2021年7月4日「メシアを預言する洗礼者ヨハネ」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 7. 4 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第7主日

ヨハネによる福音書講解説教5

説教 「メシアを預言する洗礼者ヨハネ」

聖書 マラキ書3章1~12節

ヨハネによる福音書3章22~30節

 

 

3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行ってそこに一緒に滞在し洗礼を授けておられた

3:23 他方、ヨハネはサリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。

3:24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。

3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった

3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が洗礼を授けていますみんながあの人の方へ行っています。」

3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ人は何も受けることができない

3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。

3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人そばに立って耳を傾け花婿の声が聞こえる大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている

3:30 あの方は栄えわたしは衰えねばならない。」

 

 

はじめに. 洗礼者ヨハネの証言

前回の説教では、ニコデモとの問答を受けて、主イエスは、ご自身が天から降って来た「神のメシア」である、と暗示しました。それを「わたし」という一人称単数形に注目して聖書を読みました。またそれを受けて、福音書記者ヨハネとその教会も主イエスと一緒になって、主イエスの証言者として、メシアを受け入れることのできないユダヤ教の権力者たちや世俗の権力者たちと向き合い、闘っていたことも、「わたしたち」という一人称複数形に注目して読みました。

しかし弟子たちのほかに、メシアの到来を証言するために神から遣わされた偉大な人物が、ここに、もう一人、おりました。洗礼者ヨハネです。本日のテーマは、この洗礼者ヨハネの証になります。福音書記者ヨハネは福音書の冒頭で「1:14 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と記します。つまり、主イエスが「神の独り子」であり先在の「ロゴス(言)」であって、そのお方が受肉して世に降って来られたことを真っ先に宣言します。そしてこの神の独り子を証言する唯一の証言者として、神から遣わされた洗礼者ヨハネを紹介します。1章15節以下から登場させます。つまり洗礼者自身が、神のメシアである主イエスを証言する「証言者」に過ぎないことをはっきりと告白します。「1:15 ヨハネはこの方について証しをし声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神この方が神を示されたのである。1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、1:20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 1:21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。1:22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」1:23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」1:24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。1:25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。」(ヨハネ1:15~28)。

少し長い引用になりましたが、福音書記者ヨハネは、共観福音書以上に、非常に丁寧にそして重く、洗礼者ヨハネを紹介しております。しかも先生者ヨハネ自身の証言を採り挙げながら、非常に明解かつ明瞭に「キリスト」を証言し、反対に自分は単にその証人に過ぎず、ただキリストをお迎えするために道備えの奉仕者であって、そのために、水で悔い改めを求める洗礼を授けている、と告白しています。洗礼者ヨハネは、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」と公言して、明確にメシアを指し示すと同時に、「わたしはメシアではない」と言って、自分はメシアの証言者に過ぎないことを謙遜かつ明確に言い表してします。このように洗礼者ヨハネは、自分の「天分」をはっきりと弁えており、非常に謙遜な証言者として自らを徹底します。おそらくペトロをはじめとする弟子たちさえも、主イエスが本当の所はどなたなのか、はっきりとした確信を持てないままに、十字架の死に立ち会うことになると思われます。しかしただひとり、正確に「主イエスはだれであるか」、その真実を証しすることのできた人物こそ「洗礼者ヨハネ」でありました。その洗礼者ヨハネの宣教の中心は、主イエスをお迎えするための道備えとして、水による洗礼を授けることでした。

 

1.洗礼者ヨハネの「水による洗礼」:その意味と目的

ところが、とても意味深いことに、福音書は3章22節以下でこう記します。「3:22 その後、イエスは弟子たちとユダ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。」とあります。つまり、洗礼者ヨハネもそして主イエスも共に、全く同じように、「水」で洗礼を授けていた、というのです。こう読みますと、洗礼は特別な意味を持った儀式のような印象を受けますが、当時は非常に広く行われていたようです。例えば、異教徒がユダヤ教に改宗する際には、神に対する悔い改めと清めの儀式として、水による洗礼が古くから行われていたようですし、クムラン教団では、洗礼のための沐浴設備があったようです。洗礼は、ある意味で、洗礼は当時の宗教生活には欠かすことのできない慣習であったようです。ですから、洗礼を授けまた洗礼を受けるということは、ユダヤ全土で広範囲に行われていた宗教実践であったと思われます。洗礼を受け、心を入れ替えて、清く正しい生活を初め直すことは一般的な宗教生活でした。もう一つ、民衆の心には「終末」意識が大きく影響していた、と考えられます。これまでの社会が終わり新しい時代が到来する、という期待と熱狂が人々を支配していたようです。そうしたユダヤの人々の思いは、当然ながら、洗礼者ヨハネの洗礼活動や主イエスの宣教に引き寄せられて、洗礼を受ける人々は続出する、という事態になっていたのではないか、と思われます。言わば「洗礼」は、当時の大きな広がりを見せていたユダヤの宗教運動を中心から支える典型的な儀式であった、と推察できます。

