2021.3.28. 小金井西ノ台教会 棕櫚の主日(受難週)礼拝
信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答40~44
「第二部 人間の救いについて ―子なる神について⑹死、葬り、そして陰府への降下― 」
問40 (司式者)
「なぜ、キリストは『死んで』苦しみを受けねばならなかったのか。」
答え (会衆)
「神は義(ただ)しく真実であるがゆえに、御子の死によるほかに、
私たちの罪の代価を支払う償いの方法はなかったのです。」
問41 (司式者)
「なぜ、キリストは『葬られ』たのか。」
答え (会衆)
「それによって、主がほんとうに死なれたことを示すためです。」
問42 (司式者)
「キリストが私たちのためにすでに死んだのに、どうして、私たちもまた死なねばならないのか。」
答え (会衆)
「私たちの死は、私たちの罪の代価を支払うための償いの死ではありません。
私たちの死は、罪に対する決別の死であり、永遠の命に至る入り口にすぎないのです。」
問43 (司式者)
「キリストによる十字架での犠牲奉献と死によって、私たちはどのような恩恵を受けるか。」
答え (会衆)
「主キリストの御力によって、私たちの古い人間性は、主と共に十字架につけられ、
滅ぼされ葬られるのです。
その結果、私たちの内にある肉の邪悪な欲望は、もはや私たちを支配することはありません。
それによって私たちは、感謝の献げ物として、自分自身を主にお献げするようになるのです。」
問44 (司式者)
「『陰府にくだり』と続けて言われるのは、なぜか。」
答え (会衆)
「わたしは、この上なき試練の中にあってこそ、こう断言します。
わたしの主キリストは、わたしのために、魂の底から十字架に至るまで絶えず痛み苦しまれ、
その言い難き苦痛と恐れを通して、わたしを地獄の拷問と苦痛から、
代価を支払って贖ってくださったのです。」
2021.3.28 小金井西ノ台教会 受難節第6(棕櫚)主日礼拝
ハイデルベルク信仰問答40~44
ハイデルベルク信仰問答講解説教60
説教「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」
聖書 イザヤ書53章1~12節
ルカによる福音書23章26~56節
はじめに、受難週を迎えて
教会暦に従いますと、本日は「棕櫚の主日」を迎え、受難週に入ります。したがってこの金曜日は、主イエス・キリストが十字架につけられ、死んで葬られた、「聖金曜日」となります。今はどうか分かりませんが、かつて富士見町教会では受難週に入りますと、受難週祈祷会が月曜から金曜日まで設けられておりました。島村亀鶴牧師は、特に「十字架の七言」を主題にして、十字架上で死を迎える主イエスの七つの言葉を一つ一つ取り上げて、説教され、そして聖餐に与る、という受難週でした。そこではいつも長老の皆さんと共に、とても厳かでそして心に浸みる深い祈りが続いていました。身が引き締まるその緊張を、40年以上が過ぎた今でも、決して忘れることができない体験として、鮮やかにこの身体と魂に刻まれたように残されています。ましてや「ハイデルベルク信仰問答」は、1563年に成立し、既に450余りを経た今でも「十字架の信仰」をとても鮮やかに、そして生き生きと、豊かに湛えています。本日は、教会暦に従い、「受難週」を深く覚えて、ハイデルベルク信仰問答は、問答40~44に告白される、主イエス・キリストの十字架の死と葬りについて、共に解き明かしを受けたいと存じます。
1.キリストの死と苦しみは、わたしたちの贖罪のためであった
