2021年8月22日 「ここにパン五つと魚二匹があります」 磯部紀代子 牧師

 

2021.8.22 西ノ台教会 聖霊降臨第14主日

ヨハネによる福音書講解説教12

説教「ここにパン五つと魚ニ匹があります」

磯部紀代子

出エジプト記12:21-28

ヨハネ福音書6:1-15

 

本日、与えられました御言葉は、有名な五千人の供食についての記事であります。この記事は、4つの福音書すべてに記載されています。4つの福音書に共通して記載されている記事は、それほど多くありません。特に重要な事柄だけだと言っても過言ではないと思います。それほどに、この奇跡は弟子たちに深い印象を残したのだと思います。また、どうしても人々に伝えなければならなかった出来事でもあったのです。4つの福音書に共通するものとしては、五千人という人数やパンや魚の数、そして、残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになったという記述であります。けれども、ヨハネによる福音書は、平行記事である共感福音書と比較すると、いくつかの違いを見出すことができます。まず、五千人が供食した場所でありますが、マタイによる福音書とマルコによる福音書では、人里離れた所と記し、ルカによる福音書は、ベトサイダという町であると記し、ヨハネによる福音書は、ガリラヤ湖、すなわち、ティベリアス湖の向こう岸と記しています。ガリラヤ湖は、いろいろな名前で呼ばれていました。ガリラヤ湖、ティベリアス湖の他に、ゲネサレ湖とも呼ばれていました。その湖の向こう岸、すなわち、湖の東側にある山地に行かれたようです。そして、五千人の供食が、いつ行われたのかという点については、共感福音書では、明確に記されていませんが、ヨハネによる福音書は、ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていたと明記しています。何故、ヨハネ福音書の著者は、わざわざ、過越祭という時を明確に書き記したのでしょうか。そこには、何か意図するものがあるのでしょうか。また、共感福音書では、食事に関して、弟子たちの方が、主イエスのそばに来て「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」と言ったと記していますが、ヨハネによる福音書では、逆に、主イエスの方からフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたと記しています。何故、主イエスの方から質問したのでしょうか。しかも、何故、質問の相手がフィリポだったのでしょうか。また、二百デナリオンという金額は、ヨハネによる福音書とマルコによる福音書にだけ出てきます。更に、共感福音書には出てこなかった少年が、ヨハネによる福音書では、登場しています。そこに、何か意味があるのでしょうか。更に、ヨハネによる福音書は、共感福音書にはない14-15節の重要な言葉で締めくくっています。いずれにしても、様々な疑問が生じますが、その疑問の答えを一つ一つ紐解いてゆきたいと願っております。

始めに、主イエスが、ガリラヤ湖、すなわち、ティベリアス湖の向こう岸に渡られると、大勢の群衆が後を追ったという状況から説明しています。紀元20年頃、ヘロデ・アンティパスが、ガリラヤ湖のほとりに町を建てました。その時、当時のローマ皇帝の名前にちなんで、ティベリアスという名前を町の名前としました。それで、ユダヤ人以外の人々が、ガリラヤ湖をティベリアス湖、あるいは、ティベリアスの海と呼んだそうです。いずれにしても、大勢の群衆が、主イエスを追って来たというのであります。しかし、ヨハネ福音書の著者は、群衆が何の目的で、主イエスを追って来たのか、その理由をはっきり述べています。群衆は、主イエスの話を聞きたい訳でも、主イエスを信じた訳でもなく、唯、病人たちが癒されたのを見たからだというのであります。つまり、主イエスを追って行けば、何か、自分にとって、利益を得られるのではないか、あるいは、何か特別なしるしを見ることができるのではないかと期待して、ついて来たのであります。

主イエスは、追ってくる大勢の群衆に目を留められました。神から遠く離れ、罪の中にいる人間を、主イエスは、あわれに思われたのかもしれません。死と罪の奴隷的支配の中で道を失い、生きる希望を失っている人間に、主イエスは、憐れみと愛を示すのです。神から遠く離れている罪人を養い、まことの命へと導くのです。その為に、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と質問したのです。何故、フィリポだったのでしょうか。フィリポは、早くから主イエスに従い、ナタナエルを主イエスに導いた人です。(ヨハネ1:45)ルカによる福音書によれば、この五千人の供食は、ベトサイダという町における出来事だと記しています。もし、そうだとするなら、フィリポが、ベトサイダの出身だから、土地柄を良く知っていると判断なさって、フィリポに聞いたのでしょうか。けれども、アンデレとペトロもまた、ベトサイダの出身であります。(ヨハネ1:44)もし、土地柄を考慮したとするなら、アンデレやペトロでも良かったはずです。しかし、ヨハネ福音書の著者は、主イエスが、フィリポに質問した理由を6節で明確に述べています。すなわち、こう言ったのは、フィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのであると説明しています。フィリポに質問したのは、フィリポを試みるためだと言うのであります。そうだとするなら、フィリポの何をためそうとしたのでしょうか。おそらく、フィリポの心が一体何を見つめているのか、そして、主イエスの質問の意味を正しく聞き、正しく理解しているのかを明確にする為ではないかと思います。

