2021. 7.11 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第8主日
ヨハネによる福音書講解説教6
説教 「天に属する者は天に、地に属する者は地に」
聖書 ヨハネによる福音書3章31~36節
ヨハネの手紙一5章6~12節
3:31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
3:32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
3:33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。
3:34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が”霊”を限りなくお与えになるからである。
3:35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。
3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、
御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
1.ヨハネは、「二元論」によって、福音を告知する
昨年の「ハイデルベルク信仰問答」も、そして今年の「ヨハネによる福音書」も、きちんとその意味を咀嚼して理解するには、決して容易いことではないように思います。聖書を読み解くとは、すぐに誰にでも分かる、という分かり易い話ではないようです。一年かけても、場合によっては10年も学び続けても、必ずしも「よく分かりました」とはならないのです。けれども、根気強く学び続けますと、ある程度、その考え方や特徴は、分かるようになるのではないかと思います。「信条」であれば、教会の一致した信仰基準なので、その信仰基準をもって、自分の信仰を点検し検証することができるようになります。自分の信仰をより堅固につくるうえで「信条」から学び直すことで、信条は非常に有効に活用できるようになります。「ヨハネによる福音書」であれば、ヨハネ福音書が、どのように福音を語るのか、その「語り方」や特徴が分かるようになると、そうした語り方の特徴を手掛かりにして、より深くより鮮明にその意味が分かるようになります。
そこで、本日は、ヨハネによる福音書を共に読み、共通した理解を共有するために、読み解く上で重要な鍵となる、コツのような所を、先ずお話したいと思います。その重要な手がかりは、説教題にも「天に属する者は天に、地に属する者は地に」ありますように、ヨハネは、「天」に対して「地」、「命」に対して「死」、「信じる者」に対して「信じない者」…というように、相互に対立する概念を対照させることで、「福音」の本質をより深くより鋭く伝えようとします。今日の聖書テキストには、「天」に対して「地」が登場しますが、他にも「信じる者」に対して「信じない者」、「永遠の命」に対して「死と滅び」、「神の愛」に対して「神の怒り」、「霊」に対して「肉」というように、背反しあう二元論をもって「福音」の本質を浮き立たせようとします。天と地、上と下、光と闇、真理と虚偽、命と死、霊と肉、永遠と滅び、善と悪、自由と隷属、というように、常に本質的に異なりしかも相互に対立し合う二元論をもって、福音を解き明かそうとします。そればかりか、天と光、命と永遠、霊と自由などは、相互に互換性のある共通概念として、用いられます。地も下も、闇も虚偽も、肉も滅びも、其々相通じ合う共通概念ですので、極論すれば、〇か×か、という実に単純な二元対立の中に、聞く者を引き込んで、どちらを選択するか、その決断を迫る、という語り口になります。そしてあくまでも〇は〇、×は×ですから、聞き手は、二元論という二者択一の中で逃げ場を失い決断を迫られる、ということになります。
私たちは、ヨハネの福音告知によって、二元対立し合う背反する二つの世界の狭間に立たされます。そして、非常に厳粛に、しかも危機的な意識の中で、果たして自分は「命」なのか、それとも「死」なのか、或いは「真理」なのか、それとも「偽り」なのか、そのどちからを選ぶという決断を迫られます。どちらを選ぶのか、という福音のみことばの前に立つことで、「信仰」が自己の根源から問われます。言い換えますと、福音のみことばを聴くとは、自分が厳粛な思いで「信仰」を選択する決断へ招かれることにもなるのです。その結果、「みことば」それ自体が、聞き分けて信じ受け入れることで、あなたに「命」を与えるのか、それとも、あなたは「死」を選ぶのか、その選択的決断に導かれることになります。しかも、その自分が下す信仰の決断と選択において、私たちは既に「救われている」か「裁かれている」か、裁きまでもが即時に決定してしまうのです。こうした「福音の告知」は、ではあなたは信じて受け入れるか、それとも拒否するのか、それがそのままその場において、「審判の法廷」に立つことになります。ヨハネは、「福音」を二元論の中で告知することで、告知された福音のみことばにおいて、二者択一的選択と決断を迫り、したがってその結果、「福音の告知」それ自体が、ついには「審判」の場となり、「法廷」そのものとなるように、みことばを構造化した、と言ってもよいのではないかと思います。まさに「福音の告知」は、聴く人々を二元論的決断のうちに立たせ、あなたの救いと滅びが決定づけられる審判の場となる、という一連のみことばによる神のみざわなとなって働くのです。