問答40~44によれば、キリストの苦しみと死の意味について、告白しています。問答40は「なぜ、キリストは『死んで』苦しみを受けねばならなかったのか。」と、キリストの死と苦しみの意味を問いまして、答えでは「御子の死によるほかに、私たちの罪の代価を支払う償いの方法はなかった」と告白しています。つまり、キリストの死は、私たちの罪を償うため、であった。キリストは、私たちの贖罪のために、苦しみ死んだ、という一点に集中して、告白しています。また問答の44でも、『陰府にくだる』意味を問い、答えでは「わたしの主キリストは、わたしのために、魂の底から十字架に至るまで絶えず痛み苦しまれ、その言い難き苦痛と恐れを通して、わたしを地獄の拷問と苦痛から、代価を支払って贖ってくださった」と告白して、キリストが陰府にくだられた目的は、地獄の拷問と苦痛から、代価を支払って、私たちを贖うためであった、と告げます。言い換えれば、キリストが死んで葬られ、陰府にくだられたのはすべて、私たちの罪と滅びから、或いは地獄での拷問から、贖い救い出すための犠牲であり、そして私たち人間の罪を償う贖罪のためには、神に対して義を確立するためには、どうしても支払わなければならない命の代価であった、と教えます。つまり、キリスト教の救いの根幹は「キリストの十字架の死」であり、その十字架の苦しみと死の意味と目的は、わたしたちの罪のための「贖罪」にある、しかも、それは神に対して「義」を立てるためにあった、という根本理解が示されています。言い換えれば、キリストの十字架における贖罪こそが、私たち人類の唯一の救いであり、神の義を立てなおすという万物創造の完成となる、ということになります。その贖罪が実際に歴史において、実際のキリストの十字架の死という出来事として引き起こされ、人類はその歴史の中心に十字架のキリストを経験し持った、ということになります。
今週は、「キリストの十字架における死」を覚える受難週となりますが、キリストの十字架における死という出来事は、キリスト教信仰の根幹であります。キリストの十字架での死の意味を正しく知ることは、実は復活を正しく知る起爆剤でもあります。十字架の死と復活は、別々の出来事のように見えますが、実は連続する一つの出来事として捉えた方が正しいのではないかとよく思うのです。なぜなら、キリストの十字架の死において、神の永遠の御子による完全な贖罪を体験することで、その贖罪それ自体が、永遠の命という神の祝福に溢れた新しい人間性の復活の根源であるからです。言い換えますと、「贖い」ということ、キリストの支払う命の代価によって、罪と死から贖われる、ということがきちんと分かれば、そこにはもう復活の新しい命が見えて来るのです。それゆえ、正しくキリストの十字架を知り体験することを抜きにして、キリスト教信仰入信の道はないのです。いくらクリスチャンホームで育ち、教会生活を長くしている、と言いましても、真実な意味で、キリストの十字架に死を本当知り体験するのでなければ、真実な意味での信仰のないクリスチャンで終わります。十字架の死のないキリスト教はありえないからです。キリスト教の文化や社会や習慣を突き抜けて、キリスト教の本質を知り体験する場、それがキリストの十字架における死を正しく知り、経験する場であります。そしてその十字架の死を体験するとは、その根本と本質において、「贖罪の体験」であります。十字架と復活とは一対の連続した救いのみわざですから、贖罪の本質が分かれば、その結果として、復活もいよいよ当然のことながら分かるようになるのです。十字架は信じられるが、復活は分からないなどということは、絶対にありえないことなのです。それは、どこかで、キリストの十字架の死による贖罪ということが体験しきれていないのではない、と思います。キリストの十字架における死は、「私たちの罪の代価を支払う償いの方法」であり、「主キリストは、わたしのために、魂の底から十字架に至るまで絶えず痛み苦しまれ、その言い難き苦痛と恐れを通して、わたしを地獄の拷問と苦痛から、代価を支払って贖ってくださった」のです。キリストの十字架の死、キリストの死の葬り、そしてキリストの陰府への降下は、すべて私たちを「贖う」ため、すなわちご自身の命と尊厳という代価を支払って、神の義のもとに買い戻すための苦難であります。