フィリポの答えは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」というものでした。一デナリオンは、一日の労働賃金ですから、二百日分の労働賃金に値するお金を必要とすると答えています。二百日分の労働賃金に見合う大金など持っているはずはないのだから、パンを買うのは不可能だと答えているのであります。彼は、主イエスの期待を見事に、裏切る返事を返しています。彼が見つめているのは、目の前にいる大勢の群衆です。彼は、この世のことのみに心を奪われ、群衆が、みんなでパンを食べたら、いくらかかるのかと金勘定するばかりで、しかも、自分では何の行動もせずに、頭から否定するだけでした。彼は、主イエスの質問の意味が、全く理解できなかったのです。

フィリポが答えていると、もう一人の弟子が登場してきます。シモン・ペトロの兄弟アンデレであります。アンデレは、金勘定しているフィリポと違い、大勢の群衆の中から食糧を持っている人を捜し出して来ました。そして、主イエスに「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。」と報告しています。大勢の群衆の中から食糧を持っている人を捜し出すのは、大変だったと思いますが、すぐに続けて「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」とフィリポと同じように、懐疑的な発言をしています。アンデレもまた、フィリポと同じように、この世の現実のみに心を奪われ、勝手に、無駄だと判断したのです。彼らは、全く、主イエスの思いに心を向けることができませんでした。主イエスに心を向けていないので、当然、主イエスの考えを理解することなどできません。確かに、人間的な思いからすれば、弟子たちの言うように、大勢の群衆にパンを買ってあげるのは、不可能に近い話であります。しかし、主イエスは、二百日分の賃金で、群衆にパンを買ってあげなさいと言われたのでしょうか。そのようなことは一言も言われていないのです。弟子たちは、主イエスのことを、少しも考えていなかったので、主イエスの思いを理解することができなかったのは、当然のことです。始めから不可能だと決めてかかっている弟子たちは、主イエスに対する信頼が簿いという証拠でもあります。もし、主イエスに対して、絶対の信頼をもっていたなら、彼らは、そのような応答はしなかったと思います。主イエスの指示を仰ぎながら事にあたったと思います。彼らは、絶えず、主イエスと共に行動していたので、今までの経験から、主イエスが、不可能を可能にされる方であることを、身をもって知っていたはずでした。しかし、彼らには、この世の力しか見えなかったのです。彼らは、主イエスが、飢えに対しても十分な保証を与えることのできる方だということに、今も尚、気付かずにいるのです。

けれども、主イエスは、彼らを非難したり、不信仰だと叱ることもなく、淡々(たんたん)と、ご自身の権威を顕にしていきます。何故、始めから、主イエスご自身がなさらなかったのかと疑問を持つ人もいると思います。これは、主イエスが、働き手として、弟子たちを必要とされていることを象徴しているように思われます。主イエスの愛や真理や救いを伝える器として、弟子たちを必要としているのです。迷える羊の指導者として、羊を養い、導いていく使命を、弟子たちに委ねようとされたのではないでしょうか。唯、今現在、弟子たちに、いくら語っても理解できなかったと思われます。弟子たちにもまた時が必要なのです。私達もまた、主イエスの救いと完成を伝える使命を委ねられているのです。自分だけが満腹だから、それで良いといって満足するのではなく、自分に与えられた救いの喜びを他の人々と共に共有することが大切であると思います。

さて、今までは、彼らの人間的思いが全面的に出ていましたが、これからは、主イエスご自身を中心に事が進んでゆきます。主イエスは、二人の弟子の言動に対して、何の反論も否定もしません。また、非難もしません。そして、主イエスのまなざしは、弟子たちから離れ、幼い小さな少年に移ります。おそらく、少年の献身的な優しい心を見つめておられたのだと思います。だからこそ、大勢の群衆の中から捜し出したアンデレの思いや自分の大切な大麦のパン五つと魚二匹を捧げてくれた少年の心を無視したり、無駄にしたりしないのです。主イエスは、神の子なので、その権能を用いれば、何もなくても、大勢の人々を養うことはできたはずであります。けれども、主イエスは、少年の心を大切に受け留め、捧げられたパン五つと魚二匹を豊かに用いて、大いなる奇跡を行うのであります。

