2021年9月5日「永遠の命に至るパンのために働きなさい」 磯部理一郎 牧師

 

2021.9.5 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第16主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教14

説教「永遠の命に至るパンのために働きなさい」

聖書 出エジプト記16章1~16節

ヨハネによる福音書6章22~40節

 

 

聖書

6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。

6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が人の子を認証されたからである。」

6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。6:33 神のパンは天から降って来て世に命を与えるものである。」6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンであるわたしのもとに来る者は決して飢えることがなくわたしを信じる者は決して渇くことがない。6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに信じない。6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 

 

説教

はじめに

ヨハネによる福音書が物語を進めてゆく進め方について、その展開方法をめぐり、改めて想い起していただく所から、話を始めさせていただきたいと思います。ヨハネは、最初に不思議な「しるし」を行う主イエスを描きます。次いで、その「しるし」をめぐって、ユダヤ人たちの議論や避難が不信仰として紹介され、それを根本から受けてお応えになるという形で、比較的長く纏まった主イエスご自身による説教が紹介されます。しかもその主イエスの説教において、いつも共通していることは、主イエスとはだれなのか、ご自身の本当の姿を自ら主イエスが明らかにする、という形が繰り返されながら、福音書の物語は進められてゆきます。ヨハネは、主イエスが実際に語られたみことばを中核にして、ヨハネとヨハネの教会の信仰告白を盛り込みながら、言わば主イエスによる命のパンの説教として、ここから展開してゆくことになります。この「命のパンの説話」は、6章59節まで続く非常に長い教説として展開してゆきますが、本日は、その前半に当たる40節までの所を取り扱いことになります。そして残り後半の41節から59節までの「命のパンの教説」については、来週の説教でお話することになります。

 

1.それは「肉と欲望のパン」か、それとも「霊と命のパン」のしるしか

さて、主イエスは、6章1~15節に示されましたように、5000人を超える群衆に対して、僅か「大麦のパン五つと魚二匹」で、全員を満腹させても有り余るほどであった、という不思議な業である「しるし」を行われました。このしるしにより、多くの群衆が、舟に乗って、主イエスを追いかけて来たのです。6章22節以下では、その群衆たちの跡を追いかける様子が報告されています。「その翌日湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。」と記されています。

「その翌日」とは、主イエスが弟子たちだけを強いて舟に乗せ、向こう岸のカファルナウムに行かせた、その翌日です。その翌日に、群衆はついに主イエスに追いついて、探し出したようです。そこで、5000人の食事というしるしに続いて、今度は、群衆との間に、主のしるしをめぐって問答が生じます。その第一声が「6:28神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という問いでありました。この「神の業を行う」とは、5000人を超える人々を満腹させる、という主イエスの行われた「しるし」を、彼らは「神の業」と考えていたようです。しかし問題は、なぜ人々はそれを「神の業」と思ったのか、その心にあるのではないでしょうか。彼らのその思いに、主イエスは鋭くかつ厳しく目を向けます。主イエスは、ご自身のしるしを神の業であると考えた群衆の心を深く鋭く見抜いていたのです。主イエスは、最初にまず、はっきりとこう言い切ります。「6:26はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と言って、あなたたちは、「しるし」の本当の意味を理解していない、と群衆の無理解を指摘します。彼らに分かり易いように、はっきりと、全くしるしのうちに啓示される神の真理が見えていない、と言い切っています。強いて二元論的に言えば、「肉」の腹を満腹させるしるしなのか、「霊」の腹を満腹させる「命のパンのしるし」なのか、したがって、神が民の罪を全て赦し死と滅びの裁きから民を解放して、永遠の命の祝福をもって民を満たすのか、主イエスはここで、その「命のしるし」の意味を、問題にしているのです。したがって主は直ちにこう言われます。「6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である父である神が、人の子を認証されたからである。」つまり主イエスは、わたしは、魂と信仰による救いのことを言っているのに、永遠の命に生きる神の恵みのみわざについて示したのに、あなたがたはそれを取り違えて、自分の肉の腹を満たすことばかりに、心が奪われてしまっているではないか、と人々の無理解を指摘するのです。つまり、神がメシアを遣わして人々を永遠の命へと導くという命のパンを与えたことに心を向けないで、この世の肉的で物理的な満腹満足を求めて、主イエスのしるしを神の業と思い込んでいるのではないか、と主イエスは群衆の本音を見抜いていたのです。だから、この世で終わってしまう単なる肉的な満腹満足を求めるのではなく、つまり、朽ちる食べ物、肉のパンを食べて満腹することに依り頼む生き方から、永遠に飢え渇くことのない「命のパン」を求めて生きなさい、と言って、群衆の無理解と誤解を明らかにしたのであります。あなたのために、神がメシアである主イエスを通してのみ与えてくださる「永遠の命のパン」の意味を、この世で欲望欲求を満たす「欲望のパン」として、誤って受け取ってしまっていたのです。「6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とは、そういう意味ではないでしょうか。