こうした贖い、贖罪の経験を深くすることで、またいよいよ正しく知ることで、私たちは「救い」の本当の力と意味を知るのです。すなわち復活という本当の勝利を知るのであります。教会生活で決定的重要なこと、それは、永遠の神の御子キリストの十字架における死の贖罪を正しく知り経験すること、そしてその贖罪、即ち罪による死と滅びから神の義と命の祝福へと贖われることを知り経験すると、もうそこは、新しい永遠の命に溢れた復活の世界が開けて来ます。しかもさらに大切なことは、それは、キリストの身体を通して実現する贖いであり復活であります。このキリストの身体を通して実現する贖いと復活の場こそ、天上と直結する地上の教会であります。したがって正しい信仰体験に続いて、次に重要なことは、この身体における、キリストの身体を通して身に着ける信仰と生きた体験であります。いずれにしても、根幹であるキリストの十字架における死の贖罪をキリストの身体として知り体験することに尽きると言えましょう。
2.贖罪の前提となる私たち人間の「罪」と「神の怒り」
私たち人類を「贖罪する」ために、キリストは苦しみ死んだのですから、すなわち、その死と苦しみの根本原因は、私たち人類がその人間性の本質において受け継いだ「罪」にあるのですから、罪の問題を解決することが、救いの大前提となります。「罪」という現実を背負う人間の悲惨から、人間をどう救うか、という問題です。罪についてパウロはローマ書1章で真っ先にこう説きます。「1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、1:23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。1:25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」(ローマ1:18~25)と、罪はどこにあるか、明らかにします。簡潔に言い換えますと、神は、私たち人間の犯した「罪」に対して、天からの「怒り」をもって、臨んでおられるのです。その人間の罪とは、神を無視して、自分の欲望のために、偶像を神と取り替えて、神に仕えず神ではない偶像に仕えた、それが罪の本質だ、と言っています。キリスト教の教理では、「原罪」The Original Sinとか「堕落」The Fallと呼んでいますが、人間の根源的な過ちであり誤りは、神に背き神から離反している、という人間の根源的な神に対する在り方にあります。造り主である神を褒め讃えず、自我とその欲求を拝んでいる。すなわち自分の欲望を神々見立てて偶像を拝み仕え、真の神は否定して背くという背神にあります。
3.一神教を知らない多神教(偶像崇拝)の日本の宗教文化
多神教の日本、八百万の神々を偶像として拝み仕える、という伝統的宗教文化の中にある、日本人の意識からすれば、一神教の神に対する背神の罪を問われて、それが罪である、と言われても、納得しづらいのではないでしょうか。何を言っているのか、ピンと来ないのです。一方から言えば、それは「神」を知らない民族だからだ、というでありましょうし、また他方から言えば、それこそ幅広く、とても寛容でおおらかな宗教文化でよいことではないか、ということになります。どんな神々を、何をいくつ、どのように信じようと、信じる者の自由ではないか、憲法でも信教の自由が認められている、ということになりそうです。したがって「罪」を根本から意識し、罪の本質を認識する所から、宗教や哲学をつくりあげ、文化や社会を構築する、という方向には決してゆきません。そうした意味で、正しく罪を知って認める、ましてや神に対する罪を認めるなどということは、日本人にはとても難しいことです。その結果、十字架の痛みを深く覚える要因となる土壌や受け皿がない状態の中で、罪や裁きを問題にされることに、抵抗とある意味で嫌悪感さえ感じる場合もあるようです。罪をどう認め、罪を正しく認識したうえで、さてその罪をどう償うのか、という所まで思いが届かないのです。