始めに、主イエスは、人々を座らせるようにお命じになりました。人々は、草の上に腰を下ろします。座った男の人の数は、およそ五千人であったと記しています。五千人もの人々が座ったのを確認してから、パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、主イエスご自身が、人々にパンを分け与えられます。そして、魚も同じようにして、欲しいだけ十分に分け与えられます。欲しいだけ食べたので、すべての人が満腹になりました。五つのパンとニ匹の魚で、五千人もの人の飢えを満たしたのであります。

主イエスは、私達一人一人に、神の福音を伝えるという使命を与えられます。私達は、神から選ばれ、その使命を与えられた時、どのように応答するのでしょうか。私は、たった五つのパンとニ匹の魚しか持っていないので、神の使命に応えることなど出来ないと答えるのでしょうか。まさに、弟子たちの応答はそうでした。とても不可能だという返答であります。私達はどうでしょうか。私達もまた、弟子たちと同じように、自分はこれだけしか持っていない人間だから、神から与えられた使命を受けることは不可能だと答えるのでしょうか。それとも、自分はこれだけしか持っていない者ではありますが、神から与えられる使命を受け入れ、すべてを捧げますと答えるのか、神から選択を迫られているのです。しかし、主イエスは、私達に対して、輝く卓越したものを要求することはしません。主イエスは、二百日分の労働賃金に相当するお金を用意しなさいとは、一言も仰せになりませんでした。今、あなたが持っているすべての物、すなわち、パン五つと魚ニ匹だけあれば良いのだとおっしゃるのです。もっとはっきり言えば、人間的にどんなに欠けの多い者であっても、そのままで、私の所に来れば良いのだと言うのです。人間は、すべて罪ある者なのだから、完全な人などいないのだから、そのまま未完成なままで私のもとに来なさい。どんなにわずかなものでも、あるだけを持って、私の所に来なさい。私は、それを用いて、私の為に大きく役立てることができるのだとおっしゃるのです。私たちは本当にわずかな物しか持っていない者です。もしかしたら、わずかな物も持っていないかもしれません。しかし、無から有を造り出すことのできる神は、そのような私たちを清め、私たちを神の御用の為に豊かに用いて下さるのです。それゆえ、私たちは、自分を卑下することなく、神に信頼し、希望を持って、神に従ってゆけば良いのです。

とても重要なのは、11節の御言葉であります。この主イエスの行為、すなわち、「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、分配する」という行為は、他のパンの奇跡でも、最後の晩餐の時にも見られます。特に、感謝の祈りを唱えるというエウカリスティアというギリシャ語の表現は、聖餐の時の感謝の祈りを表すのに良く用いられた言葉で、ひいては、聖餐そのものを意味するようになりました。主イエスを中心とした交わりの意義深い経験が基礎にあり、それが後の教会の聖餐の基礎的出来事と解釈されていったのではないかと言われています。聖餐はパンとぶどう酒を用いるのに、何故、魚なのかと疑問を持たれる方もおられるかもしれません。それは、最後の晩餐における主イエスの御言葉に従っているから、パンとぶどう酒なのです。しかし、魚もまたパンと共に、しばしば、聖餐の象徴として絵に描かれるようになったようです。しかも、ヨハネ福音書の著者は、冒頭で申し上げたとおり、「過越祭」という「時」を明確に示しています。過越は、契約と神の救いのしるしであります。聖餐もまた、神の救いのしるしであります。キリストは、天から遣わされた救済者であり、命のパンであります。主イエスご自身が、自らの命を差し出すことによって、私達の罪を許して下さった贖罪の聖なる食卓こそが聖餐であります。キリストの命のパンに与かった者は、聖なる霊にあずかり、霊に満たされるのです。主イエスによって与えられた信仰は、決して、飢えることはないのです。

私達人間は、お互いに、肉の目に映る相手の破れや欠点ばかりに心を奪われてしまいます。すると、相手の言動に不満を抱いたり、一喜一憂したりします。けれども、キリストは、私達一人一人を祝福し、私達一人一人の魂を清め、聖霊を宿し、聖霊の宮として下さったのです。もし、お互いの内に存在する聖霊を見つめることが出来れば、そこに、限りなく注がれている神の溢れるばかりの愛が見えてきます。神の愛と恵みが見えてくると、お互いが、いかに尊い存在であるか気づくことができます。すると、互いに愛し合い、助け合い、慰め合い、励まし合い、高め合い、感謝を持って、主の宣教の業に励むことが出来るのです。そして、主イエスを証する教会の群れが形成していくのだと信じます。