しかもその「福音の告知」の言葉のただ中に、神は「言」として生きて働き現臨しておられるのです。こうした「福音の告知」の前で、私たちは逃げ場を失い、根源から鋭く自己の実存が深刻に問われ、ついに光のうちに生きるのか、闇のうちに生きるのか、その決断を徹底的に迫られることになるのです。こうした所に、ヨハネの福音の語り方の特徴が、非常によく現れているのではないでしょうか。3章16節で「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と、ヨハネは決定的な愛と命の福音を告知します。しかしその福音の告知は、直ちに「3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と語り、信じる者には救いの宣言を、信じない者には裁きの宣告をします。このように「福音の告知」は、即座に、一方では救いを宣言する「福音」となり、他方では裁きの宣告する「神の呪い」或いは「神の怒り」となって聞く者の上にとどまるのです。さてあなたはどちらに立つのか、という二元論のみことばの前に立つひとりひとりの決断を通して、「救い」と「裁き」という最後の審判はすでに今ここに、あなたのうちに成就してしまうのです。こうしたヨハネの宣教の特徴は、福音書の全編に渡って貫かれています。
2.ヨハネは、未来の最後の審判を「現在化」して、福音を告知する
もう一つ、ヨハネの著しい特徴は、すべての時間を「現在化」して語る、という特徴です。簡潔に言えば、「明日」のことも「今」はっきりしなさい、と現在化して告げ、決断を迫ります。そればかりか、聞く側も、絶えず「現在」の出来事として、誠実に聞き分けて判断し決断することが求められます。「福音の告知」がなされ、そのみことばを聴いた「その場」において、しかもいつかこれからではなくて、「今」ここでの決断が迫られることで、その決断によって、審判もまた「今」ここで実現してしまうことになります。本来は、未来の「終末」において訪れるはずの「最後の審判」が、「今」ここで聞いたみことばにおいて「現在化」された形で告知されることにより、実質的には、すでに「審判」は結審してしまうのです。言わば、ヨハネは、福音を光か闇かという二元論の中であなたに告知することで、しかも未来に起こるはずの最後の審判を今ここに現在化させて告げ知らせることで、みことばを聴いたこの場において、あなたの現在のこととして救いか裁きかという審判を既に実現させてしまうことになるのです。まさに、みことばにおいて、再臨のキリストによる「最後の審判」は、未来から今へと「現在化」され、しかも二元論の選択的決断により、すでに今聞いたみことばにおいて完了してしまうになります。このようにヨハネは、過去・現在・未来と流れる「時間」の概念をすべて「現在」に集中させることで、「今」こそが「永遠」の場となり、「今」ここにすべてが普遍化されるのです。その意味において、終末の「現在化」は、現在の福音告知を永遠不変化してしまうことになります。みことばを聴くことにおいて、「今、現在」という一点に、全ての時間を圧縮させてしまい、時を超えて「永遠」を今に持ち込むのです。その結果、福音の告知において、本来はいつか未来に訪れるはずの「最後の審判」は現在化され、しかも二元論的に信仰の決断が迫られるというみことばによる法廷に立たされ、ついにはその選択と決断によって「最後の審判」が結審してしまうのです。「いつかやる!」ではなく、「今でしょ!」と迫る所に、ヨハネによる福音の告知の迫り方、或いは語り方の特徴があると言えます。このように、今ここで決断を迫る、言わば未来を「待つ」或いは「待望する」という原始教会からの伝承を受け継ぎながら、決して廃棄改変したわけではないのですが、ヨハネは、終末の時間を現在化することで、時間概念を「量」から「質」に転換させているのではないでしょうか。待望して待つべき「未来」と「終末」という量的な時間概念を、今現在に圧縮して、即ち「今」に現在化させてしまうことで、「永遠」という本質を量的にではなく質的に到来させて展開しようとした、と考えられます。この福音の語り方は、どうして、どこから、生まれたのでしょうか。もうすぐに終末が到来し最後の審判に立たねばならないので、悔い改めて、準備をしましょう、という原始教会のメッセージを、より新しくそしてより深く解釈し直して、福音の告知と最後の審判とを直結させる時間の構造的な圧縮は、どこからどうして、可能となったのでしょうか。ヨハネは、今キリストの福音が告げられたからには、信じて受け入れるのであれば、永遠の命を得るけれども、今信じて受け入れることができないのであれば、その時点で、すでに裁かれている、と断言します。こうしたヨハネのような宣教は、どこから生まれたのか、それは、非常に意味深い問題であります。
3.先在のロゴス・キリスト
それは、ヨハネが「キリスト」をどのように理解していたか、という「キリスト論」から生じている、と考えられます。つまりヨハネとヨハネの教会が共有し大事にしていた信仰告白、つまりキリスト告白そのものと深く関係していると思われます。ヨハネは、洗礼者ヨハネの証言として、次のように「キリスト」について、証言します。「3:31上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」と言い表します。これだけ読んだだけでは、意味をよく理解することは難しいと思います。そこで、冒頭で申しましたヨハネの二元論的対照表現を想い起しますと、「上」も「天」も、「神」も「霊」も「命」も、すべて共通する同一概念として、理解し捉えることができます。反対の概念として「地」「肉」「死」「裁かれている」「信じない」などがその共通概念です。そうした対立概念と共通概念を巧みに用いながら、キリストとはどのようなお方なのか、どこ(天)に属し、どこ(天)から来てどこ(天)へ行かれるのか、何を本質(受肉した神の言)としておられるのかを、明らかに示そうとします。ヨハネ福音書の最大の特徴は、そうした天と地、霊と肉などの相対立する二元論的概念を用いて、キリストとは何か、より一層深い所から言い表そうとするヨハネの「キリスト」告白にあります。