したがって十字架や信仰の意味も希薄となり、結果として「信仰」によるキリスト教ではなくて、つまり本当の意味で「十字架のキリスト」を着るのではなくて、日本の文化や社会慣習に基づいて、日本の宗教文化を基礎にして形でキリスト教を身に着けるという次元に止まってしまう場合もあるようです。「日本教キリスト派」と括られる結果となります。信仰の次元よりも文化社会の次元で、つまりキリストの十字架の死における贖罪をいよいよ深く信仰体験することよりも、教育施設や慈善事業による社会文化活動を価値評価するにとどまる、そして教会さえも、親しい仲間のサークル活動に変質してしまい、説教や聖書のお話さえも、サークル活動の一環に過ぎない、ということになります。日本の土壌に、キリスト教信仰を根づかせることの困難を覚えます。ある方は、土着をin-culturationと言い表しましたが、日本の宗教文化の中に、キリスト教信仰を入れ込むことはそう簡単ではないようです。
文化や社会に根差すキリスト教の意義は、無論、否定するのではありません。魂には肉体が必要であるように、キリスト教信仰も、身体のように、信仰を具現化し展開する場である文化や社会は、絶対に必要とすることは論を待ちません。中世のヨーロッパにおいて、教会を「コルプス・ミスティークム」と呼ばれました。永遠の神の御子である超越のキリストが地上に降り受肉して、その受肉した身体から、キリストの受肉の身体として教会は誕生し地上に現存するからです。そして中世の文化や社会に対しては、「コルプス・クリスティアーヌム」と規定しました。いわば、教会は、目に見えないキリストの身体である「神秘体」であるのに対して、中世ヨーロッパ社会は、目に見えるキリストの肉体である、と考えたのです。まさに、心と身体が一体の身体として存在することを社会の基礎概念としたわけです。社会や文化は教会の身体でありました。しかし近代現代に入ると、魂と身体は分裂してしまい、身体を失った魂は行き場を失い、また身体が魂を失えば、病んだ化け物に豹変します。キリストの十字架による贖罪の信仰と罪の意識を核にしたキリスト教信仰、そして社会や文化としてのキリスト教という二重構造を意識して、改めて、御子を受肉させて「十字架刑」にして処罰するほど、償いの代償を必要とする「罪」の深さを覚えたいと思います。
4.「キリストの十字架」は、贖罪の出来事として引き起こされた
仏教の世界では、人間の根本問題を「四苦八苦」と表して「苦」と捉えます。人生の本質は苦にある、その「苦」から自己を解脱解放する所に、救いを見出そうとします。「苦」には、前生における原因があってその結果として今の人生苦がある、と考えます。そうした因果関係の縁を断ち切って、解脱して、苦から解放され、人間本来の姿である仏として成仏する、ということになるでありましょうか。そのためには「色即是空」と言って、あらゆる分別や価値観を捨て去ることを教えられ、心身の修行をすることになります。わたくしも思春期の頃、そう教えられて、参禅いたしました。仏教と言いまして、東西のいろいろな思想が海を越え大陸を超えて流れ込んでおり、一筋縄では行きません。浄土や地獄と言った宗教概念は、聖書から入り込んだ概念のようです。日本の仏教には、いろいろな神々の概念が雪崩のように入り込んでいます。
確かに世界でも、親鸞の思想は非常に高く評価されるようです。確かにキリスト教のような慈悲による極楽浄土や念仏の恵みを教えます。しかし決定的に、しかも本質的に異質で異なる点が一つあります。それは、そこには「贖罪」の出来事が存在しない、ということです。そこには、完全に贖罪を果たしてくださる「キリスト」もいなければ、キリストの「十字架の死」も「復活の命」も全く存在しない世界です。まさに贖罪の出来事であるキリストの十字架も復活もないという点で、明らかに「空」であり「幻想」であり「観念」の世界です。罪を償うキリストとその十字架の出来事は、実際にそこにないのです。それでは、いったい誰が実際に罪と死と滅びの淵から贖いでしてくれるのでしょうか。