問題は、その洗礼がいったい何を意味し、象徴しているのか、洗礼の「内容」にありました。単なる悔い改めでもなく、また清めでもなく、ある決定的に意味と内容をもって、洗礼者ヨハネは、サリム近くのアイノンという場所で、或いはベタニアで洗礼を授けていたようです。その決定的な意味と目的は、悔い改め、即ち心を改めて神に向け直して、到来する「メシアを迎える」備えをなす、ということにありました。言い換えれば、民衆の心を「メシアの到来」に向けること、メシア到来を受け入れる準備をさせることにありました。「3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人そばに立って耳を傾け花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」と、洗礼者ヨハネは弟子たちに答えていますように、明らかに「花嫁」に喩えたイスラエルの民が、「花婿」に喩えたメシア(キリスト)を清く正しく新しい住まいに迎えられるように、花婿と花嫁との間に立って、婚宴を整えること、それが洗礼者ヨハネの洗礼の意味と目的でありました。「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。」と告白し、したがって、「3:30 あの方は栄えわたしは衰えねばならない。」(ヨハネ3:30)と弟子に説いて、洗礼者にはっきりとその「時」を、或いはその「幕場」を明確に弁えて、授けるヨハネの洗礼であることをよく示しています。つまり洗礼の内容とその意味は、今まさに終わり迎えようとしており、洗礼者ヨハネの洗礼の時は移り変わろうとしていたのです。洗礼者ヨハネの洗礼は「衰えねばならない」時期を迎え、主イエスの洗礼は「栄える」時期に至った、と証言している通りであります。そしてその証拠に、明らかに現実は、「あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」(ヨハネ3:26)と弟子たちが告げるように、みんなが主イエスのもとへ行って、洗礼を主イエスの名によって受けていたのであります。こうした所に、洗礼者ヨハネが「神の時」に従順に従おうとする「神への誠実さ」(Honesty to God)を窺い知ることができます。

 

2.主イエスの洗礼:洗礼者ヨハネの洗礼との本質的な違い

実は、この洗礼について、とても意味深長な表現がヨハネ福音書でなされます。福音書記者ヨハネは、3章22節で「 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し洗礼を授けておられた。」と記していますが、この「そこに一緒に滞在しdie,triben diatri,bw)、洗礼を授けておられたevba,ptizen bapti,zw)」という字をどちらも「未完了形」で書いています。先ほど、洗礼者ヨハネの洗礼の場合は「衰えねばならない」とありますように、時は移り変わりつつあることを明記していました。しかし主イエスの授ける洗礼はまだ完了していない、ということを暗に示そうとしているようです。まだ未完了という洗礼の本質を残したまま、主イエスの洗礼は授けられていた、ということを、福音書記者ヨハネは暗示しているように見えます。洗礼者ヨハネの洗礼の使命は既に主イエスの到来と共に完了したのですが、主イエスの洗礼は、まだ今の段階では完了してはおらず、まだ大きな課題を残したまま、洗礼を授けていた、ということになります。