結論から申しますと、ヨハネのキリスト理解は単純明解です。それは何よりも「言」である、ということです。キリストは本質的に「言」そのものであり、言を告げ知らせる「告知者」でもあり、同時にまた告知された福音の「言」そのものであります。少し乱暴な表現になりますが、「言」とは、創造・和解・救贖を三一論的に貫き、神・キリスト・聖霊・受肉のキリスト・十字架と復活と昇天による救い・宣教・教会・礼拝・サクラメント・聖書・説教などを一気に一串に串刺しにしている先在の神の言であります。その典型的な表現が、福音書の冒頭で、宣言されます。「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と語り、ヨハネは、キリストを「言」として言い表します。言い換えますと、「神」であり、万物の「創造主」であり、「命」の源泉であり、世に真理を照らし出す「啓示者」ご自身でもあり、自らが自らにおいて自らを語る「言」である、ということになるでしょうか。このように「言(ロゴス)」とは、語られ言葉であり、告げ知らされた言葉の内容本質でもあり、最終的には、言葉を通して告げ知らされた真理であり存在そのものを意味します。したがって、告げ知らされた言葉において、またその告知の言葉を通して、「言」そのものが啓示され、「言」そのものも現臨して「言」の真理が光のように明らかに現るのです。
「言」としてのキリストは、福音の啓示者であり、同時に福音そのものを実現する「本体」である受肉のイエス・キリストであり、したがって告知者が聖霊によって福音を告知するみことばにおいて、その告知者である「言」は現臨して、先在の神であると共に受肉した贖罪者である自己を光のように明らかに現わすのです。したがって「みことばを聞く」ということは、即ち福音を告知し、みことばにおいて現臨し、救いを実現し、審判するお方である「キリスト」ご自身の前に立つ、ということを意味します。聴く者は、告げ知らされた言葉において、今既に救い主キリストを眼前に迎えているのです。みことばによる福音の告知は、単なる言語的な告知に止まらず、告知された福音のことばにおいて今既に現存するキリストご自身が現れており、聞く者のもとに審判者としてすでに到来しているのであり、まさにみことばにおいてキリストは、聞く者の前に存在と力を尽くして迫っているのであります。なぜなら、福音の告知する告知者自身が、みことばにおいて現臨する「永遠の神」であり、「先在のロゴス」であり、「十字架と復活の受肉のキリスト」であり、全権を委任委譲された「最後の審判者」であるからです。みことばを語る、みことばが語られるとは、みことばを語る本体が現臨してそこにみわざを行うことと直結しているからです。つまり神の子であるキリスト、それは先在のロゴスであり、それは受肉して世に神を啓示する啓示者ご自身であり、それはまさに語られた福音の内容そのものでもあります。みことばとは、神がことばとして一体化され、神もことばも直結された一体構造として、キリストを信じ受け入れていることになります。したがって、この言葉におけるキリストは、過去・現在・未来を串刺しにするようにして、みことばにおいて、現在化され現存するのです。言い換えれば、ヨハネが勝手に、終末を現在化したというよりも、キリストというお方の持つ本質そのものが、時間を超えた永遠の本質であり、同時にまた時間の中において、永遠の救いを実現し決定づける審判者であるからです。
4.「証しを受け入れる」
福音書3章32節以下で「3:32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。3:33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。」と記しています。まずここで「この方は、見たこと、聞いたことを証しされる」という表現ですが、言うまでもなく、先在のロゴスであり、神の独り子であるキリストが、神であり、神と共にあって、万物を創造し、命の源泉であり、人間に命と真理を賦与する光であることを、「見たこと、聞いたことを証しされる」と表現したのではないでしょうか。ここでも、「言」であるキリストは、天の神を告知し啓示する証言者として、その証言のみことばを通して、天の本質の真理を証しているのです。しかし天や神とは本質が完全に異なる地は、それを受け入れ理解することはできません。ただ唯一の道は、みことばを信じて受け入れることで、初めてその内容本質である神の独り子であり先在のロゴスの真理を認められるようになり、神の存在を知ることになるのです。主イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と仰せになられた通りであります。主イエスとその証しによる道を通って、主イエスという真理に辿り着くことがえき、そして主イエスという命に導かれるのです。33節に「その証しを受け入れる者は、神が真実であること(o[ti o` qeo.j avlhqh,j evstin)を確認したことになる。」