改めて、人間の「罪」を見つめ直しますと、残念ながら、人間は、確かに時には「天使」に見えることもありますが、概して「悪魔」のようでもあります。親が子を殺すという厳然とした罪は、平和で豊かな日本の中でも、毎日のように繰り返されます。子も親を殺します。最も命と血の絆の深い親子や兄弟、夫婦や家族が互いに深く傷つけ合い、ついには殺し合う世界は、「愛」を切実に希求する家庭内で、深刻にも現実として繰り返されているのです。前に紹介しましたが、人殺しの現場となる殺人事件の大半は、家庭や家族の中で引き起こされています。いじめの中で、毎年多くのこどもが殺し殺されています。ましてや互いに恨みも怨念もないはずの人類同士が、隣国同士が、正義と防衛という名目のもとに、大量殺戮を幾度となく繰り返してきました。人類の歴史は戦争の歴史でもあります。アジアの侵略戦争も、原爆投下によるこの上ない悲惨も、すべて人類の意志に基づく人殺しであります。奇妙なことに、大量殺人の戦果を挙げた人殺しを英雄や偉人として褒め称える、それが世界史の現実であります。いわば、殺し合いの中から、文明は生まれ人類は生きて来たように見えて来ます。そこにどうしても解決できない人間の「罪」の現実を見るのです。そして最も悲しい罪の現実は、原爆投下を決行した国が、キリストの十字架の痛みを知るはずのアメリカであった、ということであります。あるいはそれ以上に、世界大戦を繰り返したのは、欧米のキリスト教国同士であったという、どうしようもない絶望と暗闇の淵に落とされます。キリスト教という宗教をもってしても、人類世界全体の罪を解決することはできないのです。それほど人間の「罪」は厳然として深くあるのです。こうした人間の罪の現実と破れの悲惨を、どのように表現すればよいか、わたくしには言葉がありません。人類がどのように進化して、どれほど進んだ科学技術を獲得しても、罪を現実に解決することはできないのではないか、と思います。それどころか、いよいよ人間の価値評価や実際の格差は広がり、人間本来の正義や公正を失うばかりではないかと危惧します。人殺しも差別も格差も無くすことはできないのではないか。だからと言って、絶望の中に希望を捨て、全てを諦めて、宗教の世界に逃げ込む、というのではありません。だからこそ、本当の希望をもってこの世と向き合うことが大切なのです。だからこそ、神は人を憐れみ、人を愛し、ご自身の命を引き換えにして、人を救う道を開くのであります。それが、キリストの十字架と復活による神の愛であり神の救いであります。人間は罪を犯し続けるでありましょう。仮に信仰を持ち、キリスト者とされても、必ず罪を犯すでありましょう。ドイツは、聖書原理と信仰義認を説いて、宗教改革を実現したルターの国であります。かつてのキリスト教国が、多くの人々を殺したように、であります。したがって文化や社会としてのキリスト教ではなく、キリスト教文化や社会の次元で、罪の本質は届かない課題であります。本質的に実存から信仰の問題として、もう一度、深く踏み込んで、真剣に向きあうことになります。問題はその「罪」とどう向き合い、どのようにして希望を持ち、乗り越えてゆくか、という所にあります。大切なことは、人間の罪の現実と真摯に向き合い、その罪に敗北して絶望することなく、希望をもってどのように乗り越えてゆくか、ということにあります。
5.神の御子よる十字架の死における贖罪
しかし残念ながら、私たちは、自分の力で、「罪」を根元から解決することはできません。人間の限界と絶望を受け入れざるを得ないのです。まさに敗北の告白です。二十歳で洗礼を受け、キリスト者とされ、牧師という務めを与えられても、わたしは自分の力で罪を解決することはできないのです。わたしたちがキリスト教の信者になることで、罪を根元から解決することは、人間にはできないことです。それどころか、信仰を持ち、洗礼を受けても、実際はいよいよ深く手に負えない罪と向き合うことになり、いよいよ無力を実感し、益々人間の限界と破れの中に堕ちてゆきます。罪の解決については絶望です。わたしもそしてすべての人々も、例外なく、全くの無力の中で、自分の死と終わりを迎えるのです。そういう意味からすれば、知識の行き着く所は完全な終わりであり、全くの空しい無であります。人は、ついに終わりと空しい無を知って、死ぬのであります。これは誰も否定することのできない事実です。人間が自分の力で知り確認し得る事実はここまでです。