ところが、この洗礼者ヨハネの洗礼と主イエスの洗礼をめぐり、ある現実的な疑問が生じます。「3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。『ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が洗礼を授けていますみんながあの人の方へ行っています。』」と記されます。今まさに、洗礼者ヨハネの弟子たちの眼前で、救済史の時が大きく変わり始めていたのです。「清めのことで論増が起こった」(25節)と表現されています。論点は「清め」です。つまり人そのものが、或いは人の罪が清められる、とは、どういうことなのでしょうか。ここには、いくつかのことが想定されます。まず第一に、⑴救済史上の「時」の移り変わりという問題です。メシアの到来という時を、洗礼者ヨハネのように、見分けることができるかできないか、にあります。みことばを通して働き現臨するメシアに、悔い改めと信仰を通してと出会い、メシアと向き合う「招きの時」でもあります。第二は、⑵洗礼の内容本質の違いです。洗礼者ヨハネの洗礼は、あくまでも「メシア到来」を指し示して、「道を整える」洗礼です。それに対して、主イエスの洗礼の本質は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」(ヨハネ3:14)という決定的な使命を担うものであるからです。すなわち主イエスの洗礼は、受肉した先在のロゴス(言)であり、神の独り子による「十字架における贖罪の死」に与る、という洗礼の本質と意味を担っています。十字架において罪の代価を完全に支払い尽くして、贖罪の死を通して、罪人を贖うことにあります。この主イエスの十字架における贖罪の死に与る洗礼です。そうでなければ、どれほど悔い改めたとしても、真実な意味で「神の清め」は実現しないからです。恐らく福音書記者ヨハネは、主イエスの十字架における贖罪の死を指し示すために、敢えて「未完了」で表そうとしたのではないか、と考えられます。つまり、未完を強調することで、主イエスの洗礼の本質は、悔い改めを前提にしつつも、むしろその目的は「十字架における贖罪の死」による贖いの洗礼であることを指刺したのではないでしょうか。そして三つ目は、⑶「清めの最終審判者は神である」ということになります。どれだけ水を被り、どれだけ胸を打ち叩いて、懺悔したとしても、罪を根本からお赦しになるのは「神」だからです。「清め」の根源的な有効性を判断しかつまた決定する審判者は「神」なのです。残念ながら、清めそのものを実現する実効性は、洗礼者ヨハネの洗礼には全くないのです。洗礼者ヨハネ自身が「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」(ヨハネ1:26~27)と告白する通りで、イスラエルの民を浄める、という民の罪を根元から清める力は自分には全くない、はっきりと言い表しています。これに対して、主イエスの洗礼は「1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(マルコ1:10~11)と証言されるように、天が裂けて神の霊が降り、天からの完全なる愛と義の承認を受ける場となるのです。「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声が受洗者の心身の隅々にまで響き渡る洗礼であります。まさにこれは、言わば、主イエスがメシアとして、また主の洗礼の本質が神のものである、という天から完全品質の保証を受けた洗礼ではないでしょうか。

こうした「清め」をめぐる本質問題を弟子たちが論争し合う中で、ついに洗礼者ヨハネは、はっきりと弟子たちに教えます。「3:27天から与えられなければ人は何も受けることができない。3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。」(ヨハネ3:27~28)。洗礼者ヨハネもまた、ここで、花嫁であるイスラエルの民を根元から清める花婿は自分ではなく、神が天において認め受け入れる「きよめ」とは、すなわち、神が天から与えるきよめは、受肉した神の独り子であり先在のロゴス(言)であるキリストの身体に与ることであり、キリストの洗礼にのみある、と証言して、弟子たちを諭したのです。

 

3.「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」

洗礼者ヨハネの水による洗礼と、そしてメシア(キリスト)による水と霊とによる洗礼の本質的な違いを考えますと、その決定的な判断基準を洗礼者ヨハネ自身の証言から得ることができます。それが「天から与えられなければ人は何も受けることができない」という3章27節の言葉です。洗礼者ヨハネ、天が誰に何をお与えになっておられるのか、深くそして厳密に見分け聞き分けています。自分には、前もって花婿と花婿の間に立ち、花嫁が新居を整えて、花婿であるキリストを清く正しく従順に迎え入れるよう、そのために婚宴を整え、その道備えをなす奉仕者として神に立てられたこと、そしてメシアの到来をイスラエル全土に告知して、イスラエル全土に悔い改めを迫り、水による清めバプテスマを授けることこそ、天から与えられた自分の使命であることを自覚していたと思われます。洗礼者ヨハネは、「メシア」という使命とは、天の神の独り子が天から降り受肉した主イエス・キリストにおいてのみ、実現可能な神の赦しである、ということを非常に鮮明に認識していたことがよく分かります。洗礼者ヨハネの使命は、その神のご決断とご計画に、全幅の信頼と讃美とをもって、ひたすらに服従することでした。

