2021年4月18日「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」 磯部理一郎 牧師

2021.4.18 小金井西ノ台教会 復活第3主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答124主の祈り(3)

 

 

問124 (司式者)

「第三の祈願は何か。」

答え  (会衆)

「『み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ』です。それは、

私たちおよびすべての人々が、自分自身の意志を自ら放棄して、

一切の異議を唱えることなく、ただあなたの善き御心にのみ服従させてください、

すなわち、天において天使たちが務めを果たすように、

誰もが皆、心からの喜びをもって忠実に、自分の職務や職責を成し遂げさせてください

(という祈願です)。」

 

2021.4.18 小金井西ノ台教会 復活第3主日礼拝

『ハイデルベルク信仰問答』問答123 主の祈り(3)

ハイデルベルク信仰問答講解説教63

説教 「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」

聖書 マタイによる福音書16章21~28節

ルカによる福音書22章39~46節

 

はじめに、神の御名、神の御国、そして神の御心の前に立つ

本日は、「主の祈り」の第三の祈り「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」をめぐる説教となります。これまで、神の「御名」、神の「御国」と続きまして、本日は神の「御心」について解き明かしを分かち合います。この第三の祈りは、マタイによる福音書だけに「御心が行われますように(genhqh,tw to. qe,lhma, sou)、天におけるように地の上にも(w`j evn ouvranw/| kai. evpi. gh/j)。」と伝えられる祈りで、ルカによる福音書にはない祈りの項目となります。直訳しますと「あなたの御心が実現しますように、天におけるように地上においても」となります。前にご説明しましたように、なぜマタイにあってルカにないのか、その理由は定かではありませんで、研究者によってその見解は異なっています。したがいまして断定的には説明できませんが、ただ「主の祈り」は、元々一字一句を厳格に守り抜くような形で、律法主義的な教えとして、形式的に確定したものとして伝えられたものではなかった、ということです。弟子たちが、其々の教会で比較的柔軟に活用する形で、受け継いだものではないか、その意味では多様な形で伝承されていたのではないか、と思われます。しかし十二使徒が迫害の中で次々に世を去るようになると、いよいよ教会として共同体全体を正しく守り導くうえで、改めて、さまざまな使徒による伝承や教えを整理して纏める必要が起こります。そうした使徒の伝承を継承する取り組みの中で、教会公式文書として、新約聖書の諸文書は勿論のこと、『使徒教父文書』も纏められ、整頓されるようになります。そのうちの一つとして『ディダケ―』も、シリアまたはパレスチナで1世紀末頃に、成立したのではないか、と推測されます。そうして今の形で「主の祈り」として教会文書として残された、と考えられます。

ただ、神の「御名」「御国」そして「御心」という形で、神に集中する祈りとして、秩序立てて構造化されているという点で、教会の教理的伝承としても、公同の祈りであると同時に、大きな意味を持つのではないか、と考えられます。分けても最も顕著なことは、唯一真の創造主を「われらの父よ」と神の名を呼ぶ呼びかけによって、祈りを始める所は、とても重要です。ユダヤの伝統では、神を「主」と呼ぶ習わしで、ヤッハウェーという神の名を忘れてしまったほどで、ましてや神を「父」などと呼ぶことは決して許されなかったはずです。それなのに、神を「わが父」「われらの父」と呼び掛けて祈る、この祈りの前提には、ユダヤ教とは決定的に異なる神観、神理解があったはずです。特に既に神とは何かを決定づける「キリスト論」が成立していた、と考えられます。つまり「主の祈り」を教えてくださった、主イエス・キリストとは、まさしく「ただ独りの永遠の神の御子である」という主イエスご自身による啓示から教えられ、それを固く信じる共同の信仰に基づいて、祈る教会の祈りであった、ということです。私たちは、信仰者として祈るとき、いつも神の御前にあって、どうすればどうあれば、厳然たる神のご主権のもとで神の御心にかなう祈りをささげられるのか戸惑い、いよいよ思いを深くいたします。それはただ単に、わたし個人の問題ではなくて、キリストの共同体全体が、どうあればまたどう祈れば、正しく神の御前にあることができるかと、とても真摯に願い求めることでありましょう。それは、唯一神の永遠の独り子でなければ、教えることのできない祈りであります。神に向かって何を思うべきか、神に対してどう祈ればよいか、罪と世の欲望に覆われた魂からは余りにも遠くて届かない、見えないことであったはずです。まさに汚れた者が、聖なるお方の前に立つときの、誠に深刻な不安であり恐れです。そのため、ユダヤ共同体は、長い間、数え切れないほどの多くの牛や羊の血を流して、贖罪の儀式を幾重にも重ねたうえ、唯一大祭司ただ独り一年に一度だけ、至聖所に入り、神の現臨する契約の箱の前に立つことが許されました。こうしたことからも、神の御前に立つことの恐れは、私たち日本人には、想像を絶する恐怖があった、と思われます。しかし、神の御前に仲保者としてお立ちくださるのは、十字架において死に至るまで罪を償い従順を尽され、ついに神の義を回復して、復活という永遠の命の祝福をもたらし、新しい契約の道を開いてくださったキリストがお立ちになり、私たち共同体のために執り成して祈る、そのまさに十字架と復活の祈りの中で、私たちもまた「天にましますわれらの父よ」と祈りを始めることができるのであります。この主イエス・キリストの十字架と復活の啓示からのみ、いよいよ見えて来る、正しいそして相応しい神の呼び名であり、神のご支配であり、神の御心であります。

