根源的に出会い交わる交流の場です。つまり神を写す「神の像」に人格の本質があるとすれば、御子をお迎えする場とはこの「神の像」においてこそ最も相応しい場である、ということになります。この神の肖像においてこそ、神と出会う最も相応しい場であり、神をお迎えする最も尊厳豊かな場であると考えられます。神は三位一体の神として「我々にかたどり、我々に似せて」、或いは「神にかたどって創造され」、しかも「男と女とに創造された」とは、どういうことでしょうか。こうした神に最も近い場、神と出会える場は、まさに神の創造の祝福と賜物を最も豊かに受けた「聖なる恵みの場」であり、言い換えれば、内的な「礼拝の場」であり、神を正しくお迎えできる場ではないかと思われます。本来人間は、その人間性の本質と根源に神をお迎えして、礼拝すべき聖なる場を持っていた、と考えられます。しかしまことに残念ながら、人間の自我欲求により悪魔に誘惑される中で神に背き、この聖なる恵みの場を汚し、堕落の罪により腐敗させてしまいました。その結果、人間の本質は、神をお迎えして神の祝福に与る場から、罪と滅びが支配する場に変質してしまいました。したがって大切なことは、神の肖像のように神を写し神をお迎えするに相応しい場を回復する必要があります。つまり人間本性が新しく造り変えられて、神の新しい肖像をわがうちにいただく必要があるのです。そうでなければ、御子をうちにお迎えすることは出来ません。

クリスマスの出来事を通して、神の御子キリストは、処女マリアの胎から人の子としてお生まれになりました。それは、人間の全てを神がご自身のお身体とされ、神の御子は、その人間のお身体において、人間本性を新たに造り直してくださるためです。御子のお身体は、聖霊によって処女マリアの胎内に宿る肉体であり、長じて洗礼を受け「わたしの愛する子」との天からのみ声のもとに鳩のように降る聖霊を宿すお身体となり、そして十字架の死に至るまで従順に罪を償い尽くした肉と血の肉体となり、ついには栄光の復活を遂げ永遠の命に溢れた身体であり、永遠に神の右に座す天のお身体でもあります。主は、この受肉から栄光の座に至る主の身体を、取って食べなさい、これはあなたがたのために与えるわたしの身体であると仰せになり、わたしたち一人一人にご自身のお身体を差し出してお与えくださったのであります。礼拝でみことばに与り洗礼や聖餐を受けるとは、この御子の受肉の身体に与ることであり、キリスト教会は全て、この身体の授与と受領という一点にのみ全てを集中します。御子は、こうしてご自身の受肉とそのお身体において、人類の魂と身体とを新しく造り変えてくださるのです。キリストの受肉した身体であり、聖霊を宿したこの身体において、人類は新しい人間性を新たに受け取り、キリストの身体とされるのです。これが救いの秘義であります。受肉とは、キリストが人間本性を背負い引き受けることですが、それと同時にまた、キリストがご自身の身体において、人類を新しい人間本性に造り変えられる場でもあります。キリストの身体となった新しい人間本性は、魂においても肉体においても、人格の全てが新しい栄光の身体へと生まれ変わったのです。したがって、私たちは、キリストの受肉の恵みを通して、この身体と魂で神をお迎えし神と出会うことが出来るようになったのです。新しいキリストの身体として生まれ変わった人間性に目覚めるのです。

 

4.「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」

主イエスは、律法学者たちとの論争の中で、「12:30 心を尽くし精神を尽くし思いを尽くし力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」教えられました。神を愛する時は、あなたの心全てから(evx o[lhj th/j kardi,aj sou)、あなたの命(魂、命、息、心)全てから(.evx o[lhj th/j yuch/j sou)、あなたの知力全てから(evx o[lhj th/j dianoi,aj sou)、そしてあなたの力全てから(evx o[lhj th/j ivscu,oj sou)、神を愛しなさい、と教えます。つまり、人格存在としての人間の根源である「命の息または魂知性・人としての総力」を尽くして愛しなさい、と教え、そこに人間としての本質があることを明記しています。神は、神の前に出て、神を愛し、神と向き合う時は、人間としての総力、即ち心と命の息または魂そして知恵のそのすべてを完全に尽くすことを求めています。しかし、私たちは、これを「旧い律法」として聞くのではなくて、教会からは「新しい福音」として聞き直すのです。なぜなら罪に汚れ腐敗した人間性のもとで聞くのではなく、御子の受肉の身体と共に御子のお身体としてこの教えを聞くからであります。主イエスのお身体において、それを破綻と絶望に導く「律法」としてではなく、新しい喜びと希望の中で「福音」として聴くことが出来るようになったからです。

私たちの「うちに」御子をお迎えするに、最も相応しいみことばではないでしょうか。全人格を尽くして、新しく生まれ変わったキリストの身体として、この教えをもって神の御子をお迎えするのであります。神の愛と恵みは、御子のお身体を通して、私たちの魂と身体の隅々において、命の息または魂も、心も精神も、思慮や知恵の隅々にいよいよ深く、そして全身に漲り溢れるように、恵みとして働くからであります。私たち自身の人格全体において、神を信じて受け入れ相応しく応答できるように、聖霊の恵みとみことばを通して、有効に働くのです。これは、とても重要なことです。神は、私たちひとりひとりの人間としての存在を無視したり、捨象することはなさらないのです。人としての自由な心や意志の深く覚えて養い、非人格的存在としては決して扱うことはなさらないのです。確かに、信仰や応答は個人個人の個性において多様ではあるにしても、その人ひとりひとりの人格の根源に神は働き、その人格の根源を尽くした決断と応答を求められるのではないでしょうか。ヨハネは、そうした信仰による決断、または神に感謝し神を愛するという応答に注目するのです。それこそが「生きた人格」であり、そこでこそ、神はご自身の愛や恵みの力を最も確かなものとして発揮される場となるのではないでしょうか。