こうした考え方は、現代人の考えと質的に大きく異なる性格がありそうです。わたくしたち現代人は、ふつうは「人権」という絶対の権利のもとに、かつ自己を中心とする「自由意志」という信念のもとに、自己を思うがままに実現すべく、無制限に自己の可能性を追求しようと考えます。熊野先生風に表現すれば、近代の自我の原理です。その結果として、自由な競争という名のもとに、人間社会では激しい力づくの競争と闘い、場合によって生存をかけて奪い合いが生じます。そうした言動の原理は、常に紛争や戦争を引き起こすことも否めない事実です。しかしそうした自我の原理のただ中に身を置きつつも、「天は自分に何をお与えになるか」を、自分の欲望中心に思い込むのではなくて、謙遜に神の御心を慮り聞き分けることも、特にわたくしども神を信じ神に従おうとする者には重要なことです。自分が決めるのでもなく、多数決や社会が決めるのでもないのです。それは、ただ神のみが、お決めになることであります。それを可能な限り、時間と知恵を尽くして、慮り聞き分けるのです。みことばを幾度も幾度も聴き直しては、より深くより厳密に、そして謙遜に聴き分けつつ、いよいよ神の御心を深く探り求める中で、初めて天から何をお受けしたのかを知り、自らの立つ場、生きる場が明らかになるのです。人生の本質を、自分で獲りに行く戦利品として見るのではなくて、神が選び、神がお恵みくださる神の賜物として生きる場を求めるのであります。

この世にあって生きるとき、わたしどもの多くが経験する苦悩の起因は、そして解決点も同じように、多くの問題はここにあるのではないでしょうか。つまり自分の欲求欲望を中心にして奪い取りにかかる人生を生きるのか、それとも、神がお与えくださる賜物にしたがって謙遜に生きる人生なのか、それによって、苦悩も喜びを大きく変わるはずです。嫉妬や絶望に苦悩するとき、その多くの場合は、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」ことを聴き直す必要があります。仮に一見、奪い取りに成功し勝利と成功を喜ぶことができたとしても、それはヌカ喜びに終わってしまうはずです。なぜなら、天の神はそれをあなたにお与えになっていないからです。天から与えられないものを、人は決して受けることができないからです。ましてや人や物や金の力を用いて得たものなどは、一瞬のうちに奪い去られてしまうでありましょう。そしてこのことを最も襟を正して聴く場所こそ「教会」の中ではないでしょうか。教会の外の世界も、勿論のことですが、それ以上に「教会」の中で、謙遜に聴き分けられるべきみことばであります。

 

4.「十字架における贖罪の死」というキリストの名による洗礼

さて、先ほど22節の「イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し洗礼を授けておられた」という福音書の記述に触れた折りに、「イエスは洗礼を授けておられた」という字は「未完了形」である、と申しました。問題は、この時のイエスの洗礼において、「何」が未完了なのか、ということです。そしてそれは何と言っても、「十字架における贖罪の死」に招かれ与る洗礼である、と申しました。つまり、主イエスはまだ「十字架の死」と神の栄光を受けておられないからです。先ほどは、主イエスの洗礼について三つの観点から、すなわち⑴救済史上の時の移り変わり、⑵贖罪の死に与る洗礼、そして最後に⑶清めの判定者はあくまでも神である、という視点から、洗礼者ヨハネとイエスさまの洗礼との本質的な違いを明らかにしましたが、ここからは、さらにもう一歩踏み込んで、主イエスの洗礼の本質について迫ってまいりたいと思います。

まず救済史における「時」の深まりですが、福音書記者ヨハネは、主イエスの洗礼執行が、まだ「十字架の栄光」を受けていない時の洗礼であるがゆえに、「未完了形」でその時を暗示した、と指摘しました。しかし改めて洗礼者ヨハネの洗礼と比べ直してみますと、洗礼者ヨハネのそれは洗礼と言っても、あくまでもメシア到来を告知して指し示す洗礼であり、メシアを受け入れる「道備え」の洗礼でありました。したがって救済史という視点では、主イエスの到来を指し示す、あくまでも準備の洗礼です。地上の者がこちら側からいくら悔い改めたとしても、それは天における完全な清めにはなりません。ましてや神による救いそのものにはなりません。あくまでも地上での「準備」に過ぎず、道を備える取り組みに過ぎないのです。したがってどうしてもそれには「限界」もあり、不完全不徹底が生じます。その結果、清めの水による洗礼は、繰り返し行われることが余儀なくされ、再洗礼が繰り返されます。クムラン教団の沐浴洗礼も、繰り返し行われていたようです。しかし主イエスの洗礼は、罪を完全に償い罪を赦すための、ただ一度限りの、しかも永遠の罪の赦しであり、完全な償いと救いに人々を招き、救いそのものを天から与える洗礼です。福音書が暗示する通り、確かにこの世の時間と時点では、まだ十字架の栄光を受けていないので、未完了となったわけですが、しかしそうは言っても、主イエスが授ける洗礼は、本質において十字架における贖罪の死に招き罪の赦しに与る洗礼であり、救済史的には永遠に計画変更のない、永遠絶対の洗礼であります。神の独り子である先在の神のロゴス(言)は、聖霊によってマリアより受肉し、十字架における贖罪の死を迎える永遠の定めの中にあります。その不変不動の永遠の神の約束として、主イエスは、神の全能と全権をもって、ご自身に招き与らせる洗礼を授けておられました。この世における「時」という観点から言えば、十字架にかかる前の時点であり十字架の死はまだ実現してはいないのですから、未完了形ですが、しかし同時に、神の救いのご計画という点では、この世の時間概念の中に突入しつつも、この世の時間概念を遥かに突き抜けて、永遠完全の次元において、終末を先取りした形で、授けられるキリストの洗礼であり、しかもこの洗礼は、三位一体の神の名による永遠の神の約束のもとに、十字架における贖罪の死とそれによる赦しに招き与らせる洗礼であります。