 

1.人間の意志を捨て、神の御心に従う

ハイデルベルク信仰問答124は、この第三の祈りについて、「第三の祈願は何か。」と問い、「『み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ』です。それは、私たちおよびすべての人々が、自分自身の意志を自ら放棄して、一切の異議を唱えることなく、ただあなたの善き御心にのみ服従させてください、すなわち、天において天使たちが果たすように、誰もが皆、心からの喜びをもって忠実に、自分の職務や職責を成し遂げさせてください(という祈願です)。」と答えます。一言で言えば、ただ神にのみに依り頼んで、生きるようになる、ということではないでしょうか。そのために、問答124は、わざわざ「自分自身の意志を自ら放棄する」と言い、しかも「一切の異議を唱えずに、あなたの御心に服従させてください」と祈ります。自分の意志を放棄して、ただ神のみに服従する生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。人間の尊厳である自由意志を捨てて、神に服従することを、なぜ、神は求められるのでしょうか。

竹森満佐一先生は、アメリカのシカゴの新聞投書を例に挙げて、とても興味深い解き明かしをなさっています。新聞の投書によれば、「今日の教会はまちがっている、それは教会が働く人の要求に合わせてプログラムをつくらないからだ、というものでした。すると、数日たって、ある婦人が、同じ新聞に投書しました。この人たちには、信仰の基本が少しも分かっていない、わたしたちが教会に行くのは、魂を神にまで引き上げていただきたいからです。」(竹森満佐一『主の祈り』37頁)という当時の教会批判をめぐる話です。この例話は元々「願わくはみ名をあがめさせたまえ」の説教のものです。このお話で印象深い言葉は「ブログラムをつくる」という言葉です。私たちは、自分の自由な意思でいろいろ考えて、自分の人生や生活のプログラムをつくりあげることで、自分の人生を生きようとします。教会も、福音の説教を果たすうえで、宣教のプログラムを組んで、伝道活動を行います。問題は、そのプログラムを造るのは誰で、誰の意志によるか、ということです。竹森先生の例話では、働く人々が自分の都合に合わせて、教会のプログラムを造るべきだ、と言って、教会を批判したと伝えています。それに対して、自分は、自分の魂を神の御手に委ねている、という婦人の反論でした。同じ自由な意思でも、自ら自分の意志を捨てて、神に服従して生きるために、自分の意志は天の神に預けたのだ、そのために、教会に通っている、というわけです。日本の教会でも、教会のプログラムを自分たちの都合に合わせて造ることは、ごく当たり前のようになっていますが、改めて立ち止まって考え直す必要があります。神を信じると言いながら、結局は、自分中心の欲求のために神や教会を利用しているにすぎないのではないでしょうか。

ここで敢えて、これをご紹介した理由は、もう一つあります。問答124に「天にて天使たちが果たすように、誰もが皆、心からの喜びをもって忠実に、自分の職務や職責を成し遂げさせてください」と祈るように教えられているからです。つまり「役職や職業」(問答のドイツ語原典はAmt und Beruf)をどう考えるか、という問題です。ルターによれば、「職業」は「天の職」である、と考えます。地上の職業を天の職業として考える、否、むしろ、天にある本来の務めを、すなわち神の御心を、地上の職業において写し出す場であり、職業とは神の御心を行うわざである、ということになります。「天において天使が果たすように、地上においても役職や職務を成し遂げさせてください」という祈りの通りです。言い換えれば、地上でなす務めや仕事は、むしろ天上における神の奉仕としても、また神の栄光を表し褒め讃えるえるわざとしても、通じる信仰の働きとなります。したがって、この世での要求に合わせて、教会のプログラムを作るのではなくて、天の神のプログラムにしたがって、この世で働くのであります。

