2021年9月19日「命を与えるのは霊である」 磯部理一郎 牧師

 

2021.9.19 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第18主日

ヨハネによる福音書講解説教16

説教 「命を与えるのは霊である」

聖書 詩編106編39~47節

ヨハネによる福音書6章60~71節

 

 

聖書

◆永遠の命の言葉

6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」6:61 イエスは、弟子たちこのことついてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。6:62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。6:63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり命である。6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。6:65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければだれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」6:70 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」6:71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 

 

説教

はじめに. 「教会の基」は、神の啓示の「みことば」とそれを信じ受け入れる「信仰」にある

先週の礼拝は、わたくしども小金井西ノ台教会の創立を記念する礼拝でした。したがいまして、前回の説教では、特に「教会の礎」となる信仰と神学を覚えて、ヨハネによる福音書6章をお読みいたしました。実はこのように、「教会を立てる基礎とは何か」、「いったい何が教会を教会たらしめているのか」という根本問題に立って、みことばを聴き、信仰を受け継ごうとした人々は、言うまでもなく、決して私たちだけでなく、既に2000年を貫いて、数多くの信仰の証人たちが、皆同じようにそう考え、決意を重ねてまいりました。原始教会を担った「12使徒」を初め、その原始教会に伝えられた信仰を厳粛に受け継いだ人々があり、当然ながら、ヨハネとヨハネの教会もその一つでありました。「教会」とは、この世を超えて、世の支配に勝利し、既に今ここに終末の「神の国」を担う神の教会である、という自覚のもとに、しかも、その明らかな根拠と堅固な基盤は、どこから来てどこにあるのか、世界に向かって言い表して来ました。教会の基盤と礎は、キリストの語られた「神のみことば」そのものにあり、そのみことばにおいて啓示されたキリストと神の真理を信じ受け入れる「信仰」により、神のみわざは実現することを明らかにしたのであります。ヨハネによる福音書6章の前半で、主イエス・キリストは「父から遣わされた者」であり「天から降って来た命のパン」である、とご自身から語り、証しされます。しかしユダヤ人たちは、主のしるしを「神の業」であるかも知れないと考えましたが、残念ながら、主ご自身が語るみことばの本当の意味について、またご自身が誰なのか、みことばにおいて明らかに示された神の啓示を信じて受け入れることができませんでした。そこで人々は、いよいよ肉の眼でも見えて分かるような具体的な「しるし」を主に求め続けたのです。人々は結局、主イエスご自身とご自身のみことばにおいて人々に直接に証しする「神の啓示」を斥けてしまいました。前回も申しましたように、ヨハネは「あなたがたは見たのに信じない」と訴えていました。それはほかの弟子も同じことでした。湖の上を歩く主イエスのお姿を眼で「見た」はずなのに、主イエスを「幽霊」と思い、ひどく恐れるばかりでした。神の真理、即ち、主イエスとは神の子であり天の父から遣わされて、天から降って来た命のパンである、という「神」の真実を知るには、人間の肉による認識は甚だ無力でありました。有限が無限を捕らえることは出来ないことなのです。それゆえ、神と人とを繋ぐ唯一の絆は、ただ神の啓示の「みことば」とそれを信じ受け入れる私たちの「信仰」の他にない、改めて確認して、本日のみことばを読んでまいりたいと思います。

 

1.神自らが、主イエスと主のみことばにおいて、神の本質を啓示した

そこで主イエスは、そのように主のみことばを信じ受け入れられない人々に対して、さらに深く踏み込んで、6章60節以下で、こう仰せになります。「6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』6:61 イエスは、弟子たちこのことついてつぶやいているのに気づいて言われた。『あなたがたはこのことにつまずくのか。6:62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。6:63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり命である。』」とお説きになって、信仰へと導かれる道筋と根拠について、教えられます。人々は、ヨハネは弟子たちと呼んでいますが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(ヨハネ6:60a)と主を罵ります。また「弟子たちがこのことについてつぶやいている」(ヨハネ6:61)ことに対して、主イエスは「あなたがたはこのことにつまずくのか。」(ヨハネ6:61b)と、人々の不信仰の原因は「このこと」について「つまづいている」ためである、と指摘します。「このこと」とは、どんなことでしたでしょうか。少し長くなりますが、改めて前回の6章46節以下からに戻り読み返して、主のみことばの論点を確認しますと、「『6:46 父を見た者は一人もいない神のもとから来た者だけが父を見たのである。6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。6:48 わたしは命のパンである。6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。6:51わたしは天から降って来た生きたパンであるこのパンを食べるならばその人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。』6:52 それで、ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。6:53 イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたたちの内に命はない。6:54わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は永遠の命を得わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56わたしの肉を食べわたしの血を飲む者はいつもわたしの内におりわたしもまたいつもその人の内にいる。6:57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』6:59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。」という説教でした。