あとに残された方法は唯一つです。それは人間の力に絶望しつつ、人間以外の力を受け入れ認めることです。言い換えれば、「神」に対して心を開くことができるかどうか、しかも「贖罪の神」に対してです。神の贖罪による愛と憐れみに出会い、本当の希望に目覚めて、神の愛に対する信頼のもとに身を委ねることができるかどうか、であります。すなわち、世界でたった一つの出来事、主イエス・キリストの十字架による贖罪を受け入れるかどうか、という一点にかかるのです。先ほど、キリスト教文化や社会習慣の次元では決して届かない課題である、と申しました。極論すれば、クリスチャン家庭であっても、教会員であっても、その社会性や文化習慣の次元をさらに深く踏み込んで、「贖罪の啓示」そのものに触れる「信仰」の次元で、すなわち超越の次元で「罪」と向き合い、贖罪の神と出会うことが、ここでは深刻に問われます。確かに、クリスチャンとして教会員として教会生活を守るということは、決定な重要な意味を持ちます。いわば、そこにすべての「出発点」はある、と言ってもよいでありましょう。まずは地上から神に心を向け、神の贖罪に触れる、という出発点に堅く立つことです。しかし問題は信仰の出発点に立つだけでなく、本当に信仰という道を踏み出し信仰という地上と人間の力を超えた「天」との関わりに生きる、そして生きた永遠の神との交わりを実際に始めるのでなければなりません。言い換えれば、常に神の存在と力を認め、神の啓示を受け入れ、そして命の事実として新たに生まれ変われるかどうか、その一点にかかるのです。そこにこそ信仰の出発点があるからです。キリスト教文化や社会の営みでは、その信仰の質的な出発点には触れることができずに、入り口の前で門の前を素通りしてしまうことになるからです。そして余りにも多くの人々が、その文化と社会の次元でとどまり、信仰を通して神と出会い、神と触れ、そして神のみわざによって生きるという本当の希望の出発点を素通りしてしまっているのではないかと思います。ヒューマニズムから信仰への転換が求められます。
6.十字架のことばを通して、神の怒りと贖罪のキリストに出会う
この「神の啓示」を、カール・バルトは、聖書のみことばの証言の中に、そして証言そのものであるキリストの十字架に見出しました。ルターやカルヴァンのように、神のことばに、神の啓示を見出し、生ける神の出来事と触れ、神と出会うことを明らかにしました。パウロは、ローマ書1章18節のみことばにしたがって、神の啓示であるキリストの十字架の苦しみと死において、そこで、私たちはまず「神の怒り」に出会う、と言います。私たち人間は、まずこの「唯一真の神」と向き合い、その「神」からの激しい怒りを受ける存在として、神の御前に立ちます。誰かが罪を身代わりに背負ったという曖昧な話ではありません。罪に対する神の激しい怒りと呪いの前で、神の御子が、私たちのために、深い愛と憐れみから、その怒りを背負うのです。したがって十字架の場は、一方で、罪に対する激しい怒りと呪いをもって迫る神と出会いますが、他方で、何よりも優れて、それこそ十字架において肉を裂き血を流し、私たちのために、罪の裁きを背負い、罪を償う神の永遠の御子と出会います。すなわち、わたしの罪に対して愛と憐れみをもって迫る神の御子と出会うのです。妙な言い方ですが、十字架において、私たちは神の怒りと呪いと出会う、同時にまた御子キリストの十字架の死と出会うのです。そして御子の十字架での死による贖罪を通して、唯一真の神である父・子聖・霊の神、三位一体の神を知り、真実な意味で、地上を超える永遠の神の世界へと初めて突き抜けるのであります。