 

2.「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために」

冒頭で少々触れましたが、厳密な聖書研究から申しますと、これはどちらかと言えば、純粋に主イエスの説教そのものである、というよりは、むしろ、主イエスのみことばを中核にして、つまり原始教会で語り継がれ伝承されていた所謂「主イエスの命の教説」の伝承に、さらにヨハネはその伝承に加えて、ヨハネとその教会の信仰告白を重ね合わせるようにして言い表すという形で、主イエスの命の教説を展開してゆきます。この「命のパンの教説」も、ちょうど3章で、ニコデモとの問答形式を取りながら主の教えが展開される、という進め方と同じ語り方で、ここでも群衆との問答形式のような形で「命のパンの教説」が展開されてゆきます。

この「命のパンの教説」は、大きく分けますと、三つの問答によって、導かれているように見えます。最初の問答は「神の業を行う」とはどういうことか、即ち、神の業にあずかり神の業に生きるとは、どういうことなのか。私たちはどうすれば、「神の業」に生きることが出来るのか、を問います。二つ目は、神の業とは、そもそも何であり、それを確かな形で見極めて認識するとは、どういうことか。「神の業」を、眼に見える形での「しるし」として示されなければ分からないではないか、だから「見えるしるし」をもって、神の真理を明らかに示してほしい、という求めであります。具体的に言えば、かつてモーセが、天からのマナを降らせ、放浪で飢え渇いた民を食べさせたたように、実際に示して欲しい、ということになります。最後の三つ目としては、主イエスよ、いったいあなたは何者なのか、どうしてあなたは神の真理を語ることが出来るのか、それを証拠を提示して、その権威と根拠を具体的に明示して欲しい、と言って、主に求めるどころか、主を論難してゆきます。

先ほど6章26節以下で「パンを食べて満腹したからだ。6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6章26b~27節)と、主イエスは人々に教えました。「永遠の命に至る食べ物」と語り、群衆の信仰心に、或いは人々の心に、訴えかけています。言わば、私たちの心を、肉から霊に、この世から神の国に向け直そうとします。そうです、皆さん、「永遠の命」に至らしめる食べ物とは何なのか、深く考え直してみませんか、と諭しておられるのです。いくら日常のパンや肉を食べても、お腹はすぐに空いて、飢え渇き、ついにはいくら食べても飲んでも、私たちは終わりの死を迎えるのです。日常のパンや魚が永遠の命に至らしめる食べ物とはならないことは、少し考えれば、誰にでも分かることです。ただし、そうと分かっていても、では、自分を永遠の命に至らしめる食べ物とは何か、本当はよく分からないのです。一番大事な自分の命のことなのに、いったい何が自分の命を永遠に保証くれるのか、知らないまま、ただ生きそして何もわからないまま「死」を迎え、人生は終わってしまいます。さぁ、今ここで考えてみませんか。いったい、あなたを永遠の命に至らしめる食べ物とは何ですか? あなたはそれを本当にそれを知っているでしょうか。今まで、それを真剣に求め、考えたことがありますか? 根本的な「命の問題」を提起しているのです。教会に集うのも、その目的は何のためですか。「6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」というのです。たいていの人は、おそらく、永遠に生きることができる、と心から信じて生きてはいないはずです。自分の大事な命なのに、永遠に生きる命など、まともに考えようとはしないのです。学歴や、財産や地位や、人々の賞賛は、いつも気にしていても、果たして自分の命を永遠に保証してくれるのは何かは考えないのです。それらは皆、必ず終わり、奪われ、失われてゆくものばかりです。教会に通いながら、場合によっては牧師や長老に任職されていても、自分の命を永遠に保証してくれるものが何か、どこまで本当に深く厳密に知っているのか、とても怪しい所であります。大事なことは、真の命の与え主とは誰かを知り、命を永遠に保証できるお方と、今ここで、確かに出会うことなのです。