 

是非、ここでご注目していただきたい点は、勿論、主ご自身のことを、主イエスとはどのようなお方であるか、その真相を、明らかに示しています。主イエスは、世に対して、ご自身とご自身のみことばにおいて、「神の真相」を明らかに啓示して、神の真実なお姿を現しています。このみことばにおいて、究極的には神の本質を言い表した「三一体の神」の秘義を人々に啓示したのであります。主イエスはご自身の内なる神に直行して、その真の神の真相をご自身のみことばにおいて人々に伝え、受肉したお身体の内に現臨する神の愛と命の本質の交わりの内に人々を招き入れようとしています。みことばにおいてご自身における「神の現臨」を現わし、人々をご自身のみことばにより「神の業」に招き入れ、「真の神」と出会えるようになさったのです。こうして初めて世と世の人々は、主のみことばにおいて、神の業に触れ、現臨する神と出会い、神の真理を知ることが許されたのです。そうでなければ、神の業に触れることも、神と出会うことも、神を知ることも、一切できなかったのです。「6:46 父を見た者は一人もいない神のもとから来た者だけが父を見たのである。」と主が断言する通り、世の人々に可能なことは、ただ、主イエスとそのみことばにおいて、聴いて学ぶことの外に、道は永遠にないのであります。主イエスと主のみことばにおいて、その神の本質を神自らが現しお示しになったわけです。本日のみことばが決定的な意味を持つのは、神は、主イエスと主のみことばにおいて、神であるご自身の本質をお示しになった、という一点に尽きるのではないかと思います。

 

2.信仰における人類の躓きと罪への堕落

ところで、人々は、どうして「神」につまずいてしまうのでしょうか。人が神につまずく原因について、躓きの要因を、もう少し丁寧に、主のみことばから探り求めてまいりたいと存じます。人々が神につまずく原因として、主イエスは主に三つの要因を明かにします。何と言っても、第一に、人は神を見ることができない、という人間の決定的な限界を告げます。人々はこの致命的な「自分の破れ」を決して認めようとはしないのです。主イエスは「6:46 父を見た者は一人もいない神のもとから来た者だけが父を見たのである。」と仰せになり、人間と神との本質的な違いに触れています。言い換えれば、神と人との間には、「無限」と「有限」という決定的でかつ本質的な違いがあります。だから両者の間は無限に乖離してゆき、人間の手では神に届かないのです。それゆえ人間が神に向かう、神と共に生きるための道は、神を信じてお委ねする以外に、外に方法はないのです。それなのに、アダムもエヴァも、みことばを通して語りかけてご自身を現わされた「神」を、そのみことばを破り拒否してしまい、自ら信仰における神との絆を捨て、神との関係性を放棄してしまいした(創世記3章参照)。その結果、神と共に生きる場であるエデンの園を失い、ついに悪魔の唆しに誘惑されて自我欲求に溺れてしまい、自分が神のようになれるという幻想を抱き、底なしの地獄である死と滅びに転落堕落してしまいました。こうしてみことばにおける神を信じ受け入れる信仰を拒み、神と共にある唯一の道である信仰を捨てて、人はいつも「神などいない」と決め付け、神のようになろうと自分を絶対化するのです。完全な他者である神を否定して自己を絶対化した人間は、自由独立を叫びながら、人間同士の間でもましてや万物に対しても、自我欲求の絶対化のために他者の全てを独占支配し、思い通りにならないと、巨大な戦争殺戮や破壊を続けるのです。人類最初の子であるカインは、神の前に自我欲求が承認されないと知ると、直ちに血肉を分けた兄弟アベルを騙して殺してしまいます(創世記4章参照)。ここまで神から離反してしまいますと、人類はとても神に向かうことも、神と共に生きることも、そして神に近づくことも、不可能となり、神から完全に離反してしまい、その愛と命を中心とする人格的な関係は失われてしまいます。こうして人々は「神」に完全につまずいてしまいました。それゆえ、その結果、あらゆる時と場において、本当の意味で「愛」と「命」と「平和」を共有することができなくなってしまいました。