とあります。告げ知らされた言葉を信じて受け入れ、聴き分けることで、初めて「神」を認識できるようになるのです。「確認したことになる」と訳されている元の字は、「封印する」(sfragi,zw evsfra,gisen)というアオリスト形の字で書かれています。口語訳聖書は「しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである」と訳し、新改訳聖書は「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである」と訳しています。つまり、責任をもって賛同すると共にその内容を証明する証明者となって、署名捺印をする、という意味になります。33節の要点は、「その証を受け入れる者(o` labw.n auvtou/ th.n)」とは、自ら責任をもって主の証言に賛同し、自らもその内容が真実であることを証明する証言者となることです。
5.人の子の即位式における審判者としての全権委譲:遣わす、言葉を語る、聖霊を与える
34節で「神がお遣わしになった方は(o]n ga.r avpe,steilen o` qeo.j)は、神の言葉を話される(ta. r`h,mata tou/ qeou/ lalei/)。神が”霊”を限りなくお与えになるからである(ouv ga.r evk me,trou di,dwsin to. pneu/ma)。」と記されております、この表現は、まさに先ほど申し上げた、神の独り子である先在のロゴスが、地上に受肉して、神の言葉を語る啓示者として遣わされますが、その啓示者は「かぎりなく」(ouv ga.r evk me,trou)とありますように、聖霊が量り取られて与えられるのではなく、「無限」に与えられている、ということです。それは、すなわち、神の本質である聖霊を無限に共有する存在である、すなわち「神」であることを意味します。だからこそ、「3:35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」のであります。このみ言葉を聴きますと、やはり共観福音書の主イエスご自身の受洗の記事を想い起します。即ち「1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」という記述です。以前に、この記述について触れた際には、「十字架における贖罪の死」を前提にした「御子の聖別奉献」の宣言である、ということを申し上げました。それがまさに「神は独り子をお与えなる」ことであります。35節の「3:35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」も同じ意味に理解することができます。「御父は御子を愛して」とありますように、神の愛は「御子の手にすべてをお委ねする」ことであり、御子の十字架における贖罪の死とその従順を「世に与える」ことでした。神の愛は、一方で最後の審判者としての全権を委譲され、他方ではそのために御子におけるすべての祝福と愛を世に与えられたのです。ここで最も重要なことは、万物の審判者としての神は、その全権のすべてを御子の御手にお委ねになり、完全に全権委譲された、という公の宣言がここでなされていることであり、そればかりか、審判の全権は御子に、そして御子は、御子ご自身の十字架の犠牲における罪の赦しを語る福音の告知者として、人々の前に立つのです。その語られたみことばにおいて、御子における愛と赦しを信じ受け入れるのか、それとも御子を拒絶して、愛と赦しを捨ててしまうのか、みことばを聴く人々はその根源から実存が深く問われ、命か滅びかという決断を迫られ、まさにみことばの法廷において最後の審判は結審するのであります。
6.「みことば」という最終法廷における結審
36節で「3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」と主イエスははっきりと主文宣告をします。冒頭で、ヨハネ福音書の二元論的福音告知の特徴についてお話しました。二元論は、救いか裁きか、命か死か、という二者選択を迫り、信仰的決断を求めます。そうした福音の語り方は、実はヨハネのキリスト論、すなわちキリスト理解に起因しており、そのキリスト論の特徴は、語られ告知された「言」そのものが、先在の「言」であり、神であり、神の独り子であり、かつまた創造主でもあるのです。しかもキリストは「最後の審判者」としてすでに神より全権委譲されて、最後の審判の法廷に既に臨んでおられるのです。「量」的時間概念では未来の終末に再臨する審判者は、今ここに、現在化された永遠の「質」的時間概念のもとに、人々はキリストの語る言葉において、二元論的に選択と決断が求められ、信仰的決断を通してキリストとキリストの救いに永遠に与り、或いは不信仰を通して神の愛と赦しを放棄し、神の怒りを選択することで、この法廷での審判は結審するのです。キリストのみことばを聴くことおいて、最終法廷に立ち、二元論的決断が迫られ、その決断を通して、審判は結審します。そうした宣言が、36節以下のみ言葉によって示されます。「3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」という宣告です。したがって、繰り返しますが、「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」というメッセージとなって、最終法廷での結審となります。