それゆえ、自我欲求を中心にさまざまな神々を造り偶像化する自我の原理をそのままに残して生きる生活から、真の神に向かってすべてを方向転換するのであります。神のみことばを通して啓示される、神の御子イエス・キリストの十字架を知り、神の怒りの前で地上の罪を深く悔い、十字架における御子の愛と憐れみを心から受け入れて、十字架の血潮によって罪赦されて、「神」のもとに救い獲られるのであります。生きるべき命の質を地上の命においたままではなく、信仰によって命の質を神へと向かく命の質へと変えるのであります。罪と欲望に支配される地上の命とは質的に異なる、「神」の力と恵みによる「新しい生」を、歩み始めるのであります。信仰において、キリストの十字架のみことばを通して、私たちはまず、「罪」に支配された自分に注がれる神の激しい怒りと常に向き合うことになります。しかしそれでも、十字架のキリストに支えられ、信仰の門口にしっかり立ち、真摯にそして誠実に、直接「神の怒り」を受ける場に立つ経験をいたします。そこでは何一つこの世のものは通用しません。これまで生きてきた業績も名声も、弁明も弁解も、何を言おうと、神の怒りは激しさを増すばかりです。しかし反対に、みことばを通して啓示される、十字架上のキリストのお姿が見え始めて来ると、そこでは、激しい神の怒りと呪いを一身に受けているのはわたしではなくて、キリストご自身が痛み苦しんでおられ、ご自身のお身体の肉を裂き血を流して、私たちの罪を償うために「贖罪の死」に向かおうとするお姿が見えて来ます。キリストがわたしのために苦しみ死んで、命の代価を支払って、罪の償いを尽くしておられるのです。神の怒りのすべてを完全にご自身のお身体と魂において担い続けるのです。主イエス・キリストという永遠の神の御子が、わたしのために十字架の上におられる、ということを初めて体験するのです。それはただ神がおられるのではなくて、神の怒りと裁きをひたすらお受けくださり、私たちの罪を完全に償い尽くそうとされる、神の御子イエス・キリストが十字架の上に、おられるのです。
しかもこのキリストの十字架は、世界史の中に生起した史実であり、実際に神によって引き起こされた神の出来事であり、人類の歴史の中で生起した事実であります。聖書の証言者によって、この歴史の出来事となった十字架が鮮やかに示されます。「十字架」とは、「神の呪い」であり「神の怒り」の場であり、その象徴であります。この十字架について、カール・バルトは「神の告発は存続し、判決は執行され、神の怒りは爆発し、燃え、罪人を焼き尽くす」(『カール・バルト著作集』9、1971、398頁)と語り、十字架は、人類に対する徹底した神の怒りの場であることを説きます。しかしさらに大事なことは、この十字架においてこそ、「神の義が回復される」と説く点にあります。本当の不完全な人間による正しさや正常性ではなくて、神の完全な義と本来あるべき創造の原点が回復される場が現れたのです。私たちがこの世において幾度も絶望し続けて来た正義と公正、本来あるべきすべての形や状態が今この十字架を通して神の御子によって回復されようとしている事実と出会うのであります。それは、まさにこの世の人間に対する絶望であり、永遠の神に対する信頼と希望であります。嘘ではない、完全な真実が「十字架の死の苦しみ」を通して、そこに実現しているからです。この神の正義や愛が私たちの希望の基となるのです。新しい人類の拠り所となり、立つべき出発点となるのです。
7.十字架と復活の「信仰」から、十字架と復活の「受肉の身体」に