しかしそれでも神は、人間と万物の造り主として、無限の愛と慈しみをもって、いつも人間を初め万物と共にその傍らに寄り添い現存し続けておられます。そしてその神の全てを完全に知り尽くしたお方こそ、唯一の「神の独り子」であり、父から「人の子」遣わされた主イエス・キリストだけであります。この「神」の真実を、主イエスはご自身において露わに現わし、みことばを語り啓示したのです。したがって、人々が神を知るには、神を見て触れることも、そして神と出会うことも、主イエスと主のみことばにおいてのみ、初めて許されており、人はそれを信じて受け入れる信仰に基づく外に、道はありません。このように、神を知り、神と共に生き、神の命の祝福と恵みに与る道は、常に、みことばを信じ受け入れる信仰よる以外にないので、したがって、結論としては、唯一信仰において、神の恵みのみわざである永遠の命に与るのであり、主が仰せの通り「信じる者は永遠の命を得ている」ということになりのであります。

 

3. 「わたしは天から降って来た生きた命のパンである」

主イエスは、ご自身とご自身のみことばにおいて、「わたしは天から降って来た生きた命のパンである」とご自身の神としての真相を啓示し、父と子という「神の本質」を明らかに示されました。しかし、そればかりではなく、神の本質からさらに進んで、神の愛と神による人類救済のご計画とその決意を啓示し、しかもその人類救済者として神から遣わされた人の子として受肉したメシアこそ「わたしである」(エゴー・エイミ)と宣言し、神の意志と計画とを明らかにします。それを、主イエスは「6:48わたしは命のパンである」「6:50天から降って来たパンである」「6:51わたしは、天から降って来た生きたパンである」と言い表しました。主イエスのみことばを信じる信仰の難しい点は、こうした神の隠されたご計画やご決断を初め、神の全ての秘義の中核を完全に啓示して明らかにしている所にあります。しかも、その救済計画遂行の主人公こそ、天から降って来てマリアより受肉した主ご自身である、と表明された所にあります。主イエスご自身が「受肉の神」であり「受肉のキリスト」であることを受け入れ信じることを求めたからです。大工ヨセフとマリアの子である地上の人間イエスは、本質的に、いったい誰であるのか。それは、神と完全一体の神の独り子であり、唯一神を知る者であり、神から「人の子」として遣わされた「神のメシア」ある、と明らかにしたのです。つまり、わたしは神であり、同時に世に救い主として遣わされた受肉の神である、と自己表明したことになります。まさに大工の子が神であったのです。しかも人類を完全に救済して永遠の命を与える神の子であったのです。

 

4.「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」

そして主イエスはこう語ります。「6:51わたしは天から降って来た生きたパンであるこのパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」「6:53人の子の肉を食べその血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は、永遠の命を得わたしはその人を終わりの日に復活させる。」「6:56わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におりわたしもまたいつもその人の内にいる。」と主は繰り返し語り、主イエスご自身の肉を食べるまた血を飲む、と言われます。かつてニコデモが「新しく生まれる」という主の信仰による新生の教えを、母の胎内に戻ることはできないと肉的に誤解して躓いてしまったように、ここでもまた、人々は「肉を食べ、血を飲む」というみことばと信仰による霊的な教えを、この世の肉を食べることだと誤解して躓いています。主イエスの肉を食べ血を飲むことで、永遠の命が与えられて、神のうちに永遠に憩うことができる、というみことばに、人々は完全に躓いてしまいました。