 

3.「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」

そこで主イエスは、29節でまず「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と、余りにも率直に、そして非常に誠実に、真正面から神の真理を群衆に告知しています。ニコデモにもそうでしたが、主イエスは、殊に神の真理、真実、即ち啓示については、余りにも幼子のように、そして誠実に人々と向き合い、お答えになります。その誠実なお姿には、とても驚かされます。神の業に与り神の業に生かされるとは、ただ「神がお遣わしになった者」即ち「主イエスを信じる」ことである、と答えています。神から遣わされた主イエスを信じることにおいて、神のみわざに与り神のみわざに生かされ、神の業を行うことが出来る、と断言したのです。人が人として、霊魂・精神・肉体の全てを包む全人格として、神のみわざに与って生きる、その決定的な第一歩とは、主イエスを神がお遣わしになったメシアであると信じ受け入れることである、と言われたのです。これは決定的な意味を持つ重要なみことばです。「信じる」とは、信頼して身も心も人格の全てを尽くしてお委ねすることです。誓い所で言えば、結婚もそうでありましょう。完全ではないにしても、互いに受け入れ合い、認め合い、そして信頼と尊敬をもって、身も心も全てを尽くして、お互いに委ね合う生活であります。人間らしさという点から言っても、人間同士が互いに信じて受け入れ合う部分がなければ、共に人間として生きる営みは成立しません。これは、自分に対しても言えることす。身も心も、人格のすべてを尽くして、自分自身を信じて受け入れられない限り、私たちは人格として成立できず、結局は破綻して自ら死ぬ以外になくなってしまいます。しかも自分を産み育て、自分を養い支えてくれる人々を信じて受け入れられない限り、人としては生きることはできないのです。ましてや、人間をご自身に似せてお造りくださった「造り主」である神を信じて受け入れること、その造り主が自分のために救い主として独り子を世にお遣わし下さったことを信じて受け入れることで、私たちは初めて神のみわざに与り生かされることが分かるのであります。もう少し厳密に言えば、造り主である神が、今ここに、主イエスにおいて現臨しておられる、ということを受け入れ信じることにより、神の業に与り生きることになります。神の業を私たち人間が行うとは、そういう風に信仰を通して、神の恵みと命に与ることであります。しかし群衆は「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか?」と言い返しています。もう少し有体に言えば、そんなことは誰が信じられるだろうか、永遠の命などはあり得ない、と言って、嘲笑っているようにも見えて来ます。

 

4.「あなたがたはわたしを見ているのに信じない

それでも主イエスは、驚いたことに、永遠に至る命のパンは、既にあなたがたに与えられている、と告げます。「6:33 神のパンは、天から降って来て世に命を与えるものである。」と主イエスは告げ、永遠の命に至らしめる命のパンは、既に天から降って来て、今ここに、あなたがたの前に差し出されているではないか、と解き明かします。すると、群衆はそれに応えて「6:34主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」とパンを求めるのですが、主イエスは改めて、群衆の心を鋭く見据えて、率直にこう告げます。「6:35わたしが命のパンであるわたしのもとに来る者は決して飢えることがなくわたしを信じる者は決して渇くことがない。6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに信じない。」と、群衆の心の本質を映し出すかのように、みことばにおいて、彼らの不信仰を明らかにいたしました。永遠の命を与えるキリストを受け入れず、やはりこの世の腹を満たす生活を選ぶからです。