前回も触れましたが、ここでも、宗教改革の信仰は、「天の神」のために天に向ける信仰であり、「教会」のための働く信仰でした。しかし現代の信仰は、「わたしたち」のために天を地に引き下ろす信仰であり、「わたし」のためにある信仰に方向転換し、その目的は、神や教会からこの世や自分のためのものへと、大きく変質してしまいました。まさに現代の信仰の特徴は、熊野義孝先生が近代現代を「自我の原理」と総括なさったように、人間の自我欲求を満たす原理によって、すべてを自分の道具として利用しようとします。しかしよくよく考えてみますと、決してそれは現代に限ったことではなかったように思います。なぜなら、だからこそ問答124はわざわざ「私たちおよびすべての人々が、自分自身の意志を自ら放棄して、一切の異議を唱えることなく、ただあなたの善き御心にのみ服従させてください」と真っ先に祈る必要があることをよく分かったいたからこそ、主イエスは弟子たちにそう教えたのではないでしょうか。すべての人々が、誰も、神に従順に従えないこと、しかも自我欲求を偶像化して神に祭り挙げ欲望崇拝を引き起こすこと、そうした人間の根本的な罪の支配にあることに、神はいつも心を痛めておられたはずです。そう考えますと、私たちは地上から、神の御前に立ち、神の御心に直面するのですが、神は天上から、私たち人間の深い背きと罪とに直面することになります。だからこそ、主イエスは仲保者として、神と私たちとの間に立って、十字架における従順を尽くし、私たちの罪のために償いを果たされるのであります。主の祈りを教えられたことで、キリストはいつも神と私たちの間に、仲保者として、十字架を背負い続けておられるのではないか、と分かってきます。

 

2.御心は、主キリストの十字架のうちに:「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」

ところで「御心が、天になるごとく地上にも、なりますように」と祈るのですが、私たちは神の御心をどのように知ればよいのでしょうか。ただ一つ、それは神が直接人々に啓示した神の啓示の言葉による外にありません。すなわち神のことばとして啓示された聖書の中に、神の御心を読み取る外に、道はないようです。しかし正しく完全に聖書を読み解くことも、人間の力だけでは至難の業と言わなければなりません。率直に答えれば、誰一人として「神の御心」を完全に知ることはできないのではないかと思います。まさに神のみぞ知るです。そう考えますと、大切なことは、決して、私たちが神のように神の御心を完全にわかる、ということにはないようです。確かに、神さまのことを少しずつ分かるようになりますが、しかし完全に知る、ということは不可能でしょう。御心を知ることは確かに大切です。私たちが神の御心をよく知って、理解し、納得することには、大きな意義あります。しかし神さまの本当の御心は、私たちが神を知ること以上に、神の御心を心の底から信頼して、従順に従うことにあるのではないでしょうか。そして神の御心とそのご計画のうちに、私たち自身のすべてをお委ねすることにあるのではないかと思うのです。わたしたちが「プログラムを造る」のではないのです。「神のプログラム」を心から、信じて受け入れる、そしてすべてを神に委ねるのです。神のプログラムというよりも、「神の秘められたご計画」(ミュステリオン)を受け入れるのです。その神のご計画を、秘められて覆い隠されていたとしても、神の御心とご計画を心から信頼して、それが実現することを願い求めて、祈ること、それが最も確かな道であり、公正で間違いない選択ではないかと思います。

その最もはっきりした形を、すなわち「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と最も強く祈り続けておられたのは、他の誰よりも、イエスさまご自身でした。主イエスは、ゲッセマネの園で夜を徹してこう祈られました。「ルカ22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。22:40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。22:41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。22:42 『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかしわたしの願いではなく御心のままに行ってください。』」(ルカ22:39~42)。この祈りの後に、主イエスは十字架に向かいます。つまり、神のすべての御心は、御子イエス・キリストの十字架における犠牲の死、贖罪のいけにえとして、すなわち、私たちのために独り子の犠牲による贖罪にあった、と言えます。そうです。神の御心が完全に露わに示された場、それが、主イエス・キリストの十字架だったのであります。主の十字架の死のただ中に、神の御心が啓示されたのであります。父なる神は、その永遠の独り子を人間として受肉させ、贖罪の犠牲として、十字架における死をもって、人間すべての罪を償ったのであります。神の御心は、人類を、御子を引き換えにして、救うことにありました。それは、ヨハネが「3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16~17)と証言する通りです。御子は、この父なる御心を受けて、罪に支配された人間性を自ら背負い、人間を贖うためにご自身を十字架にお献げになったのです。それはまさに、「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)と告白する通りです。父と子の神の一致した御心が、キリストの十字架という出来事となって、露わに、しかも世界史において示されたのです。

 