では、主の肉を食べ血を飲むとは、どういうことでしょうか。ヨハネによる福音書は、主イエスの実際に語られた主のみことばを、そしてそれを受け継いだ原始教会の伝承を、さらに加えて、ヨハネとヨハネの教会の信仰告白を、三重に重ね合わせるようにして、主イエスのみことばを語り直しているように思われます。しかし何と言ってもその中心中核は、言うまでもなく、主イエスご自身が実際にお語りになった主のみことばです。最も古い伝承として伝えられているパウロの伝承によれば、「11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これはあなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリント11:23~26)と、主イエスご自身が、過越の食卓で、弟子たちに伝えた主ご自身のみことばです。したがって、このパウロの伝承から、ヨハネのことばを読み直すと、主イエスの肉を食べ血を飲むとは、最後の晩餐に分け与えられた聖餐のパンと杯を象徴する表現であることが予測されます。具体的には、聖餐のパンを食べ聖餐の葡萄酒を飲むことで、キリストの肉を食べ血を飲むことになる、と主ご自身が約束されたことを意味しているように思われます。したがって、この「過越」の食卓を象徴する主の肉と血は、すなわち最後の晩餐において先取りされ指し示されたキリストの肉と血とは、文字通り、主のご最後の肉であり血であり、主キリストの十字架と復活の身体そのものを食べることを意味することになります。つまり、十字架の死に至る肉体であり、主の罪を償う「贖罪」の犠牲の肉と血であり、それを「食べ飲む」とは、主イエスご自身が制定され約束された聖餐に与ることを通して、即ち主の贖罪の肉を食べ血を飲むことを通して、その本体である主の十字架と復活のお身体みわざに与ることを意味します。簡潔に言えば、主の十字架の死における贖罪のお身体に与り、主の復活のお身体と一体に結ばれ、私たち自身の身体が十字架と復活の身体となる、ということを意味することになります。だからこそ、パウロは、聖餐に共に与る中で、「このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリント11:26)と証言したと考えられます。言い換えれば、「主の死」に共に与り、「主の死」そのそのものと一体となって、「主の死」を立証する証人となり、「主の死」を告げ知らせるべき宣教主体となるのであります。こうして「聖餐」における「共同共有のキリストの身体」こそが「教会」なのであります。

ヨハネの証言に戻りまして、6章54節以下で、「6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と宣言し、弟子たちに約束した主イエスは、「6:56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」と言い切っています。主の肉を食べ主の血を飲むことで、主の十字架と復活のお身体を共有し共同するわたしたち一人一人において、そして受肉した神の独り子である主イエスにおいて、両者はついに相互に決定的な一体の交わりに入れられ、言わば、両者における相互内在性の関係がここに生まれるのであります。

こうして、主イエス・キリストは、ご自身の十字架と復活のお身体において、世と世の人々を死と滅びから解放して、永遠の命を与える天から降って来た命のパンとなり、また人の子として、受肉して世に降った神のメシアとして、新しい人間本性に人類に与えるのです。すなわち肉を食べ血を飲むことで、人々の罪は完全に十字架の死の身体において贖罪されて、復活という新しい人間性のもとに、人々に永遠の命が与えられるのです。「6:56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」とお約束くださった通り、私たちは、この主のお身体をいただくことで、主のお身体において、主のうちに永遠の命と平和に満たされて、憩うことができるのです。

 

5.「命を与えるのは”霊”である」

最後に、主はみことばをこう結びます。「6:63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と、人々に教え、「神」の本質を総括して、神の究極的な本質を「”霊”」として、言い表します。神は一つですが、その働きにおいて世に現わしたお姿から言えば、天地創造という「創造」の働きに集中して「神」のお姿を言い表せば、「父」なる神であり「造り主」なる神として捉えることができます。そして人類救済のために罪を償い神との和解を果たされた救いの働きに集中して「神」のお姿を言い表せば、「子」なる神であり、「メシア(キリスト)」として受肉した神のロゴス(神の言)であり、「救い主イエス・キリスト」となります。そして最後に、神の本質の全てを別の助け主として世界に命の息吹を吹き入れ、しかも私たち人類と万物の内に隅々に至るまで偏在して、命の源となる「命の与え主」という働きに集中して「神」を言い表すとすれば、それは即ち聖なる「霊」であり、「霊」として神のお姿を示すことになります。こうして、主イエスは、ついに「神の本質」を、「父」と「子」と「霊」の神として明らかにし、「三一体の神」として神の本質を啓示したのであります。この神の内奥にあり、かつ世界を超越する真理は、余りにも人間の思いを越えており、人間の理性や感覚による物差しでは到底量り知ることはできない、無限の神の本質であります。当然ながら、人間に頼るのであれば、その結果は必ず躓くことになります。しかし同時に、神のみことばを信じ受け入れ、神のみことばに頼れば、神の本質に触れ神と共に生き、神の全ての恵みに与ることのできるのです。