この出来事の終わりに、籠が出てきます。何故、籠が突然出てくるのか不思議に思ったかもしれません。実は、正統派のユダヤ人は籠の中に自分の食べ物を入れて持ち歩いたのだそうです。それは、彼等が儀式的に清く、まじりもののない食物を確保する為だということです。律法には、実に細かく、食べて良い物と食べてはいけない物が規定されています。その律法を遵守する為に、籠を持ち歩いたようです。この十二の籠というのは、十二弟子が持っていた籠をそれぞれ差し出したようです。残った物をつつましく集めたら、弟子たちが持っていた籠いっぱいになったという訳です。たった五つのパンとたった二匹の魚が、主イエスの祝福によって、五千もの男の人の空腹を満たしたのです。通常、ユダヤ人は、人員を数える時、女性や子供は数えなかったので、その習慣に従って男性の人数だけを数えたと思われます、この人数は、男性だけでなく、女性や子供も含めた数だと言う人もいますが、細かい数字は、それほど重要ではなく、重要なのは、数多くの人々が満たされたという点なのです。

聖餐によって、キリストの命にあずかり、共に、教会共同体として、満ちあふれた豊かな命にふれ、聖なる交わりに入れられるのです。福音の光りのもとにある豊かさを、みんなで共に共有し、分かち合い、共に生きるのです。そして、神から与えられた、その恵みと愛とを自分たちだけが受けるのではなく、他の人々にも分け与える任務を私達は与えられているのです。すなわち、宣教する使命が与えられているのです。

更に、ヨハネ福音書の著者は、独自の記事を残しています。14-15節の言葉であります。このしるしを見て、人々は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、主イエスを王にするために連れて行こうとしたというのであります。そのことを知った主イエスは、それを拒否し、ひとりでまた山に退かれたというのであります。何故、主イエスは、群衆の思いを拒絶したのでしょうか。実は、ここにも、群衆と主イエスとの確執、両者の間には、大きな溝が横たわっていました。群衆が、見つめていたのは、弟子たちと同じで、この世のことであり、自分たちの欲望であり、自分たちの願望でありました。彼らが待望していた救い主は、ローマの支配からイスラエルを解放する政治的な王であります。けれども、主イエスは、この世にある一つの国を救う為だけに来られた王ではありません。全人類の罪を赦す為に来られた贖罪の主であります。ご自身の命を賜物として捧げ、永遠の命を与える為に来られた神の子であります。それ故、主イエスは、ひとりでまた山に退かれたのであります。山は、この世と切り離された聖なる場所であります。モーセが、神から十戒を賜ったのも山であり、主イエスの変貌が行われたのも山であり、神の力や堅固さの形容としても用いられています。つまり、主イエスは、たった一人で、孤独の中で、この世の世界から離れて、父なる神との聖なる交わりに入ったということなのです。

私達もまた、この世のことや、様々な欲や罪に支配されている心を解放して、神にのみ心を向けることが大切なのです。神と向かい合う時が必要なのです。神と向かい合うことによって、私達は、日々、新たに、生き生きと生きることができるのです。神と交わることなしに、私達は、自分の人生の重荷を負うことはできないのです。なぜなら、神に重荷を担っていただかなければ、私達は、その重荷によって、押し潰されてしまうからです。神に支えていただかなければ、信仰生活をまっとうすることができないのです。しかし、私達の日常生活を振り返る時、孤独の中で、たった一人で、神と向かい合う為の時間を、どれだけ裂いているでしょうか。この世のことに追われ、自分でも分けが分からないうちに、日々を過ごしているのではないでしょうか。私自身を考えてみますと、その日の出来事を振り返り、反省することもなく、気がついたら年を重ねていたという感があります。そして、いつも「神と向かい合う時間をつくりたいのに、この世のことに追われてしまい、時間をつくる暇もない」と言い訳ばかりしています。ある人が、時間はつくるものだとおっしゃいました。本当にそうだなと思います。自分自身で時間をつくろうとしない限り、時間は永遠につくることはできないのです。神中心であるべきなのに、この世が中心になっている現実を反省させられます。この世のことに心を奪われ、神を思う時がいかに少ないか、その深い罪を改めて反省しています。絶えず、神に心を向けて、神の御心を聴き、偉大なる神に信頼して、すべてを委ねて生きてゆきたいと心から願います。

無からすべてを創造したもう創造主であり、命の源であられます父なる神様

本日は、崇高な食事の出来事を学ぶことが許され、心から感謝申し上げます。私達は、いつも、この世のことに心惑わされ、自分の内にある誘惑や欲望に束縛されて生きています。主よ、どうか、私達の心を様々な欲や罪から解放してください。そして、暗闇を見つめるのではなく、心を高く上げ、常に、神を見上げ、神の現臨に触れることができますように、聖霊の力を与えて下さい。絶えず、悔い改め、罪の赦しと神の義を求めさせて下さい。