こうした救済史の中で、時間の中にありつつしかも時間を超えて、終末を先取りした形で実現する救いの秘儀は「洗礼」だけではなく、全く同じことが「聖餐」についても言えます。過越の食事であった最後の晩餐においても、これから十字架において贖罪の死を遂げる前に、弟子たちを招き、十字架の犠牲を先取りして、罪を赦して新しい契約を結ぶ約束の場として、食卓を共にしておられたはずです。しかもこの約束の場は、先取りの約束ですが、永遠不動の約束でもあります。同じように、主イエスの名において洗礼を受けるとは、永遠に十字架における贖罪の死にあずかる、ということを意味するのではないでしょうか。確かにこの世の時の流れの中では未完了ですが、しかし同時に、キリストによる贖罪への招きにおいては、永遠で完全な形であります。そういう意味では、完了形でありつつも、その本質は永遠であり、完全であります。

繰り返し申しますが、キリストの洗礼とは、キリストの十字架における贖罪の死に与る洗礼です。問題は、洗礼者ヨハネの洗礼のように、こちら側人間の心や信仰を整え、主をお迎えするための道備えの準備ではありません。キリストご自身がキリストご自身の贖罪のお身体に神の恵みとして招き与らせる神のみわざであります。主の洗礼は、神の霊である神の本質から生じる神の働きです。言い換えれば、聖霊を通して神のロゴスは直接地上に降り、神が私たちの身体に宿り、私たちを神の神殿に造り変え生まれ変わらせる神のみわざであります。

 

5.キリストを着る、キリストの身体となる「洗礼」

まさに、洗礼はキリストを着るための神の招きであります。パウロはローマの信徒への手紙6章でこう教えています。「6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られその死にあずかるものとなりました(suneta,fhmen ou=n auvtw/| dia. tou/ bapti,smatoj eivj to.n qa,naton)。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたようにわたしたちも新しい命に生きるためなのです(i[na w[sper hvge,rqh Cristo.j evk nekrw/n dia. th/j do,xhj tou/ patro,j( ou[twj kai. h`mei/j evn kaino,thti zwh/j peripath,swmen)。6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」と明記するように、キリストの洗礼は、キリストの十字架の死と復活の身体のうちに移し入れる神のみわざであります。ここで、洗礼の肝腎要となる最も重要な本質こそ、「キリストの受肉の身体」であります。いくら時の中で、過去・現在・未来と移り変わろうと、受肉のキリストの身体は永遠に至るまで貫かれています。わたしたちはそのキリストの身体に与る洗礼を受け聖餐を分かち合っているのです。十字架における栄光の死、贖罪の死も、そして三日に実現する栄光の復活も全て、このキリストの受肉した「お身体」において、このキリストにおける「人間性」を通して、初めて成し遂げられる私たち人間の救いであります。それゆえ、主イエスが授けられた洗礼の最も顕著な特徴は、そしてその本質は「キリストの身体に与る」ということであり、「キリストの身体」として造り変えられて新生することにあります。それは、私たちがキリストの人間性から離れた所で、別個に新しい人間として生まれ変わることではありません。わたくしたちが生まれ変わる新しい魂や肉体、それは、キリストの身体と全く同じ一つの身体であり、まさに「キリストの身体」そのものとして分かち与えられて、私たちは生まれ変わり復活するのであります。そして私たちの心と身体の内側に新たに生まれた、このキリストの身体はいよいよ聖餐を通して養われかつ完全な復活体へと成長してゆくのであります。外なる人は滅び、内なる人は日々新たにされるのです。