十字架におけるキリストの贖罪の死は、この世界史の史実として人類のただ中に生起し実現した神の義と希望であります。それは私たちの「生きる基」となり「未来の希望」となります。まさにこの命の義と希望は、この世における私たちのわざでは実現することはできない、キリスト教という文化や社会の次元にとどまるものでもなくて、ただ神の独り子である主イエス・キリストによって、そのみことばを通して啓示される、天からの恵みとして、しかお無償で私たちのために与えられた神の義であり、希望であります。この信仰の経験は「神の恵み」の経験として与えられ、また十字架におけるキリストの贖罪として経験され、そこで初めて唯一真の神の正義と愛に出会い、真実の希望を知り、真の生を生きる根拠となるのであります。このように実際にわたしたちの歴史の中で、主キリストは十字架という「神の呪い」の中でご自身の肉を裂き血を流して、人類への神の怒りと裁きを完全に担い背負われて、贖罪の死を遂げられました。問答41に「それによって、主がほんとうに死なれた」とありますように、「それによって」すなわち「神の怒り」「神の呪い」を、私たちのために完全に引き受け担うという贖罪のために、実際に事実として死んだのだ、ということを示しています。この十字架のことばにおいて、つまり十字架のみことばを通して、私たちは決定的な体験を経験します。それは問答44の示す通り、「わたしの主キリストは、わたしのために、魂の底から十字架に至るまで絶えず痛み苦しまれ、その言い難き苦痛と恐れを通して、わたしを地獄の拷問と苦痛から、代価を支払って贖ってくださったのです。」という体験をもって、神を鮮明に認識するに至るのであります。
しかしこの告白には大きな前提があります。この信仰告白を可能にし実現している大前提です。みことばを通して啓示される「罪の自覚」や「贖罪の信仰」は、確かに決定的な意味を持ちますが、しかし、そうした自覚的な「信仰」以上に忘れべからざる、遥かに大切なことは、その大前提となる肉を裂き血を流して贖罪の死を遂げられた「キリストの身体」そのものの存在です。御子が受肉した身体であり、十字架において贖罪の死を遂げたお身体であり、そして三日目に復活して天に昇られた御身体が、ここにある、という大きな事実であり現実を忘れてはなりません。そのお身体においてこそ、新しい生と世界は現存しているからです。信仰という認識や信頼、そして意識や自覚では、まだだめなのです。「キリストの贖罪」という認識や信頼を保証する根拠とその大前提は、まさに贖罪そのものを成し遂げた「受肉のキリスト」にあります。もう少し厳密に言えば、そのキリストの痛み苦しんで実現したキリストの身体が、しかも死の贖罪を完了して、三日目に「復活」という新しい命の祝福を獲得し、天に昇られた「キリストという受肉の身体」があるのです。その十字架と復活を貫かれたキリストの身体に私たちは結ばれて、贖罪の死を経験し、主の復活の身体と一体の身体として新たに永遠の命に生まれ変わり養われて、復活の命を生きている、という大前提です。ただ贖罪という観念や思想がそこにある、というのではないのです。そこには、現実にお身体をもって肉を裂き血を流して、私たちの罪を償い尽くして、苦しみのうちに贖罪の死を遂げた、キリストとその御身体がある、ということなのです。永遠の御子キリストは、その身体において、私たちは神に義と認め、新しい命の祝福をもって復活へと招くのです。「キリストのお身体」がここにある、という現実において、この救いははじめて実際の「力」を持つのです。そのお身体に、私たちは今、聖霊とみことばの働きを通して、そして洗礼と聖餐に与ることで、キリストの身体として一体に結ばれています。キリスト教信仰や教会において、そしてキリスト教社会や文化において、もっとも重要なことは、このキリストの身体をもって、キリストの十字架における贖罪とキリストの復活における新しい生を得ている、という所にあります。ユダヤ教やイスラム教も含めて、ほかの諸宗教と、キリスト教はどこが違うのか、その究極を言えば、それは、キリストの十字架と復活の身体がある、という点に尽きるのではないかと思います。そして私たち自身が、そのキリストの十字架と復活の身体とされている、という所にこそ、救いの現実と確かさがあるのです。