3.「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」

さらに、もう一つ、主イエスの十字架でのご最後のお姿に、見ることができます。ルカによる福音書は、とても意味深い証言を続けて重ねています。主イエスがご自身の霊を父なる神にお委ねする場面です。「ルカ23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。23:46 イエスは大声で叫ばれた。『父よわたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。23:47 百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」というルカの証言から、主イエスは、ご自身のすべてを、霊も魂も存在のすべてを、父なる神の御手に委ねて息を引き取ります。わたくしも、このように、臨終を迎えることができれば、よく思うことがあります。

上に掲げた二つの聖書証言には、とても重大な意味が込められているように思われます。まず主イエスは、永遠の神の御子でありながら、私たちのために、「人の子」として、マリアから私たちと全く同じ人間性を受け取って、人間となられ、私たちの人間本性を完全に背負って、ゲッセマネで祈ります。主イエスは「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈り、私たち人間本性を完全に担って十字架にかかり、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言われ、息を引き取られます。しっかり注目すべきことがここにあります。私たちは、ここで、主イエスがいったい何をなさろうとしているか、しっかりと見つめるのでなければなりません。ここで、主イエスは、まさに私たちのために私たちのすべてを背負い、担い尽くしています。つまり私たちは、決して、キリストから離れた所で、祈るのではないのです。それどころか、キリストから離れた所で、日々の暮らしているわけでもないのです。人類は皆、その人間本性において、既にキリストに完全に背負われて、祈りをささげ、キリストの身体として、十字架において担われて、しかも霊のすべてを神の御手に委ねて、暮らしているのであります。問答124で「自分自身の意志を自ら放棄して、一切の異議を唱えることなく、ただあなたの善き御心にのみ服従させてください」と祈るよう、教えられていますが、実は「服従する」ということは、その本当の意味から言えば、完全にキリストにお任せできるようになった、すべてを委ねしてよい、ということであります。何もせずに、何かをした所で実際は何もできないのですが、キリストに背負われ担われて復活して天に昇るのですから、その他に何もないことが既に分かっているのですから、身軽になって、安心して、何もかも、お任せすればよいのであります。忘れてならないこと、最も大切で、恵み溢れることは、私たちは既に「キリストの身体」として、キリストに背負われ担われている、という事実と現実です。だから、キリストと共に一つとなって「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈り、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、生涯を送るだけでよいのであります。

 

4.「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」

マタイによる福音書では、これもまた大変意味深い、主イエスとペトロとの問答が紹介されます。「マタイ16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者神のことを思わず、人間のことを思っている。』16:24 それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』」(マタイ16:21~25)。

言うまでもなく、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは、労苦や苦悩を覚悟して、また殺されることを覚悟して、従いなさい、と命じたわけではありません。難行苦行を耐え忍び、死をも覚悟して、従うことが、信仰の道である、と教えているのでもありません。確かに「自分の十字架」とありますから、「キリストの十字架」をまねて、自分もキリストのように「自分の十字架」を背負うべき、と理解してしまうのではないかと思います。しかし、どう考えても、イエスさまは、私たちが十字架を背負うことを求めておられるようには、到底、思えないのです。なぜなら、私たちが十字架を背負うことなど、決してできない、ということを、主イエスは既によくご存知だったからです。その証拠にペトロに、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われています。私たちのできることは、結局、躓き続けながら、生きることではないかと思います。では、「自分の十字架を背負う」とは、どういうことでしょうか。ハイデルベルク信仰問答の問答43は、「キリストによる十字架での犠牲奉献と死によって、私たちはどのような恩恵を受けるか。」と問い、「主キリストの御力によって、私たちの古い人間性は主と共に十字架につけられ滅ぼされ葬られるのです。その結果私たちの内にある肉の邪悪な欲望はもはや私たちを支配することはありませんそれによって私たちは感謝の献げ物として自分自身を主にお献げするようになるのです。」と答えています。簡潔に言えば、ひたすら主の十字架に感謝する、ということではないでしょうか。つまり、私たちにとって、自分の十字架を背負うとは、まさに、主キリストの十字架に心から感謝をささげて生きる、ということであります。それはまさに、自分をキリストに委ねて、自分は既にキリストの十字架において担われており、そのキリストの十字架の恵みを、心からの感謝と喜びをもって背負う、ということになるのではないでしょうか。それは、十字架のキリストの心と身体に与ることを意味します。キリストのお身体のうちに、一体の身体として共に担われ背負われて、新たに生まれ変わることでもあります。それは、まさにキリストの身体である教会として、教会に生きることではないでしょうか。主の祈りの最初で「我らの父よ」と祈ることのできる、その大きな意義は、ここにあります。「主の祈り」の本当の力と恵みは、十字架と復活の主キリストに担われ背負われた「キリストの身体」として、主のもとで共に祈る所にあるのではないでしょうか。