ここで再度、主イエスは「信じる」ことについて言及しておられます。29節でまず「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と仰せになり、この34節では「わたしを見ているのに信じない」と言われます。「わたしを見ているのに信じない」とは、どういうことでしょうか。問題は、ただ信じるのではなくて、信仰において、何をどのように信じ受け入れているのか、その信じる内容、受け入れたこと、さらには信じたことと自分とがどうかかわるのか、その関わり、どのような関係にあるのか、その関係性が、をさらに踏み込んで問題になっていると思われます。

前回の説教で、湖の上を歩く主イエスを見て、弟子たちは実際にそれを見たのに、驚き恐れたのです。つまり、「見ている」のに、「幽霊だ」と言って、恐れたのです。弟子たちは、確かに湖の上を歩く主イエス見たのです。逆に言えば、確かに見たからこそ、「幽霊」だと思い、「恐れた」のではないでしょうか。これは、とても意味深いことを示しています。つまり「見たから」こそ、真実の姿を「受け入れることができない」のです。言い換えれば、見て体験したからと言って、本当の意味で、メシアと出会えるかどうかは、甚だ疑問である、ということになるのです。真実を知る確かさとは、どこにあるのでしょうか。ましてや神の独り子であるキリストを見たという事実の確かさは、どこでどのようにして確かめることができるのでしょうか。ここでヨハネは、人間の目で見たから、という人間の側の体験や経験によらない、人間の肉の体験を遥かに超える出来事であり事実である、ということを示唆しているのではないでしょうか。主イエスがメシアであること、神の救いの真理は、人間の側の認識力や感覚に依拠するものではない、ということではないでしょうか。では、どのようにすれば、正しく主を受け入れる信じることができるのでしょうか。湖の上を歩く主イエスを弟子たちが正しく認識して「神の子である」告白に至った根拠は、たった一つしか記されていません。それは、キリストからみことばによって語りかけ、その語りかけられたみことばを通して、弟子たちはキリストを認識し、主イエスであると分かって、安心しました。つまりここに、重要な示唆があります。それは、みことばを聴く、ということです。みことばを聴き分け、聴き入れることを通して、はじめて主イエスと分かり、主イエスと出会う、主イエスを人格のすべてを挙げて受け入れることができるようになる、ということではないでしょうか。したがって、主イエスがここで、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と仰せになった、その背景には、主イエスのお語りになるみことばを受け入れようとはせずに、みことばそのものを最初から拒んでいる、ということが分かるのではないでしょうか。みことばを聴く意志がなければ、何を見て何を経験したとしても、神の真実な御心もお姿も「幽霊」にしか見えては来ないのです。彼らの目で見ることの出来た姿は「幽霊」でしかなかった、それは、みことばを聴くことになしには、神の御子であり、メシアとして認識し受け入れることはできない、ということではないでしょうか。人間同士でも、お互いの本当の姿を知るには、お互いの告白し合うことばを信じることから始めなければならないのと同じであります。そのように、主イエスは、直接弟子たちに「わたしだ。おそれることはない。」とみことばをもって語りかけ、弟子たちの心の中に、魂の奥深くに、主イエスご自身の本当のお姿をお示しになられたのではないか、思います。主イエスのみことばによって魂が豊かに導かれ、そのみことばによる啓示を心から信じ受け入れるとき、私たちはキリストを確かに知り、出会うことができるのではないでしょうか。

永遠の命を与えるパンは、主イエスご自身であります。主イエスにおいて、人々は永遠に命に与ることができるからです。神は主イエスをお遣わしになり、主イエスは父なる神に心からの従順を尽くして、人々のために罪を償いご自身を十字架の死に至るまで献げました。この犠牲によって、人類の罪は完全に償われ、義が与えられ、永遠の命の祝福に与ることが出来ます。その命のパンを、私たちのために、ご自身のお身体を差し出して、お与えになられます。それは十字架における完全な償いの身体であり、それは復活における完全な命に溢れる身体であります。私たちは今ここで、もう一つのみことばである聖餐において、私たちのために差し出された永遠の命のパンに、確かな「信仰」をもって